横浜港の新港ふ頭あたりに、JICA(むかしは「国際協力事業団」、いまは「国際協力機構」)の「海外移住資料館」がある。
日本人は、「国際」が大好きだから、詐欺師は、「国際」を強調するのが相場だ。
それでか、外務省も、省内の最高級頭脳が集まっていて、たいていここから事務次官になった「条約局」が、いつの間にかに、「国際法局」というつまらない名称に変わっていた。
平和国家を標榜して、あんがいと頑固でもあったむかしの外務官僚で、一番骨があったのは、高島益郎氏(たかしま ますお、1919年 – 1988年)だったろう。
開戦の1941年に外務省に入省し、すぐに陸軍主計少尉となってシベリアに抑留され、足の指を凍傷で失ったひとが、後の波乱で駐ソ大使となったのは、ウソだらけ山崎豊子の『不毛地帯』より波乱万丈なのである。
こういう人物のちゃんとした評伝がない。
ちなみに、外務省は御高い貴族趣味が根強い役所だが、これは欧米列強のカウンターパートたちが皆、本物の貴族だったためである。
それでか、外局は、JICAしかないという奥ゆかしいことになっているので、あまたいる外務官僚の天下り先に苦慮しているから、ちょっとだけバカ正直なのである。
それでも、我が国の中央官庁にあって、職員数は少なくて40年前は4000人ほどであったけど、いまはしっかり肥大化して、6300人になっている。
本省が2800人、在外がその他だから、在外公館の方が肥大化したようにみえる。
バブルも含めた期間があるので、これからの縮小をどうするのか?
なお、国際法の国際とは、国をまたいだ戦争の始末のためであった。
いよいよ、「条約局」の平和から、「国際法局」の物騒に展開したのが外務省なのだが、これを指摘しない大ボケが保守論客というビジネス人種になっている。
さてそれで、どういうわけかJICAの施設に「移民資料館」があるのは、どうしてなのか?
国民の健康を阻害するためにあるような厚生省が、さっさと逃げて、おっとりしている外務省に押し付けたのかと疑うのである。
信長が切支丹・伴天連と付き合ったのは、鉄砲を刀鍛冶に作らせることに成功はしたが、火薬の原料になる硝石がわが国になかったためである。
もちろん鉄砲づくりも簡単ではなく、最大の難関は「ネジ」の作り方にあって、これを知るために堺の鍛冶屋の親方は自分の娘を香港だか澳門(マカオ)だかに嫁に出して、作り方を盗んだら離縁して帰国している。
なんだか、いまはその逆をやられていきり立っているのが保守の日本人になっている。
移民をどこまで定義するのか?という問題があって、人身売買で奴隷にされて東南アジアから果ては南米まで移動させられた人たちがいた、
南米には、そんな日本人が自由になるための裁判記録まで残っている。
なにも秀吉が切支丹大名をこらしめたのが最後ではなく、幕末から明治のはじめにも同様の日本人奴隷がいた。
この話しも、明治維新の闇の中に葬られている。
それから、日本政府は人口増大・食糧難をプロパガンダして、貧しい暮らしの日本人同胞を、さも夢の国として、南米への移民を奨励し、事実上の「棄民」をやった。
哀れなのは政府を信じた移民たちであったのは、なんと渡航費も自費で負担させたからである。
果たして、自由に土地を得られるとしたその土地は、アマゾンのジャングル・原生林であった。
これを、人々は「緑の地獄」と呼んだのである。
そこで、あきらめて死地をさ迷うかと思いきや、明治の教育、日本精神を発揮してとうとう一大農地に転換させる。
このひとたちが、南米に、いにしえの日本の記憶を刻んだのである。
そうやって、残った日本のオリジナルは、戦後にぜんぶ破壊の対象になって、とうとう日本精神のなんたるかを口にすることさえ憚れる日本になった。
ゆえに、いま、はからずも南米の「日系人」こそが、往年の日本人なのである。