客用トイレをだれが清掃するのか?

外国人がいちように驚くのが,日本の小学校における給食と終業時の清掃であるという.
じっさい,ポーランドでは,給食はおろか,生徒がいっせいに昼食をとる習慣すらないし,教室の清掃は,清掃業者が請け負っているのが世界的には一般的だ.
日本の小学校を取材した,サウジアラビアのテレビ番組をきっかけに,彼の国では「日本方式」が急速に普及しているという.これは,サウジアラビア王国にかぎった話ではない.
「教育」の範囲を,生活習慣にまでひろげれば,日本方式の意味ははっきりしている.

概ね,日本では高等学校まで自分たちで教室やトイレなど校舎や校庭の清掃をするから,おとなになって,専門学校や大学に進学すると,とたんに清掃は外国式に専門業者の仕事になる.
これは企業でも一般的である.

「サービス業」という業種でかんがえると,自社の社員以下がおこなうのと,専門業者に委託するのと,各業態によってちがう.
比較的店舗面積が小さい飲食店などでは,自社の従業員が清掃している.
一方で,大型ホテルでは,業務委託していることだろう.
この中間が,旅館である.

あんがい「おもてなし」をつよく打ち出しているホテルや旅館で,ロビーや客用トイレを業務委託していることはおおい.ばあいによっては,従業員スペースもトイレをふくめ清掃委託している.
「経費」を「単価」でかんがえれば,接客の専門家や商品企画・管理,あるいは営業をプロの従業員が,高単価で業務に従事しているのだから,単純作業は外部の専門業者にまかせることで,単価じたいも安くすむから,合理的であるし,ある意味,そんな業務で有能な従業員の時間をムダにしたくない,というかんがえもあるだろう.

しかし,本来の「おもてなし」という「思想」からかんがえれば,矛盾していないか?

長野県のひとたちが憧れる会社のひとつに,「伊那食品」がある.
この会社は,「寒天」の世界的メーカーで,世界シェアは70%ほどだとおもう.また,前年比で40数年間連続の売上高増加という記録もあるから,ご存じのむきもおおいだろう.

一口に「寒天」というが,なかなかの奥深さで,「寒天」というものの物質特性をかなり研究している.
創業時は和菓子の材料,いまは化粧品や医薬品の分野にまで応用がひろがっている.
その成果が,売上高増の連続記録になったのだが,会社の目的が売上高増加ではないことにも注目をあつめた.それは,社員とお客さまの幸せの追求なのだ.

だから,社員には10時と3時のお茶の時間がある.定年退職すると,子会社に就職して,本社工場内の花壇や農園の仕事がある.その会社にも定年があるから,社員たちは二度退職金がもらえる.
本社工場内の花壇は,美しく整備されていて,工場見学のお客の目をほほえませ,農園の収穫物は「直売」されている.これを近所のひとがこぞって買いに来る.

広大な本社工場の敷地に通勤する社員たちは「右折」をしない.遠回りしてでも「左折」で入場する.「右折」は,後続車の迷惑になるからだという.さらに,朝夕は,工場内の通路を集団で登下校している子どもたちのすがたがある.その先には工場と学校をつなぐ歩道橋がみえる.通学路の敷地内ショートカットを認めただけでなく,歩道橋も会社がつくったという.国道をまたぐ認可を得るのに苦労したというから,本物である.

工場内には見学者のためのレストランがあって,さまざまな寒天料理がたのしめる.
レジをすませて土産物売り場にあるトイレに行った.ふと,違和感を感じたのだが,それがなにかは時間差があってわかった.
トイレ内の水栓や設備は,けっして新しいのではない.しかし,なにか変なのだ.
それは,今日,ここを使うのはわたしが最初か?というほど,どこを見渡しても,水滴の一つもないのだ.
家内をまつために,土産物をながめていたら,目の横を人影が通るのを感じて,あわててふりかえると,そこに家内が立っていた.

いま,女子トイレにだれか入ったかときいたら,誰もこなかったという.
それで疑問がとけた.レジ係のひとが,手があけばトイレの清掃をしているのだ.すると,男子トイレから彼女が出てくるやすぐに女子トイレに入った.
家内も,女子トイレに水の一滴もなかったと驚いていた.

こんな会社みたことない.
それで,たっぷり寒天のお土産を買って,駐車場にむかうと,100mは向こうの通路からなにか叫んでいるひとがいる.
足下から頭まで,すべてが白装束なので,工場のひとだろう.
なにごとかとおもって耳に手をやったら,「ありがとうございました.お気を付けて!」と言っていた.
それで,寒天でいっぱいの荷物のふくろをもちかえて,おおきく手を振った.
なにか,えらいひとになったようで,ここにきてよかったと幸せになれた.

すごい会社があるものだ.

人工温泉の銭湯

「天然もの」だからといって,ぜんぶの「魚」がうまいわけではない.時期や気候変化など,様々な要因で,安定しないのも「天然」ならではのことだ.
一方で,「養殖」あるいは「人工」だからといって,それだけで忌み嫌うのもいかがか.目的や用途によっては,十分満足できると同時に,あんがい「天然」と区別できないことがある.もちろん,手軽さという点では,天然以上のこともある.

最近の銭湯の進化は「湯質」にある.

火山がおおい日本列島は,世界でも有数の温泉大国である.また,入浴方法として,湯船に浸かる習慣は,古代ギリシャ・ローマとブータン,それに日本だけ,というのも文化人類学ではいわれている.
だからか,「銭湯」がめずらしいので,外国人観光客たちの観光スポットにもなってきている.それで,「入浴マナー」がわからない外国人に,絵で示した注意書きが貼ってあるのを目にする.

天然の炭酸温泉は,火山性とは逆の性質の地層でないといけないらしいから,温泉がどこにでもある日本国内でも,かなり珍しいものだった.ところが,医学的に,炭酸ガスの温泉入浴が,血行を改善すると認められて,がぜん注目があつまった.循環器系のおおきな病院には,炭酸ガスの風呂があって,これに「治療」として入浴すれば,ちゃんと「点数」が計算され,健康保険が適用される.

それで,いまとなっては「人工炭酸風呂」は,銭湯でも定番になりつつある.廃業がつづいている業種であるが,きっちり経営は二極化しているようだ.

最近のトレンドは,「高軟水」である.
「軟水」とは,「硬水」とちがって,ミネラル分がすくない水をいうから,「高」がつくというのは,ほとんどなにも入っていない水にちがいない.もともと,日本の水は「軟水」だから,水道水も「軟水」だ.ペットボトルで買うと,ほとんどが「ミネラルウォーター」すなわち「硬水」を飲むことになる.ミネラルウォーターを,黒くコーティングされた鍋で沸かすと,まわりに白い粉がつく.これが「ミネラル」で,主成分は「カルシウム」である.水道の水でこうはならない.

ちなみに英国の水道水も,ヨーロッパでは珍しく「軟水」である.ポットに蛇口から勢いよく水を入れると,泡となった空気もいっしょに混ざる.これでわかした湯でもって紅茶をいれると,すこぶるうまい.みえない空気の泡で茶葉が適度に「踊る」,水に余計な成分がないから,ピュアな味になるというわけだ.ヨーロッパ大陸側は「硬水」なので,おなじ紅茶でも味はおちる.それで,コーヒーが主流になった.

さて,「高軟水」の湯である.
これで顔を濡らして手で触れればすぐにわかる.つるつるなのだ.
髪も,かわけばさらさらになる.
「高軟水」は,ミネラルでもある石鹸成分や皮脂の古い油分を取り除くからだという.

その「高軟水」をつかった,炭酸泉や,マイクロバブルの湯に超音波振動など,機能性のある湯船が幾種類もあるのが最近の「銭湯」である.

銭湯とフランスのパン屋

自宅に風呂がない,とか,自宅の風呂釜がこわれて修理中とか,理由はそれぞれあるにせよ,原初は,自宅に風呂がない,が圧倒的な利用理由であったろう.
江戸の長屋が,現代のアパートになっても,住宅事情がわるかったころは,日常で銭湯しか入浴できないから,生活必需,という分野だった.そして,町内に一軒かならずあった.

このような状態は,かつてのパリのパン屋のようである.パリのパン屋は,町内のひとは町内のパン屋でしか購入できなかったから,そうはいっても日本の銭湯はまだ自由だった.ただし,別の町内の銭湯に浮気すると,なんだか冷めた目線でみられたものだ.
パリでこの町内規制が撤廃されたのは,カルフールのおかげだった.大型スーパーで売っているパンを,みなさんこぞって購入した.町内の全人口が,自分の店のパンを必ず買う,ということが,どのくらいパンの品質を低下させるのか,すこしかんがえればわかることだ.

ところが,カルフールのパンは,日本製の冷凍パンを店内で焼いたものだった.
これで,フランスのパン屋組合が両手を上げた.町内規制強化よりも,競争を選んだのだ.
「このままでは,フランス人のパンは,ぜんぶ日本製になってしまう」つまり,「フランス人のパンは,フランス人が作らなければならない」であった.
世界に冠たる「フランスパン」は,こうして生き残っただけでなく,おそるべき底力で「世界に冠たる」を復活させた.その陰で,町内のパン屋のおおくが廃業せざるをえなかった.

人気銭湯の近場という立地

いまや,銭湯はひきつづき生活必需ではあるものの,レジャーという要素が急速におおきくなっている.これは,スーパー銭湯との競争がそうさせたのではないか?

自宅に風呂があろうがなかろうが,たまには快適なおおきなお風呂がいい.
選択肢はたくさんある.スーパー銭湯もいいが,さてどうしよう.きょうはどこに行こう?
毎日が日曜日とはいわないまでも,生活に余裕があれば,毎日でもゆったり浸かれるお風呂で,快適さと健康を維持したい,というのは人情だ.

ゆっくりすればするほどに,喉が渇く.
最近の銭湯は,牛乳系だけでなく,ちょっとしたつまみや生ビールもある.
だけど,ほんとうは,近所の居酒屋で一杯できれば最高だ.
こうして,銭湯の近場という立地があらわれる.

温泉宿はどうなる?

温泉宿が,まさか都会の銭湯と競合しているとはおもっていないかもしれない.
しかし,日常の銭湯の進化は,確実に利用者の満足度というハードルをあげている.
利用者は,銭湯を銭湯だけで評価しない.銭湯が「レジャー」になったから,銭湯と近所の居酒屋はセットである.銭湯の待合の一杯コーナーをみて,評価するなら,おおきな間違いをおかす.
つまり,温泉旅館がもつ機能の,風呂と食事は,すでに銭湯と競合している.スーパー銭湯には,これにお休みどころがついているから,温泉宿とのちがいが縮小しているのだ.

