「だいじょうぶだぁ」のWHO

感染症の世界的流行を「パンデミック」という。

「風邪」だとおもっていたら、どんどん重篤になって、ひとびとが死んでしまう。
人間への流行が確認されているのは、1900年の「スペイン風邪」をはじまりとするようだ。

「確認」には、ヒトの抗体やヒトからウィルスが分離されたことを「証拠」としなければならないからだが、「あやしい記録」としては、紀元前5世紀のヒポクラテスによる記録が、もしやの最古である。

いまや「インフルエンザ」は、「感染症」ということが常識になったから、成人が罹患すれば、ほぼ一週間は自宅療養が「強制される」。
いわば、出社に及ばず、という状態になる。

「インフルの菌をばらまく律儀者」

記憶にあるサラリーマン川柳だけれど、作者と作年がでてこない。

宿泊業界での事件は、2002年から翌03年にかけて、東南アジアで流行した「SARS(重症急性呼吸器症候群)」だった。
彼の地の富裕層が、大挙して医療機関のレベルが高いと信じられているわが国へ「避難」してきて、都心の高級ホテルは対応に追われたものだった。

感染を心配する職場は、おもにフロントと客室清掃係であった。
そのため、感染症の専門家による対策方法の講義を依頼し、必要備品の手配をした記憶がある。

肝心のお客様たちは、長い滞在中にゴルフ三昧であったりと、それはもう「優雅」なホテルライフを楽しんでいた。

旅館業法における「宿帳(レジストレーション・カード)」の記載義務が、このときばかりは安心・安全の綱にみえたのは、そもそもの「衛生遡及」をするためという、目的性の合致にある。

しかし、ホテル館内におけるかずかずの「接触」で、遡及を担保することはできない。
まったく「ムダ」とはしりつつ、ロビーを歩くひとや従業員入口に、「体温」を測定する特殊カメラを設置して、空港の検疫所らしきことまでしたものだ。

マスクについては、知り合いの医師の推奨による手配で、手術用「N95」基準の「排気弁付き」を個人購入し、これをもって「通勤用」としていた。
まったく「風の谷のナウシカ」状態になったから、よそ様には異様にみえたはずである。

ただし、N95基準以上のマスクでは、弁付きでないと排気困難になるのである。
排気のときの空気音は、「ダース・ベイダー」そのものだった。

あいかわらず、インフルエンザは流行していて、予防接種は毎年かかさずうけている。
それでか、ここ数年は一度しか感染していないが、吸気薬ができてうそみたいに速く症状はなくなるからたすかる。

しかし、この時期に発生した「新型肺炎」の対応は、いったいどうなっているのか?

そもそも新型とはいえ、「SARS」と同様の「コロナウィルス」が原因というから、用語からして「新型SARS」ではないのはなぜか?

WHOの発表も、なんだか「政治臭」がして「変」である。

世界の「公衆衛生」を保持するのが役割だし、そのためのリスク回避を優先させれば、「緊急事態」のはずなのは、東京「都」に匹敵する人口の武漢「市」を「閉鎖」したという中国当局の決断からして当然ではないのか?

二日も連続して、おなじ案件で記者会見する、WHOのえらいひとたちの顔が、まじめ一色だけに、往年の大ギャグ番組の「オチ」を想像して笑ってしまうのである。

「だいじょうぶだぁ」

わが国、厚生労働省の対応も、妙に「他人事」で、国会では例によって、今国会の流行である「カジノ疑惑」ばかりが感染しているようで、国民を代表する議員たちが国民の健康をぜんぜん気遣っていない。
いや、ギャンブル依存症という病気だけは気遣っているというのだろう。

そんな状態でも、この役所は「健康日本21」という、2000年にできた「国民運動」にいまだ熱心である。
メタボ対策やら、禁煙やらと、活動メニューはたくさんあるけど、ぜんぶが「禁止」を旨としているところが「いい子の日本」らしい。

なんでもかんでも「増税」やらなんやらと「コスト負担」を国民に強いることばかりで、「健康」すらも国民に強いるのだから、戦時中の批判なんかできっこない。

むかしは国民の健康が「国力」を意味した。
労働が壮健な肉体を必要としたし、「壮丁」という「兵隊」の健康こそが軍事力の強さをしめしたからである。
律令国家の「租庸調」の「庸」のことだ。

いまは、健康が社会保障負担を「軽減」するときめつけている。
負担するのは政府のことだから、政府のために健康でいろ、となって、むかしとぜんぜんかわっていない。
にもかかわらず、ちょっとまえなら「高度医療分野」だったものも、健康保険適用にして、政府は政府の負担をじぶんでふやしている。

やっぱり「だいじょうぶだぁ」といっているのだ。

もう、国民は笑っていられない。

WHOすら、ブラックジョークの対象になってしまった。

5Gになっても電子政府は実現しない

回線の高速化について、首都圏では各家庭への配線接続が物理的にほぼ「完了」している。
なので、インターネットの接続契約をすれば、光回線をつかえるというインフラはできた。

もちろん、インターネットの接続契約をしないひとには関係ない。

ここで、おおきな勘違いをするのが、いまどきインターネットの接続契約を「しないひとがいる」ことを無視して、あたかも「100%の普及率」だと思い込むことである。
契約するかしないかは、本人の自由であるという前提が忘却される。

地方にいくと、高速回線の物理的普及ができていないから「問題」だということで、なんとか「100%」にしたいが、設備工事のためのおカネがないから、首都圏の利用者から「負担金を徴収」しようということになった。

どうしてこうなるのか?

これとはべつに、NHKのネット接続が「合法化」された。
ならば、この組織がため込んだ巨額の資金をなぜつかわないのか?つかわせないのか?
利用者が受信設備をもっている「だけ」で、受信料をとるのだから、つかえる環境インフラに投資すべきはNHKしかない。

地方で、スマホをもっていて、インターネットとの接続ができない地域に住んでいたとしても、この放送局は「料金徴収」をするはずだ。
受信機にあたるスマホをもっている、からである。

けれども、台湾のひとびとは無料でNHKの国内放送を視聴している。もっと質の悪い国際放送ではないのが幸いだが。
沖縄のための放送が、台湾でも受信できるからである。
電波という物理現象を、国境という人為的「壁」で止めることができない。

ぜひ、NHKの台北支局は、台湾全土から視聴料を徴収する活動をしてほしいものだが、できっこない。
その「できっこない」を、日本国内でずっとやっている。

こんなバカげたことが平然とおこなわれるのは、政治との癒着による、行政府の役人が、ほんらいもってはいけない「裁量権」をもっているからである。
立法府がつくった法律を、粛々と実施するのが、「行政府」のやくわりだが、行政府がもとめるルールを立法府が追認しているだけだ。

