孟母の絶滅?

もはや「良妻賢母」をいうものがいなくなった.
フェミニズムや男女同権といった,あたらしい価値観をしばらくヨコに置いて,人類史という長いレンジを基盤にしたはなしをしようとおもう.
だから,フェミニズムや男女同権というあたらしい価値観から抜けきれないひとには不快な文になるだろうから,あらかじめおことわりしておく.

おとなになれば,「良妻」と「賢母」はちがうことに気がつく.
つまり,「良妻」=「賢母」とはかぎらない.
しかし,制度としての「家」があった時代には,「良妻」=「賢母」でなければならなかったろう.
少なくても長男には,「家を継ぐ」子どもとしての教育をしなければならないが,学校という制度もなければ,だれが教師をつとめなければならなかったかをかんがえればよいだろう.

すると,「家」の「奥」には,すなわち「大奥」のような子孫をつくる機能のほかに,「アドミニストレーション」(統治,行政,管理)という,「家」の維持にもっとも重要な機能をになう責任者としての「奥様」が存在した.ふるくは「政所(まんどころ)」と,ズバリと言った.
これは,首相の「女房役」とされる,「官房長官」機能とおもってさしつかえないだろう.

「専業主婦」というと,なにやら今時はかまびすしいが,本来は,家ごとの官房長官という重責をになうから,けっして気楽な商売ではない.むしろ,「専業」でなければ,とてもこなせる量と質ではなかったろう.

ついこの間まで,「専業主婦」はあたりまえだった.
ところが,「家事」という「労働」だけに焦点があたって,家電の普及によって革命的時間の余裕ができた,と喧伝された.洗濯機と掃除機のことである.これに,本来は炊飯器がくわわるが,ときの「三種の神器」では,価格の高い冷蔵庫が指名されたから,たぶんに電機メーカーの側の言い分である.

つまり,「専業主婦」という言葉には,「賢母」の意味が欠けている.だから「専業主婦」がさげすまされる.これが本来の理由ではないか?「物欲」と直結した「家事労働」が軽減されて,「三食昼寝つき」に,「賢母」のイメージはどこにもない.
しかし,家計は「主人」一人の肩にあった.それで,「ふつうの生活」ができたから,よくかんがえれば,家計の生産性はいまよりはるかによい.
共稼ぎでやっと「ふつうの生活」になるいまの暮らしには,ムダが多いといった方が適切か.

かつて,東芝を再建した,土光敏男氏の母は,戦時中に学校を創設した.
生前の土光氏は,政府の第二次臨調会長時代に密着取材したNHKの番組から,「目刺しの土光さん」と呼ばれるようになった.朝食で目刺しをかじるばかりか,その質素な暮らしに贅沢をもとめる日本中が驚いたからだ.
当時数千万円あった年収のほとんどを,みずから校長をつとめる学校法人に寄付し,妻と二人の生活費は年間百万円程度だった.

しかし,あの番組で,臨調のしごとは国民から乖離した.
だれもが,「目刺し」だけなんて嫌だとおもったのだ.そして,どんなに国の借金が増えようと,じぶんたちには関係ない,かんがえたくない,になってしまった.
土光家の暮らしぶり密着は,その本来の目的からはなれて,「偉人」と「異人」が混じってしまった.

「正しき者は強くあれ」,「国が滅びるのは悪でなく、その愚さによるのです」(土光登美).
まちがいなく,土光氏の母は「賢母」である.
「賢母」から「賢人」が育つ.いや,おそらく,賢母「からしか」賢人は育たないのではないか.

しかし,「賢母」は「奥様」でないとなかなかつとまらない.
政府による専業主婦を労働力に変えようという努力は,賢母「絶滅」のこころみである.
なるほど,おそらくこれをかんがえる人たちは,「専業主婦」の息子たちなのだろう.
みずからの母を,どういう目で見ていたかすら想像できる.学業優等生への「人格欠如」批判根拠
のひとつだろう.

いかにして「賢母」を継承するのか?
それは,事業継承よりはるかに重要で,はるかに困難なことにちがいない.

「プロが選ぶ」の信用度

探しだしてマッチングをさせる「サーチ理論」が,ノーベル賞をとる時代である.
つまり,みつけものをなかなか探し出せない,ということがあるのが現実である.

そこで,いろいろな「サーチ(探索)」を試みることになる.
ネット時代だから,だれでも「ググる」ようになった.
これに,専用のアプリも加われば,「電話帳時代」にはかんがえられない便利さで,おおくの情報をえることができる.

ところが,それだけでは得られない情報もある.
それでも探そうとするか,それともあきらめるか?ここが,分岐点になる.
安易なひとを批判するときに,グーグルで検索できなかったらそれでやめる,ということが対象になっている.

「ランキング」がテレビ全盛時代に流行ったことがあった.
「なんでもランキングの発表」というのが,一世を風靡した.
では,いまは下火かといえばそうではない.
「ランキング」は,もはや「常識」になってしまった.

