結果としての「コロナ福」

秋のお彼岸連休がはじまった。
太陽に面する「公転面」に対して地軸が23.4度も傾いているおかげで、間もなくやってくる「秋分」を境に、冬至まで日が短くなる。

季節は、日照時間の違いもさることながら、太陽からの日照角度によって受け取る熱量の違いによって変化する。
夏の太陽が真上から照らすのと、冬の太陽が斜め上から照らすのとで、地表が受け取るエネルギーが違うのである。

真上からは多く、斜め上からだと少ない。
わが国の位置が、北緯でいうと45度よりもやや南にあるので、温暖ゆえに「四季」がつくられる。

北であろうが南であろうが緯度が高くなる(極地に近づく)と、夏なら白夜になり、冬なら日が昇らない。
赤道ならば、年間を通じて日照時間はかわらないし、春分と秋分には、太陽は真東から昇り、真西に沈む。

エジプトのスフィンクスが見つめる星座の位置を、「歳差運動」に結びつけた歴史ミステリーが『神々の指紋』だった。

 

べつだん、四季があるのはわが国「だけではない」けれど、季節の移ろいをあらゆる文化に定着させたのは、日本人の感性がなせる技ではある。
これが、仏教の「彼岸」になったのは、この世である「此岸(しがん)」にいるものたちが修行して、悟りの境地(彼岸)にはいることができるとされたからだった。

新内閣が発足して、すぐのお彼岸に思うことを書いておく。

なんといっても今年は、「コロナ禍」の渦中にあって、いまだにぜんぜん改善していないようにみえるのは、マスコミ報道が、相変わらず「PCR陽性者」を「感染者」とする誤報を繰り返しているからである。
もちろん、検査を増やしているから、陽性者の実数も増えている。

まったくもって、『黙示録』的な様相なのである。
もちろん、『黙示録』は、新約聖書の最後にある文書で、これにはキリスト教的「終末論」がある。

「コロナ禍」を終末論的に見たてれば、それは、科学や医学を無視した人間社会がつくりだした病気という意味でとらえることができる。
「病気にかかる恐怖」をトリガーにして、自分という「個の価値」がマックスを超えてしまって、何も信じられないことの「恐怖」になったともいえる。

つまり、そこには「自分かわいさ」しか存在しない。

いわば、究極の「自己中社会」が表出したといえばよいだろう。
それが古代からの「穢れ」と結合したから、自然発生的な「排除の論理」が、地方において行動をともなう事態にまで発展しているのだとかんがえられる。

東京都民が「Go To解禁」となって、地方に赴いたとき、受け入れる地方の精神は大丈夫なのか?=都民は安全なのか?と心配するゆえんである。
明治からの中央集権体制が、もしや崩壊しかねないのは、「廃県置藩」状態がつくりだされて、これに疑問をはさむことができない。

すなわち、「穢れ」に対する「禊ぎ」の準備を、中央政府がやっているとは思えないのである。
これが、新政権の当面の最大にして緊急の課題であろう。

すると、「内憂外患」ということも考慮しないといけない。
コロナに沿ってあった、わが国にとっての「外患」とは何だったのか?
海外をかんがえるときの、もっとも基本となる概念は「日米同盟」である。
この間のアメリカの重大な選択は、「デカップリング」であった。

しかしながら、「桜の頃」に、隣接する大国の元首を国賓としてお迎えするという外交スケジュールがあった。
わが国では数少ない「ジャーナリスト」のひとり、鈴置高史氏も解説しているように、このスケジュールにはとんでもないスケジュールが隠されていた。

それは、香港をめぐる立法とその施行のスケジュールの強行である。
また、内モンゴルにおける言語教育の変更スケジュールもある。

これらは周到に準備され、実行されたのである。
いつからなのか?
表面に出る前が重要なのだ。

すると、うっかり国賓という、最大の同盟国から「?」を受けるものに、わが国独自外交の「成功」と胸を張ったと思いきや、上述の、世界が注目し懸念する事態をまねく決定が、先方のスケジュールにあった、ということになって、「日米分断」という最高の外交成果を先様に献げるところだった。

これを「ラッキー」といわずになんというのか?
わが国が、かろうじて「日米同盟」を維持できたのは、まさに「コロナ福」だったのである。

波状攻撃になっているのは、東京オリンピックの開催問題である。
先日、IOC副会長が、「コロナがあっても来年は開催」と発言したとのニュースがあった。
会長でないところに注目したいけれど、信じてよいのか?

東京オリンピック「後」の半年以内に、冬期北京オリンピックが予定されている。
どうしたら北京オリンピックをボイコットできるのか?
この理由づくりこそが、次の「外患」なのである。

果たして今度は、当事国とわが国以外が、「コロナ福」を用いるかもしれない。
そのために、ずっと理由なく、コロナ禍が「続く」ことを世界は望んでいることになる。

ワクチンは、このタイミングに利用されることになるから、彼の国は真っ先にワクチンができたといって、世界を安心させたいだろう。
そうはさせじと、安全性を云々してこれを阻止する。
じつは、どーでもいい病気だからである。

なので、やっぱり「内憂」のために、「禊ぎ」をはやく用意する必要がある。

「甘い」は「美味い」

わが国が「貧しかったころ」の味覚の伝統である。

「甘い」のは「糖」を感じるからで、「糖」とは「炭水化物」のことである。
そして、炭水化物が「発酵」すると、「酒」になる。
これをさらに、「蒸留」すれば、いわゆる「焼酎」や「ウィスキー」などの「スピリッツ」になる。

日本人は「酒好き」がおおいといわれるけれど、けっして酒豪ばかりではなく、むしろ人類のなかでも「酒に弱い人種」とされている。
外国人の酒量(アルコール分解能力)にくらべると、日本人はうそみたいに少量しか分解できない。

それで、二日酔いになる。

しかし、むかしの「酒」で二日酔いになったのと、いまは状況がちがうのは、酒の「品質」が変わったからである。
それは、とくに「日本酒」でいえる変化だ。

いちばん大きいのは、発酵タンクの材質ではないか?
いまは、衛生も考慮して、ほとんどがステンレス製のタンクで発酵させている。

むかしは、杉の大樽だったし、発酵促進のために樽内を混ぜる「櫂」や「櫂棒」も杉製だった。
できあがった「酒」も、真新しい「杉桶」にいれて販売したので、日本酒と杉の木は深い仲にある。

