補助金に目がくらんではいけない

政府は,今年度の大型補正予算を組んでおり,そのなかに「ものづくり補助金」として1000億円を計上するという.「ものづくり補助金」とは,『ものづくり・商業・サービス経営力向上支援事業』というのがただしいので,なにも製造業だけが対象ではない.

本末転倒の闇

「補助金ビジネス」という商売がある.国(政府)や地方自治体という名の(地方政府:外国ではこちらがふつうのいい方)は,みごとに「縦割り組織」になっているし,縄張りからはずれる「組織間の連携」ということは,役人のタブーである.だから,となりの部署がどんな「補助金」を扱っているかは,その部署に訊かなければわからない.そこで,全役所の縦系と横系を網羅した「情報力」をもって,クライアントである企業の補助金受け取り額を増額させるというものだ.そして,成功報酬として,その幾分かを手数料として受け取る.もちろん,対象補助金からの直接受け取りではない.

このビジネスで有名なひとと,はなしをしたことがある.かれはいたってまじめな紳士で,だからこそ「情報」を「力」に変えることができたのだろう.そのひとが言うには,なにが困るかといえば,とにかく補助金をほしがる経営者がいる,ということだった.「とにかく」である.

自社事業とかかわりが薄い内容でも,「とにかく」いかにして受け取ることができるか?に興味があって,「とにかく」金額が大きいモノを好む傾向があるという.しかし,補助金にはたいてい「報告」とかいう紐がついていて,ながければ数年間,その「効果」を役所の当該窓口にレポートしなければならない.そこで,このビジネスには,「報告書作成」というサービスも付随する.ところが,無理して受け取った場合,書きようがなくて困る,というのだった.

無理して受け取るのは,意外にもさほど困難なことではないことがある.それは,役人の絶体基準「予算消化」という甘い罠である.これは,いま,商工中金の不正融資問題として顕在化した.本来の貸付先としては好ましくない企業にも,「不正に貸し付けた」のは,まさに「予算消化」のためだったことがあきらかになった.

もちろん,報告書が「書けない」ことは,はじめから予想できるから,このひとは,「お断り」する事例になるという.そのこころは,そんな補助金は,企業経営に資さないから,というまっとうな理由もふくまれている.

中毒化の事例

「補助金」を受け取るからある投資が安くすむ,とかんがえるのはふつうだろう.しかし,本当だろうか?かんがえる順番によって,こたえが変わることがある.それは,算数のつぎの式のようなものだ.

1+2×3=7 おなじ式のなかに掛算や割算がある場合

(1+2)×3=9 おなじ式の中に「( )」がある場合

例1:たとえば,旅館のロビー照明を変えたいとかんがえたとき.そもそも,「変えたい」理由があるはずだ.器具が古くさくなったとか,薄暗いとか,あるいは玄関の改修計画とデザインの統一性をもたせたいとかして「くつろぎの空間」にしたいとしよう.すると,どういった方法が,もっとも「変えたい」とかんがえたことのこたえとして合理的かが決定基準になる.

例2:ところが,なにもかんがえていなかったけど,「旅館のパブリック・スペースにおけるLED照明化にあたっての補助金」というものがあって,いまならほとんど「先着順」状態で受け取れる,という情報を入手したとしよう.すると,さっそく取引先の電気屋さんに連絡して,「見積書」を依頼するだろう.でてきた「見積書」の金額が,補助金の限度額に比べて余裕があるとわかれば,廊下部分の「見積書」を追加するだろう.こうして,「安く」高価なLED照明が設置できて,電気使用量も削減できたから,本当に万々歳!となるのだろうか?

例1の場合,全面的なLED照明の導入が「最善の解決策」になるのか?という問題がある.時期にもよるが,少し前なら,LED照明の「光」の質(波長)が,ひとの目には優しくなかった.紫外線寄りの冷たくするどい光が,LED照明の特徴だったから,ロビー照明としては「くつろぎの空間」をつくりにくいという難点があった.だから,一部スポット的にLED照明を導入したとしても,それは全体デザインとしての必然であって,補助金目的ではないことは十分ありえることになる.すると,補助金受け取りの手続きと,その後の「効果」をレポートする必要は,かなり薄くなってしまう.

例2の場合,「照明だけ」を交換することになるから,つけてみてやたらと明るいことに気がつく.そして,さまざまな汚れや老朽化箇所がめだつようになって,どうしようかと困ることがある.さらに,お客様には「まぶしい光」(白内障患者には不快な光)なので,落ち着かず,ロビーから人影がなくなることもある.廊下も不自然に明るくなるので,床の汚れまでも浮き上がって見えてしまう.すると,あろうことかロビーからではなく,その旅館の利用客が減ってしまうこともあるのだ.

かんがえる順番をまちがえると,とんでもないことになる事例だ.

さらに,補助金を優先させると,投資のタイミングがずれることもある.やりたい投資に補助金がつかないなら,先延ばしにして,補助金がつくまで待ってしまうのだ.こうして,経営資源としてお金ではけっして入手できない「時間」という意味の,適正な時期,を失うこともある.

ダイヤモンドならぬ,補助金に目がくらんでしまっては,取り返しのつかなくなることもある.くれぐれも,ご注意を.

面倒な「割り勘」のレジ

サービスが気持ちよくて,とてもおいしい食事をだいなしにするのが,「割り勘」のレジである.全額を平均したほんとうの「割り勘」ならまだしも,バラバラの注文にたいして個別に支払うとなると,「面倒」さもひとしおだろう.

レジ横の「個別会計お断り」という張り紙

たまにみかける「危険信号」である.この張り紙をみたら,リピーターになってはいけない.逆に,個別会計がらくにできるレジを導入している店がある.こんなシステムにお金をかけても,直接は売上につながらないからムダだとかんがえる店主がいる.しかし,そうではないのは,自分が客になればわかる.店の最後の印象がまるでちがうから,「気が利いている」と評価される投資はムダではない.

