無意味な「無認可」

無認可ときくと認可されていないのだから、中途半端なかんじがする。
しかし、世の中には無認可でも有用で優秀な「もの」や「こと」はたくさんある。

結論から先にいえば、行政にとって御しやすく、じっさいに行政の支配下にある「もの」や「こと」が認可されるだけだから、これに「本質的な価値」は関係がない。
つまり、一種の「虚構」なのである。

その「虚」すなわち「うそ」を、あたかも「まこと」のように権威付けるために、さまざまな特典と嫌がらせというアメとムチをつかいわけるのが、行政にとっての「監督行政」になっているだけである。

いうなれば、「監督」したいのであって、市民に価値を提供したいのではない。
むしろ、本質からはなれた嫌がらせをすることで、市民の利用を減らすように仕向けるから、市民が受けられるはずの価値を減らす努力をしているのである。

これをふつうは「本末転倒」という。

しかし、無意味なのにこれをゆるす市民感覚があるのも事実だから、こうした行政のムダが減るどころか増殖するのである。
すなわち、わたしたちの「鏡」が、これらなさけない行政のすがただということになる。

「成人」というのは,「おとな」のことで、子どもとちがって自由意思が認められている。
子どもは、ふつう親という存在の保護下にあって、自由が制限されるものである。

だから、成人が社会のルールを破ると、その制裁をうけることになっている。
もちろん、成人であるひと単独のルールやぶりなら、制裁をうけるのも本人だけ、が原則なる。

しかし、どういうわけかわが国では、ある個人が不祥事を起こすと、「上司」や「責任者」というひとたちがでてきて、「謝罪」することが習慣になっている。
いわば、連帯責任を負うのである。

これには、本質的な意味があるのだが、ふつうは「儀礼的」だとされて、「謝罪」したひとたちも、ほんとうはその場が過ぎればどうでもいいとおもっている。
ただし、ことばでは「以後、このようなことがないように徹底する」という「うそ」をいう。

本質的な「謝罪」の意味は、仕組みと教育の不備の可能性のことである。

外国では、成人がしでかしたことなら、ぜんぶ本人の責任であって、上司や責任者は、「適切な処分」という人事権限の発動だけがしごとになって、日本のような「謝罪」などしない。

しかし、日本では「謝罪」しているが、ほんとうに謝る気などなく、たんに迷惑だとおもっているだけだから、ほんとうは外国の対応とあまりかわらない。

けれども、こうした「管理者責任」をはたしたふりをしないと、社会からうらみをかう。
ようは、いつまでも「子ども」あつかいされる国なのだ。

これと、行政の認可という行為がそっくり構造なのである。

国民一般を、子どもあつかいしていて、そんなあつかいをされている側も、それでよしとしている。
おそるべき「国民性」をもっているのが、日本人なのだ。

これは、「国民一般」のことだから、政治家もマスコミものがれることができない。
わかっちゃいるけど、やめられない、のである。

ところが、この状況をわかろうとすると、たいへん空しくなる。
だからわかろうとすることをやめるのだ。
そうして、みんなそろって「国家依存」や「行政依存」をしているふりをしていれば、心のやすらぎがえられるので、そのうち「ふり」だったことをわすれて、本気になる。

役所が「認可」したものなら、無条件で安心だ、という条件反射のような状態が常識になるのである。
それが、国産車の完成検査偽装問題でもあった。

おなじ工場でつくられた自動車が、そのまま輸出されるのなら、なんら問題ない。
完成検査が必要なのは、国内販売されるものだけが対象だからだ。

こうして、厳密に完成検査をするということになって、そのコストは消費者が負担させられる。
それを、消費者が「安全だから」とよろこぶのだが、外国で購入する外国人消費者はなんのことだかしらないだろう。

すぐれて勉強ができたひとが、難関校に入学してりっぱな役人になるように教育されると、とたんに「無能」になることは、なんども書いてきたが、その「無能」の結果をいつまでありがたがっていくのだろうか?

野口悠紀夫教授によれば、AI研究の分野で、中国の精華大学がアメリカのMITやスタンフォード大学をぬいて、世界トップランキングになっている。しかも、トップテンのうち半分が中華系なのだ。
日本のトップランキングは、当然に東京大学だが、この大学の順位は91位だ。

どうして精華大学をはじめとした中国の大学が、こんなに高い評価を受けているのか?について、教授は、文化大革命の「成果」だという。
かつて、とてつもなくレベルの低いひとたちが「教授職」にいたが、「成果」のためにアメリカ留学経験のある若手にすべて入れ替わったからだという。

なるほど、わが国にも一般人をふくめた「文化大革命」がひつようなのだ。

愚かなワンパターン

なんどもおなじ失敗をくりかえせば、ふつうのひとなら気がついて、ちがう方法をかんがえだすか、その行為自体をやめるものだ。
しかし、そうしたことをしないで、またまたおなじ失敗をくりかえせば、他人はその本人の能力をうたがうものだ。

ましてや、それによってなんども莫大な損失をだすのなら、ふつうは「無能」の烙印をおして、二度とそうした業務にもつけることはしない。
ばあいによっては、わざと損失を出しつづけているのだと疑われて、損害賠償の請求があってもおかしくはない。

大手チェーンの寿司店で、アルバイトの若者が職場での不適切な行為を動画で撮影し、それをアップしたことで、この会社の株価は時価総額で二十数億円分もすっ飛んでしまった。

それで、会社は彼らを解雇しただけでなく、多額の損害賠償をもとめる訴訟を用意しているという。
これに対して、マスコミ世論は肯定的で、今後の予防にも「当然だ」とする論調が多数ある。

その根拠は、別のチェーン店でも同様の不適切な行為がおこなわれ、同様の損失が発生しているから、ということだ。

ならば、経済産業省という役所が主導して、莫大な金額を投じた半導体や液晶パネル事業をどうするのか?
アルバイトの個人がやった損失額と、比較にならない損失が正々堂々と発生しているのだ。

たとえば、液晶パネル事業では、台湾企業の連合体が投資することで、事実上の売却がきまったという報道が4月4日の新聞にある。
この記事の、経産省によるコメントに唖然としないものはいないだろう。

「液晶パネルで利益をだすことは、すでに困難」だというのだ。
だったら、なぜこのひとたちは途中で傷をうすめる努力をしなかったのだ?

