ジャンルとしての「ノーブラ散歩」

ちょっと「H(エッチ)」な話題である。

さいきんでは、「叡智」とも書いて「H」の代用をするという、あたらしい隠語もできたらしい。
なるほど、「叡智か!」ともおもわせるが、そもそも「H(エッチ)」といったのは、「変態の『へ』」のローマ字表現をもって、「変態」といわないで済ますいい方だった。

ようは、「ローマ字」という、平仮名、片仮名につぐ第三の日本語表音文字の、あたかも英語とはちがうけど、なにやら意味深ないい方が妙な略語として流行ったのである。

嚆矢は、「NHK」だとおもっている。

日本放送協会を、だれが「NHK]といいだしたのか?
それでも、日本相撲協会をだれも「NSK」とはいわない。

もはやふつうになった、「K・Y(空気読めない)」も、外国人には通じない純粋日本語表現である。
なので、いまの若者用語としてのこの手のローマ字系略語の多用には、還暦過ぎのわたしにはついぞついて行けなくなっている。

YouTubeをいろいろ探索していたら、自撮りで「ノーブラ散歩」をやっているひとがたくさんいることに気がついた。
彼女らは、タイトルのトップに「【ノーブラ散歩】」と記載している共通もある。

なので、こうした「ジャンル」を、本人たちも意識しているのがわかるのである。
それと、これまた共通の概念として、ノーブラは「ファッションである」という主張もある。

また、なにも日本だけの現象ではなく、「Bra Less」というタイトルは世界共通のようで、もしやあたらしい「女性運動」なのかもしれない。

その意味は、いわゆる「LGBTQ」に対抗した、「おんならしさ」を強調することでの、自己の存在をアピールしないといけないほどに、追いつめられた精神が生じているのだろうか?

この逆に、「おとこらしさ」のアピールがある。
これには、昨年にアメリカで起きた、「バドライト不買運動」も影響しているのだろう。

アメリカ最大のビール・シェアを誇る、バドワイザーの「バドライト」が、広告にトランスジェンダー俳優を起用したら、これまでの荒っぽい男性が好むイメージが崩壊して、なんと圧倒的シェア1位の座からあっという間に転落してしまったのである。

ビール市場におけるシェアの逆転は、めったに起きることではないために、「保守的」の典型と世界から岩盤評価されていた日本で起きた、キリンラガー・アサヒスパードライの逆転については、あのハーバード・ビジネススクールにおける、伝説的な「ケース・スタディ」としても有名になったものだった。

これで日本国内ビールメーカーは全社、横並びの「ドライ」にシフトをみせて、各社の伝統的なブランドが次々と連鎖反応的に崩壊したのである。
わたしは日本でいう、「ドライな味」という、ウソのようにコクも深みもない味気ないビールを好まない。

そんなピルスナー界ではなくて、エールに分類される、ベルギービールの最高峰『オルバル』をもって、「ドライ」というのである。

さてバドライトの事例は、株主資本主義によって選任された、ポリコレ(左翼思想)の経営者が、よかれとしてやったことの完全なる裏目となる「ケース・スタディ」になるが、もはや左翼に牛耳られているハーバード大学やその他の有名校で、「教材」として扱われるかどうかは不明である。

あまりの売上減少に、さしもの左翼経営者もあわてて「(おとこらしさの)元に戻す」という安易をやったから、かえって火に油を注ぐ事態となったのである。

それでも、「顧客感情を無視したポリコレの押し付けによる失敗」のわかりやすい「事例」になるには、もう少しの時間がかかりそうである。
それがまた、こうしたポリコレの押しつけ(強制)に、世界的反発の政治運動を起こしているから、いったいなにがしたかったのか?

