続きは「ニコニコ」で

アメリカで起業して、巨大企業に成長した「ビッグテック」とよばれるのは、「GAFA」に代表される4社をいう。
G:Google(企業名は「Alphabet Inc.」)
A:Amazon
F:Facebook
A:APPLE

そして、これら企業が「つるんで」言論統制に走ったから、アメリカ合衆国連邦法における特例措置の「通信品位法230条」が問題視されてきた。
すなわち、この条文によって、SNSが「プラットフォーム」として認定されたため、そこでの「投稿掲載に免責を与えた」ということだ。

これは、元々米軍が開発したインターネットの民間普及と活用における重要な優遇措置としてできたものだった。
1996年に成立した、という年代に注目すれば「思い出す」こともあるだろう。

雑誌『PCウォッチ』による、この年の「読者が選ぶ10大ニュース」では、2位に「インターネットブーム」がランクインしている。
1位は、「SIMMメモリの大暴落」であった。今主流のDIMMからすると、もはや中古市場で調達するしかない代物だけど。

なお、5位に「ニフティサーブがISDN同期64kbpsサービスを開始」があるから、当時の通信事情もわかる。
光通信が主流のいまどき、ISDNといわれても、マニアの中学生からバカにされそうだ。

このめまぐるしい動きの中で、巨大化し、デファクトスタンダード化した企業群が、同じ目的のために「言論統制」をやることの意味は、国家を超えた脅威を人類にもたらすこと、それはSF小説よりも確実で、とうとう現実になった。

これまで人類は、国家権力をいかにコントロールするかという問題に、「憲法」という概念をもって制御することにしていた。
憲法とは国民から国家・政府への命令書だから、民主国家であれば必然的に「最高法規」になった。

従って、憲法を守る義務があるのは国家・政府だけであるから、国民・民間企業には憲法を守る必然性はない。
つまり、例えば、「言論の自由を保障する」のは、国家・政府の仕事であって、民間には関係が無い。

つまり、「GAFA」の存在は、憲法すら「想定外」のことなのである。

そこで、これらの企業が政府と結託してサービスを提供する場合、それらの企業も「政府とみなす」という解釈でしか、「言論の自由の保障」を要求することができない。

例えば、わが国でいえば、韓国企業の「LINE」を多数の国民が利用していて、メールが廃れるほどにもなっているけど、これを理由に行政府が災害情報などをLINEを通じて住民に告知するなら、LINE側は利用者の投稿情報を勝手にイジってはならない、ということの根拠になる。

ちなみに、今、LINEが問題になっているのは、これとは別の利用者情報の吸い取りという「情報漏洩の疑い」のことである。

そんなわけで、「プラットフォーム」のはずが、実は「パブリッシャー(編集者)」だったし、もはや、これらの企業は「利用規約」という一方的なルールによって、正々堂々と情報統制をやってはばからなくなった。
それで、アメリカ本国の議会で問題になっている。

ところが、わが国の国会ではあまり問題になっていない。
アメリカという外国の既存ルールが、そのまま適応されているのである。
日本の政治家が口を揃えていう、「自由な言論の保障が民主主義の根幹である」がうそであることの証明になった。

しかし、バン(削除)されたひとたちは、別のプラットフォームへの移転を開始している。
アメリカの動画サイトであれば、「Rumble」ができたし、SNSであれば、「GETTR」だ。

日本では、「ニコニコ動画」へのシフトが盛んになってきている。
その意味で、既存の(エセ)プラットフォームは、単なる入口(ポータルサイト)になりはじめた。
「ここから先のつづきはニコニコで」ということで、勝手にバンされることもない。

さてそれで、先月30日、新型コロナワクチン特例承認取消を求め、大橋眞徳島大学名誉教授、中村篤史医師、本城隆志城陽市議会議員の三人が、国に対して、コロナワクチン特例承認の取消を求める訴えを東京地裁に起こした。

この中には、コロナウィルスの指定感染症の取り消しも含まれている。

もちろん、(エセ)プラットフォームでは当日の記者会見のもようもバンされる可能性があるから、こちらも「ニコニコ動画」にある。
それに、東京地裁記者クラブでの会見が妨害されたため、別会場になった経緯もある。

こうした妨害を実行したのが、記者クラブであるから、世界的に稀有な「記者クラブ制度」というものも、(エセ)ジャーナリストたちの利権団体だと白状した。

大橋眞名誉教授については、このブログでも何度か書いてきたが、この裁判については元衆議院議員の松田学氏の『松田政策研究所』動画で対談をやっている。

検索すればわかる、つづきはニコニコで。

「シン・ガリレオ裁判」が始まった

それでも地球は回っている。
「有罪判決」後にこう言い残したガリレオ・ガリレイは、カソリック教会の定める「天動説」を否定し、自らの観測による「地動説」を捨てはしなかった。

ガリレオの死後、350年後にあたる1992年に、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。

しかし、2003年には、かつての「異端審問官」にあたる大司教が、ガリレオを裁いた時の教皇は、ガリレオを迫害はしなかったと発言して物議を醸した。
ベネディクト16世が改めて「地動説を公式に認めた」のは2008年のことである。

92年の「謝罪」から16年の時間を経て、「地動説」が落ち着いたのではなくて、1633年の有罪判決から、375年かかっているのである。

これを、ふつう「宗教裁判」として評価して、「現代の裁判とは別」という見かたをするのは安易だといいたい。
何故なら、法の根拠となる「法理」そのものが、その時代の社会の常識を基に形成されるものだからである。

当時のローマ・カトリック教会が示したのは、社会の常識として捉えられたのである。
だから、現代法が教会にとり替わったからといって、その法理が社会の常識とかけ離れたものであれば、そもそも法として存在できないのは、民主主義であればなおさらである。

「民選」を経て議員となった者たちでつくる立法府の立法であることが、最大の法的根拠となる源泉だからである。
すなわち、「政府」という「行政府」が、勝手に立法してはならないことの根拠でもある。

