禊ぎ修行がつらくて嫌だ

じぶんのからだをいじめる。
スポーツ選手なら、それが仕事だ。
宗教家でも、じぶんのからだをいじめることで「悟り」をえようとつとめたり、精神や魂の清浄化をはかるものだ。

わが国でおそらくもっとも過酷な「修行」のひとつとしてしられる、比叡山の「千日回峰行」は、まさに命がけの限界をゆく。
だから、満行すれば「阿闍梨(あじゃり)」という称号を得るのだが、これは「生き仏」という意味である。

上記の本は、この後もう一回満行した酒井雄哉大阿闍梨(1926年~2013年)の最初(1973年~80年)の満行を伝えた一冊だ。
二回も満行したひとは、伝教大師最澄が開山して以来3人しかいない。

山中のお堂から京都市内をまわる行程は40km。
これを飛ぶような速さで毎日駆け巡るのである。
闇夜の山のなか恐ろしくありませんか?との質問に、行者は「ひとにであったとき」とこたえた。

それは、泉鏡花の『高野聖』を、宗派は別でも聞いたような気がした。
阿闍梨になりたくて千日回峰行をする、というほどの「甘さ」では満行はできないし、そもそもチャレンジなぞしないだろう。

本人にとっては信仰心と自己研鑽にエネルギーが集約されていて、その姿をみる他人のこころが「救われる」から生き仏になるのであって、それをたまたま「阿闍梨」と呼ぶのである。
足し算と掛け算がある式のように、かんがえる順番でこたえがかわる。

 

右は、名優、佐藤慶の朗読によるCDで、味わい深いものがある。
ならばと、じぶんで朗読するのもわるくない。
「文学作品」とは、朗読でこそ味わえるのだ。

ところが、人間の精神が貧弱になって、このような修行がつらい。
真冬の滝にうたれるなんて、どうしたって風邪をひくにちがいないから、そんなバカなことはぜったいに嫌だし、そもそもそんなことをしても意味がない。
これが、エリート官僚がかんがえることだ。

やるひとはやったらいい。
じぶんはやらない。
この手のたぐいは、民間企業にだってたくさんいる。
むしろ、民間のほうが多いから、政府に従順な経団連になる。

これが、国家予算にだって適用されるかんがえなのだ。
飛躍しているようでそうではない。

一度組んだ予算にムダなどない。
年度内に使い切る、ということの理由がこれだ。
ムダを削減せよといわれたって、もともとムダな予算なんてないのだ。

こうした発想ができるのも、わが国の近代史がそうさせたからだ。
江戸幕府しかり、各藩しかり。
そして、やっぱり武士による政権の明治政府しかりである。
庶民には「上」がきめたことに粛々としたがう訓練が、DNAにまで擦り込まれた。

明治からはじまる「帝国議会」は、政府予算案を否決する権限がなく、修正しかできなかった。
しかも、予算編成権は政府のみが有していて、議会にはなかった。
ここでいう「議会」とは、もちろん「衆議院」と「貴族院」をいう。

さてそれで、現在の「国会」はどうか?
2015年に超党派による「議会予算局」の議員立法をめざすとしたが、いまだに日の目をみていない。
そもそも「議会」は、「立法府」というが、わが国ではその議員が「議員立法」することが珍しいという「珍しい国」なのだ。

つまり、明治時代の制度が「そのまま継続」しているのである。
与党が圧倒的多数の政権が、なにもしていない、ともいえるのは、現政権は議会予算局設置を主要政策に挙げてもいないことでわかる。
このやる気のなさは、「無気力」以下だ。

事実上アメリカがつくった憲法だから、よほどアメリカ合衆国憲法とわが日本国憲法が似ているのだろうとかんがえるのは、まちがっている。
なぜかはかんたんで、「読めばわかる」からである。
もちろん、アメリカの議会は「立法府」なので、法案のすべてが「議員立法」であるから、有名な法案は提案議員の名前で呼ばれるのだ。

ところが、日本にはあまた「憲法学者」がいるのに、アメリカ合衆国憲法の解説書がえらくすくない。
それに反して「独立宣言」は、よく引用される不思議がある。
アメリカの難しさは、「独立宣言」と「合衆国憲法」との間に、「断絶」があるので、「憲法修正条項」が日本人には理解できない。

じつは、われわれ日本人は、アメリカ合衆国という国の政治制度のことをほとんどしらないのである。

大統領制を横にしても、アメリカ合衆国では、「予算編成権は議会にある」というわが国とは決定的なちがいが存在する。
すなわち、アメリカ合衆国連邦政府の「財務省」には、予算編成の仕事が「ない」し、大統領でさえ「予算教書」を議会におくるだけなのだ。さらに、「予算教書」は議会での議決の対象でもない。

ここ数年、大阪の私立小学校への補助金問題やら、獣医学部をつくるのかつくらないのかの議論ではない特定大学の問題と称して、国会の「予算委員会」で「予算」を審議したことがない、という批判があるが、いつだってほとんど審議されたことなどないのは、前述した「明治」からの制度が継続しているからである。

こうした「制度」の居心地のよさは、大蔵・財務官僚という、学校時代にわが国でもっとも勉強ができたひとたちの集合体にまかせれば間違いない、という性善説に基づいていたはずだったが、そこにたっぷり「利権」がはいりこんだから、この甘い汁を吸いたいひとたちにとっては、天国のような居心地になる。

しかし、その甘い汁とは、国民の血と汗にほかならないので、左派を中心としたひとたちが、アメリカのように議会に予算編成権を移転させる「政策」を選挙のときにいうかとおもえば、そんなこともないのは、予算委員会で予算を審議しなくてもいいという、べつの甘い汁があるからだろう。

議会予算局が設置されたら、こまるのは予算について猛勉強を強いられる「議員」に負担がかかることが、嫌なのだ。
しかし、国民のお金で「政策秘書」を雇えるようにしたはずであったが、こちらはどうしたことか?

