ドレスコードがない

日本人は、自由の「はきちがえ」をしている、とずいぶんまえから指摘がある。
「本来の」自由と、「にせものの」自由とは、なにがどうちがうのか?

ガラパゴス化した日本の自由とは、なにをしてもいい自由、のことで、枕詞に「他人に迷惑をかけないかぎり」がくっついて、親が子どもにいいきかせる小言とおなじになる。

自由の本場、英米を中心とした国々では、「他人からおしつけられることなく、じぶんでじぶんの人生を決める自由」をいう。

これが行きついたのは、スイスにおける麻薬摂取所の開設だった。いまでは、30カ国、オランダやドイツ、カナダ、スペイン、デンマーク、そしてフランスにもある。

スイスではもちろん「国民投票」できまったから、行政が各町の町はずれに、あたかも日本の交番のようなちいさな建物をたてて、ここに専門家を配置し、やってきた常習者が希望する麻薬を無料で打ってあげる。

その後は、この施設内の休息所にて至福の時間をすごすことになっているから、幻覚がある時間、本人は外にでることはない。
「乱用」となって急死しないような配慮と、入手のため犯罪に手を染めることを防止する、という社会的機能が必要だとみとめられたわけだ。

しかし、この決定には、じつにドライな概念があって、麻薬常習者を救うというよりも、社会に対して安全に、しかも確実に世を去ることを、本人の選択だ、としていることである。
いうなれば、社会が「廃人」を認めたのである。

誤解がないように添えるが、もちろん、本人が悔いて「治療したい」と希望すれば、すぐに病院に行けるが、中毒症状の完治まで病院から出ることはできない。それも、本人の選択だからだ。

自由の「本家」たちは、自由について厳しいのである。

これを裏返したのが、ソ連にあった「自由剥奪」という刑罰だ。
人間が動物として持っている「欲(生理的・本能的:食欲・飲水、排泄、睡眠、体温調節)」に対しての自由を国家がうばう、という刑罰とは、人間性の否定でもあった。

つまり、たんに「自由」といっても、たいへんに守備範囲がひろいことばなのである。

そんなわけで、電車の床に直接座りこんだり、車内で化粧をしたりするのが「自由」だという主張は、自由の「本家」からしたら、たんなる「マナー違反」にすぎない。

電車の床は人間が座る場所ではないし、電車の車内は化粧室ではない。

マナーとは、人間社会における相手を思いやる最低限のルールだ。
だから、マナー違反は、他人に迷惑をかけているから、「自由」にしてはいけないのである。

お行儀よくすることと、マナーが混同されて、ぐちゃぐちゃになってしまったのが昨今の日本社会である。
それが、自己主張と権利という概念につながって、もはや、こうしたマナー違反を他人が注意することもはばかれることになった。

注意した側が、相手からどんな攻撃をされるかわからなくなった。
いきなり刺されることだって起こりうるのである。
とにかく、みなかったことにする、なかったことにする、ということが、もっとも安全な対策になったのだ。

そんなわけだから、高級ホテルに「ドレスコード」がない。

服装というものは、身だしなみだけでなく、TPOに応じた場所ごとのルールがある。
酷暑なら、短パンにTシャツでいたいところだが、そんなときの婚礼や葬儀にそんな格好で参列するひとはいない。
周囲からあやしまれて、じぶんが恥をかくからだ。

中身のじぶんは変わらないのに、服装が決定的な役割をになっている。
だから、一方で「コスプレ」が世界的に認知されるのだ。

このことをわかりやすく書いてあるのが、マーク・トウェインの傑作『王子と乞食』である。

児童文学だからといって、ほんとうに子どもの時分に読んだものは、「原作」に忠実な訳だったのか?というと、あんがいあやしい。
かなり省略されていることもある。

その省略は、現代の(日本の)価値感が基準になっているばあいもあるから、それなりにおとなになってから読み返すのは、意味のあることだし、あたらしい発見もある。

たとえば、『ロビンソン・クルーソー』もその好例だ。

 

見よ、この分量とページを埋めつくす段落なき活字の海を。
絶海の孤島から、アヘン貿易で儲けた主人公は日本をめざす冒険もする。
これが、「児童文学」なのか?

もちろん、『王子と乞食』の時代背景を理解するには、シェークスピアの『ヘンリー八世』は不可欠だ。

こうした、歴史から、カーライルの『衣装哲学』がうまれたのだろう。

かんたんに「衣装」とはいうものの、奥が深いのである。

先進国の高級ホテルで、ドレスコードを明確にしない、できない国になっいるのは、恥である、という「恥」をもわすれてしまったのか?

世界に通用することではない。

フルサービスの理髪店

散髪の需要は、ひとに髪の毛がはえるかぎりなくならない。
それに、少ない資本で開業できるので、個人事業としてうってつけでもあるから、夫婦で営む店がおおいのは当然だ。
また、売上が「現金」だし、その本質は「技術料」だから儲かるのである。

理容と美容の垣根は、ざっくり「顔そり」ができるかできないかである。
ほんとうにひとがサルから進化したのかどうかしらないが、ひとの顔は毛でおおわれていないようにみえるけれど、じつはうぶ毛がけっこうはえている。

ひかりの加減で、可愛いかおをしたひとにうぶ毛があるのはまだしも、あんがい若い女性でも「ヒゲ」が濃いひともいる。
そんなひとは、理容店にいって顔を剃ってもらうとスッキリするし、化粧の「乗り」がよくなるという。
だから、理容・美容には、利用するのに男女の区別はない。

歴史をさかのぼれば、ちょんまげと日本髪だった江戸時代まで、「床屋」といえば「髪結い」のことだったが、すでに男女の区別があった。
ちゃんとしたちょんまげは、月代(さかやき)を剃らないといけない。

時代劇で、青々と剃っているかつらをつけるのは、役柄もちゃんとしたひとで、これを好き放題にのばしたままだと、浪人や博徒など、ちゃんとしていないひとのキャラクター・シンボルとなった。