また、立法府が立法した法についての厳密なる運用(行政)を監視するのが「司法府」の役割だから、もちろん、「司法府」が勝手に立法してはならない。
ただし、司法府の解釈は法についての意味合いを決定するから、立法府を牽制することになるのだ。

こうしたことを「三権分立」というけれど、なぜにこのようなまどろっこしいことをするのかといえば、それぞれの暴走を防止するためである。
つまり、「国家権力は性悪だ」という本質的な前提があるのだ。

ことに、民主主義は「ポピュリズム」に汚染される危険性がはじめから想定されている。
そのために、「三権分立」をさせておく。
要するに、面倒だけど「安全装置」をはじめから用意してあるということだ。

さて、7月30日に東京地裁に提訴された、「コロナワクチン特例承認取消」は、構造がガリレオ裁判に酷似しているのである。
原告は、科学的知見に基づいているのは当然で、被告の国は、法的には科学的知見に基づいた立法をしたけれど、行政は法の執行に瑕疵がある、と主張しているのである。

具体的には、流行している病気を「新型コロナウィルス感染症」と命名しながらも、予防接種法における「病原体を特定していない」ことを挙げている。

これは、「正しい法理」だ。
何故なら、新型コロナウィルスを「特定した」り、「分離した」事例が、いまだに世界でひとつも「確認されていない」からである。
つまり、「病原体を確認できていない」という科学的知見に基づいた、法になっている。

ここで注意したいのは、外国の事例と異なることだ。
欧米諸国をはじめ、多くの国は、WHOが示した病原体名「COVID-19」をそのまま適用しているのである。
しかし、わが国の科学的知見に基づく法理では、だれも特定も分離もしていない「COVID-19」を病原体として認めていないのである。

文明国家として、当然すぎることではあるが、ようやく気がついた外国人は「大規模デモ」で抗議している。

ちなみに、「COVID-19」の由来は、昨年1月に上海の研究グループがWHOに提出した1本の論文によっている。
世界は、この1本の論文しか根拠にないものを、科学的知見に基づく法理としたのであった。

もちろん、この論文の再現実験もできないのは、論文紙上にある「COVID-19」の情報は、すべて「ゲノム情報」として記述されている「だけ」だからである。つまり、「現物」がない。
すると、通常の論文のように「査読」に耐えられるのか?といえば、そうはいくまい。

となると、「COVID-19」とは何か?
「現物」がどこにもないのだから、今言われている「中国起源」とは、論文起源のことでしかない。
よって、ただの「幻」になってしまうのである。

「幻」を見つけたと騒ぐのが「PCR検査陽性」という、なにを検査しているのかわからない欺瞞だし、ましてや病原体が確認されていないのに「ワクチン」とは。

こんな「与太話」を、わが国は拒否して立法しているのだ。
にもかかわらず、国民の健康を司る政府は、法で拒否した「COVID-19=幻」をターゲットとした「ワクチン」を国民に接種するという。
これは、せっかく拒否した「予防接種法」の法理を超えた「暴走」である。

大筋では、以上のような主張で提訴された。

さて、それでは現代の「教会」は何者がこれにあたるのか?
第一に、このような重大な提訴を一切報道しない(世界の)マスコミだ。
少なくとも、外電が報道したという記事をわたしはまだ見ていない。

第二に、ワクチン大臣だ。
接種後の副反応で苦しむひとたちを、どうやって救済するのか?
死亡者がいる現実を「デマ」と言い放ったこの人は、議員引退では済まない責任をどうするのか?私財をもって、でも足りない。

そして、世界がまるごとひっくり返るような判決を出す勇気と根性が、わが国裁判官に残っているのか?
あたかも、「大津事件」の大審院のごとく。

最後に、もしや原告が敗訴したとき、どのくらいの年月で真実の謝罪が国家からあるものか?
100年後?200年後?はたまた500年後?

「シン・ガリレオ裁判」にならないことを、まずは祈念するばかりである。

大阪堂島コメ先物市場の終焉

大阪堂島のコメ先物市場とは、江戸時代の日本人が発明した世界初の「商品先物取引」の「場」であった。
この市場が最初に閉鎖されたのは、戦時中の統制経済下でのことであった。
それから、戦後になっても「食糧管理法」によって統制が続いた。

試験的に「復活」を認可したのは、民主党政権でのことだった。
現物を主体とする「農協(JA)」の反対がその背景にあるから、自民党政権に復活しても、「本格稼働」にはならず、この度「最後のチャンス」であった「申請」が認可されず、試験の「終焉」が決定した。

わが国の主食にあたる「コメ」が、統制経済下にいまだにある、ということがハッキリしただけでなく、それが「永遠につづく」ことが決定したのである。

この「決定」の主体は農林水産省である。
しかしながら、さしもの農林水産省をして、役所単独で「行政権」を行使したわけではない。
自民党の農林族が仕切る部会にて決定されたことに、農林水産省が「従った」ことになっている。

このあたりが、自民党という政党の非近代的な意思決定システムなのである。
部会⇒政調会⇒総務会、というはずの党の意志決定システムがどのようになっているのか?が不明確なのだ。

また、これをマスコミも報じない。

すると、あたかも民主党政権が正しかった、ということになるから、当時の民主党のひとたちはどんな「反発」をしているのかに興味が涌くが、これも伝わっていない。

もちろん、民主党政権のときの党内意思決定がどんな仕組みだったのか?はいまだによくわからない。
「アンチ自民」だけが理由だったのかもしれない。
さすれば、「ひょうたんから駒」である。

この件の一方で、大阪府と大阪市は、関西圏を「国際金融市場のセンター」にしようと画策している。
府と市の「アドバイザー」となった、SBIグループの北尾氏は、この決定に「無知蒙昧」といった強い表現で、自民党族議員たちを批判した。

