和服の裁ち合わせ

わたしはいまどきの日本人であるから、和服を着ることはめったになく、羽織袴は、結婚式以来30年、一度も着たことがない。
高校生のとき、ちょっとだけ弓道をやっていたので、袴(馬乗り袴)は自分ではいていた。

袴の下に帯をして、背中にまわした結び目の上に袴の背板を載せることで、ただ紐で結ぶのとちがって落ちてこない。
はじめて着方を習ったときに、この「発明」のすごさに驚いたことを思いだす。

もっとも、帯や紐の「結び方」というのも決まりがある。
それぞれの役割に応じた、最適の結び方である。
これがまた、覚えるのにやっかいなのだが、回を重ねると自然にできるようになったのは、手が覚えたからである。

そうかんがえると、洋服の合理性とは次元のちがう合理性が和服にはある。
それに、ズボンの折り目とは比べるべくもない数の折り目が袴にはある。
これをちゃんと維持するのには、「たたみ方」が大事になる。

自分の着たものを脱いだ後に放り出していても、洋服なら誤魔化せるが、和服だとシワだらけになってヨレヨレになるからみっともない。
それが恥ずかしいから、袴だけは自分で丁寧にたたんでいた。
上半身は、木綿の簡単な道着で済ましたが、下半身の袴にはこだわったのだ。

もう、「衣紋掛け」なんてものも、地方の古い旅館にでもいかないとみることがなくなった。
女性の「きもの」は、英語にもなったけど、まだ浴衣を「キモノ」という外国人は多い。

それでも、織物としての美しさでは世界で引けをとらない。
こういうものを作り出すエネルギーが、引けをとらないのだ。
「織り」として気が遠くなる手間と技術を要する「大島」から、染めにいたっては絢爛豪華になる一方、普段着としてついぞこの間まで木綿のキモノは祖母世代がふつうに愛用していた。

反物から「裁ち合わせ」してできるのが「きもの」だとは知っているが、この「裁ち方」が、洋服の型紙をあてた立体裁断とはぜんぜんちがう「直線裁ちだけ」になっている。
それで、一反からうまれるパーツは8枚だけ。

つまり、「きもの」は縫った糸を解くと、元の反物に戻せるという「復元性」があって、余分な端布(はぎれ)を出さないという構造になっている。
それが、「袖」におおきく現れて、洋服とはぜんぜんちがう、一見邪魔になるものが、優美さの所作をつくったり、袖のなかにいろいろしまえるポケットにもなっている。洋服で「袖の下」は通じない。

この「ムダ」な形を極大化したら、「振り袖」になった。

ヨーロッパから宣教師がやってきて、洋服も伝わっただろうに、日本人は和服を棄てなかった。
明治になって、ハイカラな洋装も導入されたが、和洋共存していたものが和服不利になった事件、それが昭和6年の「白木屋の火事」とされている。

しかし、建築史家にして風俗史の大家、井上章一による冷徹な分析は、「プロモーション」としての「白木屋の火事」と結論づけている。
すなわち、デパート業界が仕掛けた「和装駆逐キャンペーン」だった、と。

さて、「幾何」としてみれば、和服は単純の極致である。
わが国は、ついぞこの間まで「貧乏国」だったことを思いだせば、何度も仕立て直しができて、最後には雑巾になるまで使いつくすことができたから、端布がたくさんできる洋服が浸透しなかったのだろう。

布や紙をどうやって切るのか?という、「裁ち合わせ」を、和服のように直線裁ちだけでなく、斜めにも切るのをルールとすれば、いきなり「幾何」という「数学分野」に変貌する。

学校で習う「幾何」のはじめは、「ピタゴラスの定理=三平方の定理」だ。
大陸からの影響を受けた「和算」では、「鉤股弦(こうこげん)の法」といわれ、『勘者御伽双紙』に詳しい図で解説されている。
国会図書館のデジタルコレクションにあるので、お暇なら検索されたし。

この「定理」からはじまって、十代の頭脳を悩ます「三角関数」に発展し、それがさらに「円」と結びつく。
生徒の身からすれば、なにをやっているのか?という疑問が先に立って、それが「反抗期」と重なることで、苦い青春の想い出のひとつとなる。

ぜんぜんわかりません。

なんの役に立つのかの「応用例」を教えないから、わからないことの自慢にさえなるのだ。

「すてた」と。

土地を購入するのに、隣地と段差がある場所で、擁壁を角度のある石積みにするのか、それとも直角になるコンクリートにするのか?
石積みは工事費が安いけど、底辺にある境界線からの角度と高さで、土地の面積が失われる。コンクリートは高くつけどまっすぐの壁になる。
石積みで失われた土地分を、鉄骨で組建てて取り戻すにも工事費がかかるのだ。

さて、どっちが得か?