この「無能」を、マスコミは一切書かないのはなぜだ?

ようするに、経済産業省という役所に、当事者能力など最初からないのである。
しかも、この莫大な損失を国民は請求できない。
つまり、窃盗をしておいてもその責任は一切とろうともしないのである。

政治家は、経済産業省に経済に関わらせない法律を立案すべきだ。
もっといえば、「解体」であって、全員解雇が適当である。

旧大蔵省銀行局や証券局のように、なくしても、あらたに金融庁という役所に「異動」させただけでは、なにもかわらない。
むしろ、かえって権限が強化されたのではないか?

その金融庁は、地方銀行の検査方針を大幅に変更するという。
向こう5年間ほどの経営計画と実績の比較で、利益が確保できないとなれば、「業務改善『命令』」をだすという噴飯物である。

すくなくても、わが国の「銀行」は、地方銀行でも「株式会社」なのである。
だから、株主が責を負うことになっている。
資本主義を否定する、金融庁という役所も、百害あって一利なしである。

しかも、全国銀行協会会長がいうように、日本の金融機関の利益がでなくなった根本は、日銀のマイナス金利政策によるところが大きい。
この春、九州の地方銀行に、現職の金融庁幹部が就任するのは、その意味ではじめて経営の困難さをしるだろう。

このブログでなんども指摘しているように、文系・法学部出のかれらは、「法律」と「現実」が合致するという「教育」を、日本を代表する難関大学でたたきこまれている。

これが、「倒錯」の「幻想」でしかないと、勉強エリートたちにはわからないのだ。
もちろん、この勉強エリートたちには、教授陣もふくまれる。
つまり、そこは一種の「宗教団体」、すなわち「カルト」ではないのか?

そんな卒業生ばかりで構成されるカルト集団が、わが国の役所だ。
その役所がつくった、都合のよい報道制御の手法が「記者クラブ」だ。
報道の対象となる「ネタ」を、クラブに入会を許されたすくない報道機関で分け合うのだから、結局この国から「ジャーナリズム」が消滅する。

こうして、政府の記事は報道制御されたものだから、国際機関から日本に「報道の自由がない」などという指摘をうけるのだ。
これを、特定の政治家のせい、にすれば「記者クラブ」の秘密はまもられるというワンパターンもある。

そんなわけで、記者クラブを持ちようのない一般人は、報道の攻撃にさらされて、家に閉じこもるしかなくなる。
先の問題をしでかした学生アルバイトたちが、精神的ショック状態にあるというのは、さもありなん、なのである。

この国のゆがんだ社会主義が、役所の「無謬性」という「神話」をアンタッチャブルにして、道からはずれた個人をたたくのに専念する。
もはや、全体主義の定義にあたることを、だれもいわないことに戦慄さえおぼえるのである。

レジの並び方

「待ち行列理論」という学問があった。
「あった」というのは、「完成された」という意味だ。
だから、いまは、その理論の恩恵をうけた並ぶ方法が、社会の随所で採用されている。

ひとが行列をつくって並べば、とうぜん待たされる。
この行列をいかに短くして、待ち時間をすくなくするのか?というのが、この「理論」の「命題」である。

もとは20世紀のはじめに、電話の自動交換機の開発からはじまったという。
人間のオペレーターが、ジャックにつながった線を目的の穴にいれる「交換業務」を、自動化させるにはどうしたらよいのか?

問題は「接続」それ自体よりも、つぎからつぎへかかってくる電話を、電話局として待たさずに処理する方法が一番のネックだったのである。

ところが、電話をかける、という行為は、かけるひとからすればまったくの偶然で、気分にもよるから、これを予測することはできない。
そうやってかけてきた電話を、一つずつ電話局は相手の回線に接続しないといけないから、十分な余裕をもとうとすると、おそるべき巨大な交換機が必要になってしまう。

こうした交換機を、全国ネットで展開しないと、電話網は完成しない。
すると,電話局への投資はもっと巨大になって、採算にあわなくなる。
そんなわけで、人間のオペレーターが、なかなかなくならなかったのである。

「待ち行列」は、ひとつひとつの発生理由はまちまちでも、これらをあわせて「グラフ」にしてかんがえると、量の大小が時間経過とともにあきらかになる。

それで、何日分ものグラフをかさねると、「傾向」があきらかになって、そんなに巨大な交換機でなくても処理できるかもしれない、というアイデアになった。

こうしたグラフを「分布図」という。
「山」や「谷」があらわれる「図」になるのだ。

この教科書は、けっこう数式が説明につかわれているから、「文系」には厳しいとおもわれるかもしれないが、前半の「応用事例」がたいへん参考になる。

「数式」が理解できないことは、あえて「無視」して、「なんだかわからない」けど、世の中のだれかはこれを「ビジネス」につかっている、という「感覚」だけでも体験して損はない。

とくに「交通系」では、応用がさかんである。
近年、路線バスでも一定時間停車して「時間調整」をすることがあたりまえになってきたのは、こうした「手間」が、全体の運行をスムーズにして、結果的に停留所での待ち時間をすくなくして、到着時間を時刻表に近づけているのである。

さいしょは公衆電話の並び方で応用されたのは、電話局の面目躍如であったが、携帯電話の普及でだれも公衆電話に並ばなくなった。
けれども、災害時に公衆電話がぜんぜんないのも社会インフラとしてこまるから、利用に便利そうな公衆電話がのこされているのも、この理論を応用して「最小化」している。

それからは、銀行のCDやコンビニのレジなどでも、並び方の工夫がされるようになっている。
こうしたことは、生活体験でいろいろある。

ところが、こまった現象があらわになってきている。
それは、上述のような「待ち行列の理論」の「さわり」もしらないで、「決めごと」として片付けるひとがいるからである。

