してやられていないか?

過去の歴史は、「歴史的転換点」を「生きているひとたち」が、それに「気づかない」ものだ、ということをおしえてくれる。
毎日の生活が重要で、じぶんや家族の毎日の習慣がかわらなければ、世の中の大変化にその同時期に気づくのは「稀」だということだ。

だから、歴史上の大事件を、そのときに生きていたひとのおおくは、しっていても、当事者でなければ、じぶんには関係ないとおもうのがふつうで、ジワジワと変化はあとからやってくる。

石油ショックのとき、トイレットペーパーが奪い合いになる光景のニュースを、わが家では一家そろって茶の間で「笑って」観ていたが、それからほんとうに商店からなくなってビックリした。
家に在庫はあったが、母から買いにいけと命じられ「売り切れ」だったから覚えている。ただし、在庫分でしのげたのでじっさいはこまらなかった。

はるかにとおい中東での戦争が、こんなことになるものか?
銀座のネオンが節電で消えたのも、ふだんから点けておく必要があまりないから関係ないとおもったのは、子どもだったからである。

リーマン・ショックで、勤めていた世界最大規模の銀行が、日本から撤退し、失業したのは、じぶんのことになった。
なるほど、じぶんは世界とつながっているのだと実感できたのは、ふつうの日本人よりきっと「稀」なことだったかもしれない。

22日の24時、つまり23日の午前0時に失効する「GSOMIA」が、失効直前6時間前の22日18時に、韓国政府が「延期」を発表した。

あいかわらず、わが国との「交渉」で、「ホワイト国に復帰」をするのが「条件」という支離滅裂を主張しているから、さっそく経産省が、それとこれは別、という不変の立場をくり返した。

先週と今週にかけてのアメリカ政府による強烈な「圧力」が、今回の「延長」になったのだと、したり顔で解説する向きがある。
それに、なんだが韓国政府が「折れた」とか、日本に「屈服」したとかという、日本側が「ホルホル」している風景があるけれど、そんなに相手は「愚か」なのだろうか?

もちろん、自由と民主主義を「固持する」という立場を優先すれば「愚か」という判断になるが、民主主義の彼の国で、自由と民主主義を「やめる」という立場を主張して選挙で圧勝した政権になったのだから、「そちら側」からかんがえれば、愚かどころか「合理的」かつ「最善」「最速」の手を打っているのだとかんがえないといけないではないか。

報道にもあるように、現大統領は選挙における「公約」として、「GSOMIA見直し」を主張していたのだから、わが国政治家の「公約破りが常識」からしたら、どちらが正々堂々としているものか。

国家の基盤をなす、自由と民主主義という価値観そのものを「やめる」という、選挙で国民が支持した「大戦略」の実現のためにあらゆる手段を用いることは、それで選挙に勝利したものたちとして、「正義」になるのは当然である。

いわゆる、わが国との関係改悪=関係破壊は、レッドチーム入りを目指すためには「合理的」だし、それができればアメリカとの関係改悪も次ステップとして計画されてしかるべきだろう。
かれらのゲーム盤上では、さらに次のステップがあるはずだ。

このように観れば、彼の国政権の実行力は、わが国歴代最長となった現政権など比較にならないほどの成果をあげている。
このことこそ、注目にあたいする。

そこで、驚きの情報が、例によって「外国の報道」からもたらされた。
先週の17日、日曜日、バンコクで開催されたASEAN拡大国防相会議で、なんと「中韓防衛協定」が締結されていた。

わが国マスコミによるこの会議の報道は、日韓防衛相会談「だけ」だった。
英国デイリー・テレグラフ紙の「ジュリアン・ライオール記者」による署名入り記事である。

この記者は、日本・韓国担当の同紙特派員で、横浜在住。
話題の香港、サウス・チャイナ・モーニング・ポスト紙にもフリーランスで寄稿している。

つまり、事実上、レッドチームのほうにもう片足を入れていた。
はたして、この「協定」における「防衛情報」の取扱についての詳細は不明だが、もしかしたら日米ともに「筒抜け」となる事態ではないか?

わが国から輸入したフッ化水素などの戦略物資がどこに消えたのか?にいっさいこたえず、むしろ、二重スパイを国でやるというほどの「覚悟」は本物だ。
してやられている。

いよいよ在韓米軍の撤収=日本への移動・撤退が現実になって、とうとう、日清・日露戦争で流した日本人の血がむなしくなる事態が現実化しそうだということである。

このときの「肉弾戦」などの詳細は、もうとっくに学校でおしえないから、『反日種族主義』で狼狽する韓国人とおなじで、日本人だってちゃんと「歴史を忘れた民族」になっている。

わが家の家系では、日清日露戦役による戦死者が三人もいて、田舎にいけば軍服の遺影が仏壇の上にかけてあった。
どちらさまも三代か四代をたどれば、直系でない枝葉にこそ名誉の戦死者がいるはずだが、戦争といえば「先の戦争」しか思いだせないから、ご先祖様の兄弟が草葉の陰で泣いている。

明治維新の元勲たちがこぞっておそれた「緩衝地帯」をうしなって、対馬海峡で中韓朝露と対峙しなければならないという、「はじめて」が起きそうだ。

これらの国々は、いまや世界的にも珍奇なる「中世」で時間がとまった国家群である。為政者が「近代」の価値観をもっていないからだ。
にもかかわらず「兵装・軍備」には「核」がある。

商人国家は、安全保障なくして発展はしない。

経団連にも一般国民にも、かつて経験したことがない、とんでもない「国家存亡の危機」の時代がもうそこにやってきている。

むかしのアメリカなら、とっくに政権を転覆させる工作をしているだろうが、そんな力もうせてしまった。
ならば、こちら側になんとか引き留めるにはどうするか?よりも、向こう側に追い込む軍事費負担を請求したのは「わざと」だろう。

おなじような「増額要求」がわが国にもきているけれど、自国防衛を他国にまかせるお金のことを「思いやり予算」というのは、名作『七人の侍』を雇った「農民たち」の発想だ。
名優、左卜全や藤原釜足の、日本人を代表する「貧相」こそがおもいだされるが、あれは「国内」が舞台だ。

「中世」の世界は、勝者が敗者を「奴隷にする」のは常識である。
日本国憲法に「奴隷はいけない」と書いてあるから日本人は奴隷にならない、という保障がなくなるかもしれない。

わが国側の「覚悟」はいかに?が突きつけられている。

三重県の長島に行ってきた

市でいえば「桑名市」である。
といっても、2004年に「平成の大合併」という「文化破壊革命」で、かつての「長島町」が「多度町」とともに桑名市に吸収合併されたいきさつがある。

