東京から電車で30分.
大阪と京都をJRの新快速で移動するのとほぼおなじ時間距離である.
神奈川県と東京は多摩川をはさんでいるが,あいだに川崎市があるので,横浜人は鶴見川の先は別だとかんがえている.(鶴見川の東京寄りにも「横浜市鶴見区」はあるが)
さいきんは,駅前が工場だった川崎が,その工場跡地の再開発で元気だ.
JR横浜駅は,地元では「サグラダ・ファミリア状態」とよばれるほどに,長く工事をしている.
わたしがこどものときからはじまった工事は,とうとう駅ビルと隣のホテルを解体して,高層建築にするらしいが,その完成は2030年というから,広い構内のまたどこかで工事がはじまるのではないか?混沌はつづく.
それで,乗車すれば10分もかからない川崎にむかうひとがいる.
公式発表された昨年(2017年)の人口は,373万人で日本最大の自治体が横浜市である.
「港町横浜」とか「国際都市横浜」と市役所などは自画自賛するけれど,港の機能はひとの移動ではなく物流が主体で,その物流はこの五十年でコンテナが中心になった.
横浜駅からみなとみらい地区を通過して,山下公園までの「ベイエリア」には,めったにこない客船の桟橋があるくらいで,「港」はないが,なぜか有名な観光エリアになっている.
大桟橋のほかに,新港埠頭にも客船ターミナルをつくるそうだから,入出国関連は不効率になる.
もっとも,世界最大級の客船は,ベイブリッジをくぐれないから,かつては米軍専用だった大黒ふ頭に接岸する.ここは,いまでも貨物専用だから,客船用の乗降場を市が建設するという.
ベイブリッジの計画時,専門家はいまの高さで世界最大級の客船はこぐれる,と結論して建設された.かくも,専門家など役に立たない.
最大級の客船には,およそ4,000人以上の乗客がいるはずだから,バス100台以上をしたてて,大桟橋の入国審査までやってくる.そこから,東京,日光,箱根といった観光地に向かうから,横浜市内を観光する乗客はいない.市は役人も議員も,これがくやしいという.
山下公園のさきにある山下埠頭から本牧にかけてが,本当の横浜港で,コンテナのためのキリンのようなガントリー・クレーンが林立している.コンテナの形状は国際規格だから,それをあつかうガントリー・クレーンも国際規格である.だから、ほんとうはぜんぜんめずらしくない.世界中のどこへいっても,コンテナ船がやってくるならガントリー・クレーンがなければ出し入れができない.
その港の機能がたっぷり楽しめるのが,本牧ふ頭D突堤の尖端にいちする「横浜港シンボルタワー」である.ベイブリッジからもみえる.
外観は,古墳時代の円墳のようだが,まんなかに灯台風の塔がたっている.
内部はらせん階段だから,げんきなひとでないと展望スペースまでは苦労するだろう.
ここで,日本人の「観光」にたいする特性が学習できる.
展望できる先はどこかという解説があるくらいで,あとは勝手にみろ,という殺風景である.
眼下にひろがるコンテナヤードで,巨大なコンテとそれを輸送するトレーラー,そしてなによりもこのコンテナを移動させるための特殊機器が,じつにせせこましく動き回っているのだ.
これらの解説が一切ない.この不親切さは特筆に値する.
タワーという建造物を建てたら,もう興味がない.
このやりっぱなし感が,全国の観光地の共通点である.
いったい,ここでなにをみて欲しいのか?なにを見せたいのか?というテーマ性が欠如しているのだ.
このことが理解できないで,客船の乗客が市内を観光してくれないとくやしがっても,見向きもされないだろう.
それで,駐車場をはさんで向こう側にある「休憩所」も,いかにも公共施設という風情で,テーブルやイスにおいても,まったくウェルカム感がない.「売店」も,なにを売っているのか?販売員すら興味があるとはおもえない.
昨年訪問した,ポーランドのグダンスク中心部からでている路線バスで40分も乗った先の終点は,バルト海からの艦砲射撃ではじまった第二次世界大戦勃発地で,広大な公園に記念塔がある.旧社会主義国の「休憩所」と横浜港シンボルタワーの「休憩所」の雰囲気が似ていたのが印象的だった.