この理論を「完成」させたのは、第二次大戦中のアメリカでのことであった。
おそるべきは、戦争中にもかかわらず「お客を待たせない理論」をかんがえていたということだ。

われわれの発想なら、いまでも「ガマンせよ」という感覚がふつうになるのではないか?
つまり、この理論の「根本」には、提供者側がかんがえるもの、という本当の「おもてなし」の発想があるのだ。

それを接客最前線の従業員におしえないで、「ルール」として従業員におしえると、従順でまじめな従業員はお客に「強要」する態度をとるようになる。
「決まりだから、この線のところに並べ」と。

はたして、この従業員はなにをかんがえているのかと問えば、「なにもかんがえてなどいない」ということがはっきりする。
「うえからいわれたことをちゃんとしています」がこたえだろう。
もう一歩踏み込んで、「どうして『この線』に気づかないお客がおおいのだろう?」をかんがえないということだ。

わたしは、このことこそわが国の生産性が先進国ビリの原因だとかんがえている。
すなわち、もはや旧ソ連圏の社会主義国にふつうにあった、「売店」になりさがっているのだ。

もちろん、品物が豊富にあることはオリジナルとぜんぜんことなるが、働くひとの発想が、社会主義だといいたいのである。

どうしたらだまってお客がスムーズに並んでくれるのか?
ということを店舗ごとにかんがえさせないと、初めての利用客は困惑するばかりで、ついには「不愉快」になってふたたび利用する気がうせるものだ。

社長が交代するというニュースもある話題の最大コンビニチェーンや、もともとソ連型コルホーズを真似た農協の直売所(自由市場)に、この傾向が強いのは、なんだかなぁ、とおもわせる。

従業員は「無知」でいい。

それは、「客」をもバカにする発想なのである。

地方移住をかんがえる

人生をどうしようかと練ったとき、地方移住という選択肢もわるくはなくなった。
しかし、「夢の田舎暮らし」が、突如、「地獄の田舎暮らし」に変わることがある。

ゴミ出しも拒否されて生活できなくなったひとたちが、裁判に訴えでて話題になった。
裁判にはならずとも、そんな事例はたくさんあって、かなりのひとが「後悔」しているというから、慎重になるのはとうぜんだ。

これをよく「地方の閉鎖性」という。
しかし、都会には閉鎖性がないのかといえば、そんなことはぜんぜんない。

たとえば、マスコミが礼賛する「下町」と「人情」をセットにした暮らしは、ご近所さんとの濃密な交流を、いわば強要されている。
これを「近所付き合い」というには、いささか「濃すぎる」のである。
二階の物干しをつたって、隣の家の夕食の席に入りこむのは、かなり日常的なことでもある。

これを一度でも「わずらわしい」と感じたら、もう「下町」には住めたものではない。
だから、「下町」地域の「ドーナツ化現象」は、単純な人口減少ではなくて、意識的な流出があるのではないかとうたがうのである。

これは、京都でも耳にすることで、中京区や左京区といった中心街の老舗の若旦那が、結婚すると伏見や宇治に引っ越す理由になっている。
東京の「下町」より、さらなる「濃密」なご近所関係が、もはや現代では「きれいごと」ですまなくなっている。

この「濃密」さは、平面的なものだけではなく、歴史という時間軸がくわわるので、「先の戦」のことを応仁の乱だとする地域性からすれば、数百年来の「しきたり」を意味する。

西と東の「都」にしてこのありさまだから、つい最近まで外部との交流がうすかった地方における「特性」は、たんなる「特性」ではなくて、かなり「土着」のイメージがたかまるのは当然だ。

そこには、おそらく「京都」における、「歴史」という時間軸に、土地所有にまつわる上下関係がくわわるはずだから、より立体的かつ複雑な様相をみせることだろう。

すなわち、島崎藤村の『家』のような、本家と分家といった関係に、庄屋と小作といった経済関係のことが混じって、一歩まちがえば、横溝正史の世界を彷彿とするヒエラルキー社会の存在である。
あたりまえだが、土豪的お武家様の存在もふくまれる。

それは簡単にいえば、「家格」のことになる。

そんなわけだから、裁判になるのは、その地域の役所の情報提供に「不備」「不満」があったことを示すのだが、お気の毒かつ残念ながら、上述の「しがらみ」について、役所で情報を得られるとおもうことから、まちがっているといえそうだ。

こうしたときに、役立つのは公式的な見解なら「寺院」が、一般的な見解なら「飲み屋」がよい。

都会のじぶんの家が、どの宗派の檀家なのか?をまず思いだせば、おおかたの日本人なら、メジャーな宗派に属しているものだ。
これらのメジャーな宗派は、日本全国に末寺というネットワークを形成しているから、移住をかんがえる地域の同一宗派の寺院を紹介してもらえば、かなりわかりやすい「公式的見解」を得ることができる。

地方の地域には、あんがいいろんな宗派の寺院が狭い範囲にあるものだが、それらの寺院の建立のいわれからして、地域ヒエラルキーや地区の対立まで物語るものである。

それに、建立時期が徳川時代よりも前なら、そうとうな実力者の庇護があったはずだし、徳川時代なら、政治的な思惑があってのこととかんがえてよい。

これに、天台・真言を頂点に、以下、鎌倉仏教の各宗派がつづき、「一向宗」だった「真宗」という構造を組み合わせればさらによい。
あまりに勢力が強大だった「一向宗」を、「浄土真宗」と改名させて「東西」に分断し内部対立させたのは徳川家康の策略だ。

ご近所の飲み屋情報の重要性は、蛇足になる。
ある程度の「公式的見解」を得てからが、順番としては理想である。

地域の「しがらみ」は、どこに行ってもかならず存在するから、じぶんになじめるかが重要なのだ。
そういう意味では、新興住宅地や集合住宅のほうが気軽な傾向がある。
しかし、新興住宅地には、新興住宅地なりの「しがらみ」がある。

地方移住に失敗しないためには、事前の「調査」に手間をかけなければならないのは、やっぱり「自己責任」における必須事項なのである。

まったくもって、「経営」とおなじなのだ。

「昭和」はいつまでつづくのか?

