「技術の日産」と「技術の東芝」

どちらも経営が傾いてしまったが,どちらもそのむかしに経営が傾いたことがある.

日産は,プリンス自動車とダットサンが合併してできた会社で,トヨタとのライバル関係でしられているが,一方がなんとなく「阪神球団」,もう一方が「巨人軍」にみえてしまうのは,わたしだけだろうか?
その天下のトヨタ自動車の経営が傾いたときのはなしに,本所次郎の『小説日銀管理』がある.

この「小説」のラストがただしければ,日産には陰影的なDNAが最初から埋めこまれていたのかもしれない.
しかし,さいきん日産OBからきいて驚いたのが,このブログで紹介した,トヨタが世界的権威にまでなっている「TWI研修」を,日産が導入したのがこの15年だということだ.

つまり,今世紀に入ってからであって,いま話題のゴーン氏が社長に就任したのが1999年だから,ゴーン体制下における「研修開始」になることは注目にあたいする.
いったい,それまでどうやって現場責任者を育成してきたのだろうか?
しかしそれよりも,日産が事実上の倒産状態でルノーと提携したのだから,推して知るべしだ.

すると,一番若くてこの研修を受けたのは,大学を卒業してすぐのひとで30代後半,高校卒業のひとなら30代半ばになるから,ほんとうはもうちょっと年配者であるのが実態だろう.
そうなると,企業として現在の幹部が,現場管理者時代に現役として「TWI研修」を受けていないことになる.

それは、これも以前書いたが,ガルブレイスの『新しい産業国家』(1968年)にある,企業内「テクノストラクチャー」と名づけている,社員たちによる経営の簒奪メカニズムがうかぶ.

 

上記,文庫版は斎藤誠一郎教授による新訳だ.
河出書房の邦語訳初版は,ガルブレイスとハーバードで同級生だった都留重人訳である.
社会主義に傾倒していたこのふたりは,主流派からズレていたから仲がよかった.
バリバリ資本主義のアメリカで,ガルブレイスは「異端」だったが,都留は日本経済学界の大御所になった.その理由も,推して知るべし,である.

なんとなく,日産の「連続不正事件」の根っこがわかるではないか?

かつて経営が傾いたときの東芝には,土光敏夫という救世主が出現した.
もともと土光は大正9年に石川島造船所に就職したひとだ.それで,戦後,昭和29年には「造船疑獄」で逮捕・拘留されたが,けっきょくは不起訴になった.

逮捕されようが起訴されようが,「無罪」が確定するまでは「容疑者」であって,それには「推定無罪」という法理がある.
ゴーン氏の一件で,これを公に発言したのは,堀江貴文氏のツイッターしかみていない.
本件に関しては,かれのいうとおりだとおもう.

土光社長時代,東芝幹部は「怒号さん」というほどに怒鳴られたというが,こぞって「信奉者」になった.
第二次臨調会長になったとき,NHKが放送した「めざしの土光さん」が,あまりにも衝撃的だった.

ひとびとは財界トップのあまりも質素な暮らしぶりに,驚愕したが,一方で「じぶんにはできない」と,他人事でもあった.
国家財政の均衡をなんとか達成しようと老骨に鞭打つ奮闘をしたが,国民は政府の肥大化を許容した.それは,「年金よこせ」の声でもある「国家依存」の姿だ.

臨調で最後の御奉公をしたとき,土光敏夫氏は東芝「会長」になっていて,現役の経営から引いていた.いや,「臨調」の多忙がそうさせたというべきか.
残念だが,さいきんの「東芝事件」に関係したとされる歴代トップたちは,土光氏引退後の入社組なのだ.
かくも,企業DNAとは脆弱なものなのだ.

かつて東芝が倒産寸前になったのは,世界最高峰の真空管「技術」にこだわって,トランジスター時代に遅れたことが指摘されている.
はじめてカラーテレビをつくったとき,カラー放送でのCMを社内プレゼンしたら,土光氏は例の怒号で,白黒テレビで観たひとがカラーテレビをほしくなるCMにしろ,といったという.
当時は,新聞のテレビ欄でも,カラー放送は特別に「カラー」とか総天然色を略して「総色」などと表記していた.

顧客はなにを買っているのか?
組織が自己満足にはしると,自分たちの「自慢」をしたがる.
しかし,顧客はそんな「自慢」を買っているのではない.
その後のトヨタや,土光氏のエピソードはそれをおしえてくれる.

しかし,テクノストラクチャーたちはがまんできなくなるのだろう.
つい,うっかり,じぶんたちの宣伝をすれば,顧客は納得すると勘違いする.
それがこのばあい「技術」である.
それは,上から目線で顧客を見下す,という意味でもある.

かつてのソニーは,「It’s a SONY」とはいったが,技術のソニー,とはいわなかった.
「マネした電器」と揶揄されようが,松下電器は「あかるいナショナル」で一貫していた.
東芝も「ひかる東芝」だったのだ.

90年代,経営が苦しいときに「技術の日産」といっていた.それで,ルノー傘下になったらこれを変えたが,さいきん復活した.
それをどうしたことかとブログに書いたのは,昨年の10月30日,このブログの最初の記事だった.

顧客目線を失うと,企業は傾く,という法則がある.

「国民運動」が大好きです

国民運動会ではない.
「会」をとった,国民運動である.
英語なら,「National campaign」だ.

わが国における「国民運動」をまとめた書籍がなかなかみあたらない.
明治・戦前からいまをつらぬいて「運動」が,あまたありすぎてまとめようがないのかもしれない.
さほどに,大好き,なのだ.

みんな大好きだから,いわゆる「右」も「左」もない.
まんべんなく,どちらさまも,なにか事あるごとに「国民運動」にしたがるのは,「民族」としての習性なのだろうか?
だとすれば,「民族」ではなく「民俗」である.

民間による「国民運動」もあるから,とめどもない.
それで,現行,政府主導の国民運動をしらべると,いろいろ出てきてなかなか楽しい.

食品ロス削減国民運動(農林水産省)

世界に恥ずかしい状態の食品ロスを削減しようと頑張りながら,

ごはんを食べよう国民運動フード・アクション・ニッポン(農林水産省)

国産にこだわって,食料自給「率」をあげたい.
国産にこだわるから,「世界標準」の安全システムを採り入れていない.
この「世界標準」には,対テロリズム対策もあるから,日本では大袈裟とかんがえられている.
しかし,そのほかの項目でも,世界の安全性確保とは別世界なのが日本の食品である.

東京オリンピックで,どういう安全食材を提供するのかが問題になるが,「世界標準」を国産で用意するのはもう間に合わないだろうから,トップアスリートの食事には輸入食材をつかうしかないだろう.
日本の「食」で,ほとんど報道されないことがある.