情報過多で選択肢がたくさんあると,ひとは選ぶことができない.
駅の蕎麦スタンドとて,食券売機のまえで固まっているひとを見かける.
たくさんのボタンに,たくさんのメニューがあって,お金を投入しても一定時間がすぎると,ゲームオーバーとなって返金されるから,はやく選ばなければならない.
このプレッシャーが,さらに選択を困難にする.
それで,気の利いた店は,手作りポップで,「当店人気No. 1」とか,「おススメ」とかを表示して,選択肢を絞り込ませ,ボタンを押す手を楽にする工夫をしている.

「ランキング」には,この「絞り込み効果」がある.
だから,おなじ範囲でのランキングでも,「百位」から「4位」までは意味をなさない.
「トップ3」が選択肢としての限界になるからだ.
むかしからの,日本料理屋の「松」,「竹」,「梅」はよくできているメニューである.このばあい,まんなかの「竹」がいちばんよく売れる.
1位と2位の売上差は,半分以上にもなる傾向があるというから,3位ではかなり落ちるものだ.

ところが,「ランキング」には,誰に聞いた結果なのか?という「落とし穴」があって,およそ「統計学的」に有意とはいえないようなものがおおく混じっている.
サンプル数やサンプルの抽出方法,それに有効回答数などの基礎情報が公表されないものは,おおくが「あやしい」ものであるから信用できない.

そこで,じっさいに使ったひとが評価するという方法がでてくる.
「飲食店の案内サイト」に「旅行サイト」や「宿の予約サイト」などなどの「評価ポイント」である.
これらには,点数のほかにコメント欄があって,店側からの返答まである.
ところが,ここにも「落とし穴」がある.
利用したひとの生活感や価値観が,そもそも不明でわからない.
だから,自分との比較で,おそろしくトンチンカンな評価もあるのだ.

であればこそ,「プロが選ぶ」という「ランキング」に注目することになる.
ところが,驚いたことに,そこには「選者」も「選定基準」すらも表示されていないことがある.
いったいどの分野の「プロ」なのかが不明で,「プロが選ぶ」とはどういうことか?

わたしの最大の疑問である,「利益」が基準になっているとおもえないことも加えたい.
つまり,経営が赤字なのに「すばらしい」という評価をすることだ.
これには重大な問題がある.
おおくの店を,赤字経営に誘導するからだ.経営者をして,「目標」に「ランクが高い店」を置くのはある意味自然である.しかし,その店あるいは経営会社が「赤字」だったらどうするか?

「業界」が,あやしいプロたちの餌食になってはいないか?と疑うのだ.
そして、健全な店や経営会社を,「赤字」に誘導すれば,なんらかの「相談」があるかもしれない.つまり,商売になる,としたら,悪魔的な戦略ではないか.
この被害者には,従業員もふくまれる.
人的サービス産業の生産性が低いことの,間接的な原因のひとつになっていないか?

要するに,みずからの「絶対値」が必要なのである.
これがあって,はじめて他との比較基準ができるというものだ.
そうなれば,世の中の雑音に惑わされることはない.
情報過多時代とは,情報そのものが「甘いささやき」をしていることがある.

なるほど,「サーチ理論」が注目される理由がわかろうというものだ.

世界戦略 I’m lovin’ it.

いい広告とは,販売を伸ばす広告である.
この基準が,「業界」のなかの目線によってゆがむことがある.
この「業界」とは,「広告業界」のことである.
つまり,クライアントの金で,クライアントの満足ではなく,自分たちの満足を追求してしまう現象をいう.

有名な広告,無名な広告,さまざまあるが,有名な会社,無名な会社のことではない.
有名な広告は,「話題性」があるから「有名」になる.
しかし,その「話題性」が,販売増につながるかどうかはわからないことがある.
広告業界のなかでの「CM大賞」は,「話題性」が重視されるから,販売増にどこまで貢献したかはわからない.
ところが,授章式にはクライアント企業のえらいひとが呼ばれて壇上にあがるから,それで企業も「よかった」になるようなしかけがある.だから,作った者勝ち,なのだ.
じっさいに,なにがヒットしなにがホームランになるかわからないのが世の中だ.

民放では,番組編成の谷間の企画切れなのかしらないが,「CM特番」を放送することがある.
どんなCMが過去にながされてきたかは,一種の文化を形成する.
だから,単なるノスタルジーではなく,時代の「資料」として興味深い.
どうしてこのようなつくりかたをしたのか?
という解説のみごとな欠如,ほんとうにまったくないのは残念だ.
「CM特番」は,じゅうぶんに教養番組になりえるのだが,「企画切れ」としか感じない.

もっとも,そんな「教養番組」を一度でもつくったら,つぎの「企画切れ」の穴埋め番組がなくなるから,「企画」されないのだろう.
「感嘆」役のタレントを入れ替えれば,なんどでも「CM特番」はつかいまわしができる.
それで,スポンサーがつくのだから,「おいしい」はなしになるはずだ.
「CMは文化だ」といいながら,しっかり「CM」自体を消費してしまうのだ.

