信州味噌のみそ

コロナで自粛していたからではないけれど、久しぶりに信州は松本を訪ねてみた。
松本城を数十年ぶりに見学して、むかしよりずっと「よかった」のはどうしてか?

城内天守閣にあった、火縄銃やらの銃器の展示の充実が、なんだか新鮮だったのは、45歳から夫婦ではじめた「クレー射撃」の趣味をして、若いときにはまったくなかった「銃の知識」を自然に得たからであろう。
そもそも、若いときにこんな展示があったことも記憶にないのである。

なので今回「はじめて観た」展示で、記憶に残ると感じたのは、銃の心臓部にあたる「機関部」のつくり(構造)が、現代のものと基本的におなじだったことの驚きであった。

つまり、「精密」なのである。
これをどうやって「こしらえた」のか?
組立もさることながら、その「部品」づくりにおける技術のことだ。

もちろん、「鉄砲」は、「弾」が通る「道」としての「銃身」の精度確保も、的中率ばかりか事故にもつながる大仕事である。
「まっすぐな穴」でないといけないし、強度がないなら熱と圧力で「銃身膨張」が起きて、もしや「裂け」たりしたら、射手の命にかかわる事故にだってなるからだ。

いまは、鉄の棒をくりぬいてつくるけど、むかしは鉄板を丸めて「鉄管」にしていた。
この丸める技術がすごいのである。
「刀鍛冶」の基本があっての技である。

それで、「弾づくり」は、女子が担当したという。
熱く溶けた金属を球体にするために、板の上で転がすのである。
この大きさが狂ったら、銃を破壊しかねないから、責任のある仕事である。

もっとも、なによりも「火薬」がないと話にならない。
日本にない「硝石」を得るために、「貿易」をするしかなかった。
只今現在、クレー射撃も、ヨーロッパからの輸入が絶えて、なんと「弾不足」で射撃ができない状態になっている。

わが国は、スポーツ射撃用の散弾も「国産」が絶えたのである。
これは、織田信長も仰天する事態となっている。

さてそれで、信州は広大な地域だけれど、信州といえば「味噌」である。
どうしてか?
所説あるなかでも、かつて日本経済を支えた「女工」を集めて工場内に住まわせたことでの必需品だったからという。

「絹(シルク)」と「味噌」は、つながっているのである。

けれども、味噌の産地として決定的になったのは、関東大震災による「壊滅」で、いわゆる「首都圏」の味噌屋も消失してしまった。
それで、信州の味噌が国内4割というシェアを得ることになったのである。

女工のための大量生産技術が、日本人のための大量生産になったわけだ。

信州味噌の特徴は、「米味噌」にある。
原材料は、米からつくる米麹と大豆だ。
「麹」は「麹菌」のことで、わが国の「国菌」となっている。

そこで問題になるのが、「大豆」なのである。
この「由来」が、4月から見えなくなった=見えなくした。

世界の大豆は、すでに「遺伝子組み換え作物」になっている。
それで、アメリカとかの「外国産」を買い付ける場合に、わが国の企業は「高額」の「遺伝子組み換えでない」ものを買っていた。
これが、できなくなってきたのである。

カネを出せば買えることができなくなってきたのは、農家が手間を嫌がっているからという理由が大きい。
どうして遺伝子をわざわざ組み換えたものになるのか?といえば、農薬の「耐性」があるからだ。

農薬は、農作業の手間を劇的に「改善」する。
しかし一方で、「F1:第一世代交配」のタネしか使えないので、農家は自家で収穫したものを翌年に蒔くことができない。
F2の品質が保証されないばかりか、種子メーカーとの契約違反になるからだ。

ここで注目すべきは、農薬メーカーと遺伝子組み換え種子のメーカーが「イコール」であることだ。

一度で二度美味しい。
これが、「ビッグファーマ」と呼ばれる、大化学薬品メーカーのグローバル・ビジネス・モデルなのである。

人間も動物なので、食物を外から得てこれを「消化」しないといけない。
それで、消化とはなにか?を問い詰めたら、食物を「分子化」させて体内に取り込むことを指す。
生体とは、すべからく「化学反応」を利用して生きているものをいう。

そこで、人工的に組み替えられた遺伝子が、どのように「消化」されて体内に取り込まれ、それで取り込んだ生体がどうなるのか?が問題になる。
ここが、「安全性」の「キモ」なのだけど、遺伝子組み換え物質ができて間もないから、「時間経過」による影響がわからない。

「わからない」状態にあることだけは、いまのところ確実なのである。

よって、政府が言う「安全」とはなにか?は、意識しないといけなくなっている。
政府に多額の納税と、寄付をしているのが「ビッグファーマ」だからだ。

そんなわけで、信州味噌の地元老舗直売店には、原料の出所があきらかな「味噌」があって、スーパーの信州味噌とは「価格」でも一線を画している。

それでもって、原料の出所をあきらかにさせない、というのが政府の方針になっているのが「みそ」なのである。
「楽市・楽座」をやらせた、織田信長が、弾をつくれない以上に仰天するのがこのことだ。

スリランカ政変の深刻さ

深刻なのはスリランカではなくて、わが国だ、という話である。

大統領辞任どころか「逃亡」にまでなったスリランカ政変の事態は、そのきっかけが、中国による「債務の罠」だったことは周知の事実だ。
重要港を、99年間も盗られてしまったことの「浅はかさ」は、政治家たちの「個人的欲望」がそうさせた。