早寝早起き朝ごはん(文部科学省)

さてそれで,子どもにもちゃんと朝ごはんをとるように,というのだが,いまや家庭の事情から,あったかいご飯と鍋でつくったみそ汁なんて,贅沢のきわみかもしれない.これがイジメの原因にならなければいいが,なんと朝食を食べると成績がよくなる,ということまで文部科学省がいいだした.

これは,統計的相関関係はあるものの,それをもって「因果関係」にしてはならない,という教科書的説明のわかりやすい事例になった.
文部科学省として,みずからその悪例を提示したことに敬意を表したい.

でもやっぱり,そんな統計の「いろは」を勘違いするような文部科学省にまかせたら,貧困の子どもをすくえないと判断したのか?子どもの未来応援国民運動(内閣府)がある.

貧困は親に仕事がないからで,将来自分も所得が高くなる職業につかなければならないから,働きかた改革が必要だし,なにせ目先の東京オリンピックでは,都内は観光客でごった返すことになっている,と決めつけて,テレワーク・ディズ(総務省,厚生労働省,経済産業省,国土交通省,内閣,内閣府それに東京都)という国民運動がある.

そんなにたくさんの観光客がくるなら,美しい景観がなければ恥ずかしいと,恥の文化全開で,日本の景観をよくする国民運動(国土交通省,農林水産省,環境省)もある.

歴史的景観を保存すべき「旧市街」と,そうでなくモダンな地域としての「新市街」といった,エリアわけの都市計画がない,ただ自由に建てるという日本的混沌をつくったのは誰だったのか?をおもいだす運動ではないことは確かだ.

ところが,さいきん外国人観光客をよそおって,不健康なひとも多く来日している.もちろん,医療ツーリズムで入国するならいいが,そうでないひともいる.
日本人でも働きすぎたりすると発症の危険があるのが肝炎である.
そこで,肝炎総合対策推進国民運動(厚生労働省)があって,有名俳優などが「ご挨拶」してくれている.
「薬害」という問題を隠蔽するためのものでないことを祈る.

安全という面で身近なのは,交通安全国民運動(警察庁)である.
かつては,「交通戦争」といわれるほどに,死亡者・負傷者の数がおおかった.

そして,やっぱり,地球温暖化防止国民運動「COOL CHOICE」(環境省)がお約束どおり,やってくれている.

「知っていましたか?これ以上温度が上がると,地球はもう回復できない傷を負う可能性があることを.」
それで,「賛同」にクリックせよという.
もはや踏み絵だ.

まだたくさんの「国民運動」があるけれど,こうしてみると,どれもあやしい.
一定の価値感の押しつけにもなるから,個人主義の外国ならすぐさま反対デモになりそうだ.
みごとな共通点は,かならず事務局は「なんとか協会」になっていて,役人の一部が予算とともにそこへ行くから,役所本体は丸投げであそんでいればいいような建てつけになっている.

ハンナ・アレントは,代表的著作で,大著としても有名な『全体主義の起源』に,ファシズムにおける「運動」は,かならず「永久運動」になる,と分析した.
国家のそこかしこで「運動」がおこなわれ,次第にその責任者も目的も不明になるが,サメやマグロのように,泳ぎつづけなければ息ができないのとおなじで,とにかく「運動」するしかない.

ほんとうは原著の邦訳をおすすめするが,要約としての以下の二冊も力作である.
「ヨーロッパ」を舞台にしているが,「人間のしわざ」であるとおもえば,われわれにも他人事ではない.むしろ,無垢な日本人こそ読んで免疫をつくっておいたほうがよい.

 

おおくの日本人は,中国のひとびとを嗤うことがあっても尊敬することがなくなった.
なにも,党や政府高官のことではない.
庶民のことである.

日本の進歩派が絶賛した文化大革命で,伝統文化がみごとに破壊された.その文化には,人間としてのマナーもあったが,これも破壊の対象だった.その世代はまだ生きている.
このひとたちは,日本人には野蛮にみえるが,それで生きのこったひとたちなのだ.
しかし,彼らには,数千年の歴史のなかで「政府だけは信用しない」という信念がある.

日本人は,政府だから信じてしまう,という特性があって,じつは酷い目にあってきているのだが,なんだかわすれてしまう.
そろそろ,この点にかんしては,中国の庶民を見習ったほうがいいのではないか?

そんな国民運動をやるひとが,でてくるのかもしれない.

「安全」はリスクである

学問的成果の有無という観点でいえば,「地震予知」における成果はほとんどない.
けれども,わが国は世界有数の地震国である,という不思議な「自負」もあって,「地震」にかんする研究には多額の予算が投じられている.

なかでも,「予知」に関しては,ずば抜けた「投資」をしている.
文部科学省のHPに,いちおうの資料がある.
自分たちで管轄していることに変わりはなく,つねに御殿女中のような細やかさでイビりを趣味嗜好とする役所が,国立大学が独立行政法人になったからといって,資料がない,と主張する神経に自ら異常をかんじない異常に,かえって「感心」すらしてしまう.
この資料は,何のために誰のために,という目的すらマヒしたことを国民にしめしたいのだろう.

そんな日本政府における権力構造を支えるのは,なんといってもカネ=予算だから,旧大蔵省=現財務省の主計局が最強といわれている.
しかし,予算を使うにあたっての最強の役所は,あんがい目立たない「内閣府」である.
「縦割り行政」を横につなぐのがここだからだ.

小松左京の傑作『日本沈没』では,「スーパー官僚」の主人公が所属するのは総理府だったが,『シン・ゴジラ』では,内閣府に看板をかえている.
ただし,この役所も,各省庁出身者からの寄せ集め的性格も内包している.
就職して最初に配属になった省庁が,各個の「本籍」になる.これは,一生かわらない.
それで,本籍とは別の役所に勤務することを「出向」とよんでいる.
だから,内閣府に本籍がある役人は,すごい,のだ.

 

そんなすごい役所が取り仕切るなかに,「中央防災会議」がある.
ここが,昨日「南海トラフ地震」における住民・企業・自治体がとる「べき」対応を発表した.
情報の中身は,それぞれが確認されたい.

この報道のなかで,中部地方の地図がしめされて,海ではなく内陸部の境界線に注目すると,それが「中央構造線」であることに気づくだろう.
本州を東西に分断するのが静岡・糸魚川線上の「フォッサマグナ」がしられているが,サカナの背骨のように,本州から四国・九州の地面を分断しているのが中央構造線である.

山梨県から愛知県にいたるラインは,ほぼ「中央高速道路」がこの線の真上に建設されている.
だから,理論どおりなら,「中央高速道路」はかなりあぶない.
なぜそんなところに道路をつくったのかの理由はかんたんで,「谷」をなしているからだ.
あとは,山ばかり.
人間が移動につかうための路は,太古から地形に支配されている.