学校英語教育界を震撼させたというCMに,「I’m lovin’ it.」があった.
これは,世界最大のハンバーガーチェーンが,世界戦略として打ち出したもので,かれらが進出しているすべての国で,一斉につかわれた.
だから,外国に旅行しても,かならず目に触れるようになっている.

こまったことに,このフレーズには,重大な問題がある.
「love」が「進行形」になっているのだ.
感情をあらわす「love」は,進行形にはできない,から,まじめな生徒ほど疑問をもつ.
そこで,学校の英語教師に質問したのだった.

どうして「進行形」なんですか?
どうやって「訳す」のですか?

ほとんどの英語教師は,「文法的に間違っているから,気にするな」とこたえたそうだ.
それでも,納得がいかないまじめな生徒は,予備校の英語講師に質問した.
だって,アメリカの会社でしょ?
世界中でおなじフレーズを流しているんでしょ?
アメリカやその他の国のひとたちは,これをどう「解釈」しているの?

ひとつの「解答」はつぎのとおり.
「love」が進行形になっているのは,CMならではの「つかみ」だろう.
だれだって「アレ?」とおもう.
それに,ことばは生きているから,新語はどんどんつくられる.
日本語だって,告白することを「こくる」なんてちょっと前には言わなかった.

進行形には「途中」の意味があるから,「loveの途中」.
深読みすれば,健康にわるいとか肥るとかいうけど,食べてみたらやっぱり好きになるかも,って意味にもとれる.

予備校の英語講師に質問したらスッキリした.
こうして,学校英語教育界の信用はズタズタになってしまった.
これが,ひとつの課目だけのはなしならいいのだが,おそらくそんなことはあるまい.

世界戦略の一言には,意外な破壊力があった.
それで,「loveの途中」をうたった会社は,紆余曲折あるものの,あいかわらず販売を伸ばしているから,CMとしては成功したといえるだろう.
世界で「話題性」と「販売増」という二兎をみごとに仕留めた事例だ.

現代の海彦と山彦

自分の国に「神話がある」というのは,あたりまえではない.
自分の国に「神話などない」という国のほうが「ふつう」かもしれない.
それで,「ふつうの国」になりたいがために,自分の国の「神話」を話さなくして忘れるように努力する国がある.
それが,(戦後)日本という国である.

西洋の「God」を「神」と訳してしまった失敗はじつに痛い.
いわゆる「旧約聖書」の「神」は,どうみても「古事記」における「神々」とイコールではない.
これは,古代ギリシャのオリンポスの「神々」ともちがうだろうから,「神」という漢字の「記号」には,ややこしい意味があるものだ.

その西洋だって,キリスト教が普及するまえには,たくさんの「神」や「精霊」がいた.
「白雪姫」の「七人の小人」も,その「精霊」の部類である.
いまはイスラムの国だって,イスラム教前には,「ジン」という「精霊」がいた.
大化の改新は645年と習うが,ムハンマドが大天使ガブリエルとであって「神」からの啓示を受けるのが610年とされている.
つまり,これから前の地球上には,イスラム教は存在しない.

太平洋の西端にうかぶ島国の日本は,緯度と海流という影響をうけて,ユーラシア大陸の西端から離れた英国という島国とも,ちがった環境にある.
梅棹忠夫「文明の生態史観」は,明解にこのあたりを分析している.

山が海を支えている.
山からのミネラルや栄養が,川をつうじて海にいきわたることで,はじめて海の豊かさがうまれる.
わかりやすいのは,「牡蠣」である.
栄養あふれる豊かな川の河口近くからとれたものと,河口からはなれた沖合でつくるものは,「加熱用」と「生食用」として分類されている.残念ながら,河口近くはひとの活動による「汚染」という問題にされされたから,「加熱」が必要だが,その身の大きさは「生食用」の比ではない.

この島国の沿岸で,港ができそうなところにはみな「漁港」がある.
みごとに規格にそったコンクリートでつくられている.
20世紀公共事業の遺産である.
ところが,山が病んできた.

それで,魚がとれなくなってきてもいる.
「乱獲」だけが不振の原因ではなさそうだ.
いろんな工夫が試されてはいるが,残念ながら,成功事例ばかりではない.
しかたないから,海上で取り引きすることも暗黙の了解事項になっているという.

ちいさな漁港でも,価値ある魚は築地にいく.
だから,日常生活での魚だけがのこる.
それではお客にしめしがつかないから,築地の魚を買ってくる.
典型的なのは「マグロ」である.

海抜1000メートルをこえる内陸の山の宿でも,マグロの刺身が提供される.
捕獲後の冷凍技術と運送における保冷技術の恩恵である.
ふしぎなことに,これを客がよろこんで食べる.
近所の山菜には目もくれない.

こうして,山にはひとがはいらない.
「エコ箸」とは,いつのまにか洗って使うプラスチック製をいうようになった.
山の間伐材でつくる「割り箸」が,どういう理由か「環境にわるい」ことになった.
これでは,山の整備もしごとのうちになる「林業」が収入をうしなう.