しかし、杉という木には問題があって、樹液である「ヤニ」がおおくふくまれていて、この中に含有する成分が「頭痛」をひきおこす。
ために、お燗することで、揮発性の成分を抜くことが必要だった。
これが、世界的に珍しい、温かくして飲む酒の理由だ。

いまは、ステンレスとガラス瓶だから、お燗にするのが「もったいない」ほどになって、「冷や」や「常温」が高級酒ほどこのまれるようになった。
「ライス・ワイン」となれば、ますます「燗酒」にはしない。

米に酵母をくわえて発酵させるので、酒米は糖質がおおくあった方がいい。
それで、ごはんとして食べる米と、酒をつくるための米は別の品種になっている。

いま絶世の人気をほこる「コシヒカリ」の祖父にあたる「亀の尾」は、当初は食米だったけど、のちに栽培の難しさから滅びかけたものを、造り酒屋がこだわりの酒の原料としてこれを取り上げ、いまにいたっている。

朝鮮半島が日本だったころ、亀の尾が広く栽培されて、朝鮮米の代名詞にもなっていた。
本州の東北地方は、むかしからの貧しさを引きずっていたが、都市部を基盤としていた「立憲民政党」は、農村振興に無関心だった。

東京駅で暗殺された、濱口雄幸首相は、この立憲民政党の党首でもあった元大蔵官僚である。
合理主義者で、朝鮮の水田開発に熱心だったため、大正期には首都圏の流通米の半数以上が朝鮮米になっていた。

じっさいに、この「政策」で、東北の農村が飢饉でもないのに「疲弊」したのは、作った米が首都圏で売れなかったからである。
高くて評判のわるい東北米を、ぐっとこらえて買っていたのは、東北出身の次男坊三男坊の工場労働者一家だったのは、故郷の窮状を支えようとしたからである。

江戸時代から首都圏に住んでいたひとたちは、安くて美味い朝鮮米を贔屓にしていた。
亀の尾の美味さが仇となったのは、そんな東北人の「怨み」が、関東大震災で在日朝鮮人に向けられて暴発したともいわれている。

世界の大都市で、屈指の人口をほこった江戸は、地方からの人びとがあつまる場所だったから、地方の名物もあつまった。
太平洋側の海岸をつたってくれば、船で物資がはこべるから、基幹的調味料の「醤油」が、和歌山から銚子にやってきた。

伊勢の民謡「波切節」は、おなじ曲が高知にも、銚子、仙台にまである。

これを「利根川水運」で、野田にもつたわっていまにいたっている。
日本海側は、秋田の「しょっつる」に代表される「魚醬」の文化があるから、基本的な「味」が太平洋側とことなる。

バテレンが伝えたカステラの味は、高価なものの代名詞だった「卵」と「砂糖」を大量投下してつくるから、江戸の卵焼きは「甘い」。
その点、日本海とつながる京都は、「うまみ」をもって「料理」としたから、京都の卵焼きは「だし巻き」である。

けれども、京菓子の繊細さと甘さは、茶の湯の発展とともにあったから、めったに口にできない「甘さ」こそ、あこがれの味であったことに東西のちがいはない。

そんなわけで、京都に丁稚奉公した福井人が、正月休みで故郷にかえるとき、女将さんからいただいた「羊羹」を、そのままではもったいないから水と寒天でのばして「水羊羹」にした。
それでも、「甘さ」が十分だったのは、砂糖なんてものがなかったからである。

「丁稚羊羹」は、滋賀や奈良にもある。

白米を腹いっぱい食べたいと願った日本人は、わたしの祖父の時代ではふつうにいた。
明治の陸軍は、これで募集し、全国から兵をあつめることに成功した。
ただし、白米ばかりの兵食で脚気の死者が日露戦争での肉弾戦を上回った。

「ギブミー・チョコレート」は甘くて苦かったろうけれど、「丁稚羊羹」も、苦かったにちがいない。

それで、果物がみんな「甘さ」を主張することになっている。

相変わらず、「甘い」は「美味い」のままである。
国民が早死にするような、悪魔の味、でもある。

選挙パフォーマンスで和平ができるか

昨日、2020年9月16日は、間違いなく歴史に残る日となった。
ホワイトハウスでおこなわれた、イスラエルとUAE、バーレーンとの国交正常化の調印のことである。
仲介したトランプアメリカ大統領は、さらにアラブの数カ国がこれに続くと演説した。

これを、わが国のマスコミは、「選挙パフォーマンス」と決めつけて報道している。
まことに、間抜けで滑稽な姿である。

ご丁寧に、民主党のバイデン氏との「差」をもって劣勢を強調しているが、前回でも勝敗を決した激戦州では、既に互角あるいはトランプ氏優勢との分析もある。
正確を期せば、双方「互角」で現時点では勝敗は不明なのである。

しかしながら、マスコミ報道は容赦なく、あたかも調印式がホワイトハウスであることも「異例」として、すべてが国内選挙向けの演出だと、ニュースを装って演出している。

当事国がイスラエルを中心に2カ国あるので、もっとも適した場所はイスラエルだろうし、エルサレムでやりたいにちがいない。
でも、ここを選ぶと、次の国が腰を引くかもしれないし、周辺国を刺激する。

ならば、仲介者の場所に集まるのは自然なことだ。

もし、これを、「選挙キャンペーンの一部」というなら、まさに外国政府がトランプ氏側を応援していることになる。
ところが、かつて中東の国で、2カ国が同時にイスラエルと国交を結ぶということはなかった。

むしろ、民主党のオバマ政権はなにもしなかったから、副大統領だったバイデン氏にも中東での外交に実績はない。
これを、いまさら羨んでもせんないことなのだ。
だからぐうの音も出ない。

結果的に、「選挙パフォーマンス」となったとしても、この時期というタイミングを、トランプ氏のわがままで決められるほど歴史的な「国交樹立」は甘くない。
相手があるからである。

中東の石油に9割も依存しているわが国にとっても、重大な外交成果に違いはないのに、なにをいっているのかわからない。
むしろ、アメリカだけの外交成果なのではなく、アメリカの同盟諸国だって舞台裏で画策したはずである。

