テキトーな日本人

わたしのように平凡なコンサルタントが言うよりも,おなじことばでも有名な経営者の発言のほうが説得力があることは承知している.
ふしぎなもので,なにを言ったのか,よりも,だれが言ったのか,のほうがひとは重要だとおもうものだ.

若いサラリーマン時代,他部署の部課長のところへ仕事上の質問をしてこいと上司にいわれて,きいてきたことを上司に報告すると,「で,その理由は?」と質問された.「部課長から直接きいてきた」は通用しないから,ふたたびききに行く.
「また,おまえか,なんの用だ?」と邪険にされても,直属の上司のオーダーだから仕方がない.
「先ほどのお話の『理由』をおしえてください」と頼むしかない.
すると,おおきく分けて二つの反応がある.

「なんだそんなことか」といって丁寧におしえてくれる場合と,「そんなものむかしからだ」といって「理由」にならない場合だ.上司に小僧あつかいされたくないので,「むかしからでは説明できないので,詳しくおねがいします」と食い下がる.
それで,けっこう担当部署の責任者が「理由をしらない」ということがわかった.

ところが,それではわたしの質問にたいする答をえた,ということにはならないから,だれにきけば「理由」がわかるのかを聞き出した.
思わぬ部署にくわしいひとはいるのもので,そのひと自身もいまいる部署が思わぬところなのか,懇切丁寧な回答をえることができるものだった.

それで,一見面倒な手続きの合理的な意味をしることができた.
この時点で,「むかしから」という説明しかできなかった現状の責任者より,わたしのほうが詳しくなったことになる.それで,上司に説明すると,「改善策を策定しろ」と当然に指示された.
つまり,「面倒さ」を改善しながら,現状が面倒になった「合理性」を維持せよ,というオーダーということになる.

面倒な仕事なのだ.
これをほぼ20年やっていた.
10年を超えるころから,自社の仕組みがだいたい把握できた.
すると,不思議なことに,いろいろな部署から「お助け電話」がはいるようになった.

「ちょっと相談があるから来てほしい」
いけば,会議室に部署のご重鎮たちが座っている.わたしの顔を確認してから,いちばんえらい人がコーヒーを淹れてくれたりした.
そんなときは,かならずやっかいな問題の相談だった.

やっかいな問題の原因は,「『理由』を放置した『ルール』」が,いよいよ廻らなくなった,ということがおおかった.これは,特定の部署,ということではなく,全社共通なのだ.
ところが,その後投資銀行で企業再生を担当したら,まずまちがいなく組織的にはこの問題が蔓延しているとわかった.

日本ではたらくことになったアメリカ人の20代の女性が,来日してわかった意外なことに,「テキトー」なひとが多いことに気がついたこと,とこたえていたのが印象的だ.
彼女の日本人のイメージは,「つねにきちんとしている」はずだった.
それが,「むかしから」とか「よくわからない」というルールに,とにかくかんがえずに従っていること,が「テキトー」にみえるという.

「ルール」は理由をしっているから守るべきもの.
理由に興味なく,ただ従うのは,「ルール」ではない.
前者は近代的個人,後者は奴隷の態度である.

日本人は,奴隷の発想をしだしている.

変えない、変えたい,変えられない

なにを変えずに維持し、なにを変えるかを、きめる。

「経営」の仕事の中でも,難易度が高いもののひとつである.

「本業」のなかで,なにが「コア(核)」なのかを経営者が識っていないと,きめろといわれてもきめられない.
ドラッカーがいうように,じつは自社の「コア」を特定するのはむずかしい.
だから、しょうがないじゃないか,にはならない.
なんとか見つける努力をして,ほんとうに見つけださなければならない.
でないと,なにを変えずに維持し、なにを変えるかを、きめることができないからだ.
外目には,なにも変えない,変えられない,という評価になる.

なにを変えずに維持し、なにを変えるかを、きめることができないままで,「経営」ができるか?
こたえは,だれにでもわかる.
それは,「経営」ではなく,「運営」にすぎない.
ところが,消費者の価値が流動化する時代には,昔からやっている,という理由だけでは「運営」すら困難だ.

デジタルトランスフォーメーション(DX)

東京ビッグサイトにおける「ホテレスショー」が開催中である.
訪ねてみると,神奈川県を代表する高級温泉旅館「陣屋」さんの展示が目立った.
売上の1/3がデジタル関連で占める企業を「リーダー企業」,それ以外を「フォロワー(従属)企業」という区分がある.
「陣屋」は,旅館という本業では一時困窮化してしまった歴史がある.
それを,いまとなっては「DX」によってウルトラV字復活させた.

困窮化は,KPI(Key Performance Indicator:重要業績評価指標)をもたず,KGI(Key Goal Indicator:重要目標達成指標)だけにたよった「経営」が原因だろう.
これらを,システム(仕組み)として,構築し,そのシステム(仕組み)を,「本業」でつかうことで,実用に耐えるものにした.
そして,これを「パッケージ化」して他社に販売して成功した.