こうして荒れた山は,ときの大雨で災害だけを引き起こす.
濁流が海にそそいで,海を荒らす.

海彦と山彦は,きっと困惑しているにちがいない.

なにを食べてきたのか?

NHK教育テレビが,2011年から「Eテレ」と自称しだして,ぜんぜん教育的でなくなった感があるが,そのNHKが発行している「NHKことばのハンドブック」に「Eテレ」は馴染むのだろうか?とおもってしまう.

もっとも,それをいえば,いまの「テレビ朝日」は,1977年まで「NET(Nippon Educational Television)」と言っていたし,放送免許も教育番組を50パーセント以上、教養番組を30パーセント以上放送するという条件だったから,放送行政そのものもいいかげんなものだ.

まだ「教育テレビ」と言っていた1985年1月に,「教育テレビスペシャル」という大型シリーズ番組で,「人間は何を食べてきたか」という素晴らしく教育的な番組が放送された.
このシリーズは,五本が五日間にわたっての毎日で一気に放送されたから,なかなか全部を制覇できなかった.
ありがたいことに,横浜にある「放送ライブラリー」で,いまでも鑑賞することができる.

このシリーズは,「人類」という意味の「人間」がテーマだから,はなしが壮大である.
それで,自分の生活史レベルになると,まずは「日本」に絞らなければならない.
そこで,ご先祖さまが何を食べてきたか?となれば,すぐに思いつくのは「郷土料理」である.
「伝承写真館 日本の食文化」(農文協:全国12冊シリーズ)がでたのが,2006年だから,すでに暦は一巡している.

それでか,いまみると,写真がずいぶん古くみえる.
写真だけならいいのだが,かんじんの地域の伝統食も「古くなって」,もう再現できなくなっているものもあるかもしれない.

 

それで,もうすこし角度をかえて,地域ごとではなく開国からの歴史でみるとどうなるか?
小菅桂子「近代日本食文化年表」(雄山閣,1997年)というのがある.
続編がでていないから,年表は「1988年」でおわっている.「昭和」でいえば63年まで.つまり,事実上「平成」はない.
その「平成」もおわりがきまった.続編があったらなんと書くのか?
ヒントは,あとがきの「愚痴」にある.

この三十年,あたらしい食文化を形成したのか?といえば,「厳しい」時代だった.
あえていえば,化学調味料と添加物という化学物質による「インスタント」が完成した時代なのかもしれない.
それを,「食文化」といえなくはないだろう.
しかし,ファストフードは当然として,コンビニやスーパー,それに持ち帰り弁当チェーン,スナック菓子,清涼飲料すべてに添加物はあたりまえにはいっているのを,どこまで誇れるものか.

日本料理が世界遺産になったのを自慢するひともいるが,洋食もふくめた関係者の顔は暗い.
幼少時から添加物という刺激物になれてしまった舌は,化学物質による味覚破壊によって,「本物」の「うまみ」を感じなくなる.つまり,鈍感になった子どもがおとなになれば,本物を「本物」だと知識でわかっていても,味覚を感じないのだから美味くない.それで,ほんとうに「遺産」になってしまうのではないか,とおそれている.

もっといえば,「お袋の味」が添加物の味になるということだ.典型はみそ汁である.
すでに,かつおだし風化学調味料が家庭にはいって50年になるし,ダシ入り味噌すら30年の歴史がある.
さいきんは,これらの製品のCMで,「おかあさんの味がする」というブラックジョークまである.

じっさいに,本物の一番ダシとかつおだし風化学調味料を目隠しして味見すればわかる.
わたしをふくめ,おおくのひとが,化学調味料のほうを「本物」と評価してしまうのだ.
これは,和食だけのことではない.
洋食の世界でも,とっくに大手ハンバーガーチェーンのハンバーガーが美味しい,という子どもは30年前からいた.かれらはすでに中年で,中堅以上の幹部になっているだろう.

ファストフード店でみかけるが,年金で孫にやさしい振りをしているのも,いかがなものか?
将来,国が国民の健康問題に介入してくるようになると,ファストフード店にたいして現在の風俗店のように,成長期の子どもや青年だけの入店を禁止するようになるかもしれない.そうなると,おとなが同伴しても,入店させたおとなの知性がうたがわれるようになるだろう.

また,子ども手当の変形で,「食育」をうたって,「本物の店」がつかえるクーポンが配付されるようになるかもしれない.

これはこれで,星新一の「ボッコちゃん」のような世界である.

人間は食べなければ生きていけないが,何を食べてきたか?という問いは,「人生」をも意味する.
ケミカルな食品だからよろこんで食べる,というのは,ありがたい未来とはおもえない.

「甲州印伝」からかんがえる

伝統工芸品には二種類ある.
「伝統『的』工芸品」と『的』がない「伝統工芸品」である.
『的』がある「伝統的工芸品」は,「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」(昭和49年5月25日、法律第57号)に基づいて経済産業大臣により指定された日本の伝統工芸品を指すから,伝統工芸品のなかのエリートということになるはずである.

