日本は「西側」に留まれるのか?

すごい「証言」が23日付けのユーチューブ・ニュース番組で語られていた。
質問者は、長谷川幸洋氏。
発言者は、河野克俊元統合幕僚長である。

第二次安倍内閣が長かったし、その「タカ派」という意味不明のレッテルから、あたかも国防の現場情報について、自衛隊の大幹部が官邸でいとも当たり前に総理ブリーフィングをしていると思っていたら、実際にこの「きっかけ」は、「民主党政権」になって実現した、と明言した。

それは、総理秘書官を防衛省からも出す、ということである。

ということは?
以前は、各省からやってくる、事務官ですら、防衛省出身だと官邸に入れなかったということで、許されたのは大臣級の議員ばかりであった。

もちろん、総理秘書官は、「文官」である。
「公務員試験」に合格して、高級官僚の卵として防衛省に入省したという「だけ」であって、たいがいの省庁からやってくる秘書官は「本省課長級以上、審議官以下」であり、総理秘書官は一般職ではなく「特別職」になる。

それは、総理の「ため」ではあるけど、裏返せば自省のための「出先」としての官邸だからである。
しかして、「初の」防衛省出身総理秘書官は、「特別職」をあたえられず、一般職のままであった。

初としては、これが限界か。

この人事をしたのは、「菅直人内閣」においてである。
もしや、あの政権の唯一の「得点」ではないか?
その後の第二次安倍政権によって、内閣に国家安全保障局が平成26年にできて、以来、制服組も局員として制服着用のまま勤務しているという。

ずいぶん前の、村山富市総理も、この管直人総理も、自分が自衛隊の最高司令官だという認識を持っていなかったのは、巷間にいわれた話である。
もっとも、いまとなって蒸し返している、尖閣事件の証言でも、当時の政権は腰砕けであった。

「シビリアンコントロール」の意味が、間違って「定義された」ことに原因があるのはもちろんだけれど、「高等文官」でさえも官邸の敷居をまたがせない、という「慣例」の元にある発想とはなにか?

ときは平安時代、朝廷を仕切ったのは貴族階級に限られていて、武士も「さぶらうもの」として、貴族の召使いであった。
すなわち、この時代のわが国には、「軍隊」が存在しなかった。
官職としての「大将」は、ほんとうに「名目」だけだった。

ひとを傷つけて「血を見る」こと自体が、「穢れ」だったのである。
それが、動物の「革」にも拡大適用されて、革製品の結集物である「鎧や兜」を身につけることも「穢れ」になった。

なんと、この「穢れ」は、当事者の武士にも伝染して、江戸幕府は、町奉行所の「同心」とか、『子連れ狼』の主人公、拝一刀の生業「公儀介錯人」も、形式的に「一代限り」としていた。
「穢れた家系」を武士として永久にお召し抱えすることすら、雇用主たる将軍家が「穢れる」ことをおそれたからである。

それで、彼らの相続は、次世代の後継ぎが、あらためて「初めて」その職に就くという面倒くさいことをしていたのである。
だから、ふつうの武家における「跡目相続」とはちがう。
すなわち、彼らは「武士」ではなかったのである。

すると、現代において、わが国は、国家として自衛官をどんなに高級幹部であっても、「武人」として扱っておらず、そのひとたちを事務的に支配する、「内局」の事務官でさえも「穢れ」の対象にしていたのである。
なるほど、左翼民主党政権こそが、この「宗教的概念」を「開放」できた。

あたかも、フランス革命が、キリスト教会を無残な弾圧をもって制したのと似ている。
さらに、「リアル感の欠如」で、憲法9条や自衛隊を語っていたことに、政権を担って、なにか反省したのか?と問うても、変化のかけらもないのも、ロベスピエールの革命政府に似ている。

このブログで指摘しているように、二極化した世界は、日々対立が激化していて、もはや戦闘がないだけの戦争状態にある。

双方の「本気」は、冗談ではない。
前に書いたように、「コウモリ君」は許されないのは、双方ともに、許さないからだ。
米ソ冷戦時代のように、どちらからも「美味しいどこ取り」はできないのだ。

しかし、有職故実と過去の成功体験が、とっくに条件となる事情の変化という「リアル」を無視させて、日本は特別だ、と根拠なく「美味しいどこ取り」ができるとかんがえていないか?
これは、完璧な「甘えの構造」に見える。

すでに「臨戦態勢」にあたって、両国が「立法」による措置を加速化させている。
一方の国に議会がない分、すぐに法をつくれる有利はあるものの、わが国の企業にあたえる影響度では、アメリカ側の法も強烈度が高まっている。

この中に、「アメリカへの輸出禁止」や、「アメリカ企業との取引停止」を謳ったものがある。
だから、この戦争の被害を被らないためには、「軍事情報」としての、「経済法」をチェックしないといけない。

そして、わが国の企業経営者に、この情報を正しく伝えるひつようがある。

これを、防衛省・自衛隊がやるのか?
外務省か?経産省か?国家安全保障会議か?
かつて例のない、「経済制裁法体系」という外部経営環境が構築されている。

対峙する国での工場を拡大するという方針を打ち出した、世界最大の自動車会社が、もしや、アメリカ合衆国への輸出禁止措置がとられたらどうなるのか?
あるいは、インテリア(家具)小売業大手の企業は、企業内サーバーで話題の電子機器会社の製品をつかっているけど、制裁対象にならないのか?

おなじく、外国人相手なら売り上げが「輸出」にあたる国内ホテルでも、これら法体系が適用されれば、アメリカ政府職員の宿泊などは制裁対象になりうるのである。

27日のロイター通信によると、新首相は来月初旬、来日するアメリカ国務長官と会談し、その後、王外相も来日する予定になっていて、両国からの綱引きが日本で開始される。
例の「国賓」問題が蒸し返される。

大丈夫なのか?

相手国に「穢れ」という概念がないことだけが救いであるけれど、論理的に「制裁される」ということでの「股裂き」になるリスクが高まっているし、世界の注目が集まること必至だ。
すなわち、「西側」なのか?という最大の選択肢への興味である。

かつての日本、台湾は、とっくに態度を決めている。
とうとう、わが国は、台湾人から尊敬されない国に落ちぶれるかもしれない。
草葉の陰で、岩里政男(李登輝)氏も見つめている。

カリフォルニア州は連邦離脱?