木曽三川という木曽川、長良川、揖斐川の河口部にある巨大な「中州」の「島」で、かつては七つの島があったから「ななしま」がなまって「ながしま」になった説と、濃尾平野をつくりだした三つの大河がつくる長大なことから「ながしま」になった説とがあるようだ。

どちらにせよ、「中州」であることにちがいない。
だから、この地に住むということは、「治水」あってのことになる。
海抜は「ゼロ」か「1m」、あるいは、「マイナス1m」という表記が電柱にある。

明治期に、四半世紀をかけて「木曽川三川分流工事」がおこなわれていまの「島」になった。
これを計画したのが、オランダ人技師だったというから、なるほどと「納得」する。

それにしても、よくもオランダ人を呼んできたものだが、島内のどこにも「オランダらしさ」が主張されていない。
長崎に「ハウステンボス」があるけれど、ほんらいならここが適地だったろう。

歴史上のエピソードでは、とにかく「伊勢長島一向一揆」として、織田信長を悩ませた「大乱」の舞台であり、皆殺しの激戦が繰り広がれた地であるが、「血の臭い」がするからか、このあたりも「淡泊」である。

織田軍は、どうやって「大河」をこえて攻めたのか?
守る一揆側はどうやってこれに抵抗したのか?
大河ドラマとは、このことだろう。

近年では、1959年の「伊勢湾台風」の被害地でしられる。
15箇所もの堤防が決壊して、街が水没しそのまま川となって、400名弱が亡くなっている。
このときの「水位」をしめすポールをみつけたが、はるか見あげる高さでおもわず背筋が凍った。

敷地を高くしている家もあるが、そうでない家がふつうに建っている。
スイス人なら、敷地を高くしないと建築許可をださないようにするのだろうけど、これは「オランダ式」か?はたまた「日本式」か?

島の西側から橋をわたれば「桑名宿」になる。
東海道五十三次のなかで唯一の船旅、「七里の渡し」(28Km)で熱田神宮がある「宮宿」とむすんだ。
東京湾アクアラインは15.1Kmだから、ざっと二倍の距離を「渡し」といっていいものか?

「桑名宿」と「宮宿」で行き先案内を、グーグルマップで検索すれば、伊勢湾の埋め立てと「長島」の関係がみえてくる。

「長島」のユニークさは、東西日本の境目、にある。
三川の西側を流れるのは揖斐川で、この川より西が「関西弁」で、「長島」は「尾張(名古屋)弁」になるから、橋をわたるだけでの変化がおもしろい。

カレーライスという国民食でみても、関西の牛肉、関東の豚肉という特徴があるけれど、なんと「長島カレー」は、中心のご飯をはさんで「牛肉カレー」と「豚肉カレー」の両方がかけてあるという贅沢さが特徴なのだ。

徳川四天王の本多家の居城が桑名城。
長島の対岸にあって、ほぼ島のまん中当たり、しかも、長良川と揖斐川の合流地点に位置している。
尾張徳川家の筆頭家老でもあったけど、「長島」を名古屋側からとで挟み撃ちできるようになっているのは、「一揆」の影響を無視できなかったからだろう。

桑名城のやや北側対岸に、「なばなの里」という植物園がある。
冬のシーズンは、イルミネーションで飾られることで有名だ。
近鉄長島駅からシャトルバスがでていて、乗客の半分とはいえ8人ほどが中国人だった。

かれらはバスチケットのクーポンを人数分もっていたから、グループ旅行だ。
もはや「団体旅行」から離脱したひとたちが、「珍しさ」をもとめてやってきている。

島の南端は「ナガシマスパーランド」。
周辺にはオリーブ園やスポーツランドもあって、アウトレットモールも隣接されている。
「なばなの里」もふくめ、おなじリゾート会社が所有している。

鉄道の乗り入れがないから、公共の交通手段はバス。
この「不便さ」が、「目的地」としての価値を、かえって高めているのは、施設内の温泉ホテルの宿泊料金をみればわかる。

名古屋からの高速バス運賃は片道1100円。
「泊まれない」ひとたちはどうする?
桑名のホテルが候補になるわけだ。
なぜなら、島内に宿泊施設が皆無だからである。

なるほど。

さてさて、帰路、交通渋滞に見舞われたのは、だれも気づかなかった「G20」が名古屋で開催されるための警備規制が原因だった。

このての国際会議を大都市でやる理由はなにか?
「地方再生」とか「創生」とかいうわりに、地方は無視されている。
はてさて、政府からみれば名古屋も地方都市扱いなのだろうか?

もしかしたら、芸術祭の意趣返しなのか?とうたがいたくなるのは、言い過ぎとしても、会議期間中の前後をふくめて、名古屋の交通は不便になること間違いない。

ならばと島や桑名にこもる人は、どれほどいるのだろうか?

環境家計簿の怪

だから何なのだ?
町内会や自治会という、生活者の組織に行政が介入して、さまざまな余計なことを押しつける。
対する住民は、無視する、協力しない、という態度で抵抗しているから、健全といえば健全である。

3ヶ月程度の、電気とガス代がいくらだったのか?
個人情報を書かずに提出せよ。
昨年同月と比較しての増減をしることが、(地球)環境にいい、そうである。

原発事故からまんべんなく負担がふえたし、太陽光発電のために、太陽光発電をしていないひとからも負担金を徴収する仕組みだから、「こんなに増えた」というのは「料金」ではなく「使用量」の変化でしかわからない。

それに、「電気料金の自由化」で、携帯電話とおなじように「二年しばり」の契約で、電気とガスやガソリン元売り会社と合算すれば、なんだか「安くなる」ようになっている。

安くなれば、たくさんつかってもいい、というかんがえも生まれる。
かんたんにいえば、経産省と環境省が「マッチ・ポンプ」の役割をしていて、はざまで揺さぶられているのが「生活者」という「国民」になっている。

では、国民のためになっているのはどちらか?
「原発の安全が確認された」と主張し、「太陽光発電」のインチキを自己証明した経産省だろうか?
それとも、地球環境よりも「自省」の存在意義だけを優先させる環境省だろうか?