これを、「売国奴」というのだ。

しかし、スリランカ人が「自浄能力」を発揮できずにいたのは、かつての大英帝国支配での「被支配者」としての「奴隷根性」が残存していたからでもあろうし、英国仕込みの「統治機構」が、盤石にみえたからでもあったろう。

この点で、「英国」を「アメリカ」に置換すれば、すっかりわが国にもあてはまる。

そんななか、ラジャパクサ兄弟による大統領職の独占は、まずは「兄」の時代に親中路線が確定し、弟が大統領になってから兄の首相就任で、確固たるものになった。

なんだか、プーチン氏とメドベージェフ氏の大統領と首相の関係に似ているけれど、真似っこしたのはスリランカの方である。
しかして、これをやらせたのは誰かと下衆のかんぐりをしたくなる。

当然だけど、日本経済がよかった時代は、日本人観光客がたくさんいて、スリランカ人の日本語学習熱も高まっていた。
この小さな島(人口は2000万人程度)の経済は、農業と鉱業(ダイヤモンド以外の宝石)それに、観光業だったからである。

しかし、それよりも「親日」なのには理由があって、白人国家群(いわゆる「列強」)からのアジア解放の「希望の星」が、大日本帝国だったからである。

混沌のインドを、その狡猾さ(=腹黒さ)で支配し、成功した大英帝国の東インド会社と、オランダの東インド会社はあまりにも有名だけど、「民度」でまさるスリランカ(セイロン)の統治には、英国人をして「間接統治」の実験台にしたのである。

なんだか、敗戦後の「日本モデル」の先行事例がスリランカにある。

これには、「大陸に近い島国」という「特性」も無視できない。
英国とヨーロッパ大陸の関係、台湾や日本と中国大陸との関係に似ていて、大陸に近い島国は、独立の維持に汲汲とするのが「常」なのである。

そうでもしないと、大陸国家に「飲み込まれる」危険があるからだ。

そして、往々にして、島国の民度は敵対する大陸国家よりも「高い」という特徴もある。
狭い島国ゆえの「智恵」が働くからである。

そんなわけで、スリランカ人は、日本への期待を敗戦によっても貫いて、「日本無罪論」を法的論拠に基づいて主張したものを、インド代表のパール判事が採用して、東京裁判での日本無罪論になったのである。

日本の保守層は、直接的な「感謝」をパール判事に向けるけど、スリランカ人はこれをおおいに不満に思っている事情は、インドとスリランカの関係が、大陸と島国との緊張関係にあるからである。

この日本無罪論は、スリランカの第二代大統領になったジャヤワルダナ氏の蔵相時代、サンフランシスコ講和会議においての演説にもあった。
「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む(英語: Hatred ceases not by hatred, But by love.)」として、日本に対する戦時賠償請求を放棄する演説を行ったのだった。

そして彼の「遺言」によって、角膜を、「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」が実行されて、群馬県の女性に移植されたのだった。
このエピソードは、スリランカ人でしらぬものがいないのは、小中学校で繰り返し学ぶからである。

しかしながら、日本の小中学生には「隠蔽」されているので、いまや日本人のおおくがこれをしらないで生きている。

さてそれで、弟ラジャパクサ大統領は、性急な農業政策を実施して、100%以上あったスリランカの食糧自給率を、実質的に激減させてしまった。

わたしは、この話には「裏」があったと疑っている。

じつは、習近平政権が、急激な「農業改革」を実施して、あんがいと「成功」しているという。
これが、「有機農法の普及」なのだ。

1億人の党幹部向けかどうかはしらないが、安全な食材の確保、という改革をやっているのである。
これを真似たかやらされたかはしらないが、スリランカも「有機農法」への強制的な転換が実施されて、肥料や農薬の輸入を禁止した。

それでもって、有機農法技術をしらない農民たちが、作物栽培に失敗して、とうとう主食の「米」も不足するに至ったのである。

これが、「食糧暴動」となって、大統領府を占拠するまでになってしまった。

ここでわが国の農業がでてくるのである。

欧米で使用禁止されている農薬やらが、わが国では「規制緩和」されて、とうとう、わが国の農産物は「ヨーロッパで輸入禁止措置」がとられるまでになってしまった。

日本の農産物を輸出して、香港やらで大人気だったのは、いまはむかし、のことである。
前述のように、国産の安全な農産物があるために、中国でも日本産はもう売れない。

ではいま、日本人はなにを食べているのか?
あるいは、なにを食べさせられているのか?
「食源病」という問題が、国民の健康を蝕んでいる可能性がある。

もしや、食糧不足に陥ったスリランカよりも、ずっと深刻な問題は、日本に「まとも」な食料がないことではないのか?
はたして、豊富に見える食品は、ほんとうに「食品」なのか?と追及したら、「飽食」の実態は、真夏の「怪談」よりも背筋が寒くなる話なのである。

さらなる恐怖は、とっぷりと浸かっている化学肥料と農薬を必需品とする農業なのに、世界シェアがあるロシア産原材料が「輸出禁止」になったため、来年分の肥料がない状態になっている。