50もある国が集まって、「連邦国家を形成」しているのがアメリカ合衆国という国である。
わが国の歴史だと、鎌倉武家政権以来、江戸時代の幕藩体制までが一種の「連邦」ではあった。

ただし、中央政権的な「朝廷」も併存したいたので、世界を見回しても似たような事例がない。
なんとか、ヨーロッパのローマ・カトリック教会と王権のような世俗権力との併存を「似ている」と強弁しても、やっぱり「似て非なるもの」を超えてぜんぜんちがうのである。

表面上は「グローバル化」で、「同じ人間どうし」だとおもっているけど、文化的背景に刻まれた価値観では、「ちがう人間どうし」なのである。

過去30年間で、なにがあったのか?
人生100年時代とはいわれているけど、「世代」という区切りでかんがえると、いまでもやっぱり「30年」ぐらいで一括りできる。
これは、「まだ」人生100年時代が当たり前になっていないことにも原因がある。

50年区切りが当たり前にできるようになると、生活のかんがえ方も変わるのではないかとおもう。
前半の50年と、後半の50年をどうやって過ごすか?
「豊かな人生」を追求すれば、後半の50年を「隠居」で過ごすとはいかない。

30年前は、わが国はバブルの「絶頂と崩壊」を経験していた。
それからいまに至る「衰退」を意識できるのは、バブル前の「昭和時代」をしっている世代に限定される。
いま40歳のひとで、小学校5年生ぐらいだったから、親からのお小遣いの変化でようやく「時代」を意識できただろう。

世界では、ベルリンの壁がなくなって、ソ連の崩壊があったし、中国が改革開放路線をはじめたのが30年前だ。
それに、「瀕死」といわれたアメリカ経済が徐々に復活するのもこの頃である。

すると、この30年間で成功した国と失敗した国とに分けることができる。
成功したのは、アメリカと中国の2カ国である。
アメリカは、金融とITの「ソフト・パワー」で、中国は日本から世界の工場を奪った「ハード・パワー」で大成長をとげた。

衰退したのはヨーロッパ(EU)と日本である。
ちなみに、ロシアは自ら「冷凍庫」の中に入ったまま解凍しないでいる。
ならば、EUと日本の共通点はなにか?
二つあって、一つは「官僚主義」で、もう一つは「地球環境保護」という思想に冒されたことである。

官僚主義の弊害があるのに、EUは、日米の二極に対抗するために結成されたのだから、組織設計モデルとしても二択があった。
日本型かアメリカの連邦型かだ。
あろうことか、両者の「悪いところ」を抜き出してつくってしまった。

しかも、発足当時、日本が飛ぶ鳥を落とす勢いだったから、日本型が優先されたのだ。
平日にブリュッセルに集まる、加盟各国の官僚が全権を握って「EU指令」を飛ばしまくっている。

EU大統領はおろか、EU議会さえも「無力」な建て付けになっていて、選挙を経ない役人だけで形成される、「EU委員会」とその「委員長」に権力が集中している。

それでもって、「地球環境保護」をいいだしたのは、温暖化排出ガスの「排出権」という「人為」が、デリバティブとしての金融商品になるからだった。
会議の場所を、日本の京都にしたのは、カモとしてロック・オンした相手が「御しやすい金持ちの日本」だったからである。

これで、まんまと撃ち落とされたのがわが国で、科学的理由不明なままに、ロシアから「排出権」を2兆円も払って購入させられた。
このときの『京都議定書』を文面通り実行したのは、世界でわが国「一国だけ」という学校のイジメ以上の策略にはまっても、ニヤニヤ笑っているのがわが国なのである。

これは、「きもい」。

このとき支払った2兆円が、ロシアでどうなったかわからない。
クリミヤでの軍資金になったという噂通りなら、わが国は世界平和に貢献するどころか、破壊者の側になる。

なんだかんだと地球環境保護に毎年20兆円も使っていると指摘したのは、勇気ある東京理科大の教授だ。
教授の試算では、わが国はこれまでに200兆円以上つかっている勘定になる。おそるべき無駄遣い。

日本の温暖化ガス排出量は、世界全体の3%程度だ。
合算すれば50%を超える、中国も、アメリカも「対策」の「たの字」もしていない。
全部ではないが、わが国衰退の理由の確実な理由のひとつである。

そんなわけで、EUが域内の主流になっているディーゼル車に対して「販売禁止規制」をすると発表し、わが国自動車メーカーが、新規ディーゼル・エンジンの開発を中止した。
なんだか、キリスト教の修道院で、自らの背に鞭を打つがごとく、ドイツの自動車メーカーをいじめているのだろう。

23日、今度は、大統領選挙の真っ最中に、カリフォルニア州の知事が、35年までにガソリン車の販売を禁止する、と発表した。
もちろん、カリフォルニア州知事は「民主党」のひとだけれど、「共和党」の連邦政府は、州独自の環境規制を「禁止」している。

それで、環境推進派の民主党各州は、連邦政府を相手に訴訟も起こしている。
つい先頃、民主党の判事の死去によって急遽空席ができた連邦最高裁の判事を、大統領選挙前に現政権が決定したいのも、こうした州知事との闘いもあるからである。

それにしても、「思想」の恐ろしさは、科学の無視と成功の原因を自ら放棄させる決定に自己陶酔できることだ。
果たしてとんがり具合によっては、連邦離脱までいくのか?
凄まじき「選挙」となっている。

美人投票に転換させる業師

9月24日、小泉純一郎元首相が、「突然」自民党本部を訪問し、ミス日本グランプリを衆議院の比例候補者に推した。
対応したのは幹事長らであるという。

「突然」というなら、「ノーアポ」のことである。
いかに、元首相・元党総裁でも、ノーアポで現職幹事長に面談できるものか?
それに、小泉氏は、いま、自民党員なのだろうか?

