帽子をかぶらない有名コックたち

ずいぶん前から違和感があった。
テレビの「ご長寿有名料理番組」がはじまりだった記憶がある。
講師役のシェフが、帽子をかぶっていなかった。
いや、むしろ、帽子をかぶっていないプロの料理人をはじめて観た、といったほうがよい。

これが放送局へどのくらいの苦情電話になったのか?わたしには知る由もない。
放送局は、苦情電話などの報告番組をうそいつわりなく定期的に放送すべきだ。

むかし、帝国ホテルの総料理長だった村上信夫氏が講師をしていたとき、料理の途中で味見をするのに、鍋に直接指を入れてそれを舐め、満面の笑みで「グッドですね!」といって指でOKマークをつくったら、とてつもない数の苦情があった。
味見は小皿をつかってするものだ、と。

それから、テレビ出演だけでなく、ホテルの調理場でも、味見には小皿をかならずつかっていたのを目撃したことがある。
謙虚さが、この偉大な料理人にはあったのだ。
帽子をかぶらない姿をみるのは出退勤時と事務所だけで、現場ではかならずかぶっていた。

だから、帽子を料理人がかぶらないで、テレビに出演するのにたいへんな違和感があったのだ。
インタビュー番組なら、帽子をとってよこにおいてもいい。
しかし、料理をしてみせる、という行為でこれをしないのはどういう魂胆なのか?
また、それをよしとした放送局は、もしや演出として要求したのか?

それからだとおもうが、帽子をかぶらない料理人がふえた。
それは、本場フランスでもそうで、コック服は着ていてもコック帽をかぶらないで撮影に応じ、じっさいに料理をしている場面がふつうになってきた。

こういうことは、伝染するのか、見習いでも帽子をかぶらないでいるから、職場全体に蔓延しているのも画像でわかる。
それを、国を超えてわれわれも観ているのだから、これを気にもしないシェフとはなにものか?

なぜ料理人が帽子をかぶるのか?は、日本人だったら給食当番をやるから小学生でもしっている。
髪の毛その他が、混入しないようにするためである。
その他には、ゴミや汗などがふくまれる。

火をあつかう厨房内はあたりまえに気温が高いだけでなく、蒸気によって湿度も高い。現場のコックは厳しい環境下での重労働をしているのだ。
それで、厨房全体にエアコンをきかせるのは効率がわるいから、煙突のようなパイプで、とくに過酷な場所をスポットで冷房する方法がとられているのが一般的だ。
だから、じっさいにエアコンは、ほとんど気休め程度でしかないのである。

とある会社からレストラン事業の委託をうけて、料理人とサービス要員を配置した。
建物が、当初の設計上、そこに調理場を想定していなかったので、配管をするために床を上げることになった。
すると、身長があるシェフの長い帽子が天井にあたる。

このため、そのひとは、ひとり帽子をしないで仕事をしていた。
それで、事情を確認して、食品工場のように、野球帽の形をしていて、耳までカバーするタイプの帽子を着用するようにお願いした。
店内にでてお客様に挨拶をするときには、シェフ用の長い帽子をかぶるようにした。

このシェフも一瞬身を固めた。
あとで、帽子をかぶらない自分は特別なのだ、という感情があったときいた。
しかし、プロを標榜するなら、他人に見えない厨房という職場で、食品工場として頭部を完全にカバーする業務用の帽子が望ましいとして、これを職場全体のユニフォームにした。

衛生環境も料理とおなじで、つくるもの、なのだ。
こうして、ふつうより不格好にみえるかもしれないが、これが日常になるとだれも気にしないばかりか、他に衛生上の問題はないかと気にかかるようになる。
このレストランは、表向きも高級店だったが、それは料理だけでなく、店舗の裏の厨房の衛生も高級だった。

星がいくつあるかで価値をきめるなら、それはそれで個人の自由である。
フランスの有名タイヤメーカーが、レストランのガイドをつくったのは、そこまで自動車で移動してくれればタイヤが減って、交換需要があると見込んだからである。
だから、本来はドライブガイドだった。

それがレストランガイドとして独立して発展したのだ。
けれども、ほんらいの「タイヤが減る」ことを望んでいることはまちがいない。
タイヤメーカーだから、利害関係はうすい、として厳密な評価なのだという評判も、この会社が「つくった」ものだ。

コック帽には形こそいろいろあるのは、料理がいろいろあるからだ。
イギリスパンのような中華料理のコック帽、日本料理なら俳人がかぶる形で白い生地をつかう。
日本の家庭なら、三角巾。
髪の毛があって、汗をかくから、人類共通の機能性帽子になったのだ。

そういうわけで、わたしは、コック帽をかぶらないでテレビにでてくるようなひとの店にはいかない。
さいきん、パリのレストランの荒廃ぶりがつたわってきているのは、カット野菜や冷凍食材のつかいすぎということの前に、コック帽をかぶらなくてよい、という心の脇の甘さが原因ではないかとうたがっている。

プロとして、なにを優先させるのか?ができていないなら、料理の味にあらわれて当然なのである。

不気味なマスクの着用

風邪のシーズンだ。
インフルエンザは空気感染する伝染病だが、いわゆるふつうの風邪はじっさいに治す薬はない。
どちらも、ウイルスが原因の病気であるが、それぞれ種類がちがっている。
風邪ウイルスは、種類が豊富なのが特徴らしい。

ウイルスというのは,生物なのか生物ではないのか?
この議論は、生物の定義とはなにか?につながる。
つまり、生きていること、の定義だから、裏返せば、死んでいること、の定義にもなる。

ベストセラーになった、福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007年)は、まさに「生命の神秘」が語られていた。
しかし、はなしはつづいて、中屋敷均『ウイルスは生きている』(講談社現代新書、2016年)がさらに奥深くわけいっている。

 

発表当初、噴飯物といわれた、「インフルエンザ・ウイルス宇宙飛来説」も、いまでは最先端で注目される研究分野になっている。
吉田たかよし『宇宙生物学で読み解く「人体」の不思議』(講談社現代新書、2013年)がある。