原料がなければ工場も稼働せず、カネがあっても買えないことで、スリランカの失敗状態に追い込まれているのがわが国なのだ。
にもかかわらず、「圧勝」したという「与党の無策」は続き、来年にはわが国で食糧暴動が起きているかもしれなくなっている。

なお、本書によれば、アメリカ人は、食糧を「最低コストの武器」だと、伝統的に位置づけていることも、戦後の日本人はしらないで生きているのである。

スイス観光旅行に行けない

むかしからスイスの物価は高くて有名だった。

いろんな事情があるけれど、食べてみてわかるのは、「高くてまずいパン」だった。
日本と似た値段の割に美味かったのは、ビールだったから記憶に残っている。

日本のターミナル駅ならほぼ見つけることができる「駅蕎麦」と同様なのが、「サンドイッチ・スタンド」だ。
40年前でも,これにコーラをつけたら1000円近くして驚いたものだけど、いまの日本でも「セットメニュー」と駅構内コーヒースタンドで食後のコーヒーを飲めば1000円ぐらいになる。

永世中立をうたっていた当時も、「防衛上」の用意周到から、食糧の保存が義務付けられていた。
だから、今年の収穫分は2年間保存しないと行けないために、3年目になって放出される小麦でしかパンを焼けなかったのである。

建築基準法でも、家を新築するときには「核シェルター」設置が義務化されていた。
それで、もっとも高価な設備が、外気を浄化する装置だと聞いた。
地上で核爆発があっても、シェルター内の空気を汚染させないためである。

ジュネーブからイタリア・ミラノに向かう国際列車は、何度もアルプスのトンネルを通過する。
その谷間ごとに空港があるけれど、どこにも駐機している飛行機が見えない。

よく眺めると、滑走路が山に突き当たっていた。

まるで『ウルトラセブン』の基地のように、山をくり抜いて格納庫にしているのだった。
なるほど、あのヒトラーの最強ドイツ軍をして、1ミリもスイス国境を越えることができなかった理由がわかる。

『サウンドオブミュージック』の緊張感のある逃亡シーンが、妙にリアルに思い出されたものだった。
目に見える地面のすぐ先が「国境」だという概念は、やっぱり日本人には分かりにくい。

日本でも購入できる、「ユーレイルパス」は、スイス国鉄でも有効だ。
しかし、肝心の観光地に向かうのに使う「登山電車」やらの交通機関は別料金になっている。

40年前でも、ユングフラウの麓にあるグリンデルワルド村に滞在しようと思ったら、この電車に乗らないと行けない。
たとえレンタカーを使っても、途中の駐車場で電車に乗り換えないと行けないのである。

この方式は、グリンデルワルド村と姉妹提携した、上高地がある長野県安曇村(現松本市)が採用した。
上高地の場合は、鉄道ではなくて乗合バスかタクシーに乗り換えないと行けないのである。

これを「マイカー規制」と呼んでいるが、「本場」の規制はもっと厳しい。
村人ですら、電気自動車でないと村内移動ができないのである。
40年以上も前から、電気自動車を買わないと生活できない規制を住民投票で決めたのである。

当時、電気自動車は一体いくらしたのか?という前に、なんと村人が自作した電気自動車が「共通規格」になったのだ。
なんと素晴らしい「環境保護意識」だろう!
と思っては間違いだ。

スイスの観光地の村人は、「稼ぐため」に特化して考えを巡らしたのである。

つまるところ、究極の「略奪方法」の考案に努力した。

そこに美しい山や湖がある。
これを一目観たいという観光客が世界中からやってくるので、お金をたくさん払える人たちを優先して「客」とみなしたのである。

それ以外は客ではないという決心は、マーケティングによっている。

開通までに25年を要した、ユングフラウ・ヨッホまでの登山電車の運賃は、40年前でも1万円を超えていた。
ヨーロッパ中の国鉄に1カ月間乗り放題のユーレイルパスが5万円だった時代である。

なぜに登山電車の運賃がかくも高価なのか?は、簡単な理由で、入山ならぬ「入村」する人たちを振り分けるためなのだ。
それでもやってきた人に、残念な思いをさせないために住民もコストを負担した。

そうやったら、「意識高い系」の人ばかりが客になったので、住民たちのコストは簡単に回収できるようにもなった。

素晴らしい景観の山小屋のテラスで提供される決して「うまい」とはいえない料理でも、飲み物を含めたらかんたんに1万円程度になるけれど、これを「高い」といって文句をいうひとはいない。

ちゃんとした食器で提供されて、それを洗浄した排水はヘリコプターでタンクごと運んでいる。
こうしたコストを、観光客の方がよろこんで負担しているからである。

さらに、「山小屋」だけでなく、「村内」にある宿泊施設も、基本的にぜんぶが「村営」なのである。

日本的「村営」ではなくて、村人たち全員が出資した会社の経営による。
だから、税金も投入する日本的「第三セクター」ではない、れっきとした「株式会社=完全民営」なのだ。

社長には村長がなる、というのは「偶然」で、村人総会=株主総会をもって社長を選出するから、利益が出せないなら村長が社長でも容赦なく解任されるのである。

村長を解任させられるのではなくて、あくまでも社長の方だ。
つまり、行政の長と経営上の長とを住民が分けている。

それだから、遠目に山が見える、たとえば国鉄と登山電車の乗り換え駅には、大型ホテルがあって、「入村料金」を払えない観光客は、ここまでをもってユングフラウに行ったことにするのである。
そのための「お土産」もふんだんに販売されていて、「行ったつもり」になれるようになっている。