じつは、わが国には政党に付属する「シンクタンク」が存在しないのである。
だから、さまざまな問題について、議員に進言するひとが「役人」になってしまうのである。しかも、無料だ。

議会予算局設置が、みずからの信念がないとできないはなしになるのは、その活動をみたひとびとが「救われる」とおもえるかにかかっている。

日本国の禊ぎ修行でもある。

体制転換の立法爆発

世界でわが国「だけ」が、やたらと低い経済成長率しか達成できないのはなぜか?
所説あるものの、またまたデービッド・アトキンソンさんが、「中小企業基本法」が諸悪の根源だと指摘して議論をさかんにしている。

このブログでは、経産省や財務省といったところの官僚による国家の簒奪を訴えてきたから、おおきな風呂桶の栓を指摘されたごとくでもある。

ちなみに、中小企業を「管轄する」中小企業庁は経産省の外局で設置は1948年だから占領中で、話題の中小企業基本法は1963年にできた。

江戸幕府の体制をささえた末端の制度に「岡っ引き」がいたが、近代日本国政府にもたくさんの「岡っ引き」がいて、今日もいたるところで活躍している。

それで、中小企業庁の岡っ引きは、中小企業診断士というひとたちだから、中小企業基本法に噛みつけば、このひとたちから「ご意見」ならぬ「ご異見」がでてくるにちがいない。

もちろん、中小企業診断士にだって立派なひとはいるから、一般論ではあるけれど、法律や政府(中小企業庁)がきめた枠組みからはずれることを嫌う議論が「異論」としてでてくるだろうという予測である。

「その枠組みのなかで」、という制約こそが、岡っ引きの活動範囲だからである。
なので、ここでははなしをすすめる。

経済発展について、すこし前なら「西ドイツ」と「東ドイツ」という比較があった。
いまは、新進気鋭の政治アナリスト、渡瀬裕哉氏の指摘である朝鮮半島の二国家を比較すればよい。

どちらも日本だった終戦時、じつは北側が経済発展していた。満州につながるからだけでなく、農業も工業も南側よりもすぐれていたのである。
それから、分断されてこの関係は完全に逆転したのはなぜか?

南側が「自由主義経済体制」になったからである。

だから、わが国が昭和のおわりから平成時代の30年をつうじて、ぜんぜん経済発展しない理由はかんたんで、「自由主義経済体制」をやめたからである。

1990年代から顕著になるのが、「立法爆発」だ。
従来から比較すると、「倍以上」の法律が制定されつづける。
これが各種業界への「規制法」ばかりなのであって、まさに箸の上げ下げまで役人の指示を仰がねばならなくなったのである。

それでひさしく「規制緩和」が政治のテーマになるのだが、ことばおおくして具体的成果がほとんどない。
もしかしたら、規制緩和したつもり、という気分が先行しているだけになっているのではないか?

よく指摘され、もっともわかりやすい例が「uberTAXI」の導入が「できない」ことだ。
それで、タクシー業界は国内でしか通用しない「タクシー・アプリ」を開発するという手間をかけた。

ムダである。

しかし、このことがしめすムダは、たんにアプリの開発だけではない。
既存業界の温存というムダ。
その業界に、役所が料金やあろうことか運行できるタクシーの台数までもきめる役人仕事のムダ。

料金と数量をきめられたら、売上がきまる。
すなわち、わが国のタクシー業界は、とっくに「国営」になっているが、民間企業ががんばっているようにみせかけているムダまである。

プロ・ドライバーだから、利用者だって安心なのだというのは、かつて、ガソリンスタンドがセルフになるまえ、素人が揮発油をあつかったら火災事故が頻発するというはなしに似ている。
寡聞にして客が原因のガソリンスタンド爆発事故を聞かないが、これを主張したひとはどうやって責任をとっているのかさえも聞かない。

アトキンソンさんがいいたいことは、こうして「保護」された業界がムダに存在する不効率だろう。
すなわち、利用者が保護されていないのだ。
日本は民主主義国家ではない。

これは地方自治もおなじだ。
退職後の「移住」がブームではあるけれど、どちらの自治体も若い移住者をもとめて、リタイヤ組には冷たいのは「社会保障負担」があるからである。

けれども、移住検討者からすれば、全国津々浦々住民税率がおなじなのである。
これは、中央集権が強固に確立されてしまったことから、もはや自治体が自分で税率をきめることすらできないという意味だ。

すなわち、ここにも「競争」が存在しないのである。
自治体の競争を、アメリカ人は「善政競争」という。
いまの日本に無い概念なのは、日本だからが理由ではない。

むしろ、幕藩体制下のほうがよほど選択肢があって、あんまりひどければ住民が他藩へ「逃散」してしまった。これを公儀にばれでもしたら、お取り潰しの危機に直結したから、ちゃんと「善政競争」をしていたのである。

ようするに、わが国は30年かけて社会主義国に体制転換したのである。
なんでもわが国にまねっこしたい隣国が、気がついたら先を越しているのがいまの状況ではないかとおもえば、首肯できるではないか。

それで?
どうしたら経済成長できるのか?
ふたたび自由主義経済体制へ体制転換をするしかないのである。

ところが、わが国も隣国も、その手本に中国を選んでしまった。

なるほど、社会主義下で自由主義っぽい経済体制にしたいから、アメリカをけっして手本にはしないのだ。
それで、香港のひとたちをがっかりさせる「国家主席」の「国賓」招待が堂々と予定されるのだ。

わが国の暗い将来が、だんだんとみえてきたような気がする。

サービス業はユーザ工学も参照せよ

以前「感動工学」について書いたことがある。
「工学」がつくから理系だし、基本的に「モノ」が対象である。

だから、サービス業の従事者は「自分たちに関係ない」と思いこむ傾向がある。
いまだに、サービス大手企業の経営トップが、製造業を評して「ベルトコンベア」というほどの「時代遅れ」にだれも反論しないのは、そのひとが「偉い」からだが、しゅうへんに「えらい」迷惑を拡散していることにも気づいていないから深刻なのだ。

「おもてなし」を重視するサービス業は、製造業なんかとちがうと自慢するのは「高度な産業」なのだといいたいのだろうが、いいかたの比喩が完全にまちがっているから、従業員にあらぬ誤解を埋めこんでしまうのである。

たしかに「高度な産業」である。
しかし、「高度」という理由は、相手が人間だから、なのであって、それ以上のことではない。

戦後のモノがない時代は、たとえ粗悪品でもそこそこ売れた。
それは、人々の所得も低かったからである。
だから、社会全体が豊かになる(所得もあがる)と、粗悪品では満足できず、高品質なモノを要求するようになって、工業はこれにこたえてきた。

