アドバンテージは大丈夫?

突如でてきた「9月入学」というはなし。
全国知事の半数以上が「賛成」という報道があるけど、大丈夫なのか?

いったい、現役の知事たちで、海外留学経験者は、言いだしっぺの都知事のほかに何人いるのか?
この際、学歴詐称疑惑は横にしても、いまの「3月卒業」は、留学するには「アドバンテージ」になっていなかったか?と質問したい。

なぜかといえば、アメリカを例にすると、留学先の学校は、日本語で授業をしてくれるはずもないから、まずは「英語力試験」を受けないといけないのだ。
国内でよほど英語ができたひとだって、「大学の授業」という高等英語を理解できないと、本人だけでなくクラスの迷惑にもなる。

だから、ふつうは「英語力予科」にはいって、授業に出ることができるレベルの試験に合格しないといけない。そうでなければ、9月からの「本科」を受講することがゆるされず、その学校での留学そのものを断念せざるをえなくなるのだ。

それで、英語以外の学力ではじゅうぶん入学ができるのに、まずは語学専門学校にいくことを推奨される。
せっかくの「留学ビザ」があるのだから、半年で間に合わなかったひとは、もう一年を「予科」ですごすことになる。

ということは、かなりの英語力があってはじめて、9月からの新入生になれるし、この間の半年間は、それでなくても多忙になる。
生活の立ち上げに、外国ならではの「手間」がかかるのは、地方から東京の学校にいくのとはわけがちがうからである。

たとえば、自動車。
アメリカ留学なら、自動車がないと買い物にもいけない。
部屋を選ぶのだって、自動車がないと不動産屋にもいけない。
つまり、通学できない。

そのために、免許がいるが、日本の高校生で自動車運転免許をもっているひとはすくないから、現地で取得しないといけない。
すると、いかに日本ほど厳密ではないとしても、ちゃんと手続きしないといけない。

つまり、たとえ予科で一発合格しても、あれこれと、やることがたくさんあるのだ。
これを「横移動感覚」の欧米人と一緒にして、一ヶ月程度でやれというのは「酷」ではないか?

まさか、わが国の知事たちは、こんなこともしらない、なんてことはないとおもうが、「世界標準だから」という一番多い賛成理由をきくにつけ、なんだか心配になるのである。

日本標準でなにがいけないのか?

もちろん、外国からの留学生だって、4月入学というのは、上記のはなしがズレて起きることだから、アドバンテージを与えることになっている。

すると、知事たちが無知でないとすれば、かれらの得意の「嫌がらせ」か?

どういうわけか、この件でも企業側の反応が鈍い。
企業の採用スケジュールがどうなるのか?は、変更時の一回だけで済むはなしではないだろう。
ということは、ドキドキしながら「静観」を決め込んだということか?

少子という現象がわかっているのに、大学設立認可をバンバン出した文部科学省がやり玉に挙げられて、いざというときになって、なにがなんでも獣医学部はつくらせないことになった。

文部科学省という「行政当局」は、申請書類が整っていれば、バンバン認可を出さねばならぬ。
少子という現象がわかっているのに、申請するのは、申請した側の責任だからで、どうして役所がその経営責任まで負わされるのか?

そんな「役所依存」をふだんからしているので、上から目線で「不要不急のことはするな」と国民にはいって、じぶんたちは「不要不急のことばかりする」ようになるのである。
こういうのを「どさくさに紛れる」とはいうけれど、国民の自業自得でもある。

「自由」という立場からすれば、他人から自分の行動を「不要不急」といわれて批難される筋合いはない。
まして、為政者からいわれるのは不本意である。この「精神」が、日本人からなくなった。

明治には、このような世相を風刺した、みごとなジャーナリストがいたものだが、「言論の自由」を逆手にとって、一般人をあおりまくるのが「ジャーナリズム」だと勘違いしているのが「ふつう」になって、残念なことに国民がそんな記事や報道を信じているのだ。

宮武外骨を描くのに、最高の作家が書いてくれた。
その、赤瀬川原平も、もういない。
彼のあまたある傑作でも、『新解さんの謎』は、辞書をつかってここまで笑わせるものかと感心した。

日本語をならう外国人は、この本をどう評価するのか?ぜひともきいてみたい。
果たして、外国の辞書で、「新解国語辞典」に匹敵する辞書はあるものか?

ご存じの方には、教えを請いたい。

「内外価格差」の存在は、「貿易論」でいえばチャンスである。
わが国の大学授業料は、たいへんお安くなっている。
ということは?

やっぱりここでも、「国家戦略」として、学校制度をかんがえないとまちがえるのである。

「ばっきん」ガム宮殿

「チューインガム」は、チューインガムの木からとれた「基剤」に甘い味をつけて、これを口内で噛むことで味わう菓子である。
いまでは、合成樹脂であるビニールが基剤になっている。
レジ袋撲滅運動には熱心だが、ガム撲滅運動は誰もしない。

噛むと頭がよくなる、というから、きっとレジ袋の有料化をうれしく思うひとは、ガムをたくさん噛んで、脳にビニールが行き渡った方もおおくいるにちがいない。

お菓子といえば「食べる」ものなので、子どものとき、味がなくなったらはき出すとはおもわずに、飲み込んでしまう経験を誰でもしたことがあるだろう。
のちに、ガムのような食感なのに、だんだん溶けてなくなる「飴菓子」も登場して、戸惑ったことがある。

ロンドンには有名な「バッキンガム宮殿」がある。
国王の住まいだが、はじめはバッキンガム公が建てたものを、王が買い取ったという歴史がある。

「ガム」がつくからといって、お菓子の「Gum」ではなく、Buckinghamの「-ham」とは「村」の意味がある地名となる。
噛んで含めて説明すれば、こういうことだ。

たまたま発音がおなじだから、日本語の「ばっきん」とかさなる。
ばい菌ではなくて「罰金」である。
ばい菌もつきまとうが、罰金もつきまとうという共通点がある。

日本人からほとんど退化した、英米型「自由主義」思想の立場からすれば、「税金」とは「罰金」であるとストレートにイメージするのが当然だとされている。

日本人のおおくは、税金を、払いたくはないが仕方がない、とおもってはいるが、まさか政府からの「罰金」とはおもっていない。
これが、「本家本元」のひとたちからすると、信じがたい「退化」にみえる。

では、念のため、罰金として税金を書き出してみよう。

・稼いだら罰金;所得税、法人税、地方税
・事業をしたら罰金;事業税
・事業所を持ったら罰金;事業所税
・持ち家に住んだら罰金;固定資産税
・買い物したら罰金;消費税
・タバコを吸ったら罰金;たばこ税
・酒を飲んだら罰金;酒税
・車を買ったら罰金;自動車税
・ガソリン燃やしたら罰金;ガソリン税、軽油税
・紙に金額書いたら罰金;印紙税
・金品を他人にあげたら罰金;贈与税
・死んだら罰金;相続税

ちなみに、一度課税されたのに再び課税するのを「二重課税」といって、近代国家では「しない」ことが決まりになっている。
わが国は近代国家ではないので、けっこう二重課税されているけど、従順な国民は文句をいって政治家に撤廃させるようなこともしない。

・「酒税」や「ガソリン税」などに対する「消費税」がやばい。
・所得税を払った後に購入したモノや、貯めたおカネに、贈与税や相続税がかかるのもやばい。

コロナ禍という社会情勢から、「リーマン級が来たら(見直す)」といっていた消費税の減税問題がくすぶりだした。

けれども、例によって「税率」ばかりが議論されている。

10%を8%にもどすとか、ならば軽減税率制度はどうするのとか、いや5%だとか0%、最後に「廃止」とか。

これは、政治家だから、政治の議論をしているので、消費税の議論をしているとはおもえない。
なぜなら、消費税には上述の二重課税問題もあるし、もうひとつ重要な、「課税標準額」があるからだ。

最初の3%だったとき、税率はそのままに、「大増税」されたことがある。
それは、「益税」ともいわれた、小さな商売をしている商店の課税標準額を、大幅に「さげた」ことで実施したのだ。

「売上」金額がすくないなら、一定の金額までなら「納税を免除する」、この金額を下げたことで、納税事業者が大幅にふえた。
つまり、消費税法に触らずに、大増税を実現した政府があった。
この施策で、全国の零細個人商店が廃業したのである。

すなわち、老夫婦がちんまりと小売店をやっていてはいけないから、罰金をとるという意味になった。
交通が不便な集落にとって、生活ができなくなるという意味での社会問題を、政府がつくる。

商店主の自由と、その地域住民の自由を奪う。

こうして、なんとか自立をはかっていたひとたちの生活を追いこんで、高齢者施設に収容することが手厚い「福祉」ということになった。

ねっちょりとして、ベタベタするガムでできた宮殿。
それが「日本政府」である。
国民には、罰金を課すことしかしない。
だから、「ばっきん」ガム宮殿、なのである。

これを維持するには、警察国家になるしかない。
あろうことか、「自粛警察」という「体制派」が出現した。
まことに、政府に都合がいい。

その政府は、諮問委員会という得たいのしれない組織に、経済の専門家というひとまでどうやってかしらないが加えることで、あらゆる問題に、このひとたちのいうことを聞くようになってしまった。

諮問委員会とは、どんな法的根拠があるのか?
いったい誰が、この政府の政策責任者なのかさえ、不明になった国だから、内閣も溶解したのである。

これが、「長期政権」の素顔だ。つまり、「虚無」。

政府がつかえるカネを減らすと、住みよい国になる。
だから、減税こそが国民の主権のしるしなのだ。

ただ、なんとなく動いているだけだから、だれにも止められない。
コントローラー不在のリモート国になってしまった。

なまけ方がちがう

日本人の本質は、「なまけ者」である。
こういうと、そんなことはない、世界で一番の働き者が日本人だというひとがたくさんいるだろう。

けれども、日本むかしばなしを思いだせば、たいがい「なまけ者」がでてくる。
これを戒めるはなしがたくさんある、ということは、やっぱり「なまけ者」がたくさんいたのである。

コンサルタントで唯一人、本物の神社の「神様」になったのは、小田原城内にある二宮神社の二宮尊徳(金次郎)である。

戦国の雄の一角をなした、小田原の北条家は早雲を初代にして、わずか五代で滅亡したが、関八州240万石の大大名だったことは確かである。

秀吉の小田原征伐のあと、江戸に本拠をおいた徳川家にとって、箱根をおさえる役割と旧北条の後始末もあって、大久保忠世(徳川16神将のひとりで、弟にはあの「大久保彦左衛門」がいる)が、小田原城主となった。

その後、転封国替えとなったが、ふたたび初代城主の忠世から老中職にある大久保家が下総佐倉藩から小田原城主となり明治までつづく。
老中をはじめとした幕府の重職を歴代が務めた家格のため、藩財政は窮乏し、そこに金次郎活躍の土台があった。

幕末から明治の「すごいひとたち」は、下級武士とはいえ、あんがい上司に認められて活躍の舞台を与えられるパターンがある。
二宮金次郎は、身分制があるなかでの「農民」であって、下級どころか武士ではない。

かれは、縁あって小田原藩家老の家事手伝いとして奉公にあがる。
藩財政が傾いているから、家老の家も経済的に傾いているのは当然だった。

あろうことか、金次郎は、この家の家計を再建してしまい、これが家老の目をひいて、なんと、この家老がみずから金次郎を殿様に紹介し、殿様が藩財政の再建を金次郎に依頼することにまでになったのだ。

いかに藩主からの依頼といっても、納得しないのは藩士たちだ。
もちろん、わたしたちは、この「コンサルタント案件」を見事に成し遂げたことをしっているが、「当時」の時代背景から、それがいかほどの困難を伴ったかは、並ではないことぐらいは理解できる。

それで、信頼を得た金次郎は、藩主の親戚筋まで紹介されて、千葉県佐倉市の陣屋における開墾の逸話が「なまけ」を見ぬく例になっている。
やる気のないひとは、たくさんいたのである。

この時代の主たる産業は、いうまでもなく「農業」だった。
幕末=明治初期のわが国は、農業従事者が人口の8割以上だった。
だから、金次郎が時代の「先端技術」を農業に投入して成功させ、これをもって彼を、「篤農家」というのは間違ってはいないが、不満が残る。

もし、いまの時代だったら、果たして金次郎はどうしたのか?

その合理的な発想から、IT企業の先駆者になっていたのではないか?と思うからだ。

おなじ結果を出すなら、楽な方法がよい。

このときの「楽な方法」とは、なまけ者の農民を見ぬき、叱りつけたこととはぜんぜんちがう「なまけ方」の追求であって、それは、「合理」からしかうまれないものだ。

たとえば、料理。
プロの料理人としての「腕」とはなにか?
大きなフライパンを振って、いちどに大量のチャーハンが作れることが特殊な技だとすれば、いまでもそのとおりである。

ところが、コンクリート・ミキサーのような形をした、チャーハン専用釜が開発されたら、できあがりがおなじようで、誰にでもつくれるものになったとすれば、さてどう評価すべきか?

これは、日本蕎麦の世界で一回あった。
大正期、機械製麺が普及する前、珍しさもあって、「手打ち」ではない「機械打ち」がハイカラで「うまい」とされたのである。
その後、「手打ち」が「うまい」の時代が続いているから、果たしてどっちなのか?

結局は、「粉」の品質ということで落ち着いている。

そんなわけで、世界の工場になった大国の報道で、「日本製スマホが世界から相手にされないワケ」という記事がでた。
かれらの分析は適確で、日本の技術はいまだに世界最先端なのに、「利用者の利便性追求」ではなくて、「作り手の都合を優先させた」からだという。

まったくそのとおりである。

利用者の不便を便利にさせるから、ほしくなる。
それが、自分たちの売りたいものを作るから、売れない。
金次郎とて、おなじことを指摘している。

「コロナウィルス」しか分析できない「検査」でふえた「感染者」のうち、何人が「新型」で、何人が「旧型」だったかの区別のはなしがないなか、「コロナ倒産」がいわれだした。

このうち何件が「あるべき倒産」で、何件が「本当のコロナ禍」だったのか?の区別がつかない。
倒産は気の毒なことながら、「区別できない」状態で騒いだら、なにがなんだかわからない。

二宮金次郎なら、きっちり区分して、その対策を練るにちがいない。
200年前の日本人ができたことが、できなくなっている。

科学だけでなく理性も負けた

「科学が社会に負けた」といわれたのは、「ダイオキシン」が発端だった。

この連日の「誤報」で、いまだに焚き火も焼き芋もできなくなった。
しかし、人間にとっての「無毒」は、太古からのことをおもえば、簡単なことだった。
それでも、ダイオキシンによる実験をやってみて、人間の「被害」で唯一認められたのは、「ニキビができる」ことだけだった。

それがわかって以来、テレビは一切報道しないから、いまの若者は「ダイオキシン」という言葉すらしらない。
つづいて「フクシマ」が起きた。

それまでの放射線被ばく規制が、1ミリシーベルト/年だったものが、20ミリシーベルト/年(長期的には1ミリシーベルト/年を最終的に目指す)になったことでいわれた。突如20倍に緩んだのだ。
かっこ内の目標がいつなのかは、わからない。

なにが問題なのか?といえば、事故があって変わった、ということだ。
それまで「厳守」とされてきたことが、あっさりと切り替わって、放射線の専門家たちが、こぞって「健康に問題ない」といったから、なんだったのだ?になったのである。

しかも、放射能漏れ事故が発生するたびに、地元には巨額の補償金が渡されていたので、マスコミも容赦なく報道していた。
「マッチポンプ」というかたちでの、グルだったのではないか?

今回の「はやりやまい」は、感染症という自然現象における「恐怖」を背景に、やっぱり従来から「厳守」されてきたものが、あっさり変更された。
それが、従来の「患者数」から「感染者数」への発表の変化で、しかも、従来の「週累計発表」から「毎日発表」ということも同時に変更された。

週累計にしていたのは、土日の扱いを平準化するためであった。
保健所にあつまる、地元診療所からのデータが、土日休みの影響を受けるからである。
なので、今回の報道でも、毎週末の数字は土日の影響をもろに受けた数字が発表されていた。

もちろん、インフルエンザのばあいは、新規の「患者数」が注意報で40万人/週、警報で100万人/週という「万人単位」が、今回は「人」単位にも変更されたが、患者数ではなく感染者数であるから、まったく比較できない。

生物には、免疫システムが用意されている。
「患者数」ではなく「感染者数」を報じることの問題は、あたかもこの報道に毎日接していると、「感染そのものがいけないこと」に感じてしまうことにある。

つまり、「無菌状態」が「理想」になってしまうのだ。
これでは、生物としての人間は、地球上の環境で生きていけない。
「免疫システム」の否定になってしまう。

したがって、ウィルスや細菌に感染することは、免疫力を高めるうえでは、重要な体験になる。
「免疫力」として、ギリギリの闘いをやって勝った経験(=抗体ができる)は、その後何十年も有効になるからである。

「ワクチン」だって、わざと感染させることで、体内に抗体をつくり、本物の病気にならないようにするためのものだ。
つまり、ワクチン接種とは、感染者になることをいう。
感染者数で一喜一憂することの「愚」とは、このことだ。

わたしの幼稚園時代、「はしか」や「水疱瘡」で臨時休園になったことがあったし、その後、小学校低学年のときも同様のことがあった。
それで、わたしは、「はしか」と「おたふく風邪」を発症しないでいまに至っている。

友達からうつされるまえに、幼稚園や学校が休みになってしまったのだ。

あとになって、発症しなかった子どもの母親たちは、子どもの将来にえらく不安になって、休園や休校を怨んだものだ。
逆に、ちゃんと発症した子どもの親は、よくぞ感染してきたと、喜んでいた。

おとなになって、「はしか」と「おたふく風邪」の流行があると、外出したくないばかりか、子どもに近づくのもこわかったのは、今回の流行病どころではない。

驚くことに、わが国の国民は、科学リテラシーが退化して、感染そのものを忌み嫌うようになってしまった。
とんだ「間抜け」である。
原因は、情報リテラシーの欠如、すなわち、「情報弱者(情弱)」にあるのだろう。

たとえスマホを所持していても、玉石混淆の検索結果から、適確な情報を得ることができないために、結果、地上波のテレビしか情報源がない。
しかも、よく観ていて習慣化までしているのが、「ワイドショー」になっている。

今回の流行病は、フクシマの再来のごとく、全放送局が「役に立たない」ばかりか、根拠のない報道という「毒」を流しつづけた。
これで、視聴者の頭脳が冒されるという二次被害が発生している。

それで、他県ナンバーの自家用車をみつけると、嫌がらせのためのあおり運転をすることが「正義」になってしまうという「倒錯」が発生している。
「自粛」のときに、他県にやってくるとは「けしからん」から、あおって「出て行け」とメッセージを送るのが「正しい行為」となったのだ。

通常なら「嫌がらせ」にすぎないものが、「正義」となる。

それで、一部の自治体が連携し、「広域ステッカー」をつくって、これを県境をまたぐ対象地域の全戸に配布するという。
「圏域証」といって、「生活圏を共有しています」と書いてある。

こうすれば、他県ナンバーの自動車でも「あおられる心配はない」ということなのだろう。
つまり、このステッカーをつけていない自動車は「あおっていい」という意味なのだ。

近代は、「理性」によってつくられてきたが、その「理性」が、「社会」に負けた、わかりやすい事例である。
さてもわが国は、近代を捨てて、中世の混沌に逆流をはじめてしまった。

5月8日、「PCR検査」の相談規制を緩め、検査対象者を増やすのは、感染者を増やすという「意図」しかない。
これで、自粛延長の根拠としたいのがよくわかる。
さほどに、自粛延長の根拠が「ない」のである。

「患者数」をいわない政府の専門家とはなにか?
「退院者数」をいわせる政治家も何者か?

