「自動草抑制機」のことである。
よくいわれる「アイガモ農法」のように、田んぼの泥を掻き上げて濁らすことで草の成長を抑制し、ひいては農薬の使用量を減らそうというものだ。
ロボットなので、アイガモとちがってまんべんなく田んぼをかき混ぜることができる。
こういう機械を民間会社が開発していることが「あたらしい」のである。
とにかく、自民党の「農政」には、「能がなかった」反省がある。
これをいったんは抵抗しながらもやらされながら、結局は積極協力した「農水省」にも責任の一端はあるだろうけれど、命じてやらせたのはなんといっても自民党(農林部会)なのだ。
失敗の最たるものは、「減反政策」である。
「田んぼ」という農地は、畑とちがって「休耕」ができない。
いったんやめると、再度田んぼとして利用するには、えらい手間暇かけないと復活しない。
畑の作物で「連作できない」ものがある(たとえば麦やナス科の作物)のに対して、稲は「連作しないといけない」特異な作物なのである。
これをしらないはずがない「農林族議員」たちが、目の前にカネを積んでむりやりやらせたのが「減反」だった。
はるかむかしの日本人が、「阿呆」のことを、「たわけ者」といったのは、「田分け者」という意味である。
減反どころか、新田開発こそが生産増のことだったことをかんがえたら、減反政策とは縄文時代からみて、まったくの「たわけた政策」なのである。
この根幹にある思想は、これまた驚くべきことに「輸出」をかんがえない、完全な鎖国の発想だから、もうどうにもならない愚かさがある。
ついでに、農家の人手不足は、しっかり外国人労働者によって支えられるという実績も、自民党が人材エージョント業界と組んで作り出したものだ。
朝鮮半島を統治していた頃に、わが国農政は、「亀の尾」という米の品種を北部の開墾とともに奨励し、その開墾経費への補助金を手厚くした政策を打ち出して本州の首都圏に「朝鮮米ブーム」を引き起こしたのである。
いま、「亀の尾」は、幻の「酒米」として崇められているが、食べても美味い米としての傑作なのである。
対して、東北などの地方に冷たかった立憲民政党(都会を支持基盤にしていた)の濱口雄幸政権は、おなじく開墾を奨励はしたが、その補助金は朝鮮でのそれとは比較にならない少なさだった。
それで、冷害で疲弊した東北の恨みが、関東大震災での朝鮮人虐殺事件につながる。
戦後なら、エジプト農業への援助の成功があげられる。
JICAが指導するナイルデルタでの米作りは、地中海沿岸国での「エジプト米ブランド」となった。
地平線までの田んぼの壮観は、エジプト観光の目玉にぜんぜんなっていない。
もちろん、栽培されているのは「コシヒカリ」である。
これで、エジプト綿とコシヒカリが二大農産物になった。
これらの米は、外貨獲得のためにエジプト人たちの口にはいることはなく、ほぼ全量が輸出されているのである。
そのエジプト人たちは、ウクライナの小麦を食していたが、いまはロシアからの麦にかわっている。
金満大国にいっときなっただけの傲慢さで、国内で自給できないならば外国から買えばいいという、見事な「平和主義」が花咲いた。
一朝事あるときに、それではどうにもならないが、「一朝事あるとき=戦争」を、平和主義はかんがえてもいけないという潔癖症から、「想定しない」ことにした。
これは、「原発は安全=事故はない」という発想とおなじで、決して「想定してはいけない」のである。
なぜならば、わが国は強烈な宗教国家で、「言霊信仰」が現代でも生きているからである。
想定する=口にする、とは、現実化する、という信仰になるからである。
そんなわけで、食品廃棄率が世界トップで、ほとんど輸入に依存したものを捨てている。
学校給食で、「いただきます」、「ごちそうさま」を子供にいわせない教育をしているのは、「カネを払ったものとして当然の権利だから」という理屈で説明されている。
いつから学校が食堂になったのかしらないが、なんの意味での「いただきます」、「ごちそうさま」だかもしらないおとながいうのだから、とっくのむかしに給食における「食育」は破綻している。
ここにあるのは、カネさえ払えばなんでも食える、という幻想を教える狂気だけである。
そのカネもなく、食うことができないと、とうとう「子供食堂」が全国に10000箇所以上もできている。
かわいそうだからと支援するのは立派だが、食えるようにする経済体制を創るべきひとたちが、カネさえ出せばと意気込んで、その原資に「増税」をいうのである。
アイガモの代わりになるロボットが、安全な米作りと農家の高齢化対策に貢献するなら、もっけの幸い、となっているけど、どうやったらこの成果を横取りできるかを模索する「農政」は、補助金漬けにしてしまうかもしれないのである。
おそろしい国である。