どちらも、「✕」である。

「国益」とは、「国民の利益」のはずだが、かれらによる定義は「政府の利益」のことをいう。
この政府の利益には、管轄省庁の「省益」というものが主体だから、すでに「寄生虫」のようになっている。

実際の寄生虫も、宿主の行動をコントロールする能力をもっている。
宿主が死んでしまったら、寄生虫も生きていけないから、「生かさず殺さず」というギリギリを攻めてくる。
ただし、そこはうまくできていて、宿主のほうが先に死んでしまって、同時に寄生虫を殺すのである。
つまり、相打ちである。

わたしたちは、こうして貧しくなっていて、将来の悲惨が約束されている。
役人栄えて国滅ぶ。

若者の就職で、公務員志望がトップになったのは、寄生虫が有利な社会だと、一般国民がみとめているからである。
先進国では「珍しい」というこの現象は、優秀な人物ほど「民間」を志望し、できれば「起業」するからである。

付加価値創造にほとんど寄与しないのが公務員である。
国家レベルでいえば「GDP」のことである。
つまり、わが国のGDPが、寄生虫に吸い取られているのである。
だから、どんなに巨額の予算を組んでも、わが国経済は活性化しない。

世界各国の政府が、「減税」による経済活性化を画策しているのは、先進国から中進国まで、消費の活性化による景気拡大が有効だからである。
この真逆をいくわが国は、すでに「逆神」としての権威をもっている。

日本政府の政策と「逆」を選択すれば、うまくいく、という点で、かつての「共産党」とおなじレベルになっている。
政府「だけ」が維持されれば、国民生活はどうなっても関係ないのである。

さて、前年比較のためのデータ収集ということをかんがえれば、「環境家計簿」における「ゴミ袋支出」という項目がなぜないのか?
来年の7月1日をもって、レジ袋が完全有料化されるのが決まったから、いまからデータをあつめないと、比較ができない。

前にも書いたが、これは「立法」されたものではなく、関係省庁の「省令」改訂による。
ひろく国民が負担することになるものが、役所の勝手でできるということの驚きに、憲法違反の声をあげる国会議員がひとりもいない「怪」がある。

「財産権」の侵害ではないのか?
ふだんは活きのよい「日弁連」も「無言」なのは、どうしたことか?

無謀な行政命令が香港の混乱を招いたが、わが国政府の無謀にはだれも声を上げない。
なるほど、香港の事態になにもいわないことの根源に、日本政府と香港政府の共通があるからである。

その意味で、わが国の国民は香港人以下に成り下がったし、台湾人にも劣る。

野菜を買うとプラゴミがふえるから、野菜をいれたレジ袋がちょうどいいサイズのゴミ袋になるものを、野菜のプラゴミは「対象外」とする。
その根拠は、売手の都合だ。

産業優先も、ここまでくると笑うしかない。
しかも、オリンピックで来日する外国人に不便をかけて、それが「先進国だ」といいたいらしい。
もうまるで、小林よしのり『おぼっちゃまくん』的ギャグである。

消費を活性化させることとは真逆をやって、それが「地球環境保護」だというバカらしさは、なにか悪いものに取り憑かれてしまったようだ。

レジ袋がダメなら、紙袋という代替案があるけれど、これも「森林保護」という名分でどうなることか?
森林保護のために間伐材でつくる「割り箸」すら追放して、林業から現金収入を奪ったのはどこの誰か?

おかげで山が荒れて、海に魚が住めなくなった。
プラスチックでできた「箸」がエコで、どうしてレジ袋がいけないのか?

環境家計簿でわかることではない。

天下国家を論じない新聞

日本の新聞を読んでいても、世界が見えてこない。
ならば購読の意味がないし、所得の減少も手伝って、新聞を読まないひとが増えている。
テレビのニュースもおなじだし、余計なコメントが耳障りだから、こちらも観ない。

さぞや困るだろうと、新聞やテレビの作り手は思うようだが、どっこいぜんぜん困らない。
却って、ネット配信の無料ニュースで事足りることに慣れてしまった。

情報が足りないと思ったら、自分で探せば、その筋の専門家が丁寧な解説を、これまた無料で教えてくれる。
ネットなんて信用できない、というのは、いったいどこのサイトを観ているのだろう?
ほんとうはしっているのに、しらないふりをしているだけだろうから、余計にたちが悪いといまどきの一般人に思わせる。
逆効果はなはなだしいのだ。

昭和15年の「国家総動員法体制」が、そのまま戦後の体制に引き継がれた(なにも意図しなかったので「自動的」に)から、各都道府県に一紙という、紙とインクの配給体制も残ったが、県庁と取り引きする地銀も同じで、もうもたない。

それで、民間の好きにさせればいいものを、相も変わらず国家総動員体制の役所が口を出して、民間の好きにさせない。
なのに経営責任だけは民間が背負うことに、じっとガマンしている民間もどうかしているのは、株主すらも「お国の命令にしたがう」ように思考訓練されているからである。

役人から出てくる案が、金太郎飴なのは、全国一律で同じにしたいからだ。
「日本列島改造論」は、なにも土建屋だけの分野が対象なのではない。
ならば各都道府県は、何のためにあるものか?
明治の官撰時代のつづきで、知事を筆頭に中央政府の役人かタレントでことが足りるように、さいしょからなっている。

行政における競争は、こぞって若い夫婦の受け入れに熱心で、どちらさまも高齢者の移住を嫌がるのは、自治体の社会保障負担が増えるからだ。
国全体で人口が減るのに、自分の自治体だけを増やしたいと画策する無駄な抵抗の根拠はこれだ。

そんな自治体は、駅前再開発をすれば、街が繁栄を取り戻すという発想で、貴重な資源が無駄遣いされている。
まことに愚かの極みが、まじめに実行されるこわさがある。

いまは「北端」の、稚内駅が再開発されて、どこでもおなじ「ガラス張りの駅舎」になった。
どうやっていまどきここからロシアに行くのかしらないが、「日ロ友好最先端都市の形成」が設計テーマだという。地図で「近い」だけで、「最先端」になれるらしい。
漁船で密出国でもしたいのか?
毎年夏期だけ運行された、稚内と(むかしの北端の)サハリン航路も、今年は運行されなかった。

70年代からこっち、巨大な人口の「団塊世代」が、豊かさと若さにかこつけてこぞって向かったのが北海道だった。
そんなひとたちの、青春の想い出さえも、再開発は取り壊してしまった。
ただ古いものを残せばいいというものではないが、「あゝ懐かしい」というこのひとたちの「価値」を吹き飛ばして、「日露友好」とは、トホホなのである。

いったいどこから人を呼んで、いったいどのくらいお金をつかわせたかったのか?
計画にあたったトホホなひとたちには、一生わかるまい。
「事業コンセプト」が狂っている。
地元紙は、さぞやきれいな駅舎なら、おらが自慢と書きたてて、ムダな投資をあおったことだろう。
価値観の時計が、昭和で止まっている。