だから,「本業」である高級旅館は,パッケージシステムの開発にあたっての実験台である.
そこで,他店舗展開ではなく,つねにブラッシュアップの対象施設にした.
まさに,「クルマの両輪」である.
ご母堂から経営を引き継いだ,現社長は,大手自動車メーカーのエンジン開発エンジニアだった.

かつて,こんな「宿」はない.
デジタルトランスフォーメーションでの成功は,「なにを変えずに維持し,なにを変えるのかを,きめた」からできた成功だということに注目したい.

さて,その本業の旅館は,完全週休二日を実現している.
「完全」だから、チェックアウト日とチェックイン日をかんがえると,実動週四日しかない旅館である.
これで,従業員の働きかたが変わらないはずがない.
この人手不足があたりまえの時代に,募集すれば応募がたえない旅館になった.

まねのできないビジネスモデルである.

院内感染

純粋無垢なものやことを求めるのを「純化」という.
こうした発想は,儒教の影響をつよく受けているのではないか,という気がしてならない.
ほんらい儒教は,大陸発祥だが,モンゴルからの元,満州からの清といった外国人政権があいついで,共産革命がとどめを刺した.いま大陸にのこるのは,チョンシーで有名になった民間土俗信仰の「道教」ぐらいではないか?

もっとも,この間に,朝鮮や日本では,「小中華思想」によって,本国にかわって自分たちこそ「儒教」の本家と思い込んだ.
日韓問題の根幹に,両国共通の小中華思想による「本家争い」があるのではないか?
とくに韓国では,いまだに儒教は「宗教」としていきている.

ところが,日本は,聖徳太子のむかしから,宗教を「為にする方法」としてとらえる伝統がある.
つまり,怨霊や怨霊による病気などに「効く」か「効かないか」におもきがあって,外国からの「知識」とする傾向がつよい.

裏返せば、神話にさかのぼる「怨霊」は、神道の本筋になるから、日本人はとてつもない宗教民族である。これを日常生活でほとんど「無宗教」と思っている。それが、強さの証拠でもある。
世界の宗教は、毎日「神」を唱えるが、日本人はその必要すらない、という意味だ。

天台・真言の護摩壇供養はその典型だし,禅がもたらした「茶」は,まさに「薬」だった.

「儒教」のなかの「朱子学」を,江戸幕府が推奨したのは,「統治」のための処方があったからだという.「儒教」は,皇帝をささえる文武百官のための教えで,これに「皇帝」はふくまれない.
つまり,将軍を皇帝にみたてれば,家臣のための教えなのである.だから,日本で儒教を「宗教」として扱いはしない.

平面的には,小中華思想における「本家争い」なのだが,一方は「宗教」として,一方は「官僚統治の人心把握術」として,という途方もないギャップがあることを知らない振りをして,「与える側はどちらなのか?」を争うのだ.

いまさら,この現代において「儒教」なんてとおもうだろうが,あんがいわれわれのDNAにすり込まれている.
冒頭の「純化」が一例だ.

「用途純化」ということばがある.土地の用途を,かつてのニュータウンのように,住宅だけに純化させたら,かえって不便で住みにくくなった.
これは,立派な学者があつまっても,失敗してしまう事例になった.
表面的には「規制」の失敗にみえる.しかし,思考の視野狭窄という「純化」が真の原因である.

思考の視野狭窄という「純化」は,ふつうのひとでもおこる.
なかでも,ある特定の組織のなかにいると,その組織の意志にしたがうようになる.
これは,ウィルスのように増殖する.
韓ドラに,「ベートーヴェン・ウィルス」という作品があった.日本だと,「のだめカンタービレ」がそうだろう.
「のだめ」のばあい,「Sオケ」という圧倒的な成功体験が,ウィルスである.

  

成功体験が「ほとんどない」ほどすくないと,「疑心暗鬼」が空気中を舞っているので,良い意味での「感染」は,なかなかない.

「おもてなし」にも,視野狭窄という「純化」がつきものだ.

たとえば,有名百貨店や大手ホームセンターでよくあるのが,「店内改装」という気分転換である.
このときの主役は,ほとんどが「従業員」である.
つまり,何年もおなじ売り場であることに,従業員が飽きてくるのだ.
それで,誰が買っていたのか?という超重要な情報をなかったことにして,つまり,おざなりなABC分析をやって,とにかく「C」ランク商品を棚からなくすか,わかりにくいコーナーに配置換えをする.
こうして,新鮮な気分で開店をむかえるのは,じつは従業員だけだった,ということはしばしばある.