「はずである」というのは,例によって余計なお世話を役所がしだす可能性があるからである.
(産業)「育成」とかいって,補助金というちょっかいを出すと,補助金がないから育成できない,という論理で関係者を洗脳して,とうとう工程全体を支配してしまうおそれがあるからである.

「売れる」ということが,伝統的工芸品にも最も必要な要素である.
おおくの伝統的工芸品は,生活のためのものだった.
だから,伝統的工芸品だからこそ,現代的な生活センスが要求される.伝統的な生活センスではないところに注意したい.
現代的な生活センスが,グルッとまわって伝統的生活センスに回帰することもあるし,しないこともあるからだ.

山梨県の甲府には,その伝統的工芸品である「印伝」(「印傳」とも書く)が有名だ.
鹿革を材料にした,バッグや財布といった小物類をつくっている.
主流の技法は,「漆付け」と「燻(ふす)べ」の二種類.
「燻べ」は,奈良時代からあったというが,藁と松ヤニの煙でいぶして染めるという,じつに珍しい方法でつくられる.よくぞこんなことを思いついたものである.そのできあがりは繊細にしてみごとな幾何学模様である.

「漆付け」は,別途染め上げた鹿革に,型紙で漆を転写する技法だから,一種の印刷である.
これを400年前からやっている.
型紙は,「伊勢型紙」.その材料となる「紙」は,「美濃和紙」である.
伊勢型紙は,重要無形文化財(人間国宝)の技術をもってできる.
また,美濃和紙は,伝統的工芸品であり,重要無形文化財であり,ユネスコ無形文化財登録である.

つまり,「印伝」は,印伝自体が伝統的工芸品であると同時に,製造のための道具も,「人間国宝」や伝統的工芸品からできている.
だから,美濃和紙ができなくなると,伊勢型紙ができなくなり,それで印伝もつくれなくなるという「連鎖」ができている.

このての手仕事は,世界共通ではあるが,一度途絶えると将来,これを完全復活させるのはほとんど不可能となる.
だから,その「技術の継承」に目線がいきがちである.
これが高じると,「技術の継承」が自己目的化する.売れなくても技術さえ絶えなければよい,という発想だ.役人が陥る上から目線である.

「売れる」にはどうするか?という経営の視線が不可欠なのである.
誰が買うのか?
そのひとは,どんな生活をしているのか?
そこには,どんな価値観があるのか?

おおくの伝統的工芸品には,暗黙の永久保証がついている.
通常使用での不具合なら,たいてい修理が可能なのだ.
たとえ代替わりしていても,職人がいるかぎり,製法が継承されていれば,修理できないことはない.

これが,現代の主流,「使い捨て文化」のアンチテーゼになっている.
そうやって製品をながめると,価格はリーズナブルではないか?
むしろ,「安い」と感じる.

センスのいい伝統的工芸品を使いこなすことができるのか?
あんがい問われているのは,使い手のほうかもしれない.
それほどに,「売れている」伝統的工芸品は,わたしたちの生活に近づいてきている.
人的サービス業界が,もっと注目していい分野だろう.

趣味は「海外旅行」というひとたち

定年退職したので,元気なうちにいろんな国をめぐってみたい.
ロマンにあふれ,また,うらやましくもあるはなしである.

われわれ夫婦は,おもしろそうな国に,初めていくときにはだいたい団体ツアーを利用する.
その国の概要をとりあえず理解できるし,名所・旧跡観光も便利なことこのうえなく,なにより安価であるからだ.物価や治安など,次回に個人旅行が容易かどうか?の下見にしている.
それで,いくつかの国は断念し,いくつかの国は複数回訪問した.

団体ツアーのもう一つの魅力は,一緒に行動するひとびととの交流があることである.
バス一台分の40人が上限であることがおおいから,学校時代の遠足のようなものだ.
それで,帰国後,飲み会をやったこともある.

40人もあつまると,さまざまな個性がある.偶然がつくる集団で,10日あまりをすごすのだが,生まれも育ちも職業も年齢も性別もちがうのに,旅行中の退屈はない.かならずなにかしでかすひとがいて,話題ができるのだ.
それでか,不思議なもので,数日もするとグループ意識ができるから,別の日本人グループと遭遇しても,他人同士なのである.ほとんどお互い口をきかない.挨拶もしない.

観光にあたっては,日本語ができる現地人のガイドがつく.
工夫された資料も配布されることもあるから,ガイドブックを読んでこなくても,そこにある名所のことはわかるようになっている.
だから,わかったつもりになれる,という特徴がある.
それで,数日もすると,どこに行って何を見たのかを忘れてしまう.

夕食時,あるひとが,パスポートの入出国スタンプを見せてくれた.
定年してから,すでに50カ国以上に行ったというが,10年の有効期間は半分もすぎていない.
聞けば,ほとんど毎月ツアーに出かけているという.
半年先のツアーまで,予約済みだというのでおどろいたら,数人のひとが争うように同じことを言いだしたので,さらにおどろいた.