そこまでしておカネをかけるなら、そんな土地は買わない方がいい。
とまでいったら、なかなかなものである。

何に役立つのか?を最初に教えると、結果がちがうのである。

あたらしい「踏み絵」

企業の新卒採用でよくいわれる「即戦力」がほしい、というのは、一体どういうことなのかをかんがえる。

企業内で「職業訓練を必要」としない、人材のことを「即戦力」というのなら、そもそもそんな「人材」は存在するのか?
いるとしたら、学生アルバイト経験が長く、その企業にそのまま採用された人材ということになる。

ならば、学生アルバイトに「職業訓練」をしているといえるのか?
いえる場合といえない場合がある。
いえる場合とは、現場での経験を通じての「慣れ」と「コツ」の習得がある場合で、いえない場合とは、「慣れ」と「コツ」の習得だけで企業の幹部候補としていいのか?と。それで、そうはいかない、と考えるときである。

もちろん、学生アルバイトから「昇格」して、正社員に全員がなれるなら話は別だ。
けれども、それだけでは数が足りないし、いくら長く働いてくれても、「不適切」となれば、そのまま採用されることはない。

すると、企業による価値判断として、「優秀な人材」の定義が各社それぞれにあって当然である。
各社それぞれが、おなじ業務をしているのではないから、そうなる。
しかし、各社がまとまった業界団とか、もっと大きな経済団体とかになると、「優秀な人材」というひと言で共有されるのも事実だ。

ところで、上記の例で「不適切」というのはどういうことか?
企業側の判断と本人の判断がある。
上記の例での文脈なら、企業側が「不適切」と判断したから、正社員としての採用はしないという意味になる。

しかし、学生本人の判断で、このまま一生ここで働きたくないという意味での「不適切」もあるだろう。
単純作業のアルバイトの場合、この傾向が強くなると予想できる。

つまり、お互い様の関係である「相互主義」になっているのだ。
これを忘れた議論が、企業側からの一方的な「優秀な人材がほしい」ということではないのか?

しかも、その中身の定義である、「優秀な人材」とはなにか?が相変わらず曖昧なままであるとすれば、ただの「ない物ねだり」になってしまう。
もしこのことに、学生アルバイトの方が先に気がついてしまったら、「不適切」とされるのは、企業の方になるのである。

さんざん「人手不足」と騒がれてから、コロナ禍の「自粛」によって、1974年1月の石油ショック以来の求人率の落ち込みとなった。
「ひと余り」になるということを示しているかにみえる。
もちろん、コロナ倒産をふくめ、失業者が世にあふれるだろうから、「ひと余り」にはなる。

ならば、現役社会人のなかから発生する失業者に、いかほどの「優秀な人材」がいて、このひとたちの争奪戦にならないのはなぜか?

情報の「ミスマッチ」があるのだ。

すなわち、従来の「求人情報」では、わからない、のである。
なにがわからないのか?
失業者が、求人情報をみても、そこにある求められるあたらしい仕事が、どんな人材としての要求をされているのかがわからないのだ。

べつに、ハローワークを批判したいのではない。

むしろ、自社がどんな企業で、どんな事業をやっていて、期待する募集人材がどんなひとなのかが、募集企業側に「ない」のだから、役所のデータベースや掲示板に、書いてあるはずがないのだ。

そんなわけだから、コロナ禍によって職を失った、おそらく、企業内でそこそこの高評価を得ていたひとたちも、ハローワークに足をはこんで戸惑っていることだろう。
しかも、そうした過去の「高評価」が、かえって嫌われる傾向すらあるのだ。

