漁業法改正に期待していいか?

日本旅館の食事といえば「魚料理」が第一にあがるから,このブログでも「魚」にまつわるはなしは書いてきた.
当然,魚は田畑で育てる農産品とちがって,海を中心にひとが獲りに行かなければならないから,「漁業」がなければ食べることができない.

もちろん,「養殖」という田畑とおなじ発想の漁業もあるが,本物の農業との根本的なちがいは,「タネ」にあたる「魚卵」の確保よりも「稚魚」のほうにあることだ.
たとえば,成魚が高額なうなぎの養殖に必要なのは,「稚魚」であって「魚卵」ではない.
「魚卵」から「稚魚」にする技術が確立されていないからだ.
マグロについては,ようやくさいきん,「魚卵」からの「完全養殖」が可能になった.

いま開会中の臨時国会で,先日,70年ぶりの改正となった漁業法改正案が衆議院を通過した.
この改正の柱は三本あって,一つは「漁業権」,もう一つは「漁獲量割当」,そして,「密漁取り締まり」であると報道されている.
わたしは,日本の漁業を北欧型に近づけるもの,とかんがんえる.

約半世紀前,北欧で起きた漁業改革は,「アンチ日本式漁業」だったことは本稿冒頭のリンク記事に書いた.
いまもつづくわが国の「日本式漁業」は,そこにいる魚を獲りつくすという意味での「略奪式」をやっているということだ.

「魚類の資源保護」という観点は,そのへんにある「環境問題」とちがって,すでに「いない」という事実があることからの認識がひつようだ.
ポーランドで12月2日から開会した,COP24のように,地球は温暖化なのか寒冷化なのかわからない状態での二酸化炭素削減の議論とはぜんぜんちがう.

とくに,わが国沿岸における「不漁」は,獲れないという意味の下に,獲りつくしたから,がある.
すると,ここに「需要と供給」という経済の大原則があらわれて,供給がないのに需要があるばあいに発生する「価格の高騰」がおきる.これが「密漁」の行動原因になる.

ずいぶん前の昭和時代に専門家が書いた本にも,地元の有力者である一部の漁協の組合長が,じつは独占的に密漁をしていて,「有力者」ゆえになかなか摘発にいたらないという実態の指摘を読んだことがある.

ことしの10月にでた,鈴木智彦『サカナとヤクザ』(小学館)は,そうした事情に切り込んだ,すさまじきルポである.
これを読むと,魚を食すること=反社会的勢力にお金を提供すること,になるから,わが国漁業をどうするか?はきれい事をこえている.

いまの臨時国会の衆議院できまった「漁業法改正案」は,この本の出版の「後」になる.
法案に反対する立憲民主党ら野党は,来年の選挙を見据えて,前回「農協」に媚びて勝った味がわすれられないと,こんどは「漁協」にこびへつらう方針だというから,どうしようもない恥の上塗りである.

その漁協のトップがあやしいという,この本を読んでいない,という意味でのまったくの勉強不足.それに,農協の構成員と漁協の構成員の人数のちがいも勘定できないらしい.
わが国に,漁民は15万人しかいないのだ.市町村議会選挙では勝てるが,国会は困難だ.
『サカナとヤクザ』の読書体験をしたひとには,「漁協」へ媚びた政策は,反社会的勢力に媚びるのとおなじにうつるだろう.

一方,与党はというと,賛成だから問題ない,ということではない.
北欧型漁業が成功した要として知られているのは,「資源」の科学的「把握」にある.
その数字をもとに,漁民各人に漁獲量を割り当てる,のである.
北欧の漁民が,この割り当てをめぐって争ったのも,有名なエピソードだが,「科学」という根拠でいまのように落ち着いた.

衆議院の審議で,割り当てについての質問に農林水産大臣が明確に返答できなかっただけでなく,都道府県に振ってしまったのは,わが国において「資源」の科学的「把握」ができていない,からである.
つまり,おおきな穴が空いている法案なのだ.

北欧では,消費者も「資源」の科学的「把握」の重要性を認識した.
それで,この把握に政治的判断など人間の恣意的な感情すら関与させないために,研究機関の完全民営と,その維持費の負担を消費者が承知したというプロセスがあった.

自主独立の精神の発揮である.
だから,最終的に漁民の漁獲量割当にかんする争いも落ち着いたのだ.
なぜなら,消費者の批判を漁民があびて,それに屈するしかなかったからだ.
中立の研究機関の把握結果を,消費者が全面的に支持したから,漁民も文句をいえなくなった.

しかし,わが国では,農林水産省の100%予算の支配下にある「研究所」が,「資源」の科学的「把握」をしていることになっていて,それが「エセ科学」であると,外国の専門機関による指摘をたっぷりされているし,そうした批判の政治的かつ恣意的な数字の発表は,それこそ昭和時代からある.こんな批判を国際的に受けていると,消費者である国民がしらされていない.

