参政党政権樹立のための愚策連発

世論調査というものが、基本的にはウソでできていることをしれば、いちいち反応するのもバカバカしいのだが、そのウソの背景を勘ぐることでみえてくる「意図」というものもあるはずだ。

ウソとはそういうものだからである。

まちがった統計調査の、近年における傑作は、文科省が発表した「朝食を食べると頭がよくなる」というキャッチをつくって、各方面に張り出したことだった。

これは、成績優秀な生徒が朝食をきちんと食べている、という全国での学校調査の結果から、「因果律」をわざと逆転させたものであるから、統計的にはやってはいけないことの典型として有名になったのである。

しかも、統計を30年ぶりに授業に復活させる文科省がしでかしたので、話題になった。

いわゆる「先進国」、正確には当時のOECD加盟国で、わが国だけ、が統計を子供に教えない「ゆとり教育」をやっていたのである。

その期間が一世代まんま30年間にも及んだので、現在のわが国における「中堅」は、基本的に統計をしらない世界的な愚民となっている。
だが、それもこれも「国=文部省」がつくりだした愚民化なので、国民は被害者なのである。

しかしながら、文部省だろうが文科省だろうが、トップは「自・公・立憲」政権の政治家たちだったから、大臣、副大臣、政務官というひとだけでなく、彼らに党内決定の指示を出す、たとえば自民党の「文教族」なる議員団こそが「真の犯人」といえる。

7月の参議院通常選挙における「総括」が、9月にならないとできない、という自民党の劣化は、結党以来「終末的」ともおもわれる状態になっている。
そうかんがえると、むかしの「角福戦争」とかをやっていた自民党は、まだエネルギッシュだった。

あたかも赤色巨星が、自分の重力で球体の内側に崩壊をはじめて、最期は「超新星爆発」して宇宙にあたらしい星やらの材料をぶちまけるように、いまや自民党はその自己崩壊過程に入り込んだのではないか?

一応国政選挙である参議院通常選挙を終えたとたんに、各党の「支持率」は下がりはじめたのは、選挙の熱量が発散したからだという分析がもっぱらだけど、唯一、参政党の支持率は上昇をとめずにいまだに伸びているという珍しい現象があるそうな。

つまり、主たるエネルギー源は「既存野党」が提供しているし、また、「無党派層」から参政党への乗換も、ぜんぜんとまらないのである。

それでもって、参政党が野党第一党の位置につけた、という報道がされている。

しかしながら、この期に及んでもまだ、自民党の支持率の約半分という状況なのである。
もちろん、自民党の支持率凋落は、劇的なのではあるけれど、もとからが高かったので「踏ん張っている」かにもみえるが、実態は上に書いた「超新星爆発」の直前状態であろう。

そこにきての、アフリカ人のふるさとやら、メガソーラーやらでのカネの有力議員への流れとかといった国内問題と、トランプ政権2.0による関税と巨額投資の強要とで、内閣が存続している理由も定かではないなかで、妙な安定があるような錯覚にみえるのが石破政権という末期状態である。

石破氏がアフリカのことを無視して、こんどはインドから50万人を受け入れるといったのは、安易な移民に反対する参政党への強権的な嫌がらせにしかみえない視野の狭さを感じるのは、どうやら日本国民の多数となる状況を自分からつくりだしている。

まるで、平家にあらずんば人に非ず、なのである。

参議院通常選挙中にも終わった直後にも、参政党の神谷代表は、次期衆議院選挙には100人を擁立すると発言していたが、じっさいに何人になるかは不明である。
ときに参政党は、衆議院小選挙区の289のうち、すでに287支部を設立しているのは、結党僅か5年にしてのマネジメント成果なのである。

これから、選挙区では最大287人が、また、比例区での票をえるための「撒き餌」としての選挙区を参議院通常選挙での得票とあわせて考慮すると、比例区だけで30~50議席という驚異的な数となるのである。

神谷氏はまた、今後の予測として、議員になりたいひとが参政党に集まってくる、と言いつつも、党員投票で候補者をきめるシステムが参政党にあるので、かんたんに「元職」だからといって立候補できずに、党員からの厳しい吟味の対象になるのが耐えられないひとがでてくる可能性もある、としっかり党内システム設計のポイントについて語っている。

ちなみに、参政党は三代さかのぼっての戸籍提出義務たる「国籍条項」がある、日本人しか立候補できない唯一の公党なのである。

そんなわけで、参政党の常識が浸透すると、都合が悪い公党ばかりだというのも、有権者にバレだした。
その自爆行為が共産党に起きたし、自民党ですら、政策をやればやるほど参政党に支持が集まるようになっている。

つまり、「善政競争」で、参政党が独り勝ちしているのである。

公明党と共産党が高齢化で衰退しているという「説」よりも、よほど重い衰退の原因は、ブラックホールのような自民党に呑み込まれて、巨大自民党の「派閥」に堕ちたからである。
その自民党が、自滅の道を辿っているから、残るのは参政党だけになるというのは、もはや物理法則である。

「参政党政権」について倉山満氏が言及し、これを受けて、前参議院議員の浜田聡氏が拡散していることも言い添えておく。

ようは、「相似形」を見破ることができるのか?という数学的な問題を国民が解く番になっているのである。

アフリカのふるさとは誤解なのか?

先日触れた、アフリカのふるさと(創生)が、なんだかわからない状況になっている。

JICA(日本政府)と当該アフリカ諸国での報道が交錯しているのである。

ここで、JICA(外務省が唯一所轄するのが「国際協力機構」=JICA)は、対外的には「=日本政府」とみなされる慣習があることに注意したい。

横浜で開催された「第9回アフリカ開発会議」(20日から22日)での、衝撃の発表が「ホームタウン認定」というものだった。
このネーミングを決めたJICA担当者への質問で、その理由の回答が「思いついただけ」は本当なのか?