むかしは、タバコのCMで、チャールズ・ブロンソンが「マールボロ」の専属だった。
西部の牧場で、荒っぽいカウボーイが苛酷な仕事の合間に一服する、というのが定番だった。
なので、女性がマールボロを手にしていると、妙な違和感があったものである。

これは、日本の「ハイライト」にもいえて、職場の大先輩たる女性がハイライトをカートンで購入しているのを珍しくみていたのをおもいだす。
それでも、女性が「ショート・ホープ」をくわえているのは一度ぐらいしかみたことがない。

さてそれで、ノーブラ散歩では、しっかり乳首が目立つようなニット系とかの服装を選んで散歩するのを自撮りするのが定番なので、撮影現場までの道中もこの格好なら、結構な目線を受けるはずである。

一歩まちがうと「露出狂」になるのだけれども、男性のTシャツからみえる乳首とどこがちがうものか?という前提があるのなら、なるほど今様の価値観の表れなのだろう。

たしかに、女性の豊満な胸に、「豊穣」を重ねて崇拝してきた民族も多数ある。
なので、隠すものではなく逆に自慢げに晒すものだった。

この意味で、晒す寸前で止めていることに、恥辱はないという発想もあるやにちがいない。
いわゆる、「寸止め」だ。

わが国では、伝統的な和服のばあい、女性は下半身用の下着を着けることがなかったけれど、「舶来品」としての、また、「見せパン」としてのズロースが流行りだすにはあんがいと時間を要している。

「白木屋の火災」でパンツが普及した、というのも井上章一が『パンツが見える』で証明したように、デマである。

そんな事情から、女子高生が見せパンならぬ、ミニに工夫した征服のスカートに学校指定のジャージをはくのも、防衛本能が強化されているからなのかもしれない。

しかして、YouTubeというSNSメディアは、視聴回数によって収入となる仕組みがあるので、ノーブラ散歩とは「動くグラビア」を個人事業としてやっている、という側面もある。

かんたんにいえば、「稼ぎ」のため、である。

すると、今後は「プロ」との間での熾烈な競争が発生する可能性がある。
しかしながら、「部位」における競争なので、プロとアマの境界が曖昧で、しかも、収入がある状態なのはもう「セミ・プロ」同然なので、場合によってはより激烈になるとも予想できる。

めざといファッション界は、そのうち「乳首だけだす」ようなものを、パリやらのオートクチュールで発表すれば、これに左翼の「セレブ」が食いついて、あたたくなった気候に乗じて、通常のファッションに変容することだってあるのだ。

だったら、温暖化バンザイではないか?と、おとこらしいひとたちは大喜びするのだろう。

アメリカの選挙で、「中絶」が一大関心事となっているのは、家庭の崩壊やレイプの横行による望まぬ妊娠に対応している政治テーマであるからだ。
だから民主党は目先の中絶容認を叫び、共和党は家庭の崩壊を食い止め、レイプを凶悪犯として処罰することに重点をおいて、中絶をなるべくしないとしているのである。

そうやって見ると、「Bra Less」を推進する民主党は、レイプを誘うことも意図した、「マッチポンプ」をやっていないか?
「理性」を重視してきた西洋社会が、自ら理性を失い男を挑発するかの行動を「よきこと」とするのは、女性の解放だとでもいいたいのか?

わたしが暮らした80年代のエジプトで、ノースリーブにショートパンツ姿のアメリカ人の娘が、白昼の路上で数人に輪姦されるという事件があった。

被害女性からの訴えに、イスラム裁判所は、女性が挑発して男性たちの理性を崩壊させた罪で懲役刑を下し、アメリカ大使が猛抗議したところ、国民の反米感情が高まる事態にもなったこと記憶している。

女性があからさまに肌を出すことを「ふしだら」だとする常識が、サウジよりもよほど開放的だった当時のエジプトでもふつうにあったのである。

「ジェンダー平等」という変な教育が、変な効果を社会にもたらしていることだけは、どうやら確からしいのである。

「このようにしてローマは滅んだ」とおなじ社会の廃頽が、現代文明を終わらせようとしていて、それにわが国も「感染」したといえるのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください