コロナどさくさスーパーシティ法

コロナ禍の真っ最中、5月27日に「スーパーシティ法」が成立している。
正確には、『国家戦略特区法改正案』という。

前にも書いたが、「特区」がくせ者なのだ。
わが国は、自由主義の国ということになっていて、戦後一貫して「(旧)西側」とか「自由圏」という枠のなかにいる。
もちろん、「盟主」はアメリカでありイギリスである。

いわゆる「米英」である。
ほんの数年前までの「鬼畜米英」から、「鬼畜」がとれたのは「敗戦」の結果でもある。
しかし、人間の心のなかは劇的な変化をするものではないので、あんがい当時のひとは「(鬼畜)米英」と()のなかを口に出さずとも念じていたはずである。

それで、経済力が復活してくると、世代もかわって「鬼畜」が「反」に言葉もかえて、70年代には「反米ナショナリズム」ということになった。
ちょうどこのころは、ベトナム戦争真っ最中だったので、「反戦運動」と簡単に結びついたのは必然的であった。

世の中がドラスティックに動くので、「激動」という言葉が多用された。
たとえば、「激動の70年代」とか、「激動の昭和」とか。
70年代の激動は、代理戦争の敵側にいた中共とアメリカの握手に象徴される。

あわてたわが国首相も、北京に単独乗り込むのは、アメリカ人がわが国を通り越して北京に行ったからである。
ここから、「日中友好」がはじまって、いまに至っている。

「MADE IN CHINA」の物品が、怪しい感じで登場した。
めちゃくちゃ安いが、品質はいまいちどころではなく、いま二、いま三のレベルだった。
黄色い塗装のいかにもな鉛筆を1ダース買ったけど、鉛筆内部で芯が折れているのがふつうだった。

ただし、カイロで使っていたエジプト製の鉛筆は、「キセル」状態で、電動鉛筆削りに差し込むと、両端の先っぽにしか芯がないものが結構あった。
それに比べると、、、まぁ、そんなものである。
芯にもムラがあって、書ける場所と引っかかって紙が裂けるときもあった。

どうしたら、こんな芯ができるのか?が不思議だった。
よく混ぜていないだけでなく、へんなものが混じっている、というのは子どもにだってわかった。
簡単にいえば、細かい砂が混じっていたのである。

真面目に働こうが、テキトーに働こうが、工場にいる時間が同じなら同じ給料となれば、だれだってテキトーになる。
どんな品質の鉛筆ができようが、鉛筆の格好をしていれば鉛筆を作ったことになる。

つまり、当時の「MADE IN CHINA」は、「THE共産主義」だったのである。
横浜には、「ナホトカ号」というソ連からの定期船がやってきていたが、一般人がソ連製の生活物品を購入する機会はなかった。

その意味で、「MADE IN CHINA」の物品があふれる、横浜中華街の売店は、長崎の出島っぽかったのである。
おとなは顔をしかめて、「安かろう悪かろう」だといい、購入しようとしない。

しかし、もう品質で世界一になっていた日本に住んでいて、このあり得ない劣悪品を売っていることが、なんだかうれしかったのだ。
だから、よく小遣いで買っていた。
親は、どうしてほしがるのかいぶかったけど、劣悪さが貴重だから、という本音はいわないでおいた。

いま、最先端テクノロジーを駆使するスマホでみたら、まったく時代の変化に驚くばかりである。
日本製のスマホが世界市場から駆逐された理由を、中国のメディアがきちんと解説している。

日本は、実際に技術力ではいまでも世界最先端なのに、「製品」となるととたんに魅力がなくなる。
それは、作り手が自分たちの価値観を優先させて、購入して使うひとの便利さを優先させないからだ、と

世界が叩いている中国メーカーと、韓国メーカーのスマホには、日本製が及ばない機能(ソフト)がはじめから用意されている。
それは、外部モニターに接続すると、アプリがモニター上でつかえるというものだ。このメーカーのスマホがあれば、パソコンを持ち歩く必要がない。

日本製などのスマホに外部モニターをつなげても、スマホの画面が大きく写るだけだ。

そんな彼の国は、たとえばアップルペンシルの代用品を作っている。
対して、わが国は、世界最高の鉛筆を作っている。
わが国が、アップルペンシルの代用品を作らないのは、お行儀よさだけではなく、役所が許さないからである。だから、役所がそもそも興味を示さない鉛筆を作るのだ。

こうして、生産性がきまる。

高度成長期の日本を真似た国と、劣悪品をつくる仕組みを真似る努力をした国が逆転したのは当たり前だが、どうしてわが国は「そっち」を選択したのか?

「スーパーシティ法」は、監視を強化することを推進する。
またまた、真似てはいけない方向を目指すから、なにをやっているのか?
「住民の暮らしやすさ」とはなにか?をかんがえないで、統治しやすさをかんがえるからである。

おやおや、社会をスマホでの失敗状態にしたいらしい。

東京オリンピックでは、世界一の顔認識システムを活用するとCMでやっていたが、先進国はこぞって顔認証は全体主義になると否定をはじめた。

どうせの「特区」なら、東京を「自由都市」にして、香港の金融センター機能を奪取するように、すぐさま、ただちに、実行すべきである。
それが、築地の跡地利用だったのはなかったか?

これぞ、スーパーシティである。

政府が著作権を設ける不思議の国

著作権を政府が政府刊行物に設定する。
おかしくないか?

政府は誰のために政府刊行物を出版しているのか?
もちろん、「国民のため」である。
ならば、その政府刊行物は、どんな費用で賄われているのか?
もちろん、「税金」である。

国民のために税金を使って研究された出版物が、国民に還元されるとき、どうして「著作権」が設定されるのか?ということである。
「著作権フリー」なのが当然ではないのか?
むしろ、どんどん国民の知識をひろげるために、民間の出版社では採算にあわないけれど拡散されることが望ましいものを「政府刊行物」としているのではないのか?

「権利」についてうるさいのは、アメリカ合衆国である。
この国の秘密あつかいではない政府刊行物は、すべて「著作権フリー」が原則になっている。
だから、引用自由、コピー自由である。

しかし、アメリカで問題になったのは、外国政府や外国政府関係団体などが「勝手にアメリカ国民のための著作物」から、有用な知識を無料で受けることの是非だった。
そんなわけで、英語のものは仕方がないが、翻訳をするならアメリカ政府の許可を要するようになっている。

「政府刊行物」とは、行政サービスの一角をなす、のだから、まったく当然のことといえる。
行政当局が著作権を得ることに、国民的利益はなく、むしろ国民の損失である。

そうなると、三権のうちのあと二権、立法府(国会)と司法府(最高裁)にはどんな出版物があるのだろうか?
調べると、「ない」のだ。

そこで、衆議院のHPにいけば、「調査局」の作成資料一覧があって、どれもPDF形式での提供となっている。
もちろん、トップページ一番下に「Copyright © 2014 Shugiin All Rights Reserved.」が燦然と輝いている。

次に参議院。
さすが「良識の府」にふさわしく、著作権の明示がない。
おなじ国会で、天と地の差があるのだ。
衆議院は直ちに著作権の明示を削除すべきである。

では最高裁判所はどうか?
しっかり「Copyright © Supreme Court of Japan. All rights reserved.」がある。
わが国の司法府にして、この体たらく。

おそらく、わが国が二流三流といわれる原因がここにある。
『憲法の番人』が、深い眠りについて一度も起きてこない。
格下の裁判所から上がってくる、憲法判断を、面倒くさくてしかたない態度でやり過ごすのは、寝ぼけまなこで再び眠ろうとしているからだろう。

能動的な態度がない『番人』だから、けっこうスルーできるのだ。

これがまた、下級審にも伝染するから、「判決」をださない。
「判決理由」をしっかり書き込まないといけないのが「判決文」だから、「判決」をださなければ「判決文」を書かなくてよい。
なので、いまどきの裁判官は、「和解」こそが命となる。

最高裁の裁判官は、きっと最高裁判所のホームページをみたことがないのだ。
しかし、こんなことであんがい笑えない。
民間企業だって、自社のホームページをみたことがない社長はたくさんいるし、パソコンを触ったことがないひとが財界重鎮なのだ。

でも、やっぱり「国」が、著作権を設けるのはどうかしている。

このことが問題にならない理由は、ろくな情報を発信していないからだ。
衆議院、参議院、それに最高裁判所のホームページをみにいって、なにかいいことがあるのか?
とくにない。

これがまた、情報リテラシーの劣化をまねく。
要するに、行政府の肥大と立法府と司法府の萎縮が、わが国を近代国家から引きずり降ろす元凶なのだ。
これに国民が気づかない。

政治改革とか行政改革とか、あるいは国会改革とか、いろんな改革があったけど、江戸時代の「改革」のように、どれもうまくいったためしがない。
ならば、まず、国から著作権を撤廃してみたらいい。
どんな「抵抗」があるものかみてみたい。

きっと、こんなこともできないから、いつまでたってもマスクをしているのだ。
そういえば、添付メールにあとからやってくる「パスワード」も、相変わらずなのである。

それをする理由はなにか?をかんがえる能力が劣化して、「惰性」だけでよしとする。
もはや無料だらけになったクラウドのストレージを共有すれば、メール添付の危険よりはるかに安全なのにこれをしない。

そうしたら、顧客への連絡を電話だけにしている企業もある。
顧客の利便性よりも、自分たちの責任逃れを優先するのに、都合のよい理由になっている。
「メール添付は危険ですから弊社では原則禁止となっております」。

しばらく電話にでないでいたら、メールで連絡が入ってきた。
やればできる。

ところで、内閣サイバーセキュリティセンター(NISC)は、『インターネットの安全・安心ハンドブック』を電子版なら無料で出している。

この本には、以下の注意が記載されている。
「なお、本ハンドブックの著作権は内閣サイバーセキュリティセンター (NISC) が保有しますが、サイバーセキュリティの普及啓発活動に利用する限りにおいては、改変しないことを条件に、多様な形でご活用いただくことができます」。

まったくの蛇足である。
蛇足が闊歩する、不思議な時代になったものである。

和服の裁ち合わせ

わたしはいまどきの日本人であるから、和服を着ることはめったになく、羽織袴は、結婚式以来30年、一度も着たことがない。
高校生のとき、ちょっとだけ弓道をやっていたので、袴(馬乗り袴)は自分ではいていた。

袴の下に帯をして、背中にまわした結び目の上に袴の背板を載せることで、ただ紐で結ぶのとちがって落ちてこない。
はじめて着方を習ったときに、この「発明」のすごさに驚いたことを思いだす。

もっとも、帯や紐の「結び方」というのも決まりがある。
それぞれの役割に応じた、最適の結び方である。
これがまた、覚えるのにやっかいなのだが、回を重ねると自然にできるようになったのは、手が覚えたからである。

そうかんがえると、洋服の合理性とは次元のちがう合理性が和服にはある。
それに、ズボンの折り目とは比べるべくもない数の折り目が袴にはある。
これをちゃんと維持するのには、「たたみ方」が大事になる。

自分の着たものを脱いだ後に放り出していても、洋服なら誤魔化せるが、和服だとシワだらけになってヨレヨレになるからみっともない。
それが恥ずかしいから、袴だけは自分で丁寧にたたんでいた。
上半身は、木綿の簡単な道着で済ましたが、下半身の袴にはこだわったのだ。

もう、「衣紋掛け」なんてものも、地方の古い旅館にでもいかないとみることがなくなった。
女性の「きもの」は、英語にもなったけど、まだ浴衣を「キモノ」という外国人は多い。

それでも、織物としての美しさでは世界で引けをとらない。
こういうものを作り出すエネルギーが、引けをとらないのだ。
「織り」として気が遠くなる手間と技術を要する「大島」から、染めにいたっては絢爛豪華になる一方、普段着としてついぞこの間まで木綿のキモノは祖母世代がふつうに愛用していた。

反物から「裁ち合わせ」してできるのが「きもの」だとは知っているが、この「裁ち方」が、洋服の型紙をあてた立体裁断とはぜんぜんちがう「直線裁ちだけ」になっている。
それで、一反からうまれるパーツは8枚だけ。