しょせん、そんなもの、なのかもしれない。

さて、あらためて、認定されたのは以下の「市」である。

山形県長井市=タンザニア
千葉県木更津市=ナイジェリア
新潟県三条市=ガーナ
愛媛県今治市=モザンビーク

詳しくは、海外目線からの貴重な情報源『カナダ人ニュース』さんをチェックされたい。

当該国政府や現地報道、その他の外国で発信されたというニュース情報を受けて、各市役所には問い合わせが殺到し、「誤解がある」として移民を積極的に受入ることの否定が繰り替えされている。

では、突如出た「ホームタウン」とはいったいなんなのか?の定義が、これまたよくわからないのである。
「思いついただけ」?を裏付けるのだ。

とりあえず、外務省は公式に、「ナイジェリア政府による誤ったプレスリリースを基に」と声明をだしているので、当該国の一部のせいにしているのだが、その当該国がどのようにこの「制度」を捉えたのか?なぜに間違えたのか?についてはわからず、外務省はただ訂正を求め、誤情報であった旨の周知を要請している、とのことである。

しかし、たとえば、タンザニアでは、「長井市が献呈された」というニュースになって現地報道されているし、ナイジェリアでは、大統領府の公式サイトで、木更津市の紹介がされている。

それに、ナイジェリアの現地日本大使館のHPには、ビザ取得のための条件が意味深な表現になっている、との報告が現地在住の日本人が「X」で発信しているのである。

つまり、JICAどころか外務省そのものが、なにをやっているのか?という批判の対象になっているのだが、いつものように他人事をよそおっているのが気になるのである。
なぜなら、かならず国会での質問にさらされて、場合によっては次官解任にいたるかもしれないからである。

状況は、直接担当の「国際開発協力第三課」の課長を通り越して、「国際協力局」にふりかかり、局長が責任論のやり玉に挙がること必定なのである。
JICAも当然に、担当を通り越してトップの責任論になる。

それでもおさまらないのは、4カ国であろう。

外交であってはならないのが「言った言わない」論争である。
それゆえに、職業外交官は「言質」については臆病ともとれるほど慎重になるし、それが外国語であればなおさらに神経をつかうものだ。

今回のできごとは、国内向けの説明(いまのところ各市役所が担当している)と、相手国の見解があきらかにことなる点にある。

つまり、外務省はなにをやっているのか?という当然の事態になっているのである。

むろん、外務大臣だって、しらない、ではすまされない。
むしろ、各市役所とどういった事前打ち合わせがあったのか?さえも、報道ではだれもわからない状態なのである。

ただ、ここで注意したいのは、「県」の役割である。

外務省というお高くとまっている御殿女中の集団のような役所は、「市役所ごとき」と直接接触なんかしないだろう。
むかしの将軍に、お目見えはできても直接会話が許されないのとおなじなのである。

まずは「県」の窓口をとおして、それから実務はJICAのキャリア職員にやらせるのが「ならわし」なのだ。

ここでまた注意がいるのは、外務省のキャリアとJICAのキャリア職員とには、雲泥の身分差があることで、国家公務員のキャリアは地方公務員のキャリアも対等な相手として認めやしない。

だから、「県」といっても、外務省のキャリアが相手にするのは、「県」に出向しているどこぞの省庁からの国家公務員キャリアのことなのである。

そうやって、「伝言ゲーム」がはじまるのである。

しかして、JICAが認定する「ホームタウン」とは、おそらく外務省からJICAに出向した役職者がからんで決定されたとみる。
そうでなければ、勝手に決定できないのが「外郭団体」の性なのである。

下部組織はなんでもお伺いを立てて、最低でも役職者からのお墨付きを拝領する、これが江戸時代の延長形である現代日本政府の実態なのである。
公務員の世界だけでなく、大企業でもおなじことを子会社・孫会社にやっているはずなのだ。

前にも書いたように、アフリカを重視するのは、国際社会における「1票」を得るための手段だからである。
アフリカ人は、その悲惨な歴史から、白人を信じてはいないから、日本や中国の活動が一種の草刈場にかわるのである。

小さな市が献上されることの発想は、まるでソ連のレーニンとスターリン、それにフルシチョフが、ウクライナを好きな国境線に閉じ込めたのと似ている。
岩屋外務大臣の直接的な発案、あるいは事前に共感(実務では「承認」)を得たのだとしたら、妙に納得できる共産主義の発想なのである。

そんなわけで、役人たちは事ここに及んで大臣の名前が表に出ないようにいろいろと画策しているのではないか?と邪推したくなるのである。

これが、国際的な大問題の発信源になったことよりも重要な、「そと」よりも「うち」を最優先させるエートス=日本型儒教によるゆがんだ忠誠の解決策になって、またしても国際信用をなくすというスパイラルになったら、国力を削ぐという意味の売国になるのであるけれど、もうそんなことを心配する者は、政府部内に存在しない。

あゝ、村田良平元次官が懐かしい。

なんにせよ、ボールは当該4カ国にわたされた。

『ペコちゃん焼き』のこと

東京理科大学でこのところ定着した、「T^3(Teachers Teaching with Technology)」の第26回目に参加してきた。
主に、「TI電卓」を用いた、中学・高校の数学授業についての研究会である。
なので、参加者は数学教師たち、だから、当方はまったくの部外者だ。

いまの学校では、文科省の予算で、「タブレット」や「パソコン」が生徒ひとりひとりに貸与されるので、なかなか電卓をもたせる余裕がないという変な実態があるそうな。
しかし、教育電卓の教育効果については、諸外国では「当然」という評価なので、どうしてより単価の高い端末が日本の生徒に行き渡るのか?についての闇がある。

むろん、TI電卓にこだわる必要もなく、いまどきのタブレットの方が大画面で扱いやすい、というメリットも無視できない。
だが、じっさいにTI電卓を操作すれば、その魅力はたしかにあるのだと実感できるものなのだ。

難を言えば、独習、という面からも、あるいは社会人の「やり直し数学」という面からも、この恐るべき機能をもった電卓の実例と操作方法を網羅した解説本が、日本語で存在しないことにある。

ネットには、操作方法を詳細に解説した情報があるのだが、あくまでも操作方法なので、実例(学習目的に添ったものと、実際の応用例)に乏しいのである。
しかも、いまはやりのプログラミング言語「python」をもちいたプログラミングが学べる機能さえも搭載しているから尚更なのである。