だから、男性には「剃り」がつきものだったけれど、髪は女の命だった女性側は、そもそも「結う」ことはあっても切ったり剃ったりはない。
それで、女性のための髪結いは、店をもつより顧客先に出向いていたようだ。

明治になると、西欧文明的でない「日本髪」が、なんだか「恥ずかしい」ことになった。
岩倉使節団が伝統的スタイルで欧米を歴訪して、絶賛されたことは、新聞すらもなかった時代に、関係者以外だれもしらなかったのだろう。

世にいう「断髪令」がでたのは、明治4年だが、同じ年の岩倉使節団が出発する前で、これは誤解があるがちょんまげ禁止令「ではなく」髪型自由令だった。

しかし、明治6年に福井で3万人からなる「散髪・洋装に反対する一揆」がおきた。
時代の変わり目にたいする、文化のちからが、良くも悪くも「あった」ことは、あんがい重要なことだ。

いまのひとはこんな一揆を「笑う」かもしれないが、100年後の子孫たちが、いまの時代を「笑う」かもしれない。
明治だといっても「一揆」だったから、首謀者は6人も死刑になっている。

かれらが命がけで守ろうとしたものは、なんだったのか?
わたしたちが忘れてしまったものにちがいない。

牛丼チェーンのすきやには、文明開化当時の絵が壁にある。
ちょんまげに着物のひと、散髪のひと、ドレスをまとった女性。
これは、いまよりもかなり服装や髪型に「主張」があったことをしめしている。

女子大生の卒業式で定番となった「ハイカラさん」スタイルは、洋装と和装のハイブリッドであるが、日本以外ではみることができないから、まちがいなく「和装」の範疇になるのだろうが、なんともすさまじい主張の「発明」である。

ひとむかしもふたむかしも前までは、床屋談義は落語の世界だけでなく現実の、ごくふつうの風景だった。
町内にだいたい床屋は一軒あって、ご近所さんしかお客がいないから、待ち時間がおしゃべりタイムになるのである。

組合がさだめた料金で統一されていて、たいていが「フルサービス」の散髪・洗髪・顔そりをしていたから、ひとりのお客に最低30分はかかる。
子どもでも手間はおなじだから、じっと座っているのはつらかった。
だから、「運がわるいと」一時間待ちはふつうだったのだ。

ちょっといってくる、といって混みそうな時間にじぶんの家から散髪屋にきて、くつろぐ商店街の店主たちもたくさんいた。
もちろん、髪を切ってもらいながらも、会話はつづくのである。
そうかんがえると、客にも店にも余裕があった。

ちょんまげの「さかやき」は、ヒゲと同様すぐにのびるから、これを剃るのも毎朝の身だしなみである。
この「身だしなみ」という伝統で、紳士たるもの月一度の散髪は、おしゃれというより社会的義務だったのだ。

35年前、エジプトのカイロにすんでいたころ、やはり散髪はひつようだから、町の床屋へいっていた。
「へー」とおもったのは、フルサービスの中身がおなじだったからで、やっぱり「床屋談義」をやっているのだ。

かれらが床屋に足しげくかようのは、身だしなみ以前の「衛生」という需要がつよかった。
アラブ人には成人男性はヒゲをたくわえるものという常識があるから、ヒゲをそり落とすわたしは「あやしい男」だったようである。

それでか、二回目からは「顧客」になって、だまっておなじ髪型にしてくれて、それからは町や国のいろんな事情をおしえてくれるようになった。
これに、待っているお客もはなしにくわわるから、おわってもなかなか帰れない。
ちゃんと紅茶もだしてくれて、くつろげるのである。

最近は外国人旅行者に、日本の理容・美容室が人気だという。
日本的なこまやかなテクニックが話題になるが、会話「こそに」魅力があるのではないか?

じつは、いろんな事情をしることができるから、理容・美容室は「情報産業」なのである。

日本の中途半端なやさしさを否定したWTO

日韓関係は「最悪」になっているが、政治ではなく「科学」でかんがえると、本件はまっとうな判断なのではないか?
むしろ、これをそれぞれの政府が政治に利用したがるだろうし、それを支持するひともでてくる。だから、やっぱりまっとうなそれぞれの国民には迷惑なことだ。

日本では相手が韓国だからという理由なのか、このたびのWTOの「逆転敗訴」が、あたかも「不当」のような主張がなされている。
しかし、福島原発事故による八県(青森、岩手、宮城、福島、茨城、栃木、群馬、千葉)の水産物輸入にかんして、いまだに禁輸措置をしている国・地域は23もあるのだ。

ほんとうに「不当」なのであろうか?

問題の核心は、「安全性」にあるのは当然だが、「日本政府が『安全』宣言している」から安全だということは「科学的」にいえない。
さらに、日本政府は「科学的」だと一審で事実認定されたこと自体は維持されているともいっている。

「科学」にもとづいているから、「安全なのだ」という「主張」なのであるが、今回の上級委員会は、「WTOでは食品の安全性について科学的証拠が不十分な場合、暫定的に規制を認めている」との韓国の主張に対し、日本は反論しなかったとも指摘」しているのだ。

すると、あたかも「反論しなかった」日本側の落ち度が「痛い」ことに矮小化されそうだが、「反論『できなかった』」のではないか?という疑問すらうまれるのである。

なぜそんな疑問がうまれるかというと、日本政府は事故以来一貫して(民主党政権から現行政権になっても「一貫して」)、放射線物質による汚染状況をほとんど発表していないどころか、隠蔽しつづけているからである。

この態度は、100億円以上かけて開発していた「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(System for Prediction of Environmental Emergency Dose Information、通称:SPEEDI)」というものの存在すらひろく国民が認知していたわけでもなく、しかも、「試算」であって「誤解をまねくおそれがある」という理由で、事故後に計算結果の発表もしなかった。