だいたい,平日の日中なら,ビジネス街でなければ主要顧客は主婦か老人である.どちらもグループ行動であることが特徴だ.そして,もちろんお会計は個別払いに決まっている.

アルバイトやパートさんを主戦力にする飲食店のばあい,レジでのもたつきは釣り銭間違いも誘発するから,らくにできるレジが店にも得である.最近のお客はおおらかさに欠けるから,相手がアルバイトやパートとわかっても容赦ない.

「一括でレジ打ちしました」といわれても

「個別にレジ打ちますか?それとも一括で?」ときかれても,客にとってはどうでもよい.それで,だれかが「一括でいいよ」というと,とたんに「個別会計」に金切り声でパニックるかかりのひとがいた.総勢8人だが,注文したメニューは3種類で,6人が同じメニュー,残りの2人がそれぞれ別のメニューだった.金額では2種類.1000円のメニューが7人,750円が1人だ.くわえて,この店は内税だというから,なにがパニックの原因か,支払う立場からはわからない.要領のわるいひとはいるものだが,このかかりがパートさんだとしたら,やはりわるいのは経営者だ.

どんな「研修」「訓練」をしているのか?

スムースな会計は,あたりまえのサービスだ.客はどんなにひどい食事でも,たいがい最後はちゃんと支払う意思をもっている.来店時の案内からはじまるサービスの流れで,どんなにおいしい料理を提供しても,最後の支払でつまずくと,店全体のイメージがいちじるしく傷つく.個人客がメインの客層なら,個別会計はあたりまえの要望になる.

お金をあつかうレジは,簡単な仕事ではないし,「事故」という危険もともなう.だから,レジのあつかいについては訓練がいる.そこで,想定される場面設定での接客研修は重要な業務である.釣り銭元金の管理など,内向きの研修も必要だ.また,レジによってはさまざまなデータを収集する機能もあるが,これらの機能が機能するためには,操作が必要だ.売り上げ高だけでなく,経営情報が拾えるのはたいへん重要なことなのは誰にでもわかる.

ほしい経営情報がなにかを理解しているか?

自分の店の経営にとって,どんな情報が役立つのか?なにが必要でなにが余計なのか?をつきつめてかんがえる経営者はすくない.なぜなら,事業で「成功」している経営者がすくないからだ.

ぜひとも,自分の店のレジからわかる情報を確認してほしい.そして,想定客の要求にらくに応じられることとは何か?をかんがえてほしい.

罪な「水戸黄門」

18世紀中旬の宝暦年間の実録小説『水戸黄門仁徳録』を起源として,その約百年後の幕末に『水戸黄門漫遊記』ができたというから,おおざっぱに300年ほども日本人に親しまれていることになる.

だから,「水戸黄門」と,さらに古い「忠臣蔵」の世界観は,かなり根深く日本人のアイデンティティーに影響をあたえているはずである.

しかし,これらの作品は,「講談」や「芝居」であって,現実からはずいぶんかけはなれたはなしになっている.作りばなしと現実が同じになってしまうというのが,国民という集団(以前なら「民族」という)規模でおきているとすると,これは「冗談」ではすまない.

悪代官と悪家老しかでてこない

しょせん「勧善懲悪」なのだから,いちいちほじくらなくてもいいではないか.とおもいつつも,悪代官がいても,悪いのは将軍家ではない.悪い家老がいても,悪いのは殿様ではない.という構造が気になるのだ.つまり,体制批判はあってはならない,という約束が,物語の背景である江戸時代の価値感をこえて,現代に倒錯して伝染しているなら,これはこれで「事件」だからだ.

まして,「水戸黄門」を江戸時代の価値感にとどめたら,幕閣でもない御三家の元藩主が,封建時代の真っ盛りにとある藩の内情を勝手に探って,その家臣らを手討ちにするという設定は,まったくありえないファンタジーである.

ところが,この「ファンタジー」が,おそるべき視聴率をたたきだして,世界最長のテレビドラマになった.これは,ファンタジーを圧倒的な国民が支持した証拠である.

世界に誇るわが国の「サブカルチャー」を,どういうわけか勘違いした役所がまたぞろお節介を焼いて,「クールジャパン戦略」なるもので大赤字を計上してしているが,アニメやコスプレ,人気アーティストの活躍のキーワード「ジャパニーズ・ファンタジー」のタネは,「水戸黄門」と「忠臣蔵」ではないか.

「押し込め」こそがお家のため

「忠臣蔵」では,史実としても物語のきっかけをつくった張本人がお殿様だが,討ち入りまでのドラマでは陰がうすい.「水戸黄門」では,登場するお殿様は,おなじく陰がうすいとはいえ,たいがい「暗愚」ということになっている.だから家老一味に実権を簒奪されているのだが,これに気づかず優雅にくらしている.これはこれで,体のいい「押し込め」である.

大名家の「藩主押し込め」は,かなり一般的だったようだ.ひどくなると,強制的に隠居させられて,座敷牢に押し込められたというから,本人の人生は悲惨のきわみである.ようは,「家」がつづけばよいのだ.もしもの疑いをご公儀から受けたらば,最悪はお取り潰しである.そうすれば,家臣一同もそろって失業=浪人の身におちる.太平の世に,戦闘集団である武士をあらたに採用する他家はないから,その恐怖は現代の企業倒産の比ではあるまい.

企業存続だけに汲々とする経営者と家臣団

江戸時代の大名家とおなじく,お家の存続=企業の存続,となると,その従業員である家臣団は,社長である殿様の意向を無視しだす.現場業務に精通しているという自負が,素人社長の介入をゆるさないからだ.これは,代々続く個人事業的企業でも,明治以来の名門大企業でも,似たようなことがおこる.

