やめられない文法教育

決済がダサイ日本

欧米や中国で,すでにあたりまえの仕組みが,店舗での支払における「電子決済」である.デビッドカードでもクレジットカードでもよいだけでなく,通貨が選べるようになっている.たとえば,日本発行のクレジットカードなら,現地通貨と日本円が選択できる.この端末が,屋台から田舎の八百屋まで普及している.現金では小さすぎる単位の金額(小銭がない)でも,電子決済ならなにも問題ないし,量り売りの商品でも,電子秤と連動しているから単価がちがう商品を複数購入しても計算に間違いもない.お店は,決済後におまけをくれたりする.そして,なによりも現金を両替所で交換しなくてすむし,帰国時には余った現地通貨をまた両替するか,それが面倒なら使い切るしかないので無駄になることもない.

これがあたりまえの国からやってくる観光客のシェアは高いと思うが,受け入れる日本側は意外や無頓着である.日本人一般が,現金決済をふつうだと認識しているからだろう.一方で,以上の便利な国に旅行した邦人は,日本は遅れていると認識しながら日常のなかに埋没していくのだろう.

外国語対応が優先される

外国人観光客が著しく増加して,接客サービス業では言語の問題がつきまとっている.そこで考案されるのはIT技術を駆使した,多言語対応サービスだ.スマートフォンに話しかければ,自動的に指定言語に翻訳してくれるアプリはたくさんあるし,音声で翻訳してくれるものもある.店舗側が用意する最新技術の言語対応が悪いと言いたいのではない.便利さの優先順位としての決済システムが,社会インフラになっていないことを強調したいのだ.

なぜなら,自分が外国を旅行して,言語において不便を感じても,観光旅行であれば犯罪被害を受けたのでなければそんなに深刻な問題ではないからだ.つまり,外国人観光客も,言語問題が優先順位で高いと認識しているかという疑問がある.

国語教育が問題だという説がある

わたしも他人のことをとやかくいうほどの語学力があるわけでない.今年,日本語を外国人に教える「日本語教師」としてベテランの先生にお目にかかった.その先生の,日本人が世界的に外国語習得を苦手にしている原因をおしえてもらった.それは,なんと小中学校で習う「国語」が,外国語習得の邪魔をしていて,英語教師がそれに気づいていない,とおっしゃった.「国語」で習う文法は,高校で習う「古語」の文法の基礎になるから,日本語教師は「国語文法」と呼び,「日本語文法」と区別しているというのだ.では,「日本語文法」とはなにかというと,外国語と比較できるように整理された文法だという.

とくに欧米の言語は文法が厳密である.だから,文法を習得してしまえば,あとは単語数を増やせばいいという.欧米の言語とかけはなれた日本語を母国語とするわたしたち日本人は,まず「日本語文法」を学ぶことで,英語をはじめとした欧米言語との文法上の構造のちがいを理解すべきで,それがわかれば比較的やさしく外国語理解ができるというお話しだった.いきなり英文法の教科書をみてもトンチンカンなのは,「国語文法」とのちがいがおおきすぎて,なにがなんだかわからず,暗記するしかないという「根気」だけが要求されてしまう.

日本語を習得する外国人は,日本語文法の教科書で自国語との構造のちがいを最初に教わるという.それは,すでに学校で習う自国語文法が,他の言語と比較できるように整理されているからで,数カ国語を平然とあやつるヨーロッパ人は,親類筋にある言語だからという理由もあるが,文法自体の教え方に秘密があると力説されていた.

書店に行くと,日本人のための日本語文法の教科書が少ないことに気がついた.これも,わかっちゃいるけどやめられない,ことなのか.

逆シンデレラ症候群

シンデレラ症候群とのちがい

シンデレラみたいに素敵な王子様が自分にも現れると信じ、ずっと待ち続けることを「シンデレラ症候群」と呼ぶらしい。
再生の仕事をしていると、自社をたすけるためにやってきた投資家(ふつう「スポンサー」という)がいるのに、そのスポンサーの意向に従いたくない「症候群」を発症することがある。つまり「反抗」・「反逆」してしまうのだ。スポンサーを王子様として認識できないばかりか、現状から変化を求めるスポンサーが「魔女」だったり「敵」にみえてしまう病気である。これをわたしは「逆シンデレラ症候群」と呼んでいる.

この病気の原因は、おおくのばあい「自分かわいさ」という心理である。もっといえば,この期に及んでの「自己保身」だ.自分がやってきた「仕事」すなわち「業務のやりかた」を、ついさっき出現した人物から否定されることは、自分の人生が否定されていると勘違いしてしまうからだ。
では、その勘違いの原因はなにか?とかんがえると、自己のパーソナリティーと「仕事」すなわち「業務のやりかた」が一致していることにある。これは、伝統的な「職人」の思考方法とにているとおもわれるかもしれない。しかし、現代の「職人」が本当にそのようにかんがえているかは疑わしい。名人とか名工とよばれるひとほど、さまざまな工夫について積極的であるからだ。

味をかえるから味がかわらない

たとえば、いまも「むかしからかわらない味」で人気の老舗の料理店では、じつは昔からくらべるとずいぶん「味をかえている」ことがある。この意味は、「お客様の食生活がかわってしまった」から、その味付けに対抗できるよう微妙に店の味を変化させてはじめて「味がかわらない」と評価されることにある。だから、長年にわたってすこしずつ変化させた結果、先代や先々代の味付けとくらべると、驚くほどちがっているのだ。それでも、その店の昔からの顧客は「昔からかわらない味」と評価するから、昔をしらない新しい世代の新規顧客は「この味が昔からの味」とすりこまれる。この状況がおりまざって、全体がまごうことなき「むかしからかわらない」という評価が確定するのである。だから、ほんとうに味をかえない店は淘汰されてしまうことすらある。そして、かならず「あの店の味がかわった」とか、「むかしとちがって味が落ちた」などといわれてしまう。現代人の好む味に変化させないことで、じじつは顧客自身の味覚が変化しているにもかかわらず、その責任はなんと店に押しつけられるのである。
このようなことは、おおくの伝統的な物作りの世界で起きている。だから、本物の職人は変化を畏れないし、むしろ積極的に変化をもとめることすらあるのだ。