なので、おとな向けの網羅本が、デジタル出版でもあれば助かるのである。

そんなわけで、年に2日間ほど、JR飯田橋駅から外堀通りを渡って神楽坂をちょっとだけ登ったところで左に入った路地のさきにある理科大の校舎に向かう。
その神楽坂に、わたしの世代だと興奮する「不二家」があって、しかも全国で唯一の『ペコちゃん焼き』を販売しているのである。

いわゆる「たい焼き」の型が、「ペコちゃん」になっていて、たい焼きよりも芸が細かいのは、顔とその裏面が髪の毛になっていることだ。
つまり、ぺしゃんこにはなっているが、ペコちゃん人形のそのままがある。

ときに、ペコちゃん焼きのペコちゃんは、よくみると不気味な様相で、どこかをかじるとよりその不気味さが強調されるのである。

これはどういった心理がはたらくのだろうか?

味は中身の違いからうまれるが、やっぱり「ミルキー味」がいい。
この甘さには、「ミルキーはママの味」というコマーシャルソングが絶対に浮かぶ刷りこみがされていて、それがまた正しいミルキー味の楽しみ方なのである。

つまり、味覚と言語がしっかりリンクして離れることがない。

それにしても、どうして「飯田橋神楽坂店」だけの商品なのだろうか?を調べたら、この店舗はフランチャイズ店であった。
しかも当初は、全国の店舗で焼いていたという。
それが、淘汰されていまにいたるという。

淘汰とは、店自体が淘汰されたという意味が強いようにおもえるが、その逆で、業績がよい店ほど手間がかかるためにやめたという。
すると、このお店は、手間を惜しまずにいたために残った、という王道の思想がみえてくるいまどきの「貴重」なのである。

ようは、ペコちゃん焼きは、業績と密接に関わる象徴的な商品であった。

しかも、「和菓子」として認定されているというオマケもある。
はたして、TI電卓は、教育用だというが、じゅうぶんに実用でもある。
どこに重点を置くかのコンセプトのちがいではあるけれど、学校を出て社会にはいったらもう使わない、ということではないだろう。

むしろ、このような万能機がかえって便利なのではないか?

たい焼きも大判焼きも、日本文化である。

そこから出てきたペコちゃん焼きは、ひとつの応用例なのである。


日本向けのボルトン捜査

ネオコン(戦争屋)の共和党側有名人が、ジョン・ボルトン元国家安全保障担当大統領補佐官(トランプ政権1.0)だ。

就任から17ヶ月で「解任・辞任」としているのは、自身では辞任、トランプ大統領は解任と主張しているからだが、一般的には任命権者の言葉の方が正しいのだろう。
以来、「側近」から一転して、「反トランプ」の急先鋒になった。

そんなボルトン氏に、FBIの正式捜査の手が及び、とうとう家宅捜索にまでなったので、「逮捕間近か?」と話題になっている。

容疑は、スパイ防止法と機密情報取扱い違反のふたつの罪である。

このブログでは、トランプ政権の特徴に、マインドマップとそれの応用としてのスケジュール管理が全世界展開されているという「論」をとっている。
したがって、本件も、漠然と捜査をしていたタイミングからでのはなしではなく、もっとも効果的なタイミングを狙って計画されたことだという「説」をとりたい。

そのターゲットとは、まごうかたもなくわが国、日本、ではないのか?

7月の参議院通常選挙における参政党の記録的躍進は、3年前に獲得した1議席から、新規獲得の14議席となった結果として、だれからも文句がないことだった。
そのキャッチフレーズは、「日本人ファースト」であって、そこには「外国人問題」ばかりか、「スパイ防止法の制定」という公約があったのである。

多数決を旨とするのが民主主義の議決のとり方だから、そもそも議案提案にもそれなりの賛同の数がないと受け付けないのが国会運営上の決まりとなっている。
ひとりがいつでも提案できる、学校のクラス会とはちがうルールがここにある。

はるかむかし、中学校の生徒会長をやっていたときに持ち歩いていたのが、教科書とは別の「国語便覧」だった。
これには、会議の種類とそれぞれの方法が解説されたページあって、たいへん役に立ったのである。

さてそれで、いま、日本の政治シーンではおもにふたつのトピックが走っている。

ひとつは、石破内閣のゆくえを含めた「政局」である。
もうひとつが、参政党や日本保守党の有名弁護士である、北村晴男氏が共同提案しようとしている「スパイ防止法」だ。

これは「参議院」での法案提出という、弱さがあるが、日本の政界を揺るがしかねない「リトマス試験紙」にもなるものである。
すでに「反対派」は、はげしい抵抗をみせている。

これを推進派は、この法案に反対する者はスパイではないか?というキャンペーンをやっている。

なんにせよ重要なのは、法案の中身なので、提示されるまではなんともいえないが、はやくもアメリカから援護射撃がとんできた、というのがわたしの「解釈」である。

さて、ボルトン氏の容疑は、これまたじつに意味が深いのは、ヒラリー・クリントン元国務長官の容疑と重なるのである。
それが、私用メールの多用における機密情報漏洩、という問題なのである。

ヒラリー・クリントンも大統領だったオバマも、愛機として利用していたのは「Blackberry」だった。
なので、「スマホ新法」で書いた(iPhoneに負けた)のとは別の理由で、アメリカ政府は国家機密端保持の観点から、「Blackberry」を市場から葬ったのではないか?

それもそのはず、「Blackberry」は、元々カナダの会社(社名は「リサーチ・イン・モーション・リミテッド」)だったからでアメリカの企業ではない。

残念ながら、日本企業でこのようなセキュリティサービスをメインとして、機材(ハードウェア)もつくる企業は現れなかったのだが、アメリカ政府の意向をくんだ経産省や総務省の規制の賜か?ともとれる、悲愴感のあるはなしである。

なんにせよ、被疑者ジョン・ボルトンの名前はこれからたくさん目にすることになればなるほど、日本における「スパイ防止法」の話題になるのは必定なのである。

さては経団連は、企業機密の保持とあいまって、どのような反応を示すのか?示さないかも、注目となるのだが、だんまりを決め込むような気もしてならないのはわたしだけか?