「顔パス」というのは、経歴からして不思議は無いけど、押した美人は松野頼三元労働大臣の孫娘だという。
松野頼三で思いだすのは、ダグラス・グラマン事件で辞職し、復活を果たした選挙を「禊ぎ」といったことである。

さすがは、元海軍主計少佐である。
中曽根康弘氏と同じ階級で、同期当選でもあった。
ちなみに、「佐」が付くのは管理職で、少佐は本省係長にあたり警察なら警視がこれに相当する。

実は松野氏は、小泉純也(純一郎の父)と盟友関係にあった。
それで、純一郎氏が一年生議員のときも、後見人的な立場であったという関係だ。

子息である、松野頼久氏は、日本新党からはじまって、いまは緑の党所属の衆議院議員(6期)である。
民主党鳩山由紀夫首相のもとでは、内閣官房副長官も務めている。
だから、非自民なのだ。

当該の「美人」は、この松野頼久氏の次女である。
小泉純一郎氏からすれば、暦年の恩返しを意味する。
だから、ミス日本グランプリは本質とは関係ない、単なるカモフラージュであるけれど、美人であることに間違いはないのだろう。

さいきんは、企業の就活においても、「顔採用」が増えていると噂されている。
たとえば、営業職であれば、社内よりも営業先における「評価」が重要なので、「顔採用」の意味はあんがい重いともいえる。

外資系の企業では、提出する「履歴書」に、写真添付欄がない。
わたしが、国内ホテルから外資系金融機関に転職したとき、上司から、履歴書に写真を添付してはいけない、と注意された。
また、英国に長くいた同僚からは、履歴書に写真を貼ってあるのを見たことがないともいわれた。

すると、履歴書の書式を販売する会社は、日本企業用には写真欄あり、外資系企業用には写真欄無しという二種類を販売しないといけないだろう。
もっとも、電子書式で送信するなら、どの書式を選ぶのかを提出者本人が知っていないといけない。

外資系企業における写真の忌避は、美人かそうでないかということよりも、まずは「肌の色」を、採用にあたって考慮の対象にしないためである。
すなわち、本人の名前と職務能力そのものしか見ない、ということの担保である。

ここにおいて、年齢情報の必要性も議論の余地がある。
何度も書いたように、日本の国内企業以外は「ジョブディスクリプション」をもって採用条件としているので、そこにある職務を果たせるのであれば、年齢も性別も関係ない、ということになる。

いい悪いは横にして、これが世界標準のかんがえ方なのである。

コロナ禍における「解雇」によって、毎月1万人以上が職を失っている。
もっと増加が予想できるので、年初までの「人手不足」が嘘のような様相になっている。

すると、今後の経済再編にあたって、採用における世界標準がはじまるのか?にも注意したい。

人件費はもっとも重いコストではあるけれど、その企業の需要にあった人材こそが、唯一の利益の源泉なのである。
すると、企業側は、自社における需要はなにか?を詳しく知っていないといけない。

ただ、員数を確保すればいい、ということで済む時代はコロナとともになくなる運命にある。
また、もはや一生の就職先でもなくなる可能性だって同時に高まるけれど、企業の業務にマッチした人材を失うことは「痛い」。

すると、やっぱり採用とは「投資行為」なのである。

さてそれで、小泉純一郎氏の行動は、いったい何の意味があるのか?をかんがえると、「自民党をぶっ壊す」と叫んでいたこととの関係性が見えてくる。
確かに、小泉長期政権のあとの政権は迷走して、とうとう自民党は政権党でなくなったから、これをもって「ぶっ壊した」のだともいえる。

けれども、民主党政権がオウンゴールをしまくって、選択肢がないことだけが決め手で、第二次安倍政権が発足し、党内でも選択肢がないことだけが決め手で超長期政権になってしまった。
つまりは、自民党も「人材枯渇」で衰退しているのである。

そこにもってきて、「美人に投票せよ」という。
本当は、自身の人生のしがらみだけなのに、見事なすり替えである。
だったら、息子をちゃんと指導してほしいものだ。
これもなにもしないのは、「自民党をぶっ壊す」ためだからなのだろう。

「再生」には、スクラップ・アンド・ビルドが欠かせない。

壊すだけ壊して、あとはどうなるか?
それは、国民の能力による。

結局は、大崩壊しか再生の道はないという「一択」なのである。

以上のように、小泉純一郎氏がかんがえているとは思えないけど、「結果よければすべてよし」の大団円。
まぁ、そんなもんである。

いまだに火薬庫バルカン半島

来年、2021年のノーベル平和賞にノミネートされたトランプ氏に、新たな「実績」が加わった。
それが、バルカン半島の旧ユーゴスラビア、コソボとセルビアの経済関係の正常化だ。

場所は、イタリアの長靴半島の北東側、アドリア海に面するアルバニアの東の内陸がコソボ、その北にセルビアがある。
セルビアの首都が、かつてのユーゴスラビアの首都、ベオグラードである。

また、コソボの南東にある、北マケドニアの南隣はギリシャである。
このギリシャとトルコさえもが、緊張緩和の動きになってきてる。
すると、ギリシャとトルコで島を二分しているキプロスも落ち着くかもしれない。

ベオグラードから真東に行けば、ルーマニアがある。
ルーマニアの北に接するのがウクライナで、そのまた北にベラルーシがある。
ウクライナもベラルーシも、東隣は巨大なロシアで、どちらも旧ソ連の一角だった。

第一次大戦の勃発は、セルビアを訪問したロシア帝国の皇太子が暗殺されたことに端を発するのは有名だが、これは、「トリガー(引き金)」にすぎなかった。
バルカン半島が「火薬庫」とは、大戦前からいわれていた。

ただでさえ狭いヨーロッパにあって、バルカン半島の複雑さは、民族問題ということが基礎にあるから、なんとも面倒なのである。
「民族」は、たいがい「言語」と「宗教」で区別される。
この地域は、言語と宗教のちがいでいまだにモザイク状態なのである。

これは、古代ローマ帝国の前からで、いったんローマがまとめたけれど、結局ローマが滅亡していまに至っている。
ローマの最辺境だったから、ルーマニアは「Romania」(ローマニア)なのであって、この国は文字も「ローマ字」なのである。

南のブルガリアも、北のウクライナも、ロシア語に採用された「キリル文字」だから、ルーマニアから南接する国境のドナウ川の橋を渡ってブルガリアに入った途端、看板の文字が読めなくなる。
驚くことに、かつての東側ソ連衛星国だったルーマニアとブルガリアのひとたちは、いまだに互いの字が読めないことに困らないほど疎遠なのである。

わが国からみれば、こんな遠い地域の紛争や和平がなにになるかと思う向きもあろうけど、一歩まちがうと再度の世界大戦になりかねない。
それは、過去の大戦が、まるでドミノ倒しのようになったからである。

コソボとセルビアの経済関係といえば、金額的にはたいしたことはない。
けれども、これを仲介したのがアメリカだから、旧東欧の紛争にアメリカが影響力を発揮したことを世界にはっきり示したことが重要なのだ。
ロシアの気分はいいわけがない。

いま、ロシアはベラルーシの大統領選挙結果に手を焼いている。
ヨーロッパ最後の独裁国家を、なんとかロシアが支持しているのは、敵対候補が自由主義だからである。
もし、ベラルーシが自由化して、EUあるいはNATOに加盟でもされると、ロシア防衛の緩衝地帯が消滅するのだ。