つまり、「きもの」は縫った糸を解くと、元の反物に戻せるという「復元性」があって、余分な端布(はぎれ)を出さないという構造になっている。
それが、「袖」におおきく現れて、洋服とはぜんぜんちがう、一見邪魔になるものが、優美さの所作をつくったり、袖のなかにいろいろしまえるポケットにもなっている。洋服で「袖の下」は通じない。

この「ムダ」な形を極大化したら、「振り袖」になった。

ヨーロッパから宣教師がやってきて、洋服も伝わっただろうに、日本人は和服を棄てなかった。
明治になって、ハイカラな洋装も導入されたが、和洋共存していたものが和服不利になった事件、それが昭和6年の「白木屋の火事」とされている。

しかし、建築史家にして風俗史の大家、井上章一による冷徹な分析は、「プロモーション」としての「白木屋の火事」と結論づけている。
すなわち、デパート業界が仕掛けた「和装駆逐キャンペーン」だった、と。

さて、「幾何」としてみれば、和服は単純の極致である。
わが国は、ついぞこの間まで「貧乏国」だったことを思いだせば、何度も仕立て直しができて、最後には雑巾になるまで使いつくすことができたから、端布がたくさんできる洋服が浸透しなかったのだろう。

布や紙をどうやって切るのか?という、「裁ち合わせ」を、和服のように直線裁ちだけでなく、斜めにも切るのをルールとすれば、いきなり「幾何」という「数学分野」に変貌する。

学校で習う「幾何」のはじめは、「ピタゴラスの定理=三平方の定理」だ。
大陸からの影響を受けた「和算」では、「鉤股弦(こうこげん)の法」といわれ、『勘者御伽双紙』に詳しい図で解説されている。
国会図書館のデジタルコレクションにあるので、お暇なら検索されたし。

この「定理」からはじまって、十代の頭脳を悩ます「三角関数」に発展し、それがさらに「円」と結びつく。
生徒の身からすれば、なにをやっているのか?という疑問が先に立って、それが「反抗期」と重なることで、苦い青春の想い出のひとつとなる。

ぜんぜんわかりません。

なんの役に立つのかの「応用例」を教えないから、わからないことの自慢にさえなるのだ。

「すてた」と。

土地を購入するのに、隣地と段差がある場所で、擁壁を角度のある石積みにするのか、それとも直角になるコンクリートにするのか?
石積みは工事費が安いけど、底辺にある境界線からの角度と高さで、土地の面積が失われる。コンクリートは高くつけどまっすぐの壁になる。
石積みで失われた土地分を、鉄骨で組建てて取り戻すにも工事費がかかるのだ。

さて、どっちが得か?

そこまでしておカネをかけるなら、そんな土地は買わない方がいい。
とまでいったら、なかなかなものである。

何に役立つのか?を最初に教えると、結果がちがうのである。

あたらしい「踏み絵」

企業の新卒採用でよくいわれる「即戦力」がほしい、というのは、一体どういうことなのかをかんがえる。

企業内で「職業訓練を必要」としない、人材のことを「即戦力」というのなら、そもそもそんな「人材」は存在するのか?
いるとしたら、学生アルバイト経験が長く、その企業にそのまま採用された人材ということになる。

ならば、学生アルバイトに「職業訓練」をしているといえるのか?
いえる場合といえない場合がある。
いえる場合とは、現場での経験を通じての「慣れ」と「コツ」の習得がある場合で、いえない場合とは、「慣れ」と「コツ」の習得だけで企業の幹部候補としていいのか?と。それで、そうはいかない、と考えるときである。

もちろん、学生アルバイトから「昇格」して、正社員に全員がなれるなら話は別だ。
けれども、それだけでは数が足りないし、いくら長く働いてくれても、「不適切」となれば、そのまま採用されることはない。

すると、企業による価値判断として、「優秀な人材」の定義が各社それぞれにあって当然である。
各社それぞれが、おなじ業務をしているのではないから、そうなる。
しかし、各社がまとまった業界団とか、もっと大きな経済団体とかになると、「優秀な人材」というひと言で共有されるのも事実だ。

ところで、上記の例で「不適切」というのはどういうことか?
企業側の判断と本人の判断がある。
上記の例での文脈なら、企業側が「不適切」と判断したから、正社員としての採用はしないという意味になる。

しかし、学生本人の判断で、このまま一生ここで働きたくないという意味での「不適切」もあるだろう。
単純作業のアルバイトの場合、この傾向が強くなると予想できる。

つまり、お互い様の関係である「相互主義」になっているのだ。
これを忘れた議論が、企業側からの一方的な「優秀な人材がほしい」ということではないのか?

しかも、その中身の定義である、「優秀な人材」とはなにか?が相変わらず曖昧なままであるとすれば、ただの「ない物ねだり」になってしまう。
もしこのことに、学生アルバイトの方が先に気がついてしまったら、「不適切」とされるのは、企業の方になるのである。

さんざん「人手不足」と騒がれてから、コロナ禍の「自粛」によって、1974年1月の石油ショック以来の求人率の落ち込みとなった。
「ひと余り」になるということを示しているかにみえる。
もちろん、コロナ倒産をふくめ、失業者が世にあふれるだろうから、「ひと余り」にはなる。

ならば、現役社会人のなかから発生する失業者に、いかほどの「優秀な人材」がいて、このひとたちの争奪戦にならないのはなぜか?