かつての横浜を代表する目抜き通りの伊勢佐木町商店街も,いまではすっかり寂れてしまった.
ハマッコは,わざわざ東京の銀座に行く必要がないとおもっていたのだ.
伊勢佐木町と元町で,買いものの物欲はじゅうぶんに充たされていたし,もしろ東京よりもいちはやく舶来のいぶきを感じることができた.
東京なにするものぞ,だった.
それにはちゃんと根拠があって,日本を代表する会社の本社は横浜にあったのだ.
とくに貿易関係の老舗は,明治のむかしから横浜に本社があるときまっていた.
それが,「港町」の本領であるし,だからこその購買力だった.
ところが,飛鳥田という社会党の党首になるひとが市長のときに,法人住民税をいじくった.
これで,あっという間に東京への本社移転ブームがおきた.
さいわいなことに,その東京につとめるひとのベッドタウンとして,横浜市の人口は増えたから,本社があろうがなかろうが,税収は安定したのだ.
こうして,おおいなる田舎としての位置づけがきまった.だから,みなとみらいは,表玄関だけを整備するというつまらないことになった.そこにあるのは,「ポスト・モダン」という「みらい」設定だから,無機質なガラスの建物群だけがそびえたつ.これは,いまどきの開発途上国の都市設計とおなじである.気がつけば,横浜は典型的な途上国と同格になっていた.
伊勢佐木町は,いまではアジア系のひとたちが目立つ「国際」ぶりだ.
もう,米軍の兵隊さんも,貿易商のビジネスマンも,横浜ではめったにみかけなくなった.
どこからみても,観光客とはおもえない生活感でオーラがでているひとたちが,どうみても学校に通っているとはおもえない子どもをつれて,大声で中国語をはなしながら道路のまんなかを闊歩している.もちろん子どもも日本語をはなさない.
その伊勢佐木町から,JR線をはさんで反対側にある横浜市役所が,いまの場所から移転して桜木町駅に高層ビル化するという.
いまの市役所は,昭和34年に完成したが,設計はあの日本を代表する建築家・文化勲章受章者の,村野藤吾である.東京では日生劇場,帝国ホテル本館内茶室などがある.それで,建築学会が保存の要望書をだして,市も保存をきめたという.どんな「保存」をするのだろうか?
昭和34年というほぼ60年前には,横浜市の行政機能はこの建物に収まっていたことを意味する.
あたらしい市庁舎は,例によって例のごとくガラス張りの「近代的超高層建築」だろうから,60年先までもつか知らないが,人口減少で行政も縮小を余儀なくされたら,「保存」した現庁舎がちょうどいいサイズになっているかもしれない.
そのときの住人たちが,用なしになったガラス張りの建物をどう始末するのだろうか?建築学会が「保存」を要望するような建築なのかはしらない.
それよりも,街のそこかしこに建造・運用されている,公共のエレベーターやエスカレーターが,いつまで動くのだろうと心配する.メンテナンス費用がつきたとき,まちがいなく放置される運命だろう.それはもう,西ヨーロッパ先進国でおきている.電気代がはらえない交通信号も間引きされるだろうが,これは放置されると勘違いしてあぶないから,ちゃんとなくしてほしい.
残念ながら,行政の関係者は議員もふくめ,まだ人口が増えるモデルをつづけている.
いや,もしかしたら,パーキンソンの法則にはまっているのかも,とおもわれる.
じっさいに,まだやっている「みなとみらいの再開発」では,どんどん新しいビルがたつ予定になっている.
しかし,いけばわかるが,ほとんど魅力のない街が,新しいというだけで観光地化しているようだ.
「横浜ならでは」というものがないのだ.
だから,泳ぎつづけないと死んでしまうまぐろのようなもので,ずーっと「再開発」をしないといけないモデルになってしまった.これは,一歩まちがうとスラム化するきけんがある.
もったいないし愚かなことである.
発展とはなにか?を哲学しなかったつけが,巨大なブーメランでかえってくるだろう.