みずほ銀行が、現役の53歳以下には、企業年金を減額すると決めたらしいが、それを補充する行員向けの積み立て商品はつくらないのか?
役人が適当に、大金を運用するより、よほどいい。
他行で運用したい行員が、どれほどいるのかも興味あるが、国もはやく社会保障(国民皆保険)制度を「やめる」と宣言すべきだ。

この制度こそが国民を「堕落」させ「国家依存」に誘導する、諸悪の根源である。
年齢別に終わるスケジュールをはやく発表して、いまの若年者層やこれから生まれてくる子どもたちの負担を軽減させないといけない。

日本人が、外国の銀行に口座をつくることが、ほぼできなくなったのは、日本国内ローカル法である金商法(金融商品取引法)の適用を、ご丁寧かつお節介にも外国の銀行にも求めたからである。
しかも、すべての説明を日本語でせよと金融庁が頑張った。
おかげで、相手にされなくなった。

アメリカ議会は、国内法の「台湾関係法」や、このたびの「香港人権法」を上院は全会一致で成立させた。
わが国が、国内法でできない理由はないけれど、社会の木鐸たる新聞が「書かない自由」を選択したことで、その役割を終えてしまった。

もはや戦後ではない、ばかりか、もはやわが国はアジアの盟主でもない。
自由と民主主義という「共通の価値観」なんて、絵に描いた餅、ただのうわごとだったと世界に向けて発信中だ。

なにもしない、ということは、そういうことである。
新聞が天下国家を論じないのは、脳までが萎縮している証拠である。

縮む日本をつくる責任の一端に、まちがいなく新聞もふくまれる。

屋上屋の政府統計官資格創設の姑息

「国家統計」の信憑性が疑われた一連の不祥事対策として、やっぱりでてきたのが、統計にかかわる役人に、統計専門家の資格(「統計データアナリスト」)を持たせる、という手前味噌な方法だ。
政治が機能しない、わが国の絶望が、またひとつ露わになった。

もちろん、かたちのうえでは、「関係閣僚」で構成される「統計改革推進会議」で決定するというから、政治が決めたことにしてはいる。

人間社会には、社会的地位という架空の立場があるけれど、この架空の立場が「架空である」あるいは「仮のすがた」ということを忘れてしまうと、あたりまえだが本末転倒が起きるものだ。

たとえば、国会議員として活きのいい発言をしていたひとが、入閣して大臣や政務官になると、とたんにトーンダウンすることがあるが、これは「公職に就いた」から、めったなことはいえない、という「常識」がはたらくかららしい。

しかし、国会議員そのものが「公職」なのであって、国民からすれば「何をか言わんや」というはなしになる。
あげあし取りの野党や報道機関に、おかしい、といえないのは、その背後の国民を信頼していないからだ。

「無職」のときに積極的発言をしていて、それが妥当だから、入閣するように要請されたのであるから、よりはっきりと自らの政見を述べるのが本来の「立場」であろう。
これが、逆転するのが「常識」とは、いかにも日本的だ、といいたくない。

役人に対して政治家が存在する理由は、「ビジョンの提示」なのである。
それにしたがって、「行政」をするのが「行政府」のはずが、「ビジョン実現の方法」を役人がかんがえる立場になっているから、おかしくなるのである。

政党政治が日本で機能しないのは、政党内に「ビジョン実現の方法」をかんがえる事務局が存在せず、議会内にも議員を輔佐する事務局が存在しないためだ。
これでは、行政府が一方的に肥大化するのは当然である。

けっきょく、「統計改革推進会議」というのはなにを議論してきて、どんな「ビジョンの提示」をしたのか?
おそらく、役人に「丸投げ」したのだろう。
であればこその「結論」ではないか。

そもそも、各省庁で重複するような「統計」だってある。
本来は、総務省「統計局」が政府統計をすべて統括すべきなのだろうが、例によって各役所が自前の仕事を手放さないにちがいない。
各役所からでてきた役人だけで「会議」をするから、こうなる。

それで、飲み屋の注文のように「とりあえず」、総務省統計局の「権威」をつかって、役人と民間両方に開放する「資格」をつくって、この資格保持者に統計をあつかわせれば、不正がなくなる、ということにした。

そもそも、どうして「不正」が「継続的に」何年もおこなわれていたのか?
数年で異動するキャリア「上司」による指示はなかったのか?
あるいは、キャリアに忖度する部下はいなかったのか?

いわゆる「官僚=キャリア」とよばれる上級試験合格者と、「幹部」とよばれる「中級試験合格者」、それを現場でささえる「初級試験合格者」とによって役所の組織は構成されている。

どちらの役所も似たようなものだが、たとえば財務省に入省すれば、20代後半で県を代表する税務署長に就任するし、警察庁なら、どこかの県警に派遣されて、巡査から交番勤務をしたとしても、半年で警部補になる。

このくらいのスピードでなければ、本省の局長以上になるための「階段」つまり「キャリア形成」が間に合わないのである。

そんな事情をかんがえれば、いったいこの「資格」とは、どのような位置づけなのか?
さらに、民間人でもこの資格保持者なら各省庁に新設される「統計監理官」のポストに起用するという。

まさに現代の「令外の官」だ。
わが国は、平安時代とおなじ発想で運営されている。

国家統計が信用できない、というのは、近代国家として由々しき問題ではあるが、「縦割りの弊害」もあいかわらずである。

すでに「貧困率」で、先進国二位になったわが国では、「貧困」の実態がわかる調査として、3年に一回の国民生活基礎調査(厚労省)と、5年に一回の全国消費実態調査(総務省)のデータを「加工」しないとわからない、と専門家が指摘している。

ようは、なにを知りたい。
が欠如していて、それでどうする?
も、曖昧なのである。

やっぱり「ビジョンの提示」がないことが原因だろう。
おそるべきことである。

政治の「貧困」が、国民生活を「貧困化」させているのだが、だからといって「金をくれ」といいたいのではない。

むしろ、国家の統計データがぜんぜん信用できない国が、高度経済成長を遂げたように、かえって国家の介入がなかったことが結果オーライをつくった。
国営企業群の不振がいっそう顕著なのは、国家の介入のおかげである。

民間は、国家に依存してはならないけれど、国家は、民間の役に立つ情報提供が義務なのだ。
わが国の凋落は、国家が、経済や国民生活に直接介入したがるだけでなく、現実に介入するからである。