12月の「スマホ新法」とシャボン玉石けん

寝ていてロクなことをしないから、どうでもいい、のが国会ではない。

ある意味、どうでもいい法律を次々と可決してしまっているのが、「自・公・立憲共産」政権の恐ろしさなのである。
そして、これをご都合によってマスコミは、喧伝したりしなかったりという、プロパガンダ機関としての判断しかしていない。

よって、政府・マスコミに都合がよく、国民一般に都合が悪いことは、しっかり隠蔽されることになっている。

6日付け、「弁護士ドットコムニュース」の記事によれば、元は23年5月からのEU「デジタル市場法(DMA)」とよく似た建て付けなのが、わが国における「スマホ新法」ということなのである。

EUと似ている、という点では、日本の「消費税」(EUでは潔く「付加価値税(value-added tax:VAT)」という)がある。
当然ながら、トランプ政権2.0は、トランプ氏の大統領就任演説でも名指しした「VAT」の撤回を求めていて、まだEUはこれをやめていない。

グローバル全体主義をあからさまに推進しているEUという「国際連合組織」は、1992年に調印された「マーストリヒト条約」を根拠にするものだが、そのはじめは、1951年(昭和26年)の「欧州石炭鉄鋼共同体条約」成立だとされている。

それでもって、ハイエクがはなから批判を展開していたのである。

日本からしたらあたかも遠いヨーロッパでのことだし、「冷戦」が真っ盛りだったこともあって、ヨーロッパ情勢よりも「親米(アメリカへの追従)」であることの方がよほど重要であったから、当時は、グローバル全体主義なる言葉もなく、「国際」という美辞麗句が多用されていた。

しかし、その「冷戦」の終結で、わが国の立ち位置もグローバル全体主義へと傾き、なぜかEUを真似るという、呆けて寝ている日本国民にはわからないうちに、「EU化=グローバル全体主義化」が推進されてきた。

「スマホ新法」では、主に「iPhone」のアプリがターゲットになっていて、アップル独自の便利機能を一般開放せよとの大義名分から、アップルはすでに欧州向けサービスで日本やアメリカでは一般的な機能の提供を停止している。

これに、日本も追随するのが12月からはじまるのである。

当然に、トランプ政権2.0はこれをやる予定もないので、世界でiPhoneの機能提供は、アメリカとその他、という二分化がすすむかもしれない。
日本ではことのほかiPhoneの所有者割合が多いというから、不便さの影響に気がついてから騒ぎになるのだろうか?

すると、iPhone利用者の情弱さが、なんだか気になるのである。

こんな話と同時に、無添加石鹸に特化したメーカーでしられる「シャボン玉石けん」が、いま入手困難になっている。

グローバル全体主義に傾倒している日本政府が、「せっけんの有害物質認定」をするかもしれないことでの「買いだめ」が激しくなっているからである。
「無添加石けん」はダメだが、「合成洗剤」はいいというわけわからんが、ひとり歩きしているのである。

念のため、石けんの「有害物質認定」ではなくて、「第一種指定化学物質」という正確な言い方がある。

これが一部で「小林製薬つぶし」と連想的な反応を引き起こしている。

小林製薬もシャボン玉石けんも、いまどき珍しい「純日本資本=純日本企業」なのである。
つまり、純日本企業つぶしという、信じがたい陰謀論にもみえるが、「肉食の思想」にとらわれてやめることのないヨーロッパやらのひとたちからしたら、「当然」ともいえる行動なのである。

それが、対アップル(じつはGoogleも対象とはしているところがミソなのである)という、「肉食の思想」の仲間内での争いを引き起こすから、なかなか厄介な連中なのである。

わたしは、独自の強固なセキュリティ・ネットワークを構築して、安全性で定評があった「Blackberry」が、あっという間にiPhoneに席巻されたのをBlackberryユーザーとして眺めていたので、いま、そのアップルがやり玉に挙がっていることを「へぇ」という心境でながめている。

これは、「独占禁止法」の概念を逆に利用した、政府=公的部門からの攻撃なのである。

しかし、本来なら政府=公的部門とは、民主主義体制ならば「民意」を受けてのことを基盤としたいたのであったが、いまは、民意を無視しているのがEUの特徴となり、その家元の弟子が日本政府となっている。

そんなわけで、大袈裟ではなくて、EU+日本対、米+露という構図になっている。
そこで、国際社会からの1票の買収に役立つアフリカへの秋波を送ることにして、とうとう「アフリカ人のふるさと(創生)」が実現した。

山形県長井市=タンザニア
千葉県木更津市=ナイジェリア
新潟県三条市=ガーナ
愛媛県今治市=モザンビーク

このように、世界は「つながっている」のである。

アメリカ高官の不動産ローン詐欺

この手の犯罪が政権交代で明るみに出るから、「肉食の思想」がふつうにある欧米を真似るとロクなことがないのである。

いわゆる、やったもん勝ち、という傲慢さが前提にあるからだ。

公式に捜査対象として発表されているのは、民主党・現職連邦上院議員の悪名高きアダム・シフと、ニューヨーク州現職司法長官のレティシア・ジェームズである。
また、ヒラリー・クリントンにも司直の手が回りそうなのは、不動産ローン詐欺ではなくて、国務長官時代の悪行についてである。

これら高官の不動産ローン詐欺の手口は、所有する家屋の登記名義や、その面積や部屋数などを誤魔化して、日本でいう「居住用」と「事業用」の区分をわざとまちがえて申請することでの、低金利ローンを適用させることでの利益を得るやり方をいう。

アメリカでは、日本よりもハッキリした金利差が設定されていて、居住用に比べて事業用は相当な高金利なのである。

ジェームズ氏は、なんと実父との関係を「婚姻関係」として、身元を改ざんしてローン申請をしていたし、事業用なのに居住用として金利差の詐欺もやっていた。
なんと、賃借人からの苦情(設備不良など)を無視していたことで、当該物件が事業用だとバレたのである。