日本政府にも、とっくに「理性」はうしなわれている。

マスクで殺人事件

わが国では「ありえない」事件ではある。

アメリカで、ショッピングセンターにやってきた女性客が、マスク着用を「していなかった」ため、警備員が入口で注意したところ、引き返した客の亭主がこの警備員に、「よくも俺の女房に恥をかかせたな」といって、その友人がピストルで警備員を射殺してしまったのだ。

この一部始終を、防犯カメラがとらえていた。
まことに、おそろしい事件だ。

たかが「マスク」が、こんなことになったのは、他人から強要されることへの拒否反応である。
もちろん、重罪をおかした犯人たちを擁護するつもりは毛頭ないが、「動悸」はこれだろうとおもう。

事件は、ミシガン州で発生した。
ミシガン州はどういう州かといえば、中西部の五大湖地域なので、自動車の街としてしられ、近年では「破産した」ことでも有名になった「デトロイト市」がある。

また、ラストベルト(Rust Belt)といわれる地域で、Rustとは「錆」のこと、すなわち「錆びついた古い工業地帯」という意味である。ニューヨークにまでつづく帯状の工業地帯をいうが、大統領選挙における重要地域となっているのは、人口のおおさにも起因する。

今年は、その大統領選挙の年だ。

アメリカ合衆国は、「青い州」と「赤い州」がある。
「青」は民主党、「赤」は共和党を象徴している。
共産主義の「赤」ではなく、その真逆であるのがアメリカらしい。

アメリカ全土でみると、アメリカ人は民主党支持者が多数を占める国だ。
しかし、大統領選挙は、選挙人を選ぶ方式ながら、得票数ではなく選挙人の「総取り」がルールなので、支持者数がすくない共和党からでも大統領が誕生するのである。

民主党は、日本でいう「リベラル派」のことを指すが、あちらで「リベラル」とは、「リバタリアン(自由主義者)=共和党支持」のことになるから表現として真逆になる。
つまり、わが国で「左派=リベラル」という表現が、まったく矛盾した用語として通用するので、なんだか変なことになるのである。

民主党員ではないのに、民主党の大統領候補をえらぶ今回の「予備選挙」も前回同様に最後までがんばった、サンダース上院議員は、アメリカでは「極左」と呼ばれるように、いろんな「無償」を政策として繰り出している。

高齢なるサンダース氏の最大支持層が、大学生を中心にした若者であるのは、大学授業料の「無償化」が大受けしているからである。
日本の大学授業料は、文部科学省の助成金のおかげで、「無償化」まではいっていないが、すでにアメリカと比較すれば、比較にならないほどの「安価」にて提供されている。

しかも、日本には私立高校の授業料を「無償化」するという政策まであるから、アメリカ人にとってわが国は、とっくに「極左」が支配する国になっている。
もちろん、「オバマ・ケア」という、ゆるゆるの国民皆保険制度だって、トランプ政権発足後すぐに破棄されたから、アメリカには日本的「社会保障」が存在しない。

そんなわけで、わが国に尺度をおけば、アメリカの左派=民主党のなかからもはみ出す「極左」のサンダース氏より、もっと左がわが国「与党」という位置にあることを、すくなくても日本人はしっておくべきである。

40年前のかつて、イギリス保守党のサッチャー・共和党のレーガン両巨頭コンビに、中曽根康弘氏が「仲間」としてからんだけれど、なんだか「違和感」があったのは、日本で「タカ派」といわれた中曽根氏すら「左派」にみえたからである。つまり、「ニセモノ」だ。

いま、共和党トランプ氏と安倍氏をみても、なんだかかみ合わないのは、やっぱり日本で「保守=右派」とみられる安倍氏が、ぜんぜん「保守」ではなくて、アメリカ的には「極左」に位置することの違和感であろう。

さて事件がおきた、ミシガン州は、現在の州知事が「民主党」なのである。
近年は、ずっと「共和党」の知事だったが、民主党が奪還したばかりだ。

アメリカ合衆国を表記する漢字は、「州」なのか「衆」なのか?
建国の理念からすれば「衆」だけど、統治の実際からすれば「州」であって、「合州国」の方がしっくりくるのは、「連邦制」であるからだ。

すなわち、「州」とはいえども「国扱い」だから、州ごとに憲法もあるし「州兵」という軍も保持している。よって、「州」によって税制もちがう。
だから、州知事というのは、わが国の都道府県知事が到底及ばない、大統領的な権限を有していることもしっていないといけない。

いま、民主党知事の州はどこも、強制をともなう「自宅待機」を打ち出しているので、ミシガン州だってもれなくその政策が実行された、という社会的条件がある。
そして、その「期間延長」が議論された4月30日には、「反対」の住民たちが議会にライフルを持ちこんで「抗議」しても、知事は「知事令」に署名したのだ。

ちなみに、議事堂にライフルを持ちこめるのは、合衆国憲法修正条項に、銃保持の権利が保障されているからである。
とはいえ、むやみに発砲してよいことにはならない。

そんな中での、「事件発生」なのである。
だから、単純な殺人事件ではなく、みようによってはおそろしく政治的なのである。

なお、イリノイ州やウィスコンシン州では外出規制に反対する共和党議員が規制の緩和・撤廃を求めて相次ぎ提訴しているから、ミシガン州でも提訴があるかもしれない。

殺人は、まったく許される行為ではないが、アメリカの議員たちは「働いている」のである。

営業妨害がだいすきです

終わりよければすべてよし。

とはぜんぜんならない。
終わってみれば、ただの空騒ぎだった、のだ。
しかし、みんなで浮かれて踊ったのではなくて、家にこもって「自粛」したいた、というおそまつだった。

今回の「流行病(はやりやまい)」は、つまるところ、「ふつうの風邪」だった。
わが国における「患者数」の割合は、1万人にひとりで、重症者は40万人にひとりだった。
重症にならなかった、ほとんどの患者のひとたちは、「よくある風邪の症状」で回復したのだ。