『ラーメン食いてぇ!』のうんちく

原作は、林明輝のまんがで、昨年映画化された作品である。
舞台は林の実家であるラーメン店だから、こと、ラーメンについては、いわば「再現もの」といってもいい。

老舗の、むかしから変わらない「味」は、じつはたいてい「変化」している。
貧しかった「むかし」のままだと、豊かになった「いま」の「舌」では「貧相」になってしまうから、繁盛店ほど「味を変えている」ものだ。

「むかしのまま」だと、客に納得させることが、「プロ」の味付けなのだ。

それに、家庭料理とちがって、店での料理は、「いつもおなじ」が要求されている。
昨日より今日のほうが「うまい」では、商売にならない。
もしかしたら、あしたは「まずくなる」かもしれないような不安定では、常連客はつかない。

「安心のいつも」が「安定のいつも」になって、「いつもの客が来る」のである。

新規に料理店をはじめる、これは個人事業として典型的なはなしだった。
成功と不成功における「商売上手」と「商売下手」の分岐点は、開店したその日から勝負がはじまる。
全員が新規の客に「これは!」と思わせると同時に、さいしょから「安心のいつも」である必要があるからである。

これが、簡単ではない。
いわゆる「修行」を積んで、つまり、「基礎」が完全にマスターできた上での「独立開業」でないと、商売にならないからである。

ところが、料理店は料理だけでは成りたっていない。
サービスはもちろんだが、「経営」という問題がでてくる。
それに、夫婦ふたりで店を切り盛りするばあいの「リスク」もある。

むかし、わが家のちかくに、蕎麦やうどんなどの「自家製麺類」を、持ち帰り専門で販売する店があった。
ここで買えば、わざわざ蕎麦屋から出前をとらなくてもよいほどにうまかったのは、麺だけでなく汁がうまかったからである。

ところが、おばあさんが亡くなると、とたんに味が落ちてしまった。
汁の仕込みは、おばあさんがひとりでやっていて、家族のだれにも教えていなかったという。
「どうやってもあの味ができない」
しばらくして、店自体を廃業してしまった。

それは、常連だったわが家にも「甚大な被害」となって、蕎麦は出前をしてもなにをしても、めったに「うまい汁」にお目にかかれなくなったからである。

冒頭の作品では、自家製麺のラーメンが特徴になっている。
たしかに、ラーメンという食べ物では、自家製麺は珍しい。
いまでこそ見かけるが、むかしはめったになかった。

「かんすい」というアルカリ性の液体をくわえるのが中華麺の特徴だ。
内モンゴルの「塩湖」の水から小麦を練ったことをはじまりとする。
その意味では、うどんともパスタともちがうルーツの麺である。

わたしの祖父は、ラーメンが嫌いだった。
蕎麦をじぶんで打ったり、春になるとよもぎ摘みにでかけて、よもぎ餅をつくってくれるほどのまめさがあった。
田舎から送られてきた「こんにゃく芋」をすりおろして、こんにゃく作りを手伝わされたのが苦痛だったのは、手袋をしていても手がかぶれてかゆくなるからだ。

どうして「ラーメンが嫌いなの?」ときいたら、あれは「食いもんじゃない」といったのが、印象的だ。
食糧難のむかしは、かんすいの代用に「苛性ソーダ」を入れていたのをしっていたからだ。

「苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)」とは、むかし洗濯につかっていた。
いまは、食品への使用が制限されている。

もっとも、こんにゃくにだって「灰汁」をつかう。
いまなら買ってこないといけないが、掘り炬燵の練炭の燃えかすを入れていた。

まことに、化学反応が食品に応用されている、とは子どものころには思わなかった。

中華麺づくりの難しさは、かんすいをいかに少なくして腰をだすのか?にある。
この努力を、消費者がしる機会はあまりない。
なので、たしかに「どんな素性の麺なのか」についてはわからない。

むかしといっても20年ほどまえ、香港でたべたラーメンの麺が忘れられない。
どことなく、カップヌードルの麺のようで、よりきっちりした歯ごたえなのだが、「プツン」と切れる食感が新鮮だった。

あるとき、「麺」が忘れられないという友人がいたので、香港?ときいたらシンガポールのお店だという。
はなしで聴けば、ほとんどおなじだが、そこは店内で手打ちしているという。

あゝ、ラーメン食いてぇ、と思いだした。

ジム・ロジャーズの日本衰退論

投資家として有名人のジム・ロジャーズ氏が、30年後の日本が犯罪大国になるなどの貧困ぶりを予測したことが話題になっている。
きっかけは、東京オリンピック後の不況とのことである。

もちろん、彼は投資家だから、オリンピック景気については慎重で、むしろ否定的である。
たとえば、不動産投資については、対象の土地や建物の「収益性」がすべてであって、オリンピックというイベントは投資判断に影響をあたえないものだと論じているし、オリンピック開催国だからといって経済成長が約束される理由もない、と。
むしろ、ムダな公共投資負担による財政難が、経済成長の足かせになる、ともいっている。

わが国の大半が信じる、オリンピック神話について、真っ向から否定する発言なので、「反発」の反応が目立つのは、お隣と同様に自国を「ホルホルしたい」ということだろう。

もちろん、この前提に「日本は先進国である」という、すでに「幻想」となった感覚の残影がある。
あるいは、「最悪をかんがえない」「かんがえたくない」という、幼稚な発想しかできないことの証左だ。

すると、じつは「最善」もかんがえていないことがわかる。
つまり、現実にただ漂流しているのがわが国になってしまった。
すなわち「ひょっこり島々」になったのだ。

かつて放送された「ひょっこりひょうたん島」は、1964年4月から1969年4月までの5年間にわたった15分間の人形劇だ。
幼稚園前から小学校に入学しても続いていて、ある日学校でこの番組のことをはなしたら「まだそんな子供番組を観ているのか」と同級生たちから笑われたことを思いだす。

それはある意味正解で、物語としての「ストーリー」がまったく思いだせないほど、なんだかダラダラとしていた。
それが、同級生たちを飽きさせたのだろう。
まさに物語も「漂流」していたから、最終回がなんだったのか興味すらなくなっていた。

よくいわれる「鳥の目」と「虫の目」のはなしは、広く俯瞰するマクロ目線と細かく観察するミクロ目線の両方が必要だということにつかわれるものだが、「投資」もまったくおなじ目線がなければ、成功をくり返すことはできない。

日本だと「相場師」といわれてしまうのは、「鳥の目」の欠如が原因だろう。
株価の推移における、独特の感性が成功の原因だというなら、やはり「相場」という「虫の目」における視点だけが頼りだ。