だから、めったに売れなくても,その商品があるからと指名入店するお客は,商品探しに辟易し,ついには,その店から姿を消すのだ.
ここで,店側には,店員に質問して欲しい,といういい分もあろう.
これぞ「純化」である.
悪いのは店ではなく,自分でみつけることにこだわるお客の方だと.

ショッピングの楽しさをしらないひとが,視野狭窄という「純化」をすると,たいがいこうなる.
そして,これが社内感染して,従業員の脳がおかされ,「脳症」的なまでにだれも気がつかなくなる.
では,その感染源はだれだったかといえば,「数字の表」だけをみている経営者である.

だから,消毒すべきは従業員ではなく経営者の方である.経営者の病気が治癒すれば,従業員側は自然治癒する.

政府の「働きかた改革」がいよいよ混乱してきた.
その原因は,消毒すべきが経営者であることに気づかないばかりか,それを命令する政府自身も,消毒の対象であると,つゆほどもおもわない傲慢さである.

与党内でも,ましてや野党も,以上のような反論ができない.
19世紀型の,低劣な環境で酷使される「あわれでかわいそうな労働者たち」を助けてあげなければならない,と信じているからだ.これは,政府のいう土俵である.
衆議院も参議院もしかり.これを「院内感染」と呼びたい.
議員たちには強力な消毒が必要だ.

21世紀の日本における労働問題は,19世紀的視野狭窄という「純化」の感染がとまらない.
ああ,国民はなんて不幸なのでしょう.

ああ,こんな人間になりたい

あなたの尊敬する人物はだれですか?

むかし,学校でクラス替えがあると,学年最初の時間は,自己紹介だった.
これは,「趣味」についでかならずあった質問項目だった.
おもいかえせば,するどい質問である.
そのひとの幅と深さが示唆される.

「個人情報」になるからと,学校から卒業名簿がなくなって,クラス会や同窓会が開けなくなった.
こどもにとって,身近な尊敬の対象は,両親か先生だった.
だから、先生出席のクラス会では,いい大人たちが生徒にもどって時間がまきもどされるひとときの非日常をたのしんだ.

いい学校

いつの間にかに「偏差値」がたかい学校を指すようになった.
ふりかえると,いい友といい教師との出会いがある学校を,本来はいい学校というのではないか?
すると,すくなくても学校側は,こんな教師がいる,という情報を発信すべきだ.
日本の学校は,情報産業になっていない.
むしろ,予備校がそれを実行している.

人生における出会い

組織という人間集団に,どのくらい質の高い人物が混じっているのかも,あらかじめわからない.
趣味の世界では,名人がかならずいるから,あんがいわかりやすい.

企業もふくめ,人口減少社会を前提にしなければならないから,質の高い人物を育てることは,将来の組織存続にも影響する重大事になった.
ところが,そんな人物は簡単に「育てる」ことはできない.
「環境」からの整備が必要になる.

尊敬の対象になりえるのはどんな人物像か?

これから,ロジックツリーをかんがえる.
そして,どうしたらそのような人物に自分がなれるか?をかんがえさせる.
そのためには,どんな職場環境や支援が必要なのかは,トップがかんがえることだ.
これを,いかなるスケジュールで実行するのか?

放っておいても,組織の人間が勝手に育つ,ということは困難になった.
その理由は,分業がすすんだからである.
ある仕事を,企画段階から完結させる経験は,めったにできなくなった.
だから,仕事の全体像がみえなくなった.

ああ,こんな人間になりたい

という人物に,ほんとうに出会えるのか?
出会えたひとは幸せである.

では,自分が,ああ,こんな人間になりたい,と言われるようになれるのか?
ぜひとも言われるようになりたいものだ.

切れないラップ

「韓流ドラマ」がはやっていたころの作品で,「チャン・ヒビン」という全100話にもなる大河ドラマがあった.このなかで,主人公につぎのような台詞がある.

「身分が低くて卑しい者ほど命を惜しむ」

これは,大義なき現代に対するなかなかするどい批判だ.
日本なら「武士道」,ヨーロッパなら,「ノブレス・オブリージュ」を裏側から表現している.

それでか,「安全」の概念が近年は,「『絶体』安全」に変化している.
「命の大切さ」から,「命を惜しむ」へとなって,予防的見地から,「アンチエージング」が注目されている.
あたかも,「命あるものはかならず滅ぶ」という大原則をわすれてしまったかのようである.
「平家物語」の重要なテーマなのに.

「食品偽装」事件があいついで,その無責任さに唖然としながら,「異物混入」が「大事件」になる世の中になった.
「白」か「黒」か,「善」か「悪」か,の二元論は,わかりやすい分注意しないと窮屈になる.
切り干し大根に藁くずが入っているのが「異物混入」になる社会では,伝統食品から「伝統」を排除するようなものだ.