現代日本企業では,「社長押し込め」がおきている.

企業組織をどのように統治するのか?ということは,案外日本企業の苦手とする分野になった.バブル経済期の絶頂をさかいに,近年は「日本的経済システム」におおきな疑問が生まれてしまった.バブル絶頂前までは,「企業一家」としての「浪花節」が社内で通用していた.だから,理不尽なことも,社員感情のコントロールでうまく「ガス抜き」ができた.社内旅行や社員運動会などの各種行事が,それに色を添えたのだ.

「水戸黄門」の放送が終了したのは2011年.昨今,とんと浪花節は通用しなくなった.今年は,「忘年会がある会社はブラック」という話題まで出現した.

組織運営には,心理学がかかせない.急激に変化する人心を把握する心理学とは,企業哲学である.中国で,「稲盛ブーム」がいっこうに冷めない.京セラの稲盛哲学が,体制をこえて指示される理由を,日本人があらためてかんがえるのも来年につながる準備になるだろう.

甘えのNHK受信料問題

今年2017年の師走を「飾る」ニュースは,6日の最高裁判決であった.いわゆるNHK受信料にまつわる「初の憲法判断」に注目があつまった.賛否うずまくなかで,ちゃんとした報道をしたのはどこだったか?当のNHKは翌日7日に,会長が妙なコメントをして,なっちゃいない感を全国にくまなく放送した.まるで「完全勝訴」のような振る舞いだったからだ.さらに,民放各社の報道もこれに追随した.業界で談合でもしているのだろうか?

判決文「主文」は以下のとおりだ.「本件各上告を棄却する.各上告費用は各上告人の負担とする.」

裁判費用が「折半」なのに,原告のNHKが「勝訴」というのは変だ.たしかに,「放送法は契約を義務づけている」のだからNHKの主張どおりにみえるのだが,「消費者側拒絶時の契約締結の要件」という判例ができたことが真の注目要素だ.この「要件」によれば,NHKが受像施設が存在するとして,B-CASカード等の証拠を用意して,裁判をおこさなくてはならず,しかも,口頭弁論終結時にもテレビ受像機が設置されていなければならない.これらの「証明」をどうやってNHKがやるのか?といえば,不可能であろう.つまり、かぎりなく敗訴に近い判断ではないか?最高裁は,とても面倒な「判断」をした.

問題はやっぱり国会である

日本の最高裁判所は,めったなことでは判断すらしない.国会に委ねるという態度だ.つまり,「国会依存」.三権分立とはどういうことだったのか?もういちど中学校の教科書を確認したい.

その国会が,立法府という本分をわすれて,選挙を経てもスキャンダルを追及している.まことになさけない状況にある.しかし,これも国民の意思だ.

欲張りな国民の甘えがNHK問題の根幹である

民放は見たいがNHKは見たくない,というからいけない.テレビを観なければいいのだ.そもそも,テレビ受像機があるから,放送法での受信料が発生するのだから,テレビを廃棄すればよいだけだ.それをしたくないと,欲張って甘えるからいけない.

かつては国民がテレビを買うと,国家経済は潤った.世界のテレビ市場はわが国製品が席巻したからだ.ところが,「純粋に日本製」のテレビなど,もうほとんど存在しない.パナソニックも,シャープも,テレビ事業で屋台骨がかたむいた.組み立てたのが日本国内という意味の日本製になった.そういえば,iPhoneやiPodがどこ製なのか,気にするひともいなくなった.

工業製品の受像機だけが問題ではない.4Kだ8Kだといって「画像の美しさ」をうたうのは,カラーテレビが世にでた頃とおなじ発想による宣伝手法だ.映像技術がどんなに進んでも,残念ながら,もはやテレビで観なければならない番組はほとんどない.震災クラスの災害も、全国放送がカバーできる情報では荒すぎて役にたたない.民放ふくめ,同じような情報を垂れ流すばかりだから,被災者や関係者にとっての重要情報は地元ラジオの方がよほど便利だ.まして,インターネットの存在感は,3.11で発揮された.「東京オリンピックをカラーテレビで観よう!」というキャンペーンをまたやるのだろう.56年前とおなじ手法に,乗るひとは何人いるのだろうか?そちらに興味がわく.

わが家では,テレビで,ニュースも天気予報も観なくなったが,じつはなにも困らない.おかげで,いわゆる「偏向報道」の被害もない.新聞もあれば,ネット配信のニュースもあるし,雑誌記事もある.好きな番組はオンデマンド契約をしている.テレビ放送を観るより,YouTubeの方がよほどためになる.

テレビを観るのは,情報リテラシーがないひとになった.「情報弱者」が指摘されてずいぶんたつ.NHK受信料は,情報弱者からの強制取り立てだ.だから,テレビを観ようとすると貧乏になる.こうして,テレビは,格差社会の推進をする機関となった.

旅館にテレビは必要か?

入浴して夕食をすますと,やることがないから自室に引きこもる.間がもたないからテレビを観る.それに飽きたら就寝する.お客様にこんな滞在をふつうにさせている旅館という商売に,だれも疑問をもたなかった.「非日常」だのと言っても,お客の滞在パターンは,日常そのものだ.

「経費削減」に血まなこをあげて,必要経費まで削減し,客数をうしなった旅館とて,テレビを客室から撤去しなかった.撤去すればNHK受信料という経費が削減できるのに,である.

テレビがなくてもWi-Fi環境があって,モニターにスピーカーセット,それにアマゾン・プライム・ビデオか,グーグル・キャスト端末を借りられるほうがよほど気が利いている.蔵を改装したとある高級旅館では,大型モニターに5.1chスピーカーセット,これにiPodホルダーが設置されていた.ド迫力の音量と音質で,映画と自分の端末にある音楽を堪能できた.