「鳥の目」からよくいわれることに「カントリー・リスク」がある。
投資(予定・検討)先の国家についての考察である。
もっと広くなると、「世界経済」という視点から、各国のうごきを総合して考察しないと、「カントリー・リスク」も読めない。

幸か不幸か、すでに世界は「グローバル・ネットワーク」で結ばれてしまったから、一国だけの影響力は冷戦期とは比較にならないほどちいさくなってきている。
必然的に「連携」しているからである。

しかし、一方で、数百年ぶりの「地殻変動」ともいえる大きな変化が起きた。
それは、東アジア情勢である。
「眠れる大国」が眠りから覚めて、欲望をむき出しにしたのである。

このことは、戦後体制をつくったアメリカのシナリオにも、つくられた日本のシナリオにもない、あたらしい現象なのである。
そのあたらしい現象が、「新冷戦」といわれているのは、アメリカがあたらしいシナリオを書き始めたからだ。

対して、わが国は、いまだにこの激変のなかを「漂流」しているから、なんだか周辺が騒がしくなった程度にしか認識できていない。

よくいわれる「経営資源」とは、「ヒト」「もの」「カネ」だったものに、情報化で「情報」がくわわった。
しかし、絶対的な「時間」が、あんがい無視される不思議が日本の経営学の教科書にある。

百兆円規模の国家予算のうち、数千万程度の「無駄遣い」を延々と議論するのは、「ABC分析」の概念をもってしてもナンセンスだが、国会という場での「時間」が浪費されることを、だれも非難しない。

どうにも取り返しがつかないのは、世界中のひとびとに平等にあたえられた「時間」を、ムダな議論で浪費することだ。
これが、投資家ジム・ロジャーズ氏が、もっとも憂慮する、わが国へのメッセージではないのか?

覚醒した大国の急速な軍事力拡大に、半島の核、さらに友邦と信じた国による裏切りは、すでに「東京空襲のため」と明言して爆撃機と空中給油機を保持している。アメリカ製ではなく、ヨーロッパ製なのは、日本外交のみえない敗北だ。

みえるところでは、日本海の漁場(わが国EEZ)にこれら「敵対国」の漁船がやってきても、わが方は「放水」しかできない。
国内法整備が「ない」からである。

拿捕も撃沈もできないのは、「主権国家」の「主権」の「放棄」がそうさせる。
じつは、この「放棄」こそが「国際法違反」なのだ。
相手にわざと舐められるように仕向けることが、戦争を招くからである。

法の整備は国会の仕事だ。
わが国は、とっくに「自滅」していないか?

共産党がただしいということ

みじかいニュースではあるが、共産党の志位委員長が14日、茂木外務大臣の参議院外交防衛委員会での答弁にかんして、ツイッターでのするどい批判をしたという。
外務大臣への質問と答弁は以下のとおり。

香港情勢に関する外務省としての情報発信の在り方について、佐藤正久参院議員(自民党)から質問を受けた。
茂木氏は「昨今の香港情勢につきまして、デモ隊と警察の衝突が長期化し、エスカレーションしています。多数の負傷者が出ていることを大変憂慮しております。時勢と平和的な話し合いを通じた解決を関係者に求めるとともに、事態が早期収拾され、香港の安定が保たれることを強く期待しております」

さらに、
「おそらく日本のハイレベルが、この問題に対して、たとえば香港であったり、デモ隊であったり、香港政府、中国、どちらかに偏った発言をすると、平和的な解決に向けて本当にプラスになるのだろうか。こういったことを考えながら対応する必要があると思っていますが、その上で我が国として、一国二制度のもと自由で開かれた香港が繁栄していくことが重要だと考えています。この旨は今月4日に実施された李克強国務院総理と安倍総理の日中首脳会談、さらにご指摘いただいたような6月のG20大阪サミット、さまざまな機会、レベルをとらえて中国側に伝達してきております」

というコンニャクのような答弁をした。
「冴え」も「切れ」もない「他人事」である。
「おそらく日本のハイレベルが」とは誰なのか?
経団連か?

これに、あの「共産党の志位委員長」が、
「今日の参院外交防衛委員会の質疑で、茂木外相は、香港問題への対応を問われ、『抗議デモ、香港政府、中国政府のいずれかに偏った発信はプラスにならない』と答弁した。人権侵害に対して抗議しないという表明にほかならない。こんなだらしのない態度でいいのか。言うべきことをきちんと言うべきです」

じつに歯切れがよい。
とうとう共産党が、安倍内閣の「左翼性」を暴露したのである。
さらに、めったにいかない共産党のHPではあるが、14日付けで「香港での弾圧の即時中止を求める」という声明を発表している。

以前にも、共産党がまともにみえると書いた。

アンチテーゼのベンチマークとしての存在が重要だったむかし、勉強ができすぎて頭の回転がズレてしまったひとたちの集団、の典型が共産党だったから、かれらの主張にまっこう反対の与党の「正しさ」がわかったものだ。

すると、共産党の主張が大ヒントになって、とにかくその正反対が正しいのだとおしえてくれる、社会のアンチ「灯台」のようだった。
こういう組織に、給料のおおくをささげるひとたちがたくさんいて、機関紙をひとりで何部も購入し、豊富な活動資金としていた。

ところが、とうとう機関紙の購入者が減ってきたのは、活きのよかった団塊世代が引退して、年金生活になってみたら、新聞も購読する生活費に困窮したのだろうか?
くわしくはしるところではないが、財界資金に依存する政権与党より豊富な資金力がかつてあったことが、いまはむかしになったことはまちがいない。

不思議なもので、ここに一般的経済原則(マルクスのそれではない)「需要と供給」がはたらいて、これまでとはちがうマーケット分野の開拓をしないと、倒産してしまうことに気がつくものである。

もちろん、気がつかないで従来どおりをつづけるからほんとうに倒産するのである。
あるいは、気がついても別の方法がわからないので、資金切れと時間切れが同時にやってきて倒産する。

この意味で、この「党」の本来の優秀性が発揮されたのか?
まさに、これまでとはちがう、という選択をしたのだろう。
それが、上述したように、選択せざるをえない、ということであったとしても、支持者と資金の確保という経済学(マルクスのそれではない)にしたがわざるをえないところが、新鮮なのである。

はたして、共産党が資本主義の洗礼をうけて、「資本主義政党」になれるのか?
ふつうはなれるはずもないのだが、もはや「ふつうではない」から、「もしや?」と期待したくなる。