話が複雑になるのは、大阪府も大阪市も、行政のトップは「維新の会」という全体主義政党の現党首と前党首だからだ。
現党首の吉村知事は、政治家になる前に「武富士盗聴事件」の弁護士だった。

それも、被告で有罪となった武井保雄前会長らの側の弁護士で、最初の当選時の記者会見で、勝訴した被害者への謝罪を問われ、これを拒否した「たま」である。
弁護士を続けるならまだしも、政治家となったらそうはいくまい。

これ以来、わたしは個人的にこの人を信用しない。

そんなわけだから、北尾氏の発言には棘があって、依頼主の側の府知事と市長にも「無知蒙昧」といったのではないかと妄想している。
全体主義政党が仕切っている、大阪が「国際金融市場」で成功するはずがないからだ。

ならば、どうしてこんな仕事を引き受けたのか?
それこそ、北尾氏本人が「無知蒙昧」といわれそうだが、おそらくその心は二つある。

一つは、どうせ誰かが就任するなら、自分がやって、そのまま自社のビジネスを拡大するチャンスとなす。
一つは、どうせ相手は「無知蒙昧」なのだから、うまいこと丸め込んで、適当に自民党の「無知蒙昧」と空中戦をやらせれば、もしや「経済特区」を認定するやもしれぬ。

そうしたら、返す刀で「堂島」も復活させることができるかもしれない。

日本の農業関係者は、ほとんどが「国内市場」しか見ていない。
ようやく「輸出」を意識しだしてはいるけれど、発想が「現物」なのは、JAと同じなのである。

なんのための「先物」か?と問えば、長期的な需要と供給の調整が、価格という情報を通じてできるからである。
今回、農水省はこれを、「投機」と認定したようである。
もちろん、その側面は否定できない。

しかし、先物市場がぜんぶ投機にはならないのは、あらゆる商品取引がこれを証明している。
大豆も小豆もトウモロコシも小麦も、みんな先物市場が存在している。
もっといえば、石油だってそうだ。

すると、どうして「コメ」はいけないのか?
いや、「コメだけ」がいけない理由は、主食の安定供給のためと、御用学者がどんなに詭弁を弄しようとも、パンと麺の材料の小麦の方がよほどの主食になっている。

単純に、農協を助けてこの秋の「票が欲しい」というだけなのだ。

ならば、消費者は、票を票で返してやればよい。
全国の農家より、消費者の数の方がはるかに多いのに、投票行動が変だから、「族議員たち」に白昼堂々裏切られても気づかない。
この間抜け具合が、「無知蒙昧」なのである。

東京が国際金融市場に「なれなかった」のは、潔癖症的な透明性確保という大義名分の規制と、これに連なる税制であった。
これは、「国」が定めたものだ。
だから、大阪がこのまま成功できる理由はどこにもない。

国際金融市場を知らない税務当局は、濡れ手に粟の税収を業腹に期待して、大コケしたことに反省などしてはいない「無知蒙昧」がある。
これを、大阪府と市の職員が、北尾氏から学ぶというのもなんだか「無知蒙昧」なのである。

ロンドンの「シティ」ですら、簡単に真似っこできないのは「文化」の分厚さが土台にあるからだ。

大やけどをする前に、せいぜい、二度目の万博でよしとしないか?

自由経済を停止させる自由政党

「日本的システム」とか、「日本版」とかという場合、比較対象になる「オリジナルと違う」ので、こうして区別する。
例えば、サッチャー時代の英国で行った、「金融ビッグバン」も、わが国では、しっかり「日本版ビッグバン」と呼んでいた。

あたかも、オリジナルからさらに「改良」されているように見せてはいるけど、そのほとんどが「エセ(偽物)」なのである。
これは、どうしてこういうことをやるのか?という目的や理念ではなくて、形式上(見た目)の体裁を整えることに主眼を置くからである。

しかも、「改良」してしまうのは、関係者である中での最大の当事者(=国民)を差し置いて、役所や役人に有利に改変する、という意味において「良し」とするから、どんどん歪む。
だから、「利権」だけはちゃんと確保した「改良型」になるのである。

この「露骨」ができるのは、議会(国会や地方議会)が死んでいるからである。
あるいは、国会や地方議会の「有力」議員たちが、しっかりとその「うまみ」の分け前を確保するから、役所や役人も悪びれることはない。

ここで重要なのは、目的合理性の目的が「利権確保」であるからで、世にいう「欧米に比べて遅れている」ということをいいたいのではないことだ。
むしろ、こうした「利権確保」の隠れ蓑として、「欧米に比べて遅れている」と、専門家にいわせる技をつかうのが常套手段となっている。

どうして専門家が「御用学者」になるかといえば、研究費を官僚が支配しているからである。
あたかも、個々の大学の学術的な、例えば教授会が仕切っているように見せても、また、大学(経営)当局の方でも、「国からの補助金」がなくては経営そのものが成りたたない。

研究費については、学術会議を含めた「権威あるひとたち」が、国家からの研究費の配分を牛耳っているから、そのひとたちに忖度しないと、研究室のやりくりができなくなるのだ。
つまりは、カネで支配されているのである。

このことは、国公立も私学も、ぜんぶまとめて「同じ構造」になっているし、理系・文系を問わない。
それゆえに、心と勇気ある研究者たちは、「文部科学省の廃止」を訴えている。

しかし、ここでも「自由経済」を標榜してきた政権政党が、その「利権」を優先させる誘惑に負けたのだった。
その意味で、「御用学者であらずば学者にあらず」という、まるで平家のような状態になっている。

研究職に進むというのは、ふつうの優秀さではない逸材を育てる、という意味もあったけど、学部在学中のなるべく早い時期に、『平家物語』を読んでおくことに意義が生まれた。

誰が「源氏の統領」で、誰が「後白河法皇」なのかを想像しながら読む、という「読み方」をしないといけないのだが、指導教授は決して指導してくれない分野だろう。
それが、指導教授の支配の構造に抵触するからである。