それで、なんの罪もない店舗の経営が行き詰まったのだから、まったく「やるせない」ことになっている。
山梨の女性の件だって、ヨーロッパ中世の「魔女狩り」そのもので、常軌を逸しているのは騒いでる側の方である。
『ペスト』は確かに恐るべき感染症だが、今回のはふつうの「風邪」だったからだ。

ところが、振り上げた拳を下ろすことができなくなった「政府」と、「政治家」は、謝るタイミングも失したから、さらに余計なことをやらせて、責任回避を図っている。

たとえば、スーパーマーケットを経済再生担当大臣が視察して、混雑を「密」だといって脅し、入店制限なりのさらなる嫌がらせを推進させる。
このひとは、今回の「感染メカニズム」を、いまだに理解できないのではなくて、あやまった理解を「強引にでも継続する」しかもう責任回避の方法がないのである。

ならば、さっさと辞任すべきだ。

しかし、おとぼけがたくさんいて、大阪府知事が自粛延長について政府依存の発言をしたら、頭脳がクリアなこの大臣は、「仕組みがわかっていないのではないか?」とのたまった。

首相の「緊急事態宣言」は、都道府県知事に権限を委譲するものだから、大臣の意見がただしい。
それで、府知事が「謝罪」することになるというハプニングまで起きた。

つまり、複雑な「法の趣旨」が理解できる大臣が、どうしたら「感染するのか?」を知らんぷりしているのである。

空気感染しないから、「密」なんて関係ないし、自分が咳をしていないならマスクの着用も必要ない。
レジの「膜」も意味不明だし、並ばせ方も「待ち行列理論」に合致しない。

重要なのは、買い物客には商品に触ったらそのままカゴに入れ、棚に戻さないことを「買い物マナー」にすべきだし、店外に消毒液を置いて使用を促すことが対処法として推奨すべきなのだ。
視察した大臣が、こうしたアドバイスをするのではなく、利用客という国民にこれまで以上の不便を強いるとは、お門違いもはなはだしい。

スーパーマーケット業界は、こぞって「抗議文」を突きつけるべきであるし、もっと強い「警告文」でもいいのではないか?
大臣のこれ以上の非合理的介入は、営業妨害に相当する、と。
そして、この警告を無視するなら、訴訟もありうるとすればなおよい。

送付先は、大臣本人と所属政党がのぞましい。

さてそれで、権限が委譲された知事たちの対応が乱れた。
温泉旅館などの自粛要請を解いても、特定の業界の自粛要請は解かない、という理不尽もおこなわれている。
その理由の、合理的説明がないのは、やはり「営業妨害」である。

これは、解かれた側にも営業妨害にあたるのは、どうしてこの業界だけが解かれたのか?についての合理的説明がないからで、利用客からすれば、自粛が解除になろうが「不信感」だけがつのるからである。

すると、わが国では、国も地方も行政が、「営業妨害」をすることが「トレンド」になっているのである。

もはや「自粛」ではなく「自虐」なのだ。

発生源の国がつく「うそ」は、自分たちに都合がよいようにするため、という原則から決してはずれない。
しかし、わが国は、自分たちを痛めつけるために「うそ」をつくのである。

そうすれば、痛いめにあったひとたちが、政府に尻尾を振って近づくからである。
もちろん、「犬」相手でもこうした方法でなつかせる手法はあるが、推奨されないのは「心の絆形成」ではないからである。

しかし、政府にとって、心の絆ではないことは、かえって都合がよい。
これを「絆し(ほだし)」というのだ。

「絆」という「字」には、「きずな」と「ほだし」の二面をあつかう意味がある。
「家族の絆」はなんだか温かいが、「DV一家から逃げられないのを絆し」ともいう。首輪でつながれた状態をいう。

政府と対峙してきた財界は、とっくに「絆されて」しまって、だれも政府にたてつかない。
しかし、今回の政府による「対策」は、あきらかに「失政」だし「圧政」のはじまりである。

伝統的な経済官庁も、営業妨害がだいすきなのだ。

そういう意味で、自粛がまだらに「崩壊」しているのは、結構なことである。
けれども、民間企業がこぞって政府に対峙しないと、やられてしまう恐怖が教訓となった。

なんと、わが国の経済活動で、最大の敵は、ライバル企業でもなんでもなく、「甘いことしかいわない」政府なのであった。

これがわかったことが、自粛をやった唯一の効果なのである。

車内から「限界集落」観光をした

あんまりのことを「理不尽」という。
その「理不尽」が政策となって、企業や個人を苦しめるなら、これを「悪政」という。
「自粛」を「強制」すれば、「圧政」だ。

だいたい、日本語に自粛を強制する、という概念はない。
自粛強制とは、ただの「強制」のことであるから、「自粛」をつけてあたかも四字熟語のようにいってはいけない。

初めての、「緊急事態宣言」がなぜ「発令」されたのか?
「世の中の雰囲気」ではなくて、感染症予防というちゃんとした根拠の説明を受けた「記憶がない」のは、わたしの記憶力がおかしいのか?あるいは、やっぱり説明していないのか?

政府からの「ちゃんとした説明」は「なかった」のだ。
それで、こんどは首相が延長の意向、という報道があったとおもったら、諮問委員会(全員一致)で、決まったという。
この順番はさておいても、どうして(全員一致で)決めたのか?の「根拠」は、やっぱり示されなかった。

さては、最初から「根拠なんかない」のではないか?