さて,中央防災会議の議論も,地震予知の研究に多額の予算がつくのも,地震がおきたときの被害が大きいからである.
この発生するだろう被害を想定することは,リスク評価,といいかえることができる.
それで,地震は避けられないリスクであるから,予知できたら発生前に逃げることでリスクを減らそうという発想がある.

だから,予知できないとなんにもならない.

これが,地震予知にかんする批判の根っこで,困ったことに,その予知ができたためしがない.
東日本大震災の余震では,数秒前に携帯が警報ブザー音をだしたが,それでどうしろというのか?
家庭犬がこの音に反応して,恐怖するようにはなった.
犬の記憶力はせいぜい5分ばかりだから,音がして数秒後にくる揺れ,ということが学習できた.
だから,しつけにこまっている飼い主は,このことを応用すれば,犬のしつけができる.

こうして,できない予知に予算を投じるのはおかしい,という議論になるのは,費用対効果,ということになる.
ここでいう「効果」とは,「効用」ということだが,ひらたくいえば「メリット」すなわち「得」である.

つまり,費用という「損」と,メリットという「得」を天秤にかけることとおなじだ.
いつくるかわからない地震というリスクで,得になる,とはどういうことか?
第一には,生存,であろう.
すると,生存のためには,どんな準備が必要なのか?になるから,そのための準備が費用(コスト)になる.

裏返せば,費用をかけないことは準備をしないことだから,生存しなくてもいい,という意味にもなる.
これが,個人の生活なら,各人の判断があるけれど,近所に迷惑がかかる.

商売人なら,近所迷惑だけではすまない,賠償問題までかんがえられる.
だから,最低でもお客様の安全,従業員の安全は,コストをかけなければならないのだが,これは,「得」のためである.
すると,リスクには,得がひそんでいることがわかる.

宿泊業のリスクは,地震で建物が崩壊することからはじまって,火災,食中毒,温泉ガス,などなど,たくさんあるのだが,これらの対応準備にひつようなコストをかけることが,得になるのだ.
つまり,利益をかんがえたとき,利益率とはリスクを飲み込んだうえでの数字という意味になる.

だから,利益計画とは,リスクの評価を必須にするのだ.

産業革新投資機構という虚構

「日本は法治国家ではない」という発言を,ニュースとして初めて聞いた.

どういうわけか,政府に気をつかっているのかしらないが,「報酬」をめぐる経産省との争いが前面にでて報じられているのは,自動車会社の外国人役員による「100億円になる巨額報酬問題」とが,かさなったからなのだろうか?

しかし,役所の中で「高い」といわれたのは,投資が成功したばあいで最高1億円という額だというから,その「少なさ」に逆におどろいてしまう.
この機構の運用資金は2兆円なのだから,2万分の1の報酬でしかない.
たった0.1%の運用益でも,20億円になるから,1億円ではたったの5%だ.

いったいいくらの運用益を目標としていたのだろうか?

このしみったれた役人根性が,「旧産業革新機構」をみごとに失敗させたのではなかったか?
それで,経営陣を民間から募って「再出発」したはずの機構だ.
ただし,役人はけっして責任をとらないから,「旧産業革新機構」の負の遺産である,ジャパンディスプレイとか,ルネサスエレクトロニクスを,そのまま抱えさせられている.

マックス・ウェーバーは,『職業としての政治』に,「倫理的に最高の官僚は倫理的に最低の政治家になる」と書いた.

けっきょくのところ,「一流大学」といえども,卒業してそのまま役所勤務なった「キャリア官僚」は,もれなく民間企業で働いた経験がない.
つまり,じぶんでお金を稼ぐビジネスをやったことがない.

このひとたちは,官尊民卑の役所文化にどっぷりつかって,命令すれば現実になると錯覚しているかなりあぶないひとたちだ.
ついでに,なんのため,誰のため,という基本もわすれて,自分たちの組織のために走るから,まったく始末が悪いのが役人と役所という組織である.

ほんらい,こうしたひとしかいないのが役所だから,政治家はそれを修正させる役割をになう.
不思議なことに,いまの経産大臣は,政治学士でもあるから,上記ウェーバーの著作は学生時代に読破しているはずだが,輪をかけたトンチンカンぶりを発揮している.
「政府として決定したわけでもない『報酬額』を紙に書いて本人にわたしてしまった事務のミスだ」.

株式会社として,役員報酬の決定が正式になされた後の騒動だが,それをあろうことか大臣がこの程度の認識なら,それはそれは役人から重宝がられるだろう.

むしろ,世耕氏の本業はボストン大学の「企業広報論」修士という学位にみることができるのであって,あの小泉郵政選挙での歴史的大勝を自民党広報でとりしきった実績こそが,いまの「大臣」につながるのだろう.

彼が「セオリーどおり」といいきった「選挙必勝の理論」は,このブログですでに紹介済みの摘菜収『日本をダメにしたB層の研究』(講談社+α文庫)に解説がある.

つまるところ,プロパガンダの専門家が経済産業大臣をやっているのだ.
だから,なかみなんか関係ない.
それで,この機構がどんな分野に投資しようが,ほんとうはどうでもいいのだろう.
だから,辞表をだした経営幹部が交渉相手として,信頼をなくしたと評価した経産省官房長に,そのまま今後も機構対策の指揮をとらせると,平気の平左で命じている.

なんだこりゃ?

集団辞職におよんだ面々は,子どもではない.
大臣自ら,彼らを子どもあつかいしている姿しかでてこない.

そもそも,なんでこんな「機構」が存在しているのか?
民間金融機関がリスクマネー投資をしないからである,とマスコミは説明するが,では,なぜに民間金融機関がリスクマネー投資をしないのか?は,だれもいわない.

辞任する田中社長は,三菱UFJファイナンシャル・グループの副社長経験者だ.
そのひとが,たった二ヶ月半前の就任時には,きっちり抱負をかたっている.
トップ・バンカーとして,「やってみたい」という気持に嘘はないと信じるのは,民間金融機関がリスクマネー投資をしてはいけないと,金融庁が命じるからだ.

すなわち,わが国官僚機構の「マッチポンプ」,「ダブルスタンダード」があらわになって「虚構」だけがみえてきたのだ.
一方で民間金融機関にやるなと命じ,一方で政府系の機構がやる,という.
政府なら損をしていいからなのか?いや,政府だからこそ損をだせない,という議論など最初からなく,あるのは,「政府・官僚は間違えない」という妄想だけだと証明された.

それで静岡県の銀行は,不動産投資に走って,いまでは,不動産投資向けの融資をしてはいけないと,これまた金融庁が全国の金融機関に命令している.