つまり、行政府は、じぶんでかんがえたり、きまっていないことを勝手にやってはいけないという「原則」が、三権分立の世界共通なのである。
この「原則」が、まったく機能しないのがわが国である。

この意味で、日本国憲法は、とっくに「改憲」されていて、三権分立は、絵にかいた餅になっている。
護憲派がこれを指摘しないのも、理由をきいてみたい。

わたしが住んでいる横浜市は、政令指定都市だ。
神奈川県とどこがどう違うのか?学校ではおそわらない。
いつも批判ばかりしているが、わたしにとって、横浜市に住むおおきなメリット、図書館サービスの充実「だけ」はすばらしい。

蔵書も、地方自治体として日本一レベルだけれども、貸出と返却に「自由」があることだ。
図書館のHPから貸出予約ができて、受け取りは最寄り駅の図書コーナーも指定できるし、返却も、図書をあつかう窓口なら、市内どこでもいい。

こうしたサービスをやろうとおもえばできるのだから、どうして他もできないのか?とおもうが、その理由が「裁量権」なのだ。
図書館サービスで、裁量権がはいる余地はすくない。

なんのためにできたのかよくわからないものに、「マイナンバー・カード」がある。
もっとも、これも世界の常識とは逆で、世界には「戸籍制度」がないための「身分証明書」があった。

マイナンバー・カードを発行したら、「戸籍」をやめればいいものを、どちらも「まじめ」にメンテするから、なんだか「ムダ」を感じる。

マイナンバー・カードには二つのタイプがある。
ふつうのものと、これに電子証明書を付加したもので、見た目におおきなちがいはない。

マイナンバー・カード自体には更新期限があって、ふつうのものは、発行から10年、電子証明書は5年だ。
そんなわけで、なにが便利だかわからないが、せっかくなので電子証明書の機能もつけてみた。

けっきょく、電子証明書の期限がきて更新の案内がやってきた。
一度もこの機能をつかったことがないから、どうでもよかったが、やっぱりせっかくなので更新することにした。

案内書にある日時を「予約」しないといけないとある。
電話でも市のHPからもできるが、この「予約」とは、区役所の窓口に本人が「出頭せよ」という予約なのだ。
電子証明書の更新が、電子的にできない。

それに、本人確認として運転免許証の提示をもとめられたから、マイナンバー・カードとはなんなのか?
ものの五分ほどで、役所のパソコンを経由して電子的に更新ができた。

それから三週間したら、電子証明書の期限がきたので更新せよとの案内が、さいしょの案内とは別の書式でとどいた。
きもちわるいので、役所に連絡したら、「ダブリ」だという。
ますます、どういう仕組みなのか?が想像できない。

物理的な回線が、どんなに大容量・高速化しようが、人間側のシステムが「裁量」による「穴だらけ」なのでどうにもならず、ただ経費だけがふえている。

これを維持するのにカジノしかないといいだしたから、末期症状の絶望なのだ。
5Gになろうが6Gになろうが、電子政府は実現しないこと確実である。

アメリカ教育省は廃止になるか?

国民の「教育」は、国家百年の計というほどの「重要事項」だ。
だからといって、「政府」が教育をおこなう主体でよいのか?という議論があるのは、「自由競争」が教育分野でももっとも効果があがるとかんがえられるからである。

スイスには「連邦政府」の「省」として、教育省がない、と書いた。
アメリカ合衆国も「連邦」なのだが、こちらには教育省がある。
けれども、この役所ができたのは1979年、ジミー・カーター政権のときであった。

まだ40年の歴史しかないのは、日本人には「意外」である。
さぞやむかしから、というのは、まったくのまちがいなのだ。
カーター政権は、民主党政権であったから、わが国でいえば「社会党」的だというのも、勘違いである。

民主党だから左派政権であったことはまちがいないが、わが国の政党との「尺度」で比較したら自民党がこれにあたるとも書いた。
くりかえすが、わが国には共和党にあたる政党が存在しない。

現職の大統領が再選を目指した選挙で敗れたのは、経済の不調や、テヘランのアメリカ大使館が占拠されて、この救出作戦に失敗したこともあったが、教育省の設立という大不評も見逃せない。

「独立心」がモットーのアメリカ人には、「州」が国家なのであって、「連邦政府」はなるべく介入しないことをのぞんでいる。
もちろん、「州」のちがいには、「宗教」のちがいが前提にあるので、連邦として一律の教育制度を実施することは、介入のほかなにものでもないのである。

なぜなら、宗教によって理想の教育もちがうからである。

共和党のなかにあって、おおきく二派がせめぎあっている。
ひとつは「主流派」で、こちらはグローバリズムを推進する立場だ。
ブッシュ親子が代表格である。
もうひとつが「保守派」で、こちらは反グローバリズム。
現職がこれである。

ちなみに、左派には、国際共産主義運動があるように、グローバリズムが不可欠である。
なので、わが日本国政府は、グローバリズムを徹底的に推進する、という立場である。

レーガン・中曽根時代のように、「ロン・ヤス」という関係をもう一度みせたくて、「ドナルド・シンゾウ」をやたら演出したがるけれど、じつは「水と油」である。

現職大統領が再選すれば、来年からの四年間は、わが政府にとっては厳しい展開になるはずだ。
けれども、わが国民にとって厳しいとはかぎらない。
どちらが日本国民のためになるのか?まったく倒錯した時代になったものだ。

「教育省廃止」をいつ「公約」として発表するのかわからないが、わがマスコミが狼狽することまちがいないから、なんだか「ワクワク」する。

おそらく、アメリカの凋落がはじまる、とかテキトーなことを書いて、全国一律を維持するわが文部科学省のすばらしさを「ヨイショ」するのだろう。
これは、なにもマスコミだけでなく「学会」もおなじで、これみよがしに文科省にこびて予算の増額を狙うにちがいない。

スイスやアメリカには「州」があるけど、わが国には「藩」があった。
江戸幕府は、一種の「連邦政府」であった。
基本的な「御定」は全国一律だが、こまかいことは各藩の自由だった。

もちろん、身分制もあったから、学校制度を一律にすることがかなわないので、武士以外は「手習い」をもって教育とした。
そんなわけで、おのおの勝手に「塾」を経営していて、「評判」こそが業績を左右するのは、完全に自由競争が成立していたのだ。