インフルエンザ・ウイルス宇宙飛来説は、シベリアにたくさんいる渡り鳥に入りこんで、それが「渡り」によって南にはこばれ、飛来した渡り鳥→鶏、鶏→豚、豚→人間という経路なのではないか?というはなしだった。
それで、パンデミックだった「スペイン風邪」も、温かい地方からはじまる、という説と一致する。

だったらスペインやラテン系の国々で、防御のためのマスク着用が風習になりそうなものだが、ぜんぜんなっていない。
ましてや、世界の常識からすれば、マスク着用という風習そのものがほとんどない。

話題のPM2.5という汚染物質によって、東アジアではマスク着用がはじまっている。
しかし、ちゃんと防御しようとしたら、簡易型のものでは効果がうすい。
マスクにも、基準となる規格があって、最高レベルは外科手術用になる。

しかし、マスクには、それ以外の効果があって、どちらかというとこちらの方が着用のインセンティブになっているのではないかとおもわれるのは、吐息からの湿度を得て喉を潤わせること、さらに、化粧なしのスッピンをカバーできることだ。

すなわち、じぶんの顔を隠すことができる、文字どおり「マスク」という機能がでてくる。

マスクを着用すると、別人格になれる。
あるいは、正体不明、になる.
それで、ヒーローたちもマスクをつけるのだ。

日本なら、「能」から郷土芸能まで、戦後は、「月光仮面」や「仮面の忍者 赤影」など、別人格になったり、「異能」さを仮面の着用が象徴する。
お祭りの夜店にある仮面も、「祭り」という非日常の境界に入りこむためのアイテムだったのではないか。

先日、男性の「髭」にかんする裁判での判決が大阪地裁であった。
かんたんにいえば、無精髭はいただけないが、現代的に整えている髭であれば自由、ということだ。
現代的とは、歴史上の武将や明治の元勲たちのようなデザインではない、ということ。

使用者が労働者に、「業務上の身だしなみ規定」を提示してこれを守らせることは合法である。
しかし、ベースには「個人の自由」があるということを失念してはいけない。
社会通念上のマナーやエチケットに合致していれば、命令やそれを理由とした本人に不利な人事評価をしてはならない、とかんがえればよい。

だから、身だしなみ規定を守らないひとには、早期に勧告して納得してもらうことが重要になる。
それで、もっとも効果があるのが、「採用条件」とする方法である。
採用決定前に、本人の了承を得るのである。
雇用契約の条件の一部にする。

わが国は一般的に、マスク着用が「異常」とはされない社会になっているが、だからといって、採用面接でマスク着用をしたまま、では不採用になってもしかたがない。

第一に、面接官という初対面のひとに自分を買ってもらうのが目的だから、自分をみせなくてはならないという目的に合致しない。
顔をださない、というのは、顔を隠す、ということだからである。
もちろん、挨拶としても、初対面でマスクを着用したままなら、マナー違反になる。

ということは、面接官側がマスクを着用したまま、というのもありえない。
面接者という応募者に、会社を代表して面接されるのも面接官だからである。
将来、もしかしたら同僚になるかもしれない面接官の顔が見えない会社に、就職をきめるのは勇気がいる。

およそ接客業で、マスク着用したまま、というのがゆるされるものか?など、ちょっと前ならかんがえる必要もなかっただろうが、いまはちゃんとかんがえておかないといけない。
医療機関や食品衛生では別だが、接客の最前線でのマスク着用は、ナンセンスなのである。
公共の交通機関の職員に、マスク着用を散見するが、「髭」よりよほど深刻な問題だ。

ウイルス対策なのであれば、会社はマスク着用を容認するより、機能性が認められている製品を支給してマスクにかえるべきである。

マスク着用の習慣がないおおくの国で、マスクを着用したまま、ホテルにチェックインしようとしたら、断られる可能性がふつうにある。場合によっては強制退去させられても文句はいえない。
理由はふたつ。
・顔を隠しているのは、「犯罪者」をうたがわれるからである。
・衛生のためならば、本人が「伝染病に罹患」しているとうたがわれるからである。

どちらも、日本の旅館業法でも数少ない宿泊拒否理由として合法だ。

よほどの事情がないかいかぎり、公共の場にマスク着用をしたままで出かけるのは、「不気味」なことなのだ、と認識したい。
外国人をあいてにする接客業なら、これは「基本」である。

接客サービス研修はムダである

新入社員や初心者ならまだしも,経験者に向けて「接客サービス研修」をおこなうのはムダである.

まず,あいてが経験者なら,「接客サービス研修の『やり方』」という研修でなければならないはずだ.
そして,その研修をする理由と効果を,あらかじめ決めておかなければならない.

「プロとして」なにもしらない新人や初心者を、「プロにする」のが接客サービス研修である。
だから、何時間でプロにする、という「きまり」がなければならない。
「する」のであって、「なる」のではない。
「なる」のは本人だが、「する」のは会社であるからだ。

ここが理解できていないサービス業の会社がなんとおおいことか。
新人や初心者をまともな研修もなく、いきなり現場配置して、いつまでたっても一人前にならないと嘆くのは、本人だけが努力さえすれば勝手に「プロになる」と決めているからである。
第三者からすれば、それは「筋違い」だといわれてもしかたがない。

何時間でプロにする、ということができる職場は、プロ意識で成立している。
どんなひとでも、ある一定の時間内でプロにする、とは、いったいどんな方法なのか?
合理的に組み立てられた「教育プログラム」が、事前にあってこそなのだ。
そして、それにしたがった教育指導をするひとが「いる」状態でなければできない。

コンビニや牛丼チェーンなどに、外国人労働者をよくみるようになった。
すでにこれらの業界では、外国人労働者なくして営業できない状態にまでなっている。
では、これらの業界に外国人労働者がおおい理由はなにか?
「単純労働だから」だけが理由ではない。

上述した教育プログラムと教育指導をするひとがいるからである。
ふつう、研修期間中の時給は最低額の設定であるから、はやく一人前になって時給が上がるのは、「稼ぎたい」外国人労働者の要求と合致する。
そして、現場をまかされるレベルになれば、深夜手当のつく勤務シフトにもはいれるのだ。