ところが,数字のケタの感覚がズレてただ妄想に耽る役人と,ビジネスモード全開の民間人では,そもそも価値観がちがう.

米国仕込みのビジネスマンは,リスクはコントロールするものという価値感がある.
しかし,ガチガチの日本型組織に住む官僚には,リスクは避けるもの,でしかない.
それが,たった1億円の報酬に対する「報道リスク」で,官僚は腰が砕けたのだ.

なんども官が投資ファンドをつくってうまくいかない原理がこれだ.
マスコミは「ガバナンスの問題」というけれど,それ以前の価値感のちがいこそが決定的なのだ.
どうやっても混ざらない,まさに水と油である.

経産省も,金融庁も,これに財務省を加えれば,「経済官僚」3トップである.
もうわかったろう.
「経済官僚」こそ,わが国で最低の経済音痴なのだ.
それを政治家が正当化する「愚」.

あたらしいビジネスを民間から生もうとしないで,国家がつくって民へ払い下げればよい,というのは,明治の泰明期の発想だ.
こんなことも,わからない連中が,2兆円の資金をもてあそんでいる.

なさけないったらありゃしない!

この「投資機構」のつぎのひとの大仕事は,ゾンビのままのジャパンディスプレイとか,ルネサスエレクトロニクスとかを,あとかたもなくきれいに倒産させることである.
このための「投資」こそが看板に偽りがない,わが国「産業革新」の第一歩になるだろう.

そうして,つぎは,みずからの機構そのものの店じまいである.
じつはこれが,いちばん難しいのだ.

ペルシャ料理店の夜逃げ

「イラン料理」でもいいのだろうが,「ペルシャ料理」のほうが雰囲気がでる.
そのむかしの「ペルシャ帝国」を彷彿とさせるからである.
「アジア」というと,東アジアをまずは想像し,やっとこ東南アジアまでしかイメージできないひとが,サッカーの「ドーハの悲劇」以来,トルコからこっちが「アジア」だと気がついた.

東西に広大に広がるエリアが「アジア」であるけれど,中間の内陸のほとんどが砂漠地帯になっている.
かの『文明の生態史観』の著作でしられる梅棹忠夫先生が,「アジアはない」といいきったのにはおどろいたものだ.

ずいぶんまえの文藝春秋に,著名人100人に執筆依頼した「人生を変えた書物」とかいう特集があって,その第一位が『文明の生態史観』だった.
日本人が書いた日本論の嚆矢である.

むしろ先生は,アジアという区分ではなく,西洋と東洋のあいだだから「中洋」と位置づけようとして,さまざまな説明をしている.

その中洋にあたるいまのイランという国は,「イラン・イスラム共和国」という名称だが,イスラム教がうまれる前には,ゾロアスター教がさかんな地域であった.
いまも,小数のゾロアスター教徒がいるという.
人類最古の経典宗教はゾロアスター教といわれているから,その影響は目立たなくても深いところにあるとかんがえていい.

いわゆる「拝火教」といわれる宗教だが,「明」と「暗」から転じた「善」と「悪」の二元論が思想的な柱になっている.
西に伝わって,古代ギリシャの神話にも混ざっている.
オリンピックの「聖火」は,まさにゾロアスター教のなごりだし,東に伝わって,仏教と合体したのが「密教」におけるお炊き上げともいわれているから,天台宗,真言宗には,ゾロアスター教のエッセンスがある.

古代ギリシャ哲学の影響を,ユダヤ・キリスト教もおおいに受けているから,その根にはまちがいなくゾロアスター教がある.
歴史的実在が証明されていないイエス・キリストの誕生日とされるクリスマスも,「冬至の祭り」が発祥といわれる.昼(明)が夜(暗)のながさにまさる分岐点が冬至だからである.

そんなことから,ミステリー小説に仕立てたのが,推理小説の大家,松本清張だった.
日本の古代史の不思議から,殺人事件にまでふくらませることができるのは,めったな知識ではできない.

 

じっさい,この『火の路』という小説内における研究がきっかけとなって,古代日本とペルシャの関係が学術的に証明される,という「事件」にもなっている.

そうかんがえると,いまでもめったに移動できない距離を,古代だからといって無視できるものではなく,かえって古代人の方がいまよりも国際的だったようにもおもえる.
ついさきごろは,平城京の遺跡から,ペルシャ人の名前が書かれた大量の木簡が発見され,朝廷の役人に万人単位でペルシャ系のひとがいたと推定されている.
ここから,平家ペルシャ人説まで出てくるのだから,ロマンはつきない.

すると,宮廷人が高級食材として食していた,「醍醐」や「酪」といわれる,おそらくチーズのたぐいも,もしかしたら蒙古ではなくて,その先のペルシャからの伝播だったのかもしれない.

香辛料を高度につかうインドより西にあって,インドとはことなる組合せの香辛料を多用するアラブ世界の東にあるペルシャだから,さぞやたっぷり香辛料をつかうのだろうとおもったら,あっさり肩すかしをくう.
ペルシャ料理には,ほとんど香辛料をつかわないのだ.

いまようにいえば,「やさしい味」なのである.
それは、素材の味を引き立てる調理法でもあるから,これだけ読めばまるで「日本料理」になる.
じっさいに,ペルシャ料理店は数少ないから,あまりなじみはないかもしれないが,食べてみればその美味しさは格別だ.

なるほど,イスラム教といっても,アラブとペルシャでは,ほとんど別の宗教のようなちがいだけど,その根底には「味覚」のちがいが決定的にあるかもしれないとおもえるほどに,まったくちがう.
羊肉を焼いたケバーブや,挽肉を焼き鳥のつくね状にしたコフタも,見た目はおなじだが,塩味あっさりのペルシャ式は,日本人の味覚に適合するだろう.

そんなペルシャ料理店が,横浜のド真ん中,伊勢佐木町商店街から路地をはいった,いわゆるヤバそうな場所にあった.
およそ,女性がひとりで歩いていたら,職業を間違えられそうな場所であった.
それで,家内とはいつも一緒に行ったものだが,われわれ以外の他の客にであったことがなかった.

イラン人の主人が一人で切り盛りしていたが,日本語がなんとか通じたから,客として困ることはなかったし,常連になったら,イランへの里帰りツアーへの同行も誘われた.
それですっかりその気になって,松本清張になった気分でゾロアスター教の村を訪ねてみたいとかんがえていたら,あるとき「夜逃げ」してしまった.

アメリカはイラン革命のときの大使館占拠事件から,レーガン時代のイラン・コントラ事件など,イランにまつわるいい話はないばかりか,核開発問題でも頭痛のタネだろう.
そのアメリカに絶対服従するはずの日本外交が,なぜか「独自外交」で唯一がんばるのがイランなのである.

