ハイエクに2度目のノーベル賞を

世の中には、あらゆる分野に「主流派」がある。
だから、かならず「非主流派」とか「反主流派」に分類されるひとたちもいるのは、「分散」という意味で健全なのだ。
すると、「集中」とは、この意味では「不健全」だということになる。

また、すぐに世の中の役に立つ学問を、「実学」といって、「純粋学問」から分けてかんがえるひともいる。
ならば、「純粋学問」は世の中の役に立たないかといえば、そんなことはない。

この「実学」の典型が、「経済学」というひともいる。
ところが、最近の経済学が、「役に立たない」といって文句をいうひとがいる。
けれども、これは正しくは、「経済政策」のことで、経済学が基礎を支えていない、ということを端折っていっているのだろう。

先週発足したといわれている「バイデン政権」が、矢継ぎ早に打ち出した「経済政策」が、どんな「経済学」によって裏打ちされているのか?と問えば、こたえは「マルクス経済学」ということになるから、唖然とするのである。

なぜなら、ふつう「経済学」といえば、いわゆる「近代経済学=資本主義を前提とする」ことであって、この主流派も非主流派も反主流派も、「マルクス経済学」のことを経済学とは「認めない」という常識があったからである。

もちろん、アメリカでマルクスとは。

では、これら「経済学」の立場から、マルクス経済学はどういう位置づけなのかといえば、それは、「宗教」なのである。
だから、マルクス経済学を分析したりするのは、「宗教学」の分野とされていたし、そのなかの位置づけでも、「邪教」扱いがふつうだった。

これは、一般的な宗教(欧米では新旧約聖書の3大宗教)で信仰の対象となる「神を否定」し、「無神」を信じる宗教だからである。
しかしながら、神を否定するとはいえ、それ自体を「信じる」宗教的な思想と思考構造は、従来の宗教とおなじなのである。

その根底に、理屈ではない、「飛躍」があるのだ。
たとえば、神の存在を証明する「理屈=根拠」はないけど、「あることを信じる」という「飛躍」を前提にしていることを挙げることができる。
これがそっくりマルクス教にもあてはまるので、この宗派も既存宗教と同様に、「(他)宗教を否定」するのである。

およそ宗教というものが、それを信仰するひとたちを団結させる力があるのは、教義に対する「絶対」があるからである。
これが、世俗的政府の為政者には「危険」になるから、ローマ教会がひとびとの「心」を支配したヨーロッパでは、「政教分離」が行われたのである。

江戸時代までのわが国の歴史で、「斎主」である天皇が絶対的崇拝の対象にならなかったのは、信仰の対象となる「神社」に「絶対がない」という、世界的「珍奇」があったからだ。
それで、輸入した宗教にある「絶対」が爆発したのが、「一向一揆」だったし、「島原の乱」になった。

内乱阻止を宗とする徳川幕府における「重職」に、寺社奉行があるのは、まさに日本版「政教分離」だった。
これを、明治政府が「政教一致」にしてみせたのは、資本主義の前提となる、平等の実現に、欧米の神とおなじ「絶対」を求めたからであった。

天皇以外は全員平等だとする「思想」が、国民を団結させ、一家を成すことに成功したばかりか、一枚岩ゆえの自由も付与する「建て付け」で、資本主義の条件を整えたのである。
これが、アジアで唯一発展できた理由である。

何度も書くが、「人間宣言」によって上記の「発展基盤」が壊されたけど、日本教を信仰する世代のひとたちが寿命をえてから、わが国の衰退がはじまったのは、至極当然のことなのだ。

ハイエクが晩年に到達した、『法と立法と自由Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ』(1976~79)において、「部族主義=閉じた社会:家庭、企業、地域社会など」のなかにある「利他主義」が、自由をうしなわせる「内側の敵」であるという指摘と焦りともおもわれる「警告」が、アメリカで現実となった。

  

じつは、マルクス教も「利他主義」を説いている。
これがいまだに、善人で頭脳明晰なひとたちの「脳を汚染」する元凶なのだ。
しかし、マルクス教の「飛躍」は、利他主義の実現方法に「ある」。
美しく利他主義を説きながら、その実現方法が飛躍して、一切の記述が「ない」ゆえの宗教なのである。

一見、利他主義はよいことに見えるし、「道徳的」でもある。
しかしながら、これが「自己犠牲」になって、それを利用しようと計画するひとたちに、無限の権限委譲を伴うのだ。
つまり、善が悪に利用され、踏みにじられる「お約束」の結論を導く。

全体主義への道である。

先日、アメリカとカナダにまたがる「北米国際労働組合(LIUNA:Laborers International Union of N A)」が、バイデン政権を激しく批判するコメントを発表した。
彼らが一押しして選挙応援をしたのに、「公約」を破って、パイプラインの建設中止や、シェールオイルのフラッキングを禁止したからである。

雇用を重視する労組にあって、4万人以上が失業する可能性の現実化で、組織の存在理由が問われる事態になったのだ。

もちろん、政権が根拠とする理由は、「地球環境」ということになっているから、信者たちは彼らの失業を、美しき「自己犠牲」だと言い張るにちがいない。

ハイエクが1974年にノーベル経済学賞を受賞したのは、若い頃の経済分析をもって理由とされたので、同時受賞で福祉国家=社会主義を展開したグンナー・ミュルダールは、「どうしてこいつと一緒なんだ?」と文句をたれた逸話がある。

アメリカのいまをいいあてた、ハイエクがもう一回受賞しても、今度は誰も文句をいわないだろう。

奥深い「甘辛人生道場」

赤ちょうちんに目いっぱい書いてあるから、当時は「電飾看板」の役割もあったろう。
残念ながら、わたしにはこれを見た記憶がないので、パチンコ店のハシリに実際にあったのか、それともこの作品の演出なのか?の区別が判断できない。

名作製造機・小津安二郎の映画、『お茶漬けの味』(1952年:松竹)での表現だ。
シナリオ自体は、1939年に書いていたという。
だから、時代設定がより、「現代的」になって製作されたとおもわれる。

どのくらいの時間をかけて製作したのかわからないけど、公開が昭和27年10月1日であるから、「占領中の製作」なのかもしれず、「完成が独立後」になった可能性がある。
もっとも、「国家総動員法ができた翌年」のシナリオ完成だし、「内務省の事前検閲」を通らなかったというから、結局は、絶妙なタイミングで世にでたことになる「縁」がある。