電話もインターネットもない時代に、「評判」だけで全国から弟子があつまったのはどいうことかをかんがえれば、中央官庁が仕切る意味など最初から「イリュージョン」にすぎないのである。

はたして、教育省廃止とは、合理的なことではあるが、労働省との合併も腹案にあるようである。
つまり、「職業教育」の強力な実施である。

トランプ政権は、オバマ政権がすすめた福祉政策をことごとく「ちゃぶ台返し」して、低所得者向けに行われていた「食料費補助対策:フードスタンプ」を、ただ配付する方式から、健康に問題ないなら「働く」ことを条件として、受給者数を激減させた。

この経験から、低所得者層における「就業確保」には、「職業教育」が不可欠としているのである。
つまり、ただあたえることによる「貧困の固定」をやめて、「貧困からの脱出」を援助する方策にしたのだ。

いちいち合理的である。

外国人が経営者や管理者としてやってきて、成功にみちびく例はいくらでもある。
ゴーン氏も、経営再建ということにかんしては使命をはたした。

わが国は、トランプ氏が大統領から引退したあかつきには、彼のスタッフごとむかえて、そのまま首相と首相官邸をまかせることはできないものか?

世界の潮流の真逆をいくわが国政府は、「孤高」どころか「滑稽」になりはてている。

ぶったまげの全世代型社会保障

まだ1月なのに、今年2020年が歴史にのこる年になりそうだ。
オリンピックは、やっぱり「衰退の象徴」になるのか?

「福祉元年」を宣言したのは1973年、田中角栄内閣であった。
すなわち、わが国は「正式に」、これによって「社会主義国」になると表明したのである。
あれからほぼ半世紀が経った。

こんどは、安倍内閣が20日、通常国会冒頭の首相施政方針演説で、「共産主義国家」になると宣言した。
「全世代型社会保障」とは、共産主義の実践にほかならない。
とうとう、行きつくところまでいった感がある。

わが国政府は、「自滅」を宣言してしまった。

もう、政治の基準がなんだかわからなくなったから、共産党も大御大・不破氏を中央委員に再登板させることになったのだろう。
自民・公明党政権が、とうとう「宿敵」共産党のお株を奪ったのだから、それはもう「パニック」だろう。

これに、「第4次産業革命」を「国家がやる」というはなしまで演説にくわわっているから、もうどうにもとまらない。

日本政府は「発狂」した。

安倍政権は、わが国「(左翼)政界」のぜんぶを呑み込んで、事実上の「翼賛政治」に変容させようとしている。
これは、世界史上初の「無血革命」だし、実務をともなう「共産党宣言」にほかならない。

わたしの人生で、最大級の「ぶったまげ」の政治ニュースである。
2020年の施政方針演説は、後世、滅亡の一里塚、として歴史的価値をもつはずだが、それは後世の歴史家が、日本人を「愚かな国民」としてレッテルを貼る、最大の理由になろう。

すでにわが国の経済は、「国家依存」がはなはだしい。
昨年暮れに政府が発表した、2018年の名目GDPは、4兆9564億ドルだった。
1$=110円とおおめになるように計算すれば、545兆2040億円となる。

国家予算と地方予算の規模は、一般会計だけでなく特別会計もくわえなければならないが、国家・地方ともに「不明」ということになる。
特別会計にある、元公団や財団が、さらに傘下におさめる株式会社が子会社どころか、ひ孫会社、やしゃご会社ほどまであるからだ。

猪瀬直樹氏が都知事になるまえの評論家だったとき、道路公団の民営化委員になって、財務内容が「さっぱりわからない」とテレビで、わからない理由をわかりやすく解説していたことをおもいだす。
なるほど、わからなかった。

それで、すったもんだしながら「民営化」されたが、中途半端な感じがするのは、やっぱり「わからない」ままだからである。
これが、道路公団「だけ」の問題だった。
NHKもなにもかも、ぜんぶおなじ構造のままになっている。

株式会社については、いろいろと命令して、なにかと「情報公開」にうるさいが、国民資産で運営している組織のほうは、さっぱりわからないようになっている。
旧ソ連、東欧のひとたちには「なつかしさ」があるはずだ。

そんなわけで、けっきょく、わが国の「公的部門」がどのくらいの規模なのか?いまだにさっぱりわからない。
国民がわからないだけでなく、財務省の役人すらわからないのは、全部を統括する役所がないからだし、そもそもわかるようにさせる「法」もないからである。

だから、「ざっと」としか推測できない。
それで、でてくるのが「350兆円ぐらいでは?」なのだ。

これは、GDP比で「64%」ほどになる。

なんと、わが国は民間のボリュームが36%しかない。
みごとな社会主義が、もう達成されている。
それを、もっと政府が頑張って推進しますと、総理が演説したのだから、目指すのは「共産主義国家」しかない。

元全共闘のひとたちを中心にした、お年寄りたちが「安倍やめろ」という運動をしているが、安倍政権は、このひとたちの「理想社会」をつくろうとしているのになぜなのだろう?

それに、「保守」を自称するひとたちが、極左政権なのに「安倍支持」なのもなぜなのだろう?
日の丸に敬礼する姿だけしかみないからなのか?

それは、日本国民が「卑しくなった」からである。
正確には、卑しくなるように仕向けられたのだ。

「どっちが得か?」という命題が、いつのまにか「国からもらうおカネ」の「もらい方」になってしまった。
年金しかり、ふるさと納税しかり、はたまた生活保護しかりである。

こうして、エサをまかれた国民は、不労所得のごとく、国や自治体から「もらえるものをもらわなければ損になる」と擦り込まれたのである。

「一億総乞食化」が達成できた。

「もっともらえます」「もっと差し上げます」ということが、選挙で当選する条件にもなった。
だから、年金けずります、とはぜったいにいえなくなって、だれだって当選したいから、こころある候補者もだまっているだけになるのだ。「発言しない議員」はこうして生産される。

このように、全候補者が「社会主義を容認する」メカニズムがはたらくので、政権与党は絶対的議席数だけがほしいから、「もっと」を強調するだけでよい。
その挙げ句が、共産党の主張まで呑み込んだのである。

わが国は、社会が安定しながら滅亡するモードにはいった。

もうだれにも止められない。
民主党政権を、よりスマートに、より過激化したのが安倍政権である。
さて、どうしたものか?

これから、「エクソダス(大量の国外脱出)」が本格化するだろう。
衰退が加速化する「元年」となりそうである。

経理を強化しても儲からない?