すると,どの国に行った自慢がはじまった.
このはなしを聞いていて,ひとつの共通点に気がついた.
「どの国に行った」ということだけが話題なのだ.そこにどんな人たちがいて,どんな生活や文化があるのかを語ることがない.だから,スタンプがコレクションになる.
世界地図に行ったことがある国を塗りつぶすそうだ.

これには,あきれた.
完全に自己目的化している.
もちろん,本人の趣味なのだから他人がどうこういうはなしではない.
しかし,他人がきいてどう思うか?も欠如しているのだ.
ひたすら,行ったことがある国の数が問題なのである.

別のツアーでも同じだ.
「行ったことがある国の数」自慢はかならずおいでになる.
とうとう三桁のひとがいた.
それでも,本人は「まだ半分をすこし超えた程度です」と謙遜していた.

だれかどの国が一番印象的だったかと質問しないかとおもったら,とうとう聞いたひとがいた.
「うーん,どこもおなじですね」
印象が残っていないのだ.
まさか,イミグレーションのことではあるまい.

ツアーという環境は,出国してもほとんどが日常の延長である.
添乗員さんは献身的なサービスをしてくれし,よしんば日本語ガイドが手配できなくても,添乗員さんの通訳がある.
自由時間は少ないから,ホテルがどんなに好立地でも街中にくりだすことはない.
せいぜい,近隣のコンビニかスーパーでお買い物をする程度だ.

すると,ふつふつと疑問がわいてきた.
残りの国をめざすツアーはあるのだろうか?
「ここからが行くのが大変です」と本人も認めた.

「で,これだけたくさん外国に行かれてなにが楽しみですか?」という適確な質問に,
「たくさん行きすぎて,楽しみというものはとくにないです」
と,予想どおりのこたえだった.

よほど時間とお金に余裕があるのだろう.
うらやましくもあり,もったいなくもあり.
しかし,この客層が国内旅行もしているのだ.
日本の観光地をダメにしているのは,おそらくこの手の客層である.

業界は,いかにして客を育成するか?
という問題に直面している.

数をかぞえたがる習性

日本語の表現はむずかしい.
ことばとして,色の表現だけでも何色あるのだろうか?
大相撲の実況中継を担当していた,杉山アナウンサーが,NHKのバラエティーで,色見本を単語帳のようにして,めくってみては瞬時に「◯色」といえるように自己研鑽しているというのを観たことがある.

相撲まわしの色使いには,古来からの染めがつかわれているから,オリジナルの色を伝えるには,オリジナルの色の名称を言わなければならない.
たとえテレビ放送でも,「きれいな色まわしですね.ご覧ください」とはいえない.「◯色がみごとに引き立つ」とか,さりげなく言うことが「商売」だと.ラジオのばあいは言うまでもない.

語彙力とは関係なく,われわれ日本人と欧米人の言語のちがいで,決定的なことのひとつに「数」がある.
かれらの言語には,「可算名詞」と「不可算名詞」という概念がある.
可算名詞に,単数をしめす「a」があるかないか.複数をしめす「s」があるかないか.
ここまではよいが,さらに,数えられる名詞なのに「a」や「s」がなかったり,数えられない名詞なのに「a」がついたりするから,日本人は大混乱する.

日本語には,これらの概念そのものがないからだ.
そのかわり,おどろくほど緻密かつ繊細な「数え方」がある.
それが一冊の「数え方の辞典」までできてしまうのだから,教養のひとつにもなる.
それで,結構売れたと記憶しているのは,わが家にも一冊あるからである.

勘定すれば,ざっと600も数え方がある.
箪笥は「棹」で数えるが,箪笥(たんす)も棹(さお)もすっかり日常生活でみなくなったから,死語にちかい.
しかし,由緒ある歴史的なたてもので,箪笥をいくつか目にしたときに,「立派な物入れが何個もある」と言ったら,たしかに教養が疑われそうだ.

言葉は生活と密着している,という「あたりまえ」にもどる.
だから,歴史と切り離せない.
われわれの生活とて,時代や時間をしっかり引きずっているから,それが言葉にものこる.
「CD」しか売っていなくても,「レコード屋」と言うし,携帯のデジカメで写真を撮るときには,「シャッターを切る」と言っている.
意識して,こんな言葉をあつめると,「生活」が浮かび上がってくる.

すると,あんがい鎖国しているのがわかる.
外国人の発想を,「かんがえたこともない」のに,近代的文明生活を日々送っているのだ.
これは,「日本中心主義」である.

数え方が600ある,といったら,ふつうの外国人は「まったく合理的でない」とおもうだろう.
アルファベット26文字で困らないひとたちが,48文字の五十音図をみれば,ひらがなとカタカナで倍化し,これに2010年に告示された常用漢字で2136字/4388音訓(2352音読み・2036訓読み)がある日本語は,聞いただけで途方に暮れるはずだ.

漢字の形状を覚えるのも難儀だが,音読みと訓読みのちがいと,どんなときに音読みでどんなときに訓読みになるのかさえ,「重箱読み」というミックスの読み方があるから,「文脈から」という説明になって,相手を絶望させる.

