反逆の阿波おどりのゆくえ

昨夜,徳島の阿波おどりで,市長が中止を強く要請した「総おどり」が強行された.
市役所職員や警察による妨害もなく,「静観していた」というからまずまずだろう.
しかしこれは,地元の「祭り」が行政に乗っ取られた一例になった.

報道によると,阿波おどりの主催者は,チケット販売や広告などを担当する地元徳島新聞社と,会計を担当する徳島市観光協会の二者だった.
この観光協会に累積赤字が4億円あまりもあって,ずさんな経理が問題となり,補助金と協会の赤字補填のための金融機関からの融資保証(6億円まで)をしていた市が,これを取りやめて協会は破産処理とし,あらたな祭り運営組織を立ち上げることになった.
それで,一方の主催者だった新聞社が3億円を寄付して基金とし,市と新聞社による「阿波おどり実行委員会」がつくられた.今年は,新体制で最初の「祭り」になった.

一見なんの変哲もないはなしである.
どこに揉める要素があるのか?ややふつうでないのは,役所と一心同体のはずの観光協会が,どうしてこうなったのか?くらいである.

深く調べたのは週刊誌の記者で,破産処理をされる前年の観光協会は3千万円弱の単年度黒字に転換していたのをつきとめた.ならば何故に「破産」処理を急がなければならなかったのか?
あたかも原因は「4億円以上の赤字の『発覚』」というけれど,6億円までの債務保証をしていた市側が,発覚まで知らなかったはずがないし,なぜ4億ではなくて6億の保証だったのか?
融資した金融機関からの厳しい取り立てで破産したのではなく,市が金融機関から債権を買い取って破産させているから,「強引」なイメージがある.

市の調査団による観光協会の監査では,随意契約ばかり,しかも契約書もなく請求書すらみあたらないことがあると厳しく指摘され,これが「そのまま」公表された.どうしようもない観光協会,というストーリーである.徳島新聞社もこの論に同調していて,共催者として道義的責任はあると「反省」文を公表している.

ところが,記者の取材でわかったのは,観光協会の取り引きの相手先が,一方の主催者である新聞社のグループ企業ばかりだったのだ.
この点に関して徳島新聞は公表した「反省」文に,一切触れていないから,確信犯的でかえって構図をわかりやすくしている.また,報道機関でありながら観光協会の不届きを突っ込んで取材しなかったと「反省」する厚顔無恥ぶりで,なかなかの悪質ぶりを自供している.

まさに,自作自演ではないか.
本来は市役所と観光協会が一緒に損害賠償請求をしてもいいくらいで,司直が公金横領で捜査しないのも不思議だ.
前に書いた映画「原子力戦争」と構図がそっくりである.

徳島新聞のHPによると,朝刊世帯普及率71.92%(2018年1月現在)ですごいのだが,人口減少で近年の購読数の下落に歯止めがかからず,発行部数は朝刊222,159/夕刊27,188(2018年1月現在)となっている.
朝刊の購読料が2864円/月だから,年にして76億円というのが単純計算である.
会社HPには,90億6600万円(2017年3月末)従業員数 285人とある.ちなにみこの新聞社は「一般社団法人」で,出資金は「10万円」という珍しさだ.
失礼ながら,新聞事業では将来がない,という経営環境なのはなにも徳島にかぎらないが,だからといって「祭り」で甘い汁を吸いすぎていないか.

当時の観光協会の担当者は,証拠書類を要求しても相手にしてくれなかったと証言している.また,有料席のチケットも発売10万枚のうち上席ばかり2・3万枚が新聞社の販売とされ,一般人は実質購入不可の状態だった.しかも,開演1時間前になって売れ残ったチケットを協会に引き取り要請されたというから,観光協会は新聞社にとって便利な「機関」だった.
徳島市民は,新聞購読者ならただで配付されるのが常識らしい.

そういうわけで,協会側は「独自に改革案」を作成したが,新聞社と市長にかえって反発されたようで,それが急いだ破産処理の理由だとすれば合理性がうまれる.
この独自改革案とは,もちろん「徳島新聞離れ」にほかならない.
それで,すこし実行したら黒字になったのである.ゼロサムだから,新聞社の利益が減ったはずである.

ここで,あまり報道されていないが,地裁の破産決定に観光協会は即時抗告しているから,以上の構図が垣間見えるというものだ.
破産決定は高裁によるものだが,ここでもおかしなことがある.
自主改革に乗り出した観光協会を破産させまいと,踊り子たちでつくる「阿波おどり振興協会」が個人から寄付を募って,なんと協会の残存資産とあわせ累積赤字分を供出しているのだ.この供出金を,高裁は「借入金」としてはねつけ破産決定している.残念だがこの詳細はわからない.うわさでは,地元選出の有力衆議院議員の存在がうたがわれているが,定かではない.

こうして今回の騒動のややこしい下地ができた.
阿波おどりのメインイベントといえば,「総踊り」.
これを新主催者の実行委員会が独断で「中止」を決めた.
実行委員長は市長である.

市長は元四国放送のアナウンサーだ.
四国放送は徳島新聞系列で,主に日本テレビ系の局である.だから,関東にいながら局によってのワイドショーでの取扱いのちがいも楽しめるようになっている.
「総おどり」は,観光協会救済の供出金を用意した「阿波おどり振興協会」の所属団体で行われるものだった.意趣返しを地でゆく展開は,かつての勧善懲悪もの時代劇を観ているようである.

かつては役所と一体だったはずの観光協会だから,それに近い「阿波おどり振興協会」の事務所は市役所内にあったというが,これも今年追い出されている.一方,「徳島県阿波踊り協会」という団体があって,こちらは徳島新聞本社に事務局をおいている.
だから,これらの「協会」を合併させるための振興協会分断工作も,これからの観ものになるはずだ.

「総おどり」中止決定前にチケットは一般販売されていたから,これに驚いた購入者は「総おどり」がないならいらないと,返金を求めたが実行委員会は,これに一切応じていない.
メインイベントがなくなったらコンサートにしろスポーツにしろ,観客にとっては価値半減である.「価値」を理解しない実行委員会とは何者か?
だから,このゴタゴタはチケット購入者にまで波及した.

むき出しの利権構造だが,これを鉄板にしているおとなたちの姿が衆人にさらされている.
すこし古いが,絵に描いたような「守旧派」と「改革派」の対立構造になっている.
日本にはまだこんなことが残っている.残念だが徳島だけではないだろう.

ラテン系なら暴動になりそうな事態である.冒頭の「総おどり」の強行は,まさに気分は「暴動」だろう.
ネット上では,市長へのリコールと新聞購読中止が呼びかけられている.
さては「大衆の反逆」のつづきを今後リアルにみることができるかもしれない.