これも,平城京以来,役人のペルシャの血との関係があるのだろうか?

それにしても,腕のよい料理人が,店の場所をまちがえたのはまちがいない.
それに,横浜で開催した世界の料理イベントで彼が優勝した,という情報も,イランだけでなくヨーロッパでの調理師免許があるなど,差別化要因となるはなしがしっかり提供できていなかった.
そして,もうひとつ,日本は個人への開業資金を提供するシステムが貧弱であることだ.

日本人向けにもないのだから,外国人の専門職が独立開業するのは至難の業だろう.
外国からひとを受け入れたら,国内の人手不足が解消する,というはなしは,すでにファンタジーである.
彼のような腕ききがやってきて,ちゃんとした立地(保証金や家賃が高い)で日本人に美味しい料理を提供し,大繁盛できるような,そんな仕組みがあることは,日本人を幸せにする.

金融が機能しない国は,衰退することがよくわかる.
本来,金融は世の中を明るくするためのものだが,バブルの大間違い以来,この国の金融は生き返らずゾンビ化して,悪の権化になってしまった.
その司祭は金融庁だが,それを正す政治もまたゾンビ化した.

まるでゾロアスター教でいう暗黒が,この国をおおっている.

アカとバカと真人間

前にこのブログでも紹介した,倉山満『お役所仕事の大東亜戦争』にでてくる近衛内閣にかんする表現である.
戦争にいたる複雑な状況をぜんぶ理解するのは,いまとなっては容易ではないが,せめて「近衛内閣」だけはおさえておきたい.家父長的な近衛のちゃぶ台返しの後片付けをしたのが,ちんまりした貞婦,東条英機の内閣だった.

五摂家筆頭の近衛家当主だから,爵位は「公爵」だ.
当然,天皇家とは親戚になる.
その,近衛文麿は,河上肇の門下生だった.

河上は当時わが国最高峰の共産主義理論家だ.
それで,近衛はじっさいに,オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を在学中に翻訳,出版しようとして発禁になっている.

戦後の翻訳では,以下がある.

社会主義の下での人間の魂 (1968年) (リバタリアン叢書〈1〉)

オスカー・ワイルドは,『幸福な王子』だけを書いたのではない.
近衛も,けっして「幸福な王子」ではなく,むしろ「家族」という私の空間では不幸だった.

こんな近衛に,民衆は期待したから,近衛内閣の支持率は高かった.
民衆の期待の根拠は「血筋」という権威だった.
そういうわけで,アカなのかバカなのか?という議論がうまれるのだ.

アカなのが近衛なら,バカなのは国民になる.
だから,真人間なら,戦後に国民が反省しなければならないと気づくのだが,悪いのは国民ではなく軍部や政治家の方であると憎悪をもって決めつけるように仕向けたひとたちがいる.

もちろん,仕向けたひとたちはアカである.
でもやっぱり,それに乗ってしまった国民はバカのままである,と真人間が気がつく構造に,21世紀になってもまだ,ぜんぜん変化がない.

深刻なのは,「反省」といったときに,アカに乗せられたバカな国民は,「戦争の『反省』」だと擦り込まれたことだ.
真人間は,そうではなくて「アカに乗せられたこと」を「反省」すべきだとかんがえる.
米英との戦争を求めたのが国民だったからだ.

わが国の「学術」の世界での「禁句」に,「コミンテルン」がある.
これを発したが最後,学会や研究会の学者集団からあいてにされないことになっていた.
しかし,米国の情報公開制度で,コミンテルンのスパイ活動に関する米国政府による衝撃の盗聴記録が公開された.

これを『ヴェノナ文書』と呼ぶ.
盗聴という手段での情報は,裁判での証拠採用はされないのがルールだから,これによって有罪になるものはいないが,米国政府の公文書,として公開されたことに意義がある.

アカはいまでも,それがバレたら困るから,「軍部の暴走」とか「軍国主義」という「用語」をつかう.
このもっともらしい「用語」を,あらためて論理をもってかんがえると,じつは「主語がない」ことに気づくだろう.

「軍部」とは「誰のこと」で,「暴走」とは「誰がした」のか?
「軍国主義」を信じたのは「誰」で,その「主義」とは「誰の」どんな「哲学」なのか?
説明せよ,といわれてちゃんと説明できるのか?

それこそ,チコちゃんに叱られる!
「ボーっと生きてんじゃねーよ!」
ま,このネタをNHKがつかうことはないだろう.
バレたら困るからである.

では,これは一体なにを意味するのか?
「中心がない」のである.
おどろくことに,わが国には,いまもむかしも,「中心がない」.
国ぜんたいが,なんとなく動いている,のである.

それは、企業もおなじだ.
形式ではなく,実態としての「中心がない」.

形式なら中心はある.
天皇がいる.内閣総理大臣がいる.国会には議長が二人いる.最高裁長官がいる.日銀総裁がいる.
会社には,会長がいる,社長がいる,監査役がいる.

しかし,形式と実態の一致,すなわち,ほんとうの中心は誰なのか?
その中心が,ほんとうに組織をけん引して,それが達成できているのか?と問えば,いきなりあやしくなるのがわが国なのだ.

たとえば,日本型クーデターの例として,主君押込がある.

家臣団が,問題のある主君を,座敷牢に押し込め,隔離する.
しかし,上級幹部の一部だけがしっていて,部外者や藩内の庶民にはしらせないから,一般人だれでもが「お殿様」は健在だとおもってなんら問題なく暮らしている.
幕府=ご公儀にバレることだけがリスクなのである.

つまり,中心は架空でも,わが国では組織が動く.
まるで,こっくりさんなのだ.
誰の力がかかっているのかわからないが,紙の上を浮遊するように,ものごとがきまる.

中心がいなくて世界をあいてに大戦争を実行したことが,まったく信じられなくてあわてたのが,良くも悪くも中心があるのが当然な白人国家であったから,「戦犯」という犯罪人を,たとえ「架空」でも,いたことにしないとかれらの精神がこわれかけたのだ.
悪い奴がいたにちがいない,と.

そんなわけで,本来「順不同」の戦争犯罪を,日本語の書類なら「イ,ロ,ハ」や「・」だけで区分するのと同様なことに,英語だから「a,b,c」と小文字で区分した.
それを,「罪の重い順」として,またまたアカがバカに仕向けたから,いつの間にか小文字が大文字になって,あたかも「『A』級戦犯」だけを問題だと切りだすが,『私は貝になりたい』のように,あるいは「捕虜にゴボウを食べさせたのは虐待だ」として,「b級」だろうが「c級」だろうが,死刑になったひとがいるのを忘れさせようと努力して見事に成功させている.

