歴史小説はぜんぶ作り話だから絶対に読まない、といった理系人がいた。
彼は国立有名大学で、数学の博士号を持っているが、わたしは思わず「つまらない奴」といい返したものだ。
数学の本質は、論理である。
論理を理性に置き換えると、理性第一主義がルネ・デカルトが世界を一変させた『方法序説』による、近代文明社会の登場となっていまに至るわけであるが、その文明が行き詰まっているからこその「文学=文化」への回帰が重要かつ必要なのである。
これを、シュペングラーが100年前に『西洋の没落』で力説していると何度も書いてきた。
日本の大数学者、岡潔の『情緒と日本人』も、先の博士はしらないらしいから、どんな指導教授のもとでどんな博士論文を書いたのか?を思い切りうたがうのである。
大学と大学院は、「ゴミ論文」を量産していて、この「学位販売商売」は、そうやって質より量の大量消費時代のままでいるから一般人から「象牙の塔」といまだにいわれることになっているのである。
ただし、「安穏とした棲みやすさ」のおかげから、「ゴミ論文」すら書かないで、学費を負担する学生(とその親)に対して、教育詐欺をやっても恥じることは一切なく、むしろ学内の政治にエネルギーを投じて、一派による支配の構造を維持せんとして「保守」に汲々としているのである。
この意味で、大学生になったら、自分で自由に勉強する、という学問の本質的な状況に回帰するという、ここでも「回帰」が重要となるのである。
小学校から高校まで、先生(教師)と教科書のいう通りにするという訓練しか施されていないので、おおくの学生がすぐさま「自由な」大学生活に頓挫して、サークル活動やアルバイトに精をだすことになったのは、これも「むかし」からの伝統を「保守」する態度になっている。
就職予備群として、アルバイトで得られる社会経験がそのまま人生の役に立つこともあるけれど、それにはアルバイト先のおとなたちが尊敬に値するような品位があってのはなしであるから、あんがいと確率的難易度は高く、またそういったアルバイト先こそ、先輩から後輩に引き継がれる傾向が高いので、学生間の人間関係の構築がこの確率を高める条件になっている。
上のように、理系でもコレなので、文系という文科省の役人(じつは本人も文系のくせして)から、「役に立たない文系への低予算配分」という恣意的な行政がおこなわれて、ますますシュペングラーのいうことから乖離する自滅の努力をやっている。
しかし、役人は、「専門家会議」というアリバイ機関を用いて、あたかも「文系学者」のいう通りにしている「だけ」だという責任回避術をやめることはない。
たとえば、「新しい資本主義=じつは共産主義」のことを、礼賛する外国人学者のベストセラー、『企業家としての国家』とか同人の、『ミッションエコノミー』をしっかり参考にして、審議会での結論づくりにいそしんでいる。
「科学」は、理系ではない、「社会科学」とかもっと曖昧な、「人文科学」という分野をつくったけれど、「科学」の本質的意味は、「細分化」にあるので、文系も細分化することが「科学」として記述されているのである。
なので、対象が、「人文」だろうが「社会」であろうが、「科学=Science」になったから、あたかも上で紹介した著作が、文系役人の都合がいいように使われている。
つまり、とうとう、「SF」が、国家運営実務にそのまま応用されるという、まったくSF小説のようなことが現実になっているのである。
こうなると、「SF」を読んでおかないと、現実を見失うことになる。
さすがに、役人が御用学者をつかってSFの実現をはかるには、それなりの時間がかかるので、先に読んでおく、ということが「常識を乗り越える」ために必要になるという、伝統的ディストピア小説が描く世界が現実になろうとしているのである。
現代人は、SFを読むことがいまや義務になっている。