アダム・シフの場合は、こうした手口のほかに、議員として立候補資格にかかわるほどの悪質な二重住所の誤魔化しが指摘されており、場合によっては議員失職の可能性もある。
これは、主たる居住地のある州からでないと立候補できない連邦選挙法の基本を無視して、本来の居住地ではない州から選出されたことが疑われているのである。

かんたんにいえば、主たる居住地がほんとうは神奈川県なのに、これを偽り、別荘がある山梨県を主たる居住地として、山梨県選出の国会議員になった、ということとおなじなのである。

とくにアメリカの連邦上院議員は、合衆国憲法によって各州から2名しか選ばれないことになっているために、主たる居住地とおなじ州からの選挙で当選しなければならない当然がある。

しかして、この二名は、「反トランプ」でも共通することで有名だった。

ジェームズ氏は、州司法長官選挙における「公約」に、なにがなんでもトランプ起訴を入れていたことも、司法長官の資格としてありえない偏向だとの批判があった人物である。

けだし、彼女は、公約を実行した。

アダム・シフは、はなからの詐欺師だという評価があって、民主党重鎮として数々の証拠隠滅を臆面なくやり、生き延びてきた経歴が光る特異の人物である。
なかんずく、トランプ氏への「ロシア疑惑」では、諜報委員長時代にマスコミへ機密漏洩させてでも事件化を図ったことで、これらの行為も別件としても糾弾されている最中にある。

こうしたウソつきのふたりが、針のむしろに座るようになったのは、アメリカ人だけが歓んでいるのではなく、世界で民主党を真似た疑惑の人物たちを震え上がらせていることだろう。

それで、ヤケのヤンパチになっているのが自民党なのであるし、その自民党に政策をパクられた共産党には存亡の危機がやってきている。
本ブログで指摘してきた、既存野党が自民党の「派閥」になったことで、かえってその存在意義を失う、という現象になっているのである。

それでか、参政党への激しい街頭演説妨害が、なんと共産党からの資金で雇われたひとたちによるものだと判明し、委員長もこれを否定していないことでの「認定」となったのである。

こうした内外の異様な状況は、すべてデジタル・タトゥーになって残る時代なのだ。

これを、子供たちがいつか目にするときがくる。

それを、「歴史」というのである。

だから、歴史に耐えうる責任ある言動が、紙の時代の過去よりもよほど重要になった。
けれども、どんなに社会的地位があってもアナログな人間で鈍感な者=「情弱」という、の言動がむかしのままの無責任でいられるのは、まったくナンセンスな時代になっている。

経営組織論からの参政党最強評価

20日付け「プレジデントオンライン」における、船津昌平東京大学大学院経済学研究科講師による、「どんなスキャンダルも参政党を崩せない」としたタイトルの記事が興味深いので書いておく。

その第一に、この記事ではバーナードの組織成立要件を挙げていることがある。

それは、共通目的、協働意欲、コミュニケーションの3つである。

「協働」であって、「共同」でも「共働」でもないことに注意がいる。
あんがいとこの漢字の組合せを気分で使い分けるひとがいるけれど、意味がぜんぜんちがうので気をつけたい。

船津氏はここで、以上の要件を参政党は満たしていると書いている。

さらに、加えて、参政党は「帰属意識」の醸成にも成功しているようにみえるという。
これは、たんに集団に加わっているということではなくて、心から生活根拠として感じている、という意味でのことであると説明している。

これを、党員が語ったという「大人の部活」を引用して解説していることでも説得力がある。

むかしの「日本的経営」の特徴だった、「メンバーシップ型雇用=終身雇用」が欧米型の「ジョブ型雇用」に移行(させられて)して、「正社員」と「非正規」に分裂する中、参政党のメンバーシップ型が企業組織で達成し得ない機能を見出している、という指摘はおもしろい。

本ブログでは、こうした制度上の移行と変化は、ソ連との冷戦に勝利したアメリカのグランドストラテジーの変更に伴う、日・独経済の「刈り取り」モードに入ったことでの指示だったと論じてきた。

ちなみに、「戦前」のはるか前、明治30年から策定がはじまった、オレンジ計画=日本占領計画、は、アメリカという国の恐るべき戦略性の証拠になっていて、そこにも「日本経済殲滅計画」が含まれていたのである。

まぁ船津氏は東大の教員なので、しっかり自己保身の文章(マスコミがいう参政党批判)もかましていて、教授連からの糾弾を予防していることが目立つのは、それほど左派に乗っ取られたアメリカの大学と東大がそっくりだと読めるのはオマケである。

さて、この文章には意外なポイントがある。

まず、古い価値観とされている「メンバーシップ型雇用」の時代こそが、経済成長期であったという事実である。
逆に、あたらしい「ジョブ型雇用」がはじまると、経済成長がとまって長い衰退の時代にはまり込んだのである。

そのエネルギーの逃げ口が、参政党という「大人の部活」だということだ。

つまり、よく指摘される「参政党現象」とは、あんがいとわかりやすい「物理現象」なのだと解釈できるのである。

もうひとつは、結果論からではなく、計画・設計上の試行錯誤の中で、なぜに参政党だけがバーナードの組織要件を満たすのか?ということである。
既存政党は、その結党時からこれまでの時間のなかで、どうしてこれを実行しなかったのか?ともなる。

すると、そもそも、政党を組織として捉えていないのではないか?という疑問に突き当たるのである。

それがまた、フランス革命におけるジャコバン党の興隆と独裁、挙げ句の崩壊といった歴史からの学習が無いことを意味するので、深刻なのである。
もちろん、その筆頭が自民党の現状における「(小さな)独裁」であろう。

いつ崩壊・辞任するともしれない石破首相が、19日、首相官邸でビル・ゲイツ氏と面談するやいなや彼の財団へ公金810億円の支援を約束したのは、いかなる予算措置があってのことなのか?がわからないのである。

これを、秋の臨時国会で追及するのはどの政党なのか?というリニアな問題になっているのだが、増税派こそここ一番の出番なのになにもしないだろうという暗黙の了解ができている。
横浜で開催の「アフリカ会議」用の予算だといえばその通りだが、ビル・ゲイツ財団を通す必要がどこにあるのか?

