クラッシック音楽の世界では、ブラームスこそ一音一音を大切にした作曲家である、と評されることがあった。
発表済みの曲を、なんども手直ししたことがふつうにあったからだろうが,「鳴る音」と「鳴らない音」を彼は区別する、というはなしに感心したものだ。
鳴らない音を選び出す。
彼の手直しとは、そういう作業だったという。
ブラームスといえば、「重厚長大」なドイツ音楽の代名詞で、宿命のライバルはワーグナーだった。
まさに「重厚にして長大なる音楽」の競合だったのだ。
むかし、十代で読むべき図書として、フランソワーズ・サガンの『ブラームスはお好き』があった。
日本人の十代にはちょっと早すぎた感があるし、当時の時代としてもかなり早っかったかもしれない。
ませた中学の同級生の女の子が読んでいた。
ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を十代で読みそこなうと、もうチャンスはないだろうが、いまなら、サガンを男性管理職が読んでいいのかもしれない。
日本人の洋風化は、なにも食文化だけではない。
英米に対するアンチテーゼとしてのフランスは、どうにも遠い国である。
バタ臭いフレンチに「食傷気味」になったら、消化剤として小津映画を観れば、ポップな現代日本はどこからきたのか?と、かんがえることになる。
その「かんがえること」が、解毒剤だ。
日本で、ドイツ音楽がクラッシックの中心にあるのは、輸入した「いきさつ」からだ。
フランスの音楽や、イタリア音楽がほとんど紹介されていないから、その他は推して知るべしで、ヨーロッパの多様性について、われわれは無頓着なことがある。
そのフランスで、大規模デモが暴動化し、マクロン政権を窮地においこんでいる。
歴史上まさかの相棒になったドイツでも、メルケル首相の任期がきまって、EUを引っぱった独仏が、フラフラしはじめた。
ヨーロッパ中央銀行が、ヨーロッパの多様性を無視したところに原因があるが、その銀行の統制を強化したのが独仏だったから、これを嫌った英国が離脱する。
ウクライナにちょっかいをだすロシアと、迷走のトルコが、東ヨーロッパに、むかしの緊張をつくっている。
かつてスターリンに好きにされた東ヨーロッパは、プーチンをスターリンの再来とおそれている。
ブルガリアの首都、ソフィアの空港は、半分がルフトハンザ、半分がターキッシュ・エアーのターミナルになっていて、まるで「てんびん」のようなバランスがみてとれる。
オスマントルコの残虐と、ナチスドイツの残虐に、ソ連圏の悲惨が3重唱をかなでる地域であった。
自国、ブルガリア航空の飛行機すら、身を縮めているようだ。
ことしは第一次大戦終結100年の式典まであったが、生活感からも、バルカン半島のぐちゃぐちゃは、よくぞソ連が力でまとめた、ということか、隣国同士はあいかわらず親密ではない。
この複雑なヨーロッパのなかで、いまでも「ロマ」(かつて「ジプシー」と呼ばれた)のひとたちが暮らしている。
これに難民と移民がくわわって、なんだかわからなくなった。
ふだんは「反グローバル」なのに、「ふつうの国になりたい」とおもったのか、すでに問題が顕在化していることを無視して、わが国も「正式」に移民を受け入れることに決めた。
独身で十年したら帰国させるから、移民ではない、という詭弁をいってはばからないのは、かつての高貴な日本人ではなくなった証拠である。
ほんとうに「帰れ」とやったら、移民の外国人たちが大規模デモを繰り広げるにちがいなく、特定の「本国」は、「奴隷化」していると反日キャンペーンをこれみよがしに大宣伝するだろう。
アメリカ南北戦争で、奴隷労働をさきにやめた北部が、経済力で南部を圧倒したのは、高い賃金の労働力にみあった価値を生み出す努力をしたからだ。
わが国は卑しい国柄になって、安い賃金でしか生き残れない経済を、なんとか維持しようと努力する国になってしまった。
目標が小さすぎるのではなくて、目的とする方向がまちがっている。
ついでに、安倍政権に反対する元全共闘世代のひとたちも、あいかわらず批判する方向がまちがっているから、結局は政権を擁護する役をはたしている。
まさに「55年体制」を変えられないでいるから、若者は愚か者たちと評価し尊敬しないのだ。
団塊世代がいなくなって、選挙で老人優先をいわなくてよくなれば、「敬老の日」が廃止になるのではないかとおもうが、原因はこうしたことだ。