あたらしい元号「令和」が昨日発表された。
元号は、「二文字」だと規定されていて、「和」が「昭和」とおなじ位置にあることを、公共放送の解説者がおもわずなのか予定どおりなのかはしらないが、「昭和」のイメージがある、といったのはそのとおりだ。

そこで、わたしなりのメモを書いておきたいとおもう。

安倍首相は、戦後レジューム(ヤルタ・ポツダム体制)からの脱却という方針を明示している。
これは、いまの内閣の基本コンセプトであるのだが、どういう意味なのかを深くしるのが、あんがい困難なのだ。

その理由は、「戦後レジューム」とはなにかを定義しなければならないのだが、はなしが大きすぎて、わが国一国の意志でどうにかなるようなことにならないからである。
それが、さまざまな「解釈」がうまれる原因になるのだ。

もちろん、一国の総理にして「一強」といわれる影響力のあるひとの「方針」だから、それは書籍にもなって発表されている。

この本の最初は、平成18年(2006年)に出版された『美しい国へ』があって、上記の本はその後の加筆をふくめた「完全版」になっている。
この「完全版」を底本として、元外交官にして現京都産業大学教授の東郷和彦氏が解説している論文がある。

なるほど、「戦後レジュームからの脱却」というコンセプトの難解さがわかろうというものだ。

まえに「戦後レジュームからの『回帰』」であると書いたとおり、「脱却」ではなくてその逆の「昭和」にむいているとかんがえるとスッキリする。

すなわち、戦後の「昭和」こそが、輝ける時代だという認識である。

しかし、「戦後」という時代区分は、戦前・戦中との「断絶」でかたられることがおおいから、はなしが単純な二元論におちこんで、内容がうすくなる。

当時を生きていた先代、先々代のひとたちは、けっして別人になったわけではないから、「連続性」を無視することはできない。
もし、「別人になった」のだとすれば、それは、「思想改造」というおそるべき手段が「あった」と認めることにもなる。

個々人は変わっていないのに、社会が変わったのは、「社会」の意志を表現する「言論」のことをまっさきにかんがえなければならず、そうした言論を世代を超えて継続すれば、そのうちに生まれてくるひとたちが、先代、先々代のひとたちと「別人」になるはずだ。

時間を味方につけるのは、特定の思想をもったひとたちの常套手段である。
本人がしらないあいだに、設定した思想どおりのひとたちが多数となって社会の「改造」は完成する。

その告発が、稲垣武『「悪魔払い」の戦後史-進歩的文化人の言論と責任-』である。

 

しかし、安倍首相の目指す「脱却」が、もっと前を意味するなら、納得できるのは、満州での岸信介への「回帰」だということである。

アベノミクスという経済政策は、社会主義経済を推進するということだから、満州国の経済をみちがえるようにした祖父・岸信介の成功体験を、みずから再現したいのだとかんがえれば、歴代自民党政権での「最左翼政権」として面目躍如するところである。

安倍政権の防衛政策が、その「左翼性」をうばって、あたかも「右派」だとおもわせるのは、まさに、わが国独特の「戦後レジューム」の発想だ。
国家が国民の富を分配する、ということの究極は、社会主義計画経済にある。

その政策の一貫性において、たとえば高等教育の無償化がいわれているのであって、財政規範とは関係のない消費税増税なのである。
日本国債だけでなく、日本株式をも大量に保有する日銀が、東京株式市場の動向によって破たんする危険という現実的な可能性に、だれも言及しないのは責任を負いたくないからである。

だから、安倍政権は「一強」なのである。
それは、自民党内で対抗できるものがいないだけでなく、いまは野党、かつては民主党政権で大臣をつとめたようなひとたちが自民党に入党するのも、「思想にちがいがない=おなじだ」からである。

安倍氏が、右派をよそおいながら、けっして皇室を崇拝しいないばかりか、軽視するのも、彼のなかにある「悪魔払い」なのだとすれば、ブレはない。

そういうことで、元号が役所でつかわれず「西暦」をつかうのは、憲法第一条を無視して「護憲」をさけぶひとたちと同様に、首相の意向を忖度してのことだといえば、なんのための「改元」なのかも溶け出してしまうのだ。

むしろ、印刷屋にゴム印を大量注文する民間こそ、「継続性」の原則をまもるのに躍起なのだ。
これを政治が「ガン無視する」という与野党ばかりになってしまった。

昭和と西暦は、「25」を加減すれば年数がしれた。
これに慣れきった昭和生まれは、平成を計算するのに「昭和」をつかう。
ことしは、昭和94年だから25を足せば西暦2019年が計算できる。
昭和64年が平成元年だったから、1989年から平成を求めるより便利だった。

こんどは「18」を加減すればいい。
けれども、やっぱり「昭和」の「25」のほうが便利におもえるのは、ただの習慣か。

政権の、昭和十年代を理想とする「脱却」をわたしは望まない。
しかし、実質的に役人が支配するこの国は、「有職故実」が決定事由のすべてなのだ。

漢籍を由来としない年号は「はじめて」と強調しながら、国の花とする「菊」でも「桜」でもなく、中国の国花である「梅」にまつわる文字を採用したのは、「準」漢籍ということなのか。
それとも、外交的配慮までふくまれるのか?

価値感としての「昭和」はつづく。

記念すべきエイプリルフール

今朝、配信されたニュースに、エイプリルフールのためのパロディがあった。

むかし、マッド・アマノ氏による、豊島区にある有名な遊園地のパロディ広告がでて、すばらしい「効果」があったことをおもいだす。
その自虐的すぎる「広告」で、入園者数が大幅増加したのは、一種の事件だった。

しかし、対象が人びとをよろこばせる遊園地だったから、人びとを驚きで喜ばせたパロディ広告は、自虐的ではなくて、究極のエンターテインメントであったから、そのセンスが評価されて入園者数がふえたのだ。
「ここに行ったら、おもしろそうだ」という広告になっていた。

ダサイとか、田舎くさいとか、あか抜けしないとかといったことを、遊園地側から大々的に宣伝すれば、口にはしないがそう思っていたひとたちの心が解放されて、ネガティブなイメージすら遊びなのだとしてしまった。

しかし、今朝のパロディ「ニュース」には毒があった。
政府が「納豆を食べられますか?」と外国人旅行者に質問してはいけないという法律を2059年までにつくるという内容だ。

こんなものが法律になる国とは、どういう国なのか?
パロディをこえて、恐怖すら感じるから、素直にわらえない。
しかも、禁止の理由に「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」としているのも、じゅうぶんに突っ込みようがある。

それに、なぜ2059年なのだろうか?