テレビ放送が本放送となるのは、本作公開翌年(1953年)のことだ。
それでもって、興行収入は、1億1千万円弱だったという。
当時の物価と現在とを比較するのが、あんがい困難なのは、それぞれの「物品」が、それぞれの物価上昇をしたからである。

念のため1953年の資料をあたると、
大卒事務初任給:9200円
新聞購読料/月: 280円
ラーメン   :  35円
ビール    : 107円 とある。

だいたい20倍ぐらいになった感じがするけれど、ビールがなんだか不思議なお値段である。
作品中でもビールがふつうに注文されて登場するけど、やたら「高級」にみえる。

68年間で20倍だから、年の平均上昇率(幾何平均)を計算すると、4.5%(68√20:20の68べき乗根)となる。
ビール以外、マッチしているような気がする。

バブル崩壊後のインフレ率は2%程度と低く、最近ではマイナスになったけど、昭和28年スタートの計算なら、これから高度成長期になって、そのころのインフレ率はだいたい7%あったからである。
いまからすれば、懐かしい「公定歩合」なんてものもあった。

こうした古い映画の映像に見る風景が、いまとなっては貴重だし、俳優陣のセリフ回しが、絶滅した日本語として録音されているので、楽しいのである。

この作品では、「宮城」から銀座に向かう光景が記録されていて、和光のビルがぽつねんとそびえ立っている銀座を観ることができる。
登場する「有閑マダム」たちの言葉は、けっして「ざぁます言葉」ではないし、極力手短な男性陣の会話と、なにかあればはじまった一節の「歌」がある。

そういえば、むかしの宴席にはかならず「歌」があって、これを酔ったひとたちが妙にバラバラなノリで合唱していた。
だれかが歌い出すと、それに集団があわせるのだけれど、あんがい「軍歌」はめったに聞いたことがない。

軍歌を歌うのが、テレビドラマの定番の場面だったのも、「作られたもの」だったとおもう。
海軍にいた父は、ドラマのなかで歌われる「同期の桜」に憤慨していた。
戦争に行かなくて生き残ったひとたちと、戦争に行って生き残ったひとの「断絶」だ、と。

俳優が悪いのではない。
これをやらせる、演出家や制作者がふざけている、とつけ加えていた。
「悪い戦争」と世間が認識し出したことへのやるせなさを、とうとうなにも書き残さずに物故した。

日本映画だから、という国内を「鎖国」して観れば、たしかに食うや食わずの時代にあって、上流階級というひとたちの浮世離れした生活は、もしやいまより豊かだったかもしれない。
しかし、なんだかスケールが「小さい」のだ。

欧米人の上流階級とか、かれらがアジアにつくった「邸宅」と、そこでの生活ぶりは、比較しようがない。
すると、外国目線でこの作品を観たら、どこにも上流を「感じない」にちがいない。

ようやく、木暮實千代が演じる「奥様」が、そのトンガリ具合から、「もしや」と感じるかもしれないけれど、あるいはやっぱり、ふつうすぎてスルーするかもしれない。
「奥様」のロココチックな寝室の壁紙、家具調度、それに額の絵にいたるまで、日本人には浮世離れにしかみえないけど、その天井の低さと狭さから、イプセンの『人形の家』を連想させるかもしれない。

話の展開は、大団円だ。
シェークスピアの『じゃじゃ馬ならし』にもみえるけど、欲求不満の心理ドラマとして観れば、佐分利信演じる「旦那様」も、家庭内マネジメントに失敗している。

すると、当時のエリート社員は、もしや職場のマネジメントにも失敗していたのでは?という疑問がわくのだ。
職場の彼の仕事ぶりが、個人的すぎてなんだかなぁ、にみえるのはそのためか?
机の下の彼の両足を、妙に「内また」にする演出がされている。

いまどきなら、さてはジェンダーか?

そんな「旦那様」は、流行りだしたパチンコを気に入ったらしい。
「こんなものが流行ってはいけない」と、笠智衆が演じるパチンコ屋の親父にいわしめたのは、逆説的な「正論」で、それで食うしかない悲哀があるけど、きっとこの親父さんは、パチンコ屋の経営者として一代で財をなしたにちがいない。

まさに、甘辛人生道場、をみせてくれた。

歴史的な就任直後の弾劾提起

「大統領弾劾」によって、過去弾劾(=解任)されたアメリカ合衆国大統領はいない。

「訴追」ということで、トランプ氏は史上3人目の大統領となり、「在任中2度」というのが史上初なのは確かである。
しかしながら、「訴追」は、ふつうの裁判でいう「起訴」であって、「解任判決」がでたわけではない。

判決を下す「裁判」自体は、連邦上院の仕事だ。

トランプ氏への「訴追」だけでも問題なのは、どちらも「冤罪=でっちあげ」が「確定」しているからである。
最初が、当選後で政権発足前の「ロシア疑惑」⇒「ウクライナ疑惑」。
二度目が、「連邦議事堂襲撃幇助」。

最初の疑惑は、特別検察官による調査を経て、「どこにも証拠がみつからない」という発表をもって終結した。
今年6日の議事堂事件は、選挙中、明らかに民主党という「党派より」を見せつけたFBIですら、すでに議会へ「関与はない」と報告書を提出している。

むしろこの報告書は、議事堂への乱入を計画し実行したのが、民主党系の過激派だったことを明記しているので、このまま弾劾を強弁すれば、ふたたびの「でっちあげ」となって、憲政史上の汚点となる。

それでも、「与党」が強行するのは、たちが悪い。
狙いは、弾劾された大統領は、ふたたび公職に就任できないルールの適用だといわれている。
しかして、もはや私人となった人物を弾劾する意味はあるのか?