その理由に、自分たちより優秀だと困る、という感情がある。
ましてや、従来のペースをこわされて、バリバリ仕事をされてしまったら、迷惑だという発想すらある。

すると、本音では「そこそこ」でいいのである。
だから、こういう場合の「即戦力」とは、「そこそこ」の実務ができるひとのことを指す。

ところが、コロナ禍は、特定の産業に徹底的にわざわいした。
それが、いわゆる接客をともなう「人的サービス業」や「旅行業」である。
従来の職探しとちがって、おなじ業種の企業が採用してくれる可能性がとてつもなく低くなった。

業種内で、倒産が競争になってしまって、早いか遅いか程度になったからだ。
いま生きのこっている企業すら、人員募集の余裕はない。
すると、他業種に移るということになる。

これが、今回の「特徴」で、過去になかった「初めて」なのだ。
石油ショックは、経済全体に影響したのを思いだせばよい。

他業種への転職で「即戦力」とはなにか?
これを自己主張できるひとはそういない。
むしろ、自分は即戦力になると主張するひとを、他業種が率先して採用するのか?

「即戦力だって?」
「役立たずだろ」
とその場でなるのが「オチ」である。

どんなひとが欲しいのか?
従来以上に、採用する企業は、明記できるかが問われていて、採用される側はそれを確認したいという要望が強くなる。
逆にいえば、明記のない企業に優秀な人材は集まらないということだ。

人材の産業転換がはじまる、という意味が重要なのである。
だから、あたらしい「踏み絵」になったのである。

もう誤魔化すしかなくなった

昨日、昼食時に入ったお店にテレビがあって、久しぶりに「お昼のニュース」を観た。

あんまりの内容に、吹き出しそうになったけど、しっかりガマンできてよかった。
相席の知らない相手の顔面に、発射しそうになったからである。

コロナ「感染者」が連日100人を超えていることについて、今般何かと名前があがる「経済担当大臣」が、「もう自粛はいやでしょ?」といったり、都知事の記者会見の生放送で、「検査対象が増えたから感染者が増えている」と「真顔」でいう姿がギャグマンガにみえたのだ。

それに、「夜の接待をともなう飲食店」が感染者多数ということで、彼女はまたも「三密に注意せよ」とのたまわったのだ。
そうではなくて、だれを対象に検査をしているのか?が気になるところなのだ。だって、「検査対象が増えた」と今いったばかりだから。

つまり、まともな統計的に有意となる社会調査としての「検査」が行われているのではないのに、あたかも「酷いことになっている」ようにみせているマスコミを叱らず、そのままその論に自らを乗せている。

一連の画像の後に、街のひとへのインタービュー映像が続いた。
お婆さんは「怖いですねぇ」といい、女子高生は「電車に乗るのが怖い」といっていた。
もちろん、「両者とも」マスクを着用したままで答えているから、顔を隠していて誰だかはわからないのは幸いだ。

お婆さんの「怖い」は理解できる。
免疫力や体力がない老齢者が、重篤化する傾向があるからである。
しかし、女子高生の方は、学校が休みだったから化学の勉強をしなかったとはいえ、若い頭脳として無知すぎる。それに、情報リテラシーがないことに驚かされた。

こんなことだから、日本小児科医会がとっくに正式見解として、「小児にマスクを着用させるのは危険」だという警告も、この社会は無視できるのである。
おそらく、無視しているというよりも「知らない」ということだろうけど、マスコミも「子どもの命」がかかっていると大騒ぎしないのはなぜか?

都合が悪いからである。

これまでの過剰報道のほとんどが「嘘」だったことがバレるのだ。
保健所が発表する、「インフルエンザの注意報」は、「患者数」を基準としていて、それも一週間の移動平均をつかうルールになっている。

毎日、何人「感染」したか?という数字をつかわない。
医師が「診断したひと」を「患者」というのである。
なぜなら、インフルエンザだって「感染者数」は、わからないからである。

にもかかわらず、今回は、保健所すら「感染者数」を「毎日」いいだした。
これこそが、「あたらしい日常」のねじ曲げられた姿である。
基の数字が「テキトー」なのだから、ことここに至って、なおも「テキトー」を貫くしかなくなったのである。