じつは、宿泊業だって、モノがない時代に粗悪な宿しかなかったのは、主たる都市が空襲で焼けてしまったし、焼け残った上質な宿は「接収」されてしまったから、ふつうのひとは利用できなかった。

高度成長期に、観光ホテルが有名温泉地を中心に新築されて、画一的な施設とサービスをもって、大量生産大量消費がおこなわれた。
「大きいことはいいことだ」ったのは、なにも工業だけのはなしではない。

一泊二日で宴会付というスタイルは、「流し込み」状態だったから、ベルトコンベアとかわらない。
唯一のちがいは、施設のなかにベルトコンベアがあるのではなく、「お客の動き」自体がベルトコンベアだったのである。

ところが、70年代に「高度」成長が中折れして、低成長時代に突入した。
当時の月次統計をみれば、石油ショックが原因ではなく、田中角栄内閣の経済政策失敗がそうさせたということも前に書いた。

つくれば売れるの終焉でもあった。
ここから、製造業はがぜんと「高品質」にむかうのである。
しかし、サービス業のおおくは、この変化に対応せず、「守旧」したのである。

その理由は、哲学しなかった、に尽きる。

それで、時代の対応として、カラーテレビと冷蔵庫を各部屋に配置し、それぞれに「料金課金」できるようにした。
つまり、サービスではなく「モノ」の購入で時代を乗り切ろうとしたのである。

そして、その「モノ」自体の品質にたすけられた。
なるほど、「高度」なわけである。
つまり、たまたまだが、「他業種の製品の上」にあるのがサービス業であることがみえてくるのである。

しかして、この構造をいかほどの業界人が意識しているのだろうか?

意識できていれば、「モノ」の選択における「センス」が重視されるようになるはずだが、いまだに「価格」が重視されている。
「低価格」でなければならない。

にもかかわらず、食事のメニューにはやたらとこだわるから、バランスが崩れるのだ。
この崩れたバランスを、利用客が敏感にかんじとれるのは、利用客の生活水準が高いからである。

そんなわけで、わざわざバランスの崩れた環境に身を置くことを避けたくなるのは人情かつ合理性があるので、目的地の旅館ではなくビジネスホテルを予約するのだ。

『ユーザ工学入門』(共立出版、1999年)は、「ユーザ工学」について書かれたわが国で最初の書籍である。

ここにおける「モノ」のはなしは、ものづくりのこだわりがわかるだけでなく、「サービス」に応用できる。

「こだわりのサービス」とはいうけれど、おおくは提供者側の自己満足がみえかくれして、利用者側にそのこだわりが遡及しないばかりか、かえって不便さまで感じさせることまであるのは、ユーザの使い勝手を軽視しているからである。

つまり、「販売」を重視した結果であり、「使用」や「利用」を後回しにしているのである。
だから、たとえばHPに「女将こだわりのウェルカムドリンク」がうんぬん、といった記事をみるのだ。

売りたいのはわかるけれども、それが「前面に露出」すると、押し売りになる。
すると、それが利用者からすれば「嫌われる努力」になるのである。

世の中のトラブルのおおくは、さいしょから悪意があることはすくなくて、「よかれ」としたことが原因であることのほうがはるかにおおいのは、「よかれ」が「押しつけ」になって、しまいには「命令」に変化するからである。

「よかれ」の実行のまえに、一拍おいて相手の「利用」と「使用」を自分で実験するのがよかろう。

ハムラビ法典のブーメラン

お騒がせな「あいちトリエンナーレ」が閉会した。
芸術とはなにか?とか、芸術の原理について先月書いたが、とうとうブーメランを投げつけるひとがあらわれた。

主催者は、「人物の肖像を燃やしてその灰を踏みつける映像」が「芸術」なのだという。
ならばと、この催しの実行委員会委員長である愛知県知事の顔写真を「燃やしてみる」という動画がアップされている。

さらに、文化庁からの補助金がなくなったことを、同じく愛知県知事が非難していることにかこつけて、この「芸術動画」について愛知県からの補助金を申請するという。

「噴飯物」に対して「噴飯物」で応じるのは、ハムラビ法典の論理そのものである。

この、おなじことの応酬(「同害報復」という)は、おなじ身分間でのこと、という限定があったので、現代日本の「身分がない」価値観では、かえってだれにでも通用できるという意味になる。

ここに、あんがい「誤解」がうまれるのは、古代と現代の価値観を混同するからだ。
ハムラビ法典はいけない法典だというひとは、時代の区別ができないことを告白している。

一方で、大ヒットした『半沢直樹』が応酬する「倍返し」というのはハムラビ法典の趣旨に反する。
すなわち、倍返しとは「過剰な報復」になるからで、その意味で「同等」におさめることをあらかじめ定めている「刑罰法定主義」のハムラビ法典は近代法とおなじくするからたいしたものなのである。

ドラマで頭取が半沢直樹を諫めるのは、この「過剰な報復」をもって「やりすぎ」といわしめた。
もしかしたら視聴者には「興ざめ」だったかもしれないが、きわめてバランス感にたけているセリフなのである。

現代社会で刑罰法定主義がこわれたら、目も当てられない暗黒社会になってしまう。
その意味で、半沢直樹の思想は危険なのである。
ゆえに「エンタメ」としての成功があるのだろう。

もとの動画にはなしをもどすと、コメント欄には「より過激な動画をもとめる」ひとがおおいようだ。
その過激さとは、芸術監督をしたひとの顔写真を対象にすべきとか、ちゃんと灰を踏みつけるようにうながすものだった。

しかしながら、動画をつくった本人は倫理観がつよいのか、かなり「躊躇」しているのである。「同害報復」を承知しながら、なんだか「優しい報復」をしている。
だから、コメント欄で過激さをもとめるひとには、「だったら自分でやってみたら?」という感想をもつ。

いずれにせよ、これで主催側のダブル・スタンダードがはっきりしてきた。
愛知県知事の写真を燃やすのもありですよね?というTwitterでの質問(念押し)に、当の知事は「アカウント・ブロック」をして、その理由に「誹謗中傷はみとめない」と書いた。

自分以外ならいいということだし、自分の写真なら誹謗中傷になるというのは、ずいぶんわかりやすいダブル・スタンダードである。
それに、文化庁の決定に「強く対抗する」ということは、ようは「お金」がほしいのだという本音も暴露された。

何のことはない、「芸術」とか「表現の自由」というのはたんなる「箔つけ」の修飾語である。
憲法を持ちだすと、あやしいと思え、が常識になるだろう。

ところで、愛知県や名古屋市のひとたちは、住民監査請求を出さないのはなぜか?
県や市の支出が「不適正」となったとき、知事は自費で費用負担する覚悟はあるのか?