のちに、政府は発表もしなかったことを「謝罪」しているが、放射線による影響という問題だから、「ごめんなさい」ですむはなしではない。
国民の「被爆」について、まったくの無責任を貫いただけであった。

さらに、愕然とさせたのは、事故後、放射線の安全基準が「変更された」ことである。
「一年間に1ミリシーベルト」まで、を金科玉条のごとくまもってきていたはずなのに、なんの根拠かわからないうち(いまだにわからない)に、「20ミリシーベルト」になった。

この根拠不明のあたらしい基準で、ものごとがかたられるようになったけど、国内では「基準内だから安全」となって、マスコミもこの情報をたれながした。

いわば、「大本営発表」になったのである。

むかしの戦争の「反省」などぜんぜんしないで、ただ「戦争はいけない」と唱えれば戦争にならないという「宗教」だけでやってきたから、あっさり「大本営発表」にのってしまうのは、脳の劣化である。

日本政府は国内がおさまれば、あとは関係ないという「鎖国」をモットーとしているから、国内情報操作に成功してホッと息をついたら、おおくの外国が「安全性に疑問がある」と、「禁輸」の措置をとったので、あわてて国内での「成功体験」で押したのである。

それで、とうしょ禁輸を54カ国がしたが、上述のようにいまは23に「おさまって」いる、という具合である。
大親日でしられる台湾すらいまだに禁輸していると、韓国を前面に出すマスコミは「そっと」伝えるのも、いかがなものか?

そんなわけで、われわれ日本国民は、どんなふうに「汚染」されているのかもしらず、基準値の「科学的根拠」もしらず、政府や農協が「安全」というから「安全」なのだ、といってWTOがおかしいといっているのだから、冷静にみればどちらがおかしいのかはあきらかだろう。

これは、中途半端な「やさしさ」が諸悪の根源なのである。

漁業従事者の生活をどうする?
農業は?水は?なかんずく除染ができない山中の山菜や野生動物は?
そもそも、ひとが住みつづけていいのか?

事故後のネット上のニュース番組で、保守系論客を自認している有名女性ジャーナリストと、自由な報道をめざす若いジャーナリストとの対談があった。
若者が、「放射能の影響を報道しないのは犯罪的だ」と発言したら、「そんなことをいったら当人たちが可哀想だから、ぜったいに報道してはいけない」といいきって、若者が絶句していた場面がある。

すくなくても第一次産業はなりたたないとか、もう住めないから永久避難だとかいったら、可哀想だということだ。
それに、汚染でどこまで「放棄」しなければならないかを「厳密」にしめしたら、東日本全体になるかもしれないし、そうなったら「パニック」になって国家がもたない。

この有名ジャーナリストは、政府のお先棒をかつぐのが「『保守系』ジャーナリズム」だと自己定義しているにちがいない。
それなら、わが国の報道機関のありようが、たしかに見えてくるから「失言」ではないが、こんな人物の発言をありがたがることはない。

可哀想なのは、なんにもしらないで発病してしまうひとたちである。
もちろん、このなかにわたしもふくまれる。
かつての「水俣病」や「イタイイタイ病」の教訓が、ぜんぜんいかされていないどころか、ガン無視されているのだ。

こころを鬼にしてでも、事実を事実として伝えるという愚直さがなければならないが、もうそんな気概すらないのだろうか?
最初から無責任な政府に期待はできないが、気概をもって国民が求めないからこうなるのだ。

健康な国民がいるかぎり、国家がもたない、という理屈はないのだ。

ことばだけで科学をいう国が、これからの将来、「科学技術立国」などできるはずがない。
そんな基盤がない国で、もっと高度な「観光立国」など、夢のまた夢である。

Capitalization Rate がしめすバブル

金融における異次元緩和という「麻薬」をたっぷり吸い込んだために、じぶんでかんがえることができなくなった日本の経済は、財界もなにも、こぞって政府依存していると批判をくり返してきた。

日銀の金融緩和「しか」中身がない、「アベノミクス」なるものは、たんなる「イリュージョン」であるし、むしろ政府が富を分配する役割を負うことを推進するから、社会主義経済を強化する「トンデモ」政策である、と。

だから、アベ左翼政権が、「一強」になっているのだとも書いた。
もともと左翼政党しかない「野党」にあって、かれらの主張を丸呑みしているのがアベノミクスだから、政権批判の対象がスキャンダルしかなくなってしまうのだ。

そういう意味で,「野党はアベノミクスにかわる経済政策をしめせ」という、もっともらしい有名評論家の「評論」は、的を外している。
野党の本音は、アベノミクスの「もっと強力な推進」になるからである。

すなわち、もっと「麻薬をくれ」という、悲劇的な叫びになる。
だから、野党の支持がぜんぜんない、ということになって、まるで自民党の一人勝ちにみえるが、単純に「選択肢」がない、というだけの、やっぱり国民には悲劇的な現象なのだ。

アベノミクスの「イリュージョン」は、おカネを市場に大量供給すれば、デフレからインフレになる、という説明だが、この目的にみあった現象が実現しないから、いつのまにか看板をさげた。

その前に、あまったおカネで株価があがって、株式投資しているひとたち「だけ」が、得をしたようにみえた。
ところが、いろんな事情から株価が「やばく」なって、株価を支えようと大量買いして、とうとう日銀が日本株の「大株主」になってしまった。

こうして、市場に供給された、ヘンテコなおカネが、企業の設備投資ではなく、例によって不動産にむかっている。
しかし、静岡の銀行がしでかした「不正融資」で、事業用不動産に貸し出すな、という命令を金融庁さまがだしたから、居住用不動産に集中しているのである。

人口が減るトレンドが消えるわけもないわが国で、とっくに新築住居が世帯数を超えているのに、みなさまのご近所では住宅建築のつち音も消えていないだろう。

自動車に次ぐすそ野が広い産業は、住宅産業である。
家具などの動産をふくめ、さまざまな物品の需要がうまれるからだ。
それで、これが「景気対策」になっている。
「空き家」には、目もくれないのが特徴だ。