日本が講和して独立したとき,社会党の発議でもって,わが国の国会は共産党もいれたもれなく全会一致で戦犯全員の「名誉回復」を実施している.「独立」国家とはそういうものだ.
だから,法的にわが国には戦犯は存在しないが,隣の国と同様に「国民感情」からか,アカに乗せられたバカな国民だからか,いまだに戦犯の議論をしている.

これぞ「国会軽視」,「憲政の常道」を無視している事例となった.
とっくに「解決済み」なのだ.
だから,aだろうがbだろうがcだって,死刑になったひとにも,みなさんきちんと年金受給者にもなっている.これが「法治国家」というものだ.

それで大手を振って靖国合祀をしたら,戦犯は分祀せよという.
こういうときは「政教分離」に反しているとアカはいわない.
ついでに,日本国憲法の第九条は,独立国家にあるまじき,と大反対したのが日本共産党だった.
ダブルスタンダードがここにある.

むかしはやった上方芸人に,「ボヤき漫才」で有名な人生 幸朗・生恵 幸子(じんせい こうろ・いくえ さちこ)がいた.
「責任者,出てこい!」の決めセリフで爆笑をかったのは,じつはだれもが「責任者がいない」ことをしっていたからだ.

笑いにこそ信実がある.
失われた『喜劇論』のアリストテレスのことばとされる.

芸人にも,真人間がすくなくなった.
いまどきのアカが芸人のふりをして,ワイドショーの司会をやって,いつものように世論を誘導している.

これをもっけの幸いと,責任者ではない責任者が,責任者の格好だけをして「君臨」する.
このことが問題の本質なのに,年収の多寡ばかりをもって個人への憎しみを増大させるのは,アカがバカをまた誘導して,組織を崩壊させ革命でも夢見ているのか?

日本人は金持ちを尊敬せずに,悪いヤツだとおもいこむようにさせられた.
マルクスやレーニンが思想統制でやろうとしてできなかったことが,できてきた.
まったくもって,バカげたことに,かんたんに乗せられる.

まことに卑しいことである.

話題になった?トランス脂肪酸

ことしの6月から,アメリカで加工食品へのトランス脂肪酸が禁止になった.
それを見越して,日本でも話題になると予想して書いたが,はたして話題になったのか?

まったくなかったわけではないが,よくあるマスコミによる「騒ぎ」にはなっていない.
けれども,この問題は,日本における「国民の健康」にまつわる行政のいかがわしさを確認するのにもってこいの事例になっている.
もちろん,スポンサーであるメーカーに気遣った,報道しない自由という問題を指摘しないわけにはいかない.

そもそも,関連する役所が複数あることから確認しよう.
「食品」であるから,まずは「農林水産省」が所轄になるのはわかりやすい.それで,さいきんになって農林水産大省も,自らのHPによる「情報提供」に余念がない.

しかし,国民の「健康」となると,「厚生労働省」の所管になるから,農水省の情報も「客観的」につとめているのだろう.
では,厚生労働省はどんな情報をだしているのか?というと,迫力にかけるのである.

ところで,食品にふくまれる栄養成分については,「文部科学省」の『食品栄養成分表』になる.
それで,以上の三省が合同で『食生活指針』(平成28年)がつくられている.

さて,そこで,アメリカは禁止という規制をかけたから,日本の規制当局はというと,それは「消費者庁」になる.
せめて表示義務だけでも,と消費者としてはおもうのだが,平成22年につくった『栄養成分及びトランス脂肪酸の表示規制をめぐる国際的な動向』が,精一杯で,いまだ「表示義務」にすらいたっていない.

一貫しているのは,日本人のトランス脂肪酸の平均的摂取量は,WHOがさだめる量の半分程度だから「心配ない」という議論である.

しかし,わたしたちがここで注目すべきは,「平均」という概念である.
学校のなにかのテストで,クラス全員がおなじ50点をとったときと,一人ずつがべつべつの点数で,1点から100点が並んだとき,どちらも平均は50点になる.
グラフにすると,全員が50点なら,一本の棒がたったようになり,もう一方のばあいは,1点ずつの棒が平らに100個たつ.

もちろん,世の中でこんな極端はめったにないから,ふつうはこんもりとした山の形になる.
すると,少ない側と多い側になだらかなすそ野がひろがるのがイメージできるだろう.

マーケティングの常識に,「平均的な消費者は存在しない」という概念がある.

これは,すそ野の広さと大きさをいうのだ.
「多様化」があたりまになっているいま,個々人の好みはどんどんと,上述の例でいえば平らなグラフのほうに近づいている.
だから,平均値を計算することはできても,平均にあたるひとがあまりいないことになるのだ.

企業の数字をあつかうときも,「平均」だけでは危険である.
ふつうエクセルなどの表計算ソフトには,図表もかんたんにつくれる機能があるから,グラフ表示して「平均」とじっさいの「データの広がり」を視覚的に確認したい.

それで,農水省の情報のなかには,よく読むと良心的な学者の意見もあって,「平均以上に摂取しているひと」が少なからずいるという指摘もある.
役人は,ちゃんと「アリバイ」もつくっているから,タイトルだけで騙されてはいけない.

農水省にいた役人が,担当する課ごと「消費者庁」にうつったから,もはや農水省に規制についての担当者はいない.
だから,農水省に期待はできないが,「消費者庁」が,成分表示の義務かもできていないのは,じつにいぶかしい問題である.

「指針」やら「禁止」やらと,国家の介入にはさまざまな方法があるが,情報提供という規制に悪いことはない.
提供された情報のただしい読み方を教育しなければならないが,おおくは科学知識に由来する.
そういう意味でも,中学や高等学校の科学教育のありかたも,自分の健康や人生に直結するとおもえば,勉強する気にもなるだろう.

そうしたうえで,ジャンクフードを食べつづける人は,まさに自己責任という前提の選択をしたことになるから,納得の結果にもつながる.

賢い国民は,そういう意味での「強制」から免れるものなのだ.

「平均的日本人」はたくさん摂取していないから問題ない,という政府は,「平均」の意味をしらないはずはないから,伝統的な「産業優先」という本音しかみえてこないのだ.

すると,食品や食事を提供して商売にするひとが,ちゃんとした栄養学にもとづいた商品提供に,これまでにない「価値」が付加されるということに気がつくべきだろう.
付加価値が高まれば単価も高めることができる.

政府のおかげで,ビジネスチャンスが隠されている.

日本にうまれてよかったセット

味覚にかんしていうと,ひとはかなりコンサバ(保守的)である.
このコンサバで保守すべき「味」とは,子ども時代に形成されることがしられている.
だから,典型的なおじさんたちによってノスタルジックに語られる「お袋の味」とは,感情だけの問題ではなく本当に舌に記憶されたものなのだ.