温泉宿は,どこで勝負するのか?
フランスのパン屋のような,一大決心がいるのだ.

国体のおもてなし

外国人観光客の数がずいぶんのびたから,政府が設定した目標は達成できるかもしれない.
もっとも,その目標値が,どういう根拠だったのかは知らないけれど.

関係者は,半世紀前の成功をもう一度,と「東京オリンピック命」になっている.
分母の数がちがいすぎる状況なので,今度のオリンピックで,「ものすごく外国人が増えた」ということは,あまり感じないかもしれない.
それでも,ホテルや民泊の供給はふえている.

「オリンピック」にばかり目がいくが,ドメスティックなレベルで「国体」というイベントが毎年ある.47都道府県の持ち回りで順繰りするから,約半世紀に一回,順番がまわってくるしくみだ.「国体護持」の「国体」ではなく,「国民体育大会」というイベントの略語である.
簡単にいえば「大運動会」なのだが,内容が「オリンピック競技」に準じるようになっているから,「国内競技大会」である.「国民運動会」としたら,なにやら政治的な集会のよう,それで「体育大会」としたのだろうか?
地元は,半世紀に一回の「理由」がやってくるから,公共事業ができる,という面もあるようだ.これも,オリンピックに準じているのだろう.
今年は福井県が会場だ.それで,福井の街には,さまざまな槌音がひびいている.

あと二年になった東京オリンピックでは,例によって,世間がわからない政府は,飛行場などにロボットをおいて,世界最先端の国ニッポン,をアピールしたいらしいが,すでにおおくの観光客から,「意外なニッポン」として不便さを指摘されているのが,決済,である.

「いまどき『現金の円』しかつかえない不便な国」

日本は,世界の尖端をいきすぎて,スイカなどの交通系では,処理能力が高すぎるために,外国人がもっているスマホ端末の世界標準にはあわない.

だから,しょうがないじゃいないか.

ならば,せめてもっとクレジットカードがつかえないモノか.
キャッシュレスのはずが,ガラパゴスだったりするのは,やはり交通系しかつかえない「コインロッカー」である.
これが「最新式」なのだ.

JRという会社は,ドメスティックである.
それでいて,駅舎の建設では,あいかわらずポスト・モダンという日本建築学会の言いなりである.
「発注者」としての矜持はないのか?

福井駅の駅前には,恐竜の模型がいくつもあって,それが首を振って唸り声をあげる.
日本一,恐竜の化石をだしているのが福井県だから,福井は恐竜,になったのだろうが,どうしてこうなったのかが不思議である.
あらためて,専門家に「恐竜はほんとうに唸り声をあげていたのか?」と聞いてみたくはなった.

幕末の大秀才,橋本左内を生んだ土地として,恥ずかしくないのか?などと,他県の人間でもおもうから,きっと福井のひとでも駅に行くたびに憂鬱になるひとはいるだろう.

そのJR福井駅は,自動改札ではない.しかし,あたらしい駅舎構内の店舗では交通系の電子決済ができるようになっている.けだし,「交通系」だから,これも国際標準ではない.
改札は,「福井国体にあわせて」自動化される予定と掲示があった.周辺の駅もみな自動化しないと意味がないから,改札の自動化はたいへんな投資になる.

どうして国体開催と自動改札化が一緒になるのか,そのへんの理屈はわからないが,他県の選手をむかえいれる「おもてなし」だという.その理屈で,路面電車の線路も交換されていて,かわりに工事中のいまはバスがはしっている.ついでに,電停の駅名が,「市役所前」から「福井城址大名町」に変更されるらしいが,それも他県からの観光客への「おもてなし」だそうだ.

ああ,なるほど,自動改札化もあくまでも「国内」基準なのだ.
他県の人間がいちいちたてつくわけでもないが,「市役所前」のどこが不都合なのかがわからない.
「市役所前」電停からもっとも近い「市役所」からさらに歩くと,「福井城址」がみえてくる.かつての福井城はいま「県庁」というお城になっている.
立派なお堀に石垣がある.
けれども,白いコンクリートの無粋な県庁が鎮座しているさまは,まさに明治新政府による徳川親藩,それも幕末の名君松平春嶽への当てつけ以外のなにものでもない.
こんな県庁を撤去・移転するくらいの福井県人の根性がほしいものだが,なんとも不思議な発想をなさるものだと感心した.

雪かき

小学校でならう日本の歴史に,律令国家の税制がある.
「租」,「庸」,「調」,あわせて「租庸調」とおぼえれば点数がもらえた.
いまの税制では,基本はお金で納めることになっているが,現金がなければ物納も可能である.
なので,労役である「庸」がない.
あえていえば脱税して有罪が確定すれば「懲役」になるが,行動の自由をうばわれたうえでの「労働」なので,「庸」とはいえまい.また,「懲役」であっても,「給与」はでる.
そんなわけで,現代には「労役」としての「納税」はなくなった.

生活のうえでの公共的労働は,ある意味,現代における「庸」なのかもしれない.