さてそれで、「この秋」には、二つの重要政治イベントが用意されている。
一つは、衆議院議員の任期切れにともなう選挙が、「確実」にあることだ。
もう一つが、おそらくその「前」となる、自民党の総裁選である。
こちらは、安倍晋三氏の残存任期を引き継いだことの任期切れなのである。

わが国戦後政治の「常軌」でいえば、自民党総裁=首相という「なんとなく」があったけど、河野洋平氏と谷垣禎一氏の二人は、「野党」という期間の総裁であったため、首相に就任せずに役割を終えたから、自民党総裁=首相というのは「幻想」になっている。

さらに源流をたどれば、吉田茂の自由党の系統を「保守本流」とし、鳩山一郎、岸信介、それに河野一郎の旧改進党・日本民主党の系統を「保守傍流」としたことが、「ねじれ」のはじまりであった。

にもかかわらず、この「ねじれた概念」を基盤にした、日本政界の話題が事欠かなかったのは、「文屋ジャーナリストたち」を「日本版ジャーナリズム」と自画自賛したからである。

もはや、「保守本流」も「保守傍流」も、「死語」となったのは、吉田をはじめたとした彼らの「孫たち」をみれば、まさに「一目瞭然」だ。
吉田茂⇒麻生太郎、鳩山一郎⇒鳩山由紀夫・邦夫、岸信介⇒安倍晋三、岸信夫、河野一郎⇒河野太郎。

このひとたちをみれば、「保守本流」さえ、「エセ」であることがわかるし、最初から「左派」を「保守合同」とした「うその言い回し」を基盤としている。
もはや、「保守」に頼ることは、ナンセンスだし、わが国における「保守派」なるものも「幻想」にすぎなかったのである。

「自由主義」と「全体主義」という構図こそが正確な区分なのである。

このことからすれば、自由民主党には自由主義が欠如しているので、自由がとれて「民主党」の文字しか残らない。
立憲民主党も、「立憲主義」の欠片もないから、「民主党」しか残らない。
こうして、どちらも民主党とくくれば、単なる「派閥」なのである。

すると、わが国に自由主義の国政政党は皆無となって、ぜんぶが「全体主義」の政党なのだとわかる。
これが、自由経済を停止させる自由政党の「素顔」なのであった。

「立秋」の今日から「秋」。
わが国の未来を位置づける、大選択の選挙がはじまる。
大看板の国政政党に投票しない、という勇気が国民に求められている。

星新一の「長編小説」

生涯で「1001話」を超える作品をつくったこの人は、「ショートショート」という「短編中の短編」を得意にした「文豪」であったと評価されている。
しかしだからといって、「長編」を書かなかったわけではない。

文章のプロとして、短編を得意にするということの実力は、長編にこそ発揮されてしかるべきだろう。
短編がギュッと詰まった「サプリメント」のようなものだとすれば、長編とはコース料理のようなものだ。

そこで、「実話」を基にした、強烈な(政府)批判精神で貫かれているのが、『人民は弱し 官吏は強し』なのである。
「官僚」とせずに「官吏」としたのも、強い反発心からだろう。
むかしは、事務員のことを「吏員」と呼んでいた。

実父の人生をどうやったら小説にできるのか?
なにせ、子である作者は若き時代にまだ生を得てはいない。
すると、よほど言い聞かせられたか、質問攻めにしたか、あるいは両方だ。
でも、言い聞かせられたから質問攻めにしたのだろう。

それに、実父である本人も、かなり言い聞かせることに執心したにちがいない。
これは、読めば分かる「性質」である。

わが国の「偉人」で、アメリカに渡った瞬間からの「受難」はひとつのパターンとなっている。
実父は、到着早々に在留邦人に欺されて「所持金のすべてを巻き上げられてしまった」とある。

密航をくわだてた少年高橋是清は、横浜を出て数日後に潜入した船内でみつかってそのまま渡米を果たすものの、船長の「奴隷」にされて到着するなり農場主へ「売却」されてしまっている。
奴隷から総理大臣になるひとの一代記は痛快だ。

 

それで、働きながら「苦学」する共通もある。
この点で、国家から留学派遣されたひとたちとは、「苦学」の意味が異なっている。

また、星の実父「一(はじめ)」は、コロンビア大学への入学にあたって、「授業料として必要な年百五十ドルがかせぎ出せない。その際は、講義を聞くのは半分だけにするから授業料を半分にまけてくれ、との案を持ち込んで交渉し、学校側を承知させた」。

「大学の自治」とは、こういうことをいうのだ。
すっかり文部科学省の「軍門に降った」わが国の大学では、あり得ないエピソードになってしまった。
アメリカの大学は、いまだに「連邦教育省」から「独立」している。

だから、いまの時代だって、一氏とおなじ主張をしたら、認められる可能性はある。
ただし、「奨学金」という名の「高利な学生ローン」を借りろといわれる可能性もある。

それに、国家から補助金をもらわないから、授業料がべらぼうに高い。
一氏の「年間百五十ドル」だって、今にしたら数百万円になる。
これが、「格差」を生むという批判が絶えない。
アメリカには存在しない国立系の大学に匹敵するのが、軍の幹部養成学校たる「士官学校」などで、成績優秀者が集まる理由にもなっている。

大学紛争の時代、例えば、東大安田講堂事件とかで、大学当局が警察を呼び込んで鎮圧したのを、「大学の自治を侵害した」ということに「矮小化」することに成功したけど、これをたくらんだのも東京大学の卒業生たる官吏たちの仕業である。

わが国でいう「大学の自治」とは、アメリカやヨーロッパに比べたら、「ごっこ」にすぎない。

そういえば、「未解決事件」の典型とされた、「三億円事件」も、犯人はとっくにわかって(死亡)いたけど、これを隠して、あらゆる「捜査」に活用されたのと似ている。
すなわち「問題のすり替え」だ。