いまやスイスと日本の所得差は、ざっと3倍にまでなった。

スイスでは、ペットボトルの水が1本500円ほどになる。
なので、ふつうの昼食が、一人前で5,000円程度にもなっている。
ホテルの宿泊代も、1泊5〜6万円が「相場」なのだ。

日本に住む日本人と、スイス人だってそんなに変わらない生活をしている、というけれど、日本に住む日本人がおいそれとスイスに行って、日本とおなじレベルを維持しようとしたら、目が飛び出すほどの出費を覚悟しないといけなくなった。

当時から「高い物価」だとわかったのは、周辺国との比較でだった。
スイスだけの滞在ならば、あんがいがいと日本と変わらなかった。
40年前にスイスに行ってよかったと、今更ながら思うのは、なんとも残念な話なのである。

けれどもそこには、日本の失敗の理由とスイスの成功の理由の「分岐点」が、はっきりしている。
「ビジネス」としての感覚が、甘いか辛いかの差なのであった。

1954年農産物貿易促進援助法

これは、アメリカの連邦法である。
法律の内容から、「余剰農産物処理法」といわれて、法律番号から、「PL480」ともいう。

なお、「PL」とは、同国法体系にあっての「Pub.L.」のことで、「the general public (public laws)」の略、つまり、もっとも一般的な「公法」をさす。

この法律は、さまざまな変遷を経て、2008年に「平和のための食糧法」になり、その「目的」から、「輸出市場開拓」の文字が削除されている。

つまり、戦後の食糧難のときから、輸出市場開拓を日本でしていたことの「根拠法」なのだ。
そして、わが国では「学校給食」による消費として活用された。
その具体的な食材が、「パン」と「脱脂粉乳」だった。

もちろん、「パン」の原材料は「小麦」なので、米から小麦への転換を強要されたという見方もできる。
マクドナルドの絶対的戦略が、子供のうちに味を覚えさせること、とおなじで、一生の「食」を支配することになるからである。

これは、消費者に「習慣性」を植え付ける、という意味の企業行動である。

いわば、「麻薬」とまではいかないけれど、意図的に「依存症」にさせる、意志のことだ。
じっさいに、小麦に含まれるグルテンには、脳に快楽物資の分泌を促す作用があることがわかっている。

「人類は皆兄弟」だから、おなじ動物だとかんがえてはいけないのは、「人類史」における、「環境適応性」が、人種や民族によって異なるからである。

アフリカを起源とする、ホモサピエンスは、どうやって地球上に拡散したのか?という壮大な物語がある。
地球儀をイメージすれば、北と南といった「縦方向」に移動するのと、東西といった「横方向」のどちらに移動するのか?

いま住んでいる土地が、なんらかの理由で住めなくなって移動をかんがえたとき、「気候」といった「環境」がなるべく変わらない場所に行くのが、いちばん「楽」な選択だ。

もちろん、「徒歩」をもってする移動だから、はじめは大きな変化に気づかない。
それでも、「縦方向」を選ぶのは、なにかの事情があったともかんがえられる。

 

そんなわけで、広大といっても巨大な「島」のアフリカ大陸から出るには、いまのイスラエルやサウジアラビアを通過しないといけない。
なので、この場所が、その後の人類の「分岐点」となるのである。

なお、地球には自転があるので、太陽はかならず「東」から昇る。
ゆえに、「光」を求めた人類は、東に向けて横移動したとかんがえるのは、説得力がある。
しかし、変わり者は「沈む」方向に向けて移動したのだろう。

さてそれで、当時のイスラエルやサウジアラビアの地域が、どんな気候だったのか?を調べると、あんがいといまのような「砂漠」ではない。
ただし、乾燥傾向にあったから、食糧とする穀物は「小麦」であった。

だから、人類は小麦という植物がなかったら、世界中に拡散することはできなかったろう。
しかしながら、小麦には必要なタンパク質や栄養素が足りない。

それで、家畜の乳や肉をもって補ったし、オリーブ・オイルから脂質を摂った。
また、絶対不可欠の「水」の確保が困難なので、ぶどう酒から水分補給した。

これが、生存をかけたときの「食欲」だ。

水代わりのぶどう酒は、「酒」なのでアルコールが入っている。
これによって、腐敗を防ぐだけでなく、人間側の機能も強化されて、この地域の人々は、絶対にアルコール分解できる能力をもったのである。

ゆえに、のちにヨーロッパ地域に移住した白人種たちは、生存能力としてアルコール耐性をもつのである。
逆にいえば、アルコール耐性がない個体は、淘汰される運命にあったのだ。

なので、羊とワインがそのまま「宗教」のなかでの絶対的要素になった。

さてそれで、東に移動したひとたちのゴール地点が日本列島だった。
当時の海水面は、いまよりも150メートルばかり低かったので、到達するには航海を要しない。
されど、日本列島の東には、太平洋があるから、どん詰まり、なのだ。