情報の「ミスマッチ」があるのだ。

すなわち、従来の「求人情報」では、わからない、のである。
なにがわからないのか?
失業者が、求人情報をみても、そこにある求められるあたらしい仕事が、どんな人材としての要求をされているのかがわからないのだ。

べつに、ハローワークを批判したいのではない。

むしろ、自社がどんな企業で、どんな事業をやっていて、期待する募集人材がどんなひとなのかが、募集企業側に「ない」のだから、役所のデータベースや掲示板に、書いてあるはずがないのだ。

そんなわけだから、コロナ禍によって職を失った、おそらく、企業内でそこそこの高評価を得ていたひとたちも、ハローワークに足をはこんで戸惑っていることだろう。
しかも、そうした過去の「高評価」が、かえって嫌われる傾向すらあるのだ。

その理由に、自分たちより優秀だと困る、という感情がある。
ましてや、従来のペースをこわされて、バリバリ仕事をされてしまったら、迷惑だという発想すらある。

すると、本音では「そこそこ」でいいのである。
だから、こういう場合の「即戦力」とは、「そこそこ」の実務ができるひとのことを指す。

ところが、コロナ禍は、特定の産業に徹底的にわざわいした。
それが、いわゆる接客をともなう「人的サービス業」や「旅行業」である。
従来の職探しとちがって、おなじ業種の企業が採用してくれる可能性がとてつもなく低くなった。

業種内で、倒産が競争になってしまって、早いか遅いか程度になったからだ。
いま生きのこっている企業すら、人員募集の余裕はない。
すると、他業種に移るということになる。

これが、今回の「特徴」で、過去になかった「初めて」なのだ。
石油ショックは、経済全体に影響したのを思いだせばよい。

他業種への転職で「即戦力」とはなにか?
これを自己主張できるひとはそういない。
むしろ、自分は即戦力になると主張するひとを、他業種が率先して採用するのか?

「即戦力だって?」
「役立たずだろ」
とその場でなるのが「オチ」である。

どんなひとが欲しいのか?
従来以上に、採用する企業は、明記できるかが問われていて、採用される側はそれを確認したいという要望が強くなる。
逆にいえば、明記のない企業に優秀な人材は集まらないということだ。

人材の産業転換がはじまる、という意味が重要なのである。
だから、あたらしい「踏み絵」になったのである。

もう誤魔化すしかなくなった

昨日、昼食時に入ったお店にテレビがあって、久しぶりに「お昼のニュース」を観た。

あんまりの内容に、吹き出しそうになったけど、しっかりガマンできてよかった。
相席の知らない相手の顔面に、発射しそうになったからである。

コロナ「感染者」が連日100人を超えていることについて、今般何かと名前があがる「経済担当大臣」が、「もう自粛はいやでしょ?」といったり、都知事の記者会見の生放送で、「検査対象が増えたから感染者が増えている」と「真顔」でいう姿がギャグマンガにみえたのだ。

それに、「夜の接待をともなう飲食店」が感染者多数ということで、彼女はまたも「三密に注意せよ」とのたまわったのだ。
そうではなくて、だれを対象に検査をしているのか?が気になるところなのだ。だって、「検査対象が増えた」と今いったばかりだから。

つまり、まともな統計的に有意となる社会調査としての「検査」が行われているのではないのに、あたかも「酷いことになっている」ようにみせているマスコミを叱らず、そのままその論に自らを乗せている。

一連の画像の後に、街のひとへのインタービュー映像が続いた。
お婆さんは「怖いですねぇ」といい、女子高生は「電車に乗るのが怖い」といっていた。
もちろん、「両者とも」マスクを着用したままで答えているから、顔を隠していて誰だかはわからないのは幸いだ。

お婆さんの「怖い」は理解できる。
免疫力や体力がない老齢者が、重篤化する傾向があるからである。
しかし、女子高生の方は、学校が休みだったから化学の勉強をしなかったとはいえ、若い頭脳として無知すぎる。それに、情報リテラシーがないことに驚かされた。

こんなことだから、日本小児科医会がとっくに正式見解として、「小児にマスクを着用させるのは危険」だという警告も、この社会は無視できるのである。
おそらく、無視しているというよりも「知らない」ということだろうけど、マスコミも「子どもの命」がかかっていると大騒ぎしないのはなぜか?

都合が悪いからである。

これまでの過剰報道のほとんどが「嘘」だったことがバレるのだ。
保健所が発表する、「インフルエンザの注意報」は、「患者数」を基準としていて、それも一週間の移動平均をつかうルールになっている。

毎日、何人「感染」したか?という数字をつかわない。
医師が「診断したひと」を「患者」というのである。
なぜなら、インフルエンザだって「感染者数」は、わからないからである。

にもかかわらず、今回は、保健所すら「感染者数」を「毎日」いいだした。
これこそが、「あたらしい日常」のねじ曲げられた姿である。
基の数字が「テキトー」なのだから、ことここに至って、なおも「テキトー」を貫くしかなくなったのである。

大手の弁護士事務所がこないだ倒産したニュースがあった。
借金の過払い金を請求することが本業だったようだから、再建には、コロナ禍で事業が立ち行かなくなった経営者や社主たちが、マスコミ各社を相手に損害賠償請求の集団訴訟をやるといい。

大手テレビ局の一部は、外国の大株主から、地上波放送の電波返上を提案されている。
1回拒否できたところで、何回も要求される可能性も否定できないのは、地上波テレビ事業が「儲からない」からだ。

そんな状態なのだから、はやく訴えないと取り漏れるかもしれない。

経済担当大臣が、再度「緊急事態宣言」を出すことを躊躇する理由に、そもそもの「根拠」(「科学的エビデンス」ともいう)が、希薄だったからである。それで、専門家会議の議事録がない。歴史の検証に耐えられないことを当事者がしっている。

もちろん、以上は国内の事情による。

わが国の被害は欧米に比べて少ないし、通常のインフルエンザの半分もない。
被害が多数のはずの欧米で、通常モードにしているのだから、横並びでしかない理由だった「緊急事態宣言」をこのタイミングでもう一度、というわけにはいかない。

いまさら、科学的エビデンスをどうやっていいだすのか?
もはや、中央政府と地方政府の知事たち、それにマスコミが結託して「でっち上げた」ともいえないから、大本営発表のごとく、国民に真実は伝えずに、むやむやなのかモヤモヤにして収束させるしかないのだろう。

さては、踊らされた国民の哀れよ。

政府もなにも、とっくに「解除」したはずのものが、緊急事態宣言発令中よりも厳しい、「マスク着用義務」をやっている店舗も多数ある。
「義務」をかってに決めて利用客に強要したのなら、利用客にマスクを配付するのが筋だといいたいが、ただ強要することが正義になった感がある。

まったく愚かな経営者もいたものだ。
自分から収束させることを拒否しているのだ。

見習うべきはパチンコ屋の衛生管理である。
モノからひとへうつるので、人間が触るところを徹底的に消毒すればよい。
噴飯ものをなくす努力のためにやることはある。
空気感染しないから、「三密」も「嘘」である。

ただ、今年の晩秋以降、インフルエンザについても「毎日感染者」を報道するのか?それとも、従来通りなのか?

