自由経済を停止させる自由政党

「日本的システム」とか、「日本版」とかという場合、比較対象になる「オリジナルと違う」ので、こうして区別する。
例えば、サッチャー時代の英国で行った、「金融ビッグバン」も、わが国では、しっかり「日本版ビッグバン」と呼んでいた。

あたかも、オリジナルからさらに「改良」されているように見せてはいるけど、そのほとんどが「エセ(偽物)」なのである。
これは、どうしてこういうことをやるのか?という目的や理念ではなくて、形式上(見た目)の体裁を整えることに主眼を置くからである。

しかも、「改良」してしまうのは、関係者である中での最大の当事者(=国民)を差し置いて、役所や役人に有利に改変する、という意味において「良し」とするから、どんどん歪む。
だから、「利権」だけはちゃんと確保した「改良型」になるのである。

この「露骨」ができるのは、議会(国会や地方議会)が死んでいるからである。
あるいは、国会や地方議会の「有力」議員たちが、しっかりとその「うまみ」の分け前を確保するから、役所や役人も悪びれることはない。

ここで重要なのは、目的合理性の目的が「利権確保」であるからで、世にいう「欧米に比べて遅れている」ということをいいたいのではないことだ。
むしろ、こうした「利権確保」の隠れ蓑として、「欧米に比べて遅れている」と、専門家にいわせる技をつかうのが常套手段となっている。

どうして専門家が「御用学者」になるかといえば、研究費を官僚が支配しているからである。
あたかも、個々の大学の学術的な、例えば教授会が仕切っているように見せても、また、大学(経営)当局の方でも、「国からの補助金」がなくては経営そのものが成りたたない。

研究費については、学術会議を含めた「権威あるひとたち」が、国家からの研究費の配分を牛耳っているから、そのひとたちに忖度しないと、研究室のやりくりができなくなるのだ。
つまりは、カネで支配されているのである。

このことは、国公立も私学も、ぜんぶまとめて「同じ構造」になっているし、理系・文系を問わない。
それゆえに、心と勇気ある研究者たちは、「文部科学省の廃止」を訴えている。

しかし、ここでも「自由経済」を標榜してきた政権政党が、その「利権」を優先させる誘惑に負けたのだった。
その意味で、「御用学者であらずば学者にあらず」という、まるで平家のような状態になっている。

研究職に進むというのは、ふつうの優秀さではない逸材を育てる、という意味もあったけど、学部在学中のなるべく早い時期に、『平家物語』を読んでおくことに意義が生まれた。

誰が「源氏の統領」で、誰が「後白河法皇」なのかを想像しながら読む、という「読み方」をしないといけないのだが、指導教授は決して指導してくれない分野だろう。
それが、指導教授の支配の構造に抵触するからである。

さてそれで、「この秋」には、二つの重要政治イベントが用意されている。
一つは、衆議院議員の任期切れにともなう選挙が、「確実」にあることだ。
もう一つが、おそらくその「前」となる、自民党の総裁選である。
こちらは、安倍晋三氏の残存任期を引き継いだことの任期切れなのである。

わが国戦後政治の「常軌」でいえば、自民党総裁=首相という「なんとなく」があったけど、河野洋平氏と谷垣禎一氏の二人は、「野党」という期間の総裁であったため、首相に就任せずに役割を終えたから、自民党総裁=首相というのは「幻想」になっている。

さらに源流をたどれば、吉田茂の自由党の系統を「保守本流」とし、鳩山一郎、岸信介、それに河野一郎の旧改進党・日本民主党の系統を「保守傍流」としたことが、「ねじれ」のはじまりであった。

にもかかわらず、この「ねじれた概念」を基盤にした、日本政界の話題が事欠かなかったのは、「文屋ジャーナリストたち」を「日本版ジャーナリズム」と自画自賛したからである。

もはや、「保守本流」も「保守傍流」も、「死語」となったのは、吉田をはじめたとした彼らの「孫たち」をみれば、まさに「一目瞭然」だ。
吉田茂⇒麻生太郎、鳩山一郎⇒鳩山由紀夫・邦夫、岸信介⇒安倍晋三、岸信夫、河野一郎⇒河野太郎。

このひとたちをみれば、「保守本流」さえ、「エセ」であることがわかるし、最初から「左派」を「保守合同」とした「うその言い回し」を基盤としている。
もはや、「保守」に頼ることは、ナンセンスだし、わが国における「保守派」なるものも「幻想」にすぎなかったのである。

「自由主義」と「全体主義」という構図こそが正確な区分なのである。

このことからすれば、自由民主党には自由主義が欠如しているので、自由がとれて「民主党」の文字しか残らない。
立憲民主党も、「立憲主義」の欠片もないから、「民主党」しか残らない。
こうして、どちらも民主党とくくれば、単なる「派閥」なのである。

すると、わが国に自由主義の国政政党は皆無となって、ぜんぶが「全体主義」の政党なのだとわかる。
これが、自由経済を停止させる自由政党の「素顔」なのであった。

「立秋」の今日から「秋」。
わが国の未来を位置づける、大選択の選挙がはじまる。
大看板の国政政党に投票しない、という勇気が国民に求められている。

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