「宇宙人的な成績の優秀さ」でないと、とうてい入学できないのが東京大学理Ⅲ(医学部)ということになっている。
つまり、わが国の最高学府と呼ばれる「大学」で、最高難易度が「東大医学部」なのである。
ちなみに、「東大」自体は、最高難易度ではなくなっているので念のため。
ただし、尾てい骨のように、「東大神話」が残っている。
これが、本物の「神話」より「事実と違う」のは、政官財、それに法曹界と医学界に君臨している「ぶ厚い東大卒」のひとたちが、この30年間「頑張った」おかげて、わが国の衰退が止まらなくなったことでわかる。
かれらが唯一言える「言い訳」とは、きっと自分たちがいなかったら、もっと酷いことになっている、という脅迫めいたことしかない。
だから、一般人はひるむことなく、「では実験してみましょう」と言って、世の中から「東大卒の肩書き」で頑張っているひとたちに「引退」してもらうことを決めればよい。
すると、「政界」も、たとえば連立与党の党首とか、この党と支持者層を同じくする日本共産党も、最高顧問とか党首が、引退しないといけないし、与野党問わず、国会議員の多くが引退して「(東大卒以外の)後進に道を譲る」ことになる。
「官界」では、かなりの数の「キャリア」が退職して、役所がスリムになること確実だ。
「行政が滞る」というのも「悪い神話」に過ぎない。
いまの状態からの「滞り」なら、「余計なこと」ができなくなって、それは国民のためになる。
ちなみに、この「余計なこと」には2種類あって、一般会計での「余計なこと」と、「特別会計」そのもののことをいう。
もちろん、全国の地方自治体も同様である。
「財界」は、もっと劇的な変化になる。
同級生や先輩たちに、「補助金」を乞うて貰うことで社内出世した乞食根性のひとたちがいなくなるからである。
「法曹界」に至っては、裁判長の学閥優先で「真実を追及しない」という慣例が壊れるから、その学閥で勝訴していた弁護士も引退しないといけない。
そもそも、「東大法学部」もなくさないといけないのだから、学閥ごと消えてもらうことになる。
さてそれで、「医学界」だ。
「超優秀な学生を集めたのに、卒業時には凡人になる」がご同僚教授陣の「嘆き」だったことを曝露しながら、養老孟司医学部教授は、統計で言う「外れ値」の状態を「正常化」してあげたと評価すべきと言っている。
あえて、大先生に反論すれば、その「正常化」の過程における、「教養」の注入が少ないために、できあがる「凡人」が、あまりにも「世俗的な凡人」になってしまうから、縄張り内で「君臨しようと画策する」のが、自分たちの権利だと勘違いするのだ。
半年ほど前に、「産学連携の悪夢」を書いた。
その前に、東大をはじめとした「国公立大学」は、与えられる機材の豪華さはもとより、授業料という経済負担でも「優位」に立っている。
すると、研究機関としてと、教育機関としての二面性が、混在しているのである。
「大学改革」が面倒な議論になるのは、混在したままの議論しかできないからである。
もちろん、「医学部」には、実験がつきものだけど、さらに「実験施設」としての「付属病院」も用意されて、日夜「人体実験」が行われている。
大学病院に入院したがるひとがいるけど、自分がモルモットになることを意味すると考えない不思議がある。
この世にいる限り、生きとし生けるものは全て死ぬのである。
その「死」を、他人に委ねる場の典型が、大学病院だ。
だから、後世のひとの役に立ちたい、という心掛けをもって、大学病院の門戸をたたく覚悟がいる。
しかし、そんな「本音」を大学病院やら「医学部長」が発言したら面倒なので、黙ってモルモットになることを言わずに、あたかも「治療する」風情を醸し出しているのである。
そんなわけで、大学の医学部には様々な実験施設があるから、もう一つの大きな勘違いをしてしまう。
それが、「医学=科学」という間違いである。
純粋な科学とは、「宇宙法則」に見られるように、「原理・原則」の追及なのだが、医学には研究分野と臨床分野という2面性があるのだ。
それに、理学や工学といった異分野との壁が取り払われてきた。
もちろん、西洋医学の系統もむかしは、「原理・原則」に重心があったドイツと、「臨床」に重心があったイギリスとに大別できた。
それが、どんどんと「学問が進歩した」おかげで、逆に、「人体」への理解が困難になっているのである。
研究すればするほど、わからなくなる。
たとえば、どうしてこの薬が「効く」のか?も、ほんとうのところ(厳密に)は「よくわかっていない」のである。
つまり、ほんとうは「ぜんぜんわからない」けど、わかったつもりにしないと、全体が破たんしてしまうから、「つもり」でいることにした。
この薬が効きます、ではなくて、この薬を飲むと飲まないでは、おそらく飲んだ方が症状に効くけど、それでもって、その他のことにどんな影響があるのかは、飲んだ人の個体によるかもしれない、というのが正しい。
「つもり」になった医学が、どんどん科学から離れていっているのである。