それに、この催しの収支決算がどうなのかはまだわからないが、おそらく赤字であろう。

この「赤字」をだれが埋めるのか?

どんどん下世話になっていくのは、もともと筋がわるいからだが、ある特定の「思想」をもったひとたちからすれば、話題になって壊れることが目的でもあるだろう。

しかし、ダブル・スタンダードがばれてしまえば、ただの「お粗末」に回帰するだけだ。

すると、まさかの「同害報復」だったことになる。
あんがい主催者にとって「灯台もと暗し」だったとすれば、「お粗末」な同害報復動画であることが、より一層の「お粗末」を際だたせる効果があるというものだ。

ハムラビ法典の智恵、おそるべし。

統計クイックリファレンス?

統計の教科書はたくさんあるので、どうしたものかと大型書店で悩むのだが、タイトルのお手軽さとは真逆の一冊それが『統計クイックリファレンス』だ。

600ページもある書籍が、どうして「クイック」で「リファレンス」なのかわからないけど、原著のタイトルはズバリ『STATISTICS IN A NUTSHELL』となっていて、「はじめに」では統計について既に知っている人のためのハンドブックと初めて統計を学ぶ人のための入門書との中間に位置する、と説明されている。

IN A NUTSHELL(要するに)、本書の想定読者は、
・高校や大学などで統計の入門クラスを取っている学生
・業務上あるいは昇進のために統計を学ぶ必要のある社会人
・知的好奇心から統計を学ぼうとする人々
と明記もしている。

つまるところ、統計を統計として知り、統計的にかんがえたいひとたちのための教科書であって、数学的にほじくり返すことを目的としていない。
これが、著者による本書の執筆動機で、あまたある類書とのちがい、すなわち本書の存在意義だという。

以上から、わたしが注目したいのは、二点ある。
1)想定読者が具体的に示されていること
2)本書の立ち位置を明確にしていること
である。

これは、「出版企画書」において当然の記述なのではあるが、日本の専門家による書籍だと、そうはいっても著者のひとりよがり、を多数みることができるから、あんがい実践がむずかしいものなのである。

その証拠に、数式だらけになっているのに「初心者のための」とか「統計入門」なんていうタイトルがまかり通っているし、ページ数が少ないのに統計学全体を網羅しているものもある。
さすれば表記がかたくなって、説明に丁寧さが欠けるのは必定だから、ぜんぜん初心者でも入門者向けでもない、レベルが高い教科書で読者は翻弄されることになる。

つまり、自分の知識を披露するだけで、読者の理解をうながすものではない。
こうした教科書が、なぜか日本人学者の手によるモノとしては一般的だから、アメリカ人学者が書いた丁寧な教科書の翻訳本が、いまだに重宝されるのである。

これは以前書いた「発見的教授法」の流れではないか?

すると、あらためて理系の教科書をかんがえると、世界的に売れている=学生に支持されているもののほとんどが、アメリカ人学者によるものだということに唖然とする。
そして、その特徴はどれもページ数がおおいか、分冊されるほどの分量があるということがわかる。

読者である生徒や学生に、読めばわかる、という「品質を保証している」から、どうしても説明がながくなる。
また、つまずくポイントに先回りして解説しているから、読者は安心して読み進めるようにもなっている。

何年も、何人もの生徒や学生をおしえていれば、理解のためのポイントをどうしたらわからせるかの問題を教師が問い詰めて解決してきた成果がそこにあるのである。

いまだに中学・高校レベルなら、日本人の子どもたちの理系学力はアメリカ人のそれよりも高いという。
しかし、四年後、大学を卒業するときには、ウサギとカメのレース以上に、格段にアメリカ人の学生の実力が上回るとは、日本の大学教師のよくいうボヤきである。

もちろん、入学は容易だが卒業できないアメリカ式と、その真逆をいく日本式の履修方式と落第という制度の差だという意見が多数あるけれど、自習できる教科書の品質という違いがあるとかんがえる。
これに、授業料の差も加わるだろう。

アメリカの大学の授業料は、たとえ公立大学でも年間600万円は覚悟しなければならない。
有名かつ名門という私立大学なら、年間1000万円超えは「相場」なのだ。

だから、学生はおいそれと留年なぞできないし、山積する宿題があってアルバイトに精を出す余裕すらない。
もちろん、外国人留学生には、日本的アルバイトでも就労許可はおりないから、みつかれば即国外退去処分をくらう。

つまり、四年間、勉強漬けになるようにできている。
そうかんがえると、本書を「クイックリファレンス」と訳出した、日本人学者陣の意図がみえてくる。

たかが600ページしかないのに、ちゃんと項目別に章立てされているのは「すぐに引ける」という意味であり、内容も「参照程度」ではないか、と。

なるほど、一科目だけで毎週数百ページの指定教科書を読破し、そのレポートを提出しなければ授業の受講資格を失う厳しさを体験すれば、この程度なら鼻歌まじりになるという感覚は、ただしい。

ぬる湯に浸かりっぱなしの日本の学生の将来が、心配でしょうがないのだろう。

同感である。

旧約聖書を読むべきだ

日本人には宗教を医学化してしまうくせがある。
つまり、薬のように「効く」か「効かない」という選択を、宗教に対してするのである。

この列島のもともとのオリジナル宗教は「神道」である。
だれでも「八百万神」はしっているが、具体的な神様となるととたんに「天照大神」のほかによくしらない。
戦後の教育がそうさせた。