つまり,法で解決すべき問題は,中立な「資源」の科学的「把握」のため,政府からすら独立した機関の立ち位置を保障することである.
しかし,これを支える,消費者という日本国民が,自主独立の精神を発揮しなくてはならないことは,法律では解決できない.

これぞ,政治家が訴えるべきことだが,そんな勇気ある政治家が与党にもいない.
けれども,政治家にそうさせているのもわれわれ国民なのだ.

「しらなかった」ではすまされないことがある.

ホースの巻き取りとハイビーム

師走に突入して,そろそろ大掃除のシーズンである.
わたしの住む集合住宅では,自治会総出による共用部の清掃という行事がある.
半年に一回,住民みんなで掃除をする.
ついでに,来年度の自治会役員候補の選出もするから,欠席裁判がいやなら参加する必要もある.

ここでみられる光景は,だれも指示するひとがいないから,人員のムダな動きと配置である.
各自おもいおもいに敷地内に散って,適当なエリアを担当することになる.
それで,しっかり手を動かすひとと,口ばかりが動くひとにわかれる.

しかし,直前に造園業者がはいって手入れした場所にも入り込むから,作業する意味が不明な場所もある.
そんなわけで,ムダに手間をかけるのもよしとされるのは,烏合の衆ならではでもある.
どのエリアを,誰がどうやって担当するかが事前情報として与えられないと,こうなる,わけだ.

水まき用のホースの片づけにみられる光景は,もっと愉快だ.
10mほどあるホースを器具に巻き取るのだが,かならず先端を持つものがいる.
ホース内部に水が残ると,保管倉庫にまで持っていくのにも重くなるが,倉庫で半年間の眠りにつくのだから,なかで水が腐ってホース内側を痛める.

だから,収納するときには内部の排水をしながら巻き取るのが,一般常識であろう.
ところが,手持ち無沙汰のひとが,なにかをしているふりをしようとして,余計な行動をする.
ホースの水を抜くための先端を,わざわざ持ち上げるのだ.
どうしたことか,中の水を巻き取られる側に追いやるのだ.

冗談かというとそうではなくて,本人はいたってまじめである.
それでも,巻き取っているひとは無言で,二度三度と手間をかけて水を出している.
すると,またまた別のひとたちがやってきて,何カ所もホースを持って,しかも高く,それで手伝っているとおもっている.

もしこれが夫婦のことなら,どちらかが一方をどなりつけるところだろうが,他人に優しい日本人はムダな手間を惜しまない根気ももっている.

水は高いところから低いところへ流れる.

この重力をもとにした大原則をしってか知らずか,おとながこぞってホースを持ち上げるのは,一体何故なのだろうか?
しかも,半年に一回のことで,かならず繰り返される光景だから,そもそも疑問におもっていないのだろう.

これを「無知」と断言していいのだろうか?
それともなんなのか?
透明なホースで,水のありかが見えればよいのか?ならば想像できないのか?
とにかく毎回,かならずお約束のこの光景を見るたびに,わたしの疑問も復活するのだ.

さいきんは,神奈川県公安委員会が,運転免許証の更新講習で,自動車のヘッドライトのハイビーム利用をさかんに指導している.
もちろん,講師は「対向車や先行車がいるときはつかわない」と言い添えているのだが,あくまでも「添え」ているから,本筋は「ハイビームの使用」である.

これで,擦り込まれてしまったひとは,なにがなんでもハイビームにしなければならない,と思い込むようだ.
それで,一瞬だが目がくらむことがずいぶんとある.

さらに,さいきんの新型車は,自動ビームになっているから,センサーまかせだ.
しかし,やはり,センサー技術の完成度をかんがえれば,人間の操作によるハイビームの方がはるかにおおいとかんがえる.

それに,新型車のライトにLEDがつかわれるようになって,まぶしさは過去のライトの比ではない.
しかし,自分がハイビームで,対向車もハイビームだと,光が交わってまぶしさが軽減されたようになるから,いっそう迷惑なハイビームに気がつかない可能性もある.

いったいどうして,公安委員会(=警察)がハイビームの使用を言い出したのかしらないが,余計なお世話である.
まさか,おおむかしの街灯もままならない時代につくった法律の条文をたてに,いまさら東京都の次の人口900万人越の神奈川県で,交代した自分で運転する必要のない警察官僚が命じたのではないか?

それにしても,ホースの排水ができないひとが,きっと常時ハイビームを使用しているのだろうとおもうと,妙に納得できるような気がする.

これも,人間の劣化なのかもしれない,とすると,怖いはなしである.
もちろん,ハイビームの使用を命じた警察官僚は,頭脳明晰で人間の劣化なんか想像もできないという貧弱な発想の持主のはずだ.

老齢化したから「劣化」なのだ,ということもかんがえられるが,はたしてそうなのか?
かんがえて行動してこなかった,という「習慣」ではないかとおもえば,ホースのはなしもハイビームの使用のはなしも,両者はつながる.
そして,かんがえて行動してこなかった一般人を,こころから軽蔑している警察官僚ともつながる.