「仕事」は二種類に区分できる

一つは、「作業」である。「定形業務」と呼ばれることもある。いわゆる手順がきまっている仕事で、結果であるアウトプットも一定になるのが特徴だ。この手の仕事で典型的な単純作業は、真っ先に「流れ作業」になったり「自動化」の対象になった。
しかし,「作業」すなわち「定型業務」の組み合わせだけで、もとめる製品やサービスが完成すればよいのだが,現実はそう簡単にはいかない。

そこで、二つ目の「仕事」が分類できる。「非定形業務」がそれだ。
ところが,これは「定形業務のなかにも」発生する。たとえば、ネジを絞める作業をおこなう機械がこわれてしまったとしよう。今月は二度めで、前回の故障から一カ月経過。修理に四時間を要するとすると、これによる製造できなかった分の売上げ減少による損失はすぐに計算できるし、故障発生頻度から、なにをしなければならないか優先順位もきまる。だから、故障原因の特定と対策は重要な業務になる。この業務は非定形業務だ。だんだんと故障発生対応から「予防」の概念がでてくると、当初は非定形業務だったことが定形業務に落ち着くことがある。これが業務における「進化」と「深化」である。
こうして、「進化」と「深化」の大系が、ノウハウになるのである。

さて、もともとの「非定形業務」がある。商品企画とか設計、アフターサービスなどだ。ところが、「非定形業務のなかに定形業務」もできてくる。「いつものパターン」というやつだ。ここにも、ノウハウの要素がある。
このように「仕事」を二種類の「業務」に分けると、職業人生における一体化がありえるのは「ノウハウ」に集約されることになる。
つまり、「仕事をおぼえる」とは「ノウハウの修得」という意味になることを強調したい。

ところで,「逆シンデレラ症候群」を発症する素地として,自己のパーソナリティと仕事の一致と書いた.これは,上述のような業務の分析をしないで,毎日を過ごしたということである.つまり,意識して仕事のミスを改善したのではなく,発生した問題をその場その場でなんとかしたにすぎない,という人生だということだ.だから,ノウハウらしいノウハウが積み重なっているわけではなく,「昔からやってきたこと」が堆積しているだけの状態になっていることがおおい.

「ノウハウ」は資産である

わたしは「ノウハウ」というものは、ひじょうに高い価値があるとかんがえている。だから、本来は「資産」としてとらえたいものである。議論を拡散させないために、ここでいう「資産」は企業会計上の「資産」とは切り離す。
個人がもつ「ノウハウ」と、会社や組織が持つ「ノウハウ」があろう。どちらでもポイントになるのは、「ノウハウ」はそれ自体「無形」であるから目に見えないことだ。だからこそ、なんらかの方法で「見える化」させることは、重要だ。
企業組織内のさまざまなルールや規定は、「ノウハウ」を見える化した一部の姿であるといえよう。

それらを体系的にまとめたものを,「マニュアル」という.しかし,「マニュアル」は,現状をまとめればできるというものではない.いま考えられる最高・最善のやり方が示されるものだからだ.「マニュアル」は「見える化したノウハウ」そのものだから,民間企業では外部に対して「秘密」扱いになるのである.

「自己保身」がうまれるワケ

さて,「マニュアル」にひそむ大きな誤解がある.それは,上述したようにマニュアルとは,「ノウハウを見える化したもの」であるから,「進化するはず」のものなのに,現状の仕事のやり方を書くモノと思い込んでしまうことだ.そして,一度完成したマニュアルは,その後放置され,「改訂」はめったにされない.だから,現場での仕事の改善結果も,マニュアルには反映されないから,新入社員以外だれも見なくなる.「本当のマニュアル」では,マニュアルが先に開発されて,業務はそれに従うものなのだ.この原則的行動に,人知の最先端のはずだった,福島第一原発*で,津波後,誰も(事故現場,東電本社,政府の役人)従わなかったから,「本当のマニュアル」を理解し,業務に応用している日本の組織は,おおくはないだろう.

*(注:詳しくは,齊藤誠『震災復興の政治経済学』日本評論社,2015)

こうした誤解に気がつかない会社は,残念だがたくさんある.そして,こうした会社組織における従業員は,それぞれの職場における「ノウハウ」を入社後から漠然としながら体得するしかない.そして,いつしか従業員から経営者(管理職も含む)になると,個人が漠然と体得した「ノウハウらしきもの」を「ノウハウ」と信じるしかなくなるのだ.このような環境では,「社歴の長さ」だけが有利になる.これが「年功序列」の本質ではないだろうか.

社歴の長いひとは,この有利さに,これも「なんとなく」気づくのだ.だから,自分が歩んできた「漠然とした」環境が維持されることが望ましくなる.それが,いまの自分の立場を守るからである.資金提供者がおこなう,「本来のノウハウ」を追求しようというたくらみは,こうして「反抗」・「反逆」という行動を誘発するのだ.

「現状維持こそがしあわせ」,これが,「逆シンデレラ症候群」に罹患した症状なのだ.

従業員教育に悩む経営者は犬を飼うとよい

犬の躾といってもさまざまなやり方があるらしい.いろいろと調べてみると,たいへん納得できる方法と,「芸」と同レベルの方法まである.
ここでは,わたしが納得した方法をイメージしながらコメントしたい.

「人間」とは,教養あるひとを指す

ひとが犬を飼うということの歴史は,たいへん古い.まさに,太古の時代からであったろう.
しかし,犬の飼い方や犬の躾についての情報が「商品」となったのはいつからであろうか?
案外,最近のことではないかと疑っている.

長い時間,犬の役割は猟犬や番犬だった.
それが,いまでは家庭犬という愛玩を目的として,人間の子どもの数よりも多くなったからだ.
屋外で過ごす猟犬や番犬と,屋内で過ごす家庭犬では,飼育目的がちがうから,育て方もことなることになる.

その日本では,子どもに対する「躾」がたいへん重要視されてきた.
そもそも,「躾」という漢字自体が,武家から発生した国字だという.
分かりやすい構造の文字だ.
この文字から想像すると,しつけられずに自然児として育ったものは,人間ではないという区別があったのだろう.