いつから米を栽培したのか?
縄文遺跡からでてきた籾をDNA分析したら、万年単位のむかしになるのである。
それで、揚子江沿岸の米との類似性が確認された。

伝播ルートは、北回りの朝鮮半島経由ではなくて、直接、ということがわかったのは、朝鮮半島にみつかる米が、ずっと新しく、別種だからである。
加えて、米の栄養素は、小麦と比較にならないほど豊富なのである。

それで、日本人は乳や肉を食べずにやってきた。

水も豊富だから、ワインを必要としないばかりか、和食にワインはあわない。
これが、わが国でワインが普及しない理由だし、キリスト教も普及しないのである。

それに、米から作る酒だって、貴重品だからお供えする「御神酒」になって、自分たちでは飲まない。
それで、日本人は世界的にアルコール耐性がない民族になった。

こうしたことの「破壊」が、自国ではなく外国の国内法で実施された。
しかも、その「余剰農産物」とは、なんと「残飯」扱いにもなる「品質」だった。

そうやって、日本人が「羊=家畜」にされた。

署名したのは、「アイク」、共和党アイゼンハワー元帥である。
しかして、大統領退任時に、「ディープステートの支配」を口にした最初のひとだった。

電力逼迫と食糧危機

電力会社は電気を売って生きている。
だから、電力逼迫とは、商店でいえば「欠品」のことをいう。

食糧危機は、農家がつくる食糧が足りなくなることをいう。
この場合の「農家」とは、国内・外国、それぞれを指すけれど、足りないのはやっぱり「需要」とのギャップで生じる「欠品」だ。

さてそれで、わが国のばあい、電気は経済産業省、食糧は農林水産省が「管轄」していて、どちらも「自由経済」での「自由経営」をさせていない。
いわば、「ソ連型」を踏襲している。

相変わらず「国家統制」の対象だからである。

わが国では、どうしてソ連が国家破たんしたのかの原因追及が国民に常識として普及していないのか?といえば、日本政府にとって「やぶ蛇」になるからである。

80年代に、「世界で最も成功した共産主義国」と評価されたのは、わが日本国であった。
これには、「世界一優秀な官僚」を輩出させる、という教育の成果もあったのだ。

いやむしろ、計画経済の実行には、「優秀な官僚」は不可欠だ。

すなわち、わが国は、「ソ連を支えたロシア人」より、数倍も優秀な官僚たちがいたことが重要な事実なのである。
だから、中国人がわが国で学んだのであって、いまの首相がいう「国家の宝」が中国人留学生だというのも、功績と貢献に対する本音の披露にすぎない。

このことはことのほか重要だ。
わが国の共産主義・全体主義「体制を輸出」していたら、政権与党が共産主義・全体主義に染まったのである。

これを支える教育機関が、東京大学などの「旧帝大」なのである。

しかしながら、計画経済は、理論的に「不可能」をとっくに証明されている。
わが国ではあまり有名ではないけれど、いまもある「オーストリア学派:ウィーン学派ともいう」のミーゼスが、1920年(大正9年)に発表している。

その要諦は、「価格」という「情報」にある、と。

すなわち、国家がする計画経済(=統制経済)では、「価格」が存在しない。
国家がなにをどれくらい生産するのかを決めるので、そこに「価格」が自由経済の「価格」として表現されることがないからだ。

つまるところ、「りんご」を今年は100万トン生産すると決めて、それを1個100円で消費者に販売する、と決めたら、「そうなる」経済なのだ。
なので、50万トンしかできなくても、消費者には100円で販売される。

ならば、欠品して需要が高まればどうなるのか?
価格は100円のままで、「欠品」するだけ、なのである。
だから、ソ連名物の光景は「行列」であった。
町を歩いていて「行列」があれば、とにかく自分も並んで待つ。

うまくすれば、順番通り何かを買うことができるからである。

すると、この行列に何時間か並んで待つということも、「生産性」のなかに含まれるので、あらゆる物資が「欠品」したソ連経済の不効率は、自由経済の比較になろうはずもない。

ちなみに「不効率」とか、「効率」をいうときは、投入資源と産出資源との割合をもっていうのである。
時給1000円のひとが、1時間行列に並んで、りんごが1個100円で買えたら、そのりんごを得るための効率は1100円になる。

1976年9月に、当時最新の戦闘機ミグ25で函館空港に亡命着陸した、ベレンコ中尉は、アメリカに行ってからの手記に、「故郷の駅に腐敗したりんごが山積みになっているのをみて、計画経済に絶望し亡命を決意した」とある。

計画経済の計画が困難で不可能なのは、生産にまつわる投下資源の種類や量に関する計画だけでなく、輸送などの流通に関する計画もしないといけないけれど、これらを官僚がすべてをまとめあげること自体、できっこない、のだ。

対して、自由経済では、「価格」によって「自動調整」される。
「需要と供給」を取り持つ唯一の「情報」が、「価格」だからである。

そんなわけで、電力逼迫の原因は、例の「想定外」も含めて、なんやかんやと理由探しに忙しいけど、経産省官僚による計画経済の失敗なのである。
昨今、わが国官僚の劣化が指摘されていることの表面化だが、ソ連崩壊からひと世代30年を経ての「破たん」は、それなりに立派だったと評価しようとおもえば評価できるものだ。