ならば、わが国はなにをしたのか?
高いコストの特派員を直接派遣しているのだから、このくらい自分で取材して報道してこそプロのジャーナリストである。
しかして、日本大使館の公式見解しか取材できないという、記者クラブの「国内事情」をそのまま外国に持ち込んで、遊んで暮らしているのであろう。

見るも聞くも読む価値もない。

こんなぐうたらに、われわれ国民はコストを負担させられている。
新聞社や民放が自ら負担しているのではない。
広告収入という、消費者が支払う価値から転用されているのだ。
そろそろ、スポンサー企業も気づくべきだろう。

そんなわけで、国内では、菅内閣が発足した。
近代政党ではない、自民党の総裁選挙を経ての「結果」ではある。

新政権について、日本のマスコミは「100日間ヨイショ」というルールがあるけれど、これは、「アメリカのマスコミ」から真似っこしたものだ。
じつは日本的には「お手並み拝見」という上から目線なのだ。
果たしていま、そんなことを悠長にいっている場合か?

政権の受け皿となる野党が事実上存在しないので、場合によったら100日もしないで「解散」だってある。
すると、安倍政権の踏襲がここに活きて、再びの長期政権にだってなり得るのだ。

だから、わが国の政治問題の根本に、「ちゃんとした野党の必要性」がある。

従来型の野党では、けっして与党に脅威を与えないのは、何度も書いたように、その「社会主義性」にある。
自民党が、とっくに社会主義政党になってしまって、もう一つの社会主義政党と連立している。

だから、社会主義性のある野党では、ぜんぜん対抗できないばかりか、わが国をどんどん社会主義国家へ変容させる速度が速まるばかりなのである。
この社会主義性が、経済政策の大黒柱と化したから、わが国経済の活力が衰退しているのは歴然だ。

現状野党の狙いは、ここにある。
つまり、与野党の野合であるから、これを「新55年体制」という。

それで、かつての「英国病」(保守党も労働党と野合した)にならって、「日本病」という。
病気の原因はどちらも、社会主義性、である。

これを治療したのは、サッチャー女史で、彼女はハイエクの「新自由主義」を全面に打ち出した。
そして、彼女は科学者だった。

つまり、わが国にはサッチャー女史のような「新自由主義」が求められていて、これを理系が推進する必要があるのだ。
けれども、わが国の「政治環境」では、無い物ねだり状態になっている。
マスコミに新自由主義を押す媒体が存在しないからだ。

すでに、わが国では、新自由主義に「悪の」が枕詞になっている。

コロナ禍がようやく「情報感染症」といわれはじめたなか、とっくに新自由主義もわが国では情報感染症が発症して、世界の常識に追いつかないばかりか離反しているのである。

先ずは有権者たる国民が、上記のような図書をもって、自ら「解毒・治癒」すべきなのである。
なぜなら、まったく期待できない政治構造が、まったく期待できない内閣を量産しているからである。

わが国の9月16日には、こんな歴史的意味がある。

「猟犬がダメになる」とは

前に、「ペットの犬は使役犬にならない」、と書いた。
いわゆる、「使役犬」とは、人間が使役する犬のことで、警察犬や軍用犬、猟犬、あるいは麻薬取締犬から、盲導犬までさまざまな「使途」がある。

「愛玩」という「使途」の犬が、ペットだけれども、あたかも人間と同格に置かれた犬には、人間の想像以上のストレスがかかって、気の毒にも精神病を発症してしまうこともある。
ペットも人間界の住人だから犬を支配するのは人間でなければならないのにもかかわらず、犬が主人であると勘違いしてしまうことが原因だとされてる。

だから、ペットの犬には、正しいペットにさせるための調教・訓練が必要になるのだけれど、このことの重要性すらしらないから、その方法に興味もない飼い主がたくさんいる。
それでもって、犬をコントロールできなくなって、「動物愛護センター」における殺処分が絶えないのである。

酷いめにあうのは、「いつも」犬の側なのだ。

猟犬は、犬の特徴・特性となる能力を人間が利用するために訓練される。
一口に「猟」といっても、いわゆる、「獣(けもの)」と「鳥」に分類できる。
獣には、鹿やイノシシが、鳥には、やまどり(キジの仲間)や鴨が代表的な獲物である。

犬の特徴は、まずは「嗅覚」である。
そして、「聴覚」。
さらには、運動能力であって、狩猟・闘争本能もある。
もちろん、背後には人間への忠誠心も求められる。

すると、猟犬にも二種類ができて、獣用と鳥用となる。
なぜなら、獣の臭いと鳥の臭いがことなるからだ。
当然、獣の臭いのほうが強く、鳥の臭いは弱い。

だから、鳥用の訓練をした犬を、獣が多く棲息する山に連れて行くと、獣の臭いに負けてしまう。
鳥を追わずに、獣を追ってしまうのだ。
これで、鳥用とした訓練も台無しになる。

こうして、猟犬がダメになるのである。

だから、鳥撃ちの猟師は、獣が多く棲息する山を嫌う。
やまどりは、そもそも滅多にお目にかかれない鳥なので、やまどりを狙う猟師は、ただ獲物がとれればそれでいい、という感覚はない。

犬が獣の臭いに反応したら、とにかくその場から犬も一緒に離れないといけない。
獣の収獲に興味がないのだ。
むしろ、これまでの訓練がダメになることをおそれる。

猟犬がダメになるとは、餌代が無駄になるという意味になる。
猟犬は、けっしてペットではない。
けれども、ダメになったからといって、動物愛護センターに連れて行く猟師もいない。

そうなると、猟犬の子どもを得るために使うのである。
信頼ある猟師同士で話し合って、自分の犬を掛け合わせる。
優秀な猟犬にも、血統があるのだ。
この信頼に、動物愛護センターを利用しないという意味もある。

ちゃんとした猟師は、犬を犬死にさせない。

そのかわり、狩猟目的という一線もけっして超えないから、ぜったいにペット扱いしない。
この「けじめ」を、犬も理解している。
猟場に到着したら、犬も勝手に狩猟モードにはいる。