これは武家に限ったことではない.身分社会だったのだから,その身分それぞれに応じた「躾」がなされなければ生きていけない.
百姓が武士の躾を受けても,武士が百姓の躾を受けても,その本人は不幸になるからあり得ない.
つまり,「躾」とは,社会化教育のことであって,それは教養の基礎をなしたのだと理解できる.

舶来の『社会契約論』で有名なジャン・ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』に日本人が違和感をもつのは,武家の伝統があるからではなく,不幸を生み出す狂気があるからだろう.
ルソーは,自身の子どもを真冬の路上に放置して死なせている.
「この子が生きる自然の力があるか」を確認するためだというが,それで5人が犠牲になっている.

ルソーの『エミール』が,教員育成の必読書としてたてまつられているのはわが国だけだとおもう.日本の教育界の特殊性のはじまりは,こんなところにもあるかもしれない.

 

犬の躾ができないひとたち

いま「小津映画」という名作の数々を観ていてわかるのは,戦後すぐの時代にあって,ふつうの人たちが生活している姿に対する不思議な感覚である.
それは,立ち居振る舞いの所作や,言葉遣いが,たいへん美しいのである.
これらの作品に出演しているのは,ほぼ全員が明治・大正生まれなのだ.

「団塊の世代」(昭和22年~24年生まれ)は,いわゆる小津作品ができるころに生まれている.
だから,団塊の世代のおおくは,小津作品中のおとなたちに躾されたことだろう.
ところが,この世代が成人する頃からだんだんに意識が薄まるのだ.
それは,核家族化や都市化などといった生活環境の激変と,「合理的」という名の「安直さ」の追求が背景にあったのだろう.

いつの間にか,「他人の迷惑にならなければなにをしてもいい」という風潮がうまれる.
「躾」という字の意味する,おのれから発する美しさ,とはことなる,他人からの評価という概念になるのだ.
小津世代の大人たちは顔をしかめたが,70年代の青春を謳歌した世代が従う理由がなくなっていた.

そして,人間の躾が困難になったいま,犬の躾ができない人々が大量発生しているのだ.
にもかかわらず,事故が少ないのは,幸いにも家庭犬として人気があるのは小型犬ばかりだから,飼い主以外の他人に危害が及ばずにすんでいるからだろう.
けだし,飼い主の怪我は絶えないことだろうが.

また,殺処分数は近年は10年前の1/5程度に減少して(昨年度で犬1万,猫1万5千:環境省)いるものの,引取制度が変更されたことで発生している,引取業者による劣悪環境下での飼い殺し問題も含めると,実態はわかりにくい.
ドイツ,スイス,オランダは,「0」であるから,国際的には恥ずかしい状態であることにかわりはない.

社内教育の放棄が意味するもの

新入社員を教育するのは,企業としては常識だった時代があった.
躾教育も,ある意味,企業内研修ですませていた.
ところが,企業にそんな余裕がなくなってきた.教育経費や時間コストの負担だけが理由ではないだろう.

犬の躾ができないのだ.
パワハラの発生背景に,躾問題が見えかくれする.もちろん,パワハラを肯定しているのではない.本来の躾の意味が「社会化」だったことを思いだすと,その「社会化」が不完全な人間が身体だけ大人になっているということである.

犬の躾も「社会化」を前提としている.
現代社会で生きる犬すら,人間社会のルールを学ばないと不幸になる.
犬は群れの序列をつくる習性があるから,人間がリーダーであると認識すれば,あとは人間の命にしたがう.

だから,犬の躾のポイントは,飼い主である人間をリーダーとして認めさせることにつきる.
ところが,その犬も,暴力による方法では従わない.
リーダーを尊敬する心を育まなくてはならないのだ.
いまいる企業人は,後輩から尊敬を得ることができるだろうか?
また,それを奨励する経営をしているだろうか?

「職業人生を預かる」という感覚

「不確実性の時代」といわれて久しい.
前ぶれもなしに突然,株式市場が大暴落したり,天変地異があったり,はたまた交通事故があったり,まさにこの世は一寸先も闇なのだが,21世紀のわが国では「確実」なことがひとつある.
それは,若年層の激減と人口減少である.

前回2015年の国勢調査で,5年前の2010年の調査から約100万人の減少が確認されたし,いま生きている女性人口からの出生推計では,7年後の24年には2015年比で390万人の減少が予想されている.
これは,自治体最大の横浜市の2017年人口373万人を上回るのだ.

昨年,2016年には出生数が100万人を割り込んだから,あと20年でこの子たちの企業における争奪戦が起きるだろう.
つまり,いまいる従業員の満足度を高めないと,すでに起きている人手不足どころではない事態が確実にやってくるのだ.
それは,原点にかえって,企業は他人の職業人生を預かっている,という感覚で経営しないと,次世代の人材から見放されてしまうことになって,残念ながら企業活動の終わりを意味するのだ.
この不足分を,移民やAIで本気で乗りきることができるか?という問いでもある.

あなたは,犬を躾けることができるだろうか?

犬の躾ができなくて,人間の人生を預かれるだろうか?

せんべい布団

旅館やホテルに泊まった翌朝,腰が痛くなっていることがある

枕の高さがあわないのか,布団やベッドがへたっているのか.その両方かも知れない.

試泊する習慣がない

言葉遣いや所作,あるは料理といった分野で「おもてなし」にこだわるのはいいが,「快適な睡眠」も立派な「おもてなし」である.浴衣やパジャマにこだわることがあっても,そこそこ低料金の宿で「寝具」にこだわっていることが一泊だけの客にもわかるところは案外少ない.こうした施設の特徴は,支配人・女将さんといった幹部や,従業員さんも含めて,自分が客になって試泊するということをやっていないことが多い.

ただだと思ったら,とんでもないことに

困窮している宿ほど,「お金がかからない」からと,むりやり従業員にサービス業務を増やして命じていることがある.このなかに,提供者として「よかれ」というサービスが客のニーズとマッチせず,お客様にも押しつけているものがある.これが,本ブログのタイトル「おもてなし依存で……こわれちゃう」の典型例だ.この例ような「お金がかからないから」といって従業員に負担をかぶせることが,実はとんでもない損失につながっているのだ.第一に,疲弊した従業員が退職してしまうリスクが増大する.第二に,地元で新規従業員を募集しなければならなくなるが,応募がない.「きつい」という職場環境が噂として地元社会に流通するからだ.第三に,欠員状態が,さらなる疲弊を招き,...という悪循環におちいると,経営そのものが成立しなくなる.地方にいけば,仕事を探すのが大変だ.だから,従業員さんもできれば辞めたくない.そんなひとが,辞める決断をするのだから,重いはなしなのだ.