似たような経験がある.
市民が手弁当ではじめた「祭り」が,やはり市に乗っ取られた.
分裂開催となったとき,行政側の嫌がらせはみごとに組織的だった.
町内会の掲示板へのポスターに許可を出さない.回覧板もだめ.
手作り御神輿も,地元警察に要請して道路使用許可を出させないから,歩道を行く.
保健所が食品の作り売りを許可しないから,無料で振る舞う.

しかし,不思議と盛り上がったのは,しらない市民まで気がついたからである.
その異様さは,気がつかない方がおかしいくらいだった.
いかめしい風情の役所の職員が,嫌がらせのためのダメダメを大声で連発している横で,交通規制の警官が勝手違いなかおをしている.

「なんで御神輿が車道にでちゃだめなの?」「許可がとれていません」
「なんで許可がとれないの?」「許可しないからです」
「これが権力」を確認できる「お祭り」になって,その異様な雰囲気をみんなで味わうことができた.

400年前,阿波おどりを蜂須賀家政が許したのは,徳島城の完成祝いという説があるから,民衆パーワーのガス抜きを兼ねたにちがいない.蜂須賀家は徳川時代を生きぬき,明治には侯爵となっている.
それがいま,お金が欲しい人たちの餌食になって,民衆パーワーが溜まってしまった.

今後,市と新聞社の実行委員会は,あらゆる手段で阿波おどり振興協会に対して牙をむくこと確実である.
しかし,彼らが「振興協会つぶし」に夢中になっているうちに,チケットがぜんぜん売れないで肝心のことしの祭りの収支は「完全赤字」になるのではないか?もし,「黒字」なら,それは「今年だけ」というせこい条件で,新聞社が利益を減らす合意をしたからだろう.

けれども,「祭りの収支」発表と,「新聞社の業績」発表を「連結」しないと詳しくはわからないから,かならず一般財団法人の新聞社は「業績」の詳細を発表しないだろう.
こうすれば,すべては闇の中,という筋書きどおりとなる.

来年は,分裂開催になるかもしれないが,「振興協会」は徳島市での「おどり」にこだわらないという手もある.
近隣市町村での「おどり」をオークションにかけるのはどうだろう?
有名連ばかりなのだから,いっそのこと自分たちで「稼いでしまう」という発想だ.
大道芸の収金方法を参考にしたい.
市長の任期はあと二年.とにかく市民を味方につけることが重要だ.

げにおそろしきは補助金という悪魔である.
いったん受け取れば,魂が抜かれる.
そして,祭りがおおきくなればなるほど,利権がうまれる.
そうなっても,祭りに参加する市民は,かならず無報酬である.
ここに付けいられるスキができるのだ.

明治から150年.
市民のための役所になるのに,あと何年いるのだろう?

「帰省」にみる労働基盤

ことしも帰省ラッシュがはじまった.
毎年の風物詩だから,日本に生まれるとなにも不思議を感じない.
大学までの子どもには長い夏休みがあるが,おとなにはお盆休みの5日間がせいぜいである.
製造業は工場の操業を止めて休むから,出勤しても機械は動かない.それで,事務職も一緒に休まなければならないという義務もうまれた.

「盂蘭盆会」とは,わざわざいうまでもなく先祖をまつる仏教行事である.
「7月15日」を中心とした数日間なのであるが,この日付が例によって「旧暦」なのか「新暦」なのかでややこしい.
当然だが,明治5年以前では「旧暦」しかなかったから,日本全国旧暦の7月15日が「お盆」だった.

この日は,道教では「中元」にあたる.
それで,夏のご挨拶である「お中元」の贈り物も風習化したから,仏教と道教がまじっている.
さすがニッポンの外国文化吸収力!なのである.

それでも民族の記憶はあんがい忘れられて,「旧暦」で生きてきた人たちがいなくなると,「新暦」の7月15日が「裏盆」になって,8月15日を「表盆」という勘違いがおきる.
今年は新旧の日付が1ヶ月以上もちがうから,「旧暦」の7月15日は8月25日になる.
そんなわけで,お盆休みは,「月遅れ」の8月15日としたのだろう.奇しくも終戦の日にあたるから,先祖をまつる仏教行事としてぴったりになった.

「お盆休み」は祝日がなかったが,山にはなんのいわれもない「山の日」が8月11日とされて,お盆のはじまりを合図するようになった.
これで,わが国の祝日は年間16日+振替休日となり,世界的に祝日がおおい国の面目躍如である.振替休日で変動はあるが,ほぼ世界一の祝日数の国である.
お国が休みを決めないと,自分から休めないのは「子どもの国」ならではともいえそうだ.

さて,「帰省ラッシュ」とはなにか?
地方生まれのひとが,東京を中心にした首都圏に就職して移り住んできたが,この時期と年末年始は最低限帰省する,すなわち,「故郷との絆」が解けていないことを意味する.
これは,律令制における「防人」の伝統であろうか?万葉集の防人歌には,関東地方の方言があって,はるか故郷をおもう切実さがある.

室生犀星に,「ふるさとは遠きにありて思ふものそして悲しくうたふもの」とはじまる有名な詩がある.
望郷の念だけではない.志をもってふるさとから出たものが,失意のうちに帰郷しようものなら,いかほどの制裁を受けるものか.帰りたくても帰れない.

フジ子・ヘミングも,30年間苦闘したヨーロッパ暮らしをふりかえって,「これで日本に帰ったら,ざまぁみろ,おまえはなんにもできないで帰ってきた,といわれるのが嫌で帰れなかった」といっている.これは、実母のいいようの想像であろう.それで,母の死があって帰国した.
成功者はチヤホヤされるが,失敗者には冷たいのが日本のふるさとである.

しかし,そのふるさとが捨てきれない.
それが日本人なのだ.
「実家」の存在とは,「家業」の存在を意味する.
つまり,最後の最後,恥を忍めば実家で家業を手伝って生きていける,という思いがそこにある.

これと欧米を比較したのが,東大紛争時の総長だった大河内一男だ.
欧米の歴史,とくにドイツにおいて,ふるさとを捨てるとは,一家の総移動だったとある.
つまり,ふるさとに痕跡をのこさない.
「実家」も「家業」もない状態からの「リセット」を意味した.

新転地における「就職」には,当然に能力が問われたから,労働市場が形成される.
大河内は,日本に欧米的な労働市場がないことの根源をこれで説明している.
このはなしにおける「労働市場」とは,労働者が自分の労働力がいくらぐらいになるかの価値をしっていて,採用する側も,その労働力を買うという行為の連続をいう.

日本のハローワークや人材紹介業にある求人募集に応募して採用がきまる,というのを欧米的には「労働市場」とはいわない.
日本のばあいは,おおまかな仕事内容と時給などの条件が表示されるが,あちらでは細かな仕事内容と必要能力が記載され,それに価格がセットになっている.

だから,欧米ではまさに「就職」であって,「職」に「就く」.それで,細かな仕事内容と条件が記載された「労働契約書」をとりかわす.
日本は,「就職」といいながら実態は「就社」で,どんな仕事をするかわからないけどある会社に勤務することがきまる.だから「社畜」になるのだ.