一方で,研究成果として「好ましくない食品」がでてきた.
その典型が,「マーガリン」だろう.
生乳の生産と,政府がさだめた生乳の買い取り価格制度が一致しないために,慢性的なバター不足になやまされるこの国で,むかし「人造バター」と呼んでいたマーガリンの需要は安定している.
そのマーガリンは,「トランス(型)脂肪酸」という分子構造で,これが人体でよからぬ働きをするから,米国などでは販売禁止の処置がとられている.
厚労省によると,日本人のマーガリン摂取量は,欧米人よりもすくないから「安全」なのだそうだ.「『絶体』安全」のキャンペーンをはるマスコミも,この件は沈黙している.

同じような事例があった.
それが,食品「ラップ」である.
ヨーロッパに行くと,おどろくべき品質のラップしかない.
日本製の有名ブランドは,パっと引いてピタッとくっつき,チャッと切れる.
ヨーロッパのラップは,ズルズルと引きだして,ほとんどくっつかず,ぜんぜん切れないからハサミをつかう.

それで,ヨーロッパ暮らしが長いわが同胞は,日本製のラップホルダー(カッター付)が必需品だという.友人知人には,日本からのお土産としてラップを依頼する.
これは,日本にやってくるヨーロッパからの観光客もしっていて,100円ショップやドラッグストアでの定番のお買い物アイテムになっている.それで,「日本のラップは進んでいる!」と書き込むひとがおおぜいいる.

どうなっているのだ?と,ヨーロッパのラップの箱をみてみると,なんと「電子レンジでの使用禁止」という表示があったりする.
意外なのはそれだけではない.「添加物:なし」とある.
ラップに「添加物」?

日本製の有名ブランドの箱を確認したら,「添加物」が「ある!」のだ.

つまり,日本製とヨーロッパ製のつかい勝手という品質のちがいは,材料がちがっていたのが原因だ.
しかも,ヨーロッパ(EU)は,食品ラップの材料に「添加物」をゆるしていない.
「安全」が「つかい勝手」のうえをいく.

そういえば,発がん物質の「タール」がいぶし工程で付着するからと,日本の「鰹節」を輸入禁止にしているのがEUだ.
ところが,EU内で製造すれば「通る」ので,フランスに鰹節工場ができる.
EUの官僚主義はこんなものか.

離脱を果たしたイギリス人は,日本品質のラップをこれ見よがしに使うかもしれない.

それにしても,ラップの添加物の「安全性」.
マーガリンをゆるす日本,鰹節輸入を禁じても域内製造をゆるすEU.
どちらがリスクとして「正解」なのだろうか?
食品専門家の「大義」をしりたい.

2月16日太陰暦

「滞在」という経験は,「時間」と「空間」を基本にして構成される.
「時間」の単位で,みじかいものは「秒」,ながいと「年」になる.
日本人がながいことつかっていたのは,月の運行にもとづく「陰暦」であった.正確をきせば,太陰太陽暦であって,天保歴ともいう.
明治5年の12月は2日でおわり,明治6年1月1日となった.明治5年は322日しかない.この年の「師走」はたったの二日だから,さぞや忙しかったろう.それとはべつに,明治6年といえば,征韓論で西郷が政府から下野する政変の年だから,これはこよみとは関係なくせわしない.

なにげなく日付や季節をかたっているが,明治5年までの日本人と,それ以降ではちがうものになる.
平安のむかしから明治5年までは,今日の日付をしるのに月をみあげれば,おおよその見当はついた.太陽暦では,そうはいかない.
しかし,太陰太陽暦だから,太陽暦もふくんでいる.それが二十四節季をとりいれた智恵だろう.例えば春分・秋分,夏至・冬至は太陽の運行そのものである.

西洋で冬至のまつりといえば,クリスマス.ゆず湯とジングルベルを一緒に楽しむ日本人は,こよみを楽しむのに天才的才能を発揮する.
ほぼ一ヶ月も,正月がはやくやってくるようになったから,七草粥をつくろうにもまだ芽が出ていない.それで,ハウスものの七草を,ずいぶんな高値で買うことになった.
こよみと生活が分裂した結果である.

「こよみのうえで今日はなんの日?」とは,「旧暦」をさすから,「新暦」である太陽暦のカレンダーとは一致しない.それで,「こよみ」なんて信用できない,という早とちりのひとがいる.
新暦の日付で旧暦の「なんの日」をかたるから生活感と一致しない.旧暦の日付で「なんの日」をいえば,こよみどおりになるのだ.あたりまえだが.

ところが,ふつうのカレンダーには,旧暦の日付がかいていない.それで,「今日はなんの日?」が混乱する.それを,テレビのお天気キャスターが何年も新暦でいいつづけているから,旧暦をつかっていた世代がいなくなると,たんなる風物詩にかわってしまった.
日本における,「文化大革命」のひとつである.

