「命令」ではないと定める命令

7日に締め切られた、「新型インフルエンザ等対策政府行動計画(案)」や「土地基本方針」に関するパブリックコメント募集期間が、2週間しかないことの、「行政手続法」上のいい訳は、「命令ではない」ための「任意」なのだという解釈が原因だったことがわかった。

これを10日、元総務大臣の立憲民主党、原口一博衆議院議員が自身のSNSで報告している。

こんなにわかりやすい、役人の「詭弁」の使い方もめったにない。

しかし、官房長官がたったの2週間でも19万弱もあったパブリックコメントを、締切り同日にサッサと無視して、「粛々と推進する」といったように、役人が詭弁を弄することになったさらなる「理由」が明らかになった。

すくなくとも、官房長官そのひとが、原因、なのである。

もちろん、内閣の要は官房長官であることに異論はない。
したがって、政府スポークスマンでもある官房長官の発言は、同時に、首相の意思の代弁でもあるのだ。

なので、原口議員が、この発言に対し、「倒す(倒閣)しかない」と繰り返したのには、まったく論理矛盾はなく、むしろわたしは支持するものである。

とはいえ、受け皿が「立憲民主党」でいいのか?
そうはいかない、という大問題がある。
これが、この国の悲劇の原因で、アメリカ共和党トランプ派と同様の「パーティー」がないのである。

さて、原口一博衆議院議員のこのSNS動画の中で、関係する役人を相手に、これまで明らかになっているコロナワクチン被害などの事実関係の念のための披露をしたところ、一部の役人は「無知」であったばかりか、「青ざめた」と発言している。

これが事実ならば(おそらく事実)、政府役人のなかでも「言ってはいけない」があって、じっさいに「箝口令」ばかりか、「情報統制」がなされているとかんがえてよさそうな、重大情報なのである。

官僚は、世間で起きている事実をしらないで政策運営をやっている。

個人的なことだが、わたしにはとある地方自治体のキャリア官僚が友人にいて、本庁・健康福祉部門の課長職をやっていたが、コロナ禍の最中でも、海外での対応についての情報はほぼ知識の外にあってまったくしらないばかりか「しりたくない」と耳を塞ぐ態度をとったのである。

10日現在で、原口議員がわたしと同様の海外事例や国内の動きを説明して「青ざめる」ひとがいることの一点をとっても、政府部内における情報統制の厳しさを裏付けているとかんがえざるを得ないのである。

ここで話はいったん飛ぶ。

2014年は、ウクライナにおいて「マイダン革命」が起き、選挙で選ばれた大統領(親ロ派)が政権を追われ、親米政権(じつはナチ)が誕生し、これが、ロシアの「特別軍事作戦」を誘発したのは、もはや否定できない事実であるし、ロシア側の「作戦発動根拠」に、「ウクライナ政府からのナチス排除」がちゃんと項目としてあることも、日本のメディアは伝えない。

それゆえに、戦闘も終盤になって、ロシアがゼレンスキー氏以下の政権幹部に「逮捕状」を出したのである。

さてそれで、この「マイダン革命」と同じ年つまり2014年に、わが国ではもっと静かな「革命」が起きていて、それが、「内閣人事局」の創設であった。

このときの官房長官は、菅義偉氏であり、総理は、安倍晋三氏だった。

アベノミクスは、社会主義政策のことなので、このブログで一貫して疑問を投げかけてきたし、わたしはぜんぜんプラス評価なんかしていない。

どうして、安倍氏を自称「保守」のひとたちが「保守」というのか?わたしには皆目見当がつかないが、なんとなく日の丸に敬意を示すだけからの幻想の演出にコロッと騙されているとしかおもえない。

似た事例に、稲田朋美氏や高市早苗氏がいる。

いまでも、次期首相に高市早苗氏「しか」いないとして、パワフルな応援をしている「保守」がいるのは、まったく日本語が理解できないのか?なんなのか?わたしには、遠い世界のひとたちにおもえてならないのである。

それにしても、キャリア国家公務員は、SNSの利用者ではないのか?
それとも、あくまで「在野」のいい分は無視することを信条とするのか?ならば、裁判官に職を求めたらいい。

また、一日の公務を終えたら一般市民になるのを区別できない生活をしているなら、ワークホリックどころの騒ぎではなく、すぐに心療内科を訪ねるべきである。

しかし、そうやってSNSにおける様々な情報にふれたら、こんどはなにが真実なのか?の真偽すら判断不能になるのを畏れているのかもしれない。
だとしたら、それこそが「受験脳」の限界なのである。

自分で考えて決めることができない人物が、エリートとして君臨し、詭弁を弄しても精神的な苦痛とならないのは、「上からの命ずるところ」に忠実な、ただの犬になっているからだ。

みごとな「忠犬」。
これを、ハンナ・アーレントが『エルサレムのアイヒマン』で、さらけ出した、「悪の凡庸さ」というのだが、現実のあまりにも凡庸な姿に、唖然とするのである。

まことにお気の毒様なれど、悲惨な目にあうのは、このひとたちの家族も含めた国民なのである。

「集合」の概念すら、ないのである。

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