本物のニュースでは、新元号の発表が予定されているから、それとのからみまでうがってみたものの、よくわからない。

新元号を決めるにあたっては、衆参両院の正副議長にも意見をきいたというが、これに最高裁判所長官がふくまれないのはなぜなのか?という説明は生中継のニュースにはなかったし、官房長官発表における長官への質問もなかった。

新元号の法的根拠は「政令」である。
「政令」とは、内閣が制定する。
内閣は行政機関なので、政令はもっとも優先されるべき「行政命令」になる。

すると、衆参両院の議長に意見をきいたのは、どういう意味なのか?ということが、最高裁判所長官にきかなかったことよりも強い疑問になる。

立法府に気をつかったのなら、なぜ司法にも気をつかわなかったのか?
ずいぶんまえに、安倍首相がみずからを「立法府の長」と発言して、あげあし取りのような議論になったことがある。

どうも、立法府と行政府のあいだがあいまいなのだ。
すると司法が、ずいぶん遠い。

権威主義の公共放送は、このときとばかりヘリコプターをとばして、内閣官房から皇居へむかう自動車をおいかけていた。
憲法のさだめによって、今上天皇の、御名御璽をいただかないと「政令」として正式ではない、という解説をくりかえしていた。

しかし、法律や政令などの「公布」について、天皇の国事行為として憲法第七条で定めがあるが、最高裁判所は昭和32年大法廷判決で、「官報による」ことを先例としている。

官報によらない「公布」は、「特に国家がこれに代わる他の適当な方法をもって法令の公布を行うものであることが明らかでない限り」と同判決にあるので、本日の、新元号の政令は、こちらが適用されたと解説すべきである。

そんなわけで、国民はまたまた「憲法」から遠ざけられたのである。
「政令」は、憲法七十三条のさだめになっているから、ヘリコプターが自動車を追跡したのは、こちらの意味での「憲法」だ。

まるで、第九条いがいはぜんぶ「憲法のさだめ」にして、なんだかわからないようにするし、「公布」がなにかも説明しない。

発表を午前11時30分と事前に予告しておきながら、官房長官が出てこない事情を憶測で語るというのも、どういう取材をしていたのかとうたがうのである。

官房長官記者発表も、代表二社からの質問二問に限定しながら、似たような質問しかせず、おなじ返答を引き出すのは、いったいどういう魂胆なのか?

どういう経緯で選ばれた二社で、どういう経緯で似たような質問をしたのかを、国民としてマスコミにきいてみたい。
まさに、従来からの批判どおり、日本独自の「記者クラブ制度」が、報道の自由をせばめていないか?という疑問に、確信的な根拠をあたえるばかりである。

報道が談合されている。

これこそが、今日、エイプリルフールであってほしいとおもうのである。

候補者をえらべない

統一地方選挙がはじまった。

地方の選挙を同時期に「統一」させたのは、むかしの自治省の役人だった。
任期途中に、さまざまな理由で辞めたり辞めされられることもあると、どこまで「想定」していたかしらないが、長年のあいだに「ズレ」ができて、事情が発生した自治体では、統一地方選挙には関係ない地域がある。

だから、統一地方選挙が同時期におこなわれている地域では、さまざまな事情がこれまで発生しなかったという意味もある。
これを喜ぶべきか悲しむべきかはさまざまだが、「順当」が単純に自慢できるわけでもない。

むかし、といっても近代日本で、「内務省」こそが最大最強の役所だった。
「大蔵省」も「商工省」も、いまのような力がなかった。
それで、内務官僚といえば、エリート中のエリートだった。

それが、看板を「自治省」に替えたら、なんだか地味な感じになったが、全国の自治体を支配する構造にかわりはない。
ついでに、警察も消防も、どちらも「庁」がつけば、自治省の外局だったのをおもいだせばわかるだろう。

官僚組織では、全省庁の事務次官をあつめた会議が定期開催されている。
この会議の議長が、事務担当内閣官房副長官で、このひとは歴代自治省の事務次官からなる、つまり、やっぱり事務方のトップ中のトップは戦後も自治省(旧内務省)だった。

地方自治体がどこまで「自治」できるのか?といえば、かなり「自治省」の役人から指示される。
ふるさと納税で、当該の自治体と、いまは総務省という旧自治省がケンカしているのは、報道のとおりである。

こうしてみると、産業を支配する官僚組織の構造が一般的ななかで、地方自治体を支配するのが旧自治省だから、民間人にははかりしれない権力を旧自治省の役人はもっている。

民間をしばる方法の有効手段が、補助金漬けにするものだが、地方交付税というおカネが、地方の自治を骨抜きにして、命令を守らせる根拠になっている。

だから、地方自治体の「自治」とは、わずかな「すき間」に存在する範囲でしか「自治」できない。
そうやって、この国では、どこに引っ越してもだいたいおなじ住民サービスがうけられるという「建前」が構築されている。

けれども、その「すき間」とはどこのことだ、と具体的にいうひとがいない。
むしろ、そんな「すき間」なんて関係ないほどに、「自由」な「自治」があるようにいうひとばかりだから、住人も勘違いして「フリーハンドの『自治』がある」と思いこむ。

こうしてみると、じつはだれに投票してだれが当選しても、おおきく「自治」がゆらくごとがない。
それは、上述のように、そうならないように「できている」からである。

だから、「大阪都構想」という論点は、「建前」に対して変化させる主張になるので、だれに投票してだれが当選するかで、おおきくゆらぐことになる、稀有な争点の選挙なのである。