また、視点を変えて参政党の政策ではなくて、組織づくりを真似る政党がどこから出てくるのか不明だが、最強の組織づくりをしないで、民主主義ができるのか?という、段階にわが国の政界が入ったことは事実だろう。

逆に、企業が「メンバーシップ型雇用」をやっていた時代に、自民党と社会党の「55年体制」で安定政権が維持可能だったのは、民意を企業が肩替わりできていた良き時代だったともいえる。

これを壊した者共が、好き勝手しようかと目論んだところに「メンバーシップ型」の政党が民意を受けて成立しているので、既得権益者たちのイライラが攻撃的な代行をする組織を通じて、日当なにがしかでの日雇い妨害活動をしているのに、マスコミ以下がこれを批判しないことで答合わせが完了している。

船津氏がここまで書けない事情を隠さずに表現すれば、そういうことなのであろう。

すると、参政党の弱点は、参政党へと向かうエネルギー供給を止められることがもっとも痛手となるのである。

それには、メンバーシップ型雇用=終身雇用への回帰、が重要な施策となる。

少子化で若い労働力不足はいよいよ深刻度を増す中、その若者たちの雇用が非正規がメインとなる現状の構造を、過去のメンバーシップ型雇用=終身雇用にはやく回帰させる経営判断がキーとなるのは当然で、とくに退職者の扱いがどのようなものかを若者は観察していることも、鈍感な経営者に理解できているかどうか?が問われているといえよう。

まさに、マリー・アントワネットが生涯理解できなかったポイントなのである。

『ベルサイユのばら』への念のため

いまさらだが、『ベルサイユのばら』を集英社文庫版で読んだ。

1972年から翌年までの連載が発表の時期だから、半世紀以上遅れてのことである。

最終巻の巻末に「執筆参考資料」として26作が挙げられている。
主たるものは、筆頭にある、ツヴァイク著『マリー・アントワネット』(角川文庫)だというのは、池田理代子氏も執筆動機として告白しているとおりであろう。

しかし、このシュテファン・ツヴァイクという「伝記」の第一人者は、あんがいと観てきたような嘘を書く名手でもあるのだ。
それが、『マリー・アントワネット』でも存分なく発揮されているから、ちょっと司馬遼太郎の作品群のように、歴史捏造の悪さもしていることに注意がいる。

それでも池田氏は、なかには、『世界の軍服』(婦人画報社)や、『軍隊内務班』(東都書房)、あるいは、『馬術入門』(ダヴィド社)など、なるほどとおもわせる資料が挙げられていて、大変興味深い。

そういえば、「日本軍」のしくみや、組織内の基本的な情報を体系的に整理した書籍をみたことがないことに気づいた。

とくに、陸軍と海軍は別組織なので、あっさりと「日本軍」とまとめてしまうこともできないのだが、兵卒の募集から徴兵、訓練と内務までもふくめた仕組みをどこまでいまの日本人が理解しているかといえば、経験者がほとんど物故したいま、直接はなしを聞く機会もないから、文字で読むしかなくなっている。

現代という意味でも、自衛隊のそれをしっている一般人は少数だろう。

そもそも、軍政の陸軍省・海軍省の仕事内容や、作戦の参謀本部・海軍軍令部の区分けすらわからないで、軍を語ることの無責任を問われることもない適当さなのである。
くわえて、将官クラスに昇進した幹部は、「少尉任官」というスタートラインが世界のお決まりであるのは、それが「貴族」ゆえの身分だったことに理由がある。

つまり、四民平等を達成したかにいわれるわが国においても、自由の国アメリカにおいても、士官学校やらを卒業したら、「少尉任官=貴族=管理職」からいきなりの職歴がはじまるので、「兵」で採用される者との身分差は、一生縮まることはないのが、軍という組織の世界共通なのである。

戦争が兵隊同士の闘いだった時代は、ずいぶん前に終わっていて、民間人を巻き込む「無差別攻撃」が行われたのは、あの「ゲルニカ爆撃」(1937年4月26日)をもって初とする。
「ウクライナ」では、ウクライナ軍がウクライナ領土内の一般ロシア語話者たち(=国籍はウクライナ人)を万人単位で無差別攻撃していたのがロシア軍が動いたトリガーとなった。

フランス革命はバスティーユ監獄が陥落したことをもってはじまりとするのが「歴史」の教科書で習う暗記要件であるけれど、架空の主人公オスカルはみずから率いるフランス衛兵隊を市民側に寝返させたことで、監獄守備にあたる国王派ドイツ人騎兵連隊の放った凶弾に倒れる設定となっている。

なぜに、そこにドイツ人騎兵連隊が、また、歴史の事実でスイス人連隊も監獄守備にいたのか?は、あんがいと些事として無視される大事なのである。

けれども、本作では、なぜにオスカルは寝返ったのか?の方に話の重心がある。

それは、ロベスピエールとの出会いの設定や、ジャン・ジャック・ルソーの思想への密かな共感と傾倒があってのことという前提のエピソードがあるからだ。

さらに、オスカルがエリートの近衛連隊からフランス衛兵隊への転属を自ら望みながらも当初、「女」であることを理由に部下たちから集団で拒否され、ために、人心を掌握するための苦労もその思想と結合した結果なのだと、作家は訴えている。

ここに、日本人の琴線に触れる感性がある。

しかして、その日本では教育学の基礎として学生に、ルソーの『エミール』を読ませる、世界に類のない不可思議な慣習がある。
そのルソーは、自らの子供を5人も見棄てているから、有言不実行どころのさわぎではない。

「教科書裁判」でしられる、家永三郎すら、ルソーは強度の精神障がい者であると書いた。

わたしには、印象深い映画として、『子育てごっこ』があった。
この直木賞作品は、反エミールではないのか?