本来,モノで釣るのはいかがかと

その施設の業務全体を見たうえでだが,手っ取り早い改善として,寝具の見直しを奨めている.部屋数にもよるが,一気に全部を交換することも,単価がとれる部屋から順に交換することも,どちらもありである.「おもてなし」の差で,競合と差別化をはかりたいとしても,それには客層や従業員のレベルなどを勘案して,なにをどう実行するかを検討しなければならないから,それなりに時間がかかる.なによりも時間がかかるのは,従業員がその気になることだ.すると,その間にお泊まりいただいたお客様に,そんな改善の検討をしていることが伝わらないで,従来どおりの評価しかいただけない.だから,時間稼ぎの意味もある.

できれば地元の布団屋さんを

真綿の伝統的な高級布団は,高価すぎて手がとどかないことがあろう.けれども,地元の布団屋さんだってプロである.新素材も含め,検討するのはおおいに勉強になるし,さまざまな素材特性と自社の利用客イメージから,自然と選択の基準ができるはずだ.「共同プロジェクト」として,気に入ってくれたお客様にお店を紹介することもできるだろうし,布団屋さんも自社HPなどで宿の宣伝をしてくれるだろう.

変化をおそれずに,変化を楽しむ

寝具変更は,宿泊施設にとって投資額として小さいけれど,いざとなると小さい話ではない.それに,しょせん物質的なことなので,競合も同じかそれ以上の寝具を導入したら,あっという間に競争のためのツールではなくなってしまう.これは,正論である.ところが,日本の宿業界は,一部をのぞいて自社での試泊も習慣にないから,地元の競合他社に泊まってみることをまずやっていない.「顔」でバレるからだ.だから,やってみるとお客様からの評価が上がる.これが気持ちいい.たいがいの困窮化した施設の特徴は,おそろしくコンサバだから,ちょっとした変化を嫌う.それは,あまりにも長い間,成功体験がないことからの硬直である.寝具交換という,低めのハードルは,次のステップに踏み出せるようになるための心の訓練でもある.

「国際標準」に従ったり,そうでなかったり

小池知事の東京都で,「家庭内禁煙」も含めた条例化が話題になった.禁煙条例を最初に可決した神奈川県でも,当初案には「家庭内禁煙」があったが,さすがに「個人の自由」を侵すとしてすぐに原案から削除された.しかしながら,今回の東京都の場合は,「オリンピックでやってくる大量の外国人客に恥ずかしい」という理由づけがあった.

欧米の近代民主国家が歩んできた道で考えると,「個人の自由を保障すること」は,最優先されることであり社会の基盤である.当然,日本国憲法でも保障されていることだ.近代民主国家の「憲法」とは,よく「最高法規」といわれるが,これだけでは憲法の位置づけがわからなくなる.「憲法」とは,「国民から政府への命令書」なのだ.つまり,憲法を守らなければならないのは,決して一般国民ではなく,地方も含めたすべての公務中の公務員(公務を終えれば公務員も一般国民になる)なのだ.民主国家の国民からの命令書だから,最高法規なのであって,憲法が国民生活を縛るものではない.つまり,個人の自由行動である喫煙を公権力が強制的にやめさせる「禁煙条例」は,あきらかに「自由を保障した」憲法違反である.これを「護憲派」が批判しないのも不思議である.あの,ヒトラーのナチスは,「禁煙」を政策として人気があったことを,また,その理由が,ヒトラー自身が嫌煙だったからということを「護憲派」が知らないはずはない.「喫煙」と「嫌煙」の関係は,マナー問題とすべきで「権利」にしてはならない.「嫌煙権」を認めれば,別の問題でまた「権利」が生まれ,それを政府が強制することをくり返せば,知らずににっちもさっちもいかない全体主義国家になってしまうからだ.そして,そのときの最高権力者は言うだろう「国民の要望を完全に実現した国になった」と.

「外国人に恥ずかしい」という心情が,近代国家の基礎である「自由の保障」から優先されるという倒錯は,単純に「倒錯」であるから,ご都合主義になる.たとえば,食品安全規格についていえば,日本の規格は世界標準になっていない.東京オリンピックで提供しなければならない日本の生鮮食品の安全規格が,世界標準でないということは,日本の食品を拒否する参加国がでてもおかしくない.つまり,輸入食材を使わなければならなくなるということだ.これこそ,外国人に恥ずかしいことではないか.その要求レベルは,「無農薬だから安全」などということではない.たとえば,農園や輸送の人事管理で,従業員の身元確認義務まで含まれるし,農園内の立ち入り規制義務もあるのだ.第三者が簡単に畑に入れる日本では,ほとんどの農産物が「規格外」になってしまう.日本人はまじめで善良だし,移民や難民がほとんどいないから,農地や流通過程で毒をいれる者なんていない,とお役人は言うだろう.それが世界に通用するなら,どの国だってそんな安全規格をもとめやしない.

アメリカは2018年にトランス脂肪酸含有の食品を禁止する

オリンピックはその二年後だけど,18年以降のアメリカ人訪日客は,日本では「規制がない」ということをどう考えるのだろうか.現状では,食品に含まれることの有無すら「表示義務がない」し,厚労省のHPをみてもわかるが,日本政府は規制をかける気すらない.「平均的に」日本人は欧米人に比べトランス脂肪酸摂取量が少ないから問題ないというのだ.法学部出身の文化系の役人のレベルが低すぎないか?現在,中学や高校では「統計学」がカリキュラムにある.データはなるべく「ヒストグラム」や「散布図」にして分析するのが基本と教えている.データの広がり具合が「平均」ではわからないからだ.あるテストで,クラス全員が65点だったら平均も65点,ところが,65点を中心に一点差で下位に20人,上位に20人が並んでいても平均は65点である.「平均値が低いから安全」という論法では,中学生にすらバカにされるだろう.それに,医薬品の分野では,欧米の新薬がすぐに認可されることはない.身体の大きい欧米人と小さい日本人とでは,薬剤の分量を減らす必要があり,その程度を確認するために時間がかかるからだ.おおむね半分ぐらいにならないか.だとすると,日本人が摂取しているトランス脂肪酸の許容量も,欧米の半分ぐらいが適当とすれば,厚労省がいう安全分量の基準は,現実的に危険領域に近づくのではないか?と素人でも気がつくことだ.輸入医薬品のときは「科学的根拠」をあげ,トランス脂肪酸の場合は曖昧にする.つまり「国民の健康より業界保護が優先」と言っているに等しい.加えて,オリンピックでやってくる外国人客は全員が,トランス脂肪酸について日本国内に入った途端,急激に無頓着になると本気で思っているのだろうか?厚労省の役人は,外国人観光客など,しょせんたいしたことないから無視してよいと考えているのだろう.上から目線もここまでくると「病気」である.わたしたちは,こんな危ない病気の役人に支配されている.