「平成時代」といういいかたにもうなっているけれど、「自治」という目線でいえば、「平成の『大合併』」という自治体同士の「合併」が、旧自治省の役人主導で実施された。

いま、地方銀行の生き残りで行われているのが「合併」だけれど、どうして「合併」しないといけないか?という根本理由が、自治体の「合併」とおなじ理由になっている。

規模をおおきくしないと、生き残れない。

さすが、旧自治省のエリート。
経済官僚のはるか先に、実行してしまったのである。

しかし、残念だがここにおおきな落とし穴がある。
自治体が生き残ることと、住民が生き残ることが、主客逆転しているのだ。

そこに住民がいるから行政サービスがあるのであって、行政サービスのために住人がいるのではない。

こんなことは百も承知だが、国家の行政機関ができることは地方の行政機関を保護することしかできない。
それで、しかたがないこと、になる。

そうやって過剰に保護された自治体という役所群は、ひたすら自己増殖をこころみて、住民をみない。
そんな自己増殖ができるのは、国からおカネが降ってくるからだから、自己増殖する主張をすれば、選挙に受かる可能性もたかくなる。

選挙では合法的な「買収」が、声高に叫ばれて、だれに入れても入れなくても、結果はおなじか変わりようがない。
候補者が、ひたすら名前を「連呼」する理由がここにある。
じぶんが受かればいい、という意味が、薄っぺらになるしかない。

こうして、候補者をえらべない有権者は、一部の生真面目なひとをのぞけば、どうでもいい投票行動をして、これを「専門家」が結果分析して、さらなる選挙準備の基本データにするから、スパイラルになってとまらない。

あと何年、これをつづけるのだろうか?
「自治の死」が、はっきりするまでなのだろう。

おなかいっぱい

安くしても売れないのは、デフレだから、ではない。
べつに欲しくないからである。

「ゴミ屋敷」が話題になるのは、ゴミの分量におどろくからだ。
棄てないと、じぶんの家もああなると想像できるから、あたらしい「ゴミ屋敷」をみつけてきては放送して、視聴者に媚びをうる。
視聴者は、もっとすごい「ゴミ屋敷」でないと、もう満足できないレベルになってきたから、そのうち番組企画としてすたれるはずだ。

一世を風靡した「大食い」は、許容量が人間の胃袋だったから、ついに「限界」がやってきて、「もっと」が不可能になったら、番組もすたれてしまった。
馬を川辺に連れて行っただけでは、水を飲まないのとおなじである。
やすっぽい芸人がいう、「おなかいっぱい」なのだ。

消費者も、こうなると頑として買わない。
これを経済学者が「デフレーション」だというから、トンチンカンがはじまる。
「デフレ」でコモディティ化がすすんで、いまは、「もう、おなかいっぱい」の状態になってしまった。
市場はあきらかに変化しているのに、「デフレ」一辺倒で片づけるとわからなくなる。

その証拠に、コモディティ化の典型的なチェーン店(飲食業や衣料品)の売り上げが低迷している。
売上だけでなく、客数も低迷中というから、まさに消費者は「おなかいっぱい」なのだ。

だから、限界まで値下げして、「ほら、もっと食べろ」、「ほら、もっと衣服を買え」といわれても、買わない。
いまのところ、欲しくないからである。

これをむかしは「踊り場」と表現した。
しかし、階段の踊り場は、昇りにだけあるのではなく、降りにもある。
むかしは、つぎの拡大のための踊り場だったが、いまは、縮小のための踊り場になっている。

そんな状態で、この秋、ほんとうに消費税率を引き上げるのだろうか?
安くしても売れないところに、商品自体の価値がかわらないのに税だけが上がるのは、まったく理不尽である。

政府の財政均衡が目的でも、国民生活は均衡しない。
これが、前に書いた財務省設置法が憲法違反であるゆえんだ。

夏の参議院選挙まえに、突如引き上げの中止を宣言して、選挙で「圧勝」を狙うとすれば、なかなかうまい戦略である。
そのころには、イギリスのブレグジットがどうなるのか決まっているだろうから、タイミングとして最高である。

けれども、いま目のまえの、統一地方選挙で、世にも不思議な「自民・共産の連携」が、大阪で現実になった。

むかしは、共産党がいうことの反対が「正しいこと」だった。
だから、「55年体制」という、自民党と社会党の談合体制を、うらからしっかり支えていたのが共産党だった。

もともと、自民党は左翼政党だから、社会党と組んで「村山政権」ができたとき、おなじ氷山がひっくり返ったようなものなので、なにもかわらなかった。

しかし、このころから、共産党のいうことが「正しい」のではないか?
という「倒錯」がはじまる。
アンチテーゼとしての共産党が崩れはじめたということは、テーゼそのものが崩れだした意味でもある。

「大阪都構想」という「倒錯」が、敵の敵は味方という論理で自民・共産の連携を生んだのだろう。
そこまでして自民が反対し阻止しなければならない理由はなんなのか?
「既得権益」になにがあるのか興味深いものである。

けだし、追いつめられた自民が、「大安売り」ののぼり旗を掲げているようにもみえるのはわたしだけか?
大阪人が「おなかいっぱい」という意志表示をするのかどうか、気になるのは当然だ。

神奈川県民をあまり意識しない横浜市民としていえば、地方自治法の建て付けの適当さが、県と政令指定都市と、ふつうの市町村の関係を曖昧なままにしていることが、「二重行政」の元凶だといいたい。
だから、これを正さない国会機能の停止状態が、「倒錯」の原因だ。

占領軍が横浜港を闊歩していた時期、横浜市にはニューヨーク市警よろしく、横浜市警察があった。
その横浜市も肥大化して、370万人が行政十八区に住んでいるから、一区あたり20万人という、中規模地方都市なみである。
それが、行政区なのだから、区長といっても市役所の局長級が就任することになっている。

神奈川県だって、そのむかしは三多摩地区がふくまれていて、東京は「市」だった。
だから、神奈川県民ずらをさせてもらえば、東京は戦前の東京市に、明治初期の三多摩をくわえた神奈川県、ついでに横浜市の分割があっていいではないかともおもうのだ。

しかし、これは、地方自治法がちゃんと行政区分を明確にしたら、という前提で「県」があくまで上位にあるとしたときで、もし政令指定都市が「県」と同格あつかいとなれば、横浜市は神奈川県から独立するだけでなく、川崎市や相模原市もこれにつづくことになる。