世界のひとの味覚をしらべると,10歳の男の子の味覚が,他の年齢のひとや女の子より優れていて,しかも,その本人の人生においてももっとも鋭敏なときだという.
だから,生まれてから10年あまりのあいだに,ちゃんとした食生活をしないと,一生涯,そのひとの味覚は研ぎ澄まされることはない.

それで,かつての有名料理人たちが,こぞって小僧からの下働きを経験していることに意味があるという理由がわかる.
科学的な調味料や食品添加物が問題視されるべきは,まず,子どもにあたえると,こうした味覚の発達をさまたげるということがあげられる.

 

食品添加物のセールスマンをしていたという安部司氏が,アンチ食品添加物になったのは,自宅での夕食時に,じぶんの子どもたちが,添加物たっぷりの食事を「おいしい」といって食べていることに違和感を覚えたからだという.
じっさいに彼の本を読むと,セールスマンだっただけに空恐ろしくなる内容に驚愕する.

「10歳」という年齢に注目すると,カリスマ職人といわれている岡野工業社長の岡野雅行氏のことばに,「中卒でも遅いくらいで,小学校卒がほしい」がある.ましてや,「大卒で職人なんてムリムリ」.
手の触覚が決定的に鈍る,というのが理由であったから,味覚につうじる指摘である.

さいきんは,味噌会社のテレビCMで,インスタント味噌汁が「お袋の味」になっている倒錯が,ジョークではなく,まじめに放映されている.
鰹節削り器で,削り節を担当したのは子どもの仕事で,母親がこれで出汁をとった味噌汁やおひたしにふりかけて食べたものだが,もはや幻だろう.

だからわたしは,日本旅館で鰹節削り器をお客がつかって出汁をとることも,サービスメニューにあっていいとかんがえている.
雄節や雌節にまでこだわるのは,産地ならではだろうが,そもそも本節すらみたことがないかもしれない.

外国人を招待するテレビ番組では,職人一家の夕食で地元の伝統的な料理がふるまわれる場面がある.
これらも,いまではおおくが絶滅危惧の料理ではないか?
しごとがら,わたしは全国版をそろえて購入したが,自分の地方の一冊を手にして,たまには眺めるのもいいだろう.

けっきょくは,地元や家族のイベントがなくなって,ちんまりつくってもおいしくないし,手間もかかるのが郷土料理だから,すっかり世代間での断絶がはじまった.
一世代前ぐらいなら,親戚の人寄せごとにつくったから,母から娘に引き継がれもした.
年一回のおせちすら,もはや外で購入するものになったし,その購入すらしない家もおおいだろう.

うっかりするのは,自分や近しいところのはなしだと思いがちだが,外国人とても事情はおなじで,国籍というよりいまでは死語となった「民族」ごとに,記憶されている「味」がある.
だから,日本にくれば珍しい日本料理によろこぶが,慣れてくると「舌がホームシック」になる.

そんなわけもあって,中国からのお客には,朝食に「お粥」をだせばなんとかなることがわかった.
わたしがホテルに入社して,研修でウェイターをしていたときに,朝食で外国人のお客様がカリカリに焼いたベーコンにメープルシロップをかけたのが,なんともいえない印象だった.あとから,きっとカナダ人だったのだろうとは予想したが,自分でやって納得した.

エジプトのカイロで暮らしていたときには,堅くなったフランスパンとビールでぬか床をつくって,キュウリやニンジンの漬物を自分で漬けていた.
しかし,ホカホカのご飯と味噌汁は貴重で,干物の焼き魚などは望むべくもない.
そういう意味で,あたりまえがあたりまえでなくなったとき,ひとは無性に食べたくなるものだ.

だから,東京にいまでも残る,一膳飯屋風情の定食屋の昼食は,ちょっと遠くても目的地になりえるのだ.
こうした店の定食こそ,日本人にうまれてよかったというもので,定食をセットメニューと呼べば,まさに至福のセットなのである.

そんなお店すら,いまは絶滅危惧が心配される.
存在するうちに,あたりまえをしっかり若者にも記憶させておきたいものだ.

観光には「匂い」がある

風光明媚な場所をさがして歩き回るのが「観光」かというと,そうではない.
風光明媚な場所に行くための,道中の景色も観光になる.
だから,飛行機のようなタイムマシンではなく,しっかり窓外の景色がたのしめる乗り物で移動するときには,けっして読書はしない.

景色・風景のなかにある,さまざまなことをぼんやり眺めながら,ひとの暮らしを想像したりすれば,はっきりしなくてもムダな時間とはおもえないからである.
たとえば,国内でも地方の街道を走れば,点在する民家をみるにつけ,その家のなりわいがわからないことがある.

いったい,この周辺の人びとはなにをもって生活しているのか?
田畑がみあたらないのに,どうやって暮らしをたてているのかが,わからないのである.
サラリーマンなら通勤はどうするのか?それとも職人の家なのか?ならば工房はどこか?
こういう疑問が,宿での情報で解決することは希だから,不思議なのである.

これが,はじめての外国ならなおさらである.
東欧を旅したときに,バスで国境を越えたら屋根瓦のかたちが変化したのに気がついた.
それを,ガイドさんに質問したら,民族性の違いという説明があって,国の違い,ということをあらためて感じたことがある.

ひとが旅をするとき,そこが初めての場所であればあるほど,全身の神経が動員されている.
それを,ふつう「五感」というし,ときには「第六感」まで動員することもある.
あらためて,五感とは,視覚,聴覚,嗅覚,触覚,味覚をいう.

かつて住んでいたエジプトに関していえば,当時のカイロ空港には独特の「臭気」があった.
帰国後,ちょうど10年経って,友人ら9人を引き連れて「里帰りツアー」をしたとき,大改修されてはいたが,カイロ空港の「匂い」は変わっていなかった.
それで,「ああ帰ってきた」と独りおもったものだ.

それは、イスタンブール空港もおなじで,あの街には石炭の匂いがある.
35年もたって,トランジットではあったが空港の外気を吸ったとき,自分はイスタンブールにいると確信できた.
ジェットエンジンや整備のための自動車がはなつ排気ガスのなかに,石油ではない,石炭が燃えた匂いがするのだ.

スリランカのコロンボでは,旧市街になった下町にいくと,かつて英国がつくった街並みがいまも残っている.
ガイドによれば,「ここはスリランカでもっとも不潔な街」といいつつ,「インドならもっともきれいな街」といって笑った.

コロンボの新市街にはゴミ一つ落ちていないが,ここにはぬかるみのような排水不良や,生活ゴミもあって,さらに,香辛料の独特な香りが混じっている.
この匂い,どこかで嗅いだことがある.
それは,カイロの下町の匂いに似ていた.