「庸」としての雪かき

雪国なら当然でも,めったに雪のない太平洋側,それも首都圏では,「雪」というだけで事件である.
冬タイヤの装着があたりまえではないから,数センチの雪でも立ち往生する.
年に数回しか降らないものに,タイヤで数万円から10万円ほどの出費はしない.だから,「雪」とわかれば,素人は運転をしない日ときめる.
しかし,玄人は運転しないわけにもいかず,冬タイヤの用意もないからえらいことになる.

むかし,エジプトに住んでいたとき,年に数回しか降らない「雨」で,カイロの都市機能がマヒしたのをおもいだす.
「雨」といっても,車のフロントガラスは,ぼたん雪が付着したようになる.「砂」が混じっているからだ.歩行者は濡れると服がシミになって落ちないので走り出す.もちろん,傘などだれももっていない.「砂」といっても,龍角散のような微細な粒子である.降り出してたった数分で,自動車の運転が困難になる.砂が前方の視界を遮断するからだ.
おおくの自動車には,ワイパーもウォッシャー液も搭載がない.年に数回しか降らないから,ワイパーは必需品ではないし,ウォッシャー液は入れておいても乾燥でカラカラになるから,いざというときにからっぽなのだ.そして,歩道下数十センチの砂に埋設してある電線がショートして,数メートルの火花があちこちで飛び,そのブロックは停電する.電線の被覆がやぶれていても,ふだんの乾燥で漏電しないからわからない.これで,信号も消える.

日本のはなしにもどろう.
日が当たる道なら,すぐに溶けてしまうが,日陰のばあいは凍結するから危険である.
屋根の雪下ろしをするほどの量はないが,雪国では雪下ろしの手伝いで,新参者が仲間として認められると聞く.
むかしは,玄関先から敷地がある道路面は自家の責任としてきれいにした.これは,ふだんの掃き掃除の延長というかんがえだったが,高齢化でこれができなくなったから,路地はまだらになった.若いひとがいるエリアだけがあるきやすい.

商売の刻印にもなった

ふだんから気になる店というのはあるもので,なぜか入店していないが外から垣間見てチェックする,という場所が何軒かある.
そんな店のなかで,自店の店先がみごとなアイスバーンになっているのを発見すると,「雪かきもしないのか」ということをスタートラインに,「『ウエルカム』という意識がない」とかんがえたり,「こんな店に入らなくてよかった」とかと,連想がひろがる.
そもそも.入店も危険だが,店内から出るときが危ない.アルコールをだす店でこれはないだろう.

北側の歩道に面しているから,一週間たってもアイスバーンのままである.「雪」のうちになら排除もできるが,踏み固められて凍ってしまうと,つるはしでけずるしかなかろう.すると,この店の前をとおることが「危険」だから,気づいたひとは反対側の歩道を選んであるくようになる.すでに,それが習慣になったひともいるはずだ.

ようするに,自分の店さきにひとがこないようにしているのだ.
氷雪が溶けても,ひとびとの記憶に刻印される「危険」という警報は,きっと夏になっても消えないだろう.

毎日述べ2キロを清掃する会社

開店前に,従業員総出で近所の清掃に励む会社がある.その距離が2キロ.
「お客様の自社への通り道」だからというのが理由である.

清掃でキレイになるのは,道路だけではない.
従業員たちの精神も,それを毎日みているご近所さんたちの精神も,そして,その活動をしっているお客様の精神もキレイにする.
だから、この会社で売っている商品は,いっさい値引きなしで売れている.
しかも,わざわざ遠くから買いに来るひとがたえない.
この会社で買えば,何年も安心してつかえるから,買った側が「値引きはなくても最後は得」だとおもうのだ.それは,手放すときの「査定額」のちがいにあらわれる.

この会社が売っているのは,わが国の巨大自動車メーカーの乗用車である.
つまり,この会社は「カー・ディーラー」だ.
同型車が何万台も製造されて,国内だけでなく世界に輸出されるものを売っている.
この会社のお客様が買っているのは,自動車なのだが自動車そのものの価値とはちがうものを追加して買っている.これが「付加価値」である.
自動車はメーカーが製造しているが,この会社は「安心」を製造している.

だから,この会社は周辺に歩きにくい「雪」を残さない.

日本はEUに加盟できない

2015年にドイツのメルケル首相が来日したおり,安倍首相に日本のNATO(北大西洋条約機構)加盟を提案したというニュースがあった.もちろん,日本として現状ではこの提案をお断りしたということなのだが,「北大西洋」という地域にはこだわっていないことは確かだろう.それは,西ドイツが加盟した1955年より前の1952年に,地中海の国であるギリシャとトルコが加盟していることからもわかる.もちろん,ドイツも北大西洋に接していない.

ところで,現在のEUのはじまりは1957年に発足したEECであった.
この組織の加盟要件には,「欧州」と地域要件が明記されているから,日本は加盟できないのだが,仮に地域要件をはずしても,日本は加盟できない.
その理由は,政府債務比率要件である.これを,「経済収斂基準」とよぶ.
財政赤字GDP比3%以下、債務残高GDP比60%以下,でなければならないのだ.

日本の数字の実態は,各自お調べいただき,また,じっさいにどうやって政府財政を立て直すかの議論も横において,単純な事実として,日本はEUに加盟できないことだけはしっておこう.蛇足だが,同時代においてもEECの加盟経済要件を日本は満たしたことはないから,今日までもふくめて日本はEECからECそしてEUとなっても一度も加盟条件を満たしたことはない.

