お正月がすっかり「普段化」してしまってきている。
人手不足から、24時間営業を継続できない事態もうまれているけれど、コンビニのトップランナー「セブンイレブン」だって、最初は店名のとおり、朝7時から夜の11時までの営業だった。
スーパーか個人商店しかなかった当時、これでも「画期的」だった。
ヨーロッパなら、おおくの国で日曜日や祝日は商店もスーパーも閉める。
ドイツには「閉店法」という法律があって、日曜日に開店してはならないのだ。
この法律はできてから100年もたつから、ドイツ人には常識になっている。
フランスでは、さいきんちょっと緩んできて、日曜日に開店する店もでてきているが、例外的だ。
だから、ヨーロッパ旅行にはカレンダーで曜日や祝日のチェックは欠かせない。
日曜日や祝日をショッピングの日に割り当てると、ウインドウショッピングだけという目も当てられない事態になる。
目立たない国では、スリランカの「ボーヤデイ」がある。
ヨーロッパは、キリスト教の影響から日曜日や祭日が休みになるけど、スリランカでは仏教の影響で、満月の日は「禁酒」という決めごとがあるのだ。
酒屋もスーパーの酒類コーナーも、高級ホテルをふくめたいかなるレストランでも、この日は一切のアルコール飲料は外国人といえども提供されない。
それで、炭酸水だけで乾杯したことがある。
これは、不便なのか?我慢すべきことなのか?やっぱり、「自由」がいいのか?
ところが、上述の例は自由を標榜する国で実行されている制度であり、社会習慣なのだ。
そうかんがえると、わが国は社会規範が希薄な国なのだ。
あるいは、好き勝手が自由、になっている国ともいえる。
もっというと、貪欲である。
まさに「もっと」便利に、「もっと」ストレスがないのがいい。
それで、持ち帰り弁当チェーンの店名に「もっと」がついている。
こうした「要求」や「欲求」が、ふつうにあって、それをさえぎる社会規範がないから、欲望はとどまるところを知らない。
こうして、セブンイレブンは24時間営業になったのだと、利用者はかんがえる。
閉店・開店の作業が面倒だから、いっそのことずっと開けているほうが合理的だという発想は、本部の計算による。
「一強」といわれてひさしい、現首相にライバルがほんとうにみあたらない。
むかしなら、党内派閥に何人も首相候補がいて、たがいに牽制しあっていた。
野党は、政権を担当する気などはなからなかったから、与党内の派閥が真の野党だった。
善悪をこえて、与党に派閥の論理がうすまって、批判だけの野党という構造が「一強」の原因であり「結果」なのだろう。
そんな状態があって、首相は、「全世代型社会保障制度」という社会主義政策を打ち出した。
かつて、1973年、「福祉元年」といって、バラマキののろしをあげたのが田中角栄首相だった。
日本の高度成長を止めたのは、この年の秋に起きる第四次中東戦争による「石油ショック」ではなく、田中政権のバラマキだったのだ。
このことは、以前も書いたが、証拠は年次ではなく「月次統計」にある。
これをネットの資料でさがすのが難しい。
政府とは、こういう情報統制をするものだ。
国会図書館にあるので、証拠をみたいひとはどうぞご自分で確認されたい。
だからこそ、首相年頭のことばは「おビックリ」だ!
日本経済の息の根をさらに狭めるという発想は、田中角栄からのものなのか?それとも、社会主義思想からのものなのか?そうではなく、福祉に反対できない野党封じ込めの「策」なのか?
「英国病」の原因と治療方法を、いまや断固無視する日本国とは、いったいどんな知見によって運営されているのか?
絶望的な気分になるのだ。
これに、日本旅館協会会長の新春特別インタビュー記事があった。
外国人労働者にかんしてのはなしが、予想どおりとはいえ「おビックリ!」なのである。
業界として「受け入れ体制をしっかりと」の範囲に、賃金支払根拠の問題が欠如しているように読めるのが心配だ。
「賃金などは日本人の従業員と同等として扱わなければならない」と強調されている。
しかし、外国人労働者の常識は、「職務給」文化なのだという日本とのちがいが全然認識されていないように感じるからだ。
「おなじ金額ならいいだろう」では済まないのは、このブログ読者ならわかるだろう。
楽をしたい、安易こそが「欲求」なのだということを、満足させようとすれば、国家も業界団体も「本部」はこうなる、ということなのだ。
しかし、ここに「規範」はない。
すると、これは一種の「社会的麻薬常習者」といえるのではないのか?
いけないこととは知りつつも、どうにもあの快感がわすれられない。
楽ができればそれでよい。
いまがよければそれでよい。
スイスでは犯罪被害者をふやさないように、とっくに、麻薬常習者に無料で麻薬をあたえる場所が日本の交番のようにあちこちに用意されている。
「廃人になって死になさい」という社会規範が、国民投票によってきめられた。
さまよう日本では、昨日、厚労省の勤労統計ミスが放置されていたことが発覚した。
国家の統計資料が信用できない、という事態は深刻な問題である。
中国の国家統計で、信用できるものがないことを、あろうことか首相職の人物が認めてしまったことがあって、みるべきは「電力消費」と「輸入額」しかないことがわかった。
これ以降、中国の経済ニュースで、他の統計をもちいたものはすべてゴミであるから、読む価値がないと断言できる。
だから、彼の国の国家による経済運営は、さいしょからできない。
それが、驚異的な成長の原因とすれば、なんのことはない経済学の教科書どおりなのである。
「党の介入」こそが、ライバル国家をして要望したいことになる。
それが自滅のシナリオになるからだ。
賢い中国の指導者たちは、日本という先行事例から、経済への介入をしているようでやっていないのは、とっくに日本が「反面教師」になっているからだろう。
むしろ、「安全保障」しか年頭にない。それが「HUAWEI問題」の本質だから、あれを「経済問題」だとするのはジャンルをまちがえている。
厚労省の統計のこの一件が、蟻の一穴だとしたら、たいへんな事態になるのだ。
統計こそが政府・民間どちらにとっても、さまざまな計画の基礎・根拠になるからである。
まさに「おビックリ」だ!
日本人は蟻のようにはたらきながら、精神はキリギリスになった「変態」である。
修行にいそしむ僧侶たちが、規範を口にしない国でもある。
そういえば、東西の「真宗」は、「妻帯」どころか修行まで必要なしとしていた。
「南無阿弥陀仏」と唱えればよい。
「福祉」といえばよい国になったのは、このためか?
まったく隣国をわらえない。
自分たちの価値感だけで、「優しさ」をいうのは、残念だが通じないのが世界の常識なのだ。