大手の弁護士事務所がこないだ倒産したニュースがあった。
借金の過払い金を請求することが本業だったようだから、再建には、コロナ禍で事業が立ち行かなくなった経営者や社主たちが、マスコミ各社を相手に損害賠償請求の集団訴訟をやるといい。

大手テレビ局の一部は、外国の大株主から、地上波放送の電波返上を提案されている。
1回拒否できたところで、何回も要求される可能性も否定できないのは、地上波テレビ事業が「儲からない」からだ。

そんな状態なのだから、はやく訴えないと取り漏れるかもしれない。

経済担当大臣が、再度「緊急事態宣言」を出すことを躊躇する理由に、そもそもの「根拠」(「科学的エビデンス」ともいう)が、希薄だったからである。それで、専門家会議の議事録がない。歴史の検証に耐えられないことを当事者がしっている。

もちろん、以上は国内の事情による。

わが国の被害は欧米に比べて少ないし、通常のインフルエンザの半分もない。
被害が多数のはずの欧米で、通常モードにしているのだから、横並びでしかない理由だった「緊急事態宣言」をこのタイミングでもう一度、というわけにはいかない。

いまさら、科学的エビデンスをどうやっていいだすのか?
もはや、中央政府と地方政府の知事たち、それにマスコミが結託して「でっち上げた」ともいえないから、大本営発表のごとく、国民に真実は伝えずに、むやむやなのかモヤモヤにして収束させるしかないのだろう。

さては、踊らされた国民の哀れよ。

政府もなにも、とっくに「解除」したはずのものが、緊急事態宣言発令中よりも厳しい、「マスク着用義務」をやっている店舗も多数ある。
「義務」をかってに決めて利用客に強要したのなら、利用客にマスクを配付するのが筋だといいたいが、ただ強要することが正義になった感がある。

まったく愚かな経営者もいたものだ。
自分から収束させることを拒否しているのだ。

見習うべきはパチンコ屋の衛生管理である。
モノからひとへうつるので、人間が触るところを徹底的に消毒すればよい。
噴飯ものをなくす努力のためにやることはある。
空気感染しないから、「三密」も「嘘」である。

ただ、今年の晩秋以降、インフルエンザについても「毎日感染者」を報道するのか?それとも、従来通りなのか?

国民はここに注目されたい。

時代は「事業再構築」

「事業再構築」とは、「リストラクチャリング」という。
80年代、いわゆる「バブル前」の時代、さかんに「リストラクチャリング」がいわれたのを覚えているひとがあんがい少ない。

この「バブル前の時代」とは、「円高不況」の時代をいう。
「戦後世界」という「西側自由世界」を作ったのは、「鉄のカーテン」に仕切られた「東側世界」との経済的交流が断たれた軍事環境を最下層の基盤にして、その上に西側金融システムという「層」があったのである。

世界最強になった経済大国の、アメリカ・ドルを基軸にした体制のことである。
しかし、ベトナム戦争という「泥沼」に、戦費というドルも投げ棄てて、とうとう「金と交換する余裕」も失った。

こうして、「ニクソン・ショック=ドル・ショック」となったのが、1971年のことである。
もっともこの年は、ニクソン大統領が電撃的に北京を訪問した方が早く、わが国ではこちらを「ニクソン・ショック」ということもある。

そうかんがえると、「1970年のこんにちは~🎵」と幸せいっぱいでやっていた「万博」の翌年のことなので、「高度成長」のほろ酔い気分がすっ飛んだ出来事であった。
日本人が、すべからく「単純」だということを確認できる。

もちろん、「アメリカがクシャミをすれば、日本は風邪をひく」というのは、「戦後体制」そのもののことだから、今だって変わらない。
むしろ、アメリカがクシャミをすれば、日本は肺炎になってしまう。
しかし、中国がクシャミをしたら、日本は生きていない状態になってしまったことが、今回のコロナ禍でよくわかった。

そのアメリカが、さらにドルの価値を下げる(本当は円の価値を上げる)ことにしたのが、「プラザ合意」(1985年)であった。
巨大な貿易赤字に耐えられなくなったからである。
このことで、円は1ドル250円から120円になった。