Capitalization Rate というのは,いわゆる「キャップレート」といわれるもので、不動産投資の利回りをしめすものだ。
用語として、「還元利回り」とか、「収益還元利回り」とか、「期待利回り」ともいうが、みな「キャップレート」のことである。

計算方法は単純で、純利益(年間) ÷ 不動産価格、である。
これを、逆算して、年間「期待」利益 ÷ キャップレート、で「収益から見込んだ不動産価格」が計算できる。

なお、「純利益」とは、必要経費を差し引いた利益のことだから、あいてが不動産だと「管理費」や「修繕費」などの大物経費を引き算する。
これらは、人手不足の昨今、増加傾向にあるから、いくらぐらい稼げるのか?という「期待」との関係では、マイナス要因になっている。

いま、東京の居住用不動産のキャップレートは、リーマンのころから半減して、おおむね3%台にある。
これだけ金融緩和してもインフレすなわち物価があがらない、物価のなかには「賃料」もふくまれている。

つまり、賃料はかわらないかむしろ下がっている状況にあるから、キャップレートが下がっているということの理由は、不動産価格が上昇している、という意味になる。
すなわち、バブルではないか?

政府がバブルをつくりだす、というのはあんがい伝統的な政策手法だから、いまさら感があるのだが、昭和の終わり=平成のはじまりの「バブル」をおもいだせば、この「政策のワンパターン」に、あきれるほどのお気軽さを感じずにはいられない。

令和における「バブル崩壊」は、どんな事態になるのだろうか?
もはや余裕のない金融機関が、はたして耐えられるのか?どころか、日銀すら耐えられるのか?

ちなみに、キャップレートをもちいる「収益還元法」は、投資家にとっての正攻法だから、不動産売買の対象ににもなる旅館やホテルにさんざん適用された。

いまどき、自社ホテルが、簿価で売れる、とかんがえる経営者はいないだろうが、純利益がいくらだから、いくらの不動産価値になるという計算はたまにでもやっておくとよい。

周辺のアパートやマンション賃貸業より利回りがわるいなら、よほど経営がうまくないという指標になる。
また、簿価が現実に役に立たないことをしれば、なんのための「簿価」なのか?ということにも気がつくものである。

渋沢栄一をしらない

紙幣のあたらしいデザインが発表された。
世界が電子マネーをつかう時代に、紙幣に投資するとはなにごとか?という意見もあるようだが、19世紀をひきずるわが国としては、当然の「新札」投資である。

わが国の歴史上、最初の銀行は「第一国立銀行」で、創設は1873年(明治6年)であるから、19世紀なのだ。
前年の12月には、太陽暦が採用されたので、本格的に太陽暦になった最初の年になる。

そもそも、明治政府が太陽暦を採用した理由に、膨張した官吏への俸給支払いを「節約」するため、といういまでは想像もつかない財政優先政策であった。
明治5年の12月がほぼなくなったことで1か月分、それに、旧暦にあった「閏つき」をなくして1か月分の合計2ヶ月分の給与支払いを停止した。

役人が対象だったけど、「こよみ」の変更なので民間もおなじだったと想像できるが、この時代の日本は「農業国家」だったから、サラリーマンなんてほとんどいない。

政府がみずからを「正す」常識と良識とプライドがあったのだろう。
そういう意味で、現代の政府とはぜんぜんちがう。

そんな政府が発した「国立銀行条例」にもとづいて創設されたのが「第一国立銀行」で、「国立」とあるけれど、わが国最初の「株式会社」である。
それで、「株式」の売買のために、東京証券取引所も創設されている。

だから、わが国資本主義の「誕生」といっても、おおげさではない。
これをなした、中心人物が渋沢栄一だ。

歴史の連続性をかんがえると、渋沢は資本主義を表面にだして、これを実際にうごかしたひとだった。
だから、その前に、資本主義の精神を説いたひとがかならずいるはずだ。
これを、準備段階、といってもいいだろう。

それは、まちがいなく「二宮金次郎(尊徳)」である。
二宮金次郎の「偉業」すら、いまはすっかり忘れられてしまった。
小学校の校庭にかならずあった金次郎の銅像も、見向きもされない。

薪を背負って、本を読みながら歩いている姿の銅像が、「ながら歩きは危険である」という、表面しかみない価値感でかたられるのは、「悪意」しか感じない。
その「悪意」の根源は、資本主義を憎む思想から発生するにちがいない。

アメリカにおいて資本主義のエバンジェリストとしていまだにあつい尊敬をうけているのが、ベンジャミン・フランクリンである。
むかしは、わが国でも10代で読むべき図書にランクインしていた『フランクリン自伝』の著者でもある。

アメリカ人をしらなかったのに、日本で資本主義に気がついた稀有な人物の評伝は、当然だが読むにあたいする。

小田原藩の財政立て直しから、全国にわたる金次郎の活躍は、「学びたい」という純粋な欲望からはじまる。
当時、彼の「身分」では、学ぶことが決して立身出世とむすびつかないからだ。
ここが、現代の「勉強しろ」と、根本的にことなる。

それで、渋沢栄一だ。
彼にはひとつ名著がある。
それが、『論語と算盤』だ。

いまさら、マックス・ウェーバーの「プロ倫」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)をもちだすまでもないが、渋沢は資本主義の本質を「論語」にもとめている。
金次郎が熟読していたのは、「四書五経」のうちの「大学」だった。

「偉人」が、なぜ「偉人」なのかもわからない、これは「知的衰退」といいたくもない「廃退」である。

わが国の教育が、すでに「廃退」しているから、かたちのない電子マネーではなく、肖像をかならず目にする「偉人」をえらぶのは、意義のあることではないか。

しかも、紙幣刷新の理由が「偽造防止」である。
この安心感こそが、紙幣だけでなく「貨幣」に求められる、もっとも重要な要素なのだ。

では、いったいだれが「偽造」するおそれがあるのか?

