「永遠なるもの」とはなにか?

宇宙がいつどうやって生まれたのか?について、鉄板だとかんがえられてきた「ビッグバン」が、ほんとうに起きたのか?という、いまさらタブーなはずの疑問が、いきなりハッブル宇宙望遠鏡から代替わりした、ジェイムズ・ウエッブ宇宙望遠鏡で撮影された一枚の写真から大騒ぎになった。

膨張する宇宙の逆をたどれば、極小の一点にたどり着く、という説の大前提になる「膨張」が疑われる写真が撮れてしまったからである。

それでもって、ループする宇宙とかナンとかと「新設」なのか?「珍説」なのか?素人にはわからない議論が巻き起こって、なんのこっちゃ状態になっているのである。

とにかく、宇宙をあつかう学問で用いる「単位」が、大きすぎるので、人間の生活時間の感覚とは一致しない。
もしも、人間の寿命が大幅に伸びて、たとえ100年となっても、宇宙の単位からしたら、一瞬どころの瞬間にもならないだろう。

たとえ5000年の歴史を誇っても、宇宙時間からしたら、やっぱり一瞬にすぎない。

その一方で、物質の最小形が、「素粒子」だということがわかって、こちらは逆に、おそろしく極小の世界にある。
物質は、原子レベルだとえらく「スカスカ」なのも、人間の生活からはかけ離れている。

それで、物質をあつかう「化学」や、「物理学」は、もう、「ダイヤモンド」やら「石炭」やらあるいは「砂糖」を見ても、ぜんぶ「炭素である」という判断をして、目に見える「もの自体」からなにかをかんがえることはとっくにしなくなったのである。

ところで、一般的にいう「恒星」は、太陽のように核融合反応をして光っているのであるが、結局は「鉄」をつくりだしてその一生を終えることになっている。

すべての生物は炭素をふくんでできあがっている(「有機物」という)ので、超新星爆発で飛び散った、鉄にいたらなかった炭素が惑星の材料になってくれないと生命は誕生しないし、なにせ「水」もないといけない。

こうやって改めてかんがえてみると、「永遠なるもの」とはなにか?とは、宇宙における「循環」をいうので、いまさらに「持続可能」とかという意味なし言葉の非科学をいわれても、なんだかわからないのである。

それでもって、今日は5月1日で、いわゆる「メーデー」という年に一度、世界の労働者の祭典の日だ。

わが国において、「主権回復の日」をどうして「国民の祝日」にしないのか?とか、戦後にあって、メーデーを祝日にしなかったのは何故か?に思いを馳せると、4月28日は前に書いた通り、わざと当時の「天皇誕生日」の前日にした嫌みがあるし、メーデーを公認したら、あたかもソ連のようなイメージになるのを嫌ったからだろう。

しかし、メーデーの主賓に、総理大臣が出席する時代になって、会場からの激しいヤジに、連合会長が遺憾の意を表するまでに時代は変わって、わが国の「国体」は、とっくにかつての社会主義国のようになっている。

かつての社会主義国とは、公式には労働者の国といいながら、ぜんぜんちがう国のことをさす。

そこで、あり得ないほどあからさまに、アメリカ民主党(という名の共産党)のいいなりの政策を、なにかに取り憑かれたように実行してやまない岸田政権のおぞましき姿に、労働組合や労働者たちはどうかんがえているのか?を問うと、ほとんど無反応になっていることに、さらなるおぞましさを感じるのである。

世界は、左右の対決というかつての図式から、グローバル全体主義と反グローバル全体主義(ナショナリズム)に分かれていて、はげしい対立構造ができている。

こないだ政府が募集をはじめた、実質的言論統制への「パブリックコメント」についても、はたして労働組合はどのような見解なのか?
「自由と民主主義」という「国是」が、溶けてなくなろうとしてしているさなかの、歴史的メーデーなのに、だ。

世界の小麦需要を支えたウクライナの穀倉地帯も、なんとすでに半分の農地が、グローバル企業に買い取られている。
アメリカでは、最大の農地保有者が、あの、ビル・ゲイツ氏となったことは、周知の事実だ。

食料の争奪戦で、貧困化するわが国はすでに「買い負け」しているのである。

あたかも、「飽食」と「食品廃棄」が同時におきて久しい国ではあるが、カロリーベースの自給率を厳密に計算すれば、1割もないのが、ほんとうのこの国の「脆弱性」なのである。

武器を買うだけが防衛ではなく、食料の自給という根本がすでにない、砂上の楼閣がわが国の飽食なのである。
それでも、豊富な食材がスーパーには永遠にあるのだと信じて疑わないのが、わが国滅亡の原因と後世の歴史家は書くにちがいない。

いまどきの賃金取得者が、どこまで自分を「労働者」だと認識しているのか?が薄まったから、労働組合の組織率はもうかつてのようなことはなくなっている。

しかし、80年代の日本でのベストセラー、『選択の自由』(原著は1962年)におけるフリードマン夫妻の議論は鋭く、消費者団体は消費者のためにあるのか?とか、労働組合は労働者のためにあるのか?を説いている。

ただし、これらの指摘は、一方では本来の目的(合理性)が組織マネジメントする者たちによって簡単に誘導されて、歪められるという意味でもあった。

もちろん、ハイエクの『隷属(隷従)への道』と双璧をなす、「新自由主義」の名著であるが、「新自由主義」という用語そのものが、都合よくグローバル全体主義者たちの巧妙な論理(欺瞞)によって、まるでコロナウィルスのごとく忌み嫌われる悪だという扱いとされている。

なお、『隷属への道』(春秋社版ハイエク全集)には、フリードマンによる「序文」がある。

個人的に、ハイエクの深淵に比べるとフリードマンの浅さが気にはなるが、こうした論を現代現役の識者が同時代として語ることもなくなっている。

そうやって、ケインズ的なるもの(実は共産主義)を、永遠なるものとして、これ以外を排除することが、すでに暗黙の了解事項になっている。

連合会長は、共産党の排除は熱心だが、共産化した自公政権には擦りよっているかに見えるのも、永遠なるものへの依存という病理なのだと、あえてメーデーの今日、指摘しておく。

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