例年より10日ほど早いという。
小田原の曽我梅林に行ったら、種類によってはすでに満開状態であった。
「梅まつり」は、来週、つまり2月の初旬から開催というが、もうとっくに咲いている。
どうやら早咲きなのは、名物の「十郎梅」だ。
山がかすんで見える。
地元のひとに聞くと、「まつり期間中」はやたら混雑するので、いま観ておけばそんなに変わらないというから、日常にある価値観とはそんなものなのだろう。
ただ、一部とはいえ1月中に満開状態になったのは、人生で初めてかもという。
クルマだとどこに駐めるのかも念のため聞いたが、どうやら「まつり期間中」は駐車もたいへんらしいから、電車ならどうかと食い下がったら、上の回答になったのである。
観光協会のHPによると、最寄り駅は「下曽我」である。
ただし、かつて東海道本線だった御殿場線は神奈川県内にあって、JR東海の管轄だから、SuicaとPASMOが使えないので、駅での精算も混雑するという。
国府津でいったん降りて、切符を購入してください、と。
まことに、国鉄分割民営化の失敗がよくわかる事象である。
産業優先、会社の都合優先で、ぜんぜん利用者優先という思想がない。
当然だが、この政策を立案した爺どもは、お迎えのハイヤーなりに乗る身分で、めったに自分で電車に乗ったこともなかったにちがいない。
車内精算すら「他社だから」を理由としてできなくしたのは、なんのためのデジタル化なのか?
もう、車掌が車内を「乗り越しの方はおられませんか」と、巡回することもみなくなった。
電車もバス(乗換券をくれた)も、ずっと不便になっている。
小田原には因縁のある河野家当主として、河野太郎は保険証ではなくて、電車やバスの不便を先に解消しろといいたいが、このPSYCHO-PASSには発想もないのは、上で書いた爺たちと同じで、電車やバスに乗ったことがないにちがいない。
ちなみに、この因縁とは、社会党の議員に河野洋平が選挙区の「交換」を申し出て、洋平が小田原から出馬はしたが、約束にない息子太郎を地元で立候補・初当選させ、自身も当選。そうやって、この社会党議員は落選してそのまま引退したので、社会党支持者でなくとも「河野の裏切り」としてしられる一件のことである。
親子でPSYCHO-PASSが遺伝しているけど、一郎と洋平の親子にもいえるから、ずっとPSYCHO-PASSの家系が疑われるのである。
ただ、このような神経でないと、生き馬の目を抜く政界で伸すことはできないのだろう。
そんなわけで、平塚・茅ヶ崎には、気持の悪い太郎のモノクロ写真・ポスターがあちこちにあるので、景観を穢している。
ときに、「観光協会」が世の中に存在する不思議も、相変わらずである。
自治体の観光課と観光協会の双方で、役に立つ情報を得ることはまずない、という共通はどこからやってくるのかも不思議である。
これは、「観光」を哲学しない、という共通で、ただの無駄遣いだ。
この意味で、金の切れ目が縁の切れ目になるはずだから、国家とその配分を得る乞食団体化した自治体の予算が枯渇したときに、かなりはやく切り捨てられるのが、観光課と観光協会だろうと予想できる。
個人的には、経産省と、自治体「経済課」とかをまっ先に廃止したら、日本経済は立ち直るとかんがえている。
なんだかんだ、巨大なアメリカ経済が、わが国よりも成長率が高いのも、こうした邪魔がいないからだし、邪魔なことをするなというひとたちが健在だからである。
「観梅」の風流は悪くはない日本人の感性(外国人には意外と珍しい感性)だけど、「ただきれいね」といって、写真を撮るだけで、やってきた観光客がほんとうに満足していると思うのか?
文明・文化のレベルが日本よりも低かったが欧米では、産業革命によって、工場の「賃金労働者」も大量生産されて、おかげで、歴史上初めて「観光客=大衆」が誕生したのである。
だから、大衆受けすることが、観光政策として通用していた。
しかし、もう大衆にも格差が生まれて、「多様化」したが、江戸期の『東海道中膝栗毛』だけ読んでも、日本人庶民の文化性は、欧米とは比較しようもないほどに「高度」であった。
江戸期の粋な庶民レベルには、相変わらず到達しようもないけれど、ようやく日本人にもそのようなひとたちがあらわれてきているという意味の「多様化」なのである。
つまるところ、「梅」とはどんな植物で、その系統やらの知識の伝授も、生育方法の情報も、あるいは短歌や俳句・連歌に絵画といったものが、どこにもない。
さらにいえば、神奈川県の偉人、二宮尊徳のご母堂が曽我の生まれであることも、観梅のなかでどれほどのひとがしっているのか?
小春日和のなか、ほろ酔い気分で、次は桜か、というご時世でもあるまいに。