そんなことをして「採算」にみあうのか?

そんなことをしても「利益」があると、かんがえる国が近隣にあるのである。

「偉人」たちがおしえてくれることの、奥深さである。

「人材」がいないことの驚き

議席占有率で、衆議院の61%、参議院の約半分を占める与党自民党の議員数は、284名(衆議院)+65名(参議院)=349名 となる。

制度がぜんぜんちがうし、陳腐な比較ではあるが、アメリカの連邦議会は、上院が100名、下院が435名=535名が「議席数」である。
わが国は、衆議院465名+参議院465名=930名 である。

人口は、アメリカ合衆国3,272十万人、わが国1,268十万人だから、ずいぶんと議員数がおおいのはわが国のほうになる。

ただし、上述のように政治制度がぜんぜんちがうのは、「州」というほとんど「国家」といえる地域の「連邦」がアメリカ合衆国だから、単純比較がむずかしいのである。

たとえば、日系移民だけでなく、さいきんのシルバー移民に断然人気である「憧れのハワイ」州をみると、下院51名(任期2年)、上院25名(任期4年)で、人口は13十万人ほどである。

これは、山口県、愛媛県、奈良県、長崎県とほぼおなじ人口数である。
「州」はふつうの「国家」に相当する権限をもっているから、中央政府のいいなりが原則のわが国「都道府県」とは、単純比較はできないことを強調するが、念のため各県議会の議員数をしめす。

山口県:47人
愛媛県:47人
奈良県:44人
長崎県:46人 となっている。

市議会ならどうか?
ニューヨーク市の人口は86十万人だから、わが国最大の横浜市37十万人と比べるべくもなく、しっかり倍以上あって、わが国都道府県3位の大阪府の人口に匹敵する。

ニューヨーク市議会は、定数51名(任期4年)だが連続3選禁止になっているから、2期務めた議員は4年間以上議員をはなれないと再び選出されることはない。
高校生のマーチング・バンドが、コンテストでの「全国大会金賞」受賞校が、3回連続して大会出場できないことにている。

なお、議員の基本給もきまっていて、年給で112,500ドル(約12,375千円)で、委員会の役職などで追加になる。

「市」といっても、やっぱり日本のような「弱い」自治体ではないから、単純比較はできないが、議員数と民主主義の成立には、数がおおければよい、ということではないとおもえる。
大阪府の議員数は、88名、二重行政が話題の大阪市は、86名なので、あわせるとニューヨーク市の3倍以上の議員がいる。

もっとも、議員報酬にかんしてはさまざまで、ヨーロッパにはほとんど「無報酬」ということもある。
これは、議員というものが職業ではななく、職業人が議員になる、という発想があるからである。

働かざる者喰うべからず、を追求したというより、効率に関係なく全員をなんらかの職につけた社会主義国では、職業人が議員になる、のは当然だった。

そんなわけで、むかしは、社会主義国の入国審査(イミグレーション)で、入国審査官から「職業は?」と質問されて、「議員」と胸を張ってこたえたら、入国拒否されたという笑えないはなしがあった。
「議員」は「職業」ではないという「建前」からである。

わが国に議員はたくさんいる。
国会からして、学校なみにいる。
だから、人材がいるのだろうとおもうと、そんなわけではなさそうだ。

「大臣」や「入閣」ということが、こんなにも軽いものになっていいのだろうか?
あるいは、こんなにも緊張感がなくていいのだろうか?

「五輪相」の辞任と就任は、こんな素朴な疑問をつよくする。
世間から、かくも浮き上がったひとが、国民の代表だということのいいようのない閉塞感は、「不安」という感情をよびおこす。

しかして、千葉県の当該選挙区の住人も、選挙で人材を選べない、という閉塞のなかで、だれかに投票せよといわれてしかたなく、があったのかもしれない。

ニューヨーク市のように、多選を禁止するのはよいことだ。
「休職」しているあいだによいひとが立候補してくれるかもしれない。
しかし、個人的希望をかけば、選挙で「不信任」の意志表示をしたいのだ。

信任された数と、不信任の数をくらべればよい。
トップ当選のひとが、不信任になれば、選挙はやりなおし、というルールはできないものか?
次点が当選ではいけない。

こうでもしないと、緊張感がまるでないことがどうしてもつづくだろう。
それは、人材の「枯渇」ではなくて「埋没」を促進させるのである。

企業組織においても同様の現象がある。

ひとがいない、とぼやくなら、「埋没」している人材をさがしだす努力をしなければならない。

適当なコストコの勝ちかた

国内では「消費不況」といわれて、小売業の軒並みの不振がつたえられているけれど、巨大なアメリカのスーパーというあたらしい概念で成功しているのが「コストコ」である。

年会費という入場料をあらかじめ納めないといけないから、厳密に安さ「だけ」をかんがえると、あんがい元をとるには大量買いがひつようになる。

それに、しらないうちに、年会費が値上げになっているし、提携カード会社も勝手に変えて、さんざん入会キャンペーンをやっていたカードすら使用不可になった。

日本的発想なら、顧客からのクレームがこわくて、こんな一方的なことは極力避けるか、社内で提案しようものなら「バカあつかい」されそうだ。
じっさいに、どのくらいのクレームがあったのかしらないが、店内でトラブルめいたことを目撃したことはない。

これは一体どういうことなのか?