それに、コンビニや牛丼チェーンなどではたらくと、日本人の生活文化を垣間見ることができるのだ。
世界一といわれる日本のコンビニのサービスは、日本人には日常だが彼らには過剰だ。
しかし,「そこまでやる」を理解してはじめて、日本の生活文化が吸収できる。

そういうわけで、コンビニでのアルバイトは、外国人留学生にはとくに魅力的なのだ。
もちろん、就学ビザで入国した留学生が、アルバイトして生活費を稼げる、という国はめったにないから、制度としての問題はべつである。
おおくの国では、勉学だけしか入国目的にないから、就労の事実が発覚すれば国外退去処分になるのがふつうである。

これに、外国人労働者のかんがえる「労働の対価」とは、「職『務』給」のことだから、コンビニや牛丼チェーンの業務と報酬制度は、かれらのイメージに馴染めるのである。
日本的「職『能』給」は、かれらが理解しにくいから、給与体系の合理的説明をもとめられることになるが、この説明がこまったことに困難なのである。

人手不足を外国人労働者で埋め合わせようとしても、上述のポイントが満たされないと募集をしても応募がないか、採用後にトラブルことだろう。

外国人労働者を募集しなくても、サービスレベルをあげるためにおこなう「接客研修」のおおくはムダである。
サービスレベルをあげる、というのは、なにを指すのか不明なことがおおい。
しかも、対象者は新人や初心者ではなく、ベテランになる。

驚くべきことに、こうした研修をやりたがる企業ほど、自社の「事業コンセプト」をあらわしたものをもっていない。
だから、はなしがミクロに徹するしかない。
こうして、女将やらが要求する「あたらしいサービス」がくわわって、現場負担がふえるのだ。

そのふえた負担によって、単価はあがるのか?利益はふえるのか?それとも、従業員の賃金がふえるのか?
これらは、さいしょから意識されていないことがおおい。

こうなると、新人の研修もできず、ベテランの業務の目的も自己目的化して、とにかく「こなす」ことに集中する。
それで、「貧乏暇なし」のスパイラルに落ち込むのだ。

いったい、業界はいつまでこれをつづけるつもりなのか?

よろこんでムダをおこなって、業績があがるなら、だれも苦労はしない。
苦労の方向と方法がまちがっているのである。

外部経営環境の巨大さ

自社の経営戦略を構築するうえで必須の現状分析の手法のなかに、「外部経営環境」と「内部経営資源」の分析がある。

このうちの「外部経営環境」は、自社の一存ではどうにもならないけれど、自社の経営に影響があるとかんがえられる社会事象を抽出して、それにどう対応するのかをかんがえるための題材にするものだ。

残念だがこれが、巨大化している.

交通や通信がいまのように発達していない時代でも、その時代ごとに「最先端」があった。
江戸時代なら飛脚制度がそれだし、特別料金で「早飛躍」という特急便もあった。
当時は、政治の江戸と経済の大阪という二極があったから、どれほどの飛脚需要があったかは、かんたんに想像できる。

ましてや、経済の中心価値は年貢から得る「米」という物資の価値に依存していた。
幕府も大名も、非力といわれた公家も、さらに寺社も、領地からの年貢収入がなけれな生存できない。
その価格は「米相場」できまったから、相場の情報は東西どころか全国を飛び交ったはずである。

それが、明治になってわずか5年で、郵便と電信ができる。
わずかな金額で全国どこにでも配達される郵便は、いまならインターネットの出現のようだったろう。
電信にいたっては、仕組みが理解できなくても、時空を飛び越えた驚異の通信だったにちがいない。

しかし、これらはおもに国内のことだったから、国内の事情が経営に影響した。
それが、だんだんグローバル化すると、ヨーロッパやアメリカの事情が影響するようになる。
けれども、ずいぶん時間差があったから、考慮のための時間もあった。

いまは、とてつもないスピードで変化をキャッチできる。
これらは、もっと早くなることはあっても、遅くなることはない。
それで、地球上の異変が自社の経営におもわぬ影響をおよぼすことになってきた。

だから、「外部経営環境」が自社に影響するとかんがえることは、「想定」すること、と言い換えられる。
つまり、「想定外」とは、かんがえていなかった、という意味になるので、ときと場合によっては、第三者に恥をさらすことになる。

組織運営上、最悪のシナリオ、をつくる意味はここにある。
ところが,あんがいどちらさまも「本当の」最悪のシナリオをつくっていない。

企業における最悪とは、倒産だ。
どうしたら自社が「倒産するのか?」を研究していない。
おおくの経営者は、倒産したら意味がないから研究の価値もない、とかんがえている。

そうではないだろう。
「倒産」といっても、きれいな倒産だってある。
きれいな倒産とは、事業資産をちゃんと配分できて、他人に迷惑をかけずにおわることだ。
これぞ、究極の経営責任である。

もうひとつ、倒産シナリオの研究には、取引先の研究が不可欠になる。
これが役に立つのだ。
「産業連関」的な目線である。
それは、一種の「回路図」のようなイメージである。

巨大な事象が発生して、日本経済全体が不調におちいったなら、自社だけが生きのこることはできないから、しょうがないじゃないか。
しかし、察知する能力をたかめておけば、ちがう状況になる可能性がある。
そして、そうした察知能力が、各社にあれば、天変地異以外の人間がおこなう行為から発生する各種危機を、回避することすら可能ではないか?

たとえば、海洋航行の自由が特定の国の軍事力によって妨げられるとどうなるのか?
東南アジアの海域でおきたら、中東からの石油が止まる可能性がたかまる。
それは、太平洋側の三角波が危険だから、それを避けるための台湾海峡のばあいも同然である。

こうしたわかりきった想定でさえ、民間企業がこぞって政府にはたらきかけることがないのは、どういう意味なのか?
力のある外国が、阻止せんと行動することを、評価せずに批判するのもどういう意味なのか?