夏目漱石は,
「人は日本を目して未練なき国民といふ数百年来の風俗習慣を朝食前に打破して亳も遺憾と思はざるは成程未練なき国民なるべし去れども善き意味にて未練なきか悪しき意味に於て未練なきかは疑問に属す」(明治34年 断片,『漱石全集』第19巻)
と残している.なるほど,深い.

ちなみに,「空間」のほうでは,尺貫法が禁止されたのは1966年3月末日のことだから,たかが半世紀前のことである.これで日本の度量衡はすべてメートル法に転換された.ところが,あいかわらず英米は,ポンドやフィート,ヤードにマイル,ガロンといった伝統が健在だ.これを「未練」というのだろうかは疑問である.

国立天文台のHPに,こよみの計算がでている.わがくにでは,法律で太陽暦ときめたから,太陰太陽暦を計算する公的機関はない.それでも,天文台は2033年問題があると書いている.それは,めったにおこらない太陰太陽暦での「うるう」表記の問題だという.きっと,国立天文台も,太陰太陽暦の有用性をしっているのだろう.

国に依存するのはさけたいが,太陰太陽暦の歴史的文化的価値は,日本人共有のものである.天文台も文化行政も,どちらも文科省の管轄である.
大学設置にかんする権限ばかりふりまわさないで,百年に一回ぐらい国民がおもわずうなるような,こよみのサービスをはじめたらいかがかとおもう.

地方にはいろんなものがある

なんでも東京や都会のまねをしたがるひとは,「なにもない」とかならずいうが,ほんとうに「なにもない」ところには,たいてい伝統文化がのこっている.おおくは幕藩体制のおかげである.
その土地にながくすむひとほど,その土地の文化がふかくはいっているから,日常ごとである.これが,地域をあげてひとりのもれなく日常ごとだから、それをとくだん区別することができない.だから,「よそもの」から指摘されてはじめて気がつくことがある.
「よそもの」がめったにこない地域では,今日も気づかないで暮らしていることだろう.

こよみは,暮らしと密着していた.
古今東西,暮らしと密着しないこよみをつくるなど,ひとは暇ではない.
日本列島の地域区分であった「藩」は律令のむかしからの「くに」がもとで,地形とも連動した区分だから、いまの「都道府県」も,「くに」と「藩」の合成であることがふつうである.
それで各地の伝統文化は,ふるくは「風土記」からつづいて,こよみに書かれた.

土地土地の「祭り」が典型例だ.毎年,日付が決まっている祭りがある.これを,陰暦にしてみると,太陽暦のカレンダーではわからない意味がうかびあがるだろう.

歴史と文化を売る

むかしは日常のなかにも祭りがあった.なにも,「祭礼」だけが祭りではない.
地方文化が色濃くのこる,「なにもない」土地であれば,旅行者にその土地の祭りを体験できるような工夫をすれば,いやがるひとはすくないだろう.

「郷土」を売る,というのは,日本旅館だからの商品になる.
その元ネタに,こよみがあるはずである.

今日,2018年2月16日が,旧暦の1月1日である.
明けましておめでとうございます.

七草は,2月22日.
その辺に生えていませんか?

グリーン車にのりたい

東京近郊区間における普通列車グリーン車は,東海道・横須賀線,総武線快速にくわえ,2001年から運転がはじまった「湘南新宿ライン」によって,高崎線と宇都宮線に登場した.2007年から常磐線にも採用されたのは,高崎線と宇都宮線のグリーン車乗車率が高かったためという.

これで,主要路線で,普通列車グリーン車が走っていないのは中央線だけになっている.
関西では,優秀な私鉄との競争に負けて,1980年に廃止されているので,「普通列車」にかぎると,グリーン車があるのは首都圏だけ,ということになる.

日本の鉄道において,かつては一等,二等,三等の三ランクがあったが,「一等」が廃止されて,二等が新一等に,三等が新二等になって,さらに新一等が「グリーン車」になった.
だから,グリーン車はかつての二等であって,東北新幹線に登場した「グランクラス」が,かつての一等にあたるのだろう.

しかし,かつての一等は,二等料金の二倍という料金差だった.
黒澤明監督の「まあだだよ」の主人公である内田百閒の作品に,「阿房列車」シリーズがある.
「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」
という有名な書き出し.そして,借金までして「一等」に乗り込む.「二等は中途半端で嫌だ」とある.時代は,戦後の昭和20年代半ばあたりからである.

  

「なんにも用事がないけれど」というのは本当で,目的地とはたんなる「終着駅」のことだから,そこへ着いたらなんの興味もない.だから、その土地の「観光」は一切しない.
つまり,「列車に乗ること」が目的という旅を綴った作品なのだ.
しかも,一等で.

