ローカルな「トンネル」の話

横浜市に生まれて60数余年、実家がある保土ヶ谷区では国道16号線、いまの住まいの戸塚区では、国道1号線のお世話になっている。

なので、今回は、「ちょっと」ローカルな話題である。

むかしの保土ヶ谷区(1969年に分区して「旭区」ができた)を通る国道16号線は、東側の西区から2級河川の「帷子(かたびら)川」に東海道線・横須賀線と相鉄線をまたぐ「尾張屋橋(宝暦年間:徳川9代家重、10代家治の時代に尾張屋九平治がこの辺りの新田開発したため)」の東側で国道1号と交差する。

いまの横浜駅もそうだが、中心部の市域はぜんぶ埋め立て地なのが横浜の素顔なのである。
それで、東海道線も横浜駅から保土ヶ谷駅までの区間は、たいがい「元は海の上」を走行している。

ちなみに、横浜市の「分区」は、1927年に区制がひかれたときは5区(鶴見区、神奈川区、中区、保土ヶ谷区、磯子区)だったのが、市域の拡大とともに増えたのと、人口増加で分区されとのと、二種類があって、「戸塚区」は、1939年に「鎌倉郡の村々」を編入したときに生まれた「区」である。

あおの有名な「鎌倉ハム」も、この「鎌倉郡」に外国人用の加工肉工場として誕生したのだ。

なので、わたしが小学生の頃学校で習ったのは、14区だったけど、1984年と1994年にも分区されて、いまでは18区になっている。
東京の「特別区」とちがって、すべて「行政区」なので、「区長」は横浜市役所の局長級が人事異動で就任している。

横浜駅がある「西区」も、中区から戦中の1944年に分区してできた敗戦前では最後のあたらしい区だったけど、区域の低地はやっぱり「元は海」である。

道路の話に戻ると、大磯から東京に自動車で通っていた「ワンマン」吉田茂のためにつくったのが、「横浜新道(1957年開通の「行政道路」である)」なので、いまは死語化したが、「ワンマン道路」といえば横浜市民ならだれでもしっていた。

建設を指示(実態は「命令」)したのは、GHQによる1948年(昭和23年)のことだったからである。

この道路は、国道1号線の「バイパス」扱いになっていて、建設費を回収した時点で「無料」になると宣伝していたが、大規模拡張工事でかえって4割増しの高額有料道路になったし、無料出入り口の全部が閉鎖かあらたに料金所を建設して、もれなく課金される「みえない増税」のようなこともやって、「平等」のもとで生活道路を封鎖する無慈悲が平然と実施された。

一方で、横浜港と米軍厚木基地を結ぶためには、国道16号と東名高速横浜・町田インターチェンジと国道246号を接続するのに、大渋滞が日常で、1973年になってようやく「保土ヶ谷バイパス」として国道16号の複線ができた。

これで、16号の片側2車線がいまの「環状2号」と交差するあたりで1車線になるためにどうにもならなかった、混雑が一気に解消されたのは事実である。

1号では、毎年盛り上がりを見せる「箱根駅伝」の「花の2区」の文字通りの山場である、「権太坂」を登る手前の狩場インター付近から国道1号は狭くなって、エリザベス女王も献花に訪問した「英連邦墓地」がある隣接の「児童公園」あたりでいったん片側2車線に戻るやいなや、保土ヶ谷区と戸塚区の区界の下り坂になると、再び片側1車線の狭さに戻る。

それゆえに、恒常的渋滞のエリアになっているのである。

鶴見から新横浜駅前を通過して国道1号と立体交差する「環状2号」は、そのまま京急屏風ヶ浦を横切って、磯子区で首都高に接続する。
その環状2号に交差するよう、市中心部の桜木町からやってくるのが、「桜木・名瀬道路」の未接続部分がやっとこさ今回話題の「トンネル」なのである。

このトンネルの上は、全国的に珍しい、「市街化調整区域」から、「農業専用」に用途替えを申請・許可された、「果実の里」で、農家が10軒ばかり寄り添って暮らしている地域である。

JR横須賀線の「東戸塚駅」の開業による都市化が、農家をして後世に畑を残したい、という強い危機感を呼び起こしたという。

ために、トンネルの計画事業は、1989年からのものだったが、ついぞ着工に至らずに今日になっていた。

それがとうとう、24年度予算で着工が決まったという。

その理由が、国道1号側の恒常的渋滞が、「滋賀県の事故(19年の保育園児などが16人も死傷した)」の再発防止だというのである。

つまるところ、「国」の目線は、滋賀県のことを戸塚区でもみていますよ、という高度からの鳥の目線でチェックをしているという、「へぇ」という話になっているのだ。

それゆえに本稿冒頭に、「ちょっと」をローカルな話にくっつけたのである。

道路の目線だけでなく、国が管理する全分野で、こうしたちゃんとした高度な鳥の目線をもってやってほしいものであるけれど、無責任と他人のカネを使うだけしかできない行政に、過度な期待は禁物なのである。

この意味で、黒澤映画『生きる』(1952年)は、「主権回復」直後に公開された、行政の実態を暴いた作品でもある。
志村喬の名演が光ることにだけ目を奪われてはいけない。

そうやって見ると、「熱血教師もの」というジャンルも、現実にはありもしないフィクションで、視聴者にファンタジーとは思わさず、あたかも理想としての目くらましをやっているから、没入してはいけないのである。

すでに火の車の財政で人口も減少するのに、あたかも慣性の法則がはたらいて、たんなる「惰性」をやめることができないから、新幹線も道路も、過去にできなかったものができている。

維持の負担が恒久的になるのだけれど、維持できなくなる現実をみない。
いまなら、かつての世界の覇権国、イギリスがどうなっているか?をじっくり観察すべきときなのである。

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