韓国ではハングル教育に特化して、漢字の教育をやめようとしたのは李承晩政権下1948年施行の「ハングル専用に関する法律」だったが、これを「禁止」にまでしたのが朴正煕政権下1970年だった。
そんなわけで、漢字が読めないことがふつうになったのである。

かくして、教育の「成果」には、「退化」もふくまれることがわかるのである。
もちろん、日本だって、ついぞ明治期の文学すら原文で読めるのがふつうだとはいいがたい。

学校教育が明治のはじめに制定されたからといって、すぐに江戸時代の教育がすたれたこともない。
身分制における教育だから、武士階級とそれ以外では根本的にことなる。

支配層としての教養は、武士階級だけに伝播すればよく、幕府が朱子学を奨励したのは、将軍という君主に対する臣下のありかたを解いたからで、各藩もこぞってこれにならうのは将軍に対する叛意のなさを示すと同時に、藩主への忠誠をまなばせる必要があったからである。

しかしながら、朱子学とは儒学の解釈でもあった。
日本では「儒学」だが、本家では「儒教」であるから宗教なのだ。
宗教が禁じられる共産社会をのぞくと、儒教がいきているのは韓国で、いまでも「宗教」なのである。

インド発祥の仏教も、病気平癒をはじめとして、わが国に伝わるとどうしたわけか「薬」になって、寺院は「学問化」して学僧ができる。
学僧は森羅万象に通じるべく修行にはげむが、求められるのは「薬」としての効能なのである。

どの宗教が「効く」のか?

庶民に余裕ができてくると、庶民向けの宗教がうまれる。
それが爆発的なエネルギーとなってあらわれたのが「一向一揆」だった。
法然を始祖とし、親鸞が完成させた。

それで、為政者はいかにして一向宗を鎮めるかが重要課題になる。
そんなときに、キリスト教が伝播して、どんなものかときけば一向宗に似ているので、代用として採用をはかるのである。
けれども、宣教師には別の目的(植民地化)があることをさとって、これを禁止したのは、近代日本の成功における根本につながる。

そんなわけで、キリシタンはあやしい、ということになっているが、これを支えたのが、東西に分裂させられた本願寺の存在ではないかとかんがえるのである。
真宗の教義は、キリスト教に酷似しているからである。

徳川幕府における「奉行」でも、とくに重要で将軍直属という別格が「寺社奉行」だった。老中直下の勘定奉行・町奉行とは組織上も段違いなのである。

しかし、残念ながらグローバル化したいまの時代において、「儒学」の価値観では外国人相手には通用しない。
世界観として、最低でも『旧約聖書』は読んでおきたい。

明治の知恵は、「日本教」という独自の宗教をあみだして欧米に対抗し、成功した。
これが「国体」の正体である。

すなわち、キリスト教世界における「神」を「天皇」に読み替えたのだった。
だから、天皇は「現人神」である必要があった。

現代のひとびとはかんたんに「バカな」と嗤うが、当時のひとびとだって、天皇が人間であることは承知している。
にもかかわらず、「現人神」としたのは、欧米のような中心がないゆえの想像上の中心を天皇に仮託していたからである。

つまり、「イリュージョン」である。
しかし、「イリュージョン」を「イリュージョン」としてあつかうことの意味を承知していた。
だから、最貧国から急速に一等国たりえたのである。

明治人のおそるべき欧米研究の深さとその理解、そして応用実務なのである。
これができたのは、江戸時代をつうじて「儒学」の完成があったからで「儒教」としなかったことだ。

ところが、三島由紀夫が「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」と嘆じたように、新憲法発布前に「人間宣言」をしてしまった。(させられた)
これをもって、明治以来の「イリュージョン」が溶けてしまったのである。

山本七平が、「『戦前の日本人が神話を事実と信じていた』という”神話”を戦後の日本人は信じている」というのはこのことである。

しかし、その「溶け方」が緩やかだったのは、「イリュージョン」であることを意識できる世代が生き残っていたからだった。
端的にいえば、「昭和一桁」世代のことである。
このひとたちが、明治期教育の最後の世代だからである。

もはや「昭和二桁」がほとんどとなったから、急速にわが国の中心が溶解しているようにみえるようになった。
つっかえ棒を完全喪失したからである。

いまさら「日本教」に戻れない。
ならば、せめて明治人が原典とした『旧約聖書』を読むしかない。

「薬」になるからである。

いまさらモラル・ハザードの消費税

政府のポイント還元策を「暴力とおなじだ」と発言したのは、9日イオンの岡田元也社長の決算会見だった。

どうしてこんなに怒っているのか?
それは、「大手小売」のばあいはポイント還元策が「適用されない」という、なんだかわからないルールを政府がかってに決めたことだ。

じつは、「大手コンビニ」は、個々の店舗経営者のおおくが「個人事業主」や「中小企業」であるため、「大手」のはずなのにポイント還元が適用されるからである。
この「不公平」を怒っている。

はぁ?
というのが第一印象である。
ここには、「消費者」が存在しないからだ。

わが国で「流通革命」を起こしたのは、ダイエー創業者だったけれど、創業時に手書きで店舗に張られたキャッチ・フレーズは「主婦の店」だった。

すなわち、いまようにいえば、「顧客から愛される店」ということであって、それには、「顧客利益の追究」という信念がふくまれていた。

企業再生の現場で、「顧客利益の追求」ということをいうと、「われわれの利益はどうでもいいのか?」という経営者にであうことがままある。
顧客に利益をあたえたら、自分たちの利益がなくなるという発想をするのである。

そんな発想をしているから、企業再生という事態になったのだが、これに気づかない経営者はたくさんいる。

むしろ、どうしたら自分たち「だけ」が儲かるのか?を追究すると、驚くことに本当に消費者に所得移転するような「安売り」をすすんでするのである。
安くしたら販売数量が増えて売上も増えた、というささやかな成功体験しか経験していないから、それも当然なのだが。

ダイエーがどうなったかは、周知のとおりである。
いまでも「ダイエー」のカンバンで営業している店があるのはどういうわけだかしらないが、とっくに「イオン・グループ」になっている。

かつての流通革命の旗手「カリスマ経営者」といわれた中内氏にして、巨大化したグループになったら「主婦の店」をわすれてしまった。
それが「転落」の原因であり結果である。