ヨーロッパの鉄道では,中距離以上になると,かなりの列車に「一等」が連結されている.
乗ればわかるが,たいていガラガラである.
「一等」料金は,日本のグリーン料金よりも安いのではないかとおもうが,二等がどんなに混雑していても,みなさん「一等」には乗らない.

ユーレイルパスという外国人観光客用の「定期券」は,一ヶ月用が「二等」,二週間用が「一等」になっている.それで,短期滞在のひとは二週間用で期間がちょうどよいから,「一等」に乗れる.しかし,「通」は一等に乗れる権利を放棄して,二等に乗るそうだ.

なぜか?
ヨーロッパは,貴族が現存する身分社会である.だから,「平民」はお金があっても「一等」に行ってはいけないのだ.
内田百閒が,借金しても一等に乗ったのは,日本の身分社会が崩壊したことの証明でもある.
陸軍士官学校と海軍機関学校でドイツ語教授をつとめたひとが,ヨーロッパの身分社会をしらなかったはずがない.

なんにもしらない外国人に,一等を売りつけて,連結費用をまかなおうという発想ではないかとうたがっている.
一等は,指定席があたりまえだから,パスをもっていてもそのままでは乗車できない.駅の窓口で,指定席券をもらう必要がある.
このときの駅係員の態度と,車内の雰囲気で「気がつかない」なら,それなりの神経の持主だろう.
それでも,一等に乗る,というのが,「確信犯として」どうやら正しいらしい.厚顔無恥な外国人をよそおうことで,快適な移動ができる?というわけだ.

ヨーロッパの複雑な事情からすると,日本の「平等」はまさに「真っ平ら」だ.
これを「薄っぺら」というかどうかは別にして,お金さえ出せば,誰でも「グリーン車」に乗れる.
ここで,「グリーン車」に乗るひとはお金持ちだ,という刷りこみができる.

「消費」のなかに,「みせびらかしの消費」というジャンルがある.
消費活動そのものを「みせびらかし」て,自分の立ち位置をあげようという,社会的な行動心理である.
この心理を応用すると,一人単価が上がる.

「奥に特別室がある」という構造がそれだ.

自動スリッパ

日産が自動駐車システムを応用して,スリッパやテレビ・エアコンのリモコンを「自動」で整列させる技術を開発した.しかし,商品化の予定はない,という.

「もの」でアピールするというのは,お金さえあればだれでもできるので,「競争」のためとしては,あまりお勧めできない.ただし,「コンセプト」から発したものであれば,それは「必然」にかわるから,今度は「なければならない」になる.

下足番

むかしの旅館は,玄関にスリッパが敷きつめてあって,お客は自分の履物をぬいで,適当に選んで履いた.ぬいだ履物は,下足番が奥の下駄箱にしまっていた.
外出しようとすると,下足番が,だまってそのひとの履物をだしてくれた.
どこでどうやって記憶しているか不思議におもうほどの「業」だった.

そういえば,いつのまにかおおくの宿で,そのままお上がりください,と一段上がったきれいな絨毯の上を履き替えずに歩けるようになった.
下足番を廃止したのだと,玄関横をみればその名残があるからわかる.
だから,温泉街だと,あんがい浴衣姿に自分の靴というしまらない格好になるから,わざわざ私服に着替えて散策に出たりする.みんながそうなると,ひなびた風情のあった街が,急にふるぼけた表情になる.

さいきんの花火大会は,浴衣で行くとさまざまな特典が用意されている.カップルともに浴衣だと,さらなる特典があるから,中高年より若者のほうが男女ともに浴衣姿がめだつようになった.
主催者の思惑どおり,浴衣姿がふえると,近代的な都会の花火大会なのに,「情緒」が醸し出されるのは不思議である.

昔のような「下足番」の復活ではなくても,温泉街に浴衣と下駄を履いてでかけてもらうだけで,ずいぶんちがった「観光地」になるだろう.

スリッパの履き心地

上記の自動スリッパを紹介した記事やビデオでは,履き散らかしたスリッパが自動で整列することに注目があつまった.たしかに,つぎに履こうとしたときに履きやすいだろう.
しかし,履き心地,についてのレポートがなかった.

スリッパもそうだが,「最高」を求めてしらべると,いがいなものが見つかる.
検索で簡単にみつける,という方法もあるのだが,デパートにあしを運ぶのも伝統的な方法だろう.町歩きでみかける「専門店」という発見もあるから,「足を使う」ことは,「アンテナ」を高くはるイメージがないと,ただの散歩になってしまう.

デパートや専門店にいく理由は,もうひとつある.
その店の「顧客層」と,自分の「顧客層」を比較できるからだ.
「高級」をめざしているわけでもない「旅館」が,スリッパだけ「高級」で,それが「競争」の役に立つのか?というのは,基本的な問いだろう.すると,「コンセプト」の重要性にはなしが戻る.