もちろん、「農水省」も同様である。
世界シェアにおけるウェートが高い、ウクライナとロシアの小麦に端を発したとはいえ、一方のロシアは肥料の原材料資源国でもある。

すなわち、生産計画を策定するうえで欠かせない「肥料」についての逼迫も「想定外」だというも同然なのである。
まことに、往年のソ連経済の状態がわが国にある。

しかして、こんなシステムにしたのが、近衛内閣以来の「革新官僚=計画経済を目論む官僚」が政治家になってつくった自民党の無様なのである。
その筆頭が、A級戦犯として死刑判決があったのに生きのびた、岸信介であった。

もちろん、「独立回復後」にすぐさま国会の全会一致で、「戦犯の名誉回復」をしているので、わが国に「戦犯」は存在しない。
その後ろにいる「革新官僚」が、一度も糾弾されたことがないこと自体、国民の無関心があるからだ。

その意味で、岸を嫌った国民が起こした「60年安保」こそ、「中途半端」だったと、いまいちど見直す必要がある。

残念ながら、国民が酷い目にあうのも無関心の結果責任なのである。

幻想の「永遠なるもの」

むかしからある、からといって今後もずっとある、というわけにはいかない。

けれども、ひとは、「希望」と「現実」が一緒くたになってしまうほど、特に自分のことは「希望」が優先するので、悪くかんがえることもやめてしまうものだ。

そうやって、家族も家も、仕事もなにも、永遠に続くと勝手に解釈して、「放置」するのである。
だから、突然、その「終わり」がみえてきたとき、かならず狼狽して冷静さを失い、最悪の事態になってしまうことがある。

これは、そのときになって「最悪をかんがえた」結果なのだ。
ひとは、自分がかんがえたことを実行するからである。
まさに、『ゴーストバスターズ』(1984年)での、「マシュマロマン」のごとくである。

ほんの一瞬でも、頭に浮かんだら、それが現実になってしまう。
まさか、この期に及んで「マシュマロマン」をイメージしたら、そうなった、というのはお笑い種ではないのだ。

脳とは、量子コンピュータであるという「説」は、意識が量子でできているという意味なので、宇宙空間を満たしている「ダークマター」やら「ダークエネルギー」とは、量子のことだという仮説になんだか説得力があるのである。

しかし、人類はまだ、その量子がなんだか特定できていない。

なので、現時点で量子として宇宙空間をさまよっている「意識」が、「永遠なるもの」にもっとも近い。
ただし、宇宙自体が永遠なるものかどうか?すらわかっていない。

将来のどこかの時点で、こうした「仮説」が証明されたら、人類が発明した「宗教」のほとんどが消滅する可能性もあるし、復活する宗教もあるやもしれぬ。

すると、「正しさ」ということを軸とした、証明された事実と合致しない宗教の信者と、合致するひととの間で、想像を絶する対立が生まれる可能性があるし、合致しない宗教のなかでも、どんな「崩壊」が起きるのか?

よくある科学における「もしも」であるのが、次の二題だ。
・もしも月が突然消滅したら
・もしも地球の自転が急に止まったら

どちらも、地上では悲惨が起きるとかんがえられている。
つまり、「かんがえた」ひとがいる。

あんがいとしられていないのは、太陽に対する地球の公転にあたって、地球と月は、あたかもダンスを踊るように、「ブレ」ながら公転している。
恒星でいう「連星」のようになっている。

しかも、月ができたのは、別の星が地球に衝突して、えぐれた地球の一部が剥がれて月になったという説がいまでは「定説」となっている。
だから、アポロ計画で持ち帰った「月の石」が、地球のそのへんにある石とおなじ組成だった、のだと。

一方で、地球側は、衝突によって内部が露出してかく乱された。
ために、本来はずっと内部にあったはずの物質が地表に出てきたというのである。

ちなみに、人類がこれまで掘った「穴」で、最深のものは、1万2261メートル(およそ12㎞)である。
日本記録は、新潟県にある6310メートルだ。

90年代に1万メートル級を目指した「日本列島における超深度掘削と坑井利用観測(JUDGE)計画」はあるものの、その後進展がないのは、「科学技術」の研究予算配分に、「役に立つ」という条件がついたためである。
それでもって、「文系」の官僚が予算を牛耳っている。

もう一つの「急に自転が止まったら」どうなるか?は、偏西風がとてつもない「風速」になって地表を襲う。
それに、赤道の円周は約4万㎞だから、これを24時間で割れば時速になる。

4万㎞ ÷ 24時間 ≒ 1700㎞ となる。

音速は、秒速約340m だから、時速(3600秒)にすると、約1225kmだ。
つまり、地球はマッハ1.4の超音速で自転している。

なので、急に止まると、慣性によって、ありとあらゆる地上のものはすっ飛んでいく。
残念ながら、人類などは生存できない。

ありがたいことに、地球の自転が急に止まることはない。
これが、「現実」だからかんがえることすら「ムダ」だというひとがいるけれど、果たしてそうなのか?