消費者は直接的な価値を買っているの「ではない」、というマーケティングのセオリーをあらためておもいだせば、ふと気がつくのだ。
アメリカの生活という「疑似体験を買っている」のだとおもえば、それはもう「アミューズメント・パーク」だからである。

東京や大阪にある、本物のアメリカのアミューズメント・パークの入場料は、べつに消費者の意見をきいて決めているものではないし、支払方法だって一方的でも文句をいわない。
客が文句をいうのは、「陳腐化」に対してだろう。
つまり、事前期待値が達成されないときに発生する。

ふつうの主婦なら、コストコの商品が「すべて」どこよりも安いとおもっていない。
それよりも、「アメリカらしさ」がうしなわれたら、たいへんな不満がおきるはずなのだ。

ヨーロッパを制したはずのカルフールが、日本の西友を買収しても、そこに「ヨーロッパの香り」はなかった。
おそらく、これがカルフールが不振の原因だとおもうのだが、実際のヨーロッパのカルフールの店舗も、日本の大型スーパーとあまり変わらないから、もともと「ヨーロッパの香り」なんてものはなかった。

「旧大陸」のふるい流通、そして、日本のふるい流通という古いものどおしが「近代的合理性」を追求したのが共通にある。
だから、もはや「新味がない」ということになったのだかんがえれば、これはもう「文化論」になる。

日本にきたときのコストコは、世界ランキングではそんなに目立った存在ではなかったけれど、「アメリカの消費文化伝道師」として、圧倒的な支持をえることに成功し、会社も急成長した。

それは、「大雑把なアメリカ」というイメージと、「個人の大量消費」とがむすびついた、常識破りの「物量」が、細かいことに気を配る、わるくいえば「ちまちました」日本文化との対極にあったから、はじめてこれを体験した日本人は「ぶったまげた」のである。

みたこともない巨大なパッケージの洗濯洗剤や、牛肉のかたまり。
なによりも、ショッピングカートの冗談のような巨大さが、まるで別の世界を演出した。

それは、従業員たちの「人種」もふくまれる。
日本人だけで構成される売り場しかみたことがなかったから、外国そのもので、しかも、かれらの胸には「ファーストネーム」だけが大きくアルファベットで印字されている。

こうなると、細かいことに気をつかうことがすっ飛んで、「大雑把」のお気軽が快適になるのだ。
そうなれば、「個人の大量消費」にはしって、巨大ショッピングカートが満杯になるまで購入する。

スロープ状のエスカレーターでは、みせびらかしの消費に満足するひとたちを見つめながら、これから売り場にむかうひとたちが他人のカートの中身を無言で評価するのだ。
そして、自分たちも一杯になったカートでエスカレーターに乗る姿を想像している。

おどろいたことに、コストコでは「欠品」がふつうにある。
それで、ヘビーユーザーたちが、かってに情報サイトをたちあげて、お勧めの品と、欠品・入荷情報を提供してくれる。

これが、どのくらいコストコ本体の業務量を削減させているのだろうか?
かつてのアップルコンピューター「マッキントッシュ」が、純正品だけではなく、ぜんぜん関係ない「サードパーティー」というひとたちが、欠けている機能を埋めていたような現象とおなじなのだ。

コアなファンを満足させれば、あとからいろんな価値がついてくるのである。
コストコは、この構造をポーカーフェイスでつくりあげているのであって、もはや簡単に他社がまねできないレベルになっている。

適当な大雑把さが周辺を巻きこんでうまれた、あたらしいビジネス・モデルである。

「おもてなし」文化に依存する、日本のサービス業にはできない、と言い切れる。
ということは、「おもてなし」文化に依存するのをやめたら、できるかもしれないことをおしえてくれている。

これは、製造業でいう垂直分業ではなく、水平分業に勝機があるのとおなじことなのだ。
つまり、なんでも自社でかかえこむ従来型のビジネス・モデルを継続することの困難さをしめすのだ。

おしえ方をならわない教職課程

そういえば、教職課程というものが大学にあった。
ふつうの卒業単位とは別に取得しなければならないけれど、教育実習もちゃんとこなせば、学士卒業といっしょに「教員免許」がもらえる制度である。

この免許があれば、一般大学出身者も、中学校や高等学校の教員に採用される可能性がある。
小学校は、教育学の専門学部や専門大学出身者になるから、別扱いにする。

免許があるからといって、教員に採用されなければ教師にはなれないから、自動車運転免許があってもクルマを運転しないのと同様に、「ペーパー化」することだってある。
むしろ、生徒数も減っているから教員採用数もすくなくって、「ペーパー・教員」はふえているのではないか?

そうすると、高学歴化と「ペーパー・教員」の関係はどうなっているのだろうか?
つまり、教員免許をもっている親が、学校にたいしていろいろ発言するのと、なんらかの関係があるのだろうか?という疑問である。

その目線で、世の中の話題をながめると、学校と保護者との問題で、「授業でのおしえ方」が話題になっているのを聴かないことに気がついた。

教職課程では、専門の「おしえ方」をおそわらないのだ。
だから、授業参観でも、授業のテクニックについて話題にならないのではないか?

すなわち、教員オリエンテッド(志向・優先)なのである。
これは、以前に「教え諭す」と書いたとおりだ。
つまり、教師 → 生徒 という一方向の矢印であらわせる。

おしえ方を大学でならわなかった新任教師は、どうやってじぶんの専門授業をするのか?
それは、教師用の教科書である「手引き」がおしえてくれるようになっている。

学習指導要領と教科書検定は、セットものの定食のようになっていて、どの出版社の教科書を選定するのか?が新聞ネタになっている。
しかし、新聞ネタになるような、たとえば「近現代史」では、なにが教科書にかいてあろうが、授業ではどうせやってもせいぜい昭和のはじめまでである。

授業での場面でしか、生徒のほとんどは教科書を読まないから、日本国民のおおくが、近現代史の「戦中と戦後」をしらないで、とにかく「戦争はいけない」とおそわるのである。

だから、セットものの定食の中身はどうなっているのか?について、たとえ議論されても「教科書」のほうだけで、「学習指導要領」とその「手引き」が話題にならない不思議がある。

ここにも、教員オリエンテッド(志向・優先)が存在している。
すなわち、先生用の虎の巻には、なにが書かれているのかを保護者も、世間もしるよしがないのだ。

無気力な教師がいるのはむかしからだが、無気力でもいちおう授業が成りたったのは、この「虎の巻」のおかげではないのかとおもえば、やはり気になるのは人情だ。

しかし、一方で、上手の手から水が漏るような情報をえることもある。
来日したオーストラリア人一家が、日本でみつけた珍しいものの筆頭に「鉛筆」があったのだ。

母親は、オーストラリアの学校では、全員がタブレットをつかうので、ペンや鉛筆すら子どもは持ち歩かないし持っていない、という。
ましてや、もう店で鉛筆を売っているのをみたことがない、と。
それで、「懐かしい」といっていたのが印象的だ。