ウォーターゲート事件で「辞任」したニクソン氏は、弾劾される前に辞任して、結局は「弾劾訴追」もされなかった「前例」となっている。
なぜなら、弾劾とはそもそも、「解任」のことだから、辞めたひとを訴追する意味がないからである。

そんなわけで、大統領弾劾が、なんだか「軽くなった」のである。

例によって、一方的報道(もはや「偏向」でもない)しかしなくなった、世界のメディアは、共和党で新人(今回のアメリカ大統領選挙と同時に実施された下院総選挙で初当選した)が、バイデン氏の弾劾を提案すると明言していることも報道しない。

もちろん、下院で過半数を上回る議席数にあるのは民主党だから、ふつうにかんがえれば、「通るはずのない」弾劾訴追なのである。
けれども、その「理由」が問題なのだ。
つまり、ぜんぜん「でっちあげ」ではなくて、むしろ、国民もしる「事実」だからである。

・第一に、ちょっと前までなら、トランプ氏に対する「ウクライナ疑惑」といっていたけれど、当事者のウクライナ政府が、バイデン親子をすでに刑事犯として「指名手配」しているのである。

アメリカ合衆国大統領に就任した(といわれている)ひとが、外国から刑事犯にされていて、しかも、その証拠がそろっているから、「でっちあげ」ではないどころか、「副大統領の職権濫用」について、なんと当時の本人がカメラの前で「認めている」のだ。正確には、自己の権力を自慢している。

ちなみに、就任したと「いわれている」のは、ライブの就任式のはずが6時間も前にスペインで放映され、その画像のなかの天気が「晴れ」で、しかも「影の方向と長さ」が非現実的だと指摘がある。
当日のワシントンD.C.は「濃い曇り」だったのだ。

なお、ホワイトハウスは、ネットでの「就任式ライブ動画」の配信を、「登録者限定」として、一般人への公開をしていない。
「登録者」とは、ホワイトハウスが認定した、民主党支持という身元がわかるひと、のことという「前代未聞」がある。

・第二は、上の「証拠」に関連する、子息の「犯罪」の詳細で、これには外国政府からの資金提供まであるし、証人もいるのある。
すなわち、バイデン氏に「大統領候補」としての「被選挙権」がない、という問題提起だ。

本来なら、政権が吹っ飛ぶはなしだ。

報道されないからといって、この提案が無視されるものではない。
トランプ氏に投じた、(おそらく)8000万以上ものアメリカ人有権者は、この展開を見つめていることが重要な事実なのである。

いかに民主党員の議員でも、2年後の選挙にどうやって当選するのか?は、重大な関心事である。
アメリカは、下院議員の任期は2年しかない。
くわえて、同数になった上院も、やっぱり2年で1/3が入れ替え選挙になるのである。

それで、バイデン氏の「被選挙権資格」を、ほんとうに強弁できるのか?

離任にあたってのトランプ氏の演説では、「何らかの形で、すぐにワシントンD.C. に帰ってくるよ」といっていた。
フロリダに「帰省した」トランプ氏は、さっそく自分が所有するゴルフ場でプレーを楽しんでいる。

一方で滑稽なのは、フロリダ州の住民たちが「お帰りなさい」とトランプ一家を沿道で出迎えたのを、「数十人」と報じたことである。
ネットでの投稿動画を観れば、だれにでも確認できる「群衆」に、感動すらおぼえるだろう。

沿道で車列を待っているひとが、いよいよの到着を前に、「Our President」と子どもに諭すような声でつぶやいたのが聞こえる動画もある。

「ほらごらん、わたしたちの大統領だよ」。

就任式前日の、バイデン氏壮行会に集まった「群衆」は、25人だった。
それでも「群衆」と報道するのを、呆れないものはいない。
数千人を数十人にしたって、その場にいた人々には、「事実とウソ」の区別ぐらいできる。

こうやって、誰も見向きもしないようにする報道の行為が、正義だと自己陶酔するなら、まもなくその「酔い」から醒めても、頭痛しかやってこないだろう。

報道されようがされまいが、「大統領弾劾」が、二人に同時におこなわれる時代がやってきた。

「危険」な戦争をしない大統領

戦争をするから危険なのではない。
戦争をしないから危険なのだ。

トランプ氏は、戦後の合衆国大統領として、任期中に戦争をしなかった「ただひとり」の大統領として歴史に名前を刻んだ。
戦争どころか、むしろ外国駐留アメリカ軍の、「撤退」と「縮小」を実施して、意図的なパワーバランスを変更することでの、不可能とされた「中東和平」を実現させた「快挙」がある。

ノーベル平和賞10個以上に相当するのは、当事国の数による。

これで、中東の地図が、「イスラエル・アラブ連合」対「イラン」となった。
イランの背後にはアジアの大国がいるので、「イラン・パキスタン・アジアの大国」が、イスラエル・アラブ連合に対峙している構図になったのだ。

まっ先にイスラエルと和平協定を結んだUAEが、原子力発電所の建設失敗の怨念もふくめ、韓国に石油を売らない、といったのは、韓国が相手側大国の子分だと認定したからでもあろう。

わが国に、中東の石油が今後も安定して供給されるのか?
あんがいと今後の早い時期にはっきりするかもしれない。
「あっち側に立つ」自民・公明連立政権の正念場だ。
経産省は伝統的に、イランの石油プラント推進が大好きなことを確認しよう。

バイデン氏は就任して早々に、トランプ政権が破棄した、「イラン核合意」の復活も意図しているから、中東和平を破壊したい、という意味の行動になることが予想される。
新国務長官候補は、オバマ時代に、ヒラリー氏の下でこの合意をまとめた人物である。

それに、さっそくバイデン氏は、テレビ討論会で公言した公約を破って、シェールオイルを得るための「フラッキング」を禁止するという。
これは、アメリカが純石油輸出国になったから中東への関与を弱めたことでの、和平の重要な基盤の破壊であるし、激戦州における雇用に深刻な影響をあたえる。

いつもの、「環境への取り組み」という詭弁が便利につかわれている。

前回書いた、「既得権保持」の優先順位は絶対だから、トランプ政権が差し止めた「既得権停止」を180度転換させることが、そもそもこの政権発足の至上命令である。
これが、就任初日の、数々の「大統領令」へのサインだ。

日本の新聞が、一面で大々的に書きたてる「快挙」扱いの記事は、まさに、既得権保持者への媚びへつらいにほかならない。
一般の日本国民として、こんな新聞におカネを出して購読する意味は、もはや1ミリも、1グラムもなくなった。

自称わが国を代表するクオリティー・ペーパーの、朝日新聞が赤字になったと報道され、こんどは、伝統ある毎日新聞が40億円以上ある資本金を「減資」して、3月には資本金1億円の会社になると発表された。
累積赤字の補填に、減資しか方法がなくなったのだろう。

一部に、資本金1億円の会社は税法上「中小企業」扱いとなるから、節税効果が期待できるという主張がある。
バカげた話なのは、払うべき儲けがあってのことを忘れているからである。
むしろ、主力銀行は、今後なにをもって追加融資をしてくれるのか?の不安しかない。

まさに、既得権保持者への媚びへつらい記事ではあるが、ここまでのことを理由にされたら、ドン引きするのがふつうの株主だろうから、いよいよわが国の大新聞社が倒産の危機を迎えている。

ほぼ時をおなじくして、電通が汐留の本社ビルを売却して、そのまま賃貸するのも、やっぱり赤字補填が理由である。
売れれば6000億円が入金するらしいけど、事業の立て直しができなければ、こちらも「時間の問題」となる。