そんなわけで,大河内は,日本に欧米的な労働市場ができて,欧米的な労働契約をむすぶのが常識になるには,そもそもふるさととの断絶が必要なので,無理だろうとした.
ところが,少子化によって,ふるさとの維持が懸念されるようになった.あと二三世代もすれば,おおくは自然消滅する可能性がある.

すると,「帰省ラッシュ」という風物詩も,数十年後には「へぇ,そんな時代があったんだぁ」といわれるようになるだろう.
それならそれで,ファミリーカーでの大渋滞の経験も,よきむかしばなしになるだろうから,いまのうちに子どもに経験させておいた方がいい.

おそらく,その頃の就職は,「就社」ではなくなっているだろう.

柿渋寝具とサービス設計

あんまり暑いので,どうにも寝不足になる.
エアコンの風で喉をやられ,咳と声がでないのにも困った.
家にくすぶっても暑いだけだから,外出をこころみるも,冷房の効いた建物内と外気との繰り返しは,過ぎるとバテてくる.

ここなら適度に涼しいだろうと,秋葉原のJRガード下「2k540 AKI-OKA ARTISAN
ニーケーゴーヨンマル アキ・オカ アルチザン」に入った.
すぐに目に入ったのは「柿渋染」であった.
柿渋の米袋と石鹸は,すでに愛用しているから,わたしは柿渋ファンである.それに,家内は柿渋染のショルダーバッグも愛用している.

柿渋染は,京都木津川市の名産だという.
こないだの旅行で,伊賀に向かう途中,通過してしまった.
渋柿を種から育てることからやっているという説明だった.
「寝具」がメインだったのも意外で,抗菌効果とあわせて「涼しい」のが特徴だと熱の入った口上をきいた.

それでは試しにと,枕カバーを購入した.
つかってみて合点がいった.
なるほど,「涼しい」のである.
寝返りのたびに涼しさがやってくる.とても快適だ.

せっかくの柿渋の成分がなくなるから,あまり洗濯しなくてよい.
できれば風呂桶に水を適当に溜めて,洗剤はつかわずに流すようにする水洗いをすすめられた.
軽く絞って干すというから,これだけでめったに洗濯できない気がする.
それでも,柿渋の効果でニオイもしないと太鼓判をおされた.まさに万能である.

宿泊を商売にする宿の寝具にとって,これはなかなかの脅威である.
シーツや枕カバーの洗濯がオススメでないから,「業務用」にはならない.
けれども,この会社ががんばって業績をあげれば,それは一般家庭に普及することを意味するから,一般人は快適さを手に入れてしまう.

宿の悩みの根本にある,家庭の「ふつう」を提供する難しさ,が顔をもたげる.
近年では,洗浄式トイレが例になる.あっという間に家庭に普及したが,ホテルや旅館での対応にそれなりの時間がかかったのは,電源と電気容量問題の解決があったからである.古いユニットバスには,そもそも電源がないことからでもわかるだろう.

あるいは,ホテルの浴槽で自動給湯して最適な水位で止めるのも,いまだに普及しているとは言いがたい.家庭の浴槽では,とっくに当たり前になっているのにである.
家庭は個別の給湯器から,ホテルはセントラル式で給湯管を通じで供給される.それで,各部屋ごとの浴槽水量を計測する機器が高価なままであるから普及しないのだ.

進んでいて便利そうにみえる「客室の機能」も,こまかく追求すると家庭にはかなわない.
ある程度の生活水準を超える,いわゆる「富裕層」にとって,このことはあんがい不満の種なのである.
高価な料金を支払っているのに,自宅以下の機能しかない,ということになるからだ.

すると,そのような「層」をターゲットにしていて,もし柿渋寝具を「採用」するならどうすればよいのか?
こたえは,「マイ寝具」というサービスをつくることになるだろう.
だから,一回こっきりのお客様には提供できない.
「リピーター特権」という概念を持ち出すしかない.

つまり,デジタルだろうがアナログだろうが,どんな方法であれ「顧客管理の仕組み」をもっていて,「運用のルール」をあらかじめきめないと,寝具を購入しただけではなにもできない.
これが,「サービス設計」である.

物品によって「機能」を追求すると,投資さえすればすぐに競合他社に真似されるから,目新しいものを外部から購入して配置するだけなら,その宿の特徴といえるだけのものにはなかなか育たない.
たとえば,温泉宿の客室内マッサージ・チェアである.
不思議なのはたいがい一台しか設置していない.なぜ二台でないのか?

夫婦での滞在を標準とするなら,時間の節約ができて家庭でもあり得ない同時利用がのぞましく,それこそ価値があろうというものである.
温浴施設なら,ふつう一回100円を想定するから,もしマッサージ・チェアがある部屋の料金が,ない部屋より高額設定しているなら,利用者は本能的に差分を100円で割り算するだろう.
これを想定しているとはおもえない宿が少なからずある.

しかも,もし,故障でもしていたら,一瞬にしてマイナス効果になるのに,メンテナンスができていない宿がめだつから,なんのために設置しているのかをうたがいたくなることがある.
重量があるから搬出して処分する手間と費用を惜しんでいるなら,それは客室に粗大ゴミがあるのとおなじになる.客室が商品であることすら忘れて,業績を気にする本末転倒がある.

上述の柿渋寝具の例では,「サービス設計」を必須とするから,あんがい簡単には真似されない.
柿渋寝具という物品をただ置いた,ということではなく,提供のためのあたらしいサービスを開発した,ということになるからである.

やってみようと挑戦する宿はあるだろうか?

ねぶた祭の掠奪

地元で騒ぎになっているというニュースがあった.
コインパーキングが「一時間5000円,上限なし」.500円ではなく,ゼロがひとつおおい.
もはや「紙幣パーキング」であって,「コイン」ではない.
祭り期間中の宿泊客優先対応だった,とのこと.
なるほど,駐車場入口看板には「特別高価格」であることが「大書」してある.

「大書」したからわかるはず,と「想定」していたら,わからないひとが相次いだ.
10時間以上駐車して,65,000円を支払ったひともいたという.
おまけに機械が千円札にしか対応していないので,ATMで65枚を用意したというから,さぞや時間が気になったろう.
それで取材を受けた管理会社は,「想定外」とコメントした.

このニュースにはいろんな情報がまじっている.
「ぼったくり」視線からみれば,たしかに「なんてこった!」になるだろう.
それで突然,「被害者」になる.
だから,「返金」が当然という理屈になる.

ところが,全額返金要求となるから,はなしが直線すぎる.
駐車した事実があることを差し引くのが筋だろう.
つまり,「適正価格」の要求がいいところではないか.

一方で,会社側の「想定外」も過剰反応である.
客商売をしていれば,「とっぽい」ひとはどこにでもいるものと「想定」するのは容易であるし,常識でもある.
この価格設定は,隣接するホテル利用客のための駐車スペース確保だったから,割り切って「本日ホテル専用」とすればよかったのではないかとおもう.