道具(ハードウェア)が問題なのではない。
だから、日本ではいまだに黒板と鉛筆がつかわれていることが、「遅れている」といいたいのではない。

これは、何度か書いている「教育用電卓」の授業での活用が、先進国で日本だけ導入されていない、ということの本質である。
なにをおしえ、理解させるのか?
についての「研究」とその「成果」が気になるのである。

つまり、生徒にぜったいにわからせる、という決心の表現なのだ。

子どもへの教育は、その国の将来をきめる。
官僚になれ、などという野暮なことではない。
よきクリエーターであり、ビジネスマンたるには、よき教育が必要不可欠だからである。

わが国がアジアのなかで唯一の成功体験ができたのは、教育にあったとはだれでもしることだが、明治期からのほとんどおなじ教育方法で、21世紀にも成功体験ができるとはかんがえられない。
これには、学校制度もふくまれる。

なのに、あいかわらずの変わらない発想で、プログラミングを重視するというのは、あまりに貧弱すぎる。

もはや、学校はレジャー化がすすんで、小学校までもレジャーランドになっている。
一方で、学力のほうは、民間の「塾」がたよりだ。

さらに、ネット空間では、動画再生回数が報酬をきめるというルールで、すぐれた「教員」が、免許の有無にかかわらず、すぐれた「授業」を制作して無料視聴できるようになっている。

そこには、ぜったいにわからせる、という決心にあふれているから、生徒が陥るだろう「わけわからん」の分岐点を先回りして、しっかり捕捉し、すっきりと「わかった」に導いている。

おしえ方がわかるのは、わからないがわかるからだ。

ネット動画の「ぜったいにわからせる授業」が、教育分野における「イノベーション」なのであって、学校でおこなうパソコンをつかったプログラミングの授業なのではない。

おとなはこのちがいを、ちゃんと認識しなければならない。

ひな祭りの桃

昨日の日曜日が旧暦の3月3日だった。
つまり、ほんらいの「桃の節句」である。

桃が開花しようはずもない「新暦の3月3日」にひな祭りをやるのは、強引で無粋であるのに、すでにそれに疑問をかんじるひとがいないほどに、日本人から季節感がうすれてきている。
あるいは、「変だ」という感覚の鈍感さをいう。

ことしは桜の開花がはやかった。
「桃源郷」の山梨では、ぼちぼち「桃のみごろ」のようだ。
桃畑では、桃の花見にやってきたひとたちを相手に、夏の桃の予約受付もやっている。

ここぞと咲き誇る桃の絨毯は、圧巻である。
咲いていない場所は、ブドウ畑である。
桜とはちがった花見を満喫できるから、春の山梨はすばらしい。

山梨の桃には、果肉が硬い種類がある。
ふつう桃といえば触っただけで指の跡がつくほどに柔らかく、ねっとりした果肉をイメージするから、はじめていただいたときには驚いたものだ。
しかし、これがうまい。

それ以来、硬い桃がたべたくて山梨にいく。
昨夏は、五回ほども農家の直売所にかよった。
いちどにたくさん買っても、日持ちしないから、少しずつ求めるしかない。

品種といっても、やっぱりもぎたての硬い桃が、うまいのである。
この種の桃も、日にちがたてば柔らかくなる。
農家の説明では、柔らかくなるのを待つひともいるそうだ。

だったら、さいしょから柔らかい種類を求めればいいのにと早合点したら、そうした種類の桃を混ぜて購入して、食べ時の調整をするという。
柔らかいのを好むひとに、アドバンテージがある。

県内の贈答用高級果物専門店できくと、硬い桃は贈答用としても敬遠されるそうだ。
県外の送り先の受取人たちは、桃とは柔らかいものというイメージがあるから、硬い桃は熟していない不良品だとおもわれるらしい。

そのイメージが大転換したから、わたしは硬い桃のファンなのだ。
コリコリした食感でありながら、なんともいえない桃独特の甘みと香りは、そういう意味でも山梨にいかないと食べることができない。

桃はその柔らかさのために、皮をむくのがおっくうだというひともいる。
しかし、硬い桃は、流水に両手で包むようにしながら表面をなでれば、うぶ毛がすっかりとれるから、そのままかぶりつけばよい。
りんごでもない、梨でもない、軽快なコリコリをたのしめる。

どうしてこの硬い桃のファンづくりをしないのか?
なんど通っても、不思議なのである。
それはまるで、山梨県人ローカルの秘密めいた楽しみなのかもしれないが、県外客にはイメージ破壊になるインパクトではないか。

地方によくある「症状」のうち、「過小評価」が過半を占めるとかんがえている。

「田舎だから『なにもない』」

これは、全国津々浦々に浸透している、「症状」なのだ。

それに、伝統が軽んじられてきたから、その地方の独自性にそこに住んでいるひとたちが気がついていないこと、あるいは忘れてしまったことが原因だ。

「田舎だから『都会にないもの』なら豊富にある」とかんがえないのは、昭和の高度成長を「善」として、そこから取り残された地方を「悪」とする、ポストモダンのいきすぎた価値感がベースにあるのだ。

これを、過剰な都会へのあこがれ、といいたい。
「過剰」だから、都会人はくつろげない。
「善」とされてきた都会は、ストレスが渦巻く場所でしかなくなったから、田舎に憧れるという現象になっているのだ。

ところが、その田舎に、従来の「善」の単純な延長線上として「過剰」な都会への意識があれば、都会人はそれに幻滅し、とうとう本物の「都会」になれるはずのない地方をさげすむようになってしまう。
言葉はわるいが「百姓」の発想がすけてみえるのだ。