宿泊施設では,朝食にマーガリンではなくバターをお出しするから問題ない,というレベルの話ではない.目玉焼きを焼くときの油がサラダオイルならアウトだし,パンにショートニングが入っていても「禁止」があたりまえの国のひとたちにはアウトである.こうしてみると,天ぷらは?トンカツは?あるいはコーヒー・フレッシュは?という具合に,芋づる式になってくる.日本のトランス脂肪酸天国をSNSで発信するひとも出てくるにちがいない.

では,世界のどのくらいの国でトランス脂肪酸「規制」が行われているのだろう?ぜひ,ご自分で「検索」してみるとよいだろう.そして,それらの国からの訪日客がどれくらいのシェアかを考えていただきたい.

おそるべき成功体験

横並びで安心する心理

伝統的な温泉地でよくみられる光景である.同じような宿が集まっていて,たいがいはボス的な高級旅館の数店を頂点に,だんだんと広がるピラミッドのような構成になっている.そして,頂点にいるボス的な旅館のなかから「旅館組合」の長が選ばれることになっている.

さて,こうしたヒエラルキーのある構成での特徴は,「同格」とされる階層内で,「横並び」という二次的な構成をつくるということだ.経営者のこうした心理は,従業員にも浸透して,旅館をあげて同格と同じ構造のサービス体制を目指すようになる.これを,視覚的に確認するのは容易で,旅行会社のパンフレットをみればよい.その温泉地における旅館の格付け,その格付けのなかでのほとんど同じ料金と特徴のない料理(写真)がみてとれる.旅館の自主的な「横並び」整列を,さらに外部から仕向けているのが,旅行会社であることもわかるだろう.

「マス」でからめとっていた時代の名残

『細うで繁盛記』(よみうりテレビ,1970年1月~71年4月)というドラマを覚えているひとは,もう50歳代以上でしかないだろう.「戦後」をどっぷり引きずりながら,昭和30年代の高度成長を背景に伊豆の温泉地で「独自」に旅館をもり立てようとする大阪の料亭から嫁いだ主人公と,その路線に徹底的に反対し,「昔ながら」の秩序を守ろうとする嫁ぎ先の家族と温泉地の派閥のボスとの壮絶な人間ドラマだ.結局,主人公は数々の試練を乗り越えて成功してゆき,反対した側は没落するのだった.

このドラマの肝は,「独自」だ.マイケル・ポーター教授の名前をあげるまでもないが,「競争の戦略」でもっとも重要なのは「独自性(オリジナリティ)」だからだ.

ところで,主人公が「成功させた」という意味は,ドラマでは「大きく発展させた」ことだったことにも注目したい.すなわち,ドラマでの時代設定が昭和30年代の辛酸期を終えて,刈り取り期は昭和40年代になっているのだ.もし,この宿が平成も終わろうとしているいまも実在していたら,おそらく厳しい経営を余儀なくされている可能性が高い.主人公の命が永遠なら,「独自」を追求し続けることは,すなわち「団体」から「個人旅行」への市場シフトをいち早く見ぬき,なんらかの手を打ったろう.しかし,生身の人間には寿命がある.一度刈り取った成功体験が,次世代にとっては「曲げてはならぬビジネス・モデル」に変容するだろう.それは「破滅」への道になりかねない.

三パターンが混在する温泉地

日本旅館,とくに温泉旅館の衰退がとまらない.この背景には,第一パターンから第三パターンまでの三つがある.

第一パターンは,ドラマの主人公とあらそった,「昔ながら」をいまでもやっているパターンだ.すなわち,60年以上前の思想だが,「老舗」に多く,もっといえば複数回「破綻」しているかもしれない.そのエリアではもっとも高級かつ有名だから,再生のためのスポンサーは付く.しかし,「思想」がかわらないから,業績不振は改善しないのだ.

第二パターンは,ドラマの主人公が成功させた,昭和40年代の巨大温泉ホテルだ.上述したように,成功までの新進気鋭の「独自」という思想はよかったが,そこで進化が止まってしまったパターンだ.これは,「思想」が「守り」に変容したことからはじまる.現実に,たいへん厳しい経営状態に追い込まれているだろう.

第三パターンは,新進気鋭な「独自」を追求するパターンだ.たいがい,若いチャレンジャーが運営している.地元では,かつてのドラマのような展開が,現実に起きているにちがいない.第二パターンにならないよう気をつけたいが,おそらく第二パターンとは「成功」の意味がちがうはずだ.それは,「大きく発展させる」ことではなく,「地元での『オンリーワン・ブランド』の確立」だろう.

「思想」がことのほか重要なのだ.

築地と豊洲で話題にならないこと

「自慢」することの疑問

築地から豊洲に移転しようとしまいが,どちらにしても「世界最大の海産物市場」だとして自慢しているけれど,本当に自慢できるのか?
欧米の外国人が,早起きしてマグロの解体や競りの見学にこぞって出かけるのは,「珍しいから」にちがいないが,この「珍しさ」には二つの理由があることを知らない振りをして「自慢」していないかと疑うのだ.

まず築地を「自慢」する誰もがおもうのは,確かに市場の大きさと働き手の機能的な動き,そして何よりも取り扱われる大量の「鮮魚」が「すごい!」とウケているであろう,と.これらが,渾然一体となっている光景は,生魚を食する文化が希薄な国からきた人々にはまさに新鮮な驚きだろうと容易に想像できる.わたしも,この理由しか知らなかった.
ところが,ある外国人に築地の歴史的説明や見学におけるマナーを話していたら,ふと「なにがそんなに珍しいのか」という話題になった.すると,その人は真っ先にわたしにとって意外な理由を教えてくれた.