さらに、もし、「都構想」が実現すれば、政令指定都市には「特別区」ができて、区長選挙をすることになって、市長がいらないことになる。
役人には、区長職がなくなるので反対するだろうが、べつに役人のための住民ではない。

こういう議論なら、住民参加できそうで、おなかいっぱいにはなかなかならないだろう。

森の新陳代謝

わが国は、山国である。
全国土の70%が山地で森林だから、ほんとうは「木の国」である。
それが、いつのまにかに、コンクリートの国になってしまった。
ところが、売れると見込んで植えた杉が売れなくて、花粉症という病人の国にもなってしまった。

「自然」というと、耳にきき触りのよいことばだが、なにが「自然」なのか?とあらためて問えば、あんがいてきとうでいい加減なことばである。

前にも触れた、「日本庭園」の「自然」は、完全なる設計と植樹技術のたまもので、まったくの人工物なのだが、鑑賞するひとはそんなことはおかまいなしに、「美しい自然」をめでるようになっている。

また、「千枚田」とよばれるけわしい山あいにつくられたちいさな田んぼの集合体をながめれば、これを人力でつくりだし、人力で維持してきた先人たちにおもいを馳せれば、突如としてその美しい風景にくわえて、美しい感情がわきおこって、みるひとを感涙させもする。

そんなわけで、耕作放棄された田畑にだれも「自然」を感じないが、じつは人工的な創造物に「自然」をかんじて、「やっぱり『自然』はいいなぁ」と感嘆してしまうのである。

地方自治体がいう「わがまちには自然がいっぱい」の自然とは、なにを指すのかしれてしまうから、都会人が魅力を感じる決定要素でなくなって、「自然自慢」だけでは競争力にならない。
そんなこんなで、自治体がなにかするほど自然と衰退することになっている。

どこの山間部にいっても、かなり奥深いところまで集落があるから、ちゃんとした道路ができていて、山の風景を見あげることができる。
なにも、登山やハイキングをしなくても、山の姿が観察できるようになっているのだ。

それで、広葉樹が落葉している冬によくみれば、なんの変哲もない山なのに、杉だけのエリアがかたまりであって、じつは植林された人工林なのだと気づくのである。
それに、「国有林」という看板をみつければ確信的になる。
ついでに、「国有林」にはかならず柵があって、「関係者以外立ち入り禁止」というプレートがセットになっている。

だから、じつはわが国に「原生林」はめずらしく、それが世界遺産になったり国立公園になっている。
もちろん、たいがいの「原生林」も「国有林」であるから、ふつう一般人の立ち入りは禁止されている。

こうしてかんがえると、「国有林」とはいっても、じっさいは「国有地」のことで、かつて大赤字の「国有鉄道」と同様に、「林」が管理できないままになっている。

ところが、「自然保護」という「運動」が、ありがたいことにわきあがって、「手つかずの」山が「自然」なのだから「触るな」という、管理できない管理者にとって、たいへん都合のよいことが社会に浸透した。

苗木を密集して植えるのは、成長具合をみて、あとで「間引き」するからで、さらに、選んだ木がちゃんとした「商品」になるように、若木のうちから「枝払い」をしないと、「ふし」だらけの木材になって価値がない。

こうしたことから生じる、「間伐材」が、割り箸や爪楊枝の原材料だったが、「触るな」という「運動」で、「木を切ってはいけない」に転じ、山からの現金収入がとざされた。

むかしの「国有鉄道」会社の傘下にある「駅蕎麦チェーン」は、割り箸を「廃止」して、わが国では産出しない石油からできるプラスチックの箸を「エコ」だと称しているのは、自国の山を見捨てたも同然だと気づいてもいないのだろうか?

それで、各地の自然の観光キャンペーンを億円単位でやっている。
もちろん、これを支えるのは毎日運賃をはらっている国民にかわりはない。

もう一方で、事業者から出る割り箸を「産業廃棄物」あつかいする自治体も、自国の山を見捨てているのに「エコ」だと叫ぶ。
むしろ「駅蕎麦チェーン」が、追いつめられて余計な投資をさせられた被害者にもなれるから、始末がわるい。

「エコ」ではなくて、「カルト」ではないのか?

植林した木の本体が商品になるには、30年以上かかるから、その間その土地からの収入は、間伐材しかないのである。
みんなで林業をこわして、「エコロジー」と自賛するのは、「エコロジー」を人類最初に造語した、紀州の英傑、南方熊楠に失礼である。

それで、こんどは放置されるようになったら、「自然」にかえるだけでなく、山が荒れて、川が氾濫するようになった。
古木が倒壊して、自然のダムができ、それが山津波になるという「自然」のわざだ。

人間の人生の時間と、木の一生のながさがちがうから、相手が木なら、木にあわせてかんがえなければならないところに、人間がかんがえた「自然保護」が、人間をくるしめることになっているのは、まさに因果応報というものである。

なにも「自然保護」がいけないといいたいのではない。
「人間のため」の「自然保護」が、あやしいといいたいのである。

そうして、山国で森林資源がたっぷりあるはずのわが国は、外国から大量の木材を輸入する国になっている。
外国の木なら切っていいとまではいわなくても、だまっていればおなじであるから、不道徳きわまりない。

北欧三国の林業が成りたっていて、わが国の林業は成りたたない。
北欧三国の漁業が成りたっていて、わが国の漁業は成りたたない。

なぜだろうか?