人手不足で人件費が高騰するであろうから,必然的に「高級」にして単価をあげないとやっていけない,とかんがえれば,意外性が目立つ「もの」から投資したくなるのだろうが,それだけ?でいいものか.ということは,じっくりかんがえていただくとして,スリッパのはなしだ.

デパートや専門店という実店舗の「顧客層」が,自社の「顧客層」と一致するとなると,もので補えるならはやく補うことが重要になる.この顧客層の生活の標準になってしまっている可能性があるからだ.

そこで,これらのひとが,なぜこの「スリッパ」を選んでいるのか?ということを確認したくなる.単なる「履き心地」なのか?なんなのか?
その「こだわり」の視点で,「旅館」という商品をみていることに注目せねばなるまい.

つまり,旅館にとっての「こだわり」は,お客の生活レベルへの「こだわり」であって,本稿のばあい,スリッパへの「こだわり」ではない.生活レベルから,自動的にみちびかれて選定したのが,このスリッパでしたという結果の表現にすぎない.

これが,スリッパだけに注視してしまうと,お客の生活レベルからの距離感がわからなくなってしまうから,独りよがり,という結果になる可能性が出てくる.それが,「おもてなし依存」ということだ.

かんがえる訓練つきのアルバイト

現役学生さんにアドバイスできることのひとつに,将来役に立つバイト先の選定がある.

優先順位

「学生アルバイト」といっても,しっかり稼ぎたい,とか,効率的にお金を得る,という優先順位を設定するのは当然だろう.
いまどき,学生は学業が優先で,アルバイトなどしなくてよい,といってくれる親がいたら,それは相当に境遇がよい.

学生は学業が優先だが,自分の小遣いぐらいは自分で稼いで欲しい,という親御さんの割合が高いのではないかと推測する.
そもそも,なんのために「学業」があるのかといえば,ちゃんとした職を得て,ひとり立ちして送れる人生のためだ.

だから、学生アルバイトは,なるべくたくさんの経験を積んだほうが,将来の役に立つ可能性が高い.
ここで,「将来役に立つ」という優先順位をお勧めしたい.

「労働市場がない国」における時給

ほとんどの「大人」もかんがえていないが,この国には「労働市場」がない.
職業斡旋業者に登録すれば,職場を紹介してくれる,というのは,ここでいう「労働市場」ではない.
労働者が自分の労働力を売る,ということと,事業者が労働者の労働力を買う,という関係を「労働市場」という.
だから,労働者は,自己の労働力の価値を知っているのが前提になる.
買う側も,どんな労働力をいくらで欲しいということを前提にしている.お互いが一致して,はじめて「売買」が成立し,このとき,「労働契約」が締結されるのだ.

日本では,以上の「契約」が成立していない.
その会社に時給いくらで就職する,というかんがえ方だから,仕事内容は入ってみないとわからない.
だから,高校生なら時給いくら,大学生や成人ならいくら,というように,おなじ仕事内容での募集のはずなのに時給単価がちがうという現象がふつうにある.仕事の価値に対応した労働力を求めていない,ということだ.

つまり,アルバイトをしたい側は,「時給の相場」という指標しか情報がない.
募集する会社も,「同業者や同一地域の相場」という指標しかない.それで,だいたい10円単位で「差」をもうけることをして,「獲得競争」をしているふうをよそおう.

ちなみに,いつもどこでもなんどでも,トンチンカンな介入をする「国」は,「最低賃金」というものを都道府県ごとに定めさせているが,これが「労働市場」成立のらちがいにあることに注目しよう.なお,日本の最低賃金制度を作ったのは,岸信介内閣である.

外国企業には絶体に用意されているはずの,「ジョブ・ディスクリプション(職務記述書)」が日本企業にはない.この書類は,業務設計から導かれるから,この書類に対応した人材を募集している.
日本企業が,とりあえず採用して,各職場に配置してゆく方法とは真逆なのだ.
もちろん,この書類にある能力のあるひとを採用しなければならないから,ここで「相場」がきまるのだ.
採用とななれば,男女・年齢にかかわらず,「ジョブ・ディスクリプション」に対応した「賃金」しか払われない.だから,募集時に,「条件」としてあきらかにされる.

なるべくシスティマックな企業に応募しよう

日本的「相場」では,外資のアルバイトだとすこし時給が少ないとおもうかも知れない.
しかし,アルバイトの優先順位,にもどってかんがえると,お金をもらいながら訓練してもらえるという価値がくわわるとすれば,案外おとくなのだ.もちろん,採用する側は,訓練経費を差し引いているから,「安く」みえる.これが,労働市場がある場合の賃金の見かたである.

最大のハンバーガー・チェーンしかり,大人気の遊園地しかりである.
日本企業なら,最大のコンビニ・チェーンも容赦なく訓練してくれるはずだ.

では,いったい,なにを訓練してくれるのか?
それは,「自分でかんがえる」ことだ.