あれ?
世界の経済大国ではなかったか?

いまでも,中国の国家統計数値がただしければ,世界第三位のGDPをほこる国なのだが,中国の国家統計というものの評価しだいでは,もしかしたら日本は世界第二位をキープしているかもしれない.
しかし,残念ながら,日本もかなりの張りぼて国家であるということだ.
これは,間違いなく,「政府依存」が原因だろう.

やっと貿易黒字をだしている

かつての「貿易黒字大国」はとっくに過去のはなしである.
中曽根康弘総理が,NHKテレビの特別放送で,国民に「アメリカ製品を買いましょう」と呼びかけたのは,日米貿易摩擦からはっした苦肉の策だった.
石油や鉄鉱石のほとんどを外国から輸入しているのに,製品化して輸出すると儲かってしまう.
これぞ,明治以来の悲願だった「貿易立国」の理想郷だった.
この放送をうけての国民の反応は,「買えと言われても,アメリカ製品で欲しいものがない」というのがおおかただった.

いまや,かつかつの貿易収支になって,赤字になったり黒字になったりしているのが日本のすがたである.
70歳以上の「大人」には,日本の貿易収支がかつかつであるといっても,にわかに信じられないのではないか?

安定しているのは資本収支になった

「経済の成熟化」のもうひとつの顔である.
外国に投資した見返りのお金がやってきて,トータルで黒字になっている.
ていよくいえば,利子で食っているお金持ち,なのである.

人口減少という「縮小」が避けられないから,ほんとうは国内投資ではなくて,外国投資が望ましい時代になっている.
だから,資本収支の黒字をいかに増やすか?というのは,方向として正しい.

超高級ホテルが存在しない国

国民の数は縮むのだが,訪日外国人の数はふえている.
しかし,外国からの直接投資がほとんどない状態だから,訪日客のたいはんはビジネス客ではない.
英国人のデービッド・アトキンソンさんが指摘しているが,なぜか日本国政府は「人数」にこだわった目標をたてている.これに「単価」も目標にくわえれば,数量×単価=売上,という公式になるが,不思議と「人数」が前面に出ている.

どうやら,低単価なのを人数でかせごう,というかんがえのようだ.
首相を頂点とする日本政府の最重点課題は,「生産性向上」というのが,いかにあやしいものかがわかる.
おなじ人数なら,高単価のほうが生産性は高くなる.
こういう算数ができないのが,平等主義に凝り固まった役人の限界である.その役人がひきいる政府に民間が依存しているから,生産性向上をかんがえるのも政府の仕事になった.もはや「高級官僚」という八百万神を拝むしかない宗教国家に堕落した.
観光政策の政府委員として,アトキンソンさんの活躍に期待したい.

知らないうちに「スタンダード」になるのを,「デファクトスタンダード」というようになった.
パソコンのOSが,ウィンドウズで世界統一されたのが典型例である.
いま,世界の宿泊施設で,デファクトスタンダードとなっているのは,一泊$40,000以上の宿を「超高級」というカテゴリー分けしていることだろう.

わがくにに,「超高級ホテル」は一軒もない,という事実は知っておいてよい.
わたしの古巣の帝国ホテルでも,最高級の客室は$10,000ほどだから,世界標準の1/4でしかない.
ちなみに,世界一の超高級ホテルは,スイスにあって,一泊$100,000である.
生産性は,単純比較で10倍のちがいになるから,日本のサービス業の生産性が低いのは,こんなところから議論すべきだろう.

加入できないなら行けばいい

世界水準のお金持ちが,日本にほとんどいない,ということが,日本に超高級ホテルがない理由でもあるのだが,これは世界水準のお金持ちが日本にきても泊まるところがない,ということでもある.だから、こない.

ならば,ちょうどよさそうな国に行けばいい.
わたしのお勧めは,欧州でもいまだに未開の旧東欧圏である.
忘れてはならないのは,これらの国はみなEU加盟国であるから,政府債務に関しては,あきらかにわが国よりも先進国である.
「おもてなし」の輸出である.

おひとりさま食堂

「少子」をざっくりいえば,結婚しない,子どもがいない夫婦,あるいは「ひとりっ子」を意味する.成人のほとんどが結婚して,三人兄弟がふつうだったら,「少子」でもないし人口は「増加」する.

子どもがいても,ひとりっ子なら,将来は,「いとこ」も「またいとこ」もできない.
ひとりっ子どうしが結婚して子どもがいないと,高齢化して,「連れ合い」のどちらかが先立てば,生涯孤独の存在になる.

だから、高度医療であろうがなかろうが,だれかにみとられて「畳の上」で人生をとじることは,もはや贅沢のきわみかもしれない.
そういった,シチュエーションが,「ふつう」ではないからだ.

すでに,夕方の住宅地の食堂は,おひとりさまが目立っている.
年金や自治体の補助に,地元食堂での食事券という選択肢も将来できるかもしれない.

「夕食年間契約」の店もある.きいたら30万円/年,だった.
週末と祝日を考慮して,年間250日とすれば,1食は,1,200円になる.
豪華さ,ではなく,栄養をかんがえたお袋の「家庭料理」が売りだという.
お客さんの好き嫌いを「無視」するところも,お袋らしい.「好きなもの」ばかりでは,身体に悪いという愛情表現だ.