このひとたちは、じぶんがいなくなった世界のことに責任をもつかんがえを微塵ももっておらず、とにかくじぶんさえよければそれでいいのである。
ヨーロッパでは、恐怖のロシア(おそろしあ)がいるから、EUよりも頼りはNATOである。
日本周辺の国々が、へんな行動をいろいろするから、かえって日米同盟が強固になるのに似ている。なぜかロシアは日本周辺であばれていない。
北半球の北極を中心にした地図が日常遣いならいいのだが、そんなものはめったにないから「地球儀」をみてかんがえるのがもっともよい。
話題のおおい国と、そうでない国を区別してみるようにすると、情報のバラツキもみえてくるだろう。
多様な場所に多様なひとたちが生きていることがわかればよい。
そうかんがえると、日本はちいさい国だとおもったらぜんぜんちがう。
ずいぶん前に話題になった世界地図のサイト は、やはり有用だ。
これで、日本列島をドラッグしてさまざまな場所に移動させれば、ただしい縮尺で日本のおおきさがわかる。
ヨーロッパ大陸に移動させると、じつは日本列島はばかでかい。
残念なのは、経済水域の表示機能がないことだ。
わが国は、海をふくめると世界6位の面積の国になる。
このあんがい大きな面積の島に、1億人をこえる人間がすんでいる。
あたりまえだが、この瞬間瞬間を、1億とおりの人生の時間がすぎているのだ。
生まれてこの方、このことをちゃんと意識しない幸福なひとが高級役人にたくさんいる。
小説以上に複雑な人生は、現実にはいくらでもあるのにだ。
その高級役人のやりたいことを、審議会というなかば買収された「学識経験者」がアリバイづくりに加担して、多方面から検討したことにする。
このパターンをかんがえだした役人は、かなり優秀だ。
そして、法律の下位にある施行令や施行規則、それに省令など、国会の承認を要しない命令がたくさんあって、「通達」という書類でも命令できるようになっている。
国会議員の数がおおければ民主主義が機能するというのは間違いである。
議員活動を支援する、国会職員の職務がないことが、行政側の役人天国をつくっている。
おどろくことに、国会事務局の専門的な職務には、行政官である官僚が各省庁から国会に「出向」しているから、「お里」に忠実な立法府になっている。
つまり、立法府の機能不全は、議員の質だけではなく、事務局にもおよんでいるのだ。
なるほど、分立しているはずの立法府と行政府だが、優秀な学生が国会職員になったというはなしを寡聞にして聴かない。
「国家公務員」といういいかたをやめて、「国家行政府職員」とすれば、「国会職員」とちゃんと区別できる。
国会側も「立法府職員」として「衆議院事務局」「参議院事務局」としたほうがいい。
裁判所は、とっくに「裁判所職員」とか「裁判所事務官」といって「お里」を特定している。
来年の参議院選挙で、だれかいわないものか?
消費税が3%から5%になる前に、適用する基準売上高を役人の通達でかってに「下げた」。
事実上の「大増税」であったが、あれだけ「反対」した当時の野党は、無反応というおどろくべき「なにもしない」をやりとげた。
ブラームスの意図的な「無音」は、意志の表明であることがわかる事例だ。
これは、マスコミ大新聞もおなじである。
新聞社は消費税の適用除外という特権をあたえられているから、本気でお国にさからえない。
日本の大新聞社は、特権的に国有地の払い下げをうけているのに、大阪の小学校は「不審」としつこく言い張るのは、じぶんたちのことを隠蔽しようという活動ではないのか?
まことに世の中は複雑である。
これを単純化するのは学問ではゆるされても、政策ではこまる。
来年のイベントカレンダーはもうできている。
これが、「ニュースになる」ので、新聞がおもしろくない。
フランス革命では、フランス人は「フリジア帽」という赤い帽子をかぶっていた。
ドラクロワが「自由の女神」(マリアンヌ)を描いた絵画が有名だ。
いまのデモ隊は、「イエローベスト」を着ている。
フリジア帽もイエローベストも、日本では入手困難である。
どちらか流行にならないかと期待しているのだが。
さてさて、さまざまなひとのさまざまな大晦日が、全員にきっちりあたえられて、確実にあしたは新年になる。
ことしもお疲れさまでした。