職人の世界では「段取り」が大変重視されることは、よくしられている。
「準備」とか「始業前点検」とかともいわれるこがあるけれど、やはり「段取り」がもっともしっくりくることばである。
たとえば、なにかの材料を加工するとき、それが金属であろうと木材であろうと、加工するのだから「刃物」がひつようになる。
この刃物をつかって、切ったり削ったりして加工することが、製品作りでいうメインの仕事になるのだが、刃物の切れ味がなまってしまっては「仕事にならない」ことになる。
それで、名人は研ぎの時間を重視して、場合によっては日がな一日刃物を研いでいる。
使う時間よりも研ぎにかける時間のほうが長いかもしれない。
けれども、そこまでしないと「仕事にならない」のである。
いっけん、「刃物研ぎ」のほうが本業にもみえるがそうではない。
あくまでも、切れ味のさきにある「仕上がり」がほしいのである。
つまり、仕事の完成度を高めるためには、道具を整えることをしないとできないからやるのだ。
これを「目的合理性」という。
製品の完成イメージから逆引きして、なにをするかが決まる。
工程どおりに、なにをしたから、製品が完成するというレベルなのではないことに注意がいる。
これは、あんがい「武道」にもいえる。
初心者は、基本どおりの動きの訓練をひたすらくり返して、その「動き」をからだにおぼえさせる。
あんまり「ひたすらくり返す」から、飽きてくる。
それでも「ひたすらくり返す」ように、無理やり仕向けられるのでこれを「鍛錬」というのである。
「身体と心」の両方にストレスをかけさせるのは、これに耐えた先に開ける世界があることを指導者はしっているからである。
さいきんは、子どもが嫌がるからという理由で、ひたすらくり返さなくてもよくなった。
その先にある世界を、おとながしらないからだ。
武道の名人の、すごい演武をみれば、中級者なら「ひたすらくり返す」ことの意味を自分で習得する。
だから、自分から積極的に「ひたすらくり返す」ので、これを初心者が真似るようにできている。
人生が50年しかない時代にできたシステムである。
ところが、人生が100年の時代になったら、「ひたすらくり返す」ことが「無駄」におもえてきたから不思議である。
これは、ゴールがたくさんあって、どれをめざせばいいかがわからなくなったからである。
そんなわけで、「自分探し」を50歳になってもできるのである。
これは、企業だっておなじだ。
そんなゴールがわからないおとなたちの集団が、企業組織をつくっているからである。
それで、「定年」をすぎても「雇用延長」という不可思議な「制度」で、年金をもらえるまでの時間を、半減された年収でもガマンできるのは、「年金受給」が人生のゴールになった悲喜劇である。
だから、公的年金だけでは生活できない、というまっとうな情報に「耐性」がない。
おどろくべき「なまくら人生」ではなかったか?
いったいどんな「鍛錬」を社会生活でしてきたのかと聴いてみたい。
だから、「みなさまの」が枕詞だった公共放送が、幼児のようなキャラクターに「ぼーっと生きてんじゃねーよー」といわれても、ヘラヘラ笑っていられるのだろう。
もちろん、全部ではないだろうけれど、「なまくら人生」のひとたちは、職業人としても「なまくら」だったと想像できるのは、事務職にだって「段取り」はひつようだから、そうした「段取り」をしなくてよい業務経験とはなにか?が気になるのである。
「整理整頓」ができない。
家庭内のことではなく、業務でのことである。
整理とはなにか?
整理の「理」は、理科の理で、理屈の理だ。
つまり、目的合理性の「理」なのである。
したがって、目的に合致して「整える」ことになるので、かならず余分なものは「捨てる」ひつようが発生する。
業務で「整理」するとは、モノなら捨てることが起きるのだが、この対象は「社物」になる。
だから、捨てるための廃棄料金も予算化しておかないと、お金がなくて捨てられないことになるので、結局「整理」がいつまでたってもできない現象となる。
整頓とはなにか?
整頓の「頓」も、整えるという意味だから、「整整」ということになる。
これは、あらかじめ決めた場所に「整えて置く」ということになっている。
以上から、整理整頓は、あらかじめ「段取り」しておかないと、ぜったいにできない。
これには、宇宙の法則でもある「エントロピー」がはたらくからである。
なまくら人生を反省して、段取りをちゃんとしたいものである。
どちらさまも、まだ間に合う。