「在宅勤務」もふえてきたから,現役おひとりさまの自宅でのひるごはん需要もおおいだろう.
じつは,在宅勤務のお悩みごとに,運動不足がある.
それで,夜間,配送などのちょっとした肉体労働が受けている.
むりやり運動できるからだ.

こうしたひとの日中は,多少寝ていても問題ないが,とにかく連絡事項などに対応するためにパソコンのまえからぬけられない.それで,買いものも面倒になると,宅配弁当というお手軽さがまっている.
こんな生活をしていると,確実に肥るから,なんとかしたくなるのだ.

あくまでも,運動ではなく,弁当のほうでコントロールしたいのなら,カロリー計算がちゃんとできている弁当がある.
糖尿病や腎臓病の患者向け冷凍弁当は,病院からの退院時に栄養士から紹介されるひともいるだろう.

健康維持のための食堂がほとんどない

「病気」が他人にもれるのは気分のいいものではない.
それでか,外食の機会がおおい「現役」も,なかなか決め手にかけるのが昼食の選択である.
持病があっても「気にしない」ようにしないと,外食はできない.

「健康」と看板に書いているお店もあるが,入店してメニューを見たらなにが健康なのかがわからないことがある.
カロリー表示はずいぶんまえからある.さすがに1,000キロカロリーを超えると手がでないが,これが平均かと思うようなメニューで,ふつうに営業している店があるから,「健康」はうらやましくもある.きっと,オーナーが「健康」なのだろう.

いまはやりの糖質制限食とかを前面にうちだすのはよいが,健康なひとから病人食だと勘違いされるとこれも困る.
さりげなく,わかるひとにはわかる,そんな表記がないものか?
すくなくても,「安くてお腹いっぱい」という要求ではなくなってきている.

手間を食べる

手間ひまかけたり,ひと手間くわえたり,およそ「美味しいもの」には手間がかかっているから,食べる側は食材のほかに,手間を食べている.
だから、「美味しいものを食べさせたい」となれば,手間をかけなければならない.

「働き方改革」による「生産性向上」を柱にうちたてた首相も,「美味しいもの」を食べるなら,それは手間がかかっているから,しっかりした単価のお店に行かねばならない.もちろん,一国の首相がいく店だから,相応の単価だろうが,「生産性向上」なのだから,もっと支払うことで単価をあげて,国民に範をみせなければならない.

日本料理が世界遺産になったとよろこんでいるが,職人の育て方が従来どおりのままだと,作り手が減るから,需要と供給の原則から,おそろしく高価な料理になるかもしれない.それがねらいなら,なかなか遠大な作戦である.しかし,「日本料理界」に指示命令系統はないだろうから,なんとなく上記の「目標」が達成されることだろう.
「生産性向上」に間違いなくなる原因が,「なんとなく」であることになる.

どうして,日本料理の職人のかずが減るとかんがえるかは簡単である.
もう,西洋料理では調理師学校でも若くして「オーナーシェフ」になるためのプログラムがはじまっている,ということをこのブログでも書いた.
料理人の目標は,洋の東西をとわず「一国一城の主」になることだから,文系で勤め人になって,あわよくば役員に出世できれば,というものとはまったくちがう.

たとえば,「見習い」という,文字どおり下働きをしながら先輩たちの仕事を見て習う,という期間が最低3年と聞いただけで,最初から選択肢からはずれる.
高校の「調理科」は,「工業科」や「農業科」とくらべて全国的にみても圧倒的にすくないが,大人気という理由は,料理の基礎を3年で習得できて,さらに「高校卒業」資格までもらえるからだ.しかし,あんがい注目されていないが,「調理科」では,「経営」まで教えている.もっとつっこんで,従業員のつかいかたもあればよいとおもう.ただし,それでは三年間ではたりないかもしれない.

以前,公立の高等専門学校の先生に,「専門」なのはいいが,「マネジメント教育」が抜けているのは残念だとはなしたら,「校長」に進言したいと仰った.実現していないから,まことに残念だ.
どんな分野でも,専門性を追求して成功すれば,だいたい組織の長になる.べつに「マネジメント教育」は,上司のためだけのものではないが,「人間作り」では不可欠だ.

「工業高校」や「農業高校」,「商業高校」などの実業教育でも,「マネジメント教育」が欠如してるようにみえるのは,教職員も教育委員会という役所も,実務経験者がいないからだ.
どうやったら稲や野菜が育つかは,たしかに重要だが,どうやったら「売れる」のかや,「儲かる」のかということが欠如しては,実業教育として「手抜き」である.
まるで農協依存になるようにさせているようで,始末の悪い大人たちではないか.

少子の時代,教育における重要ポイントは多様性の確保ではないか?
つまり,もっと「進学」における選択肢拡大の重要性である.
たとえば,中学校から技術系が選択できてもよいし,それでいながら高校で合流できるのもありだ.
日本人は,いちど進路を分岐させると,そのまま合流しない一直線をイメージするが,からみあって結構,という仕組みがあっていい.

まもなく,国立大学でさえも統廃合の時代がやってくる.
すでに,文科省は一校ずつだった国立大学法人の複数校化をゆるす方針をうちだしている.つまり,「国立大学」といえども単独では維持できず「事実上の倒産」を認めるようになった.

このながれは,国立高等専門学校でも避けられない.
わがくにの教育制度上,ほとんど唯一の「『天才』教育機関」だが,「理系特化」という特徴がある.