『ベルサイユのばら』における、生と死、は、マリー・アントワネットとの対比を中心に構成されており、オスカルの死はその後のフランス革命のグダグダな殺し合いを知らずに済んだことのラッキーすらあるのだ。

しかし、一方で、ジャン・ジャック・ルソーの思想があたかも崇高なままに固定されていることの恐怖が残る。

文庫版では、「外伝」として、『黒衣の伯爵夫人』が続いている。
この短いエピソードは、終わりに作家のコメントがあり、16世紀末にハンガリアであった実話からヒントを得たとある。

その実話とは、600人以上もの少女を殺した、エルザベート・バートリ伯爵夫人の猟奇的犯罪なのである。

この話を「外伝」としたことで、ルソーかぶれが読者から解ければいいものをとの想いが作家にあったとかんがえたいが、だからといってオスカルがルソーかぶれの挙げ句に亡くなったことが晴れるわけでもない。

もしも、オスカルが実在して、バスティーユで勝利者となって生き残ったら、はたしてどんな罪で断頭台に消えたのか?という想像が容易なのが、フランス革命の恐ろしい本性なのである。

おそらく、ジャコバン党の幹部となって後、ロベスピエールかサン・ジュストによっておとしめられたであろうし、このふたりを断頭台に送り込む側にオスカルが廻るともかんがえにくい。

オスカルは、ホンモノの高貴な精神が宿る貴族だったからであって、ナポレオンの時代にも王政復古の時代にもついていけない予感があるのはそのためだ。

なんにせよ、かくも悲惨な統治とその反動である革命の嵐が、わが国の歴史ではなかったことがもっとも重要なポイントである。
もちろん、「太陽王」の超絶的な頂点からの没落、という長さでみれば、まったくもっていまヨーロッパで流行っている『平家物語』の時代の先端が光る。

つまるところ、日本は欧米に遅れている、というフレーズに明治からずっと振り回されているが、ヨーロッパが900年遅れているのである。

すると、「舶来」の価値の薄っぺらさもここに極めり、なのである。

売国意識でいっぱいの閣議決定

18日、石破内閣は、れいわ新選組の山本太郎代表の質問主意書に対し、日本を「スパイ天国」とみなさない答弁書を閣議決定した。

対して、「スパイ防止法」を唱えた参政党や国民民主党の躍進があった参議院通常選挙で惨敗した後、自民党内では、「スパイ防止法導入へ検討推進を」との提言があったばかりだから、党をも無視した珍しい閣議決定となったのである。

それもこれも、選挙に惨敗しても内閣を刷新することのできない自民党の弱体化が原因であろう。
つまり、追い詰められた「あっち側」の必死の抵抗ともいえるが、国民には大迷惑なはなしなのである。

フランスで、『ベルサイユのばら』がいまも盛り上がっているのは、「革命前夜」的な社会の空気があるからではないのか?とかんがえると、かつて日本で一大ブームにはなったものの、いまのところ一過性にみえたのは、やはり国柄のちがいがあったからだろう。

しかし、ふたたび日本でも「ベルばら」がブームになりそうなのは、とうとう日本がゲスな欧化をして、なんちゃって階級社会になりつつあるからであろう。

それをつくりだしたのが、自公政権の罪である。

詳細に追跡すると、なにがなんだかわからなくなるほど複雑なのが、フランス革命だった。
それぞれのひとが、個人主義のもとに啓蒙されて、それぞれの解釈と行動を起こしたことが原因だが、治世の中心たる宮廷では、残念なレベルの思考しかできないひとびとが王侯貴族として見栄の張り合いをやっていた。

これを、あの大家ゾンバルトが、『恋愛と贅沢と資本主義』(1912年)で大真面目な説明している。
宮廷の無駄遣いが、宝飾品やら衣装やらの周辺の職人と商人を潤わせて、いまでいう兆円単位になる毎年の国家財政赤字=民間黒字が、資本を蓄積させた結果、資本主義に移行したという説である。

なんと、この日本語翻訳がでたのは、円高不況の1987年のことであった。

じつは、資本主義が生まれた原因を、人類はいまだにしらないのである。
だから、わたしは、資本主義はいまだに未来のシステムだとする、アイン・ランドの主張に共感をおぼえるのである。

これが、日本ではヒグマ被害とヒグマ駆除と保護の、それぞれバラバラな議論がおきることでゲスな欧化の度合いの深刻さがわかるのである。
「自然」を侮ったものが、共通の価値判断基準をうしなって、なにがなんだかわからなくなるほどの議論になるのは、まさにフランス革命の構造と類似していないか?

本人へのインタビューがいまさらできるはずもないが、マリー・アントワネットは、ほんとうに生涯で一度も臣民の生活をおもんばかったことはなかったのか?
だとすると、「民のかまどの煙」の逸話が残っているわが国のレベルとは段違いも甚だしいゲスな(治世)文化(選民思想と厳格な身分制)の代表者なのである。

そのゲスな部分だけを学んだひとたちで構成する、石破内閣、は、将来、歴史的な興味の対象になるのではないか?とおもわれる。
すなわち、わが国の戦後教育のとてつもない失敗例としての政権=主に行政府という位置づけが確定するのではないかと、すくなくとも願うものである。

ウクライナ和平に関して、圧倒的な存在が世界に確認されたのは、トランプではなくてプーチンの方である。
ホワイトハウスでの会議中、ヨーロッパの代表を待たせて、トランプがプーチンに40分も電話して討議内容を漏らして確認するということが物語っている。

そのプーチンの思想的背景には、ロシアの哲学があり、その哲学は西欧のもの(個人主義)とはちがう集団主義を基準に置く。

ために、ロシア人という集団は、ある強力なリーダーが号令しないと1ミリも動かない特性を持つ。

このことの日本人との類似性は、まことに興味深い。

日本はスパイ天国とはみなさない、という決定の浅はかさこそ、戦後教育の浅はかさの集大成となったのである。
その理由に政府が挙げたのは、取締・検挙を強化する、という矛盾である。