リモート業務が8割になったから、いまの半分のフロアー数を借りることにするらしいとは、2割でない未練がある。
過労でなくなった若い社員からしたら、リモート勤務での残業をどうやって認定するのか?草葉の陰から心配しているだろう。

電通の凋落とは、テレビの凋落のことである。

新聞社は、テレビ局の親会社だから、テレビ局会社の経営だって火の車にちがいない。
いまになって、新聞とテレビを合体させた、田中角栄郵政大臣の亡霊が暴れだしている。

こうなったのは、ネットの台頭というよりも、自分たちの勝手な思想を読者や視聴者に押しつけたからである。
ちゃんと「公正」な報道をしていたら、玉石混交のネットよりもはるかに信頼性を維持できる人的資源があるはずなのに、これを使わなかった報いである。

いま、自由主義を標榜して、「公正」な記事を提供すれば、かならずや人々がこぞって購入するだろうにとおもうけど、確信犯にはこれができない。
よって、誰からも惜しまれずに市場から退場を余儀なくされるのは、「道理」というものである。

電通がGoogleに対抗できないのも、デジタル技術の問題ではなく、目的と手段をまちがえたからだろう。
そのGoogleが、SNS大手とともに、民主主義の破壊に手を染めた。
この千載一遇のチャンスを活かせない電通は、しょせん「満州ゴロ」の出自がそうさせるのだとしかおもえない。

経営には、倫理の前に道徳がひつようなのだ。

戦争をしなかった、唯ひとりの大統領を、危険人物とすることの人倫にもとる行為をしてはばからないばかりか、強弁を続けることは、巨大テック企業とおなじ土俵にあるから、けっして活路が見いだせない。

かれらが見下す一般人が、これら企業の困窮を「ざまぁ」とみているのは、因果応報というのである。

芸術化したダブル・スタンダード

「ダブル・スタンダード」とは、日本語で「二重規範」と直訳されている。
かんたんにいえば、「ご都合主義」という日本語の方がなじむ。
その時その時で、自分に都合のよい「論理」を押しつけることをいう。
だから、一貫性がないのは当然だ。

ふつうのひとがこれをやったら、たちまち仲間うちからの信用をなくすばかりか、嫌われ者になるだろう。
「なにいってんの?」と。

ところが古今東西、権力者はこれをやる、という習性がある。
なかでも、「絶対的」権力者がやるから、やられる側(被支配者)は、おそろしく理不尽で悲惨なめにあうこと必定となる。
国家レベルだけでなく、あらゆる組織レベルで発生する悪夢だ。

昨今の企業組織にみられる、「パワハラ」も、あんがいこれにあてはまる。
その前兆が、仲間うちでの「声の大きさ」だったり、「マウント行動」だったりする。
もちろん、マウント行動じたいが支配欲からなるものなのは、犬の習性をみればわかる。

つまり、「支配欲」という欲求が、人並み以上に強くて、一方で、周辺から「よい子」として育て上げられたうえでの、「自分かわいさ」という「幼児性」をあわせもった人物が、権力を手にすると、その支配下にあるものには、絶対的服従を求めるようになり、自分より上位のものには、自ら絶対的服従をするものなのだ。

すると、こうした人物は、自分が組織内で昇格する理由を、上位者への絶対的服従の結果だと思い込みながら、自らの「優秀性」に自己満足もするのである。
だから、組織のトップは、このような人物の危険性を察知しないといけないのだ。

ところが、上位者への絶対的服従を貫くから、上位者は視野を広げていないと、見抜くことはできない。
さらに、上位者が、部下の絶対的服従を喜ぶ傾向にあるなら、その危険性を察知するどころか、「かわいがる」という同類としての態度をとるのだ。

このようにして、組織は頭から腐るのである。
いやむしろ、そもそも頭が腐っていることが原因なのだ。
すると、いまの「頭」が選ばれた過程にもさかのぼれば、あんがいと「歴代」が腐っているものだ。

こうなると、その組織文化という深層までもが汚染されていることに等しいから、このような組織の「再生」には、たいへん苦労する。
「業績不振」になって、経営者の交代が実施される理由は、以上の意味での「経営責任」追求の結果なのである。

「数字の悪化」だけが理由なのではない。
その数字が悪化した根っこに、組織を腐敗させたトップの責任がある。
たいがいの「業界」で、同業で同時期なのに、業績優秀企業とそうでない企業とに分類できるほんとうの原因がこれなのである。

そこには、絶対的服従というダブル・スタンダードがあることに注目しよう。
上位と下位への、正反対な指示・命令があるのだ。
そして、歴代がこのような価値観なら、その組織には、かならず「既得権」がある。

すなわち、腐った頭が組織全体を腐らせるのは、組織全体に「既得権保持」という思想と行動が蔓延するからである。
くわえて、組織人がトップの意向を無視して、自分たちの「既得権保持」を優先させることもある。

これを国家レベルで解明・披露したのが、トランプ政権による「ディープ・ステート」との死闘であった。
「陰謀論」として、まともに論者に相手にされなかったものが、白日のもとにさらされた。

これこそが、公約をほとんど果たしたトランプ政権でも、「最大の成果」といえるのだ。
多くの国民が、そこにある「ディープ・ステート」を目撃したからである。

政権移行前に公表した、ラトクリフ国家情報長官の覚書は、2018年の「選挙に関する大統領令」で義務づけられ上院に提出した、「国家情報長官による報告書(これ自体機密)」の内容についてのコメントだった。
驚くべきは、「この報告書は採用されるべきではない」とある。

トップの意向にぜんぜん従わない、情報機関の官僚機構が、まさに「既得権保持」を優先させたと、長官本人が曝露したのだ。
これは、別に提出された、国家情報長官を監査する立場からの議会報告書もおなじく、「採用すべきでない」としたことが注目に値する。

つまり、行政官僚の組織が、行政府の長である、長官ばかりか大統領令までも、葬ったのである。

国民のための政府にする、というトランプ氏のいい分は、民主主義国家なら当然のことだからスルーされがちだけど、とっくに「既得権保持」という価値観が優先された官僚政府になってしまっていた。

これが、世界を震撼させたのだ。

「既得権保持」をしたい世界のひとびとが、一斉にトランプ政権を攻撃した理由が、国民のための政府になっては「こまる」からなのだ。
世界の政府役人と政治家ばかりか、マスコミも経済界もこれに乗った。
CNNがとくに批判されたけど、BBCだってロイターだっておなじだ。もちろん、NHKも。