もはや高額所得者と若者はテレビを観ない.非日常をもとめてやってくるこれらの人々がターゲット顧客なら,発想をかえて受信料を削減すれば,宿は二重に得するはなしにかわる.

「労組」という安全弁

「宿命のライバル」がいるひとは幸せである.ライバルと認める存在が,自身に適度な緊張をあたえてくれる.それで,自分の成長が促進されるからだ.だから,突然,ライバルが目のまえから消えてしまうと,自分のいくべき方向がわからなくなって,混乱し,低迷してしまうことがよくある.そういう意味で,ライバルは互いに鏡のような存在である.「よきライバルこそよき友」といわれるのは,このようなことからだ.それは,また,よきライバルをもったことがあるひとにしかわからない.

経営者の役割をだれがチェックするのか?

企業活動のなかでかんがえると,経営者の鏡になるのは従業員である.よき経営者が経営する企業には,よき従業員があつまってくる.ところが,よき従業員たちだったものが,悪しき経営者のもとでは不良化することがあるからだ.あたりまえだが,従業員も経営者も,ひと,である.だから,会社をはなれて家に帰れば,それぞれが一介の家庭人になる.

しょせんは「仮のすがた」なのだ.

とすれば,世の中は演劇でできている.だれしもが「仮のすがた」をよそおって生きている.たまたま割り振られた役柄を演じていることになる.ここで,ちょっとした意志をもって,もっといい役回りがほしい,として自分から行動したひとは,それなりの役が回ってくるが,ハッピーエンドになるか悲劇的な結末になるかは,「運命」が左右することもある.

「運命」を「神の御業」とかんがえるひとと,「運命」は「コントロールするもの」とかんがえるひと,いや,「運命」には「だまって流される」のをよしとするひとと,演じてによってシナリオがことなるのが,実際の演劇とのちがいだ.しかも,これらのかんがえが,同じ演じての人生のなかで,コロコロとかわる可能性もある.だから,すべてのひとは,すさまじく無限大の選択可能性のなかから,シナリオを絞って生きている.

たまたま割り振られた役柄として,経営者の役をこなすひとには,だれが演出するのか?といえば,ふつうは「株主」とこたえたいところだが,「ものを言う株主」が注目されるわが国では,「ものを言わない株主」のほうがふつうだ.事業に失敗して「再生」モードになった企業のばあいが,スポンサーという他人に演出をゆだねることになる.

ところが,このスポンサー役を公務員が引き受けることがある.「支援」という大義名分をもって,政府が介入するのだ.もっとわからないのは,カネを出さないのに口だけ出すばあいだ.「監督官庁」というものがいる.不祥事をおこした企業のトップが,役所にいって頭をさげる.国民の目からみれば,「監督不行き届き」で罰せられるべきは「監督官庁」のほうである.しかし,「監督官庁」の役人が怒ったような顔で,おまえらのおかげで仕事がふえた,どうしてくれるのだ!という気分を演じている.仕事をしている振りを演じてきたから,それが「振り」だったとバレることに怒っているのだ.笑止,である.

労働組合という役割

べつに不祥事だけではないが,ふだんから経営をチェックできるのは企業内にあっては,「労働組合」だけだ.ところが,残念なことに「労働組合」が特定の政治活動に没頭しすぎたために,労働者からも忌み嫌われるようになって,組織率は低下するばかりである.労働者も会社をはなれて家に帰れば,それぞれが一介の家庭人になることをわすれてしまった.

それで,おおくの企業内に「コンプライアンス室」ができたのだ,と疑っている.もちろん,表向きの経緯はちがう.しかし,監査役が役に立たないのを承知で,「コンプライアンス室」をつくるのは,まさに屋上屋を架すことではないか.ほんらいは,労働組合に期待できる機能だ.「コンプライアンス室」ができた企業は,それなりの規模か法的なしばりがある金融系の会社だ.一般にいう大企業のばあいは,伝統的に労働組合があって,さらに「コンプライアンス室」もあるだろう.すると,組織内のよからぬ情報は,労働組合ではなく「コンプライアンス室」にむかう流れになるから,さらに労働組合の位置づけがあまくなるはずだ.

経営者と労働者は,それぞれ目的がちがう.しかし,資本論やらに脳ミソをおかされたままだと,そのちがいの本質がみえなくなる.とくに,日本の経営者は,エリートとして資本論の教育をしらずにうけてきた歴史があるから,勘違いの度合いは格段にちがう.すなわち,「経営者=資本家」という勘違いだ.だから,社員から経営者に「昇格」したとたんに,「俺の会社」になってしまう.歴代の「先輩たち」もそうしてきたから,本人にはなんの疑問もないだろう.草葉の陰でマルクスが笑っている.

「所有」と「占有」の区別がつかないのは,近代社会の成人としてかなり深刻な精神病理である.他人から借りた本を返さない文化も,この病理からなる.他人の所有物を借りてきて占有すると,いつの間にか自分のものになってしまうから,返却しなくても気にとめない.つまり,占有状態がつづくと所有に変化するのだ.これは,貞永式目(御成敗式目)にある土地占有が所有に変化する期間を20年と定めた文化である.じっさい,21世紀のわが国の民法でも,これは変更されていない.

経営者は,企業に「利益をもたらす」ための諸策を立案・実行する役割がある.一方,労働者は,自分の「労働力」を売ることで,その対価である賃金を得る役割がある.たんなる宗教書である資本論を無視すれば,経営者と労働者は,労働力の売買という点において対等である.