ところが、実際にはルーマニアのチャウシェスク政権が崩壊したような様相になってきている。
果たして、ロシアは軍事介入するかもしれない。

それを、アメリカはコソボとセルビアの仲介で、やんわりと地固めしたのだ。
つまり、トランプ氏はロシア疑惑をいわれて「大統領弾劾」までされたけれど、反ロシアをはっきり示したということである。

あたかも、東アジアの波が高くなりつつあって、アメリカの空母打撃群に注目が集まっているけれど、あんがいバルカン半島の抑えが効いて、ベラルーシが熱くなってきた。

ロシアには、ポーランド、ベラルーシ、リトアニアの三国に雪隠詰めされている、バルト海に面するカリーニングラードという「飛び地」がある。
その中で、リトアニアは、徴兵制を復活させたのは、対ロシア防衛を理由にしている。

リトアニアは、ベラルーシとは国境を接するが、ロシア本土とは接していない。
彼らのいうロシアとは、カリーニングラードのことをいうのだろう。
もちろん、ここには現ロシア・バルチック艦隊の「不凍港」と、二つの空軍基地があり、核ミサイルの発射拠点でもある。

ウクライナのクリミア半島を占拠したロシアは、経済制裁を受けたままで、もちろんウクライナとは最悪の関係が続く。
もし、ベラルーシが「陥落」したら、はロシアにはかんがえられない悪夢であろう。

バルカンの火薬は、バルト海に及んでいるのである。

しかして、トランプ氏の仕掛けた「自由」と「人権」は、香港からバルト海に飛び火して、驚くほどの変化を起こしている。
いまは、一歩まちがうとNATOとロシアの戦争になりかねないのである。

わが国には関係ない、はぜんぜん通じない。

デジタル庁設置の意義がちがう

新内閣の国内向け政策の目玉は二つ。
一つは、いまさらだけど「行革」で、鳴り物入りの大臣スライド人事があった。
これと連携していると思われたのが、二つ目の「デジタル庁」の設置だった。

ときに、河野氏は総務相経験者の管総理に匹敵するほど「放送法」に詳しいとの噂があって、もしや「行革の一環」に総務省をターゲットにしているかも、という期待はある。
それが、テレビ局の報道が「日和っている原因」なら、なおさらだ。

ところが、デジタル庁のお仕事の最初が、マイナンバー・カードと銀行口座の連携だというから驚いた。
ぜんぜん普及しないマイナンバー・カードを、さらに国民から嫌われる努力をしたいのか?なんなのか?

だれが好んで、政府に自分の銀行口座を教えるものか?

戸籍がないアメリカ合衆国には、国民に割り振った社会保障番号はあるけれど、これを本人の銀行口座とリンクする政策などかんがえられない。
なるほど、幹事長がいう、国賓としてまだ呼びたい国と「価値観を共有」している理由か。

個人情報保護を民間に強要しながら、政府ならこっそり使っていいとかんがえているらしい。
まことに、ご都合主義のダブル・シンキングである。

「電子政府」という言葉だけが独り歩きしているけれど、ぜんぜん電子化なんて進んでいない。
そのための「行革」とセットだと思わせたのは、河野氏の役所内「印鑑廃止」要請があったからである。

個人や法人の書類申請で、電子化が進まない理由はなにか?
それは、役所の窓口における下級官吏たちにも「裁量」があるからである。
さらに、申請の業務フローを「図」にもしていないから、自動化の設計ができないのだろう。

だから、どんなに優秀なシステム・エンジニアを呼んできても、プログラムが書けないのだ。
でも、業務フロー図を描くのは大変だし、ふだんの業務を中断してまでやる気がない。

それで、「調査予算」だけをつかって、何もしないのだ。

優先順位の思想がちがう、ということの具現化した姿である。
世界で電子政府がもっとも進んでいるのは、バルト三国といわれている。
ここは、旧ソ連だ。
30年前、政府が優先だった思想が、国民が優先に転換したからできた。

わが国にもいい事例があった。
70年代の東京・中野区である。
半世紀も前、この区の区長は、区役所の業務改革にあたって、なぜ区役所の窓口に住民がやってくるのか?から職員にかんがえさせたのだ。

こたえは、中野区に住民がいるから、である。
それで、住民の側からの区役所に行かないといけない理由を、洗いざらいにリスト化した。

そして、1階の戸籍係にあった1番から4番までといった複数の窓口を、ぜんぶ「1番」にして、1番窓口を4カ所つくったのだ。
こうすることで、待ち時間を当時としては画期的に短縮化した。

しかし、これには仕掛けがあって、戸籍にかかわる本人の関係書類(たとえば印鑑証明とか)を、一つのファイルにまとめて、このファイルの検索システムを導入したのである。
従来は、1番が戸籍、2番が印鑑証明という具合に、役所の係の都合で窓口ができていた。

これを、住民の都合に合わせたのである。

全国の自治体から見学者が出張にやってきて、感心して帰るのだが、ぜんぜん全国に普及しなかった。
あまりの画期的方法による、ひと余りが心配されて、従来の不効率が役人のためになると、かえって確認されてしまったからである。

ここにも、地方議会の痴呆状態が確認できるのだけれども、高度成長期という税収増加に余裕があった時代の悲喜劇でもある。

わたしは、神奈川県の電子政府システムに登録している。
たいへん面倒な仕組みで、申請だけでなく手数料の支払いにも事前登録の手間がいる。申請先部署と県の出納とが別々の「リアル」が温存されているためであろう。

民間なら、「売上げ管理」という話が、彼らには興味もないからである。
あるのは、確実なる「入金」なのだけど、この情報が申請先部署にどうやって伝わるかまでは、利用者にはわからない。
それで、結局は申請窓口の担当者から電話がかかってきて、口頭で確認したことがある。

双方がパソコンの画面をみながら、電話で話しているのだから、なんだかなぁなのである。
だったら役所まで赴いて、紙の申請書類に書き込んで、売店で県の証紙を買った方が一度でおわる。

これが、科学技術立国の電子政府なのだ。

AIどころの話ではない。
ようは、半世紀前の全国の役所から進化のかけらも無い、ということだ。
つまるところ、どうやったら国民の便利になるか?という思想が無いのだ。

政府のためになるデジタル利用なら、ご勘弁願いたい。
この思想だと、かならず全体主義になるからである。

性風俗店の逆襲は成功するか?