企業活動とは投資活動のことである。

「ひとがうごく」とかけば「働く」になる。
従業員がいるだけで、人件費がかかるから、うごくかうごかないかはじっさいに関係ない。
その典型が事務仕事で、日がな一日机の前に座ったまま、なにかしているようでじつはゲームをして暇つぶしもできる。

有能な経営者は、付加価値の生産に注視するから、従業員がうごきまわろうが座ったままであろうが、その形態はどうでもいい。
残念な経営者は、付加価値の生産がピンとこないから、なんでもいいから忙しそうな従業員をみているだけで安心し、暇そうなら怒りだす。

むかしの喜劇役者で、「あーいそがしい、あーいそがしい」といいながら、舞台を走りまわるだけでなにもしないことを演じるキャラクターで受けていたひとがいて、観客が何度みても笑ったのは、身近にそんな人物がかならずいたからである。

だから、残念な経営者のもとに、忙しがるだけの従業員がたくさんいるのは、経営者がそうなるように育てているからであって、そんな人物たちをわざわざ選んで採用したわけではない。
こんなことにも気がつかないから、かならず「うちの従業員は忙しがるがなんにもしない」と他人にボヤけるのである。

なので、こんな残念な経営者は、経理も不正がなければよいという価値感だから、「経理が利益を生む」とは夢にも考えない。

経理部と財務部がある企業がある。
ふつうは経理部だけだろうが、おおきな会社になると財務部があることがある。

経理部は、月次決算や税務などの報告書をつくったり、金銭出納の窓口になるから、会社のおカネをあつかう部署だ。
これに、会社の資産管理もくわわって、その気になると見た目よりもいそがしい部署になる。

小さい会社だと、従業員の給与計算も経理が担当する。
退職金も給与あつかいになっているから、数人でも退職者があると、おおきなおカネがうごくことになる。

そんな経理は、むかしなら算盤、ちょっと前なら電卓があって、計算用紙に定規で表をつくって、計算結果を手書きしていたものだ。
これが、コンピューター会計を看板にする税理士からの要請で、会社の数字もデジタル化の時代になって、いまなら税理事務所にデータ転送ですませているだろう。

ものをあつかう会社なら、伝票が紙だった時代はおわって、バーコードからユビキタスの時代になってきた。
発注管理も、納品も、在庫管理も、どこもデジタル化がすすんでいる。

外部的には「経理」と「財務」のちがいは、どうでもいいが、内部的にはおおきくちがう。
「経理」を「制度会計」、「財務」を「管理会計」とすれば、重要なのは「財務」のほうになる。

おおくの企業は「制度会計」しかしないので、経営のための数値情報がないがしろになっているのだが、これに気づかない。
経営のための情報は、「管理会計」の分野である。
株主のためにある決算書をみて経営する、という企業は、じつは経営なんかしていない。できっこない。

ならば、なにをしているのか?
会社を「運営」しているだけなのだ。
だから、だれにだってできる。
なぜなら、部下たちが「勝手に」支えてくれるからである。

これを、とち狂って、じぶんが経営者だから会社の経営をしていると勘違いし、トップダウンで「命じ」てみたら、うまくいくときとそうでないときがある。

なぜなら、部下たちが「判断」して、やるかやらないかをきめているからだ。
経営者は、なぜやらぬのかさえも理解できない。
それで、自社の社員のことを外にいってボヤくのである。

まったく犬と飼い主の関係そのものである。
うちの犬は「バカ犬だ」という飼い主が、犬への教育方法をしらないばかりか、犬という動物の習性すらしらない。
しかも、擬人化までして、とうとう「飼い犬に手を噛まれる」ことになってしまうのだ。

会社の経営には、実態把握が必須だが、制度会計ではこれが「甘い」。
なので、わかっている経営者は、制度会計の報告だけで満足しないのだ。

デジタルの時代だから、手書きや手入力だったむかしにくらべて、ずいぶん自動化されてきている。
この「投資」をしないから、いつまでたっても「運営」しかできない。

デフレの時代に行き詰まる企業のパターンは、これである。

自社は制度会計しかしていないのではないか?
という疑問を、経営者がもたなくては、はなしがすすまない。
部下がおしえてくれることではない。

じつは、管理会計を強化すれば、会社は儲かるようになる。

だから、いまどきなら、どんなコンピューター・システム(ソフト)を採用するかで、企業基盤の強弱がきまってしまうのだ。
これを選定する「目」を、経営者が学ばないといけない。
制度会計を受け持つ、顧問税理士の「意見」は、まず役に立たないとしるべきだ。

でも、勉強する時間がないと思し召すなら、業績がよくて採用している企業の実態を調べるという手がある。

プログラミングが小学校の必修に

「産業優先国家」の面目躍如である。
もちろん、経済力をもつことを優先させないと生きていけない「もたざる国」に住んでいるから、「産業」をどうするのか?は重要なポイントになることを否定はしない。

しかし、これは、「政府」の仕事か?

企業にとって、新卒だけでなく中途採用にあたっても、義務教育以上の「卒業者」を基本としている。
これだって、ある程度のバラツキはあるけれど、本人能力としての水準はだいたいの見当はつくものだ。

この国の「統制経済」を実現させているおおきな要素に、「教育制度」があることは否定できない。
「人材」を育成するのが「教育」だから、画一的な産業の時代には画一的な教育が「向いていた」。

これが、わが国発展の原動力「だった」ことは否定しない。

しかし、産業自体が細分化されてきたから、教育が過去の成功体験をひきずっていると、産業界にダメージをあたえることになる。
つまり、ほんとうの「ニーズ」と合致しない。
これが、わが国の「教育問題」の本質なのだ。

それで、さまざまな「教育改革」がこころみられてはきたが、江戸時代の「改革」のように、成功したためしがない。
「体制」という「枠」のなかでの「改革」しかしないからだが、現代の「体制」とは、「全国一律」を「善」として、これを「文部科学省」という中央官庁が「なにからなにまできめる」、ことである。

前にも書いたが、教育も社会主義化しているのである。

企業活動において、ライバルを意識するのはだれでもできるが、あんがい「ベンチマーク」をただしく設定して、これを継続的にウオッチすることをしない。
それで、じぶんを見失って迷走することはよくある。

わが国も、なぜか「アメリカ合衆国の経済」を意識していて、なぜか「ライバル」としている。
戦後はだれも思ってもいなかった「アメリカに追いつけ追い越せ」という、あとからできた「スローガン」を、低成長時代になって擦り込まれたからだろう。