英国が支配した街並みもそっくりだから,急に,スリランカのコロンボ旧市街が「懐かしく」なった.
しかし,活気ある人びとの姿は,エジプトのそれと似ているはずもない.
混沌のアラブに対して,どこか秩序的な混沌という不思議さがあるのは,人間のちがいだろう.

かつての英国人たちも,街並みはおなじようにつくったが,そこに住む人間のちがいに興味があったはずだ.
まぁ,見下していたのはおなじだろうけど.

すると,日本には匂いがない,という匂いがある.
ただ,先進国には共通のようにおもう.
空港がタラップではなくて蛇腹式になったので,飛行機の乗り降りに直接外気を吸わないから,空港ビルの匂いが最初にとびこんでくる.

それは,プラスチックの匂いだ.
あるいは,化学繊維でできた不燃性カーペットの匂いがする.
だからこそ,日本から先進国への飛行機移動は,タイムマシンのようになった.
出発口と到着口の,距離を感じる前に,おなじ匂いを感じるからだ.

すると,街の観光に,匂いという要素があんがい重要な印象をあたえるはずだ.
街づくりには,景観,という第一義はあるものの,そこにひとが住んでいるなら,匂いのアピールがあってはじめてインスタを超えることができる.

そうかんがえたら,わがまち横浜の大観光地,中華街,からも匂いが消えたことをおもいだした.
ハマッコはかつて「南京町」と呼ぶのがふつうで,「中華街」といったらよそ者の証拠だった.
「南京町」の時代の中華街は,煮炊きを道端でする店もいて,あきらかに別世界の匂いがしていた.

子どものころ,鼻をつまんで歩いたと記憶している.
それは,カイロやコロンボの下町に似た,いかがわしさにもあふれていた.
路地ではトリをしめていたりしたから,ときには目もつぶったものだ.
よくいえば,人間の生活のいとなみが,露骨すぎるまでにあったのだ.

もう二度と,あの光景は見ることがない.
「清潔さ」と交換したのだが,魅力も数段落ちてしまったのはわたしだけだろうか?

滋賀県の暴走か?それとも?

淡水の琵琶湖があるからという理由で,環境を守ろう!として,以下の指針が発表されている.
http://www.pref.shiga.lg.jp/d/kankyo/files/shishin_181119.pdf
(上記は削除されている ⇒ いまはこちら

これは、科学なのか?
行政の暴走か?
それとも,ファシズムなのか?

「やりすぎ」という声も検討会の委員の意見であったというが,県の役人はこれを無視したのだろう.
ちゃんとHPに掲載している.

「やりすぎ」とは「細かすぎる」ということだと理解できる.
しかし,これらの指針とは,「家庭内」のことばかりである.
どうして,行政という「権力」が,家庭内に入り込めるのか?
「環境保護」にことかいた,個人の自由への明確な侵害であるから,憲法十三条に違反する.

わたしの住む神奈川県では,当時「全国初となる」禁煙条例が話題になって,結局,県議会はこれを可決してしまった.
議会での議論で,県民の「自由」ではなく,「健康」を優先したのはナチスとおなじだ.
神奈川県民の自由が奪われた瞬間だった.

発案し推進した時の県知事は,県民の「健康保護」を建前にしていたが,「全国初となる」がほしかっただけで,別にたばこのことなど二の次だったのだろう.
知事の座に固執することなく,再度国会を目指してしまった.

修正はされたものの,禁煙条例の最初の案は「家庭内」も対象だった.
自分の家のなかでも喫煙すれば,罰則の対象になるというのは,ヒトラーのゲシュタポや,スターリンのKGBを彷彿とさせる.
ある日,チャイムがなって玄関に出ると「あなた,喫煙しましたね」といって,官憲から罰則切符を渡されるシーンを想像すればよいだろう.

それで,第二次案では「削除」が議論された.
その議論は,健康ではなくやはり「自由」だったのだ.
しかし,それでも禁煙条例は成立した.
こうしたことが,拡大解釈されると,どんどん自由がうしなわれて,いきつく先が全体主義社会になることは,それこそ人類史がおしえてくれる.

たばこの煙がきらいなひとがいるから,それを気遣うのは「マナー」であるし「エチケット」でもある.
だから,たばこの煙がきらいだからといって,これを「強制的に禁止」する社会は,事例だけが増殖して,いま禁煙の強制に賛成しても,いつかは自分の趣味嗜好が禁止されるものだ.

そのとき,喫煙者からあなたはあのとき禁煙の強制に賛成した,といわれても,それとこれとはちがう,と主張するだろう.
しかし,いったん,自由を奪うことができた社会は,容赦がないのだ.

こうして,そのときどきの多数派が,そのときどきの少数派から自由を奪えば,気がつけば全員のなにがしかの自由がなくなっている.
「理由」は,いくらでもつくれるのだ.

神奈川県の「禁煙」のつぎが,滋賀県の「環境」になっただけだ.
ちなみに,オリンピックといえばなんでもできるから,神奈川県のライバル東京都がまねっこして,より厳しい「禁煙条例」をつくった.そして,都知事は胸を張って自慢する.
こうして,自由の侵害は,水平移動的に増殖あるいは感染して,やがて全国規模になる.

それにしても,滋賀県の指針の内容は微に入り細に入っている.行政権力が自由を奪うリストとしてみることができる.
これを,幼児から高校生までの「こどもエコクラブ」で徹底すれば,ヒトラーユーゲント(ナチス党内の青少年組織に端を発した学校外の放課後における地域の党青少年教化組織)になって親を密告するようになるだろう.
「こどもクラブ」は,すでに全国組織になっている.

「先生!うちのトイレットペーパーは,シングルではなくダブルです!」
「それはいけませんね,逮捕されちゃいますよ.売ったお店には,不買運動を計画しなさい」

「先生!うちのお父さんは帰りがおそくて,お風呂を追い炊きしてはいっています!」
「なんですって?残業までして,お風呂を追い炊きするなんて,二重の罰則になりますよ!」

戦前・戦中の近隣監視組織であった五人組をわらうことがあったが,すでにわらえないような恐ろしいことが,現実になっている.
くわえて,滋賀県は「事業者への指針」も発表している.

「環境リスク」がある滋賀県で,新規事業はやらないほうがいいかもしれない.
既存事業者はどうみているのだろうか?
アメリカなら,別の州に事業者の移転がはじまるだろう.
そういえば日本企業は,「政治リスク」の韓国から撤退をはじめた.
ならば,近隣県は,「滋賀リスク」を歓迎するかもしれない.

それにしても,こころして,暮らさなければならない時代になってきている.

自由とは,センシティブなもので,いちど失うと,取り返しがつかないものであることを肝に銘じたい.