こうした事象が、「外部経営環境」になっている。
これは、ネット用語でいえば日本経済の「巨大な脆弱性」である。
ふつう、こうした「脆弱性」がみつかれば、ソフトウェアの手当をする。
あるいは、別の新規ソフトを提供して、古くなって危険なソフトの使用を中止する。

それがだれにでもわかるかたちで放置されているのだが、だれも声をおおきくしない。
すなわち、「放置」=「無責任」という「巨大な外部経営環境」が存在している。

しかし、これはほんとうに自社の一存ではどうにもならない社会事象なのだろうか?
責任ある経営者なら、声をあげなくてどうするのだろう。

なにもしなくても、日本経済は発展をつづける、というかんがえこそ、思考停止だ。

自社最大の危機の想定から、自社の生きのこり戦略がみえてくる。

政府機能停止のメリット

アメリカ合衆国という現代を代表する文明国で、一部とはいえ連邦政府機能が一ヶ月も停止している。
理由はなんであれ、わが国だったらかんがえられない事態であるが、大混乱にいたっていないのはどうしたことか?

「日本国籍」があって、日本国に「居住」していて、「日本語」を話せば、定義として日本人になる。
ここに特定の宗教が「ない」のが、むしろ日本的でもある。

真逆はユダヤ人の定義だ。
ユダヤ教徒という宗教「だけ」で、「ユダヤ人」と呼ぶから、国籍も人種も関係ない。

その日本では、日本人はふつう日本語しかできない。
かくも外国語が不得意で、近代文明を享受している国民は他に類がない。

さいきんはネットで投稿動画がかんたんに視聴できる。
そこで、日本好きのアメリカ人とオーストラリア人コンビが、日本語でさまざまなレポートを配信している。
ある動画では、東京の焼き肉店で料理を注文するのに、日本語のメニューで苦労しているのだが、店員がもってきた英語のメニューの「英語がわからない!」といっていた。

「あんた、なにいってんの?英語だよ!わかるじゃん」
「あゝ、ヨコ文字みるときもちわるくなるから読みたくない」
「それはわかるね、よくこんなの読んでいるわ」

日本に慣れた瞬間はなにか?という外国人ネタの定番は、外国人が日本ではじめて会う外国人に、何語ではなせばよいのかわからなくなったとき、という回答がある。
もっと慣れると、道で見知らぬ外国人にすれ違うと、「あっガイジンだ」とおもって、なるべく声をかけられないようにする、という回答もおおい。

どうやら外国人が、かなり日本人化する、なにかがこの国にはあるようだ。
それで、日本語のニュースしかしらない日本人と、情報という面でも一体化できるのだろう。
アメリカ連邦政府が止まって、こんなことになっているというニュースが、ネットでも目立たないのである.

ちらりと出た記事に、「連邦政府職員80万人」とあった。
日本における国家公務員数が引き合いに出されないけど、わが国の一般職公務員はざっと64万人の5:4、すなわち1.25:1である。
それで、人口はアメリカが31千万人、日本が12千万人だから、2.6:1になる。

単純に、わが国の公務員数はおおすぎる。
人口比なら、30万人程度でよいことになってしまう。
もちろん、あちらは「州」という実質「国家」があつまっている「連邦」だから、単純比較は乱暴だ。

対して、OECDの調査では、日本は世界最低レベルの公務員数なのだ。
どうやら、国際比較における公務員の「定義」に問題がありそうだし、業界支配を考慮するのは困難だ。

一方で、教育社会学者の舞田敏彦氏による2016年10月5日『ニューズウィーク日本語版』によれば、日本の公務員の収入レベルは世界的に突出している。
その安定した「身分」も考慮すれば、よくある「役人天国」という指摘とあいまって納得できるものだ。

国際比較における定義の問題では、公務員に軍人をいれることや社会保障事業の取扱がある。
とくに日本では、介護事業者などのあつかいを公務員とはしないだろう。
また業界支配では、自由に参入ができない事業分野や、自主的に料金を決定できないタクシー事業なども、わが国では公務員とはいわない伝統がある。

連邦政府の機能がとまるとどうなるのか?ということは、国民に「もし連邦政府なかりせば」ということの重要さも、不要さもあきらかにされる。
じっさいにいま、アメリカ合衆国でおきていることは、たっぷりウオッチされていることだろう。

日本だったらどうなるのか?
これは十分に興味深いテーマである。
なにが必要で、なにが重要で、なにがどうでもよく、なにが不要なのか?
念のため、ここでは「誰が」ではなく、「業務」であることに注意したい。

いろんな「業務」がとまって、こまるひとは「誰か」は、とまってみないとわからない。
じつは、予想外にこまるひとはいないかもしれない。
かえって、自由競争が促進されれば、誰が日本経済を停滞させていたかが明確にもなる。

かつて、わが国で政府機能がマヒしたといえるのは、70年前の敗戦直後しかなかった。
安定した政府の存在は、ふつう国民にとって望ましいことではあるが、支配力が強くて安定した政府は、国民にとって望ましくない。

そういう意味では,たまには政府機能がとまるのは、国民にとってわるいことばかりではない。
しかし、残念だが実験ができない。
だから、思考実験という方法しかない。

かんがえる、ということだ。

心理サスペンスをオペラで

今シーズンのメトロポリタンオペラ・ライブビューイングでの楽しみに、「新作」があることだ。
それも現代劇で、しかも、ヒッチコック監督が映画化した「マーニー」なのだ。

よくしる作品の「新演出」も興味深いが、「新作・初演」はこれからの歴史を一層かんじることができる。
当然だが作曲家も演出家も生きている。

主演のメゾソプラノ、イザベル・レナードは、美貌と美声、それに舞踏出身というキャリアがくわわって、演技もすばらしいをこえて「凄み」すらある。
こころに傷をもつ、おそろしいまでの美人が、連続窃盗犯で、しかも、その現場を目撃した人物から脅迫され結婚する。

登場人物たちがだれも真実をかたらない、ものすごく異常な設定の物語なのだが、嘘のなかから真実があらわれる。

演出も物語の中断とならないように、流れるような「場」をつくる。
歌舞伎の「黒衣」と「後見」をかねるひとたちが、タキシード姿で存在しているのにおどろいた。
主人公は歌舞伎の「狐」に対抗する早変わりで変装すること15回。
「七変化」の倍以上をやってのけるのは、みごとな研究成果である。