これに、意味も根拠も不明の「贖罪意識」から、さんざんお手伝いして育てた中国にあっさり抜かれて、あからさまに「バカにされる」にいたって、ライバルどころか「崩壊願望」をもつ体たらくに陥った。

それもこれも、「ベンチマーク」の設定ができていないからである。

では、わが国のベンチマークになりうる国はどこか?と問えば、山国だけど「資源のなさ」にもかかわらず、世界トップの「生産性」を達成している「スイス」がまっさきにあげられる。
ただし、相手はわが国のはるか先をいく「先進国」であって、「ライバル」ではない。あくまでも「ベンチマーク」である。

スイス連邦政府は、七つの「省」がある(七つしかない)が、この中に「教育(省)」はない。
その下の州政府に「教育部」がある。
州議会の議員とはべつの「参事選挙」によって七人(五人や九人の州もある)を選出し、これら参事が合議制の執行部「参事会」を構成しながら、各参事が行政各部の部長も兼務するしくみだ。

なので、州の役所に常勤公務員として勤務するひとの最高位は「課長」である。
休職して選挙に当選すれば、議員や参事になれる。
なお、参事は連邦国民議会(下院)議員を兼務することができる。

州議会議員も参事も、どちらも任期は4年である。
ユニークなのは、州知事と副知事は、この参事たちが一年毎に「輪番」でやるから、州知事選挙はないし、州知事が二年連続することもない。

つまり、各州という地方が独自に教育行政をするのであるが、だからといってわが国の文科省が地方にあるだけとはちがって、市町村単位の「教育課」が実質的な教育行政をおこなっている。
この「課」の運営さえも、住民が参加するので、行政が教育制度を勝手にきめることはできない。

ついでだが、「観光立国」のスイスの地方行政に、「観光課」がない、ということもベンチマークになる。

すなわち、行政を「肥大化させない」という「かんがえ方」が、住民の生活をよくするための「基本中の基本」だということだ。
わが国の発想と真逆だからこそ「ベンチマーク」になる。

長野県はむかしから「教育県」を自称していたが、「自主」のはずだったものが国家に横取りされて、全国一律が強制されたら、やっぱりどこの県ともおなじなった。

せっかく、旧安曇村(合併して松本市)がグリンデルワルト村と姉妹提携しているのだから、教育「特区」にでもなって、グリンデルワルト村とおなじ方式で教育したら、数年で成果をだすのではないか?

この四月の新年度からはじまる小学校の「プログラミング」は、6年生が対象で、来年度からは中学の「技術」でもはじまる。
それから、高校にも移行するのだろうが、おそらく大学入試には「関係ない」課目となって、いつものように中途半端におわると予想できる。

理系の大学で「分数」が「補講」の対象になっている現状からすれば、文部科学省のやる「学校教育」は、とっくに破たんしている。

文系の大学生は、分数どころか、とうとう「引き算」もできないし、「ふつうの電卓」のつかいかたもしらないで生活している。
しかし、文系だから補講もしてくれない。
企業が採用して、はじめて気づくが、上司もできるだけしらんぷりするのは、「パワハラ」だといわれたくないからである。

「プログラミング」は、これらの実態から目をそらすための方法でしかない。
役人によれば、目的は「論理力の強化」だそうである。

学校でのテストの結果とは、教師の力量を示すものという論理もなく、最終的に「指導要領」の出来の悪さだという論理もないから、文科省の役人の「成果」が、評価の対象外にあるのはずるい、という論理もない。

すくなくても、親やおとな世代が論理力をうしなっているから、こうした「改革」に、文句もいえないのだとしか言葉がみつからないのは、産業界もおなじか?

「石油確保」の意味がかわった

さてさて、従来の延長線でものごとをかんがえたら、アメリカが引きだした中東に、穴埋めでわが国自衛隊が派遣されることになった。
総理が現地を訪問して、「理解を求める」という儀式をしたのは「国内向け」で、先様が拒否する理由はない。

むしろ、じぶんからけっして「撃てない」わが艦が、大丈夫なのか?と心配されたのではないか?
そうした事前情報は、エリートを自称する外務省のキャリア外交官が、これ見よがしに世界の非常識をご説明したはずである。

だったら、なにしに来るかと?おとなは追求せずに握手するだけだ。
あちらの常識からすれば、なにをいっているのかわからない説明に、眠くなったのではなかろうか?

さては、アメリカ合衆国が軍を引きだした理由は、国内で大深度削屈による石油の入手が可能になったからである。
二度の石油ショック以来、石油の枯渇が心配されたが、武田邦彦教授によれば、だんだん石油の正体がわかってきた。

「地球史」という宇宙規模の歴史をひもとけば、生命の誕生がなければいまのわれわれも存在しない。
さいしょの生命が進化して、いまの時代になっている。
この間、動植物ぜんぶにわたる、幾世代もの「死がい」が土にもどって、地下深く地層のなかに埋まったのが、石油であり石炭だ。

それで、地表から数千メートル下の地殻のなかに、石油層の「本体」が埋まっていることが判明した。
従来の浅い場所にある「油田」は、「本体」から浮き上がってきた分の「溜まり」にすぎないのだ。

すなわち、埋蔵量は「数千年分」あるという。

だから、人類はずっと石油を燃やせばいいともいえるが、たぶん、あと数百年もすれば、原子力にかわる画期的エネルギー源を発見するにちがいないから、そんなに心配しなくてよい。
ただし、石油は燃やすだけが能ではなく、プラスチックの原料だから、材料としての利用はずっと後世までつづくとおもわれる。

一方で、チェルノブイリと福島の後始末には、もっと時間がひつようなのは確実だ。
これらの後始末ための技術開発に要する、最も楽観的な予想での数百年と、画期的エネルギー源の技術がどんなふうにつながるのかも、いまは想像できない。

悲観的な予想は、千年単位であるから、もしや石油が「本体」も枯渇する時代になってようやく後始末ができるかもしれない。
平安時代の人びとが、千年後のいまを予想できなかったように、われわれも、これから千年後は予想できない。

そんなわけで、時間をいまにもどすと、南北アメリカ大陸とヨーロッパ大陸、それに豪州の地下の様子は、すでに「調査済み」なので、これをもっての石油「本体」をいっている。
アジア大陸とアフリカが「未調査」なので、おそらくもっとある。

ところが、「本体」は、ぜんぶが「大深度」にあるから、どうやって掘りあてるのか?がすべてなのだ。

ここに、パラダイム・シフトが発生した。

「掘る技術」が、石油権益をしめすことになった。
油田地帯が国内にあることの意味が、おそろしく小さくなってきたのだ。

はたして、「シェールオイル」という「本体」にいきついたアメリカは、世界で唯一の「掘る技術」を独占している。
「大深度」を掘るとは、地中圧力とのたたかいである。
水中においてもたいへんだから、想像を絶する力がはたらく。