国民はここに注目されたい。

時代は「事業再構築」

「事業再構築」とは、「リストラクチャリング」という。
80年代、いわゆる「バブル前」の時代、さかんに「リストラクチャリング」がいわれたのを覚えているひとがあんがい少ない。

この「バブル前の時代」とは、「円高不況」の時代をいう。
「戦後世界」という「西側自由世界」を作ったのは、「鉄のカーテン」に仕切られた「東側世界」との経済的交流が断たれた軍事環境を最下層の基盤にして、その上に西側金融システムという「層」があったのである。

世界最強になった経済大国の、アメリカ・ドルを基軸にした体制のことである。
しかし、ベトナム戦争という「泥沼」に、戦費というドルも投げ棄てて、とうとう「金と交換する余裕」も失った。

こうして、「ニクソン・ショック=ドル・ショック」となったのが、1971年のことである。
もっともこの年は、ニクソン大統領が電撃的に北京を訪問した方が早く、わが国ではこちらを「ニクソン・ショック」ということもある。

そうかんがえると、「1970年のこんにちは~🎵」と幸せいっぱいでやっていた「万博」の翌年のことなので、「高度成長」のほろ酔い気分がすっ飛んだ出来事であった。
日本人が、すべからく「単純」だということを確認できる。

もちろん、「アメリカがクシャミをすれば、日本は風邪をひく」というのは、「戦後体制」そのもののことだから、今だって変わらない。
むしろ、アメリカがクシャミをすれば、日本は肺炎になってしまう。
しかし、中国がクシャミをしたら、日本は生きていない状態になってしまったことが、今回のコロナ禍でよくわかった。

そのアメリカが、さらにドルの価値を下げる(本当は円の価値を上げる)ことにしたのが、「プラザ合意」(1985年)であった。
巨大な貿易赤字に耐えられなくなったからである。
このことで、円は1ドル250円から120円になった。

わが国財界は、140円のころ悲鳴をあげて、120円になったら「もたない」と叫んだが、あっさりと120円を突破した。

翌1986年に、「円高不況」がわが国を襲ったのである。
そして5年後には、ソ連崩壊(1991年)となって、東欧の自由化及び中国の改革開放路線が確定した。
これによって、わが国製造業は中国へこぞって生産拠点を移転させることになった。

国内では、円高不況をナントかしようとして、金融緩和が行われたが、これが後の「バブル」を招く。
だから、本稿冒頭の「リストラクチャリング」がいわれた時代とは、円高不況対策のことだったのである。

バブル崩壊による企業業績をよくするために行われたのが、「人員削減=リストラ」である。
「リストラクチャリング=事業の再構築」という意味からすれば、これほどかけ離れた用語はないけど、一気に定着した。

「社員」から「役員」になる、という「出世」をする日本企業にとっての人員削減は、「やってはいけないこと」という不文律があったのだけれど、いったん掴んだ「安全地帯」から出ることを嫌がったひとたちが、「事業再構築」という願ってもない理由を得たのだ。

そんなわけで、各企業とも横並びして、事業再構築ではない人員削減に邁進したことで、もっと辛いことになる事業再構築を先送りしてきた。

このブログでは、何度も「コロナ禍」の本質は、科学を無視した人為によるわざわいであると指摘してきた。
まるで、ネズミが集団自殺するがごとく。
破滅に向かってまっしぐらに走るのが、「正しい」とされる社会である。

集団自殺に加わるのか、こうした集団から逃れるのか?
ここが、経営判断のしどころになっている。
いま、業界単位で横並びすることが、どんなに危険なことであるか。

おそらく、生き残れる企業は、「独自路線」を選択することが決定的となる。

では、独自路線とはなにか?
自社の事業を、根本から見直して、なんのため?誰のため?という問いに自ら詰問することが必要最低限の思考実験となる。
そのうえで、なにをすべきか?をかんがえる。

つまり、リストラクチャリングの手順を踏むことなのだ。
結果的に、「従来通り」という答えになれば、それはそれである。
なにも考えないで「従来通り」とは、まったく意味がちがうからである。

ひとの移動と集合が、まちがった情報によって破壊された。
何年先のことかしらないけれど、こんな「判断をした社会」を嗤う時代もくるだろう。単純ながら意図的な情報戦にあっさり負けた愚か者集団だ、と。
しかし、われわれは今を生きなければならない。

ひとの移動と集合を業としてきたものにとっては、壊滅的打撃となるのは当然である。
公共交通で移動したがらないひとたちと、空間を共有する集合をしたがらないひとたちを相手にどうするのか?

今回の病気が、どうやってうつるのか?を、もう一度科学的な目線で確認し、対策の徹底実施とその説明が必須となろう。
「あたらしい日常」ではなくて、従来の「日常」を取り戻すことをアッピールすることが、もっとも重要なのではなかろうか。

レジ袋有料化がはじまった

本日、7月1日から、コロナの中でも宣伝されていた「レジ袋の有料化」がスタートする。

殊勝な店舗で、なんども繰り返しアナウンスされていたのは、「地球環境のため」という政府がいう世迷い言ばかりで、法律ではない「関係省令改正」という政府の無謀を理由にしない。
まことに、政府からみたら「けなげ」なことである。

しかし、国民も「けなげ」なのかなんなのか?
国会を通さずに、国民あまねく負担させられることが決まる。
事前に文句をいわないので、あっさり今日という日を迎えてしまった。
買い物をするたびに「不快」なおもいをさせられることになる。

もちろん、レジ係のひとは、たいがいが「パートさん」なので、このひとたちに文句をいってもはじまらない。
「わたしパートなので、難しいことはわかりません」
という「決め手」を持っているからである。

すると、これを「客」にいわせるメリットを享受するのは、スーパーの経営者になるのだが、社内で業務上の気づきについて自由に意見をいって欲しくても、やっぱり「わたしパートなので、難しいことはわかりません」と、なにも協力してくれないことを怨むことはできない。