一昨日の23日、関西の性風俗店が、「持続化給付金」と「家賃支援給付金」の対象から性風俗事業者を一律に除外するのは「憲法違反」だとして、国などに対して「東京地裁」に提訴した。

報道だけではどうして、「大阪地裁」でないのかの理由はわからないけど、わたしの実務経験でも、じつは目に見えない「法の運用」における「全国統一」がないのも理由なのではないかと疑う。
逆にいえば、あんがいわが国の「法治」は、地方の事情に寛容なのである。

「関西の」ということだから、府県でいうとどこなのかも伏せて報道されている。
もっとも怪しいのは「大阪府」だけど、記事からは断定できない。
でも、国などに対して提訴したのだから、この「など」をいわないのは、やっぱりおかしい。府県のどこかも訴えられて「被告」になったはずだからである。

原告は、「憲法違反」を理由にしているので、一審では決まらず最高裁までを覚悟しているだろう。
すると、わざわざ東京地裁に提訴したのは、大阪地裁と大阪高裁に信頼が置けぬ、といっているようにとれる。

これは、けっこう重大な話である。

「三権分立」という建前が、ほんとうはかなり怪しい状態にあるのがわが国だ。
立法府と行政府の立場の逆転については、しつこく書いてきた。
また、司法府が深い眠りについていることも書いた。

「法治」の守護神は、「司法府=最高裁判所」にあるはずだけど、とにかく「何もしない」という伝統だけは戦後一貫して保守している。
この点で、わが国泰明期の「高等法院」や「大審院」は政府の介入を嫌ったので立派だった。

本来、地方裁判所は、管轄する地域の行政や議会が制定した条例についての「憲法審査」をしないといけない。
高等裁判所は、地方裁判所のチェックをおこなうためにあって、最高裁判所は、これの再チェックだけでなく、国会で制定された「法律」と国家行政当局の「憲法審査」をすることが業務でないといけない。

ところが、決まったことを司法から横やりを刺されるのが嫌だから、決める前に「審議」するのが、内閣法制局の役割になった。
これは、「検閲」で、修正を指摘されたり「発禁」とか「伏せ字」になることをおそれて、「自主検閲」というより厳しい検閲をおこなうのと似ている。

そんなわけで、最高裁は、内閣法制局に任せることで、居眠りができるのである。
しかし、立法府の役割がなくなる、という意味では内閣法制局の存在は憲法違反にならないのか?

衆参両院にちゃんと用意されている、「法制局」の開店休業がこの証拠だ。
「政府提出法案」が正常で、「議員立法」が珍しい、のは、近代民主主義国家として、「異常」なことである。
国会議員しか法律を制定することができない、のに、ただの「審議機関」になり果てた。

この責任は、最高裁判所にある。

裁判所も人間の組織であるから、その最上位組織が腐れば、下部組織も当然に腐る。
裁判官の人事と評価は、最高裁判所がやっているから当然だ。
地方裁判所が、管轄する地域のチェックをやめたのも、自治省=総務省の役人が地方行政を牛耳っているので、安心して居眠りができるのである。

こうして、行政当局の中にいる、高級官僚が国家も地方も支配する構造が完成した。
わが国の司法は、行政府に「完全依存」を決め込んだのだ。
なので、国民から訴えがない限り何もしない。

およそ近代民主主義国家の憲法とは、国民から国家・政府への命令書、なのだけど、近代憲法を自分たちで作った感覚が国民に「ない」ものだから、なんだか勝手に運用されても国民が気づかない。
それで、とうとう憲法を守るための組織が腐敗臭をあげているのだ。

性風俗店があるのは、経済でいえば「需要がある」からである。
すでに、男性向けのみならず女性向けのお店もある。
これは、法律でいえば「風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)」が適用される。

開業申請の窓口は、店舗を設置予定の所轄警察署生活安全課で、許可は都道府県の公安委員会である。
今回の原告は、「無店舗型性風俗特殊営業」の「1号営業」にあたるデリバリーヘルス運営会社である。

弁護団は、「運営会社は法令を遵守し、納税し、反社会的勢力とも関係していない」、「不平等で職業差別にあたる」としていて、会社の代表は、「国が性風俗業で働く人の尊厳を無視している」、「職業差別の意識が変われば嬉しい」とコメントした。

キーワードは、「職業差別」である。
上述の「1号営業」には、以下の「定義」がある。

人の住居又は人の宿泊の用に供する施設において異性の客の性的好奇心に応じてその客に接触する役務を提供する営業で、当該役務を行う者を、その客の依頼を受けて派遣することにより営むもの。

今回の原告は、「会社」なので、後段部分があたる。
「客に接触する役務を提供」するひと本人ではなく、「客の依頼を受けて派遣することにより営む」方であって、無店舗なのに「家賃」とは、事務所のことをいうのだろう。

また、「役務(えきむ)」とは、「サービス」のことである。

国や地方自治体が誘致に熱心な、「カジノ(統合型リゾート)」にも、性風俗サービスが内包されている。
もし、カジノが開業していたら、どうするのだろうか?も突きつけている。

マッチポンプの中国政策

国民と国家は別物だ、という論法がアメリカ・トランプ政権の対中戦略で打ち出された。
これには、「国民<国家<党」という図式を応用した、「分断」だと中国政府は反発している。

およそ全体主義体制においては、二重思考(「ダブル・シンキング」)が「ふつう」なので、一般的な倫理や道徳という概念は通用しない。
むしろ、一般的な倫理や道徳に反する、背徳や悪辣をもって「道徳的」というので、正反対のことが一般的になる。

ただし、これは、「国家<党」という両者のなかでの「常識」だから、被支配者としての国民にとっては、「仰せの通り」ということになるだけなので、積極的にこれを受け入れるというほどでもない。
ここに、「分断」の種がある。

すると「国家<党」のいう「反発」とは、国民の側に立てば、「積極的に受け入れられる」ということになる。
つまり、「国家<党」が「国民と分断させるな」というのも、「とっくに分断している」という意味だ。

これが、「二重思考」の解読方法である。

こうしたことを、なんだかんだいっても外国のことだと嗤ってはいけない。
ぜんぜん他人事ではないのである。

わが国の場合、「国家」と「党」がどうなっているのかをかんがえると、「官僚政府<政権与党」を装いながら、実際は、「官僚政府>政権与党」になっている。
「<」と「>」の記号の向きに注してほしい。

どういうことかといえば、中国共産党は「立派な」近代政党だけど、わが国の自民党はぜんぜん近代政党ではないからである。
近代政党には、政党内にシンクタンクがあるものなのに、自民党はあろうことか官僚にこの役目を負わせた。

あえて自民党といっているけど、わが国の政党で党内にシンクタンクがあるのは、やっぱり日本共産党だけである。
この意味だけをとれば、日本共産党は近代政党といえる。
他の野党は、全滅なのである。