すなわち、お仕事モードにちゃんとなって、それなりの緊張とハッスルを開始するのだ。

あるメスの老犬は、歩くのがやっとで、腰をふらつかせながら山で人間に追い越されるざまだったけど、それでも人間に獲物のありかを必死に教えていたのは、嗅覚は衰えていないからだ。
獲物を前にした記念写真には、腰が曲がった座り方で猟師の脚に寄りかかって映っているものの、顔はどこか満足げである。
彼女は、その夜に自宅犬小屋で静かに死んだ。

こいつは精いっぱいの仕事をしたと、猟師も自慢して目を細めた。

この意味で、猟犬は単機能なのである。
この単機能を維持させることも、人間の責任になっている。

やまどり撃ちの猟師は、獣の猟師が減って、害獣化による被害が増えることを深刻にかんがえている。
一方で、獣の猟師は、山で獲った獣を無駄にしない。
虐殺をしているのではないのだ。

ただし、こちらはこちらで、獲物が大型であればあるほど、獲れた獲物の運搬に体力をつかう。
山に分け入るだけでも体力が必要で、獲れたら獲れたで体力がいる。
そんなわけで、猟師の高齢化問題は、すでに絶対数の減少になっている。

猟友会に依頼する従来の「害獣駆除」が、猟友会から断りを入れる事態も発生しているのは、会員の高齢化と人数がいない、という理由ばかりだ。
地元住民のがっかりは、絶望へと変化している。
加えて、コロナ禍は、狩猟免許の講習会も中止させた。

なんだか、海洋で起きていることに似ている。
わが国は、排他的経済水域を含めると世界第6位の面積になる「大国」なのに、海洋生物の資源管理ができていない。
沿岸漁業の衰退も、魚が減って、漁師では食えないからである。

獲りすぎと、河川の汚染、それに山の荒廃によるミネラル補給の減衰が原因とされる。
山の荒廃には、林業の絶望もある。
山を管理する人間の手が、経済価値を失ってしまった。

山国で海洋国家であるわが国は、資源管理の二方面作戦を強いられる宿命がある。
猟犬がダメになる、レベルの話ではない危機がある。

新政権に真っ先に期待すること

新政権の最初の大仕事は、新型インフルエンザ等対策特別措置法での指定から「新型コロナウイルス」を真っ先に「解除」することである。
春先に、慌てて「指定」したのは、どんな病気なのかよく分からない状態だったのだから、仕方がないといえば仕方がなかった。

安倍氏はわが国を「道義国家」と呼んでいた。
「道義」とは、やさしくいえば、「道徳」のことである。
つまり、道義国家とは、世界に道徳性で優る国という意味であり、この分野でのリーダーとなることをいいたかったはずである。

すると、第一に、国内において、新型コロナウイルスが原因だとされている病気とは、いったい何なのか?
という基本について、あまりにも説明不足が政府にもある。
これにマスコミが扇動的な「報道」を仕掛けたので、まったく収拾がつかなくなった。

緊急事態宣言を出したのは「仕方ない」としても、解除の基準をいわない。
だから、解除自体が、政府・官僚・政治家の恣意的な判断だと国民は受けとめたのである。
これに乗じたのは、ポピュリズム政治家である知事たちで、勝手な「政治判断」がまかり通ることを許した。

PCR検査というものに、いつの間にか「全面的信頼」をするようになって、「診断」という医師の最大存在理由が冒された。
このブログでは、このことを「医療崩壊」と呼んだ。
しかも、医師会はこの崩壊に抵抗しなかった。

「利権」というカビ菌のようなものが、どんどん内部に浸透して、とうとう一般国民にまで届いてしまった。
これを、「脳が冒されるウィルス」と表現するひともいる。
つまるところ、「疑心暗鬼」である。

科学的知見とただの利権が交差して、とうとうこれを、「分離」できない世の中になったのである。
それで、検査をどんどん増やしたら、陽性者もどんどん増えた。
ふつうは、分母と分子の割合を気にするはずが、「陽性者の実数しか」いわない。

これをもって「第二波がきた」といって、政府に二度目の緊急事態宣言を出させようと意図したのは、「破壊活動」である。
政府はこれをしなかった、けれども、例によって「根拠」に関する科学的知見をいわないで官僚出身の大臣が「いまは宣言を出すような事態ではない」とまるで恣意的に繰り返したから説得力がない。

こうして、「納得できない」というひとたちも、陽性者の実数しか繰り返さないので、議論は平行線をたどる。
しかし、平行線をたどるようにしているのだから、そうみえるだけである。
厄介なのは、煽る側の根拠が「数字(実数)」だから、毎日これを見聞きすれば、すっかり洗脳されて政府を怪しむようになるのである。

民主主義は、政府を怪しむのを是とするのではあるが、扇動された結果なら、これはまずい。
その扇動者が、ほぼ全部のマスコミになったのが、今回の騒動でわかったことである。

新総理になることが決まった、いまの官房長官は、記者会見における特定の記者とのバトルが有名になった。
この記者を描いたという映画『新聞記者』が、2019年の日本アカデミー賞最優秀作品賞になっている。

なんだか噴飯物の作品がここまでおだてられると、しらけるものだけど、他にこれといった作品がなかった、ということなのか?
だったら、「該当作品なし」という選択肢もありそうなものである。

けれども、こうした特定の思想をもった記者(実際は活動家)との不毛なバトルに、耐えた、ということが、派閥をもたない政治家を総理にさせたのであろう。
大手新聞社が活動家を正社員の「記者」にしていることも、バレている。

困ったことに、わが国のマスコミは、それでも「公正中立」を言い張るので、国民の思考の軸がズレるのである。
これをふつう、プロパガンダという。
一定の政治思想に寄せる役割が、新聞社やマスコミの存在意義になっていて、これも利権にもなっている。

結局のところ、科学も道議も利権にさらされて、混沌としたのがいまの状態である。

ひとつの内閣でこれを払拭することはできないので、そんな期待はしていない。
しかも、与党がなにか変わることもないだろう。

ならば、やっぱり、コロナを指定解除することだけでもやってほしい。
どうせ、科学的根拠なんて問題にならないのだから。
この一点だけ、それで、たとえ一ヶ月で政権崩壊しても、歴史に残る業績の内閣になることは間違いない。