むしろ、いままで協力的どころか積極的に意見を述べてくれていたひとたちも、「わたしパートなので、難しいことはわかりません病」に感染してしまうおそれまである。
それほどに、ひとの精神を破壊する「政策」なのである。

そもそもが、東京オリンピック観戦のために多数の外国人がやってきて、そのとき、日本国内における買い物で、「レジ袋が無料」なのは、地球環境に鑑みて「恥ずかしい」と発想したことが原因だった。
つまり、「見栄っ張り」という精神が原点にある。

そのオリンピックが延期になっても、レジ袋の有料化が延期にならないのは、それはそれ・これはこれという「分裂」した発想があるからで、国民を痛めつけることが「統治」だと勘違いしている。
「飴と鞭」の「鞭」だ。

もっとも、昨日の6月末までだった、「キャッシュレスで5%還元」という「政策」は、昨年秋に消費税を上げたことへの「飴」だった。
しかし、この「飴」は、本当は「苦い飴」で、肝心の消費税を増税するという「鞭」を隠すための「局所的政策」なのである。

そう考えれば、太陽光発電も、「発電」という局所しかみないで「エコ」だとか「地球に優しい」とかと意味不明なことをいっていた。

太陽光発電装置をつくるためにつかうエネルギーと廃棄処分するためのエネルギーは、発電能力の4倍かかることをいわない。
電気自動車や水素自動車も、同じ手口で何度もおかしなことを繰り返すのは、「局所」しかみないことをしないと、「産業政策」にならないからである。

つまり、「政策」が重要で、「実態」は重要ではないという価値判断をしているのである。
わが国が貧乏になるのは、多額の税金をこんな「政策」につぎ込んでいるからである。

レジ袋の有料化の実施には、関係省庁の横串的「省令改正」が同時に行われた。いつもの、縦割りとちがうから、やればできることを示したが筋が悪すぎる。
その筋の悪い役所、環境省は、これまで3割いたレジ袋を要求しないひとが、どういう根拠か?6割になることを「目標」にしている。

主婦を舐めるな。
3円払うのと、まとめて買うのとどっちが得かをかんがえるのだ。
「ゴミ袋」としての局所しかかんがえないとしたら大間違い。
ちゃんと「利便性」という「効用」を考慮する「経済人」なのだ。

どうせ有料なら、コンビニでも大きめの袋を要求するかもしれない。

なんどもいうが、「科学が社会に負ける」状態が、ダイオキシン騒動以来ずっと続いていて、ぜんぜん終わりが見えない社会になってしまった。

コロナのマスクも同じ精神構造からなっている。
「咳エチケット」だったはずのものが、全員着用しないといけない、に変容した。
自分の口から飛ぶ、咳やクシャミの飛沫をマスクは防ぐから、他人へのエチケットになるのだ。

咳もクシャミもしないひとが、紙や布でできたマスクをする「効果」なんかほとんどない。日本語のふつうの会話で飛沫は飛ばない。
逆に、吸い込みを押さえる防御効果があるのは、マスクの編み目に引っかかる「花粉」しかない。

小ささで単位がちがう、ウィルスや細菌を吸い込まない作りのマスクとは、「N95」以上の医療用マスクしかない。
ただし、このタイプのものは、減菌された手術室での使用を前提としているので、ふつうの環境では2時間もすると目が詰まって息苦しくなる。

それなのに、あろうことか政府は、アベノマスクの効果があったと発表する。
少なくても、わが家では開封もしていない。
いったいどんな「科学的根拠」に基づいて「効果」をいうのか?質問して追いつめる知見が、記者クラブの記者にない。

レジ袋の原材料自体が「高分子体」である。
つまり、もうこれ以上加工ができないので、ゴミとして焼却処分していた。
なんとかならないのか?と発明したのが、レジ袋である。
ゴミの再利用で、もっとも優れたものがどうして地球環境に悪いのか?

こんなチマチマしたことに人的エネルギーも投入して、とにかく国民に不自由を強いる。

昨日は、とうとう「国家安全法」が採択されて、即日施行された。
どうせ国民を不自由にさせるなら、このくらいダイナミックなことをわが政府もやってみろ、といいたい。
やりたいけど、できっこないから、「遺憾」だというにちがいない。

果たして、社会主義に親和性のある民主党ニューヨーク州知事は、マスク着用を義務化するといいだしたら、トランプ大統領は「個人の自由」といいかえした。

まともなのは、どういうひとかをちゃんと自分で考えたい。

哲学者の論点を聞きたい

誰が言い出したのかしらないが、「あたらしい日常」がいわれだした。
「流行語大賞」に輝くような「流行」ならまだしも、おそらくいいだしたひとには「定着」が欲しいだろうから、「流行語」では満足しないだろう。

世の中には二つの流れがある。
「フロー」と「ストック」である。
「表面に浮いている」のが「フロー」で、「底辺に溜まっている」のが「ストック」だから、先の例なら「流行語」はフローで、「定着」がストックとなる。

企業活動ならば、フローは売上げだけでなく「損益」のことで、ストックは「資産」すなわち「資本」をしめす。
なので、損益計算書がフローを、貸借対照表がストックを表記するものだ。

しかし、これ「だけ」ではない。
ひとの移動もフローだし、そもそも人生だってフローである。
「浮き草人生」と自覚できればよいが、組織にしがみついていたって、所詮はフローなのだから、いつどこでどんなふうに自分の人生を終えるのか?は誰にもわからない。

それだから、ストックとしての「哲学」に需要がうまれる。
この場合は、「アンカー(碇)」の役割で、フローの波に流されないように、海底にしっかりつなぎ止めておきたくなるのと同じである。
人生に哲学があるのか、ないのかの違いは、人生の違いにもなる。

しかしながら、喰うのが先で人生哲学なんてかんがえる閑がない、というのも現実である。
ところが、コロナ禍でその「閑」ができたともいえた。
すると、こんどは「閑」があっても、暇をもてあますということになった。
細かいが「漢字」がちがう。

かんがえることを普段からしてないと、せっかくの「閑」が「暇」になってしまうのである。
つまり、「喰うのが先」というのは、言い訳にすぎないのだ。

ということは、「かんがえること」とは、訓練を要するということだとわかる。
いまの日本人は、生まれてこの方、いつ「かんがえることの訓練」をうけるのか?