むかし会社で同僚だったニュージーランド人は,一番むずかしいのは「カタカナ」だと言っていた.英語を基調とした外来語が書いてあるはず,とおもえば,「あっぷる」と書いてあったりして,さっぱりわからないらしい.もちろん,「アップル」でさえ,「Apple」の発音から読みとるのは来日したはじめには困難だったという.

ところが,日本に生まれ住んでいると,アルファベット26文字の言語がさっぱりわからない.
とある外国人は,日本人は日本語という言語の習得にとてつもない労力を使い果たしてしまって,おとなになったときにはすでに学習能力を使い切っているのではないか?と評したと聞く.

かくほどに「ちがう」ということは,相手の立場にたってかんがえれば,われわれが外国の言語も含む文化・歴史背景をよく調べなければならない.
とくに,日本文化に惹かれてやってくる高単価層の外国人客を納得させるには,「比較」できるようなうまい説明がないとわからないだろう.それを,「日本文化のオリジナルです」という自慢だけでは,ナルシストの自己満足にしかならない.
だから,観光庁のアンケートで「退屈な日本」という結果になったのだろう.わかりやすいはなしだ.

国際観光産業というなら,入門として小泉八雲の背景も理解したい.
彼は,なぜ「八雲」を名乗ったのだろうか?
数をかぞえたがる日本人の習性に,どこまで気づいていたのか?
気になるではないか?

ノブレス・オブリージュ

「貴族」はさまざまな特権をもっているが,一方で,それに見合ったあるいはそれ以上の「義務」をみずからに「強制」するという面をもっている.
たとえば,一朝ことあるときには,すすんでみずからの命を差し出す,ということである.

そういえば,韓ドラの人気時代劇のひとつ「チャン・ヒビン」のセリフに,「身分が低くて卑しい者ほど,命を惜しむ」という名言があった.いまのおおくの日本人に「痛い」ことばだ.あるいは,現代日本への皮肉をいったのかもしれないとうたがう.よくとらえれば,台湾人がいうように,むかしの日本人は立派だった,という意味にもきこえる.

実際に,フォークランド紛争時にチャールズ皇太子の弟アンドルー王子(現ヨーク公)が海軍ヘリコプター操縦士として従軍し,決死のエグゾセミサイルのおとり標的任務にもついている.
英政府は王子の紛争地派遣や派遣後も敵の攻撃対象になりやすい空母勤務を避けるよう軍に働きかけたが,母堂のエリザベス女王の許可によって最前線勤務を果たしている.
帰任時には,女王夫妻も兵卒の家族と一緒に港に出迎えたという.
この気概である.

わが国では,憲法14条2項に「華族その他の貴族の制度は,これを認めない」とあるから,憲法が有効になると同時に,貴族は消滅した.
制度として消滅しても,精神は残るもの,とは,「武士」にはいわれるが,「貴族」にはいわれないのもわが国の特徴である.貴族の構成要素の一つが「武士階級」だった.

現代のわが国における「貴族」は,公務員と労組幹部をさすことがある.
大組織,しかも公務員の労組は,その傾向がさらに強まるかもしれない.
日教組委員長の不始末は,記憶にあたらしいところである.

ところが,企業経営者というひとたちの一部が「貴族化」してるのに,これをあまり話題にしない.
さいきんでは,元社長や会長が「顧問」に就任することが,すこし批判の対象になったくらいだろう.しかも,ネタのおおくは「週刊誌」が頼りなのだ.

ここで,ひとへの妬みや憎悪をあおるつもりは毛頭ない.
なにもしないのに高級車で送迎されて,家ではありえないほどちやほやされれば,だれだって「顧問」でいられるのは快適だろう.しかも,高額の「報酬」すらいただける.
これを,過去への恩返し,というなら,現役の社長だったときの報酬には,将来分の積立部分があったのだろうか?

なんのための「会社決算」かといえば,「会計年度」という制度での運用になっているから,基本的には,その期間ごとに精算している.
この原則をしらないで,会社トップをやっているひとはいないから,「顧問」になったとたんに忘れたわけではあるまい.

もちろん,「経営」というものの本質をかんがえれば,ドラッカーが指摘するように,「会計年度」というものは,残念な制度であるし,「会社決算」のあやうさはいうまでもない.
これらを現実と分裂させていうのではなく,現実に「決算」や「納税」はやらなくてはならないものとして,ドラッカーの主張をうけとめる必要があるのだといいたい.

だから,なにもしないのに,ということばがつくと,現代の「貴族」になるのだ.
しかし,そこに,果たすべき義務もなくなると,これは「貴族」でもない.
ただ,「あそんで暮らしているひと」になるだけである.
「偉いひと」とは,「えらい目にあうひと」なのだ.

深刻なのは,引退したら「あそんで暮らすひと」になる,のではなくて,「現役」なのに,なにもしないで報酬を得るひとたちがいることである.
このタイプのひとたちは,「その場の気分」や「その場の空気」だけでふわふわと生きている.