わが国財界は、140円のころ悲鳴をあげて、120円になったら「もたない」と叫んだが、あっさりと120円を突破した。

翌1986年に、「円高不況」がわが国を襲ったのである。
そして5年後には、ソ連崩壊(1991年)となって、東欧の自由化及び中国の改革開放路線が確定した。
これによって、わが国製造業は中国へこぞって生産拠点を移転させることになった。

国内では、円高不況をナントかしようとして、金融緩和が行われたが、これが後の「バブル」を招く。
だから、本稿冒頭の「リストラクチャリング」がいわれた時代とは、円高不況対策のことだったのである。

バブル崩壊による企業業績をよくするために行われたのが、「人員削減=リストラ」である。
「リストラクチャリング=事業の再構築」という意味からすれば、これほどかけ離れた用語はないけど、一気に定着した。

「社員」から「役員」になる、という「出世」をする日本企業にとっての人員削減は、「やってはいけないこと」という不文律があったのだけれど、いったん掴んだ「安全地帯」から出ることを嫌がったひとたちが、「事業再構築」という願ってもない理由を得たのだ。

そんなわけで、各企業とも横並びして、事業再構築ではない人員削減に邁進したことで、もっと辛いことになる事業再構築を先送りしてきた。

このブログでは、何度も「コロナ禍」の本質は、科学を無視した人為によるわざわいであると指摘してきた。
まるで、ネズミが集団自殺するがごとく。
破滅に向かってまっしぐらに走るのが、「正しい」とされる社会である。

集団自殺に加わるのか、こうした集団から逃れるのか?
ここが、経営判断のしどころになっている。
いま、業界単位で横並びすることが、どんなに危険なことであるか。

おそらく、生き残れる企業は、「独自路線」を選択することが決定的となる。

では、独自路線とはなにか?
自社の事業を、根本から見直して、なんのため?誰のため?という問いに自ら詰問することが必要最低限の思考実験となる。
そのうえで、なにをすべきか?をかんがえる。

つまり、リストラクチャリングの手順を踏むことなのだ。
結果的に、「従来通り」という答えになれば、それはそれである。
なにも考えないで「従来通り」とは、まったく意味がちがうからである。

ひとの移動と集合が、まちがった情報によって破壊された。
何年先のことかしらないけれど、こんな「判断をした社会」を嗤う時代もくるだろう。単純ながら意図的な情報戦にあっさり負けた愚か者集団だ、と。
しかし、われわれは今を生きなければならない。

ひとの移動と集合を業としてきたものにとっては、壊滅的打撃となるのは当然である。
公共交通で移動したがらないひとたちと、空間を共有する集合をしたがらないひとたちを相手にどうするのか?

今回の病気が、どうやってうつるのか?を、もう一度科学的な目線で確認し、対策の徹底実施とその説明が必須となろう。
「あたらしい日常」ではなくて、従来の「日常」を取り戻すことをアッピールすることが、もっとも重要なのではなかろうか。

レジ袋有料化がはじまった

本日、7月1日から、コロナの中でも宣伝されていた「レジ袋の有料化」がスタートする。

殊勝な店舗で、なんども繰り返しアナウンスされていたのは、「地球環境のため」という政府がいう世迷い言ばかりで、法律ではない「関係省令改正」という政府の無謀を理由にしない。
まことに、政府からみたら「けなげ」なことである。

しかし、国民も「けなげ」なのかなんなのか?
国会を通さずに、国民あまねく負担させられることが決まる。
事前に文句をいわないので、あっさり今日という日を迎えてしまった。
買い物をするたびに「不快」なおもいをさせられることになる。

もちろん、レジ係のひとは、たいがいが「パートさん」なので、このひとたちに文句をいってもはじまらない。
「わたしパートなので、難しいことはわかりません」
という「決め手」を持っているからである。

すると、これを「客」にいわせるメリットを享受するのは、スーパーの経営者になるのだが、社内で業務上の気づきについて自由に意見をいって欲しくても、やっぱり「わたしパートなので、難しいことはわかりません」と、なにも協力してくれないことを怨むことはできない。

むしろ、いままで協力的どころか積極的に意見を述べてくれていたひとたちも、「わたしパートなので、難しいことはわかりません病」に感染してしまうおそれまである。
それほどに、ひとの精神を破壊する「政策」なのである。

