知的伝統

内容をよくしらないのに外からけなす「外在的批判」と,知的伝統からでるべくしてでた「内在的批判」がある.
さいきん想いを強くするのは,無責任ともいえる外在的批判がおおく,内在的批判を聞かなくなっていることだ.
これは,知的劣化ではないか?

わが国の知的伝統としては,儒教,なかでも朱子学があった.
江戸幕府は,幕府の権威すなわち幕藩体制維持のために,とくに朱子学を各藩にも奨励したから,支配者を支える論として,朱子学は幕末まで生きのこった.

このなかの最大学派が,「崎門学」(山崎闇斎創始)という.
朱子の言葉の解釈を中心におくから,どうしても受身的(パッシブ)な学派であるが,あんがいわが国の学校教育における「スタイル」は,こちらの伝統にあるのではないか.

一方,おなじ儒教からでた「陽明学」は,幕末になってさかんになる.
革命的な「回天の思想」ともいわれ,ひとをその気にさせる哲学を学ぶから,アクティブなのだ.
明治維新を経て,新政府の骨格をなした人物のおおくが松下村塾の門下にあったのは,若くして松陰先生の陽明学にその気にさせられたからである.

残念ながら,わが国の「列強に対抗する」という時代の要請から,これらの知的伝統が途絶えてしまった.
不思議なことに,その欧米列強に対抗できたのは,知的伝統教育を受けた人材が健在な時間でのことだったのに.
つまり,知的伝統の全部が否定されるものではなかった.

いま,これをなんとか復活させようにも,文科省のさだめる「学制」にしたがわないと,もはや「私学校の設立」もままならないのは,「モリカケ問題」に見るとおりである.
それで,わが国には国の統制から自由な教育機関が「受験予備校」をのぞいて消滅したのである.
ただし,「予備校」には「卒業資格」があたえられないから,「学歴」にはならない.

「学歴」がほしくてか,そのなかの有名予備校がわざわざ文科省傘下の大学を創設したが,そうではなく,受験予備校というスタイルのままで,学制にとらわれない「塾」をつくれば,あんがい先進的企業に受け入れられたかもしれない.

「稼ぐための知力教育」に特化すれば,文科行政にがんじがらめの既存大学に十分対抗できるだろうから,生徒が減る少子化対策として,予備校が取り得る多角化戦略のひとつではないか?
どうしても「卒業資格がほしい」なら,外国の大学の「予科」としてもいい.

欧米の伝統的「知のシステム」は,「真理」をめざす.
唯一の「真理」という発想は,刑事裁判でも重要なキーワードである.
人間は,いつか「真理」を手にすることができる.
こうして,科学も発達した.

ところが,「真理」だと信じたものが,じつは「制度」にすぎず,唯一の真理など存在しない,と批判するひとたちがあらわれた.
これを「構造主義」という.

構造主義の破壊力はすさまじかった.
歴史は進歩するとした,マルクス主義の基礎をなす歴史主義も,20世紀に華々しかった実存主義も破壊した.当然に,マルクス主義自体も構造主義による論破の対象だった.

ソ連東欧の社会主義が崩壊したからマルクス主義がだめなのではなく,とっくに論破もされているからだめなのだ.
もはや欧米でマルクス主義が見向きもされないのは,あんがい日本では識られていないこうした事情がある.

これを身近にたとえれば,ユークリッド幾何学がある.
古代ギリシャ人が考えつくしたとされ,ニュートンが物理学に応用したとして「やっぱりすごい」と思われたつかの間,アインシュタインによってあっさり書き換えられ,そのアインシュタインも,量子論には歯が立たなかった.

ユークリッドがいう平行線は,絵画の遠近法でも崩れ去った.
平行線はけっして交わらないはずの「真理」があるのに,平行線が一点で交わるのが遠近法だからだ.ルネサンスの時代,精密な遠近法の絵画がさかんに描かれた背景に,ユークリッド以前に帰るというあたらしさがあったのである.

ところが,遠近法が常識の「真理」になったはずなのに,そこから数学的に位相展開すれば,四角も三角も円も,みんな一本の線を閉じて書くものとなってしまう.
それで,ピカソのシュールレアリスムが生まれた.じつは,ピカソの絵は数学的なのだ.
こんどは,シュールレアリスムが「真理」になればと,どんどん変化して,結局のところ唯一の「真理」は存在するのか?いや,存在しないになったのだ.

つまり,そのとき「真理」とおもわれたものが,あるルールでの「制度」にすぎないことを意味した.
これがどれほどの知的衝撃をヨーロッパ人にあたえたか?
しかも,このできごとはほとんど現代でのことである.

こんな発想は,日本の知的伝統にはない.
しかし,ヨーロッパ思想にみられるローカルと決めつけることもできない.
もっといえば,おなじ時代にくらすわたしたちが,想像もできない知的ショックをヨーロッパ人は経験済みなのである.

「知的伝統」について,もっとリスペクトと理解が必要だろう.
そういう人々が,高単価な旅行客として日本を訪問しているのだ.
「人数」しか興味のない観光を管轄する役所が,観光業界になんの恩恵もない存在であることの証左でもある.

業界人は,人間の研究がなくてはならない.

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