ふだんから「民主主義がたりない」と政治家や政府を批判するひとたちが、トランプ政権潰しに全力投球したのは、世界が「ダブル・スタンダード」に満ちていた証拠となった。
そして、情弱なひとたちは、芸術的なダブル・スタンダードによって、みごとにコントロールされていることも判明した。

まさに、暗黒と光の闘いを目撃したのだ。

これは、人類最古の経典宗教、「ゾロアスター教」(紀元前1000年頃)の世界である。
しかして、「光=明」が最終勝利するのがゾロアスター(ザラスシュトラ=ザラストラ=ツァラトゥストラ)の結論である。

現代人類は、古代に回帰しているのである。

日米共通の「ポピュリズム」

「ポピュリズム」といえば、「大衆迎合主義」と訳して、批判の対象となる政治用語である。
たいがいの「用語」には、「対義語」があるのだけれど、こまったことにポピュリズムの対義語が確定していない。

あるひとは、大衆に対する「エリート主義」をあげるし、あるひとは、大衆の凡庸さに対する「知性主義」や「哲人政治」をあげる。また一方では、リバタリアニズム(自由至上主義)をあげるひともいる。
このように、「確定していない」のである。

対義語が確定していない、ということは、もとの用語の意味も確定していないことになって戻ってくる。
つまり、民主主義において、「ポピュリズム」とは、ほんとうに批判の対象となるものなのか?と。

これを逆転させると、ポピュリズムが民主主義を形成している、ということになる。
なぜなら、選挙において多数票を得ないと、政治家は政治家としての活動ができないし、この多数票を投じるのが「大衆」だからだ。

すると、「大衆とは何者か?」が問われる。

いまここで議論している「大衆」は、いまの世の中での人々を指す。
すると、その「起源」は、近代工業社会にあるのだ。
つまり、「都市労働者」がその中核をなす。
だから、近代の「大衆」とは、近代がつくった社会階層でもある。

この点は、「観光客の定義」と対応する。
近代になって、はじめて「観光客」がうまれたのは、やはり都市労働者の存在が欠かせないからだ。

都市労働者は、一定の賃金を得るので、安定した生活者となる。
「貧・富」、所得の「多・少」という意味ではない。
日給でも、週給でも、はたまた月給でも、あらかじめ提示された給金を提示されたままに受け取ることができるから、安定するのだ。

農業社会ではこうはいかない。

種まきから収穫までの時間と、収穫してから収入になるまでの時間を足しても、あらかじめ提示されるものは何もない。
これに、天候の偶然も加わるから、おもに太陽活動周期による影響で、豊かな時代とそうでない時代とになったのだ。

太陽活動周期の変化スピードに、人間の農業技術が追いつかない時代なら、おなじ農作業をしていても、収量は劇的に変化する。
しかし、都市労働者という層には、農産物物価というかたちで影響しても、収入の安定があるのは、賃金も上昇するからである。

日本の場合、支配層であった武士たちが困窮したのは、武士が実質都市労働者ではなくて、自分の「領地」や「知行地」における収量と現金化の相場に依存していたからである。
つまり、支配層の生活基盤が、もっとも脆弱なのであった。

ここに、ヨーロッパ貴族の精神基盤である、ノーブレス・オブリージュ「的」な、しかし似て非なる「武士道」が独自にうまれたのだ。
しかも、その根底に、外様の石数に比して貧弱な親藩を、幕府内で圧倒的権力を与えることでバランスさせた巧妙があった。

欧米の発想なら、あり得ない。
強いものが独り占めするのを当然としたからである。
強いはずのものが経済的に小さくて、そのかわり権力を与えるとは、権力があるものが強い、という発想の裏をかくから巧妙なのだ。

これを強制した、将軍・徳川家康の絶対的強さは、もっと強調されていい。
しかも、歴代将軍、270年間も、この強制が続いてだれも反抗しないのだ。
だから、江戸時代をポピュリズムとはふつうはかんがえない。

なのに、都市労働者という層ができあがっていて、はやくも元禄時代には、大衆文化が花開くのである。
そして、金銭を積み立てる「講」をつくって、この階層がこぞって、富士や伊勢などに観光旅行をしていた。

この「素地」が、わが国で近代工業社会を成功させたことは、間違いない。

そんなわけで、明治になってすぐに、「自由民権運動」が起き、大正期には大衆に広がるのである。
すると、なんだかいまよりずっと、大衆がダイナミックなのである。
この活動の精神基盤が、「日本教」であったと何度も書いた。

人智を超えた絶対の存在=Godが、支配下にあるすべての人間を「平等」にする。「神の前の平等」である。
これには、「Godは実在する」という、「信仰」が社会の構成員全員の常識としていないと成立しないから、「平等」の前提に「信仰」がある。

トランプ氏の「お別れ演説」でも、このことが強調されたのには、伝統的価値観を基盤にする彼と、彼に投票したひとたちの共通概念としての意味があるから「重い」のだ。

だから、自由の概念の最優先に、「信教の自由」があるのだけれど、日本人の宗教に、Godがないから明治のひとが困ったのである。
江戸期には、「東照神君・家康」がちゃんと設定されていた。

そこで、天皇をGodに差し替えてすえる、「日本教」を発明した。
しかし、天皇は生身の人間だから、「現人神(あらひとがみ)」としたのであった。

この、近代日本人の概念機構を、根底から破壊したのがアメリカ民主党政権だった。
明治教育制度の最後、昭和一ケタ世代までが日本教徒だから、この世代の死滅で、いよいよ薄っぺらな「ポピュリズム」だけが、蒸発した皿に残ったカスのようにみえてきた。

では、ポピュリズムのマーケットとしてみるべきところはなにか?といえば、いまさらながら圧倒的多数の「無党派層」なのである。
この層が、日本教徒の遺伝子をもっているのだ。
にもかかわらず、「カス」が跋扈している。

まるでなかったことにされた、トランプ氏へ投票した8000万票のようだけど、日米の共通点がここにある。

人類の星の時間がやってくる

アメリカでの、「犯罪者の心理」と「捕縛者の心理」の対立が、リアルで可視化されて「劇場化」した。
そして、とうとう1月20日という山場にさしかかってきた。
日本時間では、明日の午前2時になる。

逃げ切りをはかるのは、民主党というよりも「DS(ディープステート:既得権益者たち)」だ。
わかりやすい行動をとったのは、副大統領に就任するのに、上院議員辞任の最遅記録をつくったカマラ・ハリス氏で、18日にようやく辞任した。