「公設」という罠

それは,築地が「(自由)世界最大の『公設』市場」だということだった.一瞬,わたしは何を言いたいのか混乱したが,その人の次の言葉で理解できた.「わたしの国には『公設』市場なんてありません.公務員が流通のかなめをおさえていることが,自由主義で経済大国の日本にあるのがたいへん珍しいのです」と.そして,「かつての社会主義国に少し残っています」といいながら軽く片目をつぶってみせた.

アメリカでは,1970年に『公設』市場は廃止になっている.つまり,流通は民間部門の仕事になった.当然,各地の市場で働く公務員たちは大反対した.まさかの失業をしてしまうからだ.もちろん,公設市場の廃止は「安定供給をそこなう」から「食卓の危機」という主張が優先されたが.ところが,いざふたを開けたら現実はまったくちがっていた.民間の流通業者の熱い視線が,これらの公務員争奪戦に発展したのだ.いわゆる「目利き」と「仕組み運営」の能力が高く評価され,発展途上だった自社内の体制整備に大活躍の場が用意された.そして,会社は急速かつ巨大な発展をし,彼ら元公務員たちの給料は数倍になった.公務員だったらあり得ない収入になった彼らは,最初から民間人だった振りをして生活している.「悪い過去は忘れよう」というわけだ.日本では,もちろん天下るのだが.

米騒動からの「統制」が21世紀にも続く

日本の公設市場の歴史をたどると,大正時代の米騒動がでてくる.瀬川清子の『食生活の歴史』(講談社学術文庫,2001年)によれば,日本人は「米を食べてこなかった」.

人口の8割を占める生産者である農民は,自分がつくった米をめったに口にできなかった.年貢米を食べていたのは,支配階級の武士と都市住民の商工業者であった.この構造は明治になっても基本的にかわらない.かわったのは,工業化であった.工場労働者の供給源は農家だったが,農業では次男以下は「食えない」から工業化は口減らしに都合がよい.そこで,幕藩体制下で開墾されつくした農地面積は増えないのに,米を食べる人口が増えてしまった.明治の軍隊が,たっぷり白米が食べられる,という条件で兵を募集したのも,「食えない」農家があってのことだ.

生産性の向上が追いつかないのに,消費が増大すれば起きることは決まっている.価格の上昇である.慢性的な米不足状態で米騒動の起爆剤となったのがシベリア出兵だった.それで,大阪の商社が米を買い占めたというニュースが引き金となった.
日本人はなにがあっても秩序があり,暴動なんて起こさない,というのが「神話」にすぎないのは,たった二・三世代前に,しっかり暴動を起こしていることからもわかる.しかも,全国規模に発展したのだ.
あわてた政府が例によって「統制」したのがはじまりだ.そして,特別扱いになった米は,米穀法となり,その後「食糧管理法」へとつながっていく.その他の生鮮食品は『公設』市場を通過させなくてはならなくなった.

だから、世界的に「珍しい」のだった

いまも米の輸入保護統制は続くが,食糧管理法は1995年に廃止された.この流れからすれば,公設市場法も廃止されるのが筋というものであろうが,そんな議論はどこにもない.
すでに大手流通業の発展とネット社会の到来で,公設市場のシェアは4割程度に低下している.「4割もある」と考えてはいけない.本来は,全部が公設市場のシェアにならなければおかしい.なにしろ「法律」があるからだ.とっくに公設市場法も有名無実化しているのだ.

別の言い方をすれば,日本の「法治」が成り立っていない.法の廃止も立法府の仕事だが,司法府が無言のままなのはどうしたことか.「三権分立」すら怪しい国なのだ.中央に意見する都知事は勇ましいが,原理原則からはずれては元も子もない.それが,こないだの衆議院総選挙であらわになった.21世紀になっても,大正時代の統制を維持すると発想すること自体が不思議なのだ.ダミ声の築地の競り人が公務員だということを思いだせばよい.

外国人観光客の「ツキジー,サイコウ!」に浮かれている場合ではない.

高校生マーチング・バンドから見える日本の驚異

ビジネス・モデルが完成している

毎年11月になると,大阪城ホールは壮絶な演技で盛り上がる.チケットは発売とほぼ同時に完売するから,一般人では入手困難だろう.

県大会→地区大会→全国大会(大阪城ホール)と関門を突破した強豪校が激突する,といっても野球やサッカーのように「誰が見てもわかる点数」を競うのではない.それぞれが,それぞれのスタイルで完璧さを表現するのだ.

チームの中の自分の位置が決まっている

マーチングの基本は,5mを8歩で進むことだという.つまり,1歩は62.5㎝でなければならない.各人がこれを習得しないと,隊列が必ず乱れるから,県大会も突破できないであろう.当然,楽器を演奏しながらの行進になるから,楽器における演奏のパートと,行進の立ち位置というパートの両方を一致させなければならない.つまり,この二つの一致とは,他人の介在する余地がないので個人の責任範囲になる.

最初から理解している

マーチング・バンドに新加入する個人は,最初から以上の原理を知っている.だから,あたえられた楽器とそのパートの練習は当然だし,歩数を習得する練習も当然である.加えて,地元でのパレードなどのイベントにも多数参加することも知っている.大規模なパレード・イベントだと数キロメートルを行進しなければならない.息を吹く楽器ばかりで演奏しつつ,複雑な隊列変化を魅せるのだから,おそろしく体力を要するのだ.そんなことも新入生は知っている.

労働市場が存在している

自分が果たすべき役割をあらかじめ意識するのは,自分が持っている能力を売る,という行為と同じことだ.つまり,下級生には自己の演奏とおそろしく体力をつかう行進という役割を提供する義務が自動的に発生するのだ.これは労働市場成立の一つの条件である.労働市場が人身売買とちがうのは,自分のすべてが売買の対象ではなく,自分が提供する行為の範囲と質があらかじめ決まっていることが重要なのだ.一方で,その労働を買う立場にある経営者は,やはり提供者と同じに購入する役務を定めている.ここで,需要と供給の原則から価格が生まれる.これをふつう「賃金」という.高校生だから「賃金」はない.しかし,部員が不足すれば勧誘活動で,上級生はさまざまな特典を提示するかも知れない.一方,部員が増えすぎたら,冷たい態度になるかも知れない.