ほとんどない、のである。

ならば、読書経験はどうか?といえば、惨憺たるものである。
むかしの中学・高校生が読んだ「文学作品」と、いまのひとたちが同じ時期に同じ作品を読んではいない。

この時期は、別に「思春期」と呼ばれている。
身体と頭脳が、急速に「おとな」になる成長をはじめるので、こうした時期に読むべき作品とは、おとなになって読むべき作品ではない。

いってみれば、人生の免疫システムを構成するために読むべき「ワクチン」たちなのだ。
なぜなら、いろんな作家が描くいろんな登場人物たちの「悩み」を克服した人生が、読者にとっての仮想人生体験になるからである。

たとえば、17歳でヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を読んだら、それでよいけど、40歳ではじめてこれを読んで感銘をうけているといわれると、気持ち悪い感じがしてしまう。
あたかも、40歳でおたふく風邪にかかっているようなものだ。

『新潮文庫の100冊』という小冊子が書店で配布されていた。
これは、1976年からだから、当時中学生のわたしにとってはかなり「リアル」な存在だった。
「制覇」を試みて挫折したひとりである。

惨憺たるの証拠は、これが2012年に終わっていることでもわかる。
この37年間をつうじてリストアップされつづけた作品は、11作品しかない。
100冊だから1割で、あとの9割は入れかわっているのだ。
それは、歌謡曲の変遷のようにドラスティックではないにせよ。

ヨーロッパ伝統のリベラルアーツをとりまとめているのは「哲学」だった。
その「哲学」の上位に「神学」があった。
わが国では、仏教伝来から、寺院での教学とはまさにリベラルアーツだったのである。

一神教とはちがうから、仏教哲学に「神学」のような上位はない。
「信仰」と「哲学」との関係が、キリスト教社会とことなるのはこのためだろう。
それが、ときに「一向一揆」のような反体制信仰爆発を生んだエネルギーに転換されたのかもしれない。

わが国の碩学といえば、田中美知太郎と小泉信三が思いだされる。
この二人、東京の空襲につかわれた焼夷弾で顔が崩れるほどの大変な火傷をおったという共通点がある。

 

わたしが、「碩学」というのは、難しいことを易しく解説してくれるひとをいう。
困難な時代には、世の中が「碩学」を必要とするものだが、いまの時代、いったい誰なのか?もわからない。

小泉の死後、田中が1968年に立ち上げた「日本文化会議」も、1994年に解散されている。

仕方がないから、彼らが残したものを、あらためて読んでみようとおもう。

ニュートンとゲーテの色彩論

りんごが落ちるのを見て万有引力の法則を発見したというニュートンの功績は、このほかに微分と積分の計算法や太陽光線のスペクトル分析による「色」の発見がある。

もっとも、正確には、微積の計算法があって万有引力の計算ができるという順がある。
この計算法の発見については、ライプニッツとどっちが早かったのか?という競争があって、物理学者のニュートンには不利なことになっている。

ペストの大流行によってケンブリッジ大学も閉鎖され、強制休暇で故郷に帰ったニュートンが、自宅の横にあったりんごの木からりんごが落ちたのを見たのである。

生家には日時計がたくあった。
子どものころ、彼は、日時計に凝って、家のあちこちに自分でつくっては設置し、これをもって、影によって時間をしる方法を体得したという。
日の光を、プリズムによって分光し、さらにまたもとの光にもどす実験もやって、「色」とは光の波長によることを発見した。

モノが赤く見えるのは、光の中の赤い部分を反射して、あとは吸収するだけの現象だし、モノが青くみえるのも、光の中の青い部分を反射して、あとは吸収するだけの現象である、と書いている。

ニュートンが、ケンブリッジ大学の名誉ある「ルーカス教授職」に就くのは26歳の時だ。最近でこのルーカス教授職にあったのは、ホーキング博士である。
なにせ、世界史を変えた「万有引力の発見」が22歳の時だった。

60歳で王立協会の会長に選出されて、84歳で死去するまでこの座を他人に譲ることはなかった。
ニュートンの死後、22年後に誕生したのがゲーテである。
この人物は、生涯、ニュートンの「色」を批判した。

『若きウェルテルの悩み』が出版されたのは、ゲーテ25歳の時。
この「文豪」の真骨頂は、60年ものときをかけて完成した『ファウスト』にあるといわれている。
ドイツ語を話す教養人は、20世紀になっても『ファウスト』を暗誦できたのだ。たとえば、ハンナ・アーレントのように。

盟友でベートーヴェンの第九の歌詞を書いたシラーは、ゲーテの死を悼んで、「あんなことに時間をかけなければ、もっと多くの文学作品を世に残せただろうに」と嘆いたという。

その「あんなこと」とは、「色」の研究『色彩論』の完成であった。
まさに、ニュートン物理学に対して、一大文学者の確信的反抗だった。

文学をふくめた学問分野を、「人文学」というように、ゲーテは「人間」を介した「色」にしか興味がなかったのである。
つまり、「ひとの目でみる色」のことであって、ニュートンのいう「スペクトル」とはちがう世界の存在を主張したのである。

驚くなかれ、21世紀の現在にあっても、「色」をかんがえるときの基準点は、ニュートンのいう「色」と、ゲーテがいう「色」とに分かれたままなのだ。
しかし、ここに、「量子論」が介在しようとしている。

「万有引力」は、アインシュタインの「相対論」によって書き換わり、その「相対論」も、「量子論」によって書き換わった。

「色」のなりたちは、古代からニュートンまで、アリストテレスの「白と黒の混じり合いを起点とする」という論が信じられてきた。
だから、ニュートンのプリズムは、アリストテレスの全否定でもあったのだ。

ゲーテは、このこともふくめてニュートンを否定するのだ。
彼は、「若きウェルテルの目」をもって、自然観察を好んだ。
自分の目で見える「色」を信じたのである。
それを追求すると、ニュートンの「色」では説明できないことがある。

実際にゲーテはブロッケン山を登山しその下山のおり、不思議な影を観察している。
まっ赤に染まった夕日に照らされて、一面の景色が赤く染まったなか、小山の影が青くなるのを「発見」したのである。