これこそが、道義国家のことで、安倍政権が口先だけで果たせなかったことの「継続」なのである。

キリスト教とトランプ政治

先週のUAE(アラブ首長国連邦)に続いて、昨日はバーレーンもイスラエルとの国交正常化を発表した。
これは、ひょっとしてアラブ諸国が、雪崩を打って変化しているということではないのか。

不可能といわれてきた歴史がうごいている。

困ったことに、わが国のマスコミは「アラブ諸国の反対」として、あろうことかトルコとイラン外務省の発表を報道し、エジプトの賛成を報道しない。

アラブの定義は、アラビア語を話してイスラム教を信仰していることだから、トルコ語のトルコとペルシャ語のイランは、ぜんぜん「アラブ諸国」にあたらない。ちなみにエジプトの正式国名は「エジプト・アラブ共和国」である。

アラブとは関係ない「外野」をアラブと呼ぶ、このポンコツな報道は、なんだろうか?
無知な国民を啓蒙する気概もなく、ただの「嘘」をたれ流す。
総務省に影響力がある、次期首相には、放送法の厳格な執行と、意図的な誘導には、「詐欺」同様、放送免許に関する罰則を追加すべきだろう。

さてさてそれで、バーレーン側も発表しているように、仕掛けはやっぱりアメリカ・トランプ政権である。
9日、ノルウェーの国会議員が、トランプ氏を「ノーベル平和賞」に推薦する書簡をノーベル委員会に送ったと表明した。つまり、トランプ氏は、ノーベル平和賞にノミネートされたのである。

この議員は、「前に受賞したオバマ氏は口先だけで何もしなかったが、トランプ氏にはめざましい成果がある」とインタビューでこたえている。
もちろん、この発言もわが国マスコミは報道せず、受賞に否定的だ。
どうなるか?受賞自体よりも、マスコミの「正しさ」に興味がわく。

トランプ氏とは何者なのか?
前回の大統領選挙から、今日までも、わが国のマスコミが報道することは、トランプ氏を「異常者」扱いすることばかりである。
日本国民はトランプを憎み、民主党を贔屓するように誘導されている。

ところが、東アジアにおいてあからさまな人権侵害があって、これを強力に阻止しようとしているのがトランプ氏の政権だから、なんだか日本人でも気がつくひとは気がつきだしている。
まずいのは、当事国の支配者とアメリカ民主党の方だ、と。

民主党の支持者が、東西の海岸エリアに多数なのは、世界貿易や国際金融取引をつうじて生計を立てているからである。
一方、共和党の支持者が多数なのは、内陸部で、こちらは内向きの反グローバリズムであるだけでなく、熱心な「福音派」(プロテスタントの聖書信仰)であることでも内向きなのだ。

なお、共和党の最初の大統領は、エイブラハム・リンカーンである。

イエスの教えの「真髄」といわれている一節のひとつには、『マルコによる福音書』2の22、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」がある。(新共同訳)

これは、旧約聖書の律法(モーセの十戒)を厳守するひとたち(「ファリサイ派」ともいう)と、イエスの論争の一コマなのである。
人間がつくった古いしきたりや法によって、人間ががんじがらめになることへの「拒否」がこの言葉なのだ。

モーセによる古い契約(旧約)を、全人類が新しい契約(新約)にあらためる、という思想的根源である。(わが家は天台宗の檀家である)

この当時、ぶどう酒は羊の革袋にいれて発酵させるのが常識だった。新しいぶどう酒をつくるために古い革袋にいれると、硬くなった革が発酵ガスによって裂けてしまう。だから、新しい革袋でなければならなかった。

イエスは、この「革袋」を、「制度」に見立てたのである。
そして、このことがファリサイ派の怒りをかって、とうとう十字架にかけられた。

トランプ氏は、内陸を拠点にする「共和党」の政治家である。
なので、東西の海岸を基盤とする「民主党=グローバリズム」に対抗する立場にあるし、実際に対抗している。

ちなみに、社会主義や共産主義は「国際共産主義運動」ということもあるように、「グローバリズム」の本筋である。
グローバリストが批判する、「新自由主義」はぜんぜん「グローバリズム」とはちがうけど、これをすり替える作戦が成功している。

その共和党には、二派があって、一般に「(共和党)主流派」と「(共和党)保守派」といっている。
「主流派」には、ブッシュ親子が代表され、「保守派」にはレーガンが代表されて、トランプ氏は「保守派」である。

主流派は武器をふくめた貿易を重視するので、グローバリズムに近い。だから、「ネオ(新)」をつけて、「ネオコン(新保守)=じつは主流派」といって、もとからある「保守派」と用語を分けたのだ。
パパ・ブッシュが再選されなかったのは、福音派の支持を失ったからである。

逆に、保守派は「反グローバリズム」なのである。
では、なにを「保守」しているのか?
それは、キリスト教福音派の信仰なのだ。

トランプ氏は、徹底的に「新しい革袋」をつくっている。
これは、人間優先の思想でもあるから、人権侵害を許さないのである。

わが国でも、官僚主義に対抗する重要な意味をもっている。
がちがちの法によって縛りがきつくなっている。
経済衰退の元凶がここにある。

新しい政権に、果たして新しい革袋は作れるのだろうか?

官僚と政治家の「ふるさと納税」

9月10日、おもしろい記事がでた。
週刊朝日の『菅官房長官に意見して”左遷”された元総務官僚が実名告発「役人を押さえつけることがリーダーシップと思っている」』である。

この「告発」をしたのは、2014年当時の元自治税務局長である。
このひとは、「ふるさと納税」を総務相時代に創設表明した菅氏が控除の限度額を倍増させたことを問題にして、直接「意見」したところ、翌年に自治大学校に異動になったという。現在は立教大学で特任教授を務めている。なお、記事では、次官候補のひとりだった、ともある。

詳しくは、記事そのものをお読みいただきたい。
なかなかの「ねじれ」が散見されて、じつに興味深い内容になっている。

この話の発端になっている「ふるさと納税」について個人的見解をコメントすれば、「国民総乞食化計画」としかおもえない。
「納税」のはずが、「返礼」のほうが多額になるからである。
だから、ふるさと納税をしないと「損」をする。

「税」そのものが、納税者にとって直接損得勘定の対象になるとは前代未聞の大発明である。
権利ばかりを主張して、けっして義務を果たさない、そんな破廉恥を国民に奨励するようなものだから、わが家では税に詳しいひとにどんなに勧められても、「行使しない」ことにしている。

これが、国民の矜持というものだ。
なので、堂々と批判できるのだ。

この点で、記事の元官僚の主張に異議はなく、まったく正しい。
それに、こんなポンコツな税制を推進したひとが、次期首相とは情けないと思う。
なんだか胡散臭い人物のような気がしてならない理由のひとつである。

けど、待った。
地方税だからといっても、ひとりの政治家だけに責任を還元できる話なのか?
与党の存在はどうなっているのか?