わが国で唯一の「資本主義政党」が、とうとううまれるかもしれない。

委員長の指摘がするどいのは、カネより重要な価値がある、と直言したことである。
まさに、資本主義をささえる基盤の「自由の価値」のことである。

あちらにある同じ名前の党を、どうやら「社会帝国主義」と定義して、党名はおなじでも、中身がちがうということをいいたいにちがいない。
なるほど、そういえばこちらの書記長が「どんな党名がいいでしょう?」という発言をしたらしいから、共産党から「共産」が抜けてもいいというほどの大胆さだ。

経営再建にあたっての「ブランド戦略」的には、非の打ち所がない。
これも経済原則(マルクスのそれではない)にしたがっている。

一方の、財界からお金をもらっている政党は、財界が社会主義化してしまっているから、どうにもこうにもならないことになっている。
何度も書くが、わが国の「自由民主党」という政党は、とっくに社会主義政党になっていて、確固たる社会主義政策に邁進しているのだ。

アメリカの民主党も、中国の政権政党も、自民党モデルをベンチマークしているはずだ。アメリカ大統領選挙における民主党候補者の社会主義性は、自民党の主張と比較すれば、まだまだ「甘い」のである。
日本における左翼陣営の衰退は、自民党が左翼だから論点がボケて、モリカケをはじめに観桜会まで、批判の矛先がないための現象だ。

わが国には、アメリカ共和党、あるいは英国保守党にあたる政党がない。
これが、わが国衰退の原因、官僚社会主義の成立理由になっている。

昨年自裁した西部邁氏は、全共闘の指導者から「保守」に転向したものの、わが国「保守業界」の腰抜けに絶望していた。
その西部氏がいきていたら、資本主義をしりつくした共産党こそ、ただしき純粋資本主義を貫くのだという希望に目を輝かせたかもしれない。

長生きはしてみるものだ。

富士山ごうりきうどんのコシ

静岡県小山町には二箇所の「道の駅」がある。
そのうちのひとつ、「道の駅すばしり」は静岡県と山梨県をむすぶ有料道路の東富士五湖道路と国道138号線の両方からアクセスできる。

ことしの台風19号は、多大な被害をもたらしたが、内陸の山梨県も東京とむすぶ甲州街道や中央高速が通行できなくなって孤立しかかった。静岡県からのルートが確保できたのは不幸中の幸いであった。
けれども、静岡ルートだって、そんなにたくさんあるわけではない。

山中湖から138号線で籠坂峠をこえれば、静岡県になって、しばらくすると「藤原光親卿の墓」という看板が飛びこんでくるものの、坂道にうっかり停車できないから、そのままやりすごしてしまうのが気にかかる。

小山町のHPにてしらべると、「永久の変(永久3年)」とある。
これは西暦にすると1113年で、「後鳥羽上皇」による「北条氏の討伐の企て」と解説がつづく。これが漏れて連座したのが藤原光親で、鎌倉護送中にこの地で斬首されたための墓となっている。

はて?
「永久の変」とは「鳥羽天皇暗殺未遂事件」だし、「北条氏討伐」とは、第二代執権北条義時討伐のことで、院宣をだしたのは「後鳥羽上皇」だから、この事件は「承久の乱」(承久3年:1221年)である。

世代がわかる年号のおぼえ方「いいくにつくろう鎌倉幕府」にあてはめれば、1113年では百年ちがう。

なんと、「承久の乱」が「永久の変」になっている。
登場人物が「鳥羽天皇」と「後鳥羽上皇」で、「永久3年」と「承久3年」だから、ややこしいのはわかるけど、「町の公式HP」としてはまずいものを見つけてしまった。

「お問い合わせフォーム」から連絡すべきか?
やっぱり「お墓」にまつわることだから、一報ぐらいしてもバチはあたらないだろう。

このまま下れば、「道の駅すばしり」がみえてくる。
駐車場からはわかりにくいし、建物1階売店は山裾にあるためじっさいは半地下のようなものだ。
気持ち的に面倒だが、急で圧迫感がある階段を2階に登ると富士山の絶景が目の当たりにあらわれる。

なかなか粋な設計といいたいが、はじめてのひとがどれほど2階にあがるものか?
案内が「足湯」と「レストラン」では、気がつかないままのひとがいるだろう。

売店では、お土産ランキングが10位まで棚に展示されていた。
栄光の1位に食指がうごいたが、店内のどこで販売しているのか?家内と3周したがわからなかった。
どうしてこうなるのか?

2階のレストランは、そういうわけだから期待値は低かったが、先の旅程に記憶ある食堂が思い出せないので、やや昼には早いがメニュー・チェックをかねてのぞいてみることにした。

「ご当地」を主張しているのが、「富士山ごうりきうどん」だ。
「富士山ごうりきおむすび」というのもあるが、店内飲食の選択肢としては厳しい。
あとはカレーにラーメン、豚丼とカツ定食。

人気ドラマ『孤独のグルメ』のセリフではないが、「ここでなにを食するべきなのか?」
どうでもいいが、ナポリタンがないのはどうしてか?が浮かんだのは、麺類に米粉をいれるのが特徴だとかいてあるからだ。

妙に広大にみえる店内空間は、これぞ公共の店という風情で、いまどきの大学の学生食堂のようでもあるが、よりシンプルかつ殺風景が特徴だ。
席数は60。バスがくれば別だが、はたして埋まるのか?

注文は券売機だ。
千円以外の紙幣は、なぜか90度隣の両替機をとおさないといけない。
しかも、一台ずつしかないから、すぐに列ができるのは「公共の店」ならではである。給湯器も一台というのも、一貫性がある。

しかし、ここでハイテクをみた。
券売機で購入した注文は、自動的に厨房につたわり、大画面モニターに受け付けた券番号が表示され、できあがると別画面・音声にて知らせてくれるのだ。

そして、厨房の広さは驚きで、営業面積と遜色ないスペースだから、調理担当者がやたら遠くにいる。
歩数計をつけてみたくなる。
開業当初、どんなメニューを提供するレストランだったのだろうか?

けっきょく、「ごうりきうどん」にした。
家内は「強力」をイメージしたようだが、富士山といえば荷物をかつぎあげる「剛力さん」で有名だった。

「ごうりき」は、漢字にすれば「強力」でも「剛力」でも「あり」のようだから、コシの強いうどんと掛けたのだろう。
そのコシは、コシヒカリの粉を配合するために、ただ歯ごたえがあるのではなくてモチモチした感じが強い。

意外だったのは「出汁」のうまさで、これは駿河湾のおかげだったのだろうか?
事前期待値が低かったけれど、予想外にうまかった。
しかし、なぜかナポリタンがあたまをよぎる不思議がある。

売店で、「富士山ごうりきうどん」の麺を購入。この「道の駅」でしか売っていないようだ。
やれやれ、限定品のご当地みやげができたとおもったら、製造元は山梨県の富士吉田だった。
おっと、今回通過した富士吉田市の名物「吉田うどん」の変形ではないか?