二幕の狐狩りのシーンでは、彼らが「馬」になって駈け抜ける表現を、まるでモーリス・ベジャールの舞踏のように表現したのは圧巻である。
壁を飛び越えるのに失敗した馬と、それにまたがる主人公が宙を舞って落馬する表現は、まさに「歌舞伎」そのもののスローモーションであった。

なんというダイナミックな表現なのだろう。
これは本家の歌舞伎でも逆輸入すべきではないか?
しかも、演じているのは、オペラ歌手、なのである。

ふと、このシリーズを多忙とはいえ、配給元とおなじ松竹に所属する歌舞伎役者たちが観ていないとしたら、これはとんだお粗末であるとおもってしまった。
現代の歌舞伎役者には、時代のアバンギャルドとして、おおいに「かぶいて」ほしいのだ。

主人公の母親役を演じた、当代一の「カルメン」役デニース・グレイヴスへの幕間インタビューでは、彼女が卒業した芸術高校に、このライブビューイングを鑑賞できる施設が完成したとあった。

「若いときに、世界トップレベルの芸術を観るのはとても大切なこと」、と彼女はあっさりいったが、そんな高校は日本のどこにあるのだろうか?
芸術大学にも、ないのではないか?

箱物としての視聴覚室があっても、上映することがなければ宝の持ち腐れであるから、彼女がいう完成した施設とは、箱物のことではない。
生徒たちが鑑賞できるようになったことが重要なのだ。

METをささえる財団からの援助ではなく、卒業生たちや地域からの寄付があるにちがいない。
すくなくても、国家予算や地方予算に依存などしていないはずだ。

ちゃんとした学校には寄付があつまって、成績がかわらないなら寄付がおおい家の子を優先的に入学させても、文句をいわれる筋合いはない。
日本の平等主義はこれを否定するが、「機会の平等」と「結果の平等」とをとりちがえ、結果の平等を重視するから停滞するのである。

どのみち学歴ではなく、芸術は才能と実力の世界なのだ。
世界の舞台芸術は、オーディション漬けになるのが常識で、どの芸術大学を卒業したか?は審査の主たる対象ではない。
端役でも観ているひとは評価をちゃんとするから、キャリアを積めるようになっている。

若いがすでに有名な英国人作曲家のミューリー氏は、少年時代は国教会の音楽活動にふかくかかわった経験があるといっていた。
これも、何気ないインタビューでの一言だったが、なるほど、終盤、主人公の母の葬儀の場面で、その言葉の意味がわかった。

キリスト教的なら、どこでもなんでもおなじ、と日本人はスルーしてしまいそうだが、英国国教会のスタイルを音楽にもとりいれて、当地を舞台とする物語に齟齬がないようになっている。
このあたりは、ほんとうに「呼吸」したことがなければ、なかなか読み取れない。
インタビューにも、観客に理解をうながす仕掛けがある。

今シーズンは、イザベル・レナードが主演する作品がもう一本ある。
『カルメル会修道女の対話』という「史実」の物語である。
予告編では修道女になったイザベル・レナードの美貌が光るが、どうやらこちらも複雑で理不尽なフランス革命末期のはなしのようだ。

「カルメル会」とはどんな派なのか?や、フランス革命のながれをしらないと理解が難しそうだから、またいろんなことを知りえるだろう。
「史実」だから、従来の娯楽としてのオペラにはない迫力も期待できる。

かつて、2011年のシーズンで、ゲーテの『ファウスト』(第一部)をオペラ化したグノーの作品を観た。
超有名なソプラノ歌手が、演出内容をきらって降りてしまったため、代役としてマリーナ・ポプラフスカヤが演じ、絶賛された。

ファウストによって妊娠し、生まれた子をみずから始末するマルグリートの狂気を、恐ろしいまでに表現したのがわすれられない。
「眼がイッていた」のだ。
これは、劇場の座席からどう見えたのだろうか?

ライブビューイングという映画だからこその「アップ」で、狂気にかられる人物を目の当たりにできた。
歌いながらの、狂気である。

だが、エンディングでの爆発的拍手がわすれられない。
劇場の観客には、狂気のオーラが観えたのだろう。
これで、彼女はこの作品の「第一人者」に認定された。

世の中にはすごいひとたちがいるものだと、感心するしかない。
どういった教育と訓練とを受け、それをこなしてきたのか?
その感心のために、また劇場に足をはこぶのである。

「ウザン」ドレッシング

健康志向から、「サラダバー」があるレストランがずいぶんふえた。
野菜を食べると健康にいいというのが科学ではなく気分である証拠は、ドレッシングの選択にあらわれる。
ノンオイルならまだましだが、脂質たっぷりのドレッシングを大量にかければ、なにが健康的かがわからなくなる。

しかし、糖質と脂質という成分には、飢餓の時代がながかった人類にとって、「おいしい」という味覚の遺伝子が、ちゃんと機能するようにできている。
だから、野菜という低カロリー食品に、高カロリーの調味料をつかうのは、バランスがとれているのである。

そういうわけで、野菜を食べると健康にいい、ということにはすぐにはならない。
また、エグミというのは、からだによくない成分であることがおおい。
それで、苦く感じて注意を喚起するようにもなっているから、あんがい生野菜には温野菜にくらべて不健康な要素がある。

生野菜は基本的に食べない、というひとがいるのは、理にかなっている。
これに食べ合わせも考慮すると、食べ物というのは化学知識をようしないと理解できない。

中年をすぎて、尿管結石を何度かやったことがある。
その痛みたるや、表現できないほどのものだ。
主たる原因は、緑の野菜におおい「シュウ酸」が、血中のカルシウムと結合してできると医師から説明をうけた。

こうした野菜をとるときには、カルシウムもいっしょに食べると予防になるという。
たとえば、ほうれん草にはたっぷりのシュウ酸があるから、グラタンにして乳製品といっしょに食べれば、乳のカルシウムとすぐに結合して排出されるから、体内でわるさをしない。
伝統的な調理法には、そうとうの経験的知恵がつまっていることをしる。

「医食同源」とはよくいったものだ。
現代は、専門領域が深くなった分、範囲がせまくなった。
それで、「医」学、「薬」学、「栄養」学が、独立してしまった。
さらに、業界のためなのかそれぞれに国家資格ができたから、専門家は専門外のことをいえなくなった。