だから、賃金交渉こそが労働組合の本分だ.その「賃金」の源泉は「付加価値の創造」にある.なんとなれば,付加価値に人件費は含まれるからだ.すると,経営者の利益を出すという目標と,労働者の正当な対価としての賃金の受け取りとは,「付加価値」という一点でかさなるのだ.要するに,おなじ船に乗っているということだ.そして,それは同床異夢でもないことに注意したい.

経営者が上述の勘違いをあらため,労働組合が特定の政治活動から本分に回帰すると,双方にとっての「安全弁」になる.これこそが,生産性向上のための基盤である.付加価値を人数で割ったモノが生産性だからだ.「働き方改革」とは「働かせ方改革」でもある.

経営者と労働者は宿命のライバルであって,ほんらい「敵」ではない

旅館には労使協議会があっていい

「労使」といっても団体交渉でもなく,労働組合を相手にするものではない.経営者と従業員代表(過半数を代表する)による協議である.労働組合ではないので,争議権はないが,時間外労働に関する「36協定」などの労使協定を結ぶことができる.この仕組みを広義の経営参加の場にすることも一案である.

ビールが主役のレストラン

EU本部が設置され,ヨーロッパの首都となったベルギーは,むかしからグルメの国で有名だった.フランスが「ヌーベルキュイジーヌ」で湧いた70年代以降,美食の都はパリからブリュッセルに遷都した.じっさい現在も,人工調味料と冷凍食品を多用して店の特徴が薄れた,パリのレストランはまずいと不評である.

ベルギーは緯度が北すぎて,ぶどうがとれない.フランスとの国境は,ベルギーからすれば南端だが,フランスからすれば北端にあたる.丸太の一本橋でもわたれる,さらさら流れる小川が国境だ.それで、国境沿いの二つばかりの村でだけ,ぶどうが栽培されている.

フランスの宮廷料理の本流を受け継ぐベルギーで,ワインは当然このまれてはいるが,この国の酒は麦からつくる「ビール」である.人類がいつからビールを愛飲していたのか?メソポタミアや,エジプトのツタンカーメン王の遺品からもビール瓶が発見されているから,千年単位のむかしになる.

いまのわたしたちが愛飲するビールの主流は,19世紀に発見された「ビール酵母」のおかげで,工業的につくることができるようになった「ピルスナー」である.古来ビールは「エール」であった.上面か下面かの発酵のちがいが,この飲み物を区分する.日本人が知るエールの代表は,英国のギネスビールだろう.地図でみると,英仏海峡の向かいはベルギーだからか,ベルギービールといえばエールを指す.

九州よりちいさなベルギーには,政府が認定するビールで約800銘柄というが,愛好家が勘定すると1,200銘柄になるというからおどろきだ.日本とは酒税のかんがえ方が違うとはいえ,その差もおおすぎる.

たかがビールというなかれ,エールがもつじつに複雑な味わいは,どれを飲んでもすばらしい.ほとんどが小瓶なのは,ワインのように瓶内発酵しているからで,ラベルにあるアルコール度数表記は,瓶詰めのときのものだから,じっさいはそれ以上である.購入したてのビールは,個人宅にもあるワイン倉で約1年ほど寝かせると飲み頃になる.だから,エールのばあい,ビールは鮮度がいのちではなくほどよい熟成が大切なのだ.

世界どこでも,役人はつれないもので,EUでもピルスナーとエールを一緒にして,エールにも賞味期限をもうけてしまった.おなじヨーロッパでも,しらないひとは賞味期限を確認して購入しているというから,もったいないはなしだ.

さて,前置きがながくなったが,そのベルギーにはビールを料理の中心に据えたレストランがある.数種類のビールが料理コースの骨格をなすから,それらのビールに適した料理がたのしめるという趣向だ.
じぶんがふだん飲んでいる有名銘柄と,意外な料理の組み合わせや,しらない銘柄と名物料理との組み合わせなど,「食をたのしむ」とはこのことかと納得する.さすがはグルメの国ならではとおもう.

つくり手は「これでどうだ」という想いで,いろいろかんがえているのがよくわかる.つまり,「提案」しているのだ.魚料理では,やはり日本のビールの方にイメージが引きずられていく.じぶんが日本人であることに気づかされるから,これも意外な発見なのである.

それにしても1,200銘柄.これにあう料理も1,200あるということか?「提案」とは,「情報発信」のことである.「ビールにあう料理」というコンセプトは,無限の可能性ゆえに無上のよろこびを客にあたえる.このレストランは,「情報産業化」したのだ.

「温泉の化学」という知識

教育の無償化が議論されている.親の所得によっては,私立高校も対象だという案があるから,あらたないじめのネタにならなければいいが.その高校(高等学校)は,これまで義務教育の対象ではなかったが,義務教育化も議論されている.「義務教育」の「義務」とは,だれの「義務」なのか?という素朴な疑問も,いまではネットを検索すればすぐに理解できるから,ここでは言及しない.

小学校と中学校の「理科」では,なかなか「温泉を化学する」まではいかないから,高校の「化学」の知識が必要だろう.しかし,現役の高校生が「化学」という教科をどのくらい楽しんでいるのかはいちがいにいえないのが残念だ.おおくの生徒には,苦痛かもしれない.

ふつう「名著」というと,「難しい本」というイメージがあるが,じっさいに読んでみると案外やさしくておもしろいものがある.そこで,いろいろな「名著」にあたってみると,あることに気づくものだ.それは,「難しいことが易しくかいてある」ことだ.だから「名著」なのだとあらためて気づく.

すごい学者というものは,難しいことを易しく他人に説明できる.ふつうの学者は,難しいことを難しく説明する.深く理解し,精通していなければ,難しいことを易しく説くことはできない.

