以下の話題がバラバラだが連続してはいってきた.
1.希望する高齢者が70歳まで働けるよう、現行65歳までの雇用継続の義務付け年齢を見直す方向で、高年齢者雇用安定法を改正するという.
2.また,地方自治体で,非正規職員の比率が財政難で上昇していて,50%をこえる自治体も相当数(九州では10市町)ある.
3.さらに,福井県9市町で「総合行政情報システム」が,システム障害をおこし,管理しているシステム会社に「契約違反」として,50万円の損害賠償をもとめるそうだ.
これら一連のはなしには,かんがえない,という思考停止の「奴隷化」という共通項が「譜系」になってみえてくる.
「働き方」の話題で,切っても切れないのが,「労働市場」というもののかんがえ方である.
欧米的な労働市場が「ない」ということを,このブログでくりかえし指摘した.
わが国の専門家はなぜか,「労働市場の流動化」がもっと必要だというが,そもそも「労働市場」が「ない」のだから,「流動化」もなにもない.
労働者は自分の「労働」という「行為」を売っている.
「行為」だから,「人格」ではない.もし,「人格」も含めてしまったら,それは「人身売買」になってしまう.
だから,「労働」とは労働者にとって「商品」なのである.
「商品」には,ふつう「スペック」がある.
この「スペック」が労働のばあいふつうの商品とちがうのは,みがけばみがくほど価値が上がるという性質があることだ.
自分でみがく場合と,雇用主がみがく場合と,両者でみがく場合がある.
いずれにしても,「労働」は商品価値が「成長する」という特性をもっている.
だから,価格が上昇傾向で変動する可能性がたかい.
物質的商品は,物質だから自分の意志がないので,需要と供給によってのみ価格がきまる.
「労働」という商品には,労働者の意志があるので,「成長分」についての「相場感」があって,需要と供給によって価格がきまるものの,交渉で折り合いをつけるのである.
この「価格がきまる」過程を,ふつう「市場(しじょう)」と呼んでいる.
物質的な商品であれば,たんに「商品市場」といい,労働という商品であれば「労働市場」という.
わが国に「ない」,といったのは,このような意味でのはなしである.
静岡県御殿場市にある,大規模観光施設の創業者は,
「雇用延長でも,給料はおなじ.だって,仕事がおなじで,おなじようにやってくれれば,おなじじゃないとおかしい」と言いきっている.
ちゃんと「労働市場」があるひとの発言である.
この発言が,「珍しい」のがおおかたの「常識」だから,わが国の企業組織は「労働」を理解しているか?が怪しい.
つまり,「本当は『定年退職』したから,継続して雇ってやるなら年収で半額でも多いぐらいだ」という発想には,「労働市場」の原理がどこにもないということだ.
これには,当然,「現役」の給料にも「労働市場」がないことを意味する.
雇われる側の「労働者」も,自分の給料の価値が自分の労働の価値と一致している,という感覚は皆無だろう.
これには,戦後の「生活給」という日本独自のかんがえ方が,いまも生きているからだ.
「年功序列」や「終身雇用」が日本的経営といわれてきたけど,もっとも重要で基礎になるのが,給料は「生活給」である,という概念だ.
ひとり暮らしの若者の給料は,生活にそんなに費用がかからないから安くていい.
でも,結婚したら,奥さんの生活分をどうする?子どもができたら,その分の教育費もどうする?
これが,年功序列の原点だ.
「終身雇用」は,寿命がみじかかったらで,年齢によって強制退職させられるという理不尽に,あんがい誰も不満がない.
「退職金」という「生活給」によって,その後の人生も支えられてきたからだ.
だから,転職は不利になる.退職金の計算根拠「勤務年数」がリセットされる.
日本企業と外資系が,相も変わらず「分類」されるのは,外資系に「生活給」という概念がないからだ.
外資系の賃金体系は,「労働市場」を原則とする.
日本に「労働市場」がない,というのは「日本企業」のことを指す.
改めて本稿冒頭の3点をみてみよう.
1.の雇用延長をたんに「延長」するだけ,だから,自分の価値とはことなる労働条件を強いられる理不尽も「延長」されてしまうし,収入がふえると社会保障負担額もふえるから,踏んだり蹴ったりになる可能性がある.
2.自治体の非正規雇用の実態は,「身分」と連結している.かんたんにいえば,正規職員はとにかく働かない.非正規職員に押しつければ,業務は遂行されるからだ.
ならば,正規職員を廃止してしまえばよい.「その程度」の業務レベルと業務量なのだ.
AI時代の職業予想で,公務員がいらなくなるのとおなじ理屈である.
3.上記2に関連して,直雇いなら2のとおり.これに「業務委託」が加わったのが3である.
ようは,丸投げなのであって,ふだん「委託」した業者には無関心なのだが,役人に不都合が生じると,相手のせいにする技術に長けているというだけのことだ.
この前提は,「指定業者」になりたいのが世の中にたくさんいるから,だめなら別の業者に指定をかえればよい,という安易さがみてとれる.
人口減少時代,地元でそんな都合のよい会社がいつまでもあるのだろうか?
役所もいれた日本企業の奴隷になりたくなかったら,どうすればよいか?
自分でかんがえなくていけない時代になっている.
労働側にも,「生活給」を棄てるための研究が必要だろう.