トータルで、医学の「医者」が、領域を超えても許されるようになっている。
しかし、むかしとちがって、患者の側の知識が向上した。
それで、家父長的である「ぞんざいな態度」を、医者がすることがなくなって、「インフォームドコンセント」や「セカンドオピニオン」があたりまえになった。

出版不況は深刻な状況になってひさしいが、一般人も一般書で知識を得ることが容易になったのは、なにもネットの普及だけが原因ではない。
たとえば、『マギー キッチンサイエンス』は、邦訳が2008年にでているが、アメリカでの出版は1984年である。

1984年といえば、レーガン大統領一期目で、米英ともにスタグフレーションに悩んでいた時代であって、わが国は『ジャパンアズナンバーワン』(1979年、エズラ・ヴォーゲル)の絶頂期だった。
この本は、そんな不況期の真っ最中のアメリカで大ベストセラーになったのだが、平成不況のわが国で大ベストセラーになってはいない。

いわゆる「グルメブーム」というのは,経済成長いちじるしいわが国あって、1975年スタートのテレビ番組『料理天国』が象徴的だったが、猫も杓子もになったのは、やはりバブル時代前後であろう。
そういう意味で,『キッチンサイエンス』は、「食」を食材と調理法という側面から科学(化学)的に解説したものとしての画期があった。

しかし、わが国の「軽さ」は、たんに豪華さをくわえた「美味追求」に終始し、それが転じて「B級」という分野に発展したから、ついに現在・ただいままで、「なぜ?」の領域にふみこんではいない。

残念だが、ここに日本がアメリカをとうとう凌駕したとおもったとたんに凋落がはじまり、アメリカが復活するメカニズムの一端をみるのである。

ちょうどこの本がアメリカで出版された頃、アメリカは国家プロジェクトとして、歴史上二度目の日本研究を終えていた。
一度目は戦時中、捕獲した「零戦」の解体研究だったが、このときは「日本経済の強さの理由」だった。

それで、かれらは「品質にこそ利益の源泉がある」という結論にいたったのである。
料理についても、食材と調理法を科学するというのは,品質の追求と同様ではないか?

これを追求した国と、怠った国が、気がつけばとても「凌駕した」とはいえない差になってしまったのは、当然の帰結である。

とあるレストランのサラダバーで、ドレッシングの種類説明のシールが一部はがれて丸まっていた。
これをみた、中年男性客がおなじグループのひとに、
「『ウザン』っていうドレッシングがいちばんうまいよ」とおしえていた。

「サ」が丸まっていたのだが、それをいわれたお仲間が、「へー、『ウザン』か、めずらしい」といって選んでいたが、「なんだ『サウザン』じゃないか」という声はきこえなかった。

「憶測」しかない韓国情勢

過去最悪という状態の日韓関係になってしまった。
わが家の歴史では、日清日露の戦争で、曾祖父の世代から数人の戦死者をだしている。
このふたつの戦争の意味は、第二次大戦より明確で、朝鮮半島に清とロシアを支配者として受け入れないためだった。

海をこえて移動する手段が、飛行機発明前の船しかない時代に、あの半島がわが国にちかすぎて、わが国の価値感とはことなる、清国とロシアが支配してしまったら、「元寇」以上の脅威となるからだ。

音速をこえるジェット機や、それよりはるかに高速なロケットがある現代で、地図はかわりようがないから、あの半島の情勢は、むかしよりもずっとわが国の安全にとって重要な影響をおよぼすようになっている。

だから、日本側の一貫した「甘やかし」は、うらがわに「恐怖」があるのである。
西郷隆盛の征韓論から、福沢諭吉の「脱亜入欧」も、この重要な半島に住まう、困ったひとたちへの対応を示したもので、伊藤博文が「併合」に反対した理由でもあった。
それで、どうにも偏屈なこの住民たちを、まちがえて支配するようなことがあってはならないと、国際協調派の伊藤はみずから朝鮮統監になった。

日本政府の朝鮮「支配」は、台湾と同様にその全期間をつうじて完全「出超」であった。
つまり、政府税収と予算支出のバランスが、植民地支配中、一貫して支出のほうがおおかったのだ。
よくもこんな政策を日本人の有権者が支持し、しかも維持されたものだ。

いわゆる欧米列強諸国がやった、植民地支配と「真逆」なのである。
日本本土の各県への分配よりも、朝鮮と台湾を優先したことは、特筆にあたいする。
いったいなにをかんがえていたのか?
もちろん、朝鮮や台湾に、中央政府の予算を分捕るための地元選出議員などいないから、あきらかに「国策」であった。

しかも、朝鮮を一等国民とし、台湾を二等国民とした。
この差を台湾人は嘆くが、それは、やはり安全保障上の重要地域、ということが根拠だったろう。
だから、民族の優劣ではなくて、地理上の優劣だった。

日本が敗戦したら、日本だった朝鮮をどうするか?になった。
「ポツダム宣言受諾」によって、無条件降伏したのは日本軍だったが、日本国政府が無条件降伏したようにみせる、まちがえた報道が意図的にされている。
政府と軍と別である、という国際常識が、いまだにない国民にされている。

原爆を二発もうけて、それでも日本政府がグダグダしていたのは、「条件」をどう要求するか?を評定していたのだ。それが「国体護持」だった。
だから、わが国政府は占領下でも存在していたが、総督府という政府をうしなった朝鮮は、米軍の軍政下におかれることになった。

日本の敗戦が、自動的に朝鮮の独立だという主張は、残念だが国際的に通用しない。
日本統治時代という区分でいえば、本土の日本人もおなじだが、当時の国際法を国民(日本人、津朝鮮人、台湾人、それに千島・樺太は、全員「日本人」だった)が理解していなかったということだ。
つまり、これを教えなかったのは、日本政府の責任だ。

いまでも、日本政府は、国民への普及義務が条文にある「ジュネーブ諸条約(4条約)」を、ちゃんと周知させていない。
リンクにあるように、防衛省のHPにあることをもって「周知」とは「笑止」である。
その条文は以下のとおり、防衛省HPに記載があるのだ。