だから,教師も難しいことを難しく説明するのはプロではない.生徒という顧客が苦痛になる授業を平然とくり返す高校教師は,きっと「義務教育化」に反対だろう.しかし,そもそも授業料をとっておいて,わからないのは生徒が悪い,とするから,予備校講師にバカにされるのだ.

ついでにいえば,これからは高学歴が高収入になるとはかぎらない.いちじるしい人口減少社会になると確定しているわが国においては,職人の手仕事が,これまで以上にとんでもない価値を生むだろう.将来も人工頭脳やロボットにできない分野があるからだ.

温泉宿の温泉知らず

温泉の成分は化学物質でできている.自家の源泉を自慢する温泉宿はたくさんあるが,その成分に通じている主人や従業員がいる宿は稀少だ.有名な温泉博士が「これは美人の湯だ」とお墨付きをいえば,「ははっー」といって,それをカンバンやパンフレットに印刷する.どうして「美人の湯」なのか?入浴すれば,肌がスベスベになるからだ,という程度の説明しかできない.素人同然なのだ.

同じ温泉地でも,源泉がちがえば成分もちがうのがふつうだ.地球の内部は人知をこえた構造をしているのだろう.日本は火山国だから温泉がそこかしこにあって,都会でも深く掘れば温泉がでる.だから,ありがたみと,そうでないどこか「なんちゃって」感が混在している.ところが,たとえばオーストラリア大陸に目をやれば,天然温泉などほとんどない.だから日本の温泉ではしゃいでいるのだ.

ところで,日本の温泉には「湯治」という文化と歴史がある.江戸時代にはレジャーランド化していたとはいえ,そのながれで食事付きになった.また,いまものこる自炊の宿ほど,「湯治」における治癒効果が高いだろう.だから、温泉には「健康」というテーマがつきものなのだ.

高度成長時代,どちらの温泉地もレジャーに徹して成功したのは,まささに「昭和元禄」がピッタリの表現だ.超高齢化社会のいま,健康を売る「場」になっている.そのおおもとにあるはずの,温泉資源が,知識の活用もなく「掛け流し」になっているのは,「贅沢」なのではなくて「ムダ」なのだ.

「化学」をしらないから

温泉宿の食事のおおくが,「地元産」の食材にこだわっていれば,それでなんとかなるとおもっている.80年代に流通網が完成して,「新鮮さ」を売り物にするのはテレビの旅番組だけになった.生活者にとっては,近所のスーパーマーケットで十分新鮮な食材がふつうに手に入るから,旅行気分をたいせつにする客は「新鮮でおいしい」とよろこんだ振りをする.おおくの温泉宿は,お客様に騙されていることに気づかない.その証拠に,そうした人たちがリピートすることはない.しかし,宿側の顧客管理がてきとうだから,こうしたことにも気づかない.

温泉の化学を識ろうとすれば,それなりに勉強しなければならない.ああ,高校時代にちゃんと勉強しておけばよかったと反省するのはおおいに結構なことだ.「化学」にはいろいろな決まり事がある.その決まり事は,普遍的で,変わらない.原子質量が変わってしまったら,この世の中の物質世界が崩壊してしまう.

自家の温泉成分から,効能までをさぐると,自動的にひとのからだのしくみにすすむ.ひともふくめた生物は,化学反応を利用して生きている.食べ物の「消化」も,おそろしく「分子化学」の世界そのものである.だから,温泉とひとのからだが反応して「効能」になるなら,温泉にはいってからいただく食べ物も,なんらかの「反応」があるかもしれない.すると,「地元産」だけが「売り」でいいのか?というはなしになる.

ヨーロッパの温泉地は,入浴よりも「飲泉」が重要視されているから,国によっては温泉旅行に健康保険証を携行する.かならず温泉医療が専門である医師の受診義務があり,飲泉量と入浴時間が指定される.だから,ヨーロッパ人が日本の温泉地を訪ねたら,かなりレジャー化しているとおもうだろう.

「飲泉」は,温泉成分を口から体内にいれるので,入浴よりも効くそうだ.そのかわり,食事は自由ではない.温泉成分との「食い合わせ」が重要になるからだ.それで,医師から食事についての指示もでる.

ヨーロッパが進んでいると言いたいのではない.「化学」を押し出していると言いたいのだ.おそらく,日本でもありえるやり方である.

コモディティ化と専門化

豆腐だ大好きだ.いつからだろうと想いをめぐらせても,はっきりとはわからない.自分の記憶があいまいな例のひとつだ.子どものころは,なにもかんがえずに食べていたし,大人になってもそんなに積極的だったわけではない.あれれ,いつから豆腐が大好きになったのか?やっぱりわからない.

一丁48円も380円もある

スーパーで売っている一丁48円の豆腐は、手が伸びない。どうやって固めているのか、少々不安があるからだ。さいきんは、「ケミカル・クッキング」という言葉がある。ケミカルとは「化学」のことだ。もともと、料理は「科学」的であるから、『キッチン・サイエンス』(共立出版2008年)という名著もある。しかし、料理や食品のはなしを「ケミカル」にしぼり込むと、なんともいえない不気味さをかんじる。

YouTubeで、「ケミカル・クッキング」を検索すると、白衣を着たひとがさまざまな薬品瓶の前に立っていて、これから「料理」をつくる動画がみつかる。これらの薬品は,どれも厚生労働省の認可があるから「食品」に混ぜてよいそうだ.ところが,こうした薬品がはいった食品を食べ続けるとどうなるか?は,だれも経験したことがないから本当はわからない.わからないのに「認可」する役所は,相応に少ない量での使用を想定している.ただし,それが何年も積み重なるとどうなるかはわからない.