これが、官吏たちの「基本的な手口」なのである。

もちろん、アメリカやヨーロッパが「進んでいる」という単純なことではなくて、むしろ「未開」で「野蛮」であったがゆえにできた「自治」の考えであって、それから生まれた制度だ、という歴史的経緯があってのことである。

その意味では、「学問所」なり「藩校」が盛んに設立された一方で、「寺子屋」も常識だったわが国の事情とはぜんぜんちがう。

ところが、一氏は若くして渡米し、在学中に新聞社を設立・経営し、それから大学も出て(修士)、帰国時(1905年)には新聞社を譲渡しているほどに、アメリカナイズされていた。
これが、「仇」となったのである。

わが国で近代資本主義が導入されたのは、当然に明治期ではあるけれど、上げ潮でドンドン上っ調子だったのは、明治中期までだった。
日露戦争での(政府の)戦費負担は、その後の(政府による)「経済統制」へと進むのである。

一氏の人生は、この時期に「当たってしまった」のだ。

明治政府も江戸幕府を倒した後にできたから、急場作りであったし、官僚機構も未熟であった。
この「政府機能の未熟さ」が、「自由経済」と結合して、最初の「東洋の奇跡」という化学反応になったのである。

外国と戦争ができるまでになったのは軍の充実だったけど、一方で、官僚機構の充実もあったからである。
高橋是清が欧州で「戦費を起債できた」のは、留学時代に構築した「人脈」が可能にさせた。

第二次世界大戦の戦後の奇跡も、官僚機構の弱体があってのことで、田中角栄内閣時代に、「政府機構の完成」を見る。
ここから、わが国の転落は用意されてもいた。

星一氏の「一代記」は、今を書いているのである。

横浜市長選挙の混沌

22日が投票日の横浜市長選挙、昨日は選管から『投票のご案内』が届いた。

昨年11月のアメリカ合衆国大統領選挙と連邦上・下両院議員選挙など(州によっては自治体選挙も)での「歴史的不正」について、いまだに「監査」が行われていて、徐々にその「不正の実態」が明らかになりつつある。

この点、バイデン候補が思わず選挙終盤での演説で口にした、「我々は歴史的大規模でかつ組織的な不正選挙をやっている」ということの「正直さ」が証明されつつある、という意味でもある。

要は、「陰謀論」が科学的に否定されだして、慌てた民主党が裁判に訴える「抵抗」を示している。
「勝った側」が抵抗を示すというのは、かつての日本的ではない。
純朴な「正義」を信じた日本人は、勝った側こそ「監査」を求めると発想して、完璧な勝利を証明するものだとの理屈になるからである。

しかし、不正で勝ったとなればそうはいかない。
こうした民主党の組織的な「怪しい態度」が、いよいよ純朴なカウボーイ気質のアメリカ人に嫌われている。
でも、いまの日本人は、不正をしてでも勝てば官軍という発想をしている。

この意味で、「わが国戦後」のアメリカ民主党の精神的支配は、完成したのである。
しかし、根本的に「反米」というのが、わが国の左翼と右翼の「両方」が持つ基本方針なので、よほどにねじれて、「親中」になってしまった。

だから、「右翼」とか「左翼」という用語は使い方が難しい。
例えば、いわゆる、「右翼」による大音量での街宣車は、一般人に「日の丸」に対する嫌悪感を持たせるための「宣伝」だと解せるので、「反日左翼」と位置づけることができる。

勇ましい国粋的なパンフレットが心に響かないのは、逆説的「褒め殺し」の典型を読みとることができるからである。

ハイエクがいうように、「右翼・左翼」という曖昧な用語ではなく、「自由主義、対、全体主義(社会主義・共産主義)」とに言い換えるべきなのである。
すると、自民党がかつての自由主義政党ではなくなっていることがわかるし、野党も全てが全体主義を目指している現状が理解できる。

例えば、大阪において自民党と共産党の提携が起きて、おなじ街宣車の屋根に両党の幹部が立って演説したのも、「右翼・左翼」という設定では説明がつかないけれど、どちらも「全体主義」で、大阪維新の会という「全体主義」に対抗したものとみれば、スッキリするのである。

おなじ「主義」なのに、どうして対立するのか?は、簡単で、「別組織」であるのに、支持者層が同じという、マーケット的にバッティングするからだ。
ヒトラーとスターリンが犬猿の仲だった理由と同じ構造がここにある。

地方のことで中央とはちがう、というのは「欺瞞」である。
自民党と共産党には「(全国的)政党組織」があるのだ。
この点で、もっともわかりにくいのが自民党で、中央では公明党と「連立政権」を構成している。

公明党という全体主義政党も、共産党という全体主義政党とは犬猿の仲だから、「三つ巴」の中心をなした自民党こそが、もっとも政党として悪辣で節操がないことをやってのけたのだった。
これを、「イデオロギー政党ではない」という、およそ「政党」であることを自己否定してはばからないから、本質的にも質(たち)が悪いのだ。

そんなわけで、横浜市長選挙がひどいことになっている。
自民党がずっと推薦してきた「現職」なのに、この選挙に立候補するために国家公安委員長という大臣職を辞めて、自民党の国会議員も辞めたひとが、自民党を離党もせずにいる。

しかも、今の総理大臣(=自民党総裁=党首)はこの人の御尊父だった国会議員の秘書から身を立てて、今でも横浜市の選挙区から出ている国会議員なのだから、横浜市長選挙に関与しないはずがない。
だから、自民党の分裂選挙なのだけど、旗幟をはっきりさせない「党利党略」をやっている。

まことに、有権者不在、という地に落ちた民主主義を「政権党」とその「トップ」がやっているのだ。

それでもって、「カジノ」という「ワンイシュー」を争点にしている。
これはこれで、「B層」向けの選挙対策なのである。
B層とは、「マスコミ報道に影響される、知能が低い人たちの層」を指す。