菅氏は与党内で派閥の領袖をしているわけでもない。
これは、今回の「総裁選」でも明らかだ。
つまりは、「ふるさと納税」を強力に推進した政治家だけど、もっと多くの賛同者が与党にいた、ということだ。
逆をいえば、与党に反対者がいなかったから実現したのである。

民主主義の原則からすれば、あくまでも官僚は行政当局のひとであって、決して政治家ではない。
政治の決定に従うのが、行政の本分である。
すると、この元官僚は、どこかズレている。

この「ズレ」が、左遷という結果になったなら、それは「左遷」といえるのだろうか?
むしろ、当然の人事なのではないのか?
それに、どうして「ズレ」ているひとが、次官候補といえるのか?なにかの勘違いではないか?

現実に、次官になれなかったのは、本人には不本意かもしれないけれど、行政と政治との近代民主主義の仕組みからすれば、「正解人事」なのだといえるのではないのか。

ただし、本人がどこか気の毒なのは、意見したのが「正論」であったからである。
これをどう観るのか?

やっぱり、わが国政府・政治体制の「非近代性」が浮かび上がるのである。
これは、与党にかなりの責任がある。
「近代政党」として、党内に「シンクタンク」がないばかりか、半世紀以上も前の「保守合同」以来、延々と党内にシンクタンクを設立する努力をせず、官僚機構にこれをやらせた。

だから、官僚が政策立案をし、それを立法化する手はずまで整える。
まったくもって、与党も議会も必要としない構造を、与党がつくりあげてしまったのだ。
「本来なら」、この元官僚の主張のように、担当部署の官僚が「異見」したら、この構造をそのまま適用して、その案に政治家が従うべき状態になるのがこの国の「ふつう」なのだ。

官僚が政治を支配する、という「ふつう」からしたら、そうならないのは「異常」なのでこの「告発」になっている。
みごとな「ねじれ」がここにある。

しかも、告発者はこのねじれに、いまもって気づいていないという、「もうひとひねり」のねじれもあるし、民主主義が大好きな新聞社系雑誌も記事掲載にあたってこれらに気づいている素振りもなく、冒頭のタイトルキャッチを掲げるというねじれがある。

だけど、ふるさと納税の場合、与党も「イレギュラー」を決め込んだのである。
ところが、この「イレギュラー」は、近代民主主義国家なら「レギュラー」なことなのである。

それでもって、「問題」となれば、国民が反対の声を上げ、これを報道することで政治家に影響を及ぼす。
もし、国民が「乞食扱いするな」と多数が怒っているとなれば、次期選挙で落選の憂き目にあうかもしれない、という「近代国家ならふつう」のストーリーになる。

ところが、国民がこぞって「得する」として、この「撒き餌」にむらがったのである。
みごとな「非近代性」を国民が示している。

菅氏は横浜市に選挙区がある。
その横浜市は、ふるさと納税によって、おどろくほどの市民税収入を失った。
わが国最大数の横浜市民が、横浜市に納税しないからである。

税収を失った危機感が、カジノ誘致のインセンティブになったのだ。
ところが、世界のコロナ禍を受けて、世界最大のアメリカのカジノ業者が横浜進出を断念した。
残るは、中華系しかない。

国民を乞食にした、ふるさと納税の顛末はまだ先だけれど、近代民主主義が成立していないこの国の中での主導権争いも、とうぶん続くしかない。
それは、国民不在という中での争いで、しかも多くの国民がその争いの結果に興味すらなく、検察人事であったように、政治家よりも官僚支配に信頼をよせているふしがある。

国民の不幸は、やっぱり自業自得なのである。

菅氏が時のひとになる理由もここにある。
元官僚は、大学教授になって凄いことを教えてくれた。
本人の意図とはちがうだろうけど。

アカデミー賞のあたらしい選考基準

現代の人類がもっている数々の「賞」のなかでも、アカデミー賞というのはきらびやかさで他の追随を許さない。

それでも「賞」なのだから、選考基準が公表されているので信用があるのだ。
どんな「賞」でも、目立つのは「授賞式」となるけれど、ほんとうは、かなり前に発表される「選考基準」が重要なのである。

だから、選考基準が事前に公表されていない「賞」には、残念だがなかなか「権威」がともなわない。
選考にあたるひとたちの「好み」とされたら、それは選考者の肩書きだけに頼ることになるからである。

それで、「選考理由」という話になって、あたかももっともらしくすることがある。
すると、主催者は選考者を選考するという事前選択で失敗ができない。
その道の「権威」というひとは数少ないので、似たような賞に同じひとが選考委員になったりするのはまずいから、選考者から選考されて、それが賞の淘汰にもなる。

選考基準に合致している、という理由が書けるのは、事前に公表された基準があってのことなので、基準がないなら作文しかなくなるのである。
だから、選考基準が公表されていて、選考者にも選考された賞ならば、それがその分野で「最高」ということになる。

するとこんどは、「最高の賞」に選考者として選考されることが「最高」になる。
だから、選考者にとっての最大関心事項は、賞の選考をすることになる。

科学的業績なら、成果をみることができるし、それには「論文」という成果も含まれる。
機械的ではあるけれど、論文の引用数という基準もあるのは、論文という成果を数値化できて、客観的になるからである。

文化・芸術の分野の賞は、客観的という部分で困難をともなう。
そもそもが「主観的」であるからだ。
この矛盾をどうするのか?が問われるのである。

さて、アカデミー賞のあたらしい選考基準とは、具体的に「作品賞」でのことをさす。
2024年以降、以下4つの基準のうち2つ以上を満たさないとノミネートもされない。なお、キーワードは「多様性」である。

・主要な役に少なくとも1人はアジア人や黒人などの人種的小数派を起用すること
・プロデューサーや監督、撮影などの製作スタッフのトップのうち、2人以上は女性や性的マイノリティー、障がい者などの中から起用すること
・機密フォームを提出し、多様性の数値を開示すること
・配給会社または金融会社が、過小評価されているグループに機会を提供していること

ハリウッドでは、賛否が分かれているという。
米映画芸術科学アカデミーは、社会的議論だけでなく関係者からもさまざまな表明が巻き起こることを承知で決定し、発表したはずである。
日本だったらどうするのか?