豆腐は日本人にとっては「しごくふつう」の食品であった.大豆と水とにがりが三大原料である.これを,ケミカルで考えれば,「にがり」がいじりたくなるだろう.要するに,「薄い豆乳が」固まればよいのだ.何年か前には,ハワイで豆腐ブームがあったと聞く.日本の伝統的な作り方を守った豆腐は,日本からの観光客がよろこんで購入したそうだ.厚生労働省の統計では,1960年のピーク時には5万1596軒あったというから,いまのコンビニの数に匹敵する.それが,2015年に75百軒にまで減ってしまった.現在ではもっと減っているだろうから,往年の15%以下になっているはずだ.

この減った数を年数で平均すると,約800軒/年になるから,旅館の減り方に似ている.しかし,旅館が約千軒/年だから、深刻さは旅館の方にあるかもしれない.

旅館の数が減るのと反比例して増えたのは,ビジネスホテルである.こちらは大手がチェーン化して,いまではどの街に行っても同じデザインのホテルがある.顧客になると,さまざまな特典がつくから,どこに行こうが同じホテルに泊まるというひとも増えただろう.

豆腐屋の方も,大手が工場を自動化して,数社の大手が2割以上のシェアを握るようになってきた.これには,製造のこと以外に,大手スーパーの意向という流通の都合があるだろう.地元の小さなスーパーでも,大手メーカーの豆腐しかなく,地元豆腐店の商品をみることはほとんどない.

宿泊業も,豆腐屋も,「コモディティ化」の流れがはげしい.

「こだわり化」という「専門化」しかない

いま残っている豆腐屋で,跡継ぎが決まっているかもう代替わりしたという店は,ビジネスモデルがはっきりしているにちがいない.そのビジネスモデルとは,「専門化」である.簡単にいえば「旨い店」だ.原材料にこだわれば,自動的に技術力の高さの証明にもなる.「旨い豆腐」は,簡単に作れない.豆腐に惚れこんだ外国人が,名人がいる豆腐屋に修行にきて四苦八苦するTV番組もある.

こうした正統派の店は,けっして「ケミカル」な商品をつくっていない.素人には簡単に作れないから,外国人は逃げ帰らないどころか,ビザが切れて一時帰国してもまたやってくる.豆腐の本当の価値を知っているのは外国人である,という皮肉な番組だ.それは,コモディティ化した「豆腐のような食べ物」を「豆腐」と信じる日本人への当てつけになっているからだ.

それでは,どうやって旅館は「専門化」しようか?それには,まず,なにに対しての専門化なのかを決めなければならない.意外に難しいもんだいなのだ.これは,裏返せば,お客様はどんな価値を求めているのか?ということになる.

アイデアを企画にする

居酒屋での「うちの会社は」談義のおおくはアイデアであって,企画ではない.企画には,目的と予算がつきものだ.予算とは,売上と経費の両方である.だから、企画業務とは,アイデアを企画に昇華させて,それを変換して具体化するプロセスを指す.

企画のタネはアイデアなのだが

どの企業の企画担当者も,アイデア出し,で苦労する.企画への出発点だから,当然といえば当然である.ところが,いざ具体化すると「いい企画がない」とか,「やってみたけどピンと来ない」とかの失敗例が並ぶことがある.

「目的」をうっかり忘れると,うまくいかない.そんなことあるかと思うむきもあろうが,考えすぎて「視野狭窄」におちいることがある.ここでいう「目的」には二種類あることも忘れてはならない.もっとも深いベースとして存在する「目的」とは,企業の「事業目的」である.これをふつう「経営理念」と呼ぶ.「もっとも深いベース」にあるのだが,これを裏返すと,「最上位概念」になる.どんな「企画」も,「最上位概念」からズレると,成功の見通しはつかない.A社でうまくいったのに,B社では浮いた感じになる,という事例のおおくは,最上位概念からのズレが原因だ.

もう一つの「目的」は,その「企画」の目的である.結果的に「視野狭窄」症状におちいってしまうのは,この「目的」すら忘れて「自己目的化」したときに発症するが,その「企画の目的」自体が「経営理念」と矛盾しないことや,一貫性があることが「必要」なのである.「必要」であって「重要」なのではない.

だから、アイデア出しの段階から,「経営理念」がすり込まれていないと,方向が狂ってしまう.

「経営理念」がおかしい

じつは,あり得る大問題である.「経営理念」は「不磨の大典」ではない.だから、変更してよいものだ.もちろん,めったに変えるものではないのだが,それは,企業の事業目的がめったに変わるものではないからである.もう一つが,詰めの甘い経営理念がある.きれいごとが記述してあるだけで,その企業の「顔」がみえない文章を「経営理念」にしてしまっているばあいである.

詰めの甘い経営理念であるばあいは,早急に「煮詰める」ことが重要だ.自社の「顔」となる,事業の特徴はなにか?ということを「哲学」する.この場面でも,アイデア出しというプロセスが必要になる.おそらく,この作業をつうじても,なにをすべきかの「企画」がうっすら浮かぶことがある.それは,上述のメカニズムが働きだすからだ.最上位概念がはっきりすれば,行動の方向性の見え方まで変わる.

事業目的が変わってしまったのに,それに気づかない,ということはあるのか?答は「ある」だ.これを,「灯台もと暗し」ともいう.とかく企業内部にずっぽり浸かってしまうと,大きな変化に気づかないでいることがある.よくあるケースが,業容の拡大をはかって過去に多角化経営をはじめたばあいだ.「専業」だった分野から「周辺」事業にも進出したり,「専業」のなかでも「分化」した事業をはじめたばあいなどがあたる.

「専業」時代につくられた「経営理念」が,多角化によって事業分野が拡大したのに,「不磨の大典」として変更できないと信じているか,単純に放置されているかにかかわらず,現状と見合わない,ことにはかわりはない.だから,このような企業のばあいは,「専業」にかんする「企画」はまわるが,多角化事業については,「企画立案」段階,すなわち「アイデア」もでないことがある.その理由は,古い経営理念が,新しい多角化事業をカバーしていないからである.