あるとすれば、4月30日に「政府案どおり」成立した補正予算執行の「ため」ということ「しか」おもいつかない。
それは、前に書いたとおり、6月末に「アビガン」の治験がおわれば、治療法がないことがなくなって、どうせ「収束」するので、こんどは「収束宣言」をもって補正予算を大々的に使いたいからである。

今日からの「延長」にあたって、首相は、アビガンの治験を今月末、すなわち一ヶ月短縮するとも発表したのは、「緊急事態」ではなくて、上記の理由で「収束宣言」をしたいがゆえの「方便」だろう。

注意したいのは、「アビガン」が特効薬かそうでないか?は「収束宣言」に関係ない。「新型コロナウイルス用薬」として「認可」した事実があればよいのである。
「アビガン」が効かないひとがいたり、副作用が心配されるひとに投与できなくても、「認可薬がある」という状態があればいいだけのはなしであるからだ。

つまり、「行政」としての「穴」が「埋まる」ことが、「収束」なのであって、ウィルスを撲滅するなんてことはかんがえてもいない。
あとは、カネをばらまいて、対策をやったことにすればよく、それがあらたな省益をうめばさらによい。

まさに、受験エリートの発想そのまま「一直線」なのだ。

国民には、自民党がやっぱりダメだと映るけど、国の意思決定システムごとそっくり官僚に奪われたから、どうにもならないのである。

しかし、一方で、別の「どうにもならない」がある。
わが国最大の人口を誇る「市」である、横浜市に「限界集落」があるのだ。

ひとと濃厚接触してはいけない、という「いいつけ」を守って、自家用車でドライブしながら、降車することなく、まるで「サファリ・パーク」のように、現場を観光することにした。
目指すは「栄区」にある「上郷ネオ・ポリス」という地域である。

以前書いた、山梨県上野原市の「コモアしおつ」よりも、はやくに開発されていて、こちらは、大和ハウスさんがつくった「街」である。
ちなみに、コモアしおつは積水ハウスさんの開発である。

限界集落とは、住民の高齢者(65歳以上)数が全体の半数を超えた地域をさす。
ちなみに、中央のお役人さまは「基礎的条件の厳しい集落」とか、「維持が困難な集落」という表現をつかっていて「限界集落」とはいわないし、「言霊」を気にするから、自治体でも「別の用語」にする動きがある。

「コモアしおつ」は、都心からえらく離れているけれど、JR中央線の駅と直接つなぐ「ブリッジ」を装備している街だ。JRは、通勤時間に、東京まで乗り換えを要しない直通列車を運行している。
たいして「上郷ネオ・ポリス」は、JR京浜東北線の最寄り駅から徒歩1時間ほどの「距離」に位置する、いわば「陸の孤島」にある。

住民たちは地域活動をつうじて、開発者や市役所(じっさいは区役所か)も加えた「協議会」をつくって、再開発もふくめた取り組みをおこなっている。

地域活動の主体は、自治会だ。
コモアしおつは「ブリッジ」維持管理の必要から「強制入会制度(入会金は100万円)」としている一方、こちらは入会率99%を誇る結束力だという。

「島内」の中心には、どちらも当然だが「スーパーマーケット」があって、こちらは「イトーヨーカ堂」があり、さらに「横浜銀行」の「支店」まである。まさに、住民の生命線になっている。
これに、地域プラザを兼ねたコンビニは、バスの発着所にもなっているが、駐車場がない「不便」がある。

行政がからむとこうなる、という典型か?
「徒歩圏外」を切り捨てる感覚が、アビガン同様に「あるだけ幸せに思え」を物語っている。

走ってみてわかるが、住宅地域全体の面積は広大で、元が山だから起伏もある。
街が徒歩圏になっている「コモアしおつ」とは、比較できないほど規模がちがう。
しかし、廃墟もなく、あんがい若いひとたちも歩いているのは、行政の「努力」以外の「努力」の結果だろう。

結局は、バスしかない「公共交通」の問題なのだ。

横浜市は、桜木町駅前発着の「ロープウェイ建設」を開始している。
カジノ誘致のための投資だという。市民のためではなく、市収入のためという本音がむなしい。
住民税収入が、ふるさと納税でたっぷり逃げ出してしまったのは、市民が市に期待しなくなったからでもある。

こういう地域にこそ、新交通システムなりを導入するのが「筋」というものだ。便利になって固定資産税がふえるのは仕方がない。
一時間に一本の、京急金沢八景駅とを結ぶバス路線があるが、金沢八景駅は「新交通システム」の終点なのだ。

都市の限界集落も、つくられたものなのだと実感できる「観光」であった。

なお、2020年の本年から、横浜市の人口も「減少がはじまる」と、予測されている。

人間が「犬」になった

人間とのつき合いが長い、「犬」という動物には、「豊かな感情」があるゆえに、人間と共存してきた。
犬が飼い主の感情を読み解く力は、ある意味人間の想像以上であって、人間の生体エネルギーまでもキャッチすることができるからだと「専門家」は断言している。

これはどういうことか?といえば、飼い主である人間が落ち着いてリラックスしていれば、犬もリラックスするし、人間が不安を感じれば、犬も不安になって挙動が変化することをさすのだ。

群れをつくる習性がある犬は、群れの順位を絶えず確認する行動をする。
家庭の愛玩犬(ペット)でも、家庭内の人間集団における序列と、犬自身の序列を、犬が確認行動をとってかってに決めている。

だから、なさけない人間集団なら、犬がかってに自分が「ボス」だと思い込んだり、ちゃんとしている一家なら、犬がかってに自分が「ビリ」だと思い込む。

このときの「なさけない」とか「ちゃんとしている」のを決めるのは、犬の価値観でのことだから、人間がこれを応用して「しつけ」をすることが「コツ」になるのである。

犬の脳は、思考を司る前頭葉が発達していない。
したがって、犬は「思考できない」のだが、感情は人間以上にゆたかなので、感情によって行動するというのが習性である。
これに、条件反射ができるので、これら「習性」を応用して犬をあつかうと、人間を幸せにしてくれる動物になるのである。

前頭葉が発達していないことから、犬は当然だが言語をもたないし、文字もしらない。
記憶力も、感情という習性からのものになるので、「うれしかったこと」、「嫌だったこと」は覚えるが、人間的なストーリーをもった「記憶」ではないから、トラウマのごとく断片的なのだ。

それで、行動については数分前までのことしか記憶できない。
このことをもって、犬のことを「いまを生きる動物」というのである。

あたかも、このことは重要な示唆をあたえてくれる。
感染症と人類がよぶ病気は、億年単位でつちかわれた病原菌やウィルスによるものだから、われわれ人類よりもはやくから存在するものだ。

そもそも、生物の細胞の中にあって、きわめて重要な役割をはたしている「ミトコンドリア」も、バクテリア起源といわれている。
つまり、細胞の中に「後から」進入したバクテリアが、そのまま細胞内で「共存」しているのである。

もちろん、わたしたちをつくっている細胞に、「ミトコンドリア」は不可欠で、「体重の10%」はミトコンドリアの重量である。
人間もそのほかの生物も、細胞に「ミトコンドリア」があるから、他者と共存して自分ができているとかんがえると、まったく不思議なことである。