先端の「歯」の強度と、でてくる「土」をどうやって地上にもどすのか?そして、それをささえる「管」のつくりかたは、一朝にしてできる技ではない。
これを、アメリカ人は「自動化」させて掘っている。

わが国が外国に依存している石油の割合は、日米戦争まえの当時で「9割」がアメリカだった。
このときの「アメリカ」とは、「石油メジャー」(国際石油資本)のことをさす。

いわゆる、「セブン・シスターズ」とかつていわれていた、世界の石油を独占していた企業群をいう。
いまは、エクソン・モービル、シェブロン、ロイヤル・ダッチ・シェル、ブリティッシュ・ペトロリアム、の4社をいう。

「米・英・蘭」とのたたかいになったのは、ロイヤル・ダッチ・シェル、ブリティッシュ・ペトロリアムが「英・蘭」そのものであったからで、これにインドとインドネシアという植民地が地図にはあった。

いま、中東依存が「9割」なのも、実質「石油メジャー」から購入していることに変化がない。
アラビア石油がわが国「自主開発油田」の代表だったが、2000年にサウジアラビアの採掘権を失って、開発から撤退している。

さては、わが国の「掘る技術」はどうなっているのか?
「日米」による石油採掘技術の「独占」が、産油国や石油メジャーを超える可能性もある。

すなわち、掘ってほしい、といういろんな国からのオーダーにこたえるのだが、これを「米・英・蘭」はゆるすのか?
もはや、わが国の外交官は「理科系」でないと務まらないのではないか?ということも、「パラダイム・シフト」ならではだ。

「観光立国」は幻想の「甘言」にすぎない。
ものづくりだけではない、「科学技術立国」こそが、将来のあかるい未来をつくるのである。

日本には「近代政党」が二つある

わが国が「近代国家ではない」ことのわかりやすい事例が、「近代政党」の存在を確認することでわかる。
おもだった政党が、どれも近代政党ではない。
これは、明治以来、一貫しているので、いまも「近代化」しているのがわが国だともいえる。

つまり、国家の基盤中の基盤である政治体制という最上位のレベルで、わが国は「発展途上国」なのだ。
近代国家を前提としたはなしが浮いてくるのは、このためだ。

経済発展に目がくらんで、あたかも「近代国家」だと思い込んできたが、ぜんぜんちがう。
いま、GDP世界第二位という国の「後進性」が批判されているが、彼らの独裁政党は、なんと「近代政党」なのである。

では、近代政党とはなにか?
要件は三つ。
これら三つを全部みたさないと「近代政党」とはいわない。

・「綱領」があること
・「組織」があること
・「議員」がいること

最大の問題は、「組織」の中身である。
・組織には、独自のシンクタンクがあること
・組織は、党首からの指令で活動すること
・組織は、候補者を選ぶこと

の三つがある。

すると、わが国最大の自民党は、近代政党ではないことがわかる。
表面上は三つの要件を満たしているようにみえるが、「組織」の中身を満たしていない。

独自のシンクタンクをもたず、これを「官僚」にやらせる。
だから、党による政治は実現せず、役所による政治が実現する。
選挙を何回やっても変わらないのはこのためだ。

独自のシンクタンクをもたないから、党首による指令よりも、中央官庁の指令(省令からはじまって課長通達まで)に依存する。
そして、なによりも候補者を党員組織の選挙できめない。
「予備選挙」という概念が、最初からないのである。

そんな「組織」だから、「議員」は独自の「後援会」という「組織」をつくるしかない。
これが、「地元」において、国会議員-県会議員-市町村議員というピラミッド型組織となる。党の組織ではなく、議員個人の組織だ。

市町村議会選挙で、おなじ党の隣町の候補者がじぶんの街で外宣すると「攻めてきた」というのは、党組織ではなく、議員の後援会組織で選挙をやるからだ。
けっして党本部からの指令でうごかない。

そうすると、わが国であまたある「政党」で、「近代政党」といえるのは、公明党と共産党の二党「だけ」であることがわかる。
この二党は、党本部からの指令でしかうごかない。
ただし、党首も候補者も、どうやって選んでいるのか、外部からはわからないから、やっぱりちゃんとした民主主義の「近代政党」ではない。

すると、全滅だ。

全体主義の国における「選挙」は、民主主義の国における選挙とことなるのは、候補者を「選ぶ」のではなくて「信任する」という「過程」としておこなうことにある。

組織がA氏を候補者として選んだから、信任に同意するのかしないのか?を問う。
A氏かB氏かを選ぶのは党であって、党員ではない。
それに、党にとっての最優先は、党への忠誠であるから、組織構成員である党員の「優秀さ」とは頭脳のことではない。むしろ頭脳は忌避される。

「ソ連時代」に「ノスタルジー」がある現代ロシアで、旧党員たちが胸に勲章をこれでもかとつけて真顔で並んでいる光景がネットに多数アップされている。

みんな老いてはいるが、男女とも顔に刻まれたシワをみれば、どうして「党員」になれたのか想像できる。
もしやかつての「農奴」たちではないのか?
頭脳よりも忠誠を重んじることが、実践されたことの証拠だ。

「信任しない」のは、「反党行為」だから、全員一致で信任することに意義がある。結束の確認こそが「選挙」なのだ。
だから、「党」=「だれか」にしないときまらない。
独裁者が生まれる必然がここにある。

全体主義は、近代が生んだ「悪魔」だというゆえんだ。

いま、わが国が全体主義の国になる、といえば誰もが信じない。
そんなわけがない、と。
しかし、わが国の「非近代化状態」は、冗談ではなく「危険」なのである。

「効率」をもとめると、「試行錯誤」が「非効率」にみえる。
それが「国家総動員」の「計画経済」=「統制経済」を産んだ。

しかし、「神の見えざる手」のごとく、あるいは、ミーゼスが数学的証明をしたように、もっとも効率がよいのは「試行錯誤」を全員がする自由主義による社会なのだ。
かならずだれかが、いまよりも「うまいやり方」をみつけだすからである。

したがって、全体主義のリーダーシップは、トップダウン型で、党員は究極の「指示待ち」をもってむねとする。かんがえるのは「党」だからだ。
自由主義のリーダーシップが、構成員の「能力を引き出す」ことを第一とするのと、真逆のベクトルなのである。