「やり方」が、間違っているのではないか?
という「仮説」が、中学生にもたてられるだろう。

そして、社会が不道徳だから、子どもが不道徳になるのも当然だ。

桜の開花が報告されるようになって、人生一度は観てみたい「吉野の桜」と、木の国の「紀州」に、いつかゆっくり観光したいとおもっている。

「森」を観光資源にしたいなら、ポーランドとベラルーシ国境にある、ヨーロッパ最大の原生林(ほんとうは「森」)である、「ビャウォヴィエジャの森」の管理方法と観光設計を学ぶとよいだろう。

ちゃんと専門ガイドさんから、森の新陳代謝を学ぶことができる。
しかして、この森へは森林事務所で「地元有料ガイド」を依頼しないと森にはいれない。

徒歩で4時間ほどの案内で、料金は約1万円。参加人数での割り勘になる。
言語はポーランド語やドイツ語、英語などがえらべるが、外国語のできるガイドがいつも待機しているとはかぎらない。

それで、運がわるければ、森にはいるために、ぜんぜんわからない言語のガイドについていくことになるけれど、対象物を示して説明するから、事前に勉強しておけばなんとなくわかるものだ。

「ボランティアガイド」が普通の日本は、安ければよい、になっているふしがあるけれど、ちゃんと料金をとるべきである。
それで、ガイド内容の質を向上させることが、観光客の満足度を高める。

「森」に精通するとは、生半可な知識ではない。
ちゃんとした観光客は、生半可なガイドでは満足しない。

よけいな政府の景気判断

景気を「判断」して経営をするのは、民間だから、政府は正確な統計データの提供という「行政」を、粛々とすればいい。

日本政府という「開発独裁」のDNAをもった組織は、なにかとしゃしゃり出ることがだいすきで、「経済主体」は政府だとおもいこんでいるふしがある。
このとてつもない勘違いを、だれも正すことができない。

これは、裏返せば民間が政府の景気判断に「依存」している実態が、おかしいということである。
つまり、日本の経営者は、経営者の役割をじぶんで果たそうとせず、政府にゆだねてしまっているのだ。

だから、政府の勘違いを正すどころか、むしろ民間がいきすぎた政府機能の「維持」を要望してしまっている。
むずかしくてわからないなら、民間のシンクタンクが提供する情報をつかえばいい。

民間のシンクタンクが、特定会員向けとして、詳細情報を有料にしても、それを買えばすむのである。
そうすれば、政府の情報は必要なくなって、役人を民間に振り替えることもできるから、税負担も軽くなると思考すべきだ。

民間のシンクタンクはいくつもあるから、ちゃんと当たるところに人気があつまるだろう。
読みがはずれるシンクタンクには、淘汰の波がやってくる。
これは、有料になればなおさらだから、ただしい競争原理がはたらく。

いまは、民間のシンクタンクまで、政府の動向次第というエクスキューズがあって、業界のどちらさまも「救われている」から、競争にならない。
民間を見下す政府と、政府に依存したシンクタンクという、中途半端のダブルパンチで、救われないのは、おおくの民間企業なのである。

つまり、みごとなピラミッド型になっていて、政府を頂点に中間を民間のシンクタンク、そして最下層が民間企業群になっている。
その民間企業群のなかで、さらに大企業と中小企業、その下に零細企業と個人事業主がいる。

以上は、景気判断という「情報リテラシー」のことである。
けれども本当は、零細企業と個人事業主が、もっとも景気に敏感である。
だから、このピラミッド型は、ひっくり返したほうがただしい。
ところが、社会も政府も、そんな「転覆」はみとめない。

政府はなんでもしっている、ことにしないといけないとおもいこんでいるからである。
まさに、ここに「ソ連型社会」が垣間見えるというものだ。

そんなことだから、「実体経済の構造」とほとんどおなじにすることにしている。
ここでいう「実態」とは、人為的につくるものになっている。

さて、このピラミッド型にある民間のシンクタンクの位置には、金融機関もふくまれる。
それは、おおくの国内シンクタンクは、金融機関系だとおもえば納得できるだろう。

国内金融機関の能力が国際的に低く保たれているのは、系列シンクタンクの政府依存でもよくわかる。
政府の発表を「分析」すれば、ことたりるようなシンクタンクを、シンクタンクというひとは世界にいない。

国民にとって理想的な「行政」とは、どにいっても「おなじ」サービスをえられることだから、「機械的な行政」がもっとものぞましい。

しかし、日本国政府という行政機関は、法の下にある「施行令」、「省令」、「施行規則」、「通達」、「告示」といった、さまざまな手法で、役人が恣意的に命令できる権限をもっている。

だから、ぜんぜん「機械的な行政」ではない。
いったん「発令」されたら、機械的に世の中が「発令どおり」になる、という意味で「機械的」なのであって、意味がまったくちがう。
こんな「機械的な行政」を、この国では「法治主義」といっている。

しかし、こうした「法治主義」が、通じなかったのは、たとえば「原発事故」で、「法令」によって「安全が確保されている」ということが、現実の物理世界では歯が立たないどころか、イソップの寓話のようなことが現実になってしまった。

処理におカネがいくらかかるのかもわからない状態で、「兆円単位」の議論がされているが、この議論には「期間」すらも不明のままなのだ。
だから、われわれ日本人が、いったいいつまで、いくらの負担を背負っていかなければならないのかがわからない。

こうして、原発事故処理は「他人ごと」になっている。
それを意図してかしらないが、「安全が確認された原発」として、国内どころか外国にも輸出しようとして、こないだは英国で日立が大損を計上した。

勉強しすぎておつむのネジが数本どころかほとんど崩壊しているのではないかとおもわれる「頭脳」をもって、「判断」しているというのは、わるい冗談だとすますことができない。

政府は、機械的『に』行政をするのではなくて、機械的『な』行政をすべきだ。
だから、役所の統計不正は、根幹にあたる重要な問題なのである。

これは、機械的『に』行政をやりたくて、都合のよい統計結果を欲するという、統計学の初歩で最大注意される、よくある「誘惑」なのだ。

政府が景気判断をして、その結果、実体経済に政府がコミットすることが「あたりまえ」だとする20世紀型の発想をつづければ、政府は政府に都合がよい「統計」を発表するようになる。
それは、実体経済を歪めるという、まったくもっての「猛毒」が社会にまかれることにひとしい。

もし、政府の景気判断が「必要」だというのなら、それは、じぶんで判断力をうしなってなお、きがつかない「麻薬中毒」である。

規制緩和をぜんぜん進めない政府にして、政府機能の縮小はもはや望むべくもないのか?
それは、国民が麻薬中毒になったことの証拠でもある。