知能が低いから、複数の問題提起について行けない。
だから、ワンイシューにする。
それで、短い言葉のキャッチフレーズを繰り返すことでの「擦り込み」が重要なのだ。

ついでにいえば、「正義をかざす」こと。

こうして、カジノに「白紙」だった現職を、知らないうちに賛成に回ったことで、カジノ反対派は「裏切り者」とすることに成功した。
そうして、反対派がたくさん立候補しているのである。

これに加えて、「ハマのドン」といわれた港湾関係者(社)を長年「独裁的」に仕切ってきたひとが、高齢で引退を表明したものの、「現職」の後援会長も辞めたのに、立憲民主党が推す候補の応援を表明した。
これに、業界人たちの長年の鬱積が力学的反発となって、噴火しようとしている。

東京の「ニュータウン」に成り果てた横浜市は、市全体で「限界集落化」の危機にある。
それで、市役所のお金を確保したいから「カジノ」になって、市民生活と市役所が分断された。

もっとも、肝心のカジノ業者は、アメリカ企業が全社撤退して、手を挙げているのは「中華系だけ」になっている「ねじれ」がここにもある。

人口が巨大なゆえに、関心が薄いから、「激戦」に見えても市民が割れているわけでもない。
首相の「お膝元」は、わが国の縮図になっている。

紙の本と電子書籍

同じタイトルで内容が違うことがある。

先日紹介した、『自発的隷従論』では、メモを取るために購入した「電子版」をチェックしていて、「付録」にある1本の論文がまるまる欠如していることに気がついた。
「解説」と「訳者あとがき」とかは、オリジナルの紙の本のままなので、電子版「だけ」をみていたら、内容について行けないことになる。

その論文とは、フランスの人類学者ピエール・クラストルの『自由、災難、名づけえぬ存在』(1976年初出)である。
紙の本にして約30ページが欠落している。
この中で、クラストルは、『自発的隷従論』を本業からの視点で解説しているのだ。

もちろん、『自発的隷従論』は、「1553年以前には完成していた」のだから、クラストルの一文は、ラ・ボエシの執筆から420年以上の時を経てからのものである。
すると、この「欠落」は、クラストルの著作権の方が「問題」になったのだろう。

それにしても、かくなる「ちがい」について、読んでみないとわからない、というのはやっぱり「不親切」だ。
「目次」のちがいから「気がつけ」というのも随分なのは、経緯を説明していないからである。

べつにわたしは「研究者」ではないけれど、同じ本と思っていたら、ちがっていた、というのは残念なことで、しかも、二冊とも購入して初めて気がついたのである。

それでも電子版を返品しないのは、やっぱりメモや覚えを作るのに「便利」だからである。

クラストルの著作については、メモアプリで記入するしかないけれど、より「手を動かす」ことになるのは、妙にラ・ボエシがクラストルとの仲を取り持ってくれた感がある。
これはこれで、「読書サーフィン」の役に立つ。

されども、やっぱり「注意」がいるのである。

「高級マウス」は必要か?

パソコンのお供といえば、「マウス」である。
このデバイスを発明して、これに「マウス」と命名したセンスが光る。
たしかに、ネズミのしっぽのようだけど、向きが逆なのに違和感があった。

いまや「マウス」らしくない無線マウスが主流になったけど、客先でのプレゼンで、電池切れが怖いので有線が「本番」には欠かせなかった。
いまでは、無線でも電池切れの心配が少なくなったけど、全面的に信頼はしていない。

それだから、いまだにバッテリー内蔵型よりも、乾電池式を購入したい。
まぁ、最近では数分で数時間持つという「急速充電」が可能と言うけど、内蔵バッテリーの寿命がマウス本体の寿命になるのはいかがかと思うのだ。
これが、最初の疑問である。

一概に「マウス」といってもピンキリで、数百円のものから1万円台の半ばまで、その「高機能」と「多機能」がお値段に反映されている。
なので、「低機能」と「単機能」なのは安価なのだ。

では、どんなのが高価なのかといえば、まずボタン数が違う。
安いものは2ボタン(左・右クリック)だけなのに、8ボタンとかそれ以上の機種もある。

これらのボタンは、カスタマイズできるようになっていて、さらに、使用するアプリケーション毎の設定もできる。
それが、「マクロ」までも記憶させられるので、決まった作業の自動化もマウスのボタン一つで可能となる。

こうした機能を記憶するのは、もっぱらパソコン本体側の仕事だったから、異なるパソコンと接続させたら、また新たに設定をしないといけなかった。
ところが、メモリ・チップの小型化で、設定条件をマウス本体に記憶させることができるから、どのパソコンにつないでも同じ機能が発揮できる。

加えて、複数台のパソコンを同時に使うときに、キーボートとマウスを共通化させることもできる。
高級マウスは、3台までのパソコン間を往来できる機能があって、しかも「OS」は問わない。

つまり、ウィンドウズ・マシンとマックを行き来して、ファイルや文書の「コピー&ペースト」すら可能となっている。
数百円のマウスでは、一切できないのは言うまでもない。

そんなわけで、ネット上では、高級マウスの「凄い」と「便利」が強調されて、多くのひとが解説動画を上げている。
しかも、これらのひとに共通するのは、皆さん「動画」を編集する、クリエーターなのであって、そのための「便利」が強調されるという傾向がある。

むしろ、ふつうの事務でどうなの?という観点が欠けている、ともいえるのである。
そのふつうの事務の典型とは、「表計算ソフト」と「ワープロ(文書作成)」の二大作業に相違ない。

すると、動画編集に用いて「便利」な機能は、ほとんどオーバースペックにならないか?