いまさら、「コロナウィルス」とのつき合いは「長くなる」なんて、高校生が授業でならうレベルであって、何をか言わんやなのだ。

2000年代だけでも、「コロナウィルス禍」は三度もあった。
SARSは、2002年。
MERSは、2015年。
そして今回(「COVID-19」という)。

「新型」で「治療法がない」のは、みなおなじだった。
SARSもMERSも、新型コロナウィルスだったといわない「怪」がある。

SARSのときは、わが国では、東南アジアからおおくのひとが「疎開」にやってきた。
宿泊客として受け入れる側は、緊張しながら対応した記憶があって、専門家から対応策を聞き取って、社内の対策とした。

さいわい、なにも起きなくて済んだし、いまのような国家の「緊急事態」になんてなっていない。
しかも、SARSの致死率は9%で、いま(5%:5月2日厚生労働省発表の死者数/患者数で計算)よりもほぼ倍も高かった。

ちなみにMERSの致死率は36%もあったが、WHOの発表では、感染者数は世界累計で1357人このうち少なくとも486人が死亡という「少なさ」で、国内では感染者すら「ゼロ」だった。

すなわち、いま、いったいなにを慌ててやっているのか?となる。

まさに、犬のごとく、記憶力を失っているのである。
さらに、SARSを教訓とした、対策の準備がまったくなく、まさに場あたりと、欧米等の外国に無条件で「横並び」して安心するのは、どういう精神構造なのか?

「STAY HOME」とは、「都知事英語」を政府も採用しているが、「犬への命令」とおなじではないか?
「HOME」を「HOUSE」に換えれば、「まま」である。
せめて、「Let’s 」をつけたらどうかと、だれもいわなかったのは、知事に忖度したからだろう。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」をそのままに、やりっぱなし、反省も総括もなしで、ただただ、その時々に「対処するのみ」では、いまどきの企業経営すらままならぬことは、中小零細の経営者ほどしっている。

わが国の為政者の、マネジメント能力は、この程度。
いや、犬にも失礼ながら「犬になった」人間が、選挙で選ばれていて、自分が「ボス」だと主張するのは、もはや「マウント行為」そのものなのである。

犬になった人間たちから、犬のように命令されている国民は、なにものなのか?

飲食業界や宿泊業界が、業界を挙げて損害賠償請求を政府にしないで、ひたすら「餌」を待っている姿も、「無惨」なのである。

酒屋アルコールの「酒税免除」

めずらしく、結構なニュースがあった。

消毒用エタノールが不足して、各地の地酒メーカーが社会のために高濃度アルコールの生産をはじめたが、「酒税」がかかるため高額になっている。
それで、なんとかならないのか?というメーカーからの要請に、国税庁が1日、「特別に期間限定で免除」を決めた、という内容である。

先月書いた「酒税」の問題が、クリアされたわけだ。

しかし、壁はもうひとつあって、それが「消防法」なのである。
高濃度アルコールは、「危険物」に該当するから、そもそもの生産量が消防法で規制されるということだ。
なので、生産能力があっても一定以上はつくれない。

さらに、「転売屋対策」が必要なのではないか?という議論があるのは、高額転売されて、ほんらい必要とすべき医療機関をはじめとした需要先に届かないことを懸念してのはなしになっている。
それで、転売を罰則付きで禁止してほしい、という製造元からの要望がある。

「法」にかかわる問題を整理すると、
既存法として、
・酒税法
・消防法
新法として、
・罰則付き転売禁止法
ということだ。

あえて「そもそも論」をいえば、5月1日以降の出荷分について、「不可飲処置」が承認されれば酒税課税がなくなるという、
(1) ルールをつくって、
(2) 決めたのが、
「国税庁」だというのは、「税」の原則からしたら「大」がつくほどの問題がある。

国民から徴収するのが「税」であるから、民主主義国家なら、ほんらいは「国会」で決めないといけない。
「徴税」こそが、国家権力の権力行使そのものであるからだ。
よって、「立法府」における最重要な決めごとが「税」にまつわる「法」を決めることなのだ。

「国税庁」とは、そのHPでも明記しているように、
使命:納税者の自発的な納税義務の履行を適正かつ円滑に実現する。
任務:財務省設置法第19条に定められた任務を、透明性と効率性に配意しつつ、遂行する。
とある。

その財務省設置法第19条は、
(任務)
第十九条 国税庁は、内国税の適正かつ公平な賦課及び徴収の実現、酒類業の健全な発達及び税理士業務の適正な運営の確保を図ることを任務とする。

である。
さらっと書いてあるが、じっくり読めばたいへんな「任務」となっていて、「使命」から逸脱した権限をもっている。
「徴収」だけでなく、「賦課」(税をかけること)もし、「税理士」を「岡っ引き」にする。

このたびの、酒類製造業者である「酒類業」がはじめた、「飲用としない」消毒用アルコールの製造は、「法」で想定していなかったことなのだ。造り酒屋が酒ではないものを作ったときにどうするか?になるからだ。
となれば、「法」をどうするのか?を緊急に定めないといけない。

これをしないで、国税庁が「なんとかした」ということは、結果が良くても手続きに問題がある。
いまさら面倒だが、民主主義とは「手続き」が重要なのだ。
ようは、越権行為ではないのか?

もうひとつの、消防法は、放置されたまま、という点で、越権はしていないが、国民の利益を高める、という点において役に立っていないということだ。
そういえば、ガソリンスタンドが「セルフ」になるとき、「かならず火災が起きる」といっていたひとたちはどなただったか?

政府は、経済停滞を招く方策を熱心に推進しているが、国民生活や医療現場の「緊急事態」について、じつに無頓着である。
しかし、このばあい、政府ばかりを責められないのは、政治、とくに立法府の無能が犯罪的レベルであるということだ。

すると、衆議院の議員数で圧倒的(絶対)多数をもっている、与党の無能とイコールの関係になるのは必然で、統治能力がないばかりか、存在意義すら疑問である。
与野党ともに、議員が衆参両院に「ある」法制局を使いこなせないのは、「政党内に独自の」シンクタンクがないからである。

つまり、役に立たない議員が、たまたま与党の看板のしたに集まっているだけの状態で、そこにはなんら共通の目的や目標さえも存在しない。
これは、「組織ではない」ということであって、ふつう「集団」というのだ。

とうとうわが国に、「近代政党が存在しない」ことの大問題が、コロナ禍という非常時に顕在化したのである。
国民は、いま待機中の自宅で、このことの重大性を認識しつつある。

にもかかわらず、当事者たちである与党の国会議員に、いったいどんな危機感があるのだろう?
おそらく、自分たちの存在意義が問われているなぞという危機感など微塵もないだろう。

これこそが、当事者能力のなさを証明している。

いま、国民に「自粛」を強要している政治家は、かならず国民からの「粛正」の対象になる。
お気軽でいられるのは、落選しないという根拠不明の安心感からだろう。

しかし、「安心」のために「自粛」を容認した国民も、ネット情報をつうじて、「ウィルスの事情」がだんだん理解できてきた。
教育水準が高いわが国の国民は、国会議員と遜色ない知的能力を持っているからだ。

「安心」が「裏切られた」と気がつきだしている。
すくなくても、全国一律の必要性や、全世代一律だっていかがなものか?しかも、補助金額だけが対策でいいのか?と。

それに、「諮問委員会」の「専門家」に、どうして弁護士がはいっているのか?だれが、いつ、どうやって選んだのか?
感染症や医学、科学の専門家会議ではないだけでなく、ここにきて、あろうことか「経済の専門家」まで加えろという「専門家」とは、いったいどんな集団なのか?