しっかり「事前に根回し」をしてから発表するのだろう。

この「順番」のちがい。
これは、決める側がリスクをとるか?とらないか?の「ちがい」なのである。
ここでいうリスクをとるとは、理論武装もしている、ということを含む。

また、アメリカ人は米映画芸術科学アカデミーという民間団体に、政府や政治家の関与をよしとしない。
わが国では、「文化庁」という役所がしゃしゃり出る文化がある。

日本アカデミー賞協会の設立時の名誉会長は、初代文化庁長官、今日出海氏(今東光大和尚の実弟)だった。
おそらく、本人はかつぎだされたのだろう。

それはそうと、選考基準をもって経営に誘導を図る、というやり方は、アメリカでは、低迷していたアメリカ経済を復活させたと定評の『マルコム・ボルドリッジ国家品質賞』という賞がある。
共和党レーガン政権時代に創設されたもので、尽力した当時の商務長官の名前を入れている。

「国家品質賞」なので、アメリカでは珍しく国家が関与している賞だ。
授賞式はホワイトハウスが会場で、大統領から直接授与される。
よって、最高峰ともいえる経済賞になっている。
この賞の「選考基準」は、アメリカの国家プロジェクトだった日本の経営・経済研究の「成果」がつかわれている。

パパ・ブッシュを破った民主党クリントン政権で「途切れるか?」と心配されたけど、クリントン氏も積極的に支持して継続され、政権党にかかわらずいまに至っている。

宿泊業界にこの賞が影響を与えたのは、「選考基準」にある社内システムを、リッツ・カールトン・ホテルが独自に工夫した『クレド』でしられる。
「サービス品質」という概念も、この賞が打ち出したものだ。
下地にされた日本の業界に、「サービス品質」が根づかない不思議がある。

日本生産性本部が、逆輸入してつくったのが『日本経営品質賞』だ。

つまり、日本からアメリカに渡り、また帰ってきたようなものだから、太平洋を往復している「賞」である。
経営品質協議会という組織が、ちゃんと「選考基準」を定めている。

受賞目的だけではなんだか動機が不純だけれど、「選考基準」には、経営の品質を上げるためのヒント(手順)が示されているようなものだから、挑戦してみる価値はある。

コロナ禍なのだから、より一層重要になったとかんがえるべきなのである。

タバコとコロナ

野党第一党といっても巨大与党に対して影響力がほとんどないから、空疎ないい方ではある。
多数決なので「数」における影響力が絶対ではあるけれど、少数意見の尊重として尊重したくなる意見をいったためしもない。

それが、支持率で一ケタを維持して、選挙結果の議員数になっている。
民主党政権が崩壊して分裂し、また合流しようにも、なんで合流するのかがわからない。
昭和の合従連衡を、令和の時代に野党がやっている無様である。

この原因は、与党にあって、連立する与党の左傾化(極左化)で野党の居住空間がなくなったのである。
それが、共産党の縮小にもあらわれている。
与党の政策が、なんと共産党の主張も呑み込んでしまったからだ。

昨年のアメリカ大統領選挙にかかわる、野党・民主党の予備選挙で、過去二回も頑張った、バーニー・サンダース上院議員(78)以下の候補者のほとんどは、現地で「左翼」とか「極左」といわれているひとたちだった。
いまや英語でも「Liberal」は、自由主義よりも進歩主義の意味になってしまって、言葉の本来の意味が逆転している。

ところが、極左という評価のサンダース氏の主張よりもっと「左」なのが、わが国与党の政策だから、むかしの「計算尺」をスライドさせたような状態で、わが国はこの位置を「保守」という目盛り表記になっている。
その意味で、あろうことか、わが国は「翼賛政治」になりつつある。

あたらしい自民党総裁=首相が誰になるかはしらないが、もうちょっと目盛りを「左」にすれば、野党を窒息させることは可能だけれども、それで国民が幸せになれるか?とは関係がない。
この一点で、自民党は中国共産党と似たもの同士なのである。

だから、わが国には、本来の「Liberal=自由主義」政党がマーケティング的にも必要なのだが、残念なことに存在していない。
この「選択肢のなさ」が、巨大な無党派層を形成しているのに、である。
個人的には、ネット界隈で今年4月に誕生した「参政党」に期待している。

そんなわけで、窒息寸前の弱小野党の党首が、議員会館の自室で「喫煙した」のが大問題になった。
これがきっかけになって、参議院議員の有志が、参議院議長に「禁煙徹底」を申しいれたことが「ニュースになった」。

なんだか、まじめを装った偽善者たちが、お母さんに悪い奴らを叱り飛ばして欲しいと訴えたようで、じつにつまらない話だが、頼られたお母さんがまんざらでもなさそうなので、どういう家庭環境なのか?と疑いたくなる。

「違法喫煙をやめろ」ということが趣旨である。
「違法」になったのは、2018年7月に成立した『健康増進法の一部を改正する法律』が、今年の4月1日より全面施行されたからである。

この「排除の論理」が、「法」になってしまったのは、国会議員が賛成したからだから、「先ず隗より始めよ」という『戦国策』の教えに文句はいえない。
だから、「正義」になるのである。

しかしながら、「排除の論理」を「法」にしてはいけない、と誰もかんがえなかったのか?ということになると、皆無だったからこうなった。
何のことはない、自業自得なのだ。
けれども、立法にかかわったからいえる話で、国民はどうなるのだ?