だから,勉強も大嫌いなので「読書」すらしない.
そんな上司やトップを,部下はけっして尊敬しない.
入社してすぐに会社を辞めてしまう若者の一部に,尊敬できない,という理由もあるはずだが,おおくは辞める側の問題にされる不思議がある.

この国では,貴族は禁止されたが,勉強や努力を重ねてその道の一流となると,「文化功労者」に選ばれるという制度がある.「文化功労者」には,国家からの「終身年金」がつく.(金額は調べるとよい)
憲法14条3項は,「栄誉,勲章その他の栄典の授与は,いかなる特権も伴はない.栄誉の授与は,現にこれを有し,又は将来これを受ける者の一代に限り,その効力を有する」とあって,前段と矛盾する.

文化功労者から文化勲章受章者を選ぶので,はなしはさらにふくらむ.
文化功労者ではないひとが,ノーベル賞をもらうと,すぐに文化勲章をいただけるようになっている.ノーベル賞には,日本の制度への破壊力がある.
文化勲章は文化功労者と等しいから,終身年金の問題を解決しなければならなくなる.
だから,ほんとうは,ノーベル賞をもらいそうなひとをあらかじめ文化功労者にしておかないと,政府(役人)としては憲法解釈で恥をかく.
なのに,文化功労者ではないおおくの学者がノーベル賞をもらってしまう.文化功労者の選定と,ノーベル賞の選定で,どこか違った価値基準があるのだろう.

官界,労働界,財界につづいて,学会にも,なんにもしないであそんで暮らすひとの臭いがする.
それに,「憲法」の議論が「9条」ばかりということにも,異臭がしてならない.

それにしても,国家は憲法違反を念入りにおこなうものだ,ということを国民はしっておいたほうがいい.
現実として,わたしたちは,そういう国,そういう世界に住んでる.

ユニバーサル・デザイン

からだの不自由なひとが楽につかえるなら,健常者にとってはもっと楽につかえるように工夫されたデザインでつくるものをいう.
簡単そうだが奥が深い.
「楽で便利だ」ということはなにか?を追求しなければならないからだ.

たとえば,街のなかにはさまざまな「標識」が設置されている.
なかでも,「交通標識」は事故防止という観点からも重要な役割があるし,「方向表示」では,目的地や自分のいる場所をおしえてくれる.
基本的な標識のおおくが国際的にも共通だから,外国人でも,われわれが外国に行っても,意味を理解して行動できる.

おなじように,建物の中の避難口の案内や,はたまたトイレの案内などの表示も,国際的に似ているから,これもとまどうことがすくない.
つまり,「公共の場」はそれなりに「ユニバーサル・デザイン」が普及している.

じっさいにユニバーサル・デザインをかんがえるには,さまざまな制約をもうけて「体験する」という方法がとられる.
その制約とは,視覚,聴覚,触覚,味覚,嗅覚といった「五感」にたいしてである.
なかでも,視覚,聴覚,触覚のそれぞれについては,視野を狭めたり疑似白内障になるためのゴーグル,聴覚を遮断するイヤーマフ,触覚を鈍感にさせる手袋などをつかって実験をくりかえす.
さらに,車椅子の利用などもくわえての研究となるから,大がかりになる.

ちなみに,日本のものづくりにおいてのユニバーサル・デザイン研究では,東芝がリーディングカンパニーだった.
医学的所見や人間工学といった分野の学際的研究を,製品作りのデザインに落とし込むことができるのは,大資本ならではのことだからだ.

「多機能」だがつかわない機能にまでコストを負担させられる,という意味での高単価戦略は,日本製品の魅力をかえってそこなったのではないか?「単機能」だが安い,というアジア製との競争に,負けてしまった.
「単機能」のようにみえるが,そこに「すごいノウ・ハウ」がある,という合理性をもとめられているのに,である.

これは「ニッチ」ではない.
たとえば,「バルミューダ」というあたらしい電機メーカーが打ち出す商品の需要の高さが証明している.需要だけでなく,「憧れ」という地位までもあるのが特徴だろう.
大手家電メーカーの製品に,はたしていま「憧れ」がどこまであるのか?

メーカーの世界では,自社製品にどんな「価値」をもたせるのか?が決定的に重要なテーマになっている.
世界史的・人類史的な意味で「超高齢化」し,「急激な人口減少」が予想されているのは,なにも日本だけではない.

さいきん,「一人っ子政策」を中止した中国とて,なぜ廃止したのかをかんがえれば簡単で,巨大な人口が「超高齢化」するのが確実だからである.
「少子」という意味で,わが国より深刻な特殊出生率の低さをたたきだしているのは,韓国と台湾である.
奇しくも,かつての大日本帝国は,おそるべきスピードで人口が消滅の危機をむかえている.

つまり,東アジアという地域全体で,ユニバーサル・デザインが要求される時代になっているのだが,日本企業は鈍感にすぎないか?

これは,観光関連も同様である.
だれにとって,なにがどう便利なのか?という問詰めができていない.
ようするに,哲学軽視ということだ.
それは,「マーケティング」に対しての薄くて軽い理解の証明でもある.