「味覚」は個人の持って生まれた感覚のひとつとしられている.十歳の男子がもつ「味覚」がもっとも敏感だということもさまざまな実験からしられている.
かつて,わがくにをを代表する料理人は,小学校時代から丁稚奉公で当時の一流料理屋に勤めていた.このときの「つまみ食い」が,生涯をもって忘れなかった「味」ではなかったかとすれば,辻褄があう.

すると,「国立『料理』高等専門学校」設立,という手間をかけることの意味はおおきい.

デパ地下の実力は西高東低?

「天下の台所」の元気が,いつの間にか「東京」に完敗しているかにみえる.
「戦後の時代」も,新任の大蔵大臣は,かならず関西経済界に挨拶に出向いたものだった.
それが,全国均一化という名分での東京偏重から,いつしか大蔵大臣が財務大臣へと名称までかわった.

しかし,その「東京偏重」は,税収における,という意味であって,人口が減少しだしてようやく首都圏も「交通網」の整備がはじまった.
地方は不便なままでいいといいたいのではない.
地方自治という建前が,じっさいは中央集権だという,ダブルスタンダードが通じなくなったということをいいたいのだ.
「コンパクト・シティ」とは,地方都市のことではなく,東京一極集中のことである.「効率」という観点からするれば,ほかに選択肢はない.

中央政府や地方政府ともに,この国の堕落は政治にあるから,その実権は役人という実務家に奪われて久しい.
政治の堕落とは,有権者の堕落をいう.

法治国家の「法治」の意味をかんがえると,人工頭脳による「行政」が望ましい.
だから,外資系のコンサルタント会社は,将来,人工頭脳にとってかわられてなくなる職業に,「公務員」をあげている.「法」が明文化されているものだけから成り立つならそのとおりだが,どっこい「慣習法」という強力な壁がある.
この「慣習法」というのは,一般人のくらしの基準でもあるから,うっかり人工頭脳にまかせてよいものか,おおきな疑問もある.

生身の役人か,人工頭脳か?
簡単に軍配があげられるものでない.

そんな庶民の贅沢は,デパートの地下空間にひろがっている.
もちろん,デパートという商売は,見た目とっくに不動産事業になっていて,自分で仕入れた商品などほとんどない.売れそうな店を誘致するのがデパートの腕前になった.
専門業者が,最低保証家賃と売上歩合家賃とでなりたつ賃貸借契約事業になっている.
だから,いかにすくない面積で,いかにおおくを売り上げるか?は,デパートの社員がかんがえることではなく,入居した専門業者がかんがえることになっている.

ここに,「商魂」という精神があらわれる.

ここにしかない,というキーワード

「ついで買い」のためにも「ここにしかない」は重要だ.
「食品工業」という分野でも,少品種大量生産から多品種へという変化が必要だが,これに「発明」がくわわると,「ここにしかない」の素地ができる.

関西のデパートには「漬物」のフリーズ・ドライがある.
爆発的な売れ行きで,生産が間に合わないから関東に進出できないらしい.
いまどきの通販なら購入できるが,あんがい送料がはる.
それで,「せっかくきたし,軽いから」と,大量買いするようになっている.

こんな「業者」が,競う関西のデパ地下は,関東とはグレードがちがう.

香の薫りのする街

パリミュゼットが商店街の有線放送で流れていたり,建築の不統一はあたりまえ,どこまでが生活で,どこまでが観光なのか境界線が不鮮明なのが「京都」である.
生活の場であったはずの錦市場も,中国語が話せる店員がいたり,片言であろうがなかろうが,生活のために英語で接客する女将さんの姿は生活そのもの,という混沌である.

アジア系のお客さんは,日本的小物の店に引きつけられ,欧米系のお客さんは,刃物や雑貨でもかなり伝統的な専門のお店に引きつけられるようである.
しかし,「乾物」では逆転し,干し貝柱や干しなまこといった「高級品」にめを向けるのは中華系の女性たちで,欧米人の興味とはことなるのがおもしろい.

縮こまってしまった貝柱も,たったこれだけ?,という数で数千円からという値段だが,この値札に敏感なのは中華系に間違いない.一晩以上かけて戻すと,どういう味と食感になるか,そもそも,それがどんな料理の食材なのかをしらないと,反応のしようがない.
だから、「乾物」というジャンルは,相応のマニアックさがなければならないものだ.

ここ数年で,ヨーロッパ人も「UMAMI(うまみ)」という味覚の発見があって,おおきなスーパーマーケットには,「UMAMI」コーナーの案内板がある.ここでの取扱は,まったくもってわれわれがしる「乾物」がならぶ.もちろん,あの「味◯素」も人気商品である.
昆布がその代表だが,鰹節は,発がん物質(いぶしたときのタールとカビ)含有という「科学的根拠」をもって,EUは輸入禁止という措置をとっている.それで,日本の鰹節業界は,フランスに鰹節工場をつくり,対抗しているから,日本もまんざらすてたものではない.

インターネットの普及というけれど,それはYouTubeのような「動画」が無料で観ることができ,投稿もかんたんだから,その情報量と説得力は書類の時代からおおきく変化して本物になった.
ここで,昆布だしのとりかたや鰹節からかつおだしのとりかたが多数あるので,あんがいインスタント慣れしてしまった日本人の方が,ちゃんとしただしのとりかたをしらないかも知れない.