戦後の成長は「奇跡」だったが、それをわすれて、日本人が必至に働いたからだと思い違いしている。
・安い石油
・冷戦構造
・朝鮮動乱
の三つがかさなる歴史的ラッキーがつくりだした奇跡だった。

豊かになったのは役所もおなじ。
つかえるお金がたくさんできて、役人たちが「効率」を「計画」しだす。
これこそが、「計画経済」なのである。

「試行錯誤」が科学技術の歴史であるのに、役人が「効率」をもとめるから、「試行錯誤」させないで、わかりきった「先端技術開発だけ」に予算を投じる。
それで「ソ連」がだめになったことを知らんぷりする。

中国人がすごいのは、民間に試行錯誤をやらせていることだ。

なんと、全体主義の国から学び直しがひつようなまでに落ちぶれたのがわが国だ。
だから、政治も「効率」のまねっこをすれば、悪魔の「近代政党」に支配されるようになる。

いまさらだが、手本にすべき思想の選択をまちがえてはいけない。

わが国の凋落は、役人による「計画経済」=「統制経済」の体制になってしまったからである。

企業内でも、全体主義の統制体質と、自由主義の試行錯誤を容認する体質がある。
「組織のつかいかた」のちがいである。

どちらが、業績も優良でしょうか?

「どんど焼き」ができない

正月飾りを焼いて、この火でもって焼いた餅を食べる風習がある。
ちょうどいまごろ、神社の境内でよく行われていたものだが、大ウソだった「ダイオキシン報道」以来、たき火が禁止になってできなくなっている地域もある。なにが「猛毒」のものか、あほくさい。

あれだけ騒いで、とうとう謝罪もせずフェードアウトしたけれど、世間に日和る自治体に「たき火禁止」の条例だけは、ちゃんと残った。
まさかこれで、消防行政が署員の「火事場太り」させていないか?
わたしの家の墓がある、平安時代からのお寺でも、近所が開発されて卒塔婆のお焚き上げができなくなった。

以前は境内に幼稚園もあって、落ち葉たきで焼き芋をしていたが、禁止になってしばらくしたころに幼稚園も廃園した。
住職は、童謡の「たきび」を歌いながら焼き芋をみんなで食べたものだったが、歌はうたえてもたきびをしらないで育つのが残念だといっていた。

しかし、卒塔婆のお焚き上げ、は宗教儀式でもある。
これに「禁止命令」をださせるとは、行政による「宗教弾圧」ではないかといったら、手を振って「そんなこと役所にいえません」という。そのかわり、申込数を少なくしてほしいという案内が寺からとどいた。

卒塔婆は「産業廃棄物」になって、もちろん有料で引き取られている。
国会だけでなく、地方議会も深い眠りについている。

ネット配信されたニュースによると、ワイドショーに出演しているお笑いタレントが、お焚き上げも焼却炉で焼くのもおなじこと、と発言したのが話題になっているという。
なによりも「分別」が必要だという主張で、記事も、やっぱり「地球環境優先だ」としめくくっている。

ぜんぜん「お笑いごと」ではない。

このひとたちは「日本に住んでいてよかった」とおもう。
もしも、アメリカ合衆国でおなじ発言をしたら、たいへんな目にあうだろうけど、それも想像できないのだろう。
もちろん、この発言者や記事をかいたひとを支持するひともふくまれる。

アメリカ軍がつくった日本国憲法とほとんど内容がちがうアメリカ合衆国憲法でも、信教の自由は保障されていて、「国教」という概念を否定している。

本国の英国から逃れてきた、「清教徒」のひとたちがつくった国なのだから、当然といえば当然だ。
ヘンリー8世という「怪人」が、英国国教会をつくらせて、ローマ・カトリック教会から離脱した。

ロンドンの二大聖堂、ウエストミンスターとセントポールは、前者を王家の菩提寺とし、後者を市民のためとしている。
セントポール大聖堂では、チャーチルとサッチャー首相の葬儀がおこなわれ、チャールズ・ダイアナの結婚式もここだった。

さいきんでは、トランプ政権が「宗教の自由」を強調している。
これは、国際的に「チベット」や「ウイグル」を意識しているのはあきらかだ。
国内的には、支持母体にかかわる「福音派」の優遇ともいわれている。

アメリカ合衆国という国は、宗教的基盤にある「人工国家」だから、「自由」と「民主主義」よりもまえに、「宗教」がある。
これをわすれたら、はなしにならない。

たしかに、日本人の宗教観は世界的にも「特殊」だ。
ほとんどのひとが、日常生活で宗教を意識しないが、いざとなると「神だより」に豹変する。
そのとき、困りごとにいちばん「効きそうな」神社仏閣にいって拝むのである。

つまり、日本人にとって、「神」や「仏」は、じぶんのために存在していて、じぶんのおもいを実現してくれる存在なのだ。
もっといえば、人間のためにある、神が人間に奉仕する、とかんがえている。
それでいて、じぶんはとくに信じるものはないとして「無宗教」だと思い込むから、論理がつながらない。

旧約聖書にもとづく「神」は、絶体という。
これは、存在自体が絶体だし、ましてや人間どころか万物を支配しているのだから、「御心のままに」なのであって、じぶんのおもうとおりになにかをしてくれる存在ではない。

だから、もし、神に頼み事をしてそれが現実のものになったら、どんなにちいさなことでも、それだけで「奇跡」なのである。
敬虔なひとが、えっそんなこと?とおもうようなことでも、いちいち胸のまえで十字をきるのはこのためだ。

自然崇拝からはじまるので、わが国では「八百万神」が、あらゆるものに「宿る」という発想がある。
それが、物資がないことがふつうだったことといっしょになって、「もったいない」になった。

世界でただ一国、地球環境保全に妙に執着して熱心なわが国の行動原理は、地球環境と自然崇拝とが連結しているからであろう。
けれども、これが「ゆがんで」、地球環境だけがまえにでてきた。

このタレントは、「神社にはよくいくけど、神様なんて信じていない。だから、お焚き上げとしてどこかで燃やすのなら、焼却炉でかまわないし、分別がいちばん大事。」という。

もはや「日本人」ではない。
これを当然とする記者も、支持した読者もおなじだ。
ましてや、アメリカにもいけないし、アラブにもいけない。
申し訳ないが、彼らの感覚なら、「人間ではない」ことになる。

