犬の躾といってもさまざまなやり方があるらしい.いろいろと調べてみると,たいへん納得できる方法と,「芸」と同レベルの方法まである.
ここでは,わたしが納得した方法をイメージしながらコメントしたい.
「人間」とは,教養あるひとを指す
ひとが犬を飼うということの歴史は,たいへん古い.まさに,太古の時代からであったろう.
しかし,犬の飼い方や犬の躾についての情報が「商品」となったのはいつからであろうか?
案外,最近のことではないかと疑っている.
長い時間,犬の役割は猟犬や番犬だった.
それが,いまでは家庭犬という愛玩を目的として,人間の子どもの数よりも多くなったからだ.
屋外で過ごす猟犬や番犬と,屋内で過ごす家庭犬では,飼育目的がちがうから,育て方もことなることになる.
その日本では,子どもに対する「躾」がたいへん重要視されてきた.
そもそも,「躾」という漢字自体が,武家から発生した国字だという.
分かりやすい構造の文字だ.
この文字から想像すると,しつけられずに自然児として育ったものは,人間ではないという区別があったのだろう.
これは武家に限ったことではない.身分社会だったのだから,その身分それぞれに応じた「躾」がなされなければ生きていけない.
百姓が武士の躾を受けても,武士が百姓の躾を受けても,その本人は不幸になるからあり得ない.
つまり,「躾」とは,社会化教育のことであって,それは教養の基礎をなしたのだと理解できる.
舶来の『社会契約論』で有名なジャン・ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』に日本人が違和感をもつのは,武家の伝統があるからではなく,不幸を生み出す狂気があるからだろう.
ルソーは,自身の子どもを真冬の路上に放置して死なせている.
「この子が生きる自然の力があるか」を確認するためだというが,それで5人が犠牲になっている.
ルソーの『エミール』が,教員育成の必読書としてたてまつられているのはわが国だけだとおもう.日本の教育界の特殊性のはじまりは,こんなところにもあるかもしれない.
犬の躾ができないひとたち
いま「小津映画」という名作の数々を観ていてわかるのは,戦後すぐの時代にあって,ふつうの人たちが生活している姿に対する不思議な感覚である.
それは,立ち居振る舞いの所作や,言葉遣いが,たいへん美しいのである.
これらの作品に出演しているのは,ほぼ全員が明治・大正生まれなのだ.
「団塊の世代」(昭和22年~24年生まれ)は,いわゆる小津作品ができるころに生まれている.
だから,団塊の世代のおおくは,小津作品中のおとなたちに躾されたことだろう.
ところが,この世代が成人する頃からだんだんに意識が薄まるのだ.
それは,核家族化や都市化などといった生活環境の激変と,「合理的」という名の「安直さ」の追求が背景にあったのだろう.
いつの間にか,「他人の迷惑にならなければなにをしてもいい」という風潮がうまれる.
「躾」という字の意味する,おのれから発する美しさ,とはことなる,他人からの評価という概念になるのだ.
小津世代の大人たちは顔をしかめたが,70年代の青春を謳歌した世代が従う理由がなくなっていた.
そして,人間の躾が困難になったいま,犬の躾ができない人々が大量発生しているのだ.
にもかかわらず,事故が少ないのは,幸いにも家庭犬として人気があるのは小型犬ばかりだから,飼い主以外の他人に危害が及ばずにすんでいるからだろう.
けだし,飼い主の怪我は絶えないことだろうが.
また,殺処分数は近年は10年前の1/5程度に減少して(昨年度で犬1万,猫1万5千:環境省)いるものの,引取制度が変更されたことで発生している,引取業者による劣悪環境下での飼い殺し問題も含めると,実態はわかりにくい.
ドイツ,スイス,オランダは,「0」であるから,国際的には恥ずかしい状態であることにかわりはない.
社内教育の放棄が意味するもの
新入社員を教育するのは,企業としては常識だった時代があった.
躾教育も,ある意味,企業内研修ですませていた.
ところが,企業にそんな余裕がなくなってきた.教育経費や時間コストの負担だけが理由ではないだろう.
犬の躾ができないのだ.
パワハラの発生背景に,躾問題が見えかくれする.もちろん,パワハラを肯定しているのではない.本来の躾の意味が「社会化」だったことを思いだすと,その「社会化」が不完全な人間が身体だけ大人になっているということである.
犬の躾も「社会化」を前提としている.
現代社会で生きる犬すら,人間社会のルールを学ばないと不幸になる.
犬は群れの序列をつくる習性があるから,人間がリーダーであると認識すれば,あとは人間の命にしたがう.
だから,犬の躾のポイントは,飼い主である人間をリーダーとして認めさせることにつきる.
ところが,その犬も,暴力による方法では従わない.
リーダーを尊敬する心を育まなくてはならないのだ.
いまいる企業人は,後輩から尊敬を得ることができるだろうか?
また,それを奨励する経営をしているだろうか?
「職業人生を預かる」という感覚
「不確実性の時代」といわれて久しい.
前ぶれもなしに突然,株式市場が大暴落したり,天変地異があったり,はたまた交通事故があったり,まさにこの世は一寸先も闇なのだが,21世紀のわが国では「確実」なことがひとつある.
それは,若年層の激減と人口減少である.
前回2015年の国勢調査で,5年前の2010年の調査から約100万人の減少が確認されたし,いま生きている女性人口からの出生推計では,7年後の24年には2015年比で390万人の減少が予想されている.
これは,自治体最大の横浜市の2017年人口373万人を上回るのだ.
昨年,2016年には出生数が100万人を割り込んだから,あと20年でこの子たちの企業における争奪戦が起きるだろう.
つまり,いまいる従業員の満足度を高めないと,すでに起きている人手不足どころではない事態が確実にやってくるのだ.
それは,原点にかえって,企業は他人の職業人生を預かっている,という感覚で経営しないと,次世代の人材から見放されてしまうことになって,残念ながら企業活動の終わりを意味するのだ.
この不足分を,移民やAIで本気で乗りきることができるか?という問いでもある.
あなたは,犬を躾けることができるだろうか?
犬の躾ができなくて,人間の人生を預かれるだろうか?