批判を浴びて詫びを述べたこのひとは、官房長官経験者にして弁護士でもある。
その前は、いわゆる「左翼の活動家」であったのだ。
「法」の専門家であるはずが、「法」によって裁かれた。

なぜかといえば、「排除の論理」を「法」にすることに違和感がないひとが弁護士になれる、ということもある。
けれども、「禁煙」が「法」になったのは、「受動喫煙防止」という目的があるからだ。

果たして、受動喫煙防止がどうしてそんなに重要なのか?について、科学的根拠がない、という問題が隠されている。
「医者がいっている」ということしか根拠がない。

肺がん患者の発生と、喫煙の関係があたかもいわれているけれど、統計的な相関は「ない」ばかりか、「逆相関」になっているのだ。
「逆相関」とは、一方が減ると一方が増える、という関係を統計的に示すものだ。

つまり、喫煙者が減ると肺がん患者の発生が増えるのである。
ましてや、受動喫煙によって肺がんになるという根拠もないのは、受動喫煙をどのくらいするとがんになるのか?というデータすらない。

すると、可能性をなくす、という意味にしかならない。
これが、国民を縛る立法の根拠となりうるのか?
せいぜい「注意喚起」か「警告」レベルの話である。

まったく同じ現象が、コロナだ。
コッホの原則にあたらないものを「感染症」とし、これを「法」にした。
よって、「可能性」しか示さない「PCR陽性」をもって二週間も隔離する。

左翼政権のフランスではマスク着用を義務化し、同じく民主党政権のニューヨーク州では、義務化を画策している。
特にフランスは国家として、わが国連立与党の支持母体を「カルト認定」し、それが政権与党であることを理由に、わが国を「カルト国家」としている国である。

「お互い様」ではないか?
と言い返す外交官も日本にはいない。

くれぐれも、「禁煙の徹底」は、ナチスの基本政策だったことを忘れてはならない。
「よかれ」が昂じて国民に命令する法となることに鈍感になれば、なんでもが「法」にされてがんじがらめになる。

こうして、全体主義ができるのである。

地図の上下を横にする

日本をふくむ東アジアの地図を横にして、西を下、東を上にしてみる。
中学校や高校の「世界地図帳」があるなら、地図帳ごと横にすればよい。
すると、ユーラシア大陸が下になって、日本列島がまるで「蓋」のように連なっているかに見える。

この、「かに見える」ということが、思考の役に立つ。
地政学という学問を引っ張り出さなくても、ユーラシア大陸から見たら、日本列島が広大な太平洋の堤防のようにも見える。

演歌だと、「日本海の荒波」が詩情や風情をかきたてるのだけれども、太平洋の荒波に比べれば、内海となる日本海はどっこい静かな海なのである。
だから、江戸時代は、日本海の「北前船」での海運が盛んだった。
裏日本が繁栄したのは、この「物流体制」のおかげだった。

現代でも、太平洋側の宮城県金華山沖に発生する三角波によって、大型船が沈没の憂き目にあう危険がある。
それで、南に目をやれば、「台湾海峡」が重要になっている。

台湾の太平洋側も、航路として危険なので内海の台湾海峡しか通行できない。
もしも、台湾海峡が封鎖されたら、我々はアメリカから来る以外の、ほとんどの物資が入手不可能となる状態で生きている。

いま話題の、東シナ海も南シナ海も、台湾海峡とおなじく、海上交通の要衝なのである。

相手のかんがえることが、どういう発想からなのか?とか、どんな事情かをかんがえないと、トンチンカンなことになって、かえって傷口を大きくすることがある。
だから、相手がトンチンカンだとやっぱり困る。

トンチンカンにはトンチンカンな対応になるので、結果もトンチンカンになりやすい。

すると、トンチンカンな相手には、早い段階でそれがトンチンカンだと教えてあげないといけない。
これが、国家間になれば、こちら側の国民がふだんから「まとも」でないといけないのはいうまでもない。

ところが、自由主義というものは、「まとも」と「トンチンカン」がどうしても混在するので、全体主義が「強固な結束」に見えるのである。
これを勘違いして、自国民に情報統制を行えば、「まとも」ばかりになって相手に対抗できるとかんがえたりする。

そうやって、気がついたら自国も全体主義になっていた、ということになりかねない。

そんなわけで、地図を横にして見るのは、自分と相手を交互に見つめるための工夫である。
たまには相手の立場になってかんがえる。
すると、相手の論理が見えてくるのだけれども、それがどういう意味なのかをさらにかんがえると、平和ボケしていられない事情もわかるというものだ。

これを、こないだ話題にした「クレー射撃」でいえば、「スキート」という種目がこれにあたる。
麻生大臣が、前回の東京オリンピックで出場した種目でもある。

簡単に説明すると、半円形のフィールドの直径にあたる場所それぞれに射台を置いて、円周に沿っても射台を置く。半円の中心にも射台を置いて、全部で8カ所とする。
クレーの射出口は、直径に対して2カ所だけで、それぞれ同じコースにしか射出しない。

つまり、放出される皿のコースはたったの2通りだけど、射手である側が移動して違う角度からこれを撃破する競技なのである。
やってみればわかるが、見る角度が違うと、同じコースに皿が飛んでいるとはおもえない。

人間の感覚とは、こんなものなのである。

だから、地図を横にしても意味がない、ということはない。
地図を横にする意味の方がわかるのである。

子ども時分によく参加した、オリエンテーリングでは、地図と磁石を渡されて何カ所かある経由地をチェックポイントにして、いちはやくゴールしたものが勝とされる。
会場がずいぶんな田舎でないといけないのは、地図と磁石に頼る競技だからである。

このとき、地図に磁石をあてて方角を確認し、じぶんたちがどこにいるのかを意識しないと、チェックポイントにすらたどり着けない。
時間も計って、歩いた距離も考慮するひつようがある。
だから、地図をグルグル回して、実際の地形も見ながら、いまいる場所の見当をつけるのがコツなのだ。

Apple Watchの宣伝に、子どもたちの指導者のおとなが確認したら全員がその方向に歩き出すグループの場面がある。
こうした活動が、課外授業になるのは、ただ地図の見方を学べるからではない。

おなじ情報しかないのに、ちがう判断をするひとがいることも学ぶのである。
こうして、トンチンカンを抑制することが、社会教育としていることに注意したい。

たかがハイキングなのではないのである。

たまには地図と磁石をもって、出かけてみてはいかがだろう?