事前に,オーナー(当該駐車場とホテル),ホテル,管理会社の三者が話し合って決めたというが,簡単にいえば,「こなれてない」のである.
わたし流にいい換えれば,目的合理性の追求にあたってのロジックが甘い,ということだ.
それが,管理会社のつぎのコメントにもあらわれている.「来年はひとの配置も検討する」.

これが「プロ」の発想なのか?
24時間営業のコインパーキングである.
「想定外」の無人の時間帯に,またまた入庫されたらどうする?
ホテル利用客以外に「空きがあれば」一般にも開放している,という通常時の営業条件をどうしても守りたいらしい.

ところで,いま,ひとの顔を識別するわが国の技術が評価をえて,世界の空港などのセキュリティーシステムとして注目されている.
東京オリンピックでも活用されるのは,すでにアナウンス済みのことだ.

複雑なひとの顔より単純なので,高速道路などのETCには,ゲート通過時に前方のナンバープレートを撮影するシステムがとっくに導入されている.
これで「不正」も追跡できるが,犯罪車両の行き先も追跡できる.
この仕組みを宿泊施設が導入しはじめている.

駐車場に来た時点で読み込み,瞬時にスタッフへお客様の到着を知らせるのだ.
これからかんがえると,イベント時にはとくに,駐車場での応用ができたらよいとおもう.
今回の騒動も,元に「駐車場不足」がある.
昨年の数字で,6日間の延べ観客数は282万人(47万人/日)だ.これは,青森県の人口126万人(H30年7月1日人口推計)と比べれば,あきらかだ.

報道には,熊本からやってきて「被害」にあったひとのコメントもあったが,「二度と青森に来たくなくなる」のでは本末転倒である.
そこで,「遠方割引」というシステムがあってもいいのではないかとおもう.
足りないかといって,年に6日だけの祭りのために市内に駐車場をつくりましょう,にはならない.

たとえば,ナンバープレートを読み込んで,遠方ほど割引率が高くなるようにして,駐車機器で読み取れる割引券発行機を用意する,というアイデアはどうだろう.
地元のひとは,公共交通機関の利用をうながし,遠方からの客をおもてなすのである.
日本の技術なら,すぐにできそうだ.

中央構造線露頭でかんがえる

日本列島は,おおきく弓なりの形をしている.なかでも「本州」のまんなかあたりではっきりと反りかえっていて,その延長線に北海道も四国も九州も,果ては沖縄もある.
これは,はるかむかしに,地殻がうごいてできたというから,ふだんはまったく意識しないことだ.

地球という星が太陽系にうまれて46億年といわれているが,星として死んだわけでもなく,いまでも活発な活動をしている.
わたしたちは,そういう星に住んでいる.

日本の本州にある「南アルプス」と呼ばれている山岳地帯は,地球上でもっともはやく動いている地域として世界的に有名だ.それは,年間4ミリメートルで高くなっているからだという.
山が高くなっている!

10年で4センチメートル,100年で40センチメートル,1000年で4メートル,10000年で40メートルになる.このままいくと,100万年で4000メートルになるから,いまの高さを加えれば,ヒマラヤ並になる.

もっとも,インド大陸が衝突してできたヒマラヤも相変わらず隆起していて,こちらは年間2ミリメートルだ.日本の南アルプスがヒマラヤを抜き去るのに何年かかるか,各自計算されたい.ちなみこの計算を,小学校では「旅人算」と呼んで中学入試の定番になっている.

ひとの一生がいかに短いものかというよりも,ひとの存在を無視した地球という星の物質的活動である.
この活動のおおもとは,太平洋の海底に噴き出すマグマだという.

われわれが住む地面の30キロメートル下には,ドロドロに溶けたマグマの対流がある.
なぜそんなドロドロのマグマがあるのか?といえば,46億年前に火の玉のような星だったからである.つまり,この星は,46億年たっても,いまだにぜんぜん冷えていない.

陸地より地殻が薄い海底に裂け目ができて,そこから吹き出したマグマが「プレート」になって滑ってくる.そして、ご存じのように海溝で沈み込み再びマグマになる.
このプレートに乗っかった丹沢島が500万年前に,伊豆島が50万年前に本州のまん中に衝突した.

丹沢島は本州の地殻の下に潜り込んで上には丹沢山地から秩父山地をつくり,もぐり込んだ下は甲府盆地に到達した.どちらの山にも,しっかり神社がある.
神奈川県と山梨県の縁は深いが,地面の下でつながっている.
それでか,丹沢の相模平野側に出る温泉と,甲府盆地笛吹川沿いの温泉の泉質が似ている.

伊豆島の衝突では,地上に皺ができて,それが南アルプス,中央アルプス,北アルプスをつくったというからすさまじいエネルギーである.
南アルプスが世界的スピードで高くなっているのは,衝突して伊豆半島になった伊豆島がいまもぜんぜん「止まっていない」ということだ.
南アルプスの山頂付近からは,貝殻などの化石がみつかっているから,伊豆島衝突前のその前には,海底にあった証拠である.かつての海底が2000メートル以上も隆起した.

伊豆半島の付け根,三島にある「三嶋大社」には,伊豆島衝突の伝承があるから不思議である.
どうやってむかしのひとは「伊豆島」が本州に衝突したことを識ったのか?
しかも,いまだにめり込んでいるのだから,三嶋大社の信仰は現在進行形である.
「不思議」と認識した「不思議」がここにある.

本州を南北に真っ二つに分断しているのは,有名な「糸魚川静岡構造線」で,この線で本州は折れ曲がっている.諏訪湖の諏訪大社上社前宮,諏訪大社上社本宮は,不思議と真上にある.
一方,諏訪湖は伊那谷へ中央高速道路がほぼ真上を走る「中央構造線」が交差している.
これより西側は,まるで魚の中骨のように分断線が走る.この線で地下構造がまったく異なっているというから驚きだ.

中央構造線がわかりやすいのは天竜川で,国道152号がある.
伊勢湾から紀伊半島を分断して,四国山地,そして九州を分断し沖縄につづく壮大な地質構造のちがい.豊岡稲荷も,伊勢神宮も,高野山もこの線の上にあるのは偶然か?

中央構造線が,地上に顔を出しているのが数カ所ある.
とくに,長野県下伊那郡大鹿村にある「露頭」は有名で,ここには唯一の「中央構造線博物館」(村営)がある.

わたしが不思議なのは,どうしてここが「一大観光地」になっていないのか?である.
ものすごく「地味」なのだ.
「露頭」の現場を観るための道も,「露頭」そのものも,なんだここは?というぐらい「地味」を通り越して「素っ気ない」.

ほんらい「観光」には理解のための知識が必要だ.
神社仏閣とて,そもそもの意味をしらないと建物を観ても価値がわからない.
仏像だって,「印形」の知識があればグッとわかりやすくなる.
つまり,「観光」には,ひとの知識欲を満たす,という要素が不可欠なのである.だから,教育的なのだ.