得体の知れないこれらのひとが「諮問委員会」として、首相の命にしたがうのか首相をしたがえているのかさえもわからないのに、よくも「与党」は平然としていられるものだ。
組織ではなく単なる集団だからとしか説明できない。

この後始末は、経済混乱というレベルでは済まない。

だから、ますます新法として、罰則付き転売禁止法なんて、やってはいけないものを、中央も地方の政治家も「やりたがる」のは、なんだか「目立たないといけない」という感覚からでしかないだろう。
これを、私利私欲というのである。

転売を阻止したい、まじめな酒造メーカーさんの気持はわかるが、これは「経済警察」を発足させる「猛毒」になる。
自由経済下では、「規制」ではない「市場メカニズム」における「退場」を促すことが肝要なのだ。

まずは、クールダウン。

ビジネス・モデルを変えられるか?

残念ながら、会社をだれも助けてはくれない。

これが、受け入れざるをえない事実である。
もはや、政府や自治体に依存したところで、なにもしてはくれないことが明らかになってきている。
あるとすれば、「倒産」の報道に「弔辞」を述べるコメントをだすくらいでしかない。

創業時の原点にもどったのである。

すでに資金繰りがひっ迫しているかもしれない。
倒産を防ぐには、資金調達に奔走するしかないから、このばあいは「余計なこと」に聞こえるかもしれない。

しかし、めったにない社会からの「突き放し」が起きたのだから、「収束後」の社会ニーズについて、深いところからかんがえることが、もっとも重要なのである。
つまり、これからどんな社会になるのか?ということの「予測」をしないといけないのである。

もちろん、「予測」だから、当たるともはずれるとも、だれにもわからない。
このことも、「原点のうち」なのだ。
そして、「最悪」を想定することも必要なので、いくつかのシナリオを「予測」しないといけない。

すると、「最善」とはなにか?
それは、ウィルス禍がはじまる「前の状態」に戻ることだ。
もっといえば、ウィルス禍がはじまる前の状態よりもよくなる、ということではない。これは、「最善」ではなくて、「希望」にすぎない。

なぜなら、経済活動全体が二ヶ月(一年の6分の1にあたる)も停止するという、前代未聞が発生したのだから、前の状態に戻ることすら、かなり困難だと予測できるからである。
ビデオゲームなら、保存した場面からの再スタートは可能だが、リアル社会はそうはいかない。

1980年の大ベストセラーだった、ミルトン・フリードマン夫妻の『選択の自由』には、『えんぴつの話』が長文引用されている。
だれでも手にしたことがある、「えんぴつ」が、どうやってつくられているかを知るものはだれもいない、という、「虚」をつくはなしだ。

読めばそれが「虚」ではなく、「実」であることに気づく。
21世のIT社会になっても、だれにもえんぴつがどうやってつくられているかを知るものはいないことに変わりはない。

これは、オーストリア(ウィーン)学派を代表する、ミーゼスの主張をわかりやすくしたもので、正確にいえばフリードマンは「新自由主義」ではけっしてなく、むしろ「自由放任主義」に重心がある。

日本には、「新自由主義」の本筋がどういうものかをしらずに批判しているひとがおおすぎるので、ほんとうは1000ページの大著だが、ミーゼス渾身の『ヒューマンアクション』を読むとよい。

かいつまんでいえば、「経済の複雑にからみあった実態」はだれにもわからないということなのだ。
だから、政府という、経済活動の外部に存在するものが、経済活動に「介入」しても、うまくいくためしがないのである。

政府が経済政策として介入して、あたかも成功したようにみえるのは、「そうみえる」だけなのである。
なぜなら、政府が介入しなくてもうまく行っているなら、政府の介入が足を引っぱるものでも、見かけ上うまく行くことがあるからである。

政府の積極的な財政支出による介入を主張する、ケインズ理論とて、ケインズ自身が、「不況のときだけに限定する」というのに、政府はいつ何時でも介入することで、経済を「歪める役割」しかしなくなったのは、政府の都合にある「継続性」がそうさせるからである。

このことを誤解して、官僚の「無謬性(ぜったいに間違えない)」まで「昇華」してしまったのが、わが国の「経済官僚」依存である。
終戦後の「傾斜生産方式」がさんざん褒められてきたが、昨今の研究では、「かえって成長の足を引っぱった」ともいわれだしている。

そんなわけで、わが国だけでなく、世界中で発生した厄災であるから、世界史的視点でこの厄災の後始末をかんがえないとまちがえることになるのは必定だ。

そして、それが「えんぴつの話」のように、どう自社に関連するのかがわからないけど、かんがんえなければならないのは「経営者」だからである。
ふだんできない、自社とはなにか?まで追求するときがきたということだ。

それが、創業時の原点にもどったという意味なのだ。

すると、本来、企業と雇用契約を結んでいる労働者の立場からすれば、経営者と同様に「自分の労働力」のことをかんがえないとまちがえることになる。
このときの「まいちがえ」とは、年収どころか人生にもなる。

欧米の厳しいシステムは、「失業」という事態がやってきて、嫌がおうにも労働者がじぶんで「なんとかせねば」をかんがえないと生きていけない。
それが、とうとう、わが国にも及ぶという事態になったのである。

そして、このことこそが「グローバル化」の本質なのだ。

これから、鬱を発症するおとなたちが増加することも予測できるのは、過去の危機であったことだからで、その反省もないままに問題を放置してきた。

中学生なら、噛んで含めれば理解できるかもしれない。
社会に出るまでの、残りの準備期間(10年もない)に、なにを習得しておくかを、おとなが反省をこめて教えるときでもある。