就任式リハーサルにあたって、上院議員のままでは格好がつかないと、身内の民主党からの突き上げが厳しかったらしい。
地元カリフォルニア州知事に辞表を出して、知事は後任者をさっさと指名したから、待ち遠しかったことだろう。

アメリカの上院議員は、各州2名の定員で、日本の参議院議員と同様に6年の任期があって、また同じく解散はないけど、欠員は補欠選挙でなくて選出州の知事が指名することになっている。任期は、元の満期までだ。
カリフォルニア州は、民主党の牙城だから、後任も民主党のひとである。

よほどの理由がないと軍を配置できない、ワシントンD.C.(コロンビア特別区=連邦直轄地)に、周辺州の応援をえて「州兵」配置を国防省に要請したのは、6日の議会事件を受けて、ワシントンD.C.の市長本人だった。
それから、あれよあれよという間に3万人ほどが集結し、厳重警備にあたっている。

この数は、在韓米軍全部よりも多い。
きっと、要請した市長は、こんなはずはない、と文句をいっているはずだけど、お構いなしの状態なのだ。
なんだか、渡りに船を得るような話だ。

なぜなら、大規模集会の事前に州兵配備を市長に打診したものの、市警察で十分と判断・回答したのも、この市長だったのだ。
ちなみに、彼は民主党に属する。

ところが、現状の「警備」が少々不審なのは、外部からの攻撃に備えるよりも、就任式がおこなわれる議事堂周辺エリアから、外に出られないようにしているからである。
いつから、計画された方法なのか?

こうして、恐怖に襲われたのは、逃げ切りをはかる側なのは当然で、州兵たちの身元調査(支持政党と投票行動ふくむ)と、兵装の弾丸放棄を要請するいう事態にまで発展した。
兵装の弾丸放棄は軍から拒否されたというものの、身元調査は実施されている。

これはじつは大問題だ。
アメリカ軍は、連邦軍も州兵も、どちらも「行政」に属している。
これが、「シビリアン・コントロール」の大前提である。
だから、最高指揮官が大統領なのだ。

軍組織に、「軍法」があるのは、一般生活とは別のルールがないといけないからだけれど、それが、「上官の指揮・命令に従う」という絶対である。
ここに、個人の感情や政治信条は優先されない。
「わたしは、あの大統領(上官)の命令に従いません」、は許されない(=死刑)のだ。

これが、「国防軍」の絶対なのである。
しかしながら、軍の形態を装っても、ぜんぜん別の性格の軍もある。
たとえば、泣く子も黙る、「ナチス親衛隊(SS)」だ。
この組織は、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の「私兵」なのだ。

「私兵」なのに、政権党の直属兵だから、政権党の意向がそのまま国民の弾圧行動になっても、だれも罰するものがいない。
つまり、恐怖に駆られた、政権党になる民主党は、なんと、国防軍から人選をして、民主党軍に変換させている、ともいえる。

アジアの大国の「軍隊」も、いまだに「私兵」のままなのである。
その点、旧ソ連の軍隊は、当初の「赤軍(=党の私兵)」から、1946年に、「国軍」へ変更されたから注意がいる。
この点で、ソ連は「近代的」だったといえる。

州兵のみならず、連邦軍の将兵には、一般市民に対する「捜査・逮捕権」はない。
しかしながら、トランプ政権は18日、集結した州兵のうち2000人を、「連邦保安官代理」に任命したというニュースがあった。

連邦保安官は、司法省に属する。
ほんとうなのか?

一般人を軍法において逮捕することはできないから、「巧い手」ではある。
なお、軍法会議で一般人を被告にするには、司法長官と国防長官との協議によるので、このニュースがほんとうなら一気に緊張感が高まる。

民主党側の「就任式」が、逃げ切りになるのか?
それとも、就任式をもって、反逆罪などの「犯罪成立」として捕縛の号砲となるのか?

トランプ氏の弾劾裁判と、上院で決まっていない「閣僚人事」の公聴会は19日。新政権としては、まっ先に閣僚人事の承認が必要だ。
もしや、一気に閣僚を承認すれば、これも「犯罪成立」となって、承認された閣僚たちばかりか、賛成した議員も「犯罪者認定」されるだろう。

現地時間、朝8時より、すべての地上波放送に政府放送枠の提供についての予告も一部で報じられている。
全局で、「臨時放送」を流すという意味だ。
これも、ほんとうなのか?

日本時間では明日の明け方、おおかたのことが判明するだろう。
ただし、情報遮断もありうる。

なにも起きなくても、それはそれで、歴史的逃げ切りの「政権交代」だ。
なにかが起きたら、もちろん、歴史的変革の瞬間だ。

「人類の星の時間」まで、あとわずかなのである。

ひとは「壁」をつくる

『壁』といえば、安部公房の小説で、高校の時の課題で無理やり読まされた、漱石の『こころ』とおなじく、数少ない自主性のない読書経験だった。
朝起きると、なにかがちがっていて、虫になっていたカフカの『変身』と重なって、これが、「実存主義」かと固定した。

突然「名前を失う」というのは、虫になるより強烈で、自分を自分だと証明するものを、人間は持たない日常があることに驚いた印象がいまも残っている。
だから、『千と千尋の神隠し』にはドキドキした。

   

その意味で、共産主義に傾倒するひとの思想は、飛び抜けて優秀だ。
きっと、ふつうに優秀な方がよいのだろうけど、そうもいかない正直さが、凡人に刺激をくれて、ついでに共産主義への警戒感も強めてくれる。

イタリア共産党を創設し、壁の中で思索した、アントニオ・グラムシもその典型で、「邪悪の本質」を正直に教えてくれた。
これがいまでも、アメリカ民主党などの「教科書」になっている気がしてならないのは、あんがい「まんま」の行動をしているからだ。

精神的な「壁」は、誰にだってある。
他人との距離感をいうこともあるし、自己としての「壁」は、どちらさまにも進入禁止であろう。

「ソーシャル・ディスタンス」が日本語になった2020年から、日本人の民族的な距離感は、これまでからどのように変化したのか?
「プロクセミックス(近接学)」では、「パーソナル・エリア」と呼んでいて、「民族」や「男女」によるちがいが研究されている。

ただし、「性差」について修正をしたがるひとたちが「進歩的(なぜか「リベラル」という)」とされていて、わが国でも「ジェンダー・フリー」という日本語で、高校生が夏場、校内プールにおける水泳の授業で男女がおなじ部屋で着替えることが実施され、議論をよんだものだ。