ふつう、こうしたひとたちを「唯物論者」というのだ。

そういえば、「除夜の鐘」すらはばかれるようになったし、正月三が日だって、鐘撞き堂の鐘を自由につけなくもなった。

ヨーロッパのおどろくほどにぎやかな鐘の音や、中東アラブのスピーカーから大音響での祈りの声に、「うるさい」とクレームをする勇気なんてこれっぽっちもないものが、なにをじぶんで発言しているのかもわからないのだ。

いつの間にか、飛行場の騒音問題とおなじにされて、千年以上まえからある寺院の近くに住まうとき、お焚き上げも鐘の音にも気づかない無神経が、なにをいうかと嗤われない世の中である。
ダイオキシン報道とは、伝統文化破壊のプロパガンダだったとおもう。

すでに300兆円(30ではない)ともいわれる金額を「環境」につかっているともいわれるが、自然崇拝のためではなく「利権」のためだ。この利権は、国内外ともにある。
こうして、真に生産的な投資をしないので、貧乏になっている。

わが国は、国を挙げて「唯物論者」を増殖させて、「権利」だけを主張したら、それが「いいひと」になっている。
これをもって、日本版「文化大革命」が進行しているといえるのだ。

プラハ市の決断は連鎖反応に?

「姉妹都市」を結ぶという、地方自治体による「外交」がある。
都市の住民交流という「文化性」がおもな柱であるから、国家間の「外交関係」とはことなる次元にある。
国家間なら「条約」が、姉妹都市なら「提携書」がむすばれる。

昨年の10月に、チェコ共和国のプラハ市が、これまで提携していた「北京市」との姉妹都市を解除した。
そして、一昨日の14日に、「台北市」との姉妹都市提携書を締結したことがニュースになった。

チェコは、もともと「チェコスロバキア」(表記としてチェコとスロバキアの間に「ハイフン」をいれない)だった。
建国は1918(大正7)年であるから、ようやく百年。ヨーロッパの「複雑性」がこれだけでもわかる。

第二次世界大戦のヨーロッパ側での「原因」のひとつ、「ミュンヘン会議」(1938年)で、この国の「ズデーテン地方」のドイツへの帰属が認められ、国家の「解体」がはじまる。
われわれ日本人がしっておくべきは、「ミュンヘン会議」における「出席者」に、当事者のチェコスロバキア代表が「いない」ことだ。

これは、1772年から1939年まで、なんと5回もおこなわれた「ポーランド分割」もおなじだ。
周辺の「強国たち」によって、「勝手に自国が分割」されてしまうことがあるのだ。当事者の小国は哀しいかな「さからえない」のである。

とうぜんに、国民は悲惨な目にあうが、それすら国際社会はみない振りをするのである。
なんとこれが「国際法」ということになっている。

つまるところ、強国は「国際法」を「破る」ことで、強国たらんとする行動をとることも、国際法は「内包」しているとしるべきだ。

犬社会における「ボス」だけが、群れの低位の犬がとらえたエサを横取りしてもゆるされるのとにている。もちろん、このばあい、低位の犬は抵抗できないし、抵抗をゆるされない。
けれども、犬の記憶力は都合よく、この理不尽を忘却するようになっているから、ストレスにならない。

家庭の愛玩犬におきる「問題行動」のほとんどは、飼い主が、じぶんが「ボス」であることを犬におしえないために発生する、「精神疾患」といわれる。
おおくの犬は、ボスに依存したい欲求があるから、その欲求不満が強いストレスになって「問題行動」になっているだけなのだ。

その意味で、犬をコントロールできる飼い主は、強国とおなじ行動を犬に対して「できる」ひとである。
だから、戦後の日本人は、犬もまともに飼えなくなった。

すなわち犬をコントロールできないのは、じぶんが「弱小国の発想」と行動パターンをしていることを犬に見破られてしまって「問題行動」を、飼い主が犬に起こ「させている」のにも気づかない。
「毅然とした態度」が、なんと犬に対してさえもできないのだ。

「やさしさ」が「仇」になることがある。
それは、勘違いのやさしさなのである。

「プラハ」といえば、1968年の「プラハの春」が連想される。
背景にあるのは、「スターリン批判」による「精神ショック」だ。
強制的に「悪」を「善」とする全体主義において、「絶体善」であったはずのスターリンが、「悪」とされたから、「なんだったんだ」になった。

これも「強制」をともなう価値観の転換だから、犬の群れにたとえれば、「ボス」の交替で、犬たちにはありえないことがあたらしいボスによって強制され、犬たちが「問題行動」をおこしたようなものだ。
ぜんぜん、いいたとえではないが。
ただし、人間は都合よくわすれはしない。

しかし、現実におきた「プラハの春」は、ソ連軍を中心としたワルシャワ条約機構軍による軍事介入にまで発展する。
これで、チェコスロバキアは全土を占領されてしまうが、市民が無差別に殺戮される過程があった。

なので、プラハ市民には、わすれることができない事件なのだ。
それで、「人間の顔をした社会主義」が「正義」となった。
鉄のカーテンの内側では、ここまでが「限界」だった。

それから、とうとう、東欧の自由革命となってチェコスロバキアも自由化された。
力のたががはずれたのを機に、チェコとスロバキアは別々の国になった。

ソ連圏内での「分業体制」で、工業を割り当てられたチェコには工業力がある。
この経済力と、プラハの春で英雄になった人物が投獄の経歴をもって「初代大統領」になってソフトランディングに成功する。

いまの大統領は、「親中路線」を突き進んでいるが、プラハ市長は初代大統領の系統にある。
それで、今回のニュースになったのだ。
つまり、筋金入りの「人権派」ともいえる。

根っこに「プラハの春」があるから、東欧圏では理解がはやいはずだ。

はたして、「シラッと顔の社会主義」をやっているわが国では、他人事である。
ふだん「人権」を「口にする」ひとたちの仮面が剥がれるときなのだが、全員が仮面をかぶっているから剥がれもしない。

日本社会党が衰退をはじめたのは、「プラハの春」の悲惨な顛末である市民殺戮に「加担」したからともいわれる。
このときから「仮面」が剥がれないのは、もう顔に食い込んでとれないのだろう。「拉致」を認めなかったのがこれだ。

カジノ反対運動が、市民投票実施派と市長リコール派とに分裂している横浜市は、「大連港」「上海港」という「港」を相手にしながらも、「上海市」と「北京市」ともに姉妹都市になっている。
注目は、2006年に「台北市」と提携していることだ。

つまりは、中田市長二期目のスタート時にあたる。
「基隆港」がないのが不思議だが、地方都市による台湾重視は、もっとあっていい。

はたして連鎖反応になるのか?
世界は?国内は?
あたらしい「踏み絵」になるかもしれない。