そんなわけで,自分の立ち位置を習得した上級生には,下級生をマネジメントするという役割も必ずまわってくる.だから,下級生だから上級生のマネジメントをただ受身でいれば済む話ではない.必ず,自分たちもマネジメントする側になるからだ.学校生活における一年はとてつもなく大きな段差にみえる.たった一年の差でも,絶対的に立場がちがう.しかし,上級生の引退がスケジュール上ではっきりすれば,いやがおうでも,順番がやってくることは誰だってわかるものだ.

完璧な年功序列と容赦ない定年制

高校生なのだから,一般的には,16歳で入学し18歳を終えると卒業する.中学校を卒業したばかりの新入生が,たった三年で「引退」しなければならない.つまり,実社会の10倍以上のスピードで,労働者から経営者に昇格するという経験を積むことになる.ここで,もっともつらい想いをするのは,大人である指導教諭たちだろう.手塩に掛けて育成したメンバーが,たった三年で定年退職してしまうのをただ見ているしかないのだ.しかし,よく考えれば,大会に出場してくる学校名と指導教諭たちは同じでも,中身である演奏者たる生徒たちは,一年毎に新陳代謝して,三年後には全員が入れ替わってしまう.

自分の立ち位置もなければ,入れ替わることもない

実社会を見てみよう.日本企業のばあい,労働力として自分が提供する行為が入社前からわかっているわけでもなく,採用する企業からの要求もない.あるのは「新卒」ということだけだ.だから,「中途採用」がないから「途中入社」もない.新入社員として配属された部署における立ち位置も,とにかく漠然としていることだろう.つまり,このことからわかるのは驚くべきことに,日本という国に「労働市場がない」,ということだ.

すなわち,「社畜」になるしかない.

人生50年が80年になって,強制退職制度だった「定年」が,60歳なのか65歳なのか,はたまた「70歳まで働きたい」となって,いつまでも「上級生」がいるのだ.さらには,年金支給開始年齢の上昇から,75歳までは会社にいないと生活できない可能性もある.「定年」して「再雇用制度」に頼ると,年収はほぼ半減するだろう.労働市場がないからできる荒技だ.自己が提供する労働と会社が購入する労働の間に,市場がないための理不尽である.近年,どちらさまでも「能力主義」とか「成果主義」が導入されたが,そもそも労働市場という基盤がないから機能しない.労働市場がもともとある欧米諸国の表面的まねをしても,すぐにペンキがはげてしまうだけだ.専門家を代表する学者は,ただの翻訳者になっている.

社歴を重ねれば,マネジメントする立場になるはずだが,労働市場もなく弛緩した社畜に,マネジメントとはなにかをかんがえる気力はない.だから,仲間うちで楽ができればよい.ほとんど日本向けかとおもわれるガルブレイスの『新しい産業国家』(1968年)に,書いてある.

せめて学者なら

たった三年で労働市場とマネジメントの本質を習得してしまうマーチング・バンドの高校生を,将来の実社会での指導者にするべく教育する方策を提言してほしいものだ.

もっとも,学者先生ほど実社会でのビジネス経験がないから,何をか言わんや.

カジノ考

本年早々1月12日に、さいたま市の中学校で女子中学生が飛び降り自殺したニュースが衝撃的であった。
遺書には、「楽しいままで終わりたい」とあったという。
わが国の実態を思うと、実に胸が痛む。
いったいこの国はどこへ向かうのだろう?

とにかく楽しい場所

カジノ=統合型リゾート(IR:Integrated Resort)は、情報産業(感情産業)である。
複合施設(CF:Composite Facilies)とは根本的に異なる。
CFが、個々の施設をかけ算によって面積を求め、それを合計して同一区域に納めるイメージなのに対し、IRは、目的合理的に施設配置をする。すなわち積分(integral)なのだからCFとの違いは「次元が違う」という認識が必要だろう。
にもかかわらず、「賭博場がやってくる」程度にしかかんがえていないのであろうか?
誘致を推進する側は、わがまちの「観光の目玉」という認識らしい。それは、従来型のCFのことであろう。
なぜなら、CFであれば、既存の周辺施設にも「あわよくばおこぼれがあずかれる」可能性があるからだ。
しかし、「目的合理的」なIRで、それが通用するのか?はなはだ疑問である。IRには,統一テーマがある.

IRは情報産業である

IRが情報産業のなかでも感情産業に進化したものであるという理解のためには、1994年の文化勲章、2010年物故、梅棹忠夫が半世紀前に発表した「情報産業論」(1962年)収録は『情報の文明学』(中公文庫、1999年)が重要な資料になる。
やや荒っぽいが、梅棹先生がいう「情報産業」とは、なにもコンピュータ関連という狭い範囲だけではなく、現在の脳科学や発生学などを先取りして、特に「観光産業」や「宿泊産業」「飲食産業」がそれにあたると主張されている。それは、人の体験型産業のことである。人は脳によってすべて理解する。その脳は電気信号によっている。だから、これらの産業を「サービス業」とか「接客業」というのは間違いであるという。半世紀も前に「情報産業」として事業を再構築するしかないと強く激励しているが、当人たちはいまでも自らを「サービス業」「接客業」と定義し続けている。

サービス業の強制的な産業転換

政府はずいぶん前から、これら「サービス業」の生産性の低さを問題視してきた。製造業の生産性はいまだに世界トップクラスであるが、全産業で比較するとわが国はOECD諸国で中位クラスに転落する。この大きな原因が「サービス業」である。驚いたことに、わが国の「サービス業」の生産性は、OECD諸国で「ほぼビリ」なのである。(これが、おもてなしの国の実態である)
すなわち、「サービス業」の生産性の低さとその改善にしびれを切らした政府が、外から黒船を引き込んだともかんがえられるのである。
かつて、石炭から石油への転換を図ったときには、大変な痛みを伴う争議となったが、今回の「サービス業」から「情報産業(感情産業)」への転換は、どういうわけか当人たちも「期待している」ようである。しかし、残念ながら、その本来の意味を理解せずに、むしろ誤解しているのではないかと懸念する。
「カジノ」としてやってくるIRが「感情産業」であるというのは、人間のもつ「欲望」や「快楽」を「目的合理的」に産業化したものだからである。