複数のパソコンをまたいで使う、といった場合に、それがウィンドウズ・マシンばかりであるなら、わざわざ「マウス」の機能としてではなくて、マイクロソフトが提供する「Mouse without Borders」というソフトが無料で使えて、しかも、これだと4台までが同時使用可能である。

「OS」を超えて使う場合でも、2台までなら「Share Mouse」というソフトなら無料(有料版は9台まで可)で使える。
なお、物理的に2台のPCを接続するケーブルも販売されているが、それなりのお値段(3~5千円程度)である。

すると、高級マウスで残る機能は、ボタン数とその設定がメインとなる。
もちろん、上下スクロールと左右スクロールは、表計算ソフトだと重要なので「悩みどころ」となる。

ただし、エディタでの長文文章作成とか、ワープロが主であるなら、これらの機能をキーボード・ショートカットの多用でまかなうという方法が、もっとも効率がよい。
なぜなら、キーボードからマウスに持ち替える「往復運動」をしなくてよいからだ。

これはどういうことかといえば、初期の頃のパソコンには、入力デバイスとしての「マウス」が発明されていなかったからで、全ての作業をキーボード入力で完結させる、という機能が最初から埋めこまれているのである。

だんだんとハードウェアとしての能力向上と、ソフトウェアの利便性が同時に向上して、「プルダウンメニュー方式」が導入されると、マウスでの選択という方法が、誰にでもとっつきやすいということになったのだ。
それで、あたかもマウスが「必需品」に思えてきた。

ところが、実際にプルダウンメニューをみればわかるように、ほとんどの選択肢には「ショートカット」が割り振られている。
だから、とっつきにくいけど、「ちょっとの練習」で慣れれば、おそろしくキーボード「だけ」で作業ができるし、早いのである。

Macには、「CheetSheet」という単純機能の無料ソフトがあって、コマンドキーを長押しするだけで、いまこの場で使えるショートカットの一覧を表示してくれる。
その都度(やや面倒ではあるけれど)、パッドやマウスに手をやる前に確認すると、だんだんショートカットに慣れてくる。

それにMacなら、カーソル移動を矢印キーでさせるなら、コントロールキーと「ダイヤモンド・キー(E,S、D、X)」を押せば、上下左右にカーソル移動できるので、矢印キーにすら手を移動させる必要はない。

どうしても、というなら数百円のマウスで十分なのである。
ただし、肩こりを防止するエルゴノミクス(人間工学)に基づいた設計の「縦型」には興味が涌くのであった。

「水素」を得る方法

科学者の武田邦彦教授が解説してくれた、「水素」を得る方法が「科学的」なので、忘れないように書いておこうと思う。

まず、地球に水素はあるのか?を考えると、これは前にも書いたけど、少なくとも空気中には存在しない。
地球の引力が弱いので、空気中に水素があれば、すぐさま宇宙の彼方へ飛んでいってしまうのだ。

なにせ、原子番号「1番」の水素は、軽いばかりかちいさい。
それで、水素ガスをいかなるタンクに留め置きしようとしても、そのタンクを構成する金属やらの「壁」をやすやすと「通過」してしまうのだ。
だから、「水素ステーション」なる場所からも、ここに運び込むためのタンクローリーからも、水素は宇宙に逃げている。

すると、地球を「宇宙船」に例えれば、貴重な資源を永遠に失うことになっている。
これを、「サステイナブル(持続可能性)」というのは、言語的にも意味不明であるばかりか、「うそ」だとわかる。

「水素水」が「炭酸水」のように販売されていたことがあったけど、高価でも身体に良いという触れこみだった。
しかし、今年の3月30日、消費者庁は水素水生成器の販売・貸出事業者に景表法に基づく「措置命令」を出している。

これは、「健康への効果なし」ということであった。
けれども、もっと前の2016年12月15日に、国民生活センターは、「水に溶けている水素ガス(水素分子)は、容器の開封後や水素水生成器で作った後の時間経過により徐々に抜けていきます。」と指摘している。

あたかも炭酸水の気が抜けるのと同じようにみえるけど、水素分子は容器を「通過する」から、栓から抜けるのとは違うのだ。
もちろん、抜けた水素は宇宙へと逃げていく。

では、工業的(大量)にどうやって水素を得るのか?
二つあって、(1)石油から得る方法、と、(2)水から得る方法だ。
最初に、石油から得ることを考える。
石油には、1割ほどの水素が含まれているのだ。

では、石油から水素を抜き出すと、残りの9割は何になるのか?
それは、「炭素」なのである。
あれれ、「脱炭素社会」を目指すのではなかったのか?
ならば石油から水素を抽出してはならない、ということになる。

さらに、二酸化炭素を出すので、石油を燃やすのもやめたい、というのだから、これでは、石油を使ってはならない、という話になる。
もちろん、プラスチックもダメなので、「レジ袋有料化」をしたのだった。

ならば、われわれの文明生活をどうするのか?

二番目の方法は、いわずと知れた「水の電気分解」で水素を得る方法だ。
この電気は、どこで発電するのか?
太陽光パネルによるとするなら、例の「奴隷労働」が引っかかってくる。

それに、その地域でしか採れない「希土(貴重原子を含む土)」を大量に必要とする。
さらに、発電効果が劣化してきたら、このパネルの廃棄には更なるエネルギー・コストをかけないと、土壌汚染とかの「環境問題」が出てくる。

むかし、ブラウン管テレビの時代に、ソニーのトリニトロンに対抗して、日立が作っていたのが「キド(希土)カラー」だった。

そんなわけで、石油から水素を燃料として利用できるように取りだすためのエネルギーは、水素を燃料として使える「5倍」のエネルギーをかけないといけないし、水を電気分解するなら、「10倍」のエネルギーをかけないといけない。

これは、「化学」の自然原則なのである。

すると、「水素・エネルギー」というのは、「夢の」をつけないといけない。
あくまでも、「現実」ではない。

石油の代わりに使おうという「燃料」が、10倍の石油を使わないと取り出せないなら、ふつうは、「ナンセンス」というのである。
しかし、ここにまた、原子力発電が出てくる。
しかし、その原子力もまた、「夢の」だったのである。

50年代から60年代、「夢の原子力発電」といわれたものが、つぎつぎに誕生し、その「クリーン」さと「安全性」が自慢の種だった。
「クリーン」さとは、電気自動車のように「走っているときだけ」なにも排出しない、というだけの子供だましを政府が唱えていたのだ。

これは、「水力発電」のダムにだっていえる。
しかし、水力も原子力も建設に関わるエネルギー・コストをいわないし、腐った水を流して環境破壊をするダムの「負の面」を評価対象に「しない」ということが慣習化した。

さてそれで、川崎重工が「(夢の)水素エンジン飛行機」を、「SDGs」の一環として開発するという。
三菱重工が、「ふつうの旅客機」に失敗して、屋台骨が傾いたのを経営者はどう思っているのか?