現地こそ,という要素と事前知識が組み合わさって,観光の価値は俄然高まるのだが,「余暇」の要素が強すぎるのがわが国の「観光」の姿である.
「中央構造線露頭」のような,地球レベルでも珍しい場所はどうあるべきなのか?
幸いにして手がついていないから,ぜひヨーロッパ人にプロデュースを依頼するとよい.

どうやら「この分野」は,われわれ日本人にはプロデュースができない.
それは、「目的合理性」の追求が論理的でないからだろう.
反省しても,批判しても,できないものはできない.
できるひとを呼んでくるのがせめてもの「合理性」というものだ.

デパートで観光できるか?

地方都市の中心にあって,生きのこっているデパートでも,そのおおくが青息吐息のようだ.
入店すれば,おおくが「東京の真似」をしているから,「あゝ」とおもってしまう.
東京のデパートが青息吐息だから,その「真似」をすれば悲惨になるにきまっている.
デパートがいつの間にか「リスク回避」を是として,徹底的にリスクを排除したら,利益がでなくなったのである.

「小売」をするのがデパートの真髄である.
だから,大規模小売店舗立地法という名の法律で規制もされている.
この商売で,リスクを回避した方法は,不動産業への転換を意味した.
自分で商品を仕入れて売る,という小売の原則をやめて,売り場面積を売ることにしたからである.

「リスクは回避するもの」という思想の蔓延が,大企業を中心にダイナミックな活動を阻害している.
「リスクとは利益の源泉である」ことをすっかりわすれた,異様な思想だということに気がつかない.「利益の源泉を回避する」のだから,儲かるはずがない.

自分で売らずに,他人に場所貸しして家賃をとろうという算段だから,家賃がちゃんと払える借り手でなければこまる.それで,成功している業者にばかり声かけしたら,全国どこにいってもおなじ商品やブランドばかりになった.
これを,民営化したJRが全国の主要駅ビルで展開したから,駅からちょっと歩く老舗のデパートはますますたち行かなくなったと前に書いた

わが家では,地方都市に旅行すれば,できるだけ地元のスーパーマーケットとデパートには行くことにしている.
いわゆる「ご当地もの」の発見が,楽しいからである.
この「ご当地ものの発見」という行為が,立派な「観光」だからである.

だから,外国旅行に行ってもおなじである.
商品そのものだけでなく,売りかたや配置など,日本のスタンダードなやり方がすべてではないとよくわかる.
もちろん,外国なら「ご当地もの」ばかりだから,それは楽しい.
なによりも,生活感がはっきりとしてくる.

その中でももっとも興味深いのは,やはり食品売り場である.
これで,一般家庭の「冷蔵庫のなか」が想像できる.
近しいひとへのお土産も,珍しくておいしいものはよろこばれる.
そういったものを見つけるのは,現地でしかできないから,風光明媚な名所旧跡よりも魅力がある.

地方都市のデパ地下は,以上の意味から楽しみな場所なのだが,残念なことがふえてきた.
「ご当地もの」の貧弱である.
外国人をふくめた観光客が,全国に広がっているといわれる昨今,またまたなにを勘違いしているのか政府に依存した「誘致合戦」という「予算ぶんどり合戦」がはげしいけれど,誘致した観光客を「がっかり」させるなら,逆効果になりかねない.

これをわたしは「嫌われる努力」と呼んでいる.
英語教育に絶望的な失敗をしているわが国では,外国人=言葉の壁というパブロフの犬がでてきて,うそみたいに腰が引けるのである.
ところが,そんな自分が外国に行って,現地のスーパーマーケットやデパートで買い物に苦労などほとんどしない.

つまり,「売る気があるのか?」という感情が湧いてくるのが日本の地方デパートなのである.
たとえば,味噌醤油.
この伝統的食材は,地方色が豊富で,味のバリエーションはすばらしい.
全国共通大メーカーの商品もあっていいが,地元色が皆無の売り場はいかがなものか?

さいきんは,わが家の近所のスパーだって地方のちゃんとした味噌醤油をおいている.
だからこそ,知らない銘柄を見つける価値がある.
なにも,デパートで観光地の売店にあるようなものを売れというのではない.
地元密着を期待しているのである.だから,地元のひとが買う商品でなければ価値がない.

むかし,札幌をはじめて訪問したとき,地元の住民になった家内の友人が案内をかってでてくれた.
それで,北海道のさまざまな物産を土産にしたいといったら,「デパートが一番」といわれた.
観光客に有名なところで,道民は買い物をしない,と.

いわれてみればもっともで,横浜に生まれ住んで半世紀,市内観光地の売店でなにかを買った記憶がない.
品質と価格のリーズナブルさは,なるほど地元民を相手にするデパートがもっとも信頼できるものだ.

それ以来,札幌に行ったらかならずデパートに行く.
ところが,さいきん,地方都市のデパートがつまらなくなっている.
「想定客とリスク」が狂うと,観光にもならない.
もったいないはなしである.

出国税

来年2019年1月7日から,千円の「出国税」が国籍をとわず徴収されることになった.
これをわたしは「出国税A」と呼ぶことにしている.
すでに「出国税B」があるから,順番が逆なのだが,なぜか2015年7月1日からはじまったこちらはマスコミも話題にしない.それで,あえてAとBの順番をかえて区別しただけである.

「出国税A」の税収は,どの省庁かは関係なく,観光客の「おもてなし」のためにつかわれる,という政府の宣伝によって,「観光業」では降ってくるお金に興味津々のむきもあろうが,何回だまされたらわかるのか?
マスコミでは,どんなタイプの「業」に恩恵(得)があって,どんなだとない(損)のかにかまびすしい.これまでなかった税なのだから,損も得もあったものではない.
乞食のような発想はいかがなものか?腹立たしいばかりである.

アメリカの独立戦争は,新大陸住民を無視して英本国による一方的な「紅茶への課税」が原因であったことは有名である.もちろん独立の気運があったことは確かだが,この一件が「トリガー」になった.
さほどに,「税の徴収」について英米人は敏感なものなのだが,日本人は鈍感である.せいぜい,「消費税反対」というキャッチフレーズが長年いわれつづけているだけだ.

「税」にかかわる人びとは,一般的に優秀である.
そもそも,あたらしい「税」を発案するひと.既存の「税」の制度をいじくるひと.そして,とかく頭脳戦になる「税」を徴収するひと.これらが,地方自治体をふくめて政府側にいる.
おおくの場合,これら政府の「岡っ引き」を引き受けているのが「税理士」で,クライアントの利益よりも税務署の意向を優先させるしかない.

これは、「士業」がからめとられている「試験」と「開業後」の「制度」が,政府によって仕切られているからで,けっして個々の「税理士」やその他の「士」の責任ではないから念のため.
それで,各士業は,管轄する役所に住所がある「有資格者」の名札を掲示して,所長の配下である「岡っ引き」であることを「明示」している.