ちょっとコシがくだけたが、まぁいいか。
県境には県境なりの「名物」があっても、うらまれることはないだろうし、ましてやここは天下の霊峰、富士山つながりではないか。

いつか、「吉田のうどん」を食べたくなった。

「入れ子型」になっていないか?

「入れ子」で有名なのは、ロシアの伝統とされている人形の「マトリョーシカ」で、木でつくられた人形の胴体に人形がはいっていて、さらにまたその胴体に、という具合になっているものだ。

しかし、マトリョーシカにはオリジナルがあって、それが箱根の「ろくろ細工」だ。
こちらは「七福神」をテーマにしていて、ろくろで削り出すことから命名されている。

神奈川県の小田原や箱根には、天下の険でしられるように山がちかいばかりか、箱根は山の中だから、木材をつかった伝統工芸品がたくさんあるのだが、有名なのは箱根の「寄せ木細工」ばかりで、その他があまりしられていないのは残念だ。

ロシアといえば、民俗風習においても日本との共通性があって、たとえば「干支」がある。
あなたはなにどしうまれですか?うし年です。
日本の十二支でいう動物とロシアの十二支の動物は完全一致している。

それに、極東ロシアの学校では、第二外国語には日本語の選択肢もあって、英語のつぎに人気だというし、かつての「シベリア出兵」の影響から、醤油がふつうの調味料になっている。

ウラジオストックのイタリア料理店には、ぜんぶのテーブルにみなれた醤油差しがあったのが不思議で、おもわず質問したら「醤油がないのは変でしょ?」とのことだった。
でも、ピザパイに醤油をかけているひとは、やっぱりみなかった。

あんがい近いのに、なんにもしらないことがある。

すぐとなりのお国では、わが国との防衛情報の協定をどうするか?
「破棄」を表明して、あと数日で期限が切れる。
おどろいたのがアメリカで、14日は国防長官と統合議長というツートップが最終説得をこころみることになっている。

日本の「貿易管理強化」の撤廃を条件にするという「無理」をいいだしたのは、「交渉」ではなく「協定廃棄の理由」にしたいのだろう。
そもそも「貿易管理強化」は、重要物資の「横流し疑惑」が原因だが、この「疑惑」についての具体的反論はいまだにない。

しかし、「募集工」を「徴用工」だとしてだした判決や、「友軍」のはずの自衛隊機にレーダー照射するなどの、一連の「暴挙」にたいする日本側からの「報復」が貿易管理強化だということになって、それが日本製品の不買運動に発展したのは、わが国での報道のとおりである。

つまり、日本人のおおくは、以上の経緯から相手国政府の理不尽と、相手国国民の行動に、不信感をもつにいたっている。
もはや「レッドチーム」確定なのか?とも。

このことは、彼の国のYouTuberたちも承知していて、母国語で動画をつくると削除されるため、日本語での動画で自国を「おかしい」といって啓蒙しようとしているから、日本人視聴者からは「けなげ」という評価にもなっているけど、自国のほうからは「脅迫」されている。

ところで、前に紹介した『反日種族主義』は、YouTubeにおける動画のシリーズだったが、奇しくも14日が、日本語翻訳版書籍の発売日である。

本国でもベストセラーになったというが、残念ながら保守系の野党第一党にして、この書籍については「批判的」で、けっして「同調」していないことに、より深刻な「種族主義」がみてとれる皮肉がある。
もちろん、著者たちの「受難」はすでにはじまっている。

おそらく、日本では、ことしもっとも読まれる本になるのではないか?
これには、「我が意を得たい」という欲求が日本人側にあるからで、反日のひとたちの「情弱」ぶりと政治のポピュリズムを「哀れむ」ことになるのだろう。

しかしながら、視点の地図をさらに上からみるように引いてみれば、東アジアがみえてきて、もっと引いてみれば地球儀がみえてくる。
すると、日本列島の場所は、あらためて「まずい位置」にあることが確認できる。

アメリカと中国とロシア、それに朝鮮半島は、わが国とどういう位置関係にあるものか?
中国とロシア、それに朝鮮半島の「近さ」にくらべて、アメリカの「遠さ」は、わが国だって「レッドチーム」にはいる合理性を示していないか?

香港のデモにかんして、13日のニュースは、香港の大学に学ぶ中国人学生と、台湾人学生がそれぞれ本国へ帰るために政府が交通手段を用意したと報じた。
つまり、「逃げろ」ということの意味はなにか?

太平洋をはさんで米中が対立するなか、わが国頭上を通り越しての「空中戦」になっている。
米中経済戦争は、はたして「経済だけ」なのか?と問えば、米国議会における「香港支援法」にも、わが国は政官民すべて無関心だ。

台湾の総統選挙は来年の1月11日だからもう二ヶ月ない。
アメリカ大統領選挙は、11月3日。
中国国家主席を「国賓」として迎えるのは、桜の季節だという。

それで、首相の桜を観る会があっさり中止されたのだろうとおもえば、野党が騒いだからではないはずだがいかがか?
「贅沢は敵だ」と、戦時中のフレーズを野党がいう滑稽がある。

しかして、総統選挙後の台湾の人びとは日本の態度をどうかんじるのか?
わが国政府は、台湾を無視していることあきらかだ。

変なのは、この時期の「国賓」あつかいに、アメリカ大統領も、国務省も国防省もノーコメントなのである。

われわれが、アメリカから「哀れ」まれているかもしれない。
香港人も、台湾人も「反日」になるように仕向ける「愚」。
世界は、日本の「裏切り」を確信するだろう。

これを隠蔽するために「侍」や「武士道」ということばで飾る「オリンピック」は、愚民たちへのサーカス=娯楽提供にすぎない。

自民党政権は、「レッドチーム」の本性をむきだしにした。
そして、これに代わる政党が存在しない「哀れ」もある。
安倍首相を敵視する左派とは、近親憎悪をしているだけだ。

何のことはない、「入れ子型」なのであって、隣国国民を「哀れむ」ばあいではないのだ。

わが国はゆっくりと、しかし、確実に「レッドチーム」に向かっている。
残念なことに、香港のデモが「騒乱」になって、軍が投入されてはじめて「国賓招待」のキャンセルができる状況になっているのだ。

日本人は、この意味をしっかりかんがえるべきである。