だから、かつての民主党政権も砕け散ったのだ。

政策を官僚に、「立案してもらう」ことしかできなかったからである。
もちろん、この「政策」には、「法案作成」もふくまれる。
その法案は、内閣法制局が仕切っているのである。
もっとも重要な、「予算」は、当然だが財務省が仕切っている。

官僚を手足のように使った政治家は、過去に一人、田中角栄しかいなかった。
いまの政治家は、官僚に手足のように使われていて、できるのはパフォーマンスとしての「発言」だけになったから、「失言」がふえる。

角栄の天才は、各省庁のキャリア官僚の顔と名前、そして何よりも「入省年次」を記憶していたから、適材適所が実行できた。
これを、「角栄コンピュータ」と呼んだのだ。
官僚の弱点は昇格において、入省年次を超えられない、一点にあることをしっていた。

経済官僚のほとんどが法学部出身なので、本当はかなり経済音痴なのがわが国経済省庁の特徴となっている。
とくに顕著なのが、経済産業省である。
この役所は、日本経済の発展にほとんどどころか、歴史的にもぜんぜん役に立っていないのに、「我こそは」と意気込む悪い癖がある。

この癖をつけたのが、近衛内閣における岸信介商工大臣(商工省は後に通産省になる)だった。
近衛の悪辣は、阪急東宝グループをつくった自由主義者の小林一三を商工大臣にしながらも、満州で社会主義帝国をつくった岸を次官につけて、小林になにもさせなかったことである。

しかも、内閣を意味不明に放り出してみせたのは、小林を追放し、岸を商工大臣に据えるためだったのだから、たちが悪い。
ついでに、満州で岸を補佐して社会主義のための経済計画を立案していた満鉄調査部の流れから、後の経済企画庁ができている。

このあたりから、わが国のダブル・シンキングがはじまるのだ。

そして、いまの経産省は、中国から撤退する日本企業に補助金を出す政策をかかげ、1700社がこれにしたがっている。
ただし、中国に進出している日本企業は、およそ3万5000社にのぼるから、せいぜい全体の5%程度なのである。

しかも、このたびの新政権でも留任した自民党の幹事長は、「中国との経済関係の強化は世界潮流である」旨の発言もしているのである。
西側諸国のどこを見ても、世界潮流とはいえそうもないけれど、経産省の外郭である日本貿易振興会(JETRO)による、中国進出企業アンケートでは、9割以上が現状維持かさらなる事業拡大を試みる、というから、「国内的には」世界潮流ともいえる。

つまり、撤退させたいのか?拡大なのか?どっちなのか?
がはっきりしない。

税金をつかう補助金方式には限界があるし、かといって民間企業に命令もできない。
だけれども、一方で、現地に駐留する民間人は、そのまま「人質」にもなる。

最後は企業の経営判断なのである。
くれぐれも「サンクコスト」に注意したい。
過去の投資は、「あきらめるに値する」原価なのである。

これは、中国に投資した世界中の企業にいえる。

だから、雪崩をうって撤収パニックになることもあり得る。
他人の判断に依存してもせんないけれど、11月のスイスの国民投票と、もちろんアメリカ大統領選挙がエポックになるにちがいない。

強欲な役人がカジノを逃がした

世界的なコロナ禍にあって、アメリカはラスベガスにある世界最大のカジノ業者が日本進出を断念すると発表したのは5月、続いて8月にも別のアメリカの事業者がつくった日本駐在事務所を閉鎖した。
これで、残る候補事業者は、中華系だけになっている。

「カジノ反対」を掲げる住民団体にとっては、まさに「コロナ福」となっている。

また、横浜市では、住民投票をもとめる「カジノの是非を決める横浜市民の会」や、市長リコールの「一人から始めるリコール運動」の二系統で「阻止」をはかっている。

住民投票をもとめるハードルとしての必要署名数は約6.3万筆で、市長リコールだと約50万筆を必要とする。

あつめた筆が目標を達成すると、住民投票なら市議会で審議され、可決をもって住民投票となる。ただし、住民投票での「反対」が多数でも、結果についての「法的拘束力の有無」が問題になって、結局は「政治決着」というシナリオになっている。法的拘束力が「ない」からである。

一方リコールだと、市の選挙管理委員会が行う投票となって、こちらは「賛成多数」となれば、市長のリコールは成立する。
リコール運動の主旨が、「カジノ反対」だから、それで市長を失職させれば、市はカジノを断念するはずだ、という論法である。

だから、迫力があるのはリコールで、なんだか妥協的(やることに意義がある)運動なのが住民投票請求なのである。
それにしても、横浜生まれ横浜育ちのわたしの記憶には、物心がついて以来、「市長リコール」とか「住民投票請求」という事態は初めてであるとおもう。

この点で、横浜市民も民主主義の制度を活用してこれを実行しようというのだから、なかなかなものである。
しかし、一方で、市長の「カジノ推進」に賛同するひとたちが、沈黙しているのが気になる。

そんななか、つい先日、市長が「カジノ見直し」を発言した。
まるでリコールに怯えたかのようだけど、カジノ誘致のための「予算」が足らないらしい。

市当局の説明によると、現時点で来年度に970億円の収支不足が見込まれているという。
これは、コロナの影響で、特に法人市民税が大幅に落ち込んで、市税収入全体が本年度当初比460億円減と、戦後最大の減収額になる見通しだと発表があった。

これに、以前書いた個人市民税が「ふるさと納税」に流れていることもボディーブローのように効いているはずである。
それで、従来組まれた予算の内、住民直結のサービスを除いて、その他の予算をすべて「見直す」ことの必要性が生じた。

まったく情けない姿を横浜市(役所)は、さらしている。

卵と鶏の順番のような議論だけれど、情けない横浜市(役所)のために、納税なんかするものかとかんがえた横浜市民が、ここぞと「お得」なふるさと納税に飛びついて集団乞食になったのが先か?それとも、市民が集団乞食になったから横浜市(役所)が困窮したのか?