一代の繁栄と衰退は、だれにも書けない長編小説のような、けれどもまさに事実だったのである。

そんなダイエー衰退のDNAを、まさかイオンに埋めこんだわけではあるまいが、岡田屋から巨大化したイオンにあって、いつか来た道にみえたのはわたしだけではあるまい。

いま、この国ではあらゆる方面で「モラル・ハザード」が起きている。

神戸の小学校教師による同僚へのイジメ事件は、とうとう子ども時代にやっていたことが、おとなになっても変わらないことを証明したし、元校長によるパワハラもあったというから、安っぽいTVドラマが現実になったわけだ。

しかし、この問題を所管する教育委員会こそが、もっとも他人事だから、なにがなんだかわからない。
ましてや、こうした事件を報道する側にも、じぶんたちの都合でシナリオ化して「報道」するから、視聴者には「憎悪」しかうまれないように仕向けている。

流通の場にもどれば、来年からはじめたい役人の意向をくんで、レジ袋の強制的な排除を推進すべく、各種検討会がおこなわれているけれど、こんどはレジ袋メーカーが倒産したり廃業に追い込まれる予想がでてきて、経産省がぐらついている。

言いだしっぺの経産省が、こんな「予想」もできなかったのかと、驚くのは国民の方で、ようやく不信感がちょっぴりできたのはいいことだ。

前にも書いたレジ袋有料化とは、関係省庁の「省令」だけで実施しようという暴挙だ。
国民にまんべんなく負担を強いることを「法律」で決めない。つまり、国会を通さないで実施するとはどういうことか?

このような手続き上の暴挙すら、衆参両院で国会議員が700人以上もいて、だれも問題視していないというモラル・ハザードがある。
香港でのデモをかんがえたら、日本でデモがおきないことは不思議を通り越して、「無感」としかいいようがない。

当然なのだが、イオンをはじめとした流通業のみなさんがこれに「賛成」なのは、経費削減以上の利益がでるからである。
無料で配付していたものが売れるのだから、その差額はぜんぶ利益になる。

たしかに「主婦」は小数派になったかもしれないが、「主婦(消費者)の店」というカンバンをかかげる小売業が消滅してしまって、自分たちだけが儲かればよい、というモラル・ハザードが蔓延している。

消費者の立場なら、この負担の根拠が「地球環境」という世迷い言なのだから、泣きっ面に蜂なのである。
レジ袋を食べて死んでしまう海洋生物はたしかに気の毒だが、その前に、レジ袋をきちんと捨てることが重要なのだ。

この手間をはぶいて、レジ袋を禁止すればあたかもすべてうまくいくのだとかんがえる浅はかさをだれもいわないことがモラル・ハザードなのである。

消費税の増税理由だって、十分にモラル・ハザードだし、軽減税率の適用ルールだってモラル・ハザードしている。なのに「イート・イン脱税」という倒錯がいわれるのは、まっさきに軽減税率の適用を確約された新聞社が親会社のテレビ局だからか?

こんなモラル・ハザードだらけの国がどうして発展などするものか?
香港住民の40%が移住を希望する事態となったが、移住希望先にわが日本国がランクインもしないのは「難民」すら忌諱する国に成り下がったのだ。

何のことはない、香港をいじめている大陸の国と同然視されているのだ。
こんなことにも気づかないのは、モラル・ハザードを超越してぜんぶ壊れたからか?

LGBTの「英雄」伝

しらない世界にふれることは、やすやすとできることではないから、それなりに覚悟がいるのだが、「映画鑑賞」というお手軽さに託せば容易である。

半世紀以上いきてきて、おそらく「生まれて初めて」、フィンランド映画というものを観た。

フィンランドといえば、オーロラや森林、それに『東郷ビール』という伝説があったことをイメージする国だ。
往年の日本での「うわさ」では、日本海海戦に勝利した東郷平八郎提督の肖像画をラベルにしたビールのシェアは7割もあって、それは、日本における「キリンビール」のシェアと似ていた。

しかし、情報化時代には、あっさりと調査・研究報告をみることができて、じっさいは「世界の提督シリーズ」のひとつだったし、販売していたメーカーはとっくに倒産している。

この「ラベル」をつかったビールが、いまでも日本国内で販売されているから、あたかもフィンランド人の常識的なビールだと錯覚してしまうけれど、はたしてこれを「復刻」といえるのかといえば、きびしくはないか?

しかし、ロシアに圧迫されつづけているフィンランドにあっては、「フィンランド化」ということばができたほど、第二次大戦後はソ連の準衛星国にされたから、革命前とはいえ、東洋の小国がロシア帝国を打ち負かしたとされる日露戦争の評価はたかい。

彼の国の国民的作曲家シベリウスの代表作『交響詩フィンランディア』は、あまりにも国民感情をたかめるという理由で、ソ連時代には演奏が禁止されていたという歴史をもつ。

その「フィンランド化」を、日本もするべきだという積極的準衛星国論を書いたのが、日本では有名な評論家、加藤周一(1919年-2008年)だった。

一般的に親日のポーランド人が口にする、日本は「隣国である」という感覚は、大嫌いで広大なロシアさえなければ、という条件がつくが、それはフィンランド人にもいえるようで、じっさいフィンランドも親日国であるのはポーランドやトルコ同様に「明治」のおかげである。

そんなフィンランドを代表して、アメリカのアカデミー賞にノミネートされたのが『トム・オブ・フィンランド』(2017年)である。

本名は、トウコ・ラークソネン。
自身もゲイを表明したが、時代背景をかんがえれば、本人だけでなく家族や周辺にも厳しい批判があったことは容易に想像できる。
じっさい、この映画における彼の半生は、「苦悩」しかない。

男性のゲイをあつかう映画だから、ほとんど女性が登場しない。
彼自身は「画家」として世界的な芸術家になるのだが、戦後はヘルシンキのシベリウス音楽院でピアノを専攻している。
それで、ピアノを弾くシーンがさりげなく多い。

映画では「ソ連支配の時代」がとくだん強調されてはいないが、「ベルリン」という街の背景にナチス時代を彷彿させる警察権力が、個人宅にまで入りこむ恐怖の現実が表現されている。
もちろん、ここは西ベルリンではなく東ベルリンのことである。