うつろいゆく時間とともに、老いていく「現実」を無視できるひとはいない。
ただ、若いときは除いて、という条件があるのは、「若さ」とは「時間を気にしない」時期をいうからである。

しかしていま、小学生が「老後」をかんがえる時代になった。
これこそが、「老化」なのである。

過去・現在・未来とは、個人の短い一生のことではなくて、「人類史」という観点からのことをいう。
すると、「永遠なるもの」がほとんど存在しないことに気づくのである。

あるのは、なんと「精神=意識」なのである。

なるほど、われわれの意識が宇宙にあるとすれば、それすら「幻想」かもしれないけれど、「永遠なるもの」にもっとも近しい。

まことに不思議なものである。

一次産業復活は農水省廃止から

世界の食糧危機と、国内の食糧危機は分けてかんがえるひつようがある。

これは、「昭和恐慌」と「世界恐慌」を分けてかんがえることに似ている。
あたかも似たような時期に、「恐慌」という字で書けることが起きたから、時間感覚も含めて原因がぜんぜんちがうのに、後世のわれわれは一緒くたにしたくなるからである。

もちろん、第一次産業も「グローバル化」しているから、世界の影響を受けている。
しかしだからといって、国内オリジナルの問題を混ぜてしまったら、なにがなんだかわからなくなる。

こういうのを、「ちゃんぽん」といっていた。
「ちゃんぽん」の語源には所説ある。
とにかく「混ぜる」という意味からきている。

「長崎ちゃんぽん」といえば、誰でもイメージできる全国区の「郷土料理」になった。
しかして、その具材や麺自体、あるいはスープの原材料が、どこまで「国産」といえるのか?は、なかなかに難しい。

このところ大問題になっている、「肥料」や「農薬」などの必需品にして消耗品の「高騰」や「品不足」で、これらがまたどこまで「国産」といえるのか?もなかなかに難しい。

農産物の原材料で、100%国産といえるのは、「水と空気」ぐらいになっているのだ。
「土」はあるけど、これに「肥料」をくべないといけないので、100%とはとうていいえない。

「水」も、水源地が外国人によって購入されている。

しかも、「空気」だって、「二酸化炭素肥料」という「こやし」がないと、園芸作物ができない。
「甘くておいしい」メロンやトマトなどには、温室内の「二酸化炭素濃度を上げる」ことが有効なのである。

グローバル全体主義が支配している世界のなかで、わが国の政権与党もこれに与しているので、農業から二酸化炭素排出を減らすための「補助金制度」を設けるという、ほぼ「ルイセンコ状態」という噴飯ものに堕ちている。

ルイセンコという人物の「悪名」は、人類の反面教師として忘れてはならない。
それは、「科学が政治に利用される恐怖」を意味するからである。
もっといえば、「政治に科学が屈すること」なのである。

世界でマスクを外せない、いまや「唯一の国」となった日本で、マスクを着けることの科学的根拠を挙げて、マスクを外すことの科学的根拠を示さないことを批難しているひとがいる。

このひとは、マスクを外すことの科学的根拠を本当に知らないのか?それともリサーチ力がないのか?もっといえば、「常識」を知らないのか?もわからないけど、ルイセンコ化している自身の愚かさに気づかない。

この意味で、コロナ禍初期にいっていた、東京都医師会のマスク着用の無意味とか、その後の日本小児科医会の「警告」も全部無視できる。
ただし、東京都医師会のマスク着用への「転向」も、ルイセンコ化といえるから、グズグズの議論になったのである。

一事が万事これだから、一次産業をあずかる「農林水産省」という役所のなかも、当然にルイセンコ化しているのである。
それが、上述の「二酸化炭素排出制限」を農業に課すということになる。

もっと悪辣なのは、この制限に協力する補助金を得ようとした場合の条件に「団体申請」という仕掛けを仕込んでいることだ。
これで、個人経営に徹した農家を排除した「一石二鳥」がある。

こうした「憲法違反」を、平然とする役所があるのは、政治が機能不全を起こしているか、政治が率先してやらせているか、あるいは、これら「両方」のどれかである。

役所は設置しないけど、役人のスタッフを配置する、いわゆる「無任所大臣」がいる。
役所の設置には「設置法」を制定しないといけないから、「無任所大臣」はときどきの「都合」でできる便利さがある。

たとえば、「少子化対策担当大臣」とか、「ワクチン接種推進担当大臣」とか、「拉致問題担当大臣」とか。
なんだか、「やっている感」を出すための、意識的・能動的な「ムダ」が見え見えだ。

「検討氏」として名を馳せている、現政権が「こども家庭庁」の設置を決めたのは、無任所大臣「ではない」ことに力点がある。
しかし、「増える一方」の状態を、「行政の肥大化」というから、「減らす」視点もなければならない。

ただし、それには「国民目線」を前提としないといけないけれど、「国民目線」を意識した政権(与党)ではないので、あくまでも「政権の都合」で肥大化するしかない。

つまり、国民はこの国のコントロールができない状態に押し込まれた。

「少子化対策」とは、「少子化推進」のことで、「ワクチン推進」は、今後集団訴訟になるかもしれない。
訴える先は、国際刑事裁判所だ。
「拉致被害者担当」だって、被害者家族のガス抜きというおぞましさだ。

つまり、「その気もない」ことに担当大臣や設置法が制定されている。

なので、食糧危機の対策として、もっとも「有効」なのは、農林水産省の廃止なのである。
ただし、ここに勤務する役人は、国家公務員としての「身分保障」があるから解雇できない。

国民は、このひとたちが退官するまで雇わないといけない。
じつは、このことがもっとも深刻な問題なのである。
しかしながら、新規採用をなくしたら「時間の問題」なので、「省内各部署」はそのままに、新聞でも読んでのんびり過ごしてもらうことだ。