飛んでいるときに排出するのは「水だけ」というけど、一回飛ばすのにどのくらいのコストがかかるのか?
これらの開発に、またまた税金が投じられるけど、経産省という名の「日本経済破壊工作省」が、口も出す。

三菱重工の二の舞を自ら進んでやる、という経営陣を株主は黙って見ている。
それは、既存事業でコスト吸収をはかる、という意味になるから、既存製品の利用者にも重大なコスト増となるはずだ。

わが国の「重工企業」の終わりがやってきた。

宗教が死んだ日本に再生は?

外国由来の「自由主義」だったから、元来日本人には馴染みがなかった。
この「自由主義」のはじまりは、宗教的対立における「信仰の自由」をいうからである。

残念ながら、未開のヨーロッパには、中近東の砂漠を発祥地とする厳しい一神教が入りこんで、これを信じることしか許されない社会をつくった。
そして、その社会から産業革命へとつながる資本主義が誕生し、現代世界の礎となったのである。

けれども、資本主義がどうして生まれたのか?についての確定的定説が「ない」のも、現実であるから、さまざまな「説」が乱立することになっている。

あたかも、新型コロナウィルスを特定し、分離に成功したひとが誰もいないのに、「◯✕株」とかなんとかという「乱立」が、そもそも論を「陰謀論」に仕立て上げるようなことと似ている。

日本人がかなり特殊なのは、世界最古の王朝を継続させながら、宗教観を得たいのしれないほどに変化させてきた歴史があることだ。
その王朝の最深部にある「神性」を支える宗教と、現実生活世界における宗教が分離して別々になっているからである。

この意味で、我々日本人は、宗教的統合失調症にあるのだ。

わが国の中世秩序と近世秩序とを分ける「応仁の乱」から、一般人の信仰も高まって、一向宗徒による一向一揆がときの為政者を悩ました。
その悩みの深さが強い憎しみの感情になって、凄惨な皆殺しになったのが、伊勢長島の一向一揆の結末だった。

この地の近くに、巨大な遊園地をつくる感覚は、ユダヤ・キリスト・イスラム教徒からしたら、狂気の沙汰としかかんがえないだろう。
少なくとも後世に、巨大な鎮魂施設をつくるのが彼らの本分だ。日本人は、現世利益だけの施設を鎮魂とせず、「癒し」とした。

ならば日本人は、皆殺しに寛大なのか?といえばそんなことはないはずだけど、これをコメディ・ネタにして、オリンピックの演出を解任されたひともいた。
「若気の過ち」ではあるけれど、映像では観客が「爆笑」している問題があって、こちらの方がより「深刻」なのである。

こうしたことになったのは、いまも徳川時代の価値観が継続しているからであって、この意味でわが国は21世紀的ではなくて、「近代前期」のままともいえるし、決定的に西洋や中東とは別文化なのである。

では、徳川時代になにをしたかといえば、強大な武力を背景とした、圧倒的な迫力(実戦闘経験がある武将)による「宗教弾圧」なのである。
これでできたのが、「檀家制度」だし、「寺領」という制度であった。
よって、住民の意向とは関係なく、その地域に住んでいるだけの理由で、信仰対象が異なる宗派が決められた。

つまり、本人たちの信仰心は無視されたのだ。

人口の9割近くが農民だったから、簡単に引っ越しできない。
日本の農民は、ヨーロッパ的な「農奴(serf)」ではないけれど、信仰の選択の自由がない、という意味なら「農奴以下」にあたる論もあろう。

なので、今でも地方の農村で、狭い地域なのに宗派の違う寺が点在していたら、その建立年といわれを調べて一覧にすれば、地域内の対立をあぶり出すことができる。

それでもって、そうした地域内の分断が町内とか「区」として残っているものなのだ。
それが、とっくに「習慣化」されているからで、地域の中にいればいるほど、気づかないものでもある。

そんなわけで、いまの大変化(コロナを利用した分断とか、経済破壊工作を、政府がやっていることなど)に、気づかないというのは、日本という地域の習慣にどっぷり浸かっているからだとしか思えない。

こうした状況になると、日本の歴史的パターンでは、「宗教」がパワーを持つのだ。
たとえば、「お伊勢参り」が「デモ」になったりもしたし、「踊り念仏」が大流行した。

そうはさせじとした、徳川の宗教弾圧をも破って見せたのだ。

時代劇では絶対に登場しない、「寺社奉行」という町奉行よりはるかに重職の大幹部が、なにをやっていたのか?
日本人から宗教心を奪うための方策を練っていたのだ。
その効果が、いまも有効だといえる。

バブルで満開となった拝金主義が、しっかり根づいたのが平成だった。
ゆえに、いま、猛毒の香りを漂わせても、鼻も脳もいかれた日本人にはわからない。
この再生には、拝金主義よりも気高い価値観の提示が必須なのである。

それが、宗教なのである。

信仰の自由が、自由主義の最高価値であるように。
また、信仰の自由が、すべての自由の出発点であるように。
このことを、「知っている」のが、かつて未開のヨーロッパ人であり、そこから派生したアメリカ人なのだ。

先ずは、ヨーロッパでの大規模反政府デモが、その嚆矢となっている。