いわゆる,「本社」の経営理念が,「子会社」の事業を想定していないばあい,子会社の「行動原理」として,子会社の経営理念も策定できない状態になる.子会社設立時に,資本の出資方法や割合,あるいは会社設立登記については,会計士や税理士,弁護士や司法書士がアドバイスしてくれるが,そのとき,経営理念についてこれら「士業」の専門家は「専門外」になるからコメントもないだろう.そもそも,会社登記でいう,事業の「目的」は「経営理念」を記入するものはでない.

つまり,「本社」の経営者自身が気づかなければならないことなのだ.この「うっかり」は,未必の故意ではないかと疑いたくなるほど,大きなマイナスの影響を子会社経営にあたえることになる.要は,グループ経営とは何か?という命題への取り組みがないことの証拠なのだ.このような状態のなか,子会社で「不都合」な何かが生じたとき,責任をとらされるのが子会社の経営者だけとなるなら,「本社」経営者の完全犯罪が成立する.おそろしい世の中である.

アイデア出しは経営者から

アイデアをうながす方法やツールは,アナログであれデジタルであれ,たくさんある.KJ法という,世界が認めるアイデア出しとそのまとめ方ノウハウは,川喜多二郎が1967年に『発想法』(中公新書)で発表したものだが,いまでも十分に活用できる.近年では,トニー・ブザンが開発した「マインドマップ」が有名だ.

スマートフォンやタブレットといったモバイル端末で,これらのツールが使える時代になった.ひとりでも,ネットでつなげばグループでも「アイデア出し」が手軽にできる.大企業経営者なら社用車の中で,誰気兼ねなくいじれるものだ.企画担当の平社員たちは,とっくに活用しているにちがいない.本来は,人員がすくない中小・零細企業にこそ必要だろう.「アイデアすら出せない」とすくない従業員を呪うまえに,経営理念のチェックを経営者はすべきである.従業員は鏡の中の経営者の写し姿なのだ.

経営者目線でのアイデアを企画にしてほしい.

論理の訓練

日本人は論理的思考よりも情緒的思考をするといわれる.どちらの思考もメリット・デメリットがあるから,いちがいに批判はできないとおもうが,ことビジネスにおいては主軸に論理的思考を優先させて,補助的に情緒的思考を使いたい.

「言えない」風土

おおくは経営者のキャラクターによるが,業績がおもわしくない企業・組織の特徴に,「言えない」風土がある.「言論統制」というと恐怖政治を連想させるとおり,隠れパワハラ状態ともいえるし,慢性パワハラなのかもしれない.そして,こうした組織では,そんな状態をトップが認識していないのも特徴だ.では,トップはどう思っているのかというと,「うちの従業員はおとなしい」とか,「うちの従業員は意見も言えない無能ばかり」とかであろう.当然であるが,この裏返しとして,従業員側は,「うちの社長ははなしを聞いてくれない」と訴えてくるし,「言ってもムダ」となって,そのうち「わたしには関係ない」となるのが定道である.

ビジネス上の情報を知っている従業員が,「わたしには関係ない」となると,ことは深刻である.人的サービス業のばあい,直接お客様と接するのは,パートさんやアルバイトさんであることも多い.したがって,雇用形態における責任の範囲の軽重から,「わたしはパートですから」と謙遜しながら,「わたしには関係ない」を貫く事例が多々ある.

では,パートさんやアルバイトさんが主に接客をしている企業はみなこのような状態か?といえば,そんなことはない.むしろ,積極的に事業参加をうながしている優良企業も存在する.

ということは,やはり「経営」のちがい,に問題が集約されるのだ.

自信過剰か自信がないのだが

決定的に欠けていると思われるのが,「論理的思考」なのである.

自社の主たる事業が人的サービス業であれば,従業員が業務上で得る情報は,たいへん貴重な資源である.経営資源は,「ヒト,モノ,カネ」というが,「情報」をくわえなくて現代の事業は成り立たない.だから,従業員からの気づきの情報は,業務改善ばかりか新商品開発にいたるまで重要なのは誰にもわかるし,クレーム情報であれば緊急を要するだろう.

すると,これに気づかぬ経営者とは何ものなのか?ということになる.じつは,「情報」という「字」にヒントがある.「情」に「報いる」と書くのだ.インフォメーションを情報と訳した先人の知恵の偉大さにおどろくばかりだ.ひとの感情にちゃんと報いることをしないと,相手にされなくなるのだ.つまり,「情緒的思考」がここにある.これは,「人間力」のことだ.企業組織をうごかすモノは,人間である.経営者も人間,従業員も人間,お客様も人間なのだ.

さて,以上を通読してお気づきだろう.上述のはなしは,論理で貫いている.だから,問題ある経営者とは,自己を第三者的な論理で見ることができないひとなのだ.

ロジカル・シンキングの訓練

本来は従業員と共通の場で議論するものである.しかし,「論理的思考」ができない・苦手な経営者には,あらかじめ予習的な訓練が必要である.その訓練を経て,従業員との共通の場をつくるという手順だ.

一方,従業員たちには「訓練」を強調しておく必要がある.「訓練」だから「本番ではない」という前提がないと,自由に語ることはない.議事進行役を変更しながら回を重ねると,だんだんと調子がでてくる.その場にいる経営者にも,「訓練」だからなにを発言してもいい,と最初にルールを語ってもらうとよい.

だいたいの目安だが,半年くらいでずいぶんと変わってくる.一年もすると,まるでちがう「風土」になっているはずである.そして,氷解の具合に比例して,業績が改善することも実感するだろう.

「訓練」は未来に続く.