投資額ではない,投資期間が問題なのだ

彼らが予定する投資額は1兆円規模なのだ。(2016年12月3日、日経記事)
それでは、彼らがかんがえる投資の回収期間は何年なのだろうか?
わたしは、ベストパターンで5年とかんがえる。
つまり、年間2,000億円のリターンを目指していると推測する。10年としてでも年間1,000億円だ。
しかも、この数字は、「キャッシュで」である。外国人投資家は、投資先の税制など気にしない。キャッシュでのリターンしか見ないからだ。
この規模の利益を吸い取ることの意味は、「地元観光の『台風の』目玉」となって周辺で既存の観光・宿泊・飲食事業を吹き飛ばすということにならないか?宇宙的にイメージすれば「ブラックホール」である。既存事業をすべて吸い込んでしまう。
つまり、IRの地元は、まっさきに自らを「感情産業」のレベルに引き上げて対抗するか、換金できるうちに廃業するかの選択になる。
アメリカのIRは、ラスベガスもリノも、砂漠の中にある。日本では、IRの周辺が砂漠になりかねない。
しかし、この試練は、結局は(IRの地元以外の)業界人の目を覚まさせることになる起爆剤になるかもしれない。だから、一概に一方的に「悪い」ことではないかもしれない。資本主義では、退場も悪ではない。
一方で、わたしの懸念は、キャッシュで残ったものが「円」として留まるのだろうか?ということだ。
これだけ巨大な金額が、「ドル」として流出するということの意味の方が問題だろう。「円安ドル高」だから輸出産業にとっては確かに追い風であるが、果たして為替レートはいかほどになるのだろうか?
輸入品物価の高騰から、制御できないインフレに陥ることはないのか?
日銀が倒産するかもしれないという環境で、日本経済は耐えられるのか?

IRのテーマは欲望と快楽の追求

「欲望」や「快楽」の提供という目的合理性をもつ「カジノ」であるのに、国内の議論であまり耳にしないもう一つのポイントは、「売買春」の問題である。
世界のカジノで、売春婦がいないところはない。この点は、「個人事業」として放置するのだろうか?
もし、日本経済のコントロールが効かないという状況になったとき、日本女性の職場としての確保ということなのか?この分野でも、確実に外国勢との国際競争になるだろう。
経済社会学的には、日本の資本主義(=前期資本制との「混沌」経済)がいよいよ産業資本主義の本格的攻勢をあびるきっかけになることも間違いないだろう。対象となる「サービス業」「接客業」こそが、前期資本制の巣窟だからである。
IRという近代産業資本の権化が、日本の(欧米先進産業資本国から見て)後進的な資本を洗い流してくれるなら、超長期的には悪いことではない。
しかし、もし、今は「誘致」を決め込んだ、業界人たちの悲鳴が嵐となったとき、まさか政府が規制に動くという事態になることはないか?そのとき、日本政府が「事情変更の原則」を理由としようものなら、外資の国内直接投資に大打撃になるだろう。
すなわち、サッチャー女史が英国病克服のために取り組んだ諸政策のうち外資の導入策が、日本病克服に使えないオプションになってしまう。これぞ、日本の自殺行為である。だから規制はできないだろう。
すると、為替の問題に戻ってしまう堂々巡りである。

政府依存の世論調査結果

10月3日の日経朝刊

優先処理してほしい政策を複数回答で聞くと「年金・福祉など社会保障改革」が53%でトップ,続いて,「消費税など税制改革」と「景気対策」が35%だから,なんと88%もの人々が「政府」にこれらをおねだりしているのだ.

多少割り引きできるのは,税制改革を望むことか.アメリカのトランプ政権が大幅な法人税減税を打ち出して実効税率でアメリカが日本より低くなるから,日本の財界が「空洞化」懸念であわてているらしい.日本が追随しようにも,かわる財源がないと,民間人が政府の財源を心配している.

政府には日銀券発行と国債の日銀引き受けという,打ち出の小槌があるじゃいないか!と,いいたいのではない.むしろ,まともな財源のなかでしかまずは活動を制限しろといいたいのだ.

そんなことをしたら,年金支給がなくなって生活できない老人がたくさんでる.これまでの政府の嘘を信じたのがわるいのだが,路頭に迷うのは気の毒だ.そこで,一刻も早く,政府には,万歳宣言をしてほしいのだ.

もはや子孫も,ましてや他人を頼れない

人口が減るのが決まっているこの国で,政府に依存し続けることは,自殺行為である.その威力と無残さは,われわれも戦後の経済混乱で「戦時国債」が紙切れになる経験をし,インフレによる「新円切替」では「預金封鎖」も経験したが,その記憶がある世代ももはや風前の灯火となっている.インフレでは,政府の借金が消えるのであるが,その負担はすべて国民がかぶることになる.

厚生年金危機は,戦中につくられた「積立式」が,敗戦によって崩壊し,「賦課方式」に転換されたことによる.賦課方式は積立ではなく,いま給付を受ける人に,いま働いているひとが差し出す方式だ.わが国の社会保障制度は昭和36年に完成している.この当時は定年が55歳だったから,昭和36年時点で定年退職した明治39年生まれより前の世代は,「掛金」という負担なしで年金を手にしているのだ.

つまり,いまの年金危機の重要なポイントは,我々の祖父以前の世代が先取りした分を忘れて「権利」になってしまったことである.しかし,わずか数年先には,年金原資を払い込む若い現役世代の人口がいなくなるのである.それでも欲しいというのは単なる強欲である.だから,政府は早く年金制度をやめる方法を検討しなければならない.

企業の依存体質も

今朝の記事では,財務省と経産省は来年度に,賃上げした企業と事業継承した企業に税優遇するという.国家がなんでこのような介入をするのか不思議だ.つまり,国家権力が民間企業をコントロールしようという魂胆なのだ.財界は,法人税減税についての財源など余計な心配をせずに,このような国家の介入にこそ懸念を表明すべきだ.国への依存が平常であるということ自体が,日本経済のダイナミックさを奪う元凶である.