はたして「風紀を乱す」とはなにか?
そういえば、むかし中学校にも「風紀委員会」があった。
いまはどうなのだろうか?
おそらく、日本文化として残存しているにちがいない。

ヨーロッパの学校事情は、その国の「自由意識」という基盤に乗っているから、国によってさまざまな「形態」となってあらわれる。

学校依存が強いのはフランスで、プロである教師、なかでも校長の役割は重大で、親といえども校長の事前許可なく学校敷地にはいることすら許されないし、指導面の相談もすべて校長との面談となる。
問題のある子どもの親はすぐ校長に呼び出される。

逆に、旧東欧社会主義圏では、学校はあくまで「勉学の場所」と割り切っていて、生徒の生活指導をする場所ではない。
生活指導の場は、家庭と地域のクラブ活動になっている。

そうかんがえると、日本はえらく中途半端なフランス式で、あんまり中途半端だから「日本式」とあえていうのであろう。
ただし、国や自治体が支配していることになっていながら、首長の指示を無視する教育委員会がでてくるから、めちゃくちゃになっている。

あらためて「LGBT」とは、Lesbian(レズビアン、女性同性愛者)、Gay(ゲイ、男性同性愛者)、Bisexual(バイセクシュアル、両性愛者)、Transgender(トランスジェンダー、性別越境者)の頭文字である。

性的指向のうち、異性愛を意味する「ストレート」というのは、異性愛者側からの表現ではない。
すなわち、性的指向の多様性とはいうものの、前提が異性愛であることを認めていることにもなっているから、これも批判の対象だ。

さいきんは、各種ある「申込み書」の記入欄における男女の選択に「なし」という選択肢をみかけるようになった。
はたしてこれを「ビッグデータ」として収集すること間違いない。

すると、LGBTに「S」をつけることで、選択させるほうがより正確ではないのか?

すでに、「LGBT市場」という有力な市場がうまれている。

しかしてそれは、国家権力による個人への介入を許さない、という一面があることを、しっていたほうがいい。

モバイルPCへの消えない不満

仕事がら「モバイルPC」がないといけないシーンはたくさんある。
なかでも「文章の作成」とプロジェクターへの「投影」は、必須になる。
これは、いうまでもなく「インプット」と「アウトプット」の関係にある。

パソコンで「インプット」といえば、いまでも圧倒的に「キーボード」を必要としている。
たとえば「音声入力」が便利だといっても、そんなにスラスラと文章を言葉にするのはかんたんではないし、結局、修正するのにキーボードが必要だ。

また、この「動き」を補助するのは、「マウス」であって、「タッチパッド」がどんなに技術革新してもかわらない。
むしろ、タッチパッドは緊急時に仕方がないからつかうのであって、マウスが利用できるなら、そちらが優先する。

客先にむかう電車のなかで、資料の修正をしなくてはいけなくなったとき、運良く座れたものの、しっかり膝のカバンの横でマウスを走らせていたものだ。そんな状況でも、タッチパッドは不便だとおもうのはわたしだけか?

すると、昨今の「モバイルPC」は、軽くて薄いことを売り物にする分、必然的にインプットの「不満」が、高まることはあっても減ることがない。

これは、本体の「薄さ追求」とキーボードの「キーの深さ確保」が相反するからである。
いわゆる「高級キーボード」でしられる、静電容量式のキーボードの「心地よい『打鍵感』」は、その深さを「キーストローク」といって、深さ4mmもあるのだ。

よくいわれる「キーピッチ」とは、キーとキーとのあいだの「幅」のことで、1.9mmが標準というのは、おとなの手の指が動くときの感覚とマッチするからである。
これは、設置したときの本体の面積と関係するので、すぐさま小型画面のPCの弱点となる。

だから、標準型以上になると、「キーピッチ」ではなくて、がぜん「キーストローク」が、つかい勝手をきめるのである。
さいきんのモバイルPCは、1.5mmもあれば上等だから、打鍵感の貧弱は否めない。

外出先で長文を入力する必要があるときには、上質な「モバイル・キーボード」を携行したくなるのは、圧倒的なつかい勝手と、疲労感がちがうからである。
いわゆるPCによる「肩こり」の原因にもあげられるのは、打鍵感のわるいキーボードは、人間の感覚とマッチしないからでもある。

そうなると、「モバイル・キーボード」が、PC本体とおなじタイプの「薄さ」や「軽さ」を追究したものだと意味がない、という問題になるはずだが、どういうわけかそういう部類のモノが売られていて、はたまた売れているらしいのはどういうことか?

ここに、あいかわらずの「プロダクト・アウト」を感じるのである。
メーカー側が、都合のいい製品をつくるばかりで、消費者に都合がいい製品が見あたらなければ、不都合を承知で購入するしか選択肢がないからである。

入力補助の役割だからといって侮れないのが「マウス」である。
しかし、これも「決定版」に乏しいから、ついうっかり買い足して、いくつものマウスを所有しているというひとは多いだろう。
あるいは、自分が気に入ったものを複数購入し在庫保存していて、もしもの「製造中止」に備えているひともいる。

わたしが知り合ったひとのなかでも、表計算ソフトの「エクセル」を日常的に多用しているひとは、マイ・キーボードとマイ・マウスをかならず携行し、壊れたときのための予備も自宅あると自慢しているひとがいた。もちろん、このひとは、モバイルPCも携行しているから、ビジネスバックでははいりきらず、旅行バックで移動する必要があった。

総重量を聞きたくなかったが、本人から「重いです」と笑顔でいわれたのが印象にのこる。
キーボードには数値入力のための「テンキー」がなければならないので、キーボードだけでもモバイルPCより重いはずであった。

それで、愛用のマウスはなにかと質問したら、専用ソフトでボタン設定が自由にできるタイプのモノで、手に馴染まないといけないから、「これしかない」という検討の末の結論だという。

なるほど、と思ったのは、「日本製」ではなく、「スイス製」だったことだ。もちろん、ほんとうの製造国は別であっても、知的財産はスイスの会社のものだ。

「マウス」という機械の、読み取り精度やボタンの耐久性などは、日本製に一利あるがそれだけで、ソフトウエアの便利さがちがう、というのだ。
マウスのボタンが、つかうアプリケーションによって、設定が自動的に変わるし、そうした設定があらかじめできる、という「機能」が購入されている。