新年早々、アメリカ合衆国連邦下院議会では、開会の冒頭、ペロシ議長から、「性差の表現を下院の議論ではしないように」との注意があった。
例えば、「父・母、祖父、祖母、兄・姉、弟、妹など」を「発言しないようにいたしましょう」と。

これで、保守派ならずとも、違和感があるひとと積極的推進派とに、「壁」ができた。
つまるところ、壁を取り除くことが、あらたな壁をつくることになったのである。

さすが、「先進国」。

ニューヨークでは、とっくにトイレが男女共用になっている場所もあるという。
ならば、江戸時代のわが国で常識だった、温泉の男女共用浴場を、野蛮だとして廃止させて別にしたのを、さもなかったかのように「元に戻す」ことをしてこそ、わが国も「先進国」に留まれるのであろう。

進歩的なわが政府の次の手は、全国の温泉と共同浴場(銭湯)の壁を取り払うための工事費と休業手当を、いそいで予算化すべきだ。
そうでないと、アメリカ民主党政権から、どんな仕打ちを受けるやもしれないから、国家安全保障にかかわる問題ではないのか?

日米に、「壁」があってはならない、と。

だから、国境に壁をつくったトランプ政権は、最低なのだ。
しかも、下院で多数の民主党によって、この建設予算が与えられなかったから、国防総省の予算を転用する工夫までした。
もちろん、バイデン氏は「建設中止」を発表している。

この壁は、わが国でも「万里の長城」扱いされている。

万里の長城は、当時(春秋戦国時代)の国境につくられた「壁」である。
しかし、その後も始皇帝から明時代まで、修復・延長されてきた。
教科書にあったように、異民族(匈奴:北方騎馬)からの侵入に対抗するものだったのだ。

だから、北方の満州族がたてた清の時代になって、長城が放棄されたのは当然だ。
満州族は、長城の外から全土を征服したからである。

さては、トランプ氏はなんのために「壁」を建設したのか?
不法移民の侵入を防ぐため、という。
これは、合法移民は受け入れる、ということだから、メキシコ側も支持しているのだ。

不法移民は、不法ゆえに、アメリカに入国を果たしても、「市民権」は得られない。
ゆえに、奴隷的労働に従事するはめになるし、もっと深刻なのは、麻薬密売に手を染めるばかりか、人身売買の被害者になることである。

はたして、これら犯罪組織が、不法入国を助ける、という構図もできているのだ。

今回の大統領選挙において、合法的に移民したひとたちが、圧倒的にトランプ氏を支持したのは、不法移民がいなくなったことで、これらのひとたちの生活が安定したからである。
仕事における、時給の低下もなくなって治安すら改善した。

だから、アメリカを破壊して共産化したい進歩派が、壁に反対する理由がこれだ。
わが国外務大臣の思想も、国民を洗脳したマスコミもおなじだろう。

トランプ氏が急遽、アジア太平洋戦略の機密文書を公開したのは、同盟国のはずの日本と韓国両国政府に、裏切るなよ、という警告の意味が理由だろう。
けれども、高まる緊張に、わが国のマスコミ・政府は動じない。

盤石だから、ではなくて、裏切り者のおとぼけだ。
さほどに「日韓」は双方で対立を演出して、アメリカからの警告を国民に伝えない涙ぐましい努力をしている。
レッドチームという、同じ穴のムジナなのだ。

日本国民と日本政府の間にも、とっくに「壁」ができている。

量子コンピュータを政治利用?

よくわからないことがいっぺんに重なると、ひとは「あきらめる」という選択をとるものだ。
わるくいえば、「思考停止」である。
複雑なことをかんがえようとすると、気持ち悪くなるのも、脳が拒否しているからである。

それでも、複雑なことをかんがえないといけないときには、慢性病とおなじで、あんがい「転地療法」が効く。
自宅からでて、散歩しながら喫茶店にいってゆったりしながら、かんがえるのである。

散歩の途中でもアイデアが涌いてくるので、ICレコーダーを買ったことがあるけど、すぐにスマホが取って代わった。
喫茶店で、これをヒントにかんがえると、妙にうまくいくことが快感になるから紐付けができる。

こうして、かんがえごとは喫茶店で、というパターンができる。
電源があるカフェをさがすのに、そのまま「電源カフェ」で検索すれば、意外な場所にみつけることができたけど、コロナで閉店もしているから、情報の更新が間に合っていない。

いまのモバイル機器の機能だと、別に電源は必須ではないのだが、電源がないと不安な貧乏性もある。
それで、場所代と電気代を、あたかもコーヒー代としてまとめて支払っている。

だから、喫茶店の経営者は、お客がコーヒーを欲しくてやってくるとおもって経営してはならない。
もっといえば、お客は複雑なことをかんがえに来店するのだ、と。

「AI(人工知能)」が騒がれたのは、コンピュータに仕事を奪われる、という研究が発表されたからであった。
しかし、SF小説や映画にでてくる、人間と同様あるいはそれ以上のAIはできっこない、と解説した本がベストセラーになった。

でも、この本は、けっして「安心」を購入させるものではない。
むしろ、よりリアルな危機を解説しているから、一読をお勧めする。

興味深いのは、コンピュータとは「計算機」だという確認である。
すっかり教育機関になっている、幼稚園でも「数」を習いだす。
小学校にはいれば、すぐに足し算がやってくる。
「オギャー」と生まれて、たった数年で足し算ができるのはすごいことだ。

中学でなんとなく、文系志向と理系志向があらわれて、高校ではクラス分けされる。
文系が理系に、理系が文系に「宗旨変え」のチャンスはめったにないから、この選択が日本人の人生を決めるといっても大袈裟ではない。

外国には、この区別がないことを、もっとしっていていい。

工業社会の人材育成プログラムが、脱工業社会になっても継続していることが、教育問題のなかの「カリキュラム問題」になっている。
この問題が、いつまでたっても解決しないのは、教えられる側ではなくて、教える側の技能がないからである。

それでもって、生徒が数学嫌いになるようにさせている。
定理の証明方法や、計算方法しか教えないから、「つまらない」のだ。
ぶ厚いアメリカの教科書は、「興味を失わせない工夫」の説明に満ちているからぶ厚いのだ。

しかし、テストにでるのは、ぜんぶ数式が書けて計算できる問題しかない。
世の中は、数式に書けないのがほとんどで、よしんば書けても計算できないことにあふれているのだ。
ここに、限界がありつつも、この限界に人類は果敢に挑戦し続けている。