『締約国は、この条約の原則を自国のすべての住民、特に、戦闘部隊、衛生要員及び宗教要員に知らせるため、平時であると戦時であるとを問わず、自国においてこの条約の本文をできる限り普及させること、特に、軍事教育及びできれば非軍事教育の課目中にこの条約の研究を含ませることを約束する。』

スターリンの策謀で、朝鮮戦争がおきて、半島は南北に分断された。
このときの休戦協定は、いまでも有効だが、なんと韓国政府は、協定の当事者ではない。
朝鮮戦争の当事国に韓国はふくまれていない、という重要な事実があるのだ。

この協定の日本語正式名称は、「朝鮮における軍事休戦に関する一方国際連合軍司令部総司令官と他方朝鮮人民軍最高司令官および中国人民志願軍司令員との間の協定」だ。
すなわち、国連軍というほぼ米軍と、北朝鮮・中国の三者による。
だから、「在韓米軍=国連軍」を「在日米軍」とおなじとおもってはいけない。

昨日、木村太郎氏が、FNNPRIMEの記事で、重要な「憶測記事」を書いている。
ふつう、ジャーナリストが「憶測記事」を書くのは御法度である。
しかし,もはや、ベールの北朝鮮とおなじレベルの国になってしまったから、「憶測」しか書けない。

北と一緒になることを最優先課題としたのだ、とすれば、韓国政府の論理のつじつまが合致する。
日米を離反させようと仕組んで、損をする東アジアの国はない。
北は当然、中国も、ロシアも、日米離反はむしろ歓迎すべきことだ。

韓国が北に飲み込まれる、ということが現実味をおびてきた。
これは、元寇以上の危機を意味する。
米中経済戦争が、ラッキーをもたらしたが、ロシアがしっかり動き出した。
状況は、「日清日露前夜」にもどっている。
まさに、地図が変わろうとしている。

戦後最大の、わが国の正念場がやってきている。

「フレーバー」にこだわる

いまは、ずいぶんと「フレーバー」商品があふれている。
これも「豊かさ」の表現のひとつなのだろうとおもう。

以前から、よい香りの商品といえば、線香や香水、香の物といった「香」の文字があるものや、日本茶や紅茶、それにたばこがある。
お酒も香りは重要だが、リキュールには特にさまざまな味と香りがあって、好き嫌いがわかれる。

嗜好品と香りは、密接なものだ。というより、香りの嗜好が嗜好品をきめるのである。
だから、自分好みが他人にもよいとはかぎらない。
それで、あれこれとさまざまな種類の香りがあって、それをまた「調合」して、あたらしい香りをつくりだすことになったのだろう。

こうして、「香り」が「フレーバー」という表現になった。
嗅覚は味覚とむすびつくから、フレーバーは「味」の表現にもなる。

原点にもどって、フレーバーと味が別物であると実感できるのは、バニラ・エッセンスをなめればよい。
なんとも甘美な香りのバニラ・エッセンスは、おどろくほど「苦い」からだ。

2003年にパトリック・ジュースキントの小説『香水-ある人殺しの物語』(文春文庫)がある。
これを原作にした2006年の映画『パヒューム』は、有名監督たちが作品化をあらそったことでも話題になった。

 

舞台は18世紀のパリとなっている。
あのフランス革命が1799年にナポレオンのクーデターでおわるから、革命前あたりという時代背景である。
この時代は、パリがヨーロッパの中心だった。

しかし、都市としてのパリに下水道が普及するのは19世紀になってからで、18世紀の半ばというこの物語当時のひとびとには入浴の習慣もなかった。
すると、街も人間もおそろしく「臭かった」ということになる.
香水はの需要は、日本人がかんがえるよりずっと深刻で、強いものだったと容易に想像できる。

だから、19世紀、極東アジアの後進国だと信じて訪問した、幕末の日本が「ほぼ無臭」だったことに、おおくの外国人たちが驚嘆したのだろう。
むしろ、無臭ではなく、かれらが訪ねた場所には「香」のけむりが漂っていたはずであるから、本国の文明とのちがいをはっきり認識したことだろう。

素材の味をいかすのが日本料理の真髄だ。
したがって、素材の香りをどうするか?も当然その技術にふくまれる。
だから、日本人はどんなものでも素材にこだわる傾向がある。

たとえば、いまはやりのコーヒー豆専門店では、個人商店でもチェーン店でも、コーヒー豆の品質に最大のアピールをしている。
それぞれの産地に、それぞれの味や香りの特徴、ロースト具合や挽くときの粒度などにくわえ、ブレンドをふくめると、その組合せは無限大になる。

これが、コーヒーという嗜好品をして嗜好品たらしめるのだろう。
自分の好みはなにか?
一般人は、自分の好きな味や香りがなにかを、あんがいしらないものなのだ。
これをアドバイスして、本人のしらない好みの組合せをさぐりだせれば、もう本人のよろこびは無限大になる。

説得ではなく納得がもっとも重要な商品販売の要素だ。
売れないのは、購入者が納得していないからだ、とかんがえることがひつようだ。
だから、専門店では、店主や店員の専門知識こそが、商品になっている。
たんに豆の種類をたくさんそろえれたからといって、売れる店にはならない。

これはなにもコーヒー豆専門店にかぎったことではない。
お米屋さんだって、お客の家庭の好みからブレンドすれば、ブランド米100%よりも安価でより美味い米を提供できる。
もちろん、こうしたお店のファンはおおい。

ところで、コーヒーに関していうと、大量消費するアメリカでは日本とのちがいが顕著にある。
一日に何杯飲むのか?
ほとんどコーヒーとともに生きているから、彼らは豆の種類や豆そのものの品質に無頓着なところがあって、それでかフレーバーにこだわっている。

ナッツ系のフレーバーや、バニラフレーバーなど、その種類は豊富だ。
いまの気分ならこのフレーバー、という嗜好選択なのだ。

そういえば、たばこもアメリカとイギリスでは正反対だ。
アメリカのたばこは、葉の品質よりもフレーバーが重要視されていた。
もともと葉の品質が悪いのだ、という説明もあった。
対してイギリスでは、なによりも葉の品質が重視され、フレーバーを添加するなど御法度だった。