この現象は、ニュートンの「光」では説明できない。
ゲーテは、人間である自分の目で見た「事実」にこそ真実があると信じたのである。

この「現象」が、実験によって再現されたのは、20世紀の量子物理学者による。
光は「波動」である、という量子論なくして説明できない。
「波」としてのふるまいと「粒子」としてのふるまいをする。

そして、その光は、人間の網膜を刺激して脳が色を感じるようになっている。
ゲーテの「深さ」はここにある。

シラーの嘆きとは別に、ゲーテはみずからの人生を振り返って、自分の死後ひとびとに影響をあたえるのは、『色彩論』であると断言したという。『ファウスト』ではないのだ。
「もっと光を」これが、大文豪にして色彩学者ゲーテ最後の言葉であった。

そのゲーテの死後60年ほどして、ニュートンの母国イギリスで『ベンハムの独楽』という玩具が販売された。
独楽の表面の半分を黒で塗りつぶし、もう半分には白地に黒い線を破線で描いたものだ。

これを回転させると、独楽の表面に「赤」や「緑」の色の線が現れる。
「目の錯覚」といわれているが、この現象の仕組みはいまだにわかっていない。

果たして、アリストテレスの白と黒のように。

(30年目の結婚記念日にあたって)

国家安全法と河井夫妻

よく錬られた法律である。

ウィルス禍のスキに乗じて、ご当地住民だけでなく世界各国に大影響を及ぼす「法案」が、もうすぐ決定する段階にきた。
香港の繁栄は、この法律とは真逆の「自由の保障」に根拠をおいてきたからだ。

グローバル企業なら、とっくに「東京」は「支店」レベルでしかないのに対し、その上位部署(支社やアジア地域本部など)が置かれているのが「香港」であり、「シンガポール」なのである。

だから、東京 → 香港便とは、東京から香港にお伺いを直接たてるために出張するひとたちが乗っていて、香港 → 東京便とは、東京支店にお仕置きをするためにやってくるひとたちが乗っているのである。
香港 → 東京便の機内でくつろいでいるひとは、お伺いがうまくいって安堵している姿なのだ。

そこに、世界が驚く法律が適用されるという。
でも、この「驚き」は、自由が阻害されるということであって、香港らしさが失われる懸念からの驚きに限定されている。
なぜなら、「国家安全法」の主旨じたいは、独立国なら理解できるからである。

ややこしいのが、「一国二制度」という言い分が、これで崩壊したからで、「嘘だった」ことがはっきりしたことと、一国なら「国家安全法」は理解できることが入り交じることなのだ。

わが国にあてはめると、一国のはずなのに「国家安全法」という概念すらなく、イージス・アショアもどっかへいってしまったので、さっぱり反応が鈍いのである。
この意味で、わが国にも国家安全法を見習って立法すべきだろう。

その立法府では、法務大臣もやったばかりの夫婦の議員が、なかよく「公職選挙法違反」で逮捕された。
地元有力者におカネをくばって応援依頼したことと、選挙カーのウグイス嬢への報酬(3万円/日)が高額だったことがいけないらしい。

名指しされた地元有力者の現職市長が、辞任することにもなって、事件は拡大しているようにみえる。

わたしが興味深いのは、みんな「自民党」のひとたちという点だ。
でも、自民党はなにもしない。
これが、「自分党」といわれる自民党の本性なのである。
候補者ひとりひとりが、個人的に独立して活動するから、「自民党」というのは、ポスターにつける「マーク」でしかない。

戦後、公職選挙法ができてから、何人のひとたちが逮捕されたのか?
そして、逮捕理由と有罪になったときの判決文との関係だ。
政治学者だか社会学者の研究レポートを読んでみたい。

いまどき、1日3万円ももらえるなら「高額だ」というひともいるかもしれないが、選挙期間の二週間しか雇用されないし、立候補者がおおければ、争奪戦になるのである。
ウグイス嬢は、ふだん劇団員をやっていたりする「プロ」なのだ。

法律には、「1万5千円」と書いてある。
どうして金額まで書いてあるのかしらないが、賃金は自由競争のなかで決まるという「同一労働同一賃金」のかんがえ方にも反する、公定価格になっている。

これでは、争奪戦が争奪戦にならないはずだが、実際は争奪戦になるのだから、候補者は全員が逮捕対象になり得るのである。
ならば、公平に逮捕しているかといえば、そんなことはない。
逮捕権を行使する側の裁量で、どうにでもなることになっている。

すると、香港のひとたちがおそれる状態は、わが国ではとっくに「選挙」という場面で発生している。
政権与党につながるひとたちが逮捕されるのだから、健全だ、というわけにはいかないのである。

今回逮捕された夫婦は、なにをしでかしたのか?
逮捕理由にならならいとことろに、ほんとうの逮捕理由があるのではないか?と疑いたくなるのである。

日本の議会はズルズルだけど、アメリカの議会は活発で、先日、上院は「香港決議」をした。
各国にも香港の自由を守るための活動連携を要請するというものだ。
これを前に、議会が運営する「ラジオ局」が、香港に軍の部隊が配置されたことを伝えている。

アメリカの議会は、ラジオ局まで運営している。
政府が運営しているのではなく、議会なのである。

立法府と行政府がちゃんと分かれている。

すると、気になるのは、わが国の「司法」である。
そういえば、「国家安全法案」では、司法も制約している。
本法に関係するなら、裁判官も行政長官が任命した、ふつうの裁判所とはことなる判事によって裁かれることになっている。

わが国なら、最高裁判所とは別に、総理大臣が任命した裁判官が裁くことになるという建て付けである。
ものすごく、「強権的」なのだが、あちらが大好きなひとたちはこれを真似ろといわないし、仕組みの解説もしない。

そんなふうにかんがえたら、急に河井夫妻が哀れにおもえてきた。
トカゲのしっぽあつかいならまだしも、ゴミあつかいである。

こうやって、国会議員を辱めることで、選んだ国民を辱めることをカムフラージュするなら、この国民堕落の戦略は、「国家安全法」が禁じる、外国政府との結託、と疑われてもしかたない。
それで、なにも解説しないのか?