お役人には残念ながら、横浜市民にだって記憶力はふつうにある。
社会党の牙城だった横浜市は、飛鳥田一雄氏の長期政権で開港以来の本社を東京に転出されてから、上場企業の本社が皆無になった。
これに、経済成長に乗った行政の肥大化で余計な業務が拡大したのである。

その証拠が、巨大な市役所を必要とする。
役所の巨大な面積は、「ムダ」の集合体なのだから、本当は「恥の巨塔」なのである。

歴代市長の熱心な箱物づくりとバブル崩壊で、市財政も傾いた。
この緊急事態に対処したのが、若き中田宏市長だったのに、へんなことから退任してしまって、信頼度が地に落ちた。

女性だからという理由をかんがえたことはないけれど、いまの市長の経歴にある民間大企業で役員をはれたのは、「女性だから」という理由ではなかったかと疑うのは、残念だけれどその「無能さ」が顕著だからである。
経営者としての力量も、政治家としての力量も、微塵もみえてこない。

その意味で、最近の「無表情」がお気の毒なのである。

さて、カジノの話にもどろう。
わが国で「カジノ」が営業できるのは、「カジノ法」ができたからである。
ところが、この法律は、いつものように「細則」が決まっていない。
「いつも」、というのは戦前からの伝統をいう。
「国家総動員法」のやり方と同じだとは、前に書いた。

しかしながら、外国の企業には何が何だかわからない、ローカルな「やり方」にうつったにちがいない。
カジノからの「あがり(ピンハネ)」がいくらかは、国家と誘致した自治体とで「折半」するとは「法」に書いてある。

けれども、それが「いかほどか?」は、「細則」に書くことになっている。
「細則」とは、「法令」の「令」にあたるもの(政令、省令、条例)から、「通達」まである。

「法」は国会、「条例」は地方議会が決めるけど、その他は役人が作文する。
これが「当然」とされるのは、アメリカ人には「文化のちがい」ではすまされない。どこに民主主義があるものか?

広く国民が負担する「有料が義務化されたレジ袋」は、「省令」でやったのだ。
少なくても、国会で「法」として決めるのがアメリカ人の常識だろう。そして、次の選挙での投票行動のために「賛成した議員の名前」を覚えておくのだ。

今年1月7日にできた「カジノ管理委員会」は、「3割(国と自治体あわせて)」と、「入場料」それに、カジノ管理委員会の「経費」もピンハネすると要求しているのである。
しかも、この比率や額は将来にわたって「固定」ではなくて、いつどういう理由で変更されるかわからないから、投資家には「リスク」でしかない。

そんなわけで、勝手な皮算用をしていたら、管理委員会の発足4ヶ月後に肝心の事業者に逃げられた、というお粗末である。
アメリカ人には、わが国「カジノ行政」の複雑な仕組みが、ぜんぶセルフ・コントロール不能の「リスク」にみえたはずである。

「コロナ禍」を撤退の理由にできたのは、事業者にとっては「コロナ福」にもなった。
「うまい逃げ口上」だ。

だから、「カジノ阻止」にもっとも有効な方法は、国の管理のより複雑なやり方と委員会経費の肥大化、そして国と自治体のピンハネ分をもっと増額させればよいのである。
そうすれば、世界のカジノ事業者のだれもが見向きもしない「誘致条件」となるからである。

社会主義計画経済が、直接資本投資を逃す、という教科書通りがここにある。

「墓参り」と「墓仕舞い」

秋のお彼岸中日である。

何度も書いたように、わが国は世界最強の宗教国家ではあるけれど、世界最強の宗教団体が存在しない。
たとえば、キリスト教のローマ・カトリック教会とか、イスラム教スンニ派とか。

これは、「統計」に現れないし、「無信仰」とか「無宗派」と本人が思っているのに、じつは「日本教」という宗教のかなり根強い信者だからである。
「神道」が、宗教としていかがか?といわれるのは、ふつう宗教には、「経典がある」とされるのが理由である。

「日本教」にも「経典がない」し、神道の発展形であるために信者なのに「ぜんぜん自覚していない」ということから、宗教として「目に見えない」という特徴を有している。
経典どころか組織もなければ指導者もいない。

なのに、「日本教」は日本人のこころに確実に存在している。
これが、「最強」のゆえんである。

たとえば、「お天道様がみている」から他人のものは盗まない。
このときの、「お天道様」とは何か?
「太陽」というひともいれば、「神様」というひともいる。

太陽ならば卑弥呼の時代からあるとされ、天照大御神に続く。
神様といっても、それは一神教の神様ではない。
そもそも「GOD」を「神」と翻訳したのが間違いの元ではある。
しかしながら仏教的にいえば、お天道様とは自分の精神のことである。

たとえば、死後、極楽にいくのか地獄にいくのかを取り決めるのは「閻魔大王」とされるけど、「GOD」の宗教でいう「最後の審判」とは根本的に意味がちがう。
閻魔さまとは、肉体が死んだ自分自身の「精神の鏡像」なのである。

自分とは完全に別物なのが、創造主である「GOD」であって、創造主の気分によって天国にいくか地獄にいくのかを決められる。
だから、生前にどんなに善行を積もうが関係ない。
これを、「予定調和説」という。

仏教はその意味で、内面的でかつ厳格である。
輪廻転生を前提として、この世とは精神の修行の場であるから、この世にいるうちは善行を積まないといけない。
他人のための善行よりも、自分の精神のための善行である。

それで、毎回のごとく自身の肉体が死んだとき、自分の精神の鏡像が閻魔さまの姿になって、自分を裁くのである。
精神が汚れていると思えば地獄での修行を選択し、そうでなければ先ずは菩薩を目指す。それから先の「仏」になるために、何度もこの世に転生する。

だから、最終目標は「仏に成る」ので「成仏」という。

死後、転生には49日かかるとされる。
なので、49日の法要とは、無事に転生したことをお祝いするのである。
この無事とは、ちゃんと人間に生まれ変わることで、「餓鬼」になってはいけない。

そのための道しるべになるようにするのが、初七日の法要や35日の法要だ。
このあたりの生々しい言葉は、『チベット・死者の書』にある。

チベット人はチベット語の「お経」によって、成仏を目指して生きている。
わが国は、三蔵法師が漢語に翻訳した「お経」でもって、日本語にしない。
だから、呪文のようなお経の意味を滅多なことで知る由もない。
せいぜい『般若心経』といいたいが、あんがいこれが難しい。

仏教徒なのに、仏教をしらないで生きているのが現代の日本人だ。
江戸幕府がつくった「檀家制度」が、慣性の法則でいまにも続いて、お墓があるお寺の檀家であることが、自動的に「信者」となって統計につかわれている。

それなりの業績を残した人生を送ったひとには、本人の名前が大書して刻まれたお墓がある。
ふつうに生きたひとならば、「先祖代々」とする。
谷中の墓地や青山墓地は、見学の価値があるほんとうは観光地である。

民法が変えられて、核家族化が促進されたからお墓の需要が高まってきた。
けれども、少子で子孫がいない。
ならば、一代かぎりでお墓を用意しても、その後のお参りも期待できない。
それは、維持管理費の負担をするひとも絶えるということだ。