かれらが作って運用している「マニュアル」は,日本の「人的サービス業」のおじさんやおばさんが想像する機械的で無機質な「マニュアル」ではない.
むしろ,人間にしかできない,その場でかんがえて最善を導き出すように仕向ける,というものになっている.
そうでなければ,AI(人工頭脳)をつかったほうがよい.しかし,こまかな店舗管理は,人間のほうがすぐれている.それを,自分のからだで覚えられるのだ.

これからの若いひとこそ,こうした訓練をお金をもらって受けられるアルバイトをお勧めしたい.
将来,本業として,さまざまな職業に就くことになったときに,このときの訓練が,人生の役に立つことにいつかはかならず気がつくときがくるだろう.

エルサレム・シンドロームとパリ・シンドローム

世の中には,理解が深すぎて病気になるときと,理解が甘くて病気になるときとがある.
どちらも,「観光」が関わっているから書いておく.

エルサレム・シンドローム

その「歴史」や「宗教的威厳」に圧倒されて,精神に異常をきたすことをいう.
世界三大宗教の「聖地」,とくに歴史遺産とともにそこにひとが住んでいる「旧市街」で発症するという.
およそのパターンは,ふつうのひとが突然,「預言者」になったり「救世主」になったりする.
それで,この街には,これらの患者を収容するための「特別な病院」も用意されている.

入院して,専門家に診てもらうことになるが,概ね二つの解決策がある.
一つは,エルサレムから外に出ること.
一つは,自宅に帰ること.
どちらも,エルサレムの旧市街から出ること,が重要だ.それで「自然に治る」らしい.
ふつうのひとがふつうの生活に戻ると治るのだから,極度の興奮が原因とされる.
それにしても,発症者は,およそ年間100人というから,バカにできない数だ.

旧市街はいまでも発掘がつづいていて,とにかく掘ればかならずなにか出てくる.
北東に20kmもいくと,いまは,パレスチナになるエリコ(ジェリコ)の遺跡がある.
ここは,紀元前7,000年前,人類最古の街ともいわれる.

エルサレム旧市街も遺跡の街である.
ふと,いま歩いている石畳を,十字架を背負ったイエスが歩いた道だとおもうと,その石畳の減り方に,キリスト教徒でなくてもおもわず見入ってしまうこともしばしばだ.
雨が降らない土地だから,ひとが踏んで減るしかない.

生半可な知識でエルサレムを歩いていると,たいへん不安になってくる.
自分がいま観ている景色,建造物,そして住人たちの心の中にあるはずの歴史知識と信仰そして風習.
宗教的な服装のひとをおおく見かけるが,何派のひとたちだからこの先のエリアには絶体に行かないとか,説明を聞いても深く理解はできない.これらの意味が,わからない,という不安なのだ.
ところが,一方で,それがどうした?という開き直りもある.これが日本人だ.

エルサレム・シンドロームを発症するひとの内面で,なにが起きたのか?は知るよしもないが,そこまでの「深い理解」ができるのは,たいしたものだと感心する.

パリ・シンドローム

これを発症するのは,なんと日本人だ.しかも,女性におおいという.さいきんでは,中国人にもみられる病気だというから興味深い.
フランス人にいわせると,「なんで?」ということになるのは当然だ.

どうやら事前期待と実際のギャップが原因のようだ.
事前期待とは,女性誌におけるファッションの情報が過多であるとか,美しいはずの街並みとかに対する憧れである.ところが,「きたない」道路,さらに,言語や自由と個人主義思想のあまりの強さに,くたびれてしまうのだ.

フランス人医師は,これは,あまりにも「甘い理解」が原因だと指摘する.
フランス革命はなにを求めて血を流し,なにを失い,なにを得たのか?という理解もなく,フランス人は有名ブランドの服しか着ていない,と思い込んだら,たしかにどうかしている.

また,フランス語の発音の一部が,日本語的には「舌打ち」の「チッ」に聞こえて,自分はバカにされていると思い込むのも,典型的な症状だという.これは,中級以上のフランス語づかいになってから現地入りすると,ほとんどあらわれない症状だから,渡仏まえによく勉強しろということで解決するという解説がある.「なんだかなぁ」だ.

「短小軽薄」は,90年代の日本経済のスローガンだったが,「単なるちょっとした知識でただただ『軽薄』」というのが日本の国民性としてフランス医学界にしられているとは,嘆かわしいことだ.

「エルサレム・シンドローム」を発症しえない,という日本人の一人として,自分も考えなおすことはおおい.

伊勢神宮・シンドロームとか,出雲大社・シンドローム,あるいは,京都・シンドロームとか,東京・シンドロームを聞いたことがない.
深い理解もなく,甘いことでもない,ということか?
これを「慶事」とするには,ちとさびしい気もする.