こうなると、モバイルPCのタッチパッドは「不要」ということになる。

さらに、一般人でも薄々気づくひともいる「日本語キーボード」への不満もくわわる。
キートップに「ひらがな」が印字されているのは、「ひらがな入力」のためで、これこそが「日本語キーボード」の存在理由なのである。

おそらく、ほとんどのひとが「ローマ字入力」しているはずだから、だったらいわゆる「英語キーボード」のほうがつかいやすい。
「Enterキー」が、英語キーボードのほうが右手小指に「近い」から押しやすいし、「スペースキー」が、長いからちゃんと両手の親指で「日本語変換」ができるのだ。

日本語キーボードは、パソコン泰明期の日本語入力方式にかんする混乱と苦労が、そのまま「JIS」になって、いまでも守られている不思議がある。

日本語の標準的な入力方法はとっくに「ローマ字入力」にちがいない。
だったら、ローマ字入力用の「JIS」をつくるならいざ知らず、「ひらがな入力」をかたくなに維持するのも、やっぱり「プロダクト・アウト」なのである。

結局、モバイルPCが、軽くてサイズも小さくなった分、快適な打鍵感の英語キーボードと、多機能マウスを携行するので、あんがいむかしと総重量がかわらないのである。
むかしのノート型パソコンは、しっかりしたつくりだったから、マウスだけ携行すればよかった。

そんなわけで、「マーケット・イン」によるモバイルPCが、手頃な価格でないものかと、ない物ねだりをするのである。

伝えることが困難なわけ

とっくに世の中は、「情報化時代」といわれていて、さかんに「コミュニケーションが重要」とも叫ばれているのに、どういうわけかその「コミュニケーション」がおかしくなってきた。

誤解をおそれずにいえば、日本人は日本人を相手にしたときに「阿吽の呼吸」が通じるものだという思い込みがある。
だから、この思い込みに期待できない外国人には、ちゃんと伝えようと努力をするか完全にあきらめるのであって、ほとんどの場合あきらめるのだ。

この背景には、「同一文化」への信頼があった。
つまり、日本人とはこういうものだ、という共通点が、たとえ粗っぽくても「あるはず」だから、ことばが少なくても通じると信じたのであり、じっさいにそれで通じてた。

しかし、「情報化時代」とは、多様化の別のいいかたで、同一文化が「分散」しはじめたことを意味するから、「阿吽の呼吸」が成立しなくなった。

それにくわえて、日本語の「主語を省略する」特性が逆に作用して、聞き流していては意味が通じないし、都合のわるい表現を言葉にしない。
それで、いよいよコミュニケーションが難しくなってきたのである。

人間の基本的な要求はボディーランゲージでも十分伝わる。
これは、相手も理解しようと努めるからである。
すると、コミュニケーションというものには、かならず「自分と相手」がいる、という関係がなければならないことがわかる。

自分だけなら「ひとりごと」になってしまうから、あたりまえだ。
けれども、あんがいこの「あたりまえ」が重要なのである。

もっと「あたりまえ」をいえば、自分のいいたいことが相手に伝わったとき、相手が自分のいいたいことを理解したかしないかということに、言った側はその時点では、もはやコミットできないということがある。

相手がぜんぜんちがうようにとらえたなら、あらためて追加して説明するか、相手を罵倒するかという選択肢しか、言った側にはないのである。

言った側からすれば、相手を罵倒するしかなくなったとき、コミュニケーションに失敗したと認識できればまだ冷静だが、罵倒するのだから、たいがいは冷静さをうしなっている。

冷静にかんがえれば、相手の理解力はどうなのか?あるいは、相手はわざとわからない態度をとっているかもしれないと、おもいつく。

すると、相手側への観察・研究が最初にひつようになって、その対策結果がことばにならないと「伝わらない」のだ。

これは、「マーケティング」の基本ではないか?と膝をたたいたら立派なものだ。

ショッピングセンターにいけば、あらゆる商品がある。
むかしの「ウィンドウ・ショッピング」だって、お金がないからという理由だけでなく、それで「夢」を買っていた。
いつかは購入したい。これはいらない。あっ、こんなのがあるんだ。

このときは「ひとりごと」かもしれないが、商品をみながらちゃんと「対話している」から、立派な「コミュニケーション」なのである。

今年の9月30日には、各地で地元老舗百貨店の閉店があいついだ。
はたして「時代の流れ」だけが、不振の理由だったのか?
むしろ、買い物客とのコミュニケーションに失敗したのではなかったか?

原因分析がまちがっていたら、対策もまちがう。
その間違いを何年もくり返していたら、とうとう資本がつきて閉店になるのは当然だ。大手だろうが個人商店だろうがちがいはない。
冷たいようだが、あとはノスタルジーで「残念がる」しかない。

しかし、だからといって百貨店という業態が、いまの世の中に必要のない存在なのか?と問えば、きっとそれもちがう。
だから、どこかに「解」はあるのだ。

「売れる」理由も「売れない」理由も、あとからつけることはできるけど、「売れるようにする」には、購入客の研究が必須なのは、どちらさまもかわらない。

その「購入客」が、「同一文化」でなくなったから、売り手の「阿吽の呼吸」が通じなくなった「だけ」なのだ。

この「だけ」をもって、コミュニケーションが難しいというようになったのである。
そんなわけで、「伝える力」をみがくために、「伝わる」ということをかんがえないと、にっちもさっちもいかない。

こういう「掘り下げ」が、重要だということがわかる本である。

いまさらだが、困窮した企業ほど、こうした「掘り下げ」を嫌い、安易な「こうしたらできる」に誘引される傾向がある。
それが「どちらさまも」やってしまうから、業界全体が衰退することがある。

すると、もっと深く掘り下げれば、自分はなにものなのか?自社は何なのか?といった存在のありかたまでに行きつくのである。
そして、そこに重大なヒントがある。

残念な企業は、この追究の手間を惜しみ、とうとう時間切れになるのである。
それは、廃業してすらも、「伝えること」ができなかったということだから、この点こそがあらたに職をさがす従業員にとっての「残念」なのである。