法曹会のように,「(司法)試験」と「開業後(裁判官,検察官,弁護士)」が分かれているほうが健全な制度だが,他の「士業」では採用されていない.
つまり,(税務・会計士)試験があって,受かると,会計士,税理士,監査監督官,租税徴収官になるようなものだ.

しかし,根本的な問題は,税制の複雑さ,それゆえの「専門性」にある.
だから,だれでもわかりやすい税制が望ましいとしたのはハイエクであった.
たとえば,所得税は「(所得ではなく)『収入』の一律10%」というだけのシンプルさに統一すれば,上に書いた「税」にかかわる優秀な人びと全員が,「税」にかかわらなくてよくなる.かんたんにいえば「失業」するから,「転職」するしかない.これが,社会維持のコストを下げ,かつ,優秀な人びとが付加価値生産に関わるようになるから,社会の利益自体を上げることになる.

この指摘はもっともで,残念ながら,会計士も税理士も,職業上,社会の「付加価値生産」にかかわっていない.つまり,付加価値生産のための歯車でも潤滑油でもなく,本来は必要ないかもしれない生産システムの外にある「チェック制度」にすぎないのである.当然に役人もしかりである.
生産性をあげるには,シンプルな税制にせよ,と一言もいわないわが国「財界」は,とっくに痴呆化している.

戦後占領期に行われた「シャウプ勧告」は,まさに,従来日本の「複雑な税制」と「運用上の不公平」が指摘されたのだったが,これを「骨抜きにする努力」が,独立日本のとった選択だった.
裏返せば,アメリカ人は「シンプルな税制」と「公平」が,その価値観の根底にあることがわかる.
なるほど,それこそが独立戦争の精神というものだ.

国家の都合が官僚の都合に変換されて,国民はそれを押しいただく,という発想とは真逆なのだ.
ところが,ここにきて,フィンテックという進歩で,制度変更ではなく,技術によって制度が攻撃される事態が予想できるようになった.
決済を現金に依存しているのは,もはや「後進国」とみなされるようになったからである.

日本は「先進国のトップ」にいなければならない,と信仰している,国際ランキングではもはや世界から相手にされない国内最高難度の学校出身者たちが,みずから「エリート」であることのプライドをかけて,「電子決裁先進国になる」として民間への命令づくりがはじまった.

売上金の入金が電子化されれば,取引先の他社との決済も電子化しないと効率がわるいというが,自社の売り上げにならない他社取引とは,他社からみれば「売上」だから,お互い様のはなしである.「経費」は他社の売上にすぎない.
すなわち,銀行が要員削減に血まなこになっているように,企業も経理を中心とした事務職のおおくが,不要になる可能性があって,その最後の壁が「納税計算」になる.
ここでは,自社内の「経営会計」にはふれない.

各国税制が,プログラミングの手間として評価されるようになるはずだ.
そのことが,本社をどこにするかという問題を引き出して,投資活動のおおきな判断材料にもなるだろう.
ここでは,「税率」以上に,制度設計における「解釈」や「煩雑さ」がおおきな評価項目になるから,「シャウプ勧告」が生き返る.

いまなら妄想にすぎないが,トヨタ自動車の本社が,たとえばシンガポールになってもおかしくない.
「税」という国家による「搾取」が,企業活動の原資を奪うなら,株主利益を優先させると本社設置場所の選択も経営上の課題になるのは当然だからだ.

そうなると困るのは国家や地方自治体である.
それで,ひそかに「出国税B」が生まれている.
これは,正式には「国外転出時課税制度」といって,国外に転出する1億円以上の株式などを有する資産家などを対象に、その含み益に対して所得税を課税するものだ。

「資産家」が前面に出ているから「お金持ちの個人か」と,人びとの関心をうすめたが,「(株式)など」,「(資産家)など」の,「など」がポイントなのである.
「個人」だけでなく「法人」も対象にしてしまえば,どうなるか?
いまは「個人」が対象だが,しっかり国外転出までに「納税管理人」という「税理士」を選出すること、所轄税務署へ届出書の提出をすることが必須だから,ちゃんと「岡っ引き」に仕事を与えている.

さておそろしきは,「入国税」である.
「出国税B」を課税されて外国へ転居しておわりではない.人生ははかりしれない.
それで,帰国しよう,となったら「入国税」を開発するかもしれない.
それまで外国で稼いだ分に課税する,という構想だ.

外国で稼いだ分は外国で課税されるはずだから二重課税だといったところで,相続税はなくならない.所得税を負担して残ったお金で家を買って死んだら相続税がくる.
それで,相続税を廃止する国がでてきた.
毛色がちがう例では,スウェーデンの「イケア」創業家は,オランダに移住した.それで,金づるの金持ちが逃げ出さないようにスウェーデンは2004年に相続税を廃止したから,ここでも重税化の日本は逆をいく.

いま,資産家が海外移住すると,山田長政のように帰国したくても帰国できなくなるかもしれない.つまり,キャピタルフライトは面倒になっている.
だからそもそも出国するな,ということだ.

どんな時代にも政府は「奪う」ものである.
それにしても,とうとう,わが国は「鎖国」をはじめようとしている.

名勝千駄木旧安田邸

東京都指定名勝になっていて,いまは公益財団法人日本ナショナルトラストに寄贈されている.
関東大震災にも,また,近所も焼けた戦災でも焼けず,東日本大震災にも耐えたが,ことしの9月から来年の10月まで,耐震補強工事のために閉館がきまっていて,昨日8月4日だけ防空壕が公開されるというので訪問した.

ボランティアガイドの説明とパンフレットによるとこの家は,大正8年に豊島園の創始者藤田好三郎氏によってつくられ,大正12年に安田財閥の創始者安田善次郎氏の女婿善四郎氏が買い取り,子の楠雄氏が相続した.つまり,楠雄氏は善治郎の孫にあたる.平成7年に楠雄氏が亡くなって翌年,幸子夫人が寄贈をきめたとある.つまり,ついこの間のいまとおなじ「平成」時代はじめまで,実際に暮らしていた家である.

その保存状態は,大正時代の建築当時が「そのまま」になっていて良好だ.
すなわち,エアコンもウオシュレットも電気冷蔵庫もない.
つまり,この家での暮らしとは,およそ現代の生活ではなかったと想像できる.
主人の楠雄氏は,とくに文化財の保存に熱心だったのだろうか?おそらくそうではあるまい.
手を入れる必要を感じなかったのではないか?と想像する.

京都金閣寺に隣接した「長成庵」は,昭和11年の建物だから,旧安田邸のほうが古いが,贅沢さにおいては上をいく.しかし,軒のつくりなどはおなじであった.
ここも実際に住まいとしていた.旧安田邸とはちがって,居住空間における現代性・先進性におどろく.
メーカー直接発注のシステムキッチンは,オリジナル・デザインの統一もふくめてまさに「システム」を構成していた.
日本の大メーカーも,やればできる,のである.