お墓をどうするのか?
なくてもいい、ということが、なんだか自分のこの世のでの存在を軽くする。
結婚式と披露宴が軽くなったら、離婚もふえたのに似ている。

べつに離婚が不幸ではないから、幸せの追求はそれぞれに難しい。
でもやっぱり、夫婦円満で一生を添えたらそれは幸福なことである。

果たして、自分が生きた証拠をどうやって残そうか?
そんなに意味のある人生なのか、が問われ出した。
だから、あながち「立身出世主義」を切り捨てることはできない。
その前提に、「お天道様がみている」という思想があった。

いまは、とうとう自己中の立身出世主義がはびこって、『半沢直樹』に人気が集まる。
いまどき、「お天道様がみている」といって育つ子どもはいないし、これをいうおとなもいない。

お墓にいるひとたちは、とっくに転生したはずだ。
それを意識しながら、生前の記憶を思いだす。
その記憶を持ったひともお墓にはいれば、あるのは石に刻まれた名前だけである。

さては、維持管理者がいなければ、墓仕舞いしか選択できない。
取り除かれた墓石は、粉砕されて道路の敷石となる運命になっている。
物質の運命として、お役にたつならそれはそれである。

ひとの運命として、仏教に帰依するのかどうするのかは、自分で決めないといけないけれど、生まれ変わりも自分で決めたいから、やっぱり仏教徒がいいとおもう。

その前に、日本教が衰えたから発展もとまったことに、もっと注意していいとおもう。

「敬老の日」をいつまでやるのか?

昭和22年、兵庫県の村からはじまった素朴な運動は、当初は55歳以上が対象の「老人の日」だった。
当時の平均寿命と、戦争被害をかんがえると、「55歳」という年齢は立派な老人という常識があったのだ。

それからずいぶん経った昭和41年に法律が改正されて、「敬老の日」ができた。

ほぼ20年かけてメジャーになったともいえる。
この間、昭和36年に我が国の社会保障制度は現在の形の全容が「完成」されて、昭和48年には、田中角栄内閣で「福祉元年」と謳われたのは、繁栄の分け前を国民に施す、という見事な社会主義政策が実施された「元年」となった。

つまり、老人の日からの変容は、30年という一世代分の時間をかけて、最初の趣旨から完全に分離・離脱した別物となったのである。
最初の趣旨は、戦争で孫子を失っただけでなく、食糧難という困難の時代に、精神的励ましをしよう、というものだったからである。

いまや満100歳が1万人を超える、超高齢化社会が実現している。
一方で、少子は進み、昨年の新生児は91万人になった。
これで、20年後の新成人は、91万人だと確定したのである。

第一次ベビーブームの、昭和22年〜24年は、ざっと毎年270万人だったし、その子供世代の第二次ベビーブーム(昭和46年〜49年)は、200万人だった。
つまり、老人の日ができた頃に生まれた子供の3分の1しか生まれてこない。

20年後の新成人のうち、ざっと半分の45万人しか女子がいない。
すると、新生児の数が45万人になるのも時間の問題である。
女子が生涯に出産する子供の数が、「ほぼ1人」だからである。

そんなわけで、いつまで「敬老」といっていられるのか?
ひとの価値観のうつろいは、かつて20年から30年だったけれども、このままスライドしたとしても、30年後に「敬老の日」があるものか?
むしろ、「出産奨励の日」ができるのではなかろうか?

星新一のショートショート名作集のタイトルにもなっている作品、『ボッコちゃん』(昭和33年)における作家の想像力を超えて、とっくに「疑似恋愛」は商業化されている。
これが、為政者による「夜の街」への集中攻撃になっている理由としたら、なかなか「深い」のだけれど、誰も少子化対策だとはいわない。

それは、江戸「吉原」の灯を一撃で消した「法の威力」に似せているのではあるけれど、なぜに徳川幕府も明治政府もこれを許したかに言及しない偽善がある。
その吉原から生き残った「角海老」の系列店に官憲の手入れがあった。

「売春防止法」が制定されたのも昭和36年で、この法律は、売春という行為自体ではなく、あっせんなどの組織的行為を処罰するものだ。だから「防止法」なのであって、「禁止法」ではない。
法施行の前日、吉原最後の夜の賑わいはいつも通りであったから、客も店もほんとうに最後かと疑ったという。

しかし、翌日の夜は来なかった。
1617年以来350年の「伝統」が途絶えた瞬間だった。

「いけないこと」とするのは正義である。
しかしながら、清濁併せ呑むのが人間というものだから、全部を否定することもいかがか?
そこに「知恵」がはたらいて、占領中の昭和23年に「風俗取締法」ができた。

この当時のおとなは、昭和一ケタの前半より前に生まれたひとたちだ。
二十歳になっていた昭和3年生まれは、いま92歳。
男女ともに平均寿命を上回る年齢である。
昭和と大正の境目だと、94歳ということになる。

村で「老人の日」を制定した、当時の村長は1911年(明治44年)生まれなので、36歳の時の業績である。
昭和22年の平均寿命は男性50歳、女性で54歳。
だから、36歳の村長が特段「若い」ということでもない。

ところが、その昭和22年に生まれたベビーブーマーたちの寿命は著しく伸びたし、教育も「戦後」そのものだった。

そんなわけで、政治家をみても「小粒」なのは、全員が「小粒」になるように育てられたからである。
つまり、なんらかの「意図」がある。
そして、多くがこの「意図」に気づかない人生を送っているのではないか?と疑うのである。

孫娘があいてにしてくれなかったという理由で殺害するような老人は論外としても、果たしていかほどの「尊敬」を受けているのか?
尊敬を受けるほどの見識があるのか?
なんだか「緩い」ひとたちばかりにみえて、たまにしか「骨」があるひとをみなくなった。

それでかしらぬが、老人施設を嫌う老人もいる。
どうして「童謡」ばかりを歌わせられるのか?と。
バカバカしくて、何が面白くてそんな場所に行かねばならぬかと思っている。

悪貨は良貨を駆逐するがごとく、人間も多数派によって小数派は閉め出されて、あたかも多数派しかいないような勘違いを、若いサービス提供者にもおこさせるから、童謡やお遊戯、それに折り紙とかが定番になるのである。

だれでも歳をとりたくはないものだけど、それ相応のとりかたというものがある。
こんなことまで教えてあげないといけないひとたちが、「敬老の日」に集まるのではないかと思うと気が滅入る。

偽善なら、はやくやめた方がいい。