そんなわけで、従来のコンピュータとは「原理が違う」のが、量子コンピュータである。

従来のコンピュータは、トランジスタを極小化して集めた、「集積回路」という技術の細密化が競われてきた。
これには、トランジスタが電気的に作用して、「0」と「1」を表現する電気スイッチの原理が使われている。

よくいう単位の「1ビット」とは、「0と1」の二通りの表現ができるのを基本にしている。
だから、2ビットは、「0・0、0・1、1・0、1・1」という、4つの組合せが表現できる。

ビット数を増やして計算できるのは、トランジスタの組合せによって、「論理回路」をつくれるからだ。
これをもっと組み合わせると、足し算ができるようになって、足し算ができれば掛け算ができる。

しかし、どんどんトランジスタを小さくしたら、「トンネル効果」という物理現象が発生してしまう。
トランジスタのスイッチを切りかえないで、トンネルを通過するように「先の出口」から出てしまうのだ。

そんなわけで、従来型のコンピュータの限界が近づいてきた。
そこで登場したのが量子コンピュータだ。
「量子」とは、光に代表されるように、「粒子」と「波」の二つの性質をもっている。

この性質を利用して、「0と1」を認識するのだ。
従来型と決定的にちがうのは、量子の二つの性質から、同時に並列的な計算ができるため、原理的にも、従来型のべき乗根という「超高速」なのである。
スーパー・コンピュータで数万年かかるものを数百秒で終える。

さて、どんな数式を書いて計算させたのかはしらないけど、トランプ陣営の敵を追いこむ正確な作戦は、量子コンピュータを用いている、という「うわさ」が出てきた。
あらゆる可能性の「確率計算」をやっている、と。

ほんとうなのか?
SFマニアの作り話なのか?

UFOの機密情報も公開するというから、そのうちわかるだろう。

『破戒』ラストの意味をしる

あと数日で、誰がアメリカ合衆国大統領になるのか?がわかる。

つまり、「現段階」ではだれにも「わからない」のである。
にもかかわらず、「バイデン氏の大統領就任」と報道をつづけ、外務大臣が、「6日の連邦議会事件をトランプ側の仕業と批難する」、歴史的・確信犯的・さらには、同盟を裏切る言行をして憚らない体制になっている。

民主主義には、ご都合主義が入り込むすき間がある。
多数派の暴走=小数派を無視する態度のことである。
これに、選挙不正というインチキが加わった。
自分たちが多数票を得ればよい、というご都合主義の究極である。

「共和制」のなかのひとつの形態である、「大統領制」を採用する国で、事実や証拠に基づかない、単なる「多数決」で弾劾訴追することが行われたことが「歴史的」だと書いた
これを推進した、民主党下院議長の汚名は、永遠に残るはずなのは、「共和制に死をもたらした」からだ。

わが国では、あたかも他人事をよそおう向きがあるけど、「コロナで罰則」を推進することと、本質的なちがいはない。
事実と証拠(データ)に基づかないで国会で多数決をとれば、論理は「弾劾訴追」とおなじことだからである。

つまり、わが国の「共和制(議会主義)」も崩壊の危機にあるのだ。
だから、外国の他人事ではない。
上述の外務大臣発言は、わが国の国家としての「道議」が失われたばかりか、現政権の邪悪さを世界に発信したのである。

すなわち、「レッドチーム」だと、宣言した。

国民が国家をつくり、その運営を政府に任せている第一にして最大理由に「安全保障=独立」がある。
これがなければ、「国民」という概念すら存在できない。
パスポートに意味がない、どころではないのだ。

それで国民は、このサービス享受の代償として、納税しているのだ。
しかしながら、驚いたことに、国民がしらないうちに、勝手に与党が「レッドチーム」に加入してしまった。

これを国民がやめさせる方法が、ない、という状態にあるのが、わが国だ。

それで、外国の元首なのに、アメリカのトランプ氏に期待が集まっているのである。
アメリカという後ろ盾があること、これが、わが国戦後の独立以来の構造なのである。

講和条約の発効と同時に、日米安全保障条約も発効した。
しかし、民主党バイデン政権になれば、この後ろ盾をなくすのではなく、アメリカとともにそっくりそのまま「レッドチーム」に編入されることになる。

元レッドチームだった、ロシアや東欧諸国が、この状況をたいへん心配している原因が、「まさかの逆転」なのである。

現状は、アメリカでもわが国とおなじように、ディープステートが「保守」していて、そのトランプ氏の再選が一般人には困難な状況にみえるから、危機感が高まっているのである。

これは、日米ともに共産化することになるから、両国の「左翼」は、大歓迎しているのである。
そのお先棒を報道機関が担っているので、テレビや新聞しかみない「情弱」の国民は、すっかり、トランプ氏を憎悪するように訓練されてしまった。

骨のある政治家は、どこにいった?
残念ながらわが国では絶滅したけど、アメリカには棲息している。
それが、「テキサス州」なのである。
もしかしたら、テキサス州が再び独立するかもしれないのだ。

すでにテキサス州には、その動きがあって、複数の州が「呼応」する可能すらあるのだ。
トランプ氏は独立宣言して、これら州の大統領に就任するかも、といわれだした。

ワシントンの大統領に対して、南部の大統領が誕生する。
しかも、正統性は、日本史のように、なんだかいつも南朝にある。
これを裏付けるのが、連邦軍の支持なのだ。
したがって、ワシントン(北朝)の大統領には、民主党の「州兵」しかいないことになった。

6日の事件以来、ワシントンD.C.は、民主党市長からの「要請」をきっかけに、大統領が発動した「災害等の緊急事態宣言」によって、25,000人の兵が出動して警備にあたっている。
同時に、選挙不正があった州にも同様の宣言が発動された。

大統領就任式が中止されたという未確認情報もある。
一方で、トランプ氏は別途「退任式」を挙行すると報道がある。
これは、「南朝の発足式」かもしれない。

全米50州のうち、テキサス州が唯一の「元独立国」である。
テキサス共和国といった。
メキシコから独立し、その後アメリカ合衆国への編入契約をもって加入した。
なので、連邦法において唯一、テキサス州には「連邦離脱条項」がある。

つまり、テキサスの独立は、この条項にしたがえば「合法」なのである。

メキシコからの独立理由が、連邦制から中央集権への移行反対だった。
ふたたび、同様の事態が発生しているから、あんがい支持されている。
ちなみに、テキサス州のGDPは、カナダとおなじ規模なのである。

島崎藤村の『破戒』ラストで、主人公「瀬川丑松」がテキサスに向かうことの意味が、ようやく理解できた。