鰹節削り器といえば,むかしはどの家にもあった必需品だったが,いまどのくらいの普及率なのだろうか?
朝起きたら,鰹節を削らされたのは子どもの仕事だった.その横で,母親はみそ汁の具材を切っていた.
それで,だしの薫りがしてきたら,朝ごはんのはじまりである.

こんな,暮らしの風景が,ヨーロッパで普及しているかとおもうと,湯快である.

さて,そんな国々で,香の薫りは教会での儀式を筆頭に,アロマを家で楽しむ文化はあっても,街をあるいていて,ところどころで「伽羅」や「白檀」の薫りがする街は,京都以外におもいつかない.
全国に「小京都」とか「古都」を自称する街はたくさんあれど,「薫り」をもっているところがあるのか?とかんがえると,ほかにしらない.

とかく建物をつくるのに熱心な,ふつうの「観光開発」でできないのが,街の住人の習慣として「香を焚く」,ことだろう.命令でやれるものではない.

こんなところに,京都の魅力があるのだ.
やれるものならやってみなはれ,といわれているような気がするのは,いけず,というものか.

外国進出という生存策

歴史や文化の消費は,むかしからおこなわれてきた.
ふつうの物質的商品であれば,消費は資源の減少をともなうけれど,消費の対象が歴史や文化のばあいは,かえって活性化させるから,これらを含む観光が振興するのはよいことである.

一方で,消費のしかたを誤ると,伝統的なものでもいっそうの困難を生むことがある.
たとえば,割り箸である.「箸」という食器をつかうのは,東アジア文化圏独特のものだろう.国によってさまざまな材質の「箸」がつかわれる.たいへんな贅沢品は,象牙製のものだろう.金属製のものもある.
使いやすさという点では,木製のものが軽くて持ちやすい.これに,加工をほどこして,繊細なものまで容易につかめるようにするのは職人技のたまものである.

割り箸ができたのは江戸時代のようだから,これも日本人の発明品だろう.
間伐材からつくるから,国産の割り箸は消耗品でありながら,森林資源の保全に役立っていた.これを,外国産も含めて,森林破壊,といったから,プラスチック製が主流になっただけでなく,国産割り箸も販売があやしくなった.それで,各地の林業家がさらに収入源をうしなった.

かんがえ方が違う方向にいくと,おもわぬところでとばっちりを受けることがある.

これを裏返すと,ビジネスチャンスを失ってしまうことがある.

温泉旅館の輸出

日本人ならだれでもしっている「旅館」が,どんどん減っている.
年間にして,1,000軒というペースでの減少である.
この穴を,ビジネスホテルが増えておぎなっている.今年から,民泊が加わる.

国内での成長に限界をみたら,外国に進出する,というのがだいたいのビジネスでやっている.
たとえば,自由化競争によって国内を負われたAT&Tという電話会社がある.電話を発明したグラハム・ベルゆかりの巨大会社が,アジアや南米に進出したのは,30年前になる.これにならって,NTTも東南アジアに進出して,電話局を日本方式の「規格」にした.いま,鉄道などのインフラ輸出が語られる時代になって,鉄道だけでなく私鉄が得意な沿線開発という手法も輸出している.

日本のビジネスホテルチェーンも海外進出をはじめたが,「旅館」の事例はすくない.

温浴施設なら,中国でも店舗の商標問題があるほどだが,日本からの進出ではなく,業態を真似られた事例だ.

なぜ,旅館は海外に進出しないのか?
おそらく,ビジネスモデルを説明できないことがあるのではないか?
確固たる,自社のビジネスモデルを他人,しかも外国人に説明して理解を得ることができない.この「理解」には,投資家も含む.
すると,国内の投資家は,ビジネスモデルを理解しているのだろうか?
この「投資家」とは,銀行のことである.

銀行は,みずからの生き残りをかけた大リストラに取り組まざるをえなくなった.
日銀の低(マイナス)金利政策によって,本業である貸出業務での利益がとれない.それで,このところ各種手数料の値上げがつづいている.資金はあっても,貸したい貸出先がない.貸し剥がしたい貸出先に,旅館がある.

以上をうけて,「事業継承」という名目で,旅館の売買がさかんになるだろう.
その売買方式も,不動産売買ではなく,運営権にまつわるものになる可能性がある.
つまり,家賃方式とか運営委託とかだ.
はた目には「事業継承」だから、営業はつづく.

しかし,こうした方法は,海外進出のばあいもおなじだろう.
オーナーから,旅館経営をまかせられるのだ.

では,ちがいはないか?
「事業継承」なら,他人がビジネスモデルを練り直すことだ.

自社のビジネスモデル(事業コンセプト)を,みずから語れるか,語れないかのちがいのことなのだ.

世界100カ国以上で売れている日本酒

福井県鯖江にある,「梵」という銘柄の日本酒は,ビジネスモデルとしての「味」をつくって成功している.
その「味」とは,濃厚な料理に対抗できるものだ.クリームやチーズ,オリーブオイルなど,とかく洋風料理は濃厚である.これと対等をはれる日本酒というのは,めったにないから「オリジナル」になる.

なにも,日本旅館を洋風にせよ,といいたいのではない.
どこに,「オリジナル」を求め,それを追いかけるのか?をいいたいのだ.