無意味な「無認可」

無認可ときくと認可されていないのだから、中途半端なかんじがする。
しかし、世の中には無認可でも有用で優秀な「もの」や「こと」はたくさんある。

結論から先にいえば、行政にとって御しやすく、じっさいに行政の支配下にある「もの」や「こと」が認可されるだけだから、これに「本質的な価値」は関係がない。
つまり、一種の「虚構」なのである。

その「虚」すなわち「うそ」を、あたかも「まこと」のように権威付けるために、さまざまな特典と嫌がらせというアメとムチをつかいわけるのが、行政にとっての「監督行政」になっているだけである。

いうなれば、「監督」したいのであって、市民に価値を提供したいのではない。
むしろ、本質からはなれた嫌がらせをすることで、市民の利用を減らすように仕向けるから、市民が受けられるはずの価値を減らす努力をしているのである。

これをふつうは「本末転倒」という。

しかし、無意味なのにこれをゆるす市民感覚があるのも事実だから、こうした行政のムダが減るどころか増殖するのである。
すなわち、わたしたちの「鏡」が、これらなさけない行政のすがただということになる。

「成人」というのは,「おとな」のことで、子どもとちがって自由意思が認められている。
子どもは、ふつう親という存在の保護下にあって、自由が制限されるものである。

だから、成人が社会のルールを破ると、その制裁をうけることになっている。
もちろん、成人であるひと単独のルールやぶりなら、制裁をうけるのも本人だけ、が原則なる。

しかし、どういうわけかわが国では、ある個人が不祥事を起こすと、「上司」や「責任者」というひとたちがでてきて、「謝罪」することが習慣になっている。
いわば、連帯責任を負うのである。

これには、本質的な意味があるのだが、ふつうは「儀礼的」だとされて、「謝罪」したひとたちも、ほんとうはその場が過ぎればどうでもいいとおもっている。
ただし、ことばでは「以後、このようなことがないように徹底する」という「うそ」をいう。

本質的な「謝罪」の意味は、仕組みと教育の不備の可能性のことである。

外国では、成人がしでかしたことなら、ぜんぶ本人の責任であって、上司や責任者は、「適切な処分」という人事権限の発動だけがしごとになって、日本のような「謝罪」などしない。

しかし、日本では「謝罪」しているが、ほんとうに謝る気などなく、たんに迷惑だとおもっているだけだから、ほんとうは外国の対応とあまりかわらない。

けれども、こうした「管理者責任」をはたしたふりをしないと、社会からうらみをかう。
ようは、いつまでも「子ども」あつかいされる国なのだ。

これと、行政の認可という行為がそっくり構造なのである。

国民一般を、子どもあつかいしていて、そんなあつかいをされている側も、それでよしとしている。
おそるべき「国民性」をもっているのが、日本人なのだ。

これは、「国民一般」のことだから、政治家もマスコミものがれることができない。
わかっちゃいるけど、やめられない、のである。

ところが、この状況をわかろうとすると、たいへん空しくなる。
だからわかろうとすることをやめるのだ。
そうして、みんなそろって「国家依存」や「行政依存」をしているふりをしていれば、心のやすらぎがえられるので、そのうち「ふり」だったことをわすれて、本気になる。

役所が「認可」したものなら、無条件で安心だ、という条件反射のような状態が常識になるのである。
それが、国産車の完成検査偽装問題でもあった。

おなじ工場でつくられた自動車が、そのまま輸出されるのなら、なんら問題ない。
完成検査が必要なのは、国内販売されるものだけが対象だからだ。

こうして、厳密に完成検査をするということになって、そのコストは消費者が負担させられる。
それを、消費者が「安全だから」とよろこぶのだが、外国で購入する外国人消費者はなんのことだかしらないだろう。

すぐれて勉強ができたひとが、難関校に入学してりっぱな役人になるように教育されると、とたんに「無能」になることは、なんども書いてきたが、その「無能」の結果をいつまでありがたがっていくのだろうか?

野口悠紀夫教授によれば、AI研究の分野で、中国の精華大学がアメリカのMITやスタンフォード大学をぬいて、世界トップランキングになっている。しかも、トップテンのうち半分が中華系なのだ。
日本のトップランキングは、当然に東京大学だが、この大学の順位は91位だ。

どうして精華大学をはじめとした中国の大学が、こんなに高い評価を受けているのか?について、教授は、文化大革命の「成果」だという。
かつて、とてつもなくレベルの低いひとたちが「教授職」にいたが、「成果」のためにアメリカ留学経験のある若手にすべて入れ替わったからだという。

なるほど、わが国にも一般人をふくめた「文化大革命」がひつようなのだ。

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