そもそもが、東京オリンピック観戦のために多数の外国人がやってきて、そのとき、日本国内における買い物で、「レジ袋が無料」なのは、地球環境に鑑みて「恥ずかしい」と発想したことが原因だった。
つまり、「見栄っ張り」という精神が原点にある。

そのオリンピックが延期になっても、レジ袋の有料化が延期にならないのは、それはそれ・これはこれという「分裂」した発想があるからで、国民を痛めつけることが「統治」だと勘違いしている。
「飴と鞭」の「鞭」だ。

もっとも、昨日の6月末までだった、「キャッシュレスで5%還元」という「政策」は、昨年秋に消費税を上げたことへの「飴」だった。
しかし、この「飴」は、本当は「苦い飴」で、肝心の消費税を増税するという「鞭」を隠すための「局所的政策」なのである。

そう考えれば、太陽光発電も、「発電」という局所しかみないで「エコ」だとか「地球に優しい」とかと意味不明なことをいっていた。

太陽光発電装置をつくるためにつかうエネルギーと廃棄処分するためのエネルギーは、発電能力の4倍かかることをいわない。
電気自動車や水素自動車も、同じ手口で何度もおかしなことを繰り返すのは、「局所」しかみないことをしないと、「産業政策」にならないからである。

つまり、「政策」が重要で、「実態」は重要ではないという価値判断をしているのである。
わが国が貧乏になるのは、多額の税金をこんな「政策」につぎ込んでいるからである。

レジ袋の有料化の実施には、関係省庁の横串的「省令改正」が同時に行われた。いつもの、縦割りとちがうから、やればできることを示したが筋が悪すぎる。
その筋の悪い役所、環境省は、これまで3割いたレジ袋を要求しないひとが、どういう根拠か?6割になることを「目標」にしている。

主婦を舐めるな。
3円払うのと、まとめて買うのとどっちが得かをかんがえるのだ。
「ゴミ袋」としての局所しかかんがえないとしたら大間違い。
ちゃんと「利便性」という「効用」を考慮する「経済人」なのだ。

どうせ有料なら、コンビニでも大きめの袋を要求するかもしれない。

なんどもいうが、「科学が社会に負ける」状態が、ダイオキシン騒動以来ずっと続いていて、ぜんぜん終わりが見えない社会になってしまった。

コロナのマスクも同じ精神構造からなっている。
「咳エチケット」だったはずのものが、全員着用しないといけない、に変容した。
自分の口から飛ぶ、咳やクシャミの飛沫をマスクは防ぐから、他人へのエチケットになるのだ。

咳もクシャミもしないひとが、紙や布でできたマスクをする「効果」なんかほとんどない。日本語のふつうの会話で飛沫は飛ばない。
逆に、吸い込みを押さえる防御効果があるのは、マスクの編み目に引っかかる「花粉」しかない。

小ささで単位がちがう、ウィルスや細菌を吸い込まない作りのマスクとは、「N95」以上の医療用マスクしかない。
ただし、このタイプのものは、減菌された手術室での使用を前提としているので、ふつうの環境では2時間もすると目が詰まって息苦しくなる。

それなのに、あろうことか政府は、アベノマスクの効果があったと発表する。
少なくても、わが家では開封もしていない。
いったいどんな「科学的根拠」に基づいて「効果」をいうのか?質問して追いつめる知見が、記者クラブの記者にない。

レジ袋の原材料自体が「高分子体」である。
つまり、もうこれ以上加工ができないので、ゴミとして焼却処分していた。
なんとかならないのか?と発明したのが、レジ袋である。
ゴミの再利用で、もっとも優れたものがどうして地球環境に悪いのか?

こんなチマチマしたことに人的エネルギーも投入して、とにかく国民に不自由を強いる。

昨日は、とうとう「国家安全法」が採択されて、即日施行された。
どうせ国民を不自由にさせるなら、このくらいダイナミックなことをわが政府もやってみろ、といいたい。
やりたいけど、できっこないから、「遺憾」だというにちがいない。

果たして、社会主義に親和性のある民主党ニューヨーク州知事は、マスク着用を義務化するといいだしたら、トランプ大統領は「個人の自由」といいかえした。

まともなのは、どういうひとかをちゃんと自分で考えたい。