ときとして米英で、正反対のことがあるものだ。
アメリカでイギリスたばこを、イギリスでアメリカたばこをくわえれば、たちまちにして何人かがわかる。

後進の有利は、フレーバーであれ葉の品質であれ、どちらでも好きなものを好きなように選んでも、社会的に変なめでみられないことにある。

しかし、後進だとおもっていたらあっさり否定されるのが東ヨーロッパで、かつて中南米の社会主義政権とのつきあいがあったから、品質のよいコーヒー豆が安価でてにはいった。
だから、コーヒーの品質と味には敏感なのだ。

たまには、アメリカのフレーバー・コーヒーを淹れてみようかとおもう。

忍耐の町内会・自治会

お正月気分もぬけてきて、4月からの新年度にむけた準備がはじまっている。
そのなかに、町内会・自治会の役員改選がある。
むかしは町内会のなかに老人部ともいえる老人会があったが、いまは町内会が老人会になってきている。

サラリーマンという商売をしていると、ご近所のことは専業主婦にまかせるというのが一般的だった時代とちがって、専業主婦が特別になったから、なかなか逃げられない。

高齢だが独り暮らしで仕事をしなくてはならず、おまけに持病がある、という条件がそろっていても、特別扱いしてはくれない厳しさも、「お互い様」という概念が適用されるからである。
かくも「平等」が、お気の毒をうむことを目撃することはない。

町内会・自治会の役員改選には、まずは末端の「班」から候補をえらぶ。
「班」は10軒ほどで構成され、ここから班長がえらばれる。
たいがいが回覧板の順番での持ち回りだから、班長には10年に一回なることになる。
それで、班長があつまって執行部を形成する役員を互選するのだ。

いつからできた仕組みかはしらないが、戦中の五人組から発展したのは間違いない。
五人組には互いに監視しあうという任務もあったというが、どこまで当局とつながっていたのかまでは調べていない。ご興味のあるかたにはお調べいただきたい。

明治にできた治安警察法による特別高等警察という国家警察があったが、戦後解体され、公安警察や警備警察、外事警察にひきつがれている。
それ以来、わが国には国家警察はないことになっているから、警察庁という役所は直接の捜査権がないため、妙に中途半端な存在である。

町内会・自治会の運営が、超高齢化という社会基盤の影響をうけないはずがなく、むしろ、その最先端の問題が発生する現場である。
だから、従来のような町内会・自治会が維持できるのか?という根本問題までも、その解決は待ったなしになりつつある。

この問題はおおきく二つあって、ひとつは人数確保という「形式上」のことで、もうひとつは、運営にかかわる「方法論」ということになる。
だから、議論にはこれらふたつのうち、どちらのはなしをしているのか、ちゃんと確認しないとたんなる「雑談」になってしまうおそれがある。

個人的に、10年ほど前にいちど役員をやったことがある。
そして、今般、持ち回りでふたたび役員候補になった。
あらためて、10年前に感じたことが、今回も同様に感じたのは、会議の方法が学級会以下だということだ。

たまたまだとしても、15名の候補から7人の執行部を互選する会議に、二時間を要した。
最後にのこった会長を決める方法は、あみだくじ、であった。

どうしてこうなるのか?をかんがえてみた。
その前に、事前に知らされていない情報があったことにも注目である。
それは、道具としてのパソコン所持の有無、であり、ワードやエクセルが使えるか?ということからはじまる。

二名ずつえらぶことになっている書記と会計の実務には、ワードとエクセルがつかえなければならないし、事実上、自分でパソコンを所持していなければならない、という条件情報が欠如していた。
けれども、町内会・自治会で購入しているパソコンもあって、このOSは「VISTA」だった。

古すぎる。
それで、これまで各年度で執行部にえらばれたひとたちは、共通のUSBメモリーを会計と書記が二個ずつ引き継いで自前のパソコンをつかっていた、という。

つかえないものを処分して、二万円程度のリース落ちビジネス・パソコンの中古でも購入しなかった理由はなにか?

印刷されている書記の仕事内容説明には、議事録作成のほかに防災組織班長の名簿作成もある。
個人情報にあたるものが、これでよいのか?という議論はなかったのだろうか?

さらに、議論がすすまない理由に、役員になったひとがでた「班」からは、別のひとが「班長」に繰り上がることになっている。
つまり、自分のうしろに他人がひかえているのである。
だから、班内の事情をよくしる候補は、責任を持って、役員に就任しない努力をするのだ。

また、会長経験者の業務説明に、市役所との「連携」というものがあった。
近年、市役所は町内会・自治会へ業務を振っていて、かわりに「助成金」をだすという。
つまり、役人の数はふえているのに、仕事は減らしていて、以前はなかった「おカネ」をくれるということだ。

これは、「連携」ではなく、「命令」ではないか?
案の定、経験談として、助成金をもらうから、住人側にいろいろと負担がふえているという。
自治体が住人に自治を強制するという、お笑いぐさが、まじめに議論になっているのだ。

町内会・自治会へのコミット方法がまちがっている。
小学校に設置した中古パソコンでもいいから、町内会・自治会へ支給することもできない。
役人の無能さは、底なしである。

どうするのかを観察したところ、その極めつけが、議事進行の方法についての、基本的な合意がないことだ。
「社会人」が集まっているのに、である。
どんな社会経験と訓練を受けてきたのか?まったくの疑問である。

まずは、役職に就任するということからはなれて、「この会議」の議長(司会役)を決めなければならない。
それもしないから、ダラダラと時間だけがすぎていく。

「遠慮深い」からではない。
上述した、役員に就任しない努力が、効いているのである。

その証拠に、「役員をえらぶ」という議題からはなれた個人の要望や意見が時間を浪費する。
こうしたはなしを制止して、本論に集中させることが必要だ。
つまり、逃げのための意見ばかりがでるからだ。
だったら自薦の時間帯をきめて、のこりはクジできめればいい。

そんなわけで、とにかく「忍耐」こそがもとめられるようになっている。

一人当たりの生産性が先進国でビリ、とうとう韓国にも抜かれた理由が、なんだか実感できるのだった。