なにも、地方は田舎のままでいろ、といいたいのではない。
くり返すが「田舎だから『都会にないもの』なら豊富にある」を追求すればいいのである。
その世界的成功事例がスイスであることは有名だ。

ほんらい、ヨーロッパ・アルプスのちいさな山国は、とてつもない貧乏国だった。
とうとう、自国でのしごとがないから、男たちは周辺国が争う戦争の傭兵にまでなって出稼ぎに精をだした。

しかし、こんなことをしていては生きていけないと、かんがえてかんがえてかんがえ抜いて、いまのような生産性でも世界一のゆたかな国になったのである。

わたしが山梨県にガッカリしたのは、前にも書いたことしの知事選挙だった。

国家の予算を県にふり向ければ、山梨県は「停滞から前進」するという主張の与党候補が当選したのは、一にも二にも残念な発想である、と。
しかし、昨日の統一地方選挙をみれば、全国で与野党に関係なくおなじ主張が叫ばれていた。

桃の花見と硬い桃を買いに行きながら、温泉にでも浸かって帰るという、あんまりおカネをつかわないちいさな旅を、ことしもくり返すだろう。

山梨県だけでなく、各地で、衰退がとまらないのは、かんがえかたがまちがっているから、につきるのだ。

無意味な「無認可」

無認可ときくと認可されていないのだから、中途半端なかんじがする。
しかし、世の中には無認可でも有用で優秀な「もの」や「こと」はたくさんある。

結論から先にいえば、行政にとって御しやすく、じっさいに行政の支配下にある「もの」や「こと」が認可されるだけだから、これに「本質的な価値」は関係がない。
つまり、一種の「虚構」なのである。

その「虚」すなわち「うそ」を、あたかも「まこと」のように権威付けるために、さまざまな特典と嫌がらせというアメとムチをつかいわけるのが、行政にとっての「監督行政」になっているだけである。

いうなれば、「監督」したいのであって、市民に価値を提供したいのではない。
むしろ、本質からはなれた嫌がらせをすることで、市民の利用を減らすように仕向けるから、市民が受けられるはずの価値を減らす努力をしているのである。

これをふつうは「本末転倒」という。

しかし、無意味なのにこれをゆるす市民感覚があるのも事実だから、こうした行政のムダが減るどころか増殖するのである。
すなわち、わたしたちの「鏡」が、これらなさけない行政のすがただということになる。

「成人」というのは,「おとな」のことで、子どもとちがって自由意思が認められている。
子どもは、ふつう親という存在の保護下にあって、自由が制限されるものである。

だから、成人が社会のルールを破ると、その制裁をうけることになっている。
もちろん、成人であるひと単独のルールやぶりなら、制裁をうけるのも本人だけ、が原則なる。

しかし、どういうわけかわが国では、ある個人が不祥事を起こすと、「上司」や「責任者」というひとたちがでてきて、「謝罪」することが習慣になっている。
いわば、連帯責任を負うのである。

これには、本質的な意味があるのだが、ふつうは「儀礼的」だとされて、「謝罪」したひとたちも、ほんとうはその場が過ぎればどうでもいいとおもっている。
ただし、ことばでは「以後、このようなことがないように徹底する」という「うそ」をいう。

本質的な「謝罪」の意味は、仕組みと教育の不備の可能性のことである。

外国では、成人がしでかしたことなら、ぜんぶ本人の責任であって、上司や責任者は、「適切な処分」という人事権限の発動だけがしごとになって、日本のような「謝罪」などしない。

しかし、日本では「謝罪」しているが、ほんとうに謝る気などなく、たんに迷惑だとおもっているだけだから、ほんとうは外国の対応とあまりかわらない。

けれども、こうした「管理者責任」をはたしたふりをしないと、社会からうらみをかう。
ようは、いつまでも「子ども」あつかいされる国なのだ。

これと、行政の認可という行為がそっくり構造なのである。

国民一般を、子どもあつかいしていて、そんなあつかいをされている側も、それでよしとしている。
おそるべき「国民性」をもっているのが、日本人なのだ。

これは、「国民一般」のことだから、政治家もマスコミものがれることができない。
わかっちゃいるけど、やめられない、のである。

ところが、この状況をわかろうとすると、たいへん空しくなる。
だからわかろうとすることをやめるのだ。
そうして、みんなそろって「国家依存」や「行政依存」をしているふりをしていれば、心のやすらぎがえられるので、そのうち「ふり」だったことをわすれて、本気になる。

役所が「認可」したものなら、無条件で安心だ、という条件反射のような状態が常識になるのである。
それが、国産車の完成検査偽装問題でもあった。

おなじ工場でつくられた自動車が、そのまま輸出されるのなら、なんら問題ない。
完成検査が必要なのは、国内販売されるものだけが対象だからだ。

こうして、厳密に完成検査をするということになって、そのコストは消費者が負担させられる。
それを、消費者が「安全だから」とよろこぶのだが、外国で購入する外国人消費者はなんのことだかしらないだろう。

すぐれて勉強ができたひとが、難関校に入学してりっぱな役人になるように教育されると、とたんに「無能」になることは、なんども書いてきたが、その「無能」の結果をいつまでありがたがっていくのだろうか?

野口悠紀夫教授によれば、AI研究の分野で、中国の精華大学がアメリカのMITやスタンフォード大学をぬいて、世界トップランキングになっている。しかも、トップテンのうち半分が中華系なのだ。
日本のトップランキングは、当然に東京大学だが、この大学の順位は91位だ。

どうして精華大学をはじめとした中国の大学が、こんなに高い評価を受けているのか?について、教授は、文化大革命の「成果」だという。
かつて、とてつもなくレベルの低いひとたちが「教授職」にいたが、「成果」のためにアメリカ留学経験のある若手にすべて入れ替わったからだという。

なるほど、わが国にも一般人をふくめた「文化大革命」がひつようなのだ。