スパイを取締・検挙する法体系がないから問題提起されているのだ。

これから進学を目指す世代も、いま現役の学生も、とっくに社会人となったかつての学生も、この原文を起案した政府官僚の発想のヤバさに気づけば、なにを学ぶべきかは、学校のカリキュラムにないことがわかるであろうし、各種試験の突破をもっても役立たない。

制度疲労も限界に来たことを示す。

この意味で、まもなく「塾」の時代がやってくるのではないか?教えるのは、儒学である。

いま、算盤塾がブームだというが、朝、学校に行く前に、この塾で30分の四書五経の素読をしてから集団登校したらいいのではないか?
そして、下校したら算盤を習う。

江戸時代の武士の子供は7歳で修得していたのだから、現代人にも無理なことではない。

ただし、それに見合った日本人の先生が見当たらないのである。

観光地の破綻は観光政策の破綻

ここでいう「観光地の破綻」とは、通常の、「客が来ない」ことを理由とする破綻と、「客が来すぎる」ことによる破綻の二種類の意味がある。

ちがう角度からいえば、なにかと話題の静岡県伊東市(温泉観光地だと自認している)の市長選挙での争点は、「図書館建て替え」というワン・イシューであった。
市民は、これに反対する候補を選んだが、その候補の学歴詐称がみつかって混沌としているのである。

地方の図書館には二種類の機能があるとおもわれる。

ひとつは、都会の大図書館に負けない蔵書数をどうするか?で、規模的にも予算的にも無理があるから、どんな図書を揃えるのか?という蔵書選択の難易度が高いことがまずあるだろう。
そして、もうひとつは、地元の郷土史やらをはじめとする、さまざまな地元情報のコレクションであって、これは他の地域では扱わない地場だからのオリジナルあることだ。

しかし、人間には「灯台もと暗し」の習性があって、あんがいと地元民は地元の情報に興味が薄い。

これはこれで、家 → 町内 → 市 → 県 → 国家 といった生存範囲の認識をもたせないという、戦後の日本国家の教育方針もおおいに影響しているとかんがえられる。
つまり、わが国は、GHQの申し送りを律儀に守る「反日国家」として80年間を過ごしてきたのである。

だから、伊東市のこの選挙結果は、政府の方針通りに育った(家畜化した)伊東市民が、図書館の重要性を認識しないまでになったという、文科省からしたら表彰ものの事態が現出したのに、なんと学歴詐称というオマケで、その効果宣伝ができなくなってずっこけたのである。

なぜにこのような話題を「観光」の議論でいうのかといえば、地方の図書館における地場の情報こそが、知的観光のもっとも興味深い資料だからである。
モータリゼーションで自動車が普及する前の時代、いまでは近距離の隣どおしの町や村でも、その暮らしぶりにハッキリとした違いがあったのを探るのは、なかなかにスリリングなのだ。

書店でもおなじだが、アクティブな検索とパッシブな検索の二種類がある。

アクティブな検索とは、アマゾンで書籍を指定して購入するのと同じく、著作者や書名検索で蔵書の有無をしることだ。
パッシブな検索とは、書棚を巡って、どんな書物があるのかを見て回るもので、意外な発見があるのはこちらの方となる。

もちろん、そんな意外があるのは、ジャンルも意外な書棚に区分されていることがあるからである。
この意味で「書誌学」の専門家を図書館に配置することも重要な人事となる。

一般に観光客は、ある地域を選ぶと、基本はパッシブな観光をしながら、スポットでのアクティブな検索先を選んで廻るものだ。
しかし、このとき観光客それぞれの知的水準によって、発見する対象がことなる。

これが、なんとなく国籍別で区分すると、おおくのひとがもつイメージに近接するであろう。

ところで、観光といっても政府の観光政策というものは、バブル前まではあまり話題になることもなかったほどに、たいしたことはなかった。
観光庁が発足したのは2008年(平成20年)のことである。

何度も書くが、この国の政策は「産業優先」という原則をいまだ崩していない。

なので、観光庁が存在するのは、観光客のためではなくて、観光業のためなのである。
ましてや、観光地に住まう住民のためであるはずもない。
本来、住民のためにあるはずの地方自治体も、観光庁という国の機関からでる観光業のためのカネにまみれるので、住民がそっちのけにされるのは仕組み上からも当然なのである。

おそらく、伊東市の敗北した現職市長は、国家的にもっとも低い優先レベルの住民サービス向上のなかにある、さらに優先レベルの低い知的サービス分野における図書館の建て替えをあろうことか争点にしてしまった、のである。

これが、郷土資料収集と研究が知的観光に役立つとアピールしたら、どうなっていたのか?が気になるのである。
それでも、おそらく愚民化した市民の琴線に触れることはなかったのではないか?

文化行政でもっとも重要な施設は、たとえば立派なドイツ製パイプオルガンが鎮座する文化会館ではなくて、蔵書の内容が濃い図書館である。

いまや、このようなことにも気づかない者たちが「市民」といわれている。

かつて『細うで繁盛記』で、一世を風靡した熱川は、伊東市から南の地にあるが、かつての旅館・ホテルの9割が廃墟と化した悲惨な光景が観光資源になるありさまになっている。
この地にある、「東伊豆町立図書館」の郷土史やら地元資料の貧弱は、温泉だけの情報でも満足感をえることはできなかった。

おそらく、東伊豆町は、行政として温泉街のテコ入れに大金をつぎ込んだであろう。

それがどのような逆効果だったかは、いまの無惨をみれば明らかであろうが、予算計上にあたっては、県や国からのカネをあてにするための「専門家」にも、ずいぶんなアドバイスを有料で受けたにちがいない。

すると、これらの専門家とは何者であったのか?が、これから歴史の検証を受けることになるのではないかと疑っている。
ならば、当時の議事録が図書館だか町議会に残っているとおもうので、怖いもの見たさでみにいくのも知的観光なのである。

そんなわけで、公的な観光政策の軽さが、全国各地で観光の失敗を呼んでいる。

「客が来ない」と「客が来すぎる」は、どちらもその安易な観光行政の失敗そのものの結果なのだが、ぜったいに誰も責任をとるものはいないという共通もあるのだった。