「一日限定」の防空壕公開とあってか,たいへんな入館者で,玄関はごった返していた.
朝からひとが絶えない,とは受付での弁.入館料は500円である.
手荷物は預けることになっていて,かつての来客の付き人がやすむ玄関横の6畳間がクロークなのだが,やや混乱気味だった.

ボランティアのガイドがそれぞれについて,一通り案内と説明をしてくれる.その後は自由見学になる.
たまたま,ガイドの数がたりなくなって,洋間とサンルームをとばして先行するグループに合流せよとの指示で,別のガイドに飛ばした場所の説明をあらためて聞くことになった.

このブログで何度も指摘しているから自分でもしつこいとおもうが,ボランティアの心意気はすばらしいのだが,説明の品質が一定ではないという「難」がかならずある.
「いちばん詳しいガイドが,団体ツアーに同行していて今日はいないんです」という説明も,内部関係者以外には不要な情報である.
ガイドは有料にして「プロ」を要請すべし,と繰り返しておこう.

とはいえ,見学者側にも問題なしとはいえない.
「安田財閥」と聞いてもピンとこない母娘.それで,「金融系ですか?」と母が質問し,「そうですねたとえば『明治安田生命』に安田が残っています」とガイドがこたえたら,ふたりとも反応しなかった.「みずほ銀行」といえばよかったのに.

こうした邸宅がどんどんなくなっていく.
新しくつくられることがなくなったから,差引計算ではなくて単純に引き算だけでよい.
お金持ちがマンションに消えている.
それで,職人も材料もなくなっていく.

応接室の贅沢さはすばらしい.
日本の高級ホテル客室で,この部屋に対抗できるものは一部のクラッシックホテル以外ないだろう.
すると,世界都市東京には存在しないという意味になる.

だから「文化財」になる.
都内のホテルで,文化財にあたるものがあったとしても,レベルがちがう.
では,この家に匹敵する宿をつくろうとしよう.
かならず,「採算があわない」と経営者はいいだすだろう.

なぜ採算があわないのか?
一泊の設定料金が「安い」からである.
ところが,「安くしないとお客が来ない」とくだんの経営者はいい張るだろう.
想定客が「安田善四郎」でも,「安田楠雄」でもない,見学にやってきて「財閥」と聞いてもピンとこない「一般人」になっているという間違いに気がつかない.

それは,経営者自身が「一般人」の生活をして,「一般人」の価値観しか想像できないからである.
これを「貧乏くさい」という.
だから,お金持ちを平然とやっかむ.
これを「貧困なる精神」という.

安田善次郎とて,富山から江戸に奉公人としてやってきた一般人だった.
ジャパニーズ・ドリームが乏しくなったことこそが,社会の貧困である.
旧安田邸の庭先隣地は,「文京区保険サービスセンター本郷支所」という「近代建築」がある.
安田邸の玄関から退去しようとすれば,かならずこの建物のみすぼらしい姿が目に入る.

時代が経てば価値をますます高める家.
どうやっても,時代が経てば価値をますます低下させる公共の近代建築.
これが,建てた瞬間から価値がなくなる近代プレハブ一戸建て住宅の象徴でもある.

旧東欧ソ連衛星国の首都にはそれぞれ,スターリンから贈られた「文化科学宮殿」という超高層建築が伝統的様式美を否定してそびえ立っている.
社会主義時代をしる世代は,「爆破せよ」と主張し,若い世代は「べつにどうでもよい」とおもっている.壊すにもお金がかかるから,「社会主義」の観光名所として稼いでいる.

いろんなところにお金をつかいまくることができるうちに,このサービスセンターを隣地の文化財に見合ったセンスで建て替えることをしないのか?
あっ,しまった!
文化財に指定しているのは「都」で,みすぼらしくみっともない建物は「区」であった.

どうやら,この縦割りこそがみすぼらしくみっともないことの元凶であると確認した.
ならば,住民側からうったえるしかない.
公益財団法人日本ナショナルトラストが,区の建物を「爆破せよ」とはぜったいにいわないはずだし,それが高度成長期のお役所建築です,といって観光名所にもならない無価値である.

他人依存ではなにもできない.

ジオパークの貧困

なにも「ジオパーク」にかぎったことではないから,このテーマのおおきなタイトルは,「わが国観光地の貧困」でもいい.
しかし,「ジオパーク」にしたのは,より焦点がしぼられてわかりやすいとおもったからである.
それは,かねてからのわたしの主張である,観光業は「総合芸術的な産業」すなわち,「六次産業」である,という「定義」に遠いからである.

まずは「ジオパーク」の意味と意義.
意味は,日本ジオパークネットワークのHPによると,『「地球・大地(ジオ:Geo)」と「公園(パーク:Park)」とを組み合わせた言葉で、「大地の公園」を意味し、地球(ジオ)を学び、丸ごと楽しむことができる場所をいいます。』とある.
意義は,『地球科学的に価値のある地質や地形を保護・保全し活用していくプログラムの実施』だと,目代邦康・笹岡美穂「地層のきほん」誠文堂新光社,2018年,にある.

もとは,「世界遺産」をやっているユネスコがすすめているもので,国内には「ユネスコ世界ジオパーク」が9カ所,「日本版ジオパーク」が34カ所ある.これに,候補がまだあるから,将来的には増えるだろう.
世界の「世界ジオパーク」は,35カ国に127カ所というから,日本以外には118カ所あることになる.

いわれてみればもっともなのだが,ふだん意識しないで生活しているから,地震大国の日本に住んでいても,「地球の構造」についてはあんがい知識がないものだ.
海洋のプレートが大陸のプレートの下にもぐり込んで,その摩擦ではねかえりが起きると地震になる,とはよく聞く説明である.

山の岩石が崩落したり,雨で川に流れ,それがやがて海に行くことも,だれでもしっている.
ところが,海の下では,もぐり込んだプレートがまた地球の内部にもどって,溶けてマグマになるということをすっかりわすれている.
あらためて,ダイナミックな造山活動や火山活動で,また別の地表にでてくるから,すごく長いレンジで「岩石」も対流して循環しているということを聞くと,感心するのである.

世界ジオパークがある国の数でいえば,一国の比率は3%弱であるが,わが国の世界ジオパーク数の比率は7%になるから倍以上の重みがある.
これは,地球という星で,日本列島という場所がかなり複雑な構造になっているので,珍しい地層が随所にみられるからだという.

東西には「糸魚川静岡構造線」で分断され,ここから分岐した「中央構造線」が紀伊半島から四国,九州を南北に分断している.これに太平洋とフィリピン海プレートが押し寄せているのは,小松左京のSF傑作「日本沈没」でも紹介された.


さいきんでは,千葉県市原市養老川に地磁気逆転の地層発見で,これを国際的な年代呼称として「チバニアン」とするかが話題になっている.
当該地層の露出面は私有地だったが,市原市が買収して国の天然記念物にするという話題もくわわっている.