そういう意味で,指示者がいなくて烏合の衆のようでも,各自がそれぞれかんがえて行動せざるをえない清掃は,きっと頭の体操にもなるのだろう.

すると,かならず週末に実施するこの行事に,親子で参加する姿をあまりみないことも,それなりの意味を感じる.
少数派とはいえ,生活空間の清掃を,子どもにも手伝わせるようにしているのは,立派な家庭教育である.

しかし,烏合の衆のようなおとなを見せるのは,もしかしたら世代間ギャップの拡大につながるかもしれない.
人類史上例をみない「『超』高齢化」社会に突入したわが国の「おとな」は,はたして子どもの手本になるという意識をもっているのか?と問えば,下を向くしかないか,子どものまま,ということを理想とする社会になったのだろうか?

ここに,高級官僚による支配の正当化の根拠がある.

会議が踊る理由とは

根拠が不明な議論というものは,むなしい言葉のやり取りにすぎないから,当事者以外には聞く価値がない.
しかし,世の中にはそんな「議論」があふれているので,小中学校でクラス討論のやり方を教えることは,将来,かなり役に立つ.

たまたま,人気投票のような小学校児童会では,委員をやったし,なによりも中学校の生徒会で,書記と会長をやらされた.
中学では選挙に出なければならないが,本人の意志とは関係なく,勝手に出馬の手続きがとられ,あんなに恥ずかしいことはなかった,立ち会い演説までやるはめになった.

もしかしたら,これは集団的なイジメではないかと疑ったことがあるが,全校生徒の半数が自分の名前を書いた結果に,一種の驚愕をおぼえた.
わたしは,すでにはじまっていた横浜市中心部のドーナッツ化現象による生徒数の減少で,学区がべつの小学校に通っていたから,中学の学区として中心的な小学校の出身ではないために,ほとんどの生徒をしらなかったからである.

文化祭や体育祭でなにをやるのか?にはじまって,校内の衛生や図書室の運営,球技大会と,これに活動報を月刊でだすなど,あんがい忙しく,バスケットボール部の練習にほとんど出られなくなってしまった.

卒業後20年以上たって,当時の部活の顧問の先生と同窓会でご一緒したら,生徒会顧問から青木を預かりたいという話があって,承知したことがあると打ち明けてくれた.
つまり,先生たちのあいだでわたしは取引されていたのだということがはじめてわかった.
それが,選挙結果になったのだった.

ところで,おとなの会議といえば,社内や取引先とおこなうビジネス上の会議と,町内会や自治会など,地域での会議とがある.
子どもは,ある意味立場をかんがえないで,「同等」を前提とするから,生徒会が関係する校内会議は,好きなような発言にあふれていて,これをまとめるのに強権的なことは一切できない.

そういう意味で,生徒会はちゃんとした原案がないと,泥沼の議論になるということを,痛いほど味わった時期でもあり,経験だった.
よくかんがえると,このときの経験がいまも活きているから,とてつもなく恥ずかしい思いをしたことも,いまではよき想い出である.

人間は自分を中心に発想するから,わたしも学校でたいへんな思いをさせられた会議の進行について,おおくの人が同様の知識や経験があるものと思い込んでいたが,だんだんそうではないことがわかった.
仕切る側と仕切られる側という,二極に分かれていくのだ.

仕切る側をよく経験したひとは,仕切られることにもあまり抵抗はないのではないか?自分でもこうするだろうと思えば,反発する理由がない.
しかし,仕切られる側にばかりいるひとは,その辺の呼吸がわからないから,意外な発言をしたりする.

また,議論は論理展開である,という基本をおさえていないでおとなになったひとがおおい.
だから,意外な発言のなかに,突飛なものも混じって,驚いてしまうことがある.

これが社内会議で部下の発言なら制止がきくが,上司だと厄介だ.
そして、困り果てるのが,ご町内での会議である.
ほとんど子どもと同じレベルの発想をするおとなが,自己主張することがあっても,制止がきかないし,円満解決を最優先させるために,長い時間も要するから,つき合っている方には時間の浪費を強要される.

日本の社内会議が決まらない会議ばかりで生産性がないといわれるのは,町内会レベルよりはましだ,ということなのだが,そもそも提案自体がこなれていないこともある.
これに,参会者の論理展開についての訓練が希薄だから,議論が宙に浮いて,ことばが踊る会議に陥ってしまうのだ.

この訓練は,人生において波状的に何回もあるのがよい.
学校生活における訓練は,初期段階だから,なるべく仕切る側と仕切られる側にさせず,全員に最低一度は仕切る側を経験させて,両者の立場を解説した授業がほしい.
小学校から高等教育の場で,繰り返されることで,身につけさせることがその後の人生の基礎になるのは,教科だけではない,このような学習が鍵となる.

そして,社会にはいれば,やはりそこでの訓練も受けるようにすると,自然に論理的な発想ができるようになる.
企業にとって,従業員が論理的であることで困ることはない.

だからその成果として,町内会や自治会の運営も合理的になるだろう.
リタイアしたひとたちの亀の甲より年の功の見せ場にもなるはずだ.