こうしてみると,「地球の歴史」を目の当たりにするというダイナミックな「観光地」たりえるのがわかる.
ところが,おおくが「看板程度」の「放置」で,なんだかわからない観光客が押し寄せるが,これを「産業化」するという試みがない.
ヨーロッパの事例をみると,彼我の差に驚くから各自検索さるとよい.

つまり,ジオパークの意味と意義を組み合わせれば,「地球科学的に価値のある地質や地形を保護・保全し,地球(ジオ)を学び、丸ごと楽しむことができるように活用していくプログラムが実施される場所」と「目的を定義」すると,これを忠実に実行している国と,そうでない国とに分類できそうだ.
決め手は「プログラム」の有無である.

わが国では,「登録」には熱心なのだが,「その後」がない.
「世界認定」なのに,ほぼ日本語だけの説明看板をたてて,周囲に駐車場と休憩所を整備する.よくできて「博物館」を建設するが,展示の工夫があまい.これに,入札かなにかで売店営業がゆるされるが,とくにこれといったものがない.
簡単にいえば,わくわく感がないのである.

たとえば,世界遺産になっているポーランドのヴィエリチカ岩塩坑は,13世紀から現代も採掘がつづく,坑道総延長300kmの世界最大規模をほこる場所だ.
必須の各国語ガイドによる観光は,最低2時間.博物館を含めれば3時間以上を要する.
チケットはネットでも予約販売(大人2600円ほど)しており,現地での直接購入もできる.
直近の古都クラクフからのバスツアーなら,半日がかりになる.

なんと,坑内には子どもが合宿できる施設もあって,もちろん教室もある.
ここで,ちゃんとした体験と歴史や岩塩ができたしくみなどをしっかり学べるようになっていた.
そして,売店では塩グッズと石鹸ばかりがあるが,どれも「オリジナル」であるから触手が動く.
お支払いはキャッシュレスだ.
周辺の地上にも宿泊施設があるのは,より深い体験のためという.
これが「プログラム」である.

世界でも有数な「ジオパーク資源」があるのに,こういった「プログラム」をふつうに提供する場所が皆無なのが日本である.
明治政府がやったように,「お雇い外国人」に,観光地の開発企画を依頼したほうがいいのではないか?

「退屈な日本」とは,観光庁の外国人観光客アンケートの衝撃的な結果であった.
ならば,観光庁長官から手始めにお雇い外国人にすべきだろう.
これもできないのは,「目的の定義=理念」があいまいだからである.
だれのための「観光」なのか?

自社のありようとしての経営理念をわすれると,とんでもないことになる証左でもある.

旅行業法緩和はいかされているか

ことしの1月,改正旅行業法が施行された.
趣旨は,地域に限定した知識のみで取得可能な地域限定の旅行業務取扱管理者の資格制度の創設と,1名の旅行業務取扱管理者による複数営業所兼務の解禁,である.

これまでは,国内および海外旅行の手配業務ができた,「総合旅行業務取扱管理者」と,国内のみの,「国内旅行業務取扱管理者」の二種類の資格があったが,これに,「地域限定旅行業務取扱管理者」を新設して,資格取得の試験範囲も緩和して宿がある地域限定のツアーができるようになった.
さらに,兼務が可能になったから,観光地としてカバーできる.

「宿の旅行業務」は,国によっては高級ホテルでオリジナルツアーがあったり,宿泊客の要望に応じてホテルが直接旅行を手配したりと,柔軟な対応が可能なばあいがあるが,当然,わが国では「柔軟」ではなかった.
今回の「改正」は,その意味で外国をキャッチアップしたものともいえる.

だから,そういった国からの訪日客対応はもちろんのことである.
これらの人びとからすると,日本での旅行を日本に来てから宿で申し込むのが困難であったろうから,自然に,「不便」と評価されていたろう.

また,地方の観光地にある宿では,「ホタルツアー」や「星空ツアー」と称して,自前のバスをつかって当概地を案内する,ということが「法的に」できなかった.
こうしたことは,「旅行」になるからだ.じっさい,「ツアー」につかった送迎用の自家用バスで不幸にも事故が発生して,保険が適用されなかった例があると記憶している.「送迎」という状況ではなかった,と判断されたのだ.

だから,今回の改正でのつかい勝手緩和は,宿には朗報のはずである.
しかし,積極的に新制度を利用しようという宿を聞かない.
なぜだろうか?
第一に,人手不足があげられる.
第二に,面倒なのだろう.
第三は,収益増が具体的に見込めないから.

じつは,宿泊業は旅行業にタッチしない,という業界不文律がなんとなく生きているのではないかとうたがう.
これは,お客様目線での発想ではない,業界の習慣だった.

法改正の根拠に,観光庁観光産業課の資料では,
1.地域体験・交流型旅行商品に対するニーズの高まり。
2.ホテル・旅館等が自ら旅行商品を企画・販売したいとの要望。
と書いてある.
主語が具体的にだれなのかが気になる.

ところで,同時に通訳案内士法も改正されている.
こちらは、有償でサービス提供ができる唯一の資格だった「通訳案内士」の独占がなくなったことが一番の変化だ.
つまり,無資格者でも有償でサービス提供ができる,ということになった.

背景は,外国人観光客の増大というが,おそらく東京オリンピックのボランティアガイドを合法化するためではなかろうか?
じっさい,従来の資格試験が難しく,英語以外の言語の通訳不足が原因であるとの指摘もあるそうだ.ならば,「級」を設けるのかと思いきや,こちらはずいぶん思い切った印象である.

そんな難しい試験を突破した従来の資格保持者は怒らないのか?
日本は本音と建て前の二重社会であるが,この資格も有名無実化していた.
無資格者の営業を排除する取締が,ほとんどされず,「ヤミ」が横行していたからである.

しかし,今回の改正は,従来資格保持者にとって有利な展開になるかもしれない.
名称を引き継ぐ「全国通訳案内士」という呼称が唯一の独占になるが,「プロに依頼したい」ということになると,この呼称に行きつくことになるからだ.

「進んでいる」はずの海外事例をみるには,アマゾンプライム・ビデオ「ペテン観光都市」が紹介するさまざまな手口が参考になる.

日本は遅れていて安心安全.
しかし,これは言語の壁で相手をだますほどの語学力がないことが大きな原因ではないか?
国内の募集団体ツアーで行く観光なら,ちゃんとしたガイドの説明をきくことができるが,個人旅行だとどこにどうやって申し込めばいいのかもわからない.

観光庁がすすめている「通訳案内士登録情報検索サービス」は,閲覧対象者が事業者に定められていて,これには「個人」がない.
日本観光通訳協会のHPには,一般人がつかえる通訳ガイド検索システムがある.
これをみると,もっと,日本人のための観光ガイド,という案内があっていいとおもう.
良質な情報には報酬がともなう,のをよしとすべきだが,つかい勝手にかんする事前情報もほしい.

もしかしたら,宝のもちぐされをしているのかもしれない.