仕方ないから、なんにもしないで一生を過ごしてもらう。
なにかしたくなったら、退職金も払って退官してもらえばいい。
「穀潰し」なんていってはいけない。
この役所が機能することが、最大の「穀潰し」になるからである。

こうやって、食糧危機を回避するのである。

経産省「DX研究会」の噴飯

かつて日本の「財界」を代表するのは、経済団体連合会(経団連)、日本商工会議所、日本経営者団体連盟(日経連)、経済同友会(同友会)の、いわゆる「経済4団体」といわれる組織があった。

2002年(平成14年)5月28日に、経団連と日経連が統合して、一般社団法人日本経済団体連合会が誕生して今日に至った。
なので、いまは「経済3団体」になっている。

ところで、「日経連」とは、「財界労務部」とも揶揄されたことがあった。
その理念は、「健全な労使関係の構築」と明記されていて、もっぱら政府に「経済政策」を促した経団連とは別の意味で「貴重な存在」だった。

だから、国をあげての「団体交渉」を、総評や連合とやっていた。
つまり、労働組合にとっての「カウンターパート」だったのである。

それで、この「合併」時期は、第一次小泉純一郎内閣(2001年4月26日~2003年11月19日)だった。
なお、小泉内閣は第三次(2006年9月26日)まで続く。

経済財政政策担当大臣が、「民間」から初入閣した竹中平蔵氏だった。
2004年(平成16年)7月、第20回参議院議員通常選挙に自民党比例代表で立候補し70万票を獲得しトップ当選して、大臣の肩書きから「民間」がとれた。

そんなわけで、国民の多数がこのひとを「支持した」ようになっているけど、1億人のうちたったの70万人でしかないことにも注意がいる。
詳しい経緯を解説したものがないけれど、経団連と日経連の合併を画策したうちに、竹中氏もいただろう。

「ライバル」というものは、人間の精神構造上でも非常に重要な存在である。
トップを目指す、という競争で、ライバルがいるといないとでは精神的な緊張が変わるからである。

すなわち、労働組合にとって、強力なライバルである日経連の消滅は、灯台を見失ったも同然になるので、じつは組合潰しの戦略なのだといえる。

以来、邪魔者の勢力を減衰させた経団連は、国家予算を求める「乞食集団」へと変容して、かつての「財界総理」とは、「乞食の親分」に成り下がったのである。
これは、国側からした「奴隷化」のはじまりにすぎない。

そんなわけで、経産省は、平成30年9月7日付けで『DXレポート』なる、「官庁文学」を発表した。
「DX」とは、「デジタルトランスフォーメーション」のことだ。
日本政府は、もはや日本語を使用しない。

結局のところこの「官庁文学」では、あたらしい「恐怖」を描いた。
この「恐怖をあおる」ことが、国民支配の重要な心理戦でのキーワードなのである。

しかしながら、もっとすさまじい「恐怖」による支配を、コロナで実践して成功させたから、令和になってあらためて「DX」をはじめるという。
穿った見方をすれば、はるか「格下」の厚生労働省が得た「コロナ利権」がうらやましくてしかたないのだろう。

なので、このところ、製油所の廃止とか、経済産業省が張り切っている。

もちろん、「第一義」は、国民利益のはずもなく、「省益」につきる構造になんらの変化もない。
よくも参議院選挙直前で、こんなことができるものだと感心するが、それこそが国民意識との乖離の顕在化にすぎない。

それでもって、経済産業省様は、2025年にアホな民間企業がデジタル化に追いつかず、どえりゃー経済損失を被ることになる、と叫んでいるのである。

それで、国家予算でこれらを克服してやるから、有りがたいと思え、と。

これに乞食になった経団連が、(お代官様)ありがとうごぜぇますだ、といって拝んでいるの構図なのである。

遠山の金さんより酷いことが、21世紀日本の現実だ。

予想される経済損失を被るのは、個々の民間企業である。
しかも、経済産業省様の「お怒り」は、そんな損失がでることすらアホウな民間企業が気づいていないことだという。

大きなお世話なのである。
国家はこのようにして「肥大化」することの典型だ。
ならば、財源はなんなのか?
法人税収だけでやる、なんてことは微塵もないだろう。

すると、カウンターパートとしての経団連が消滅したら、経済産業省も衰退するのではないか?
逆に、経済産業省が消滅したら、経団連はどうするのか?

なんだか、かんがえるのが楽しい。

殿さまキングスの大ヒット曲『なみだの操』(1973年)にある、
「あなたの決してお邪魔はしないから」には、高度成長の「核心」があった。
役所も、民間企業事業の決してお邪魔はしない、という矜持があった。

というよりも、役所の「体制」が、間に合わなかった偶然が、まさにラッキーだったのである。
しかし、役所の民間への介入体制を着々とつくって、これを完成させたのが、田中角栄通産大臣だった。

そんなわけで、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」のごとく、田中角栄の亡霊がいまだにこの国を支配している。

だからか、20日、十倉経団連会長が発言した、少子化=労働参加率の低下と定義したうえでの、「外国人の労働参加率を高める」という言い方は、「なぜ少子化しているのか?」を問わない、弥縫的な安易さを追及したいという話で、そこに哲学も何もない。

こういった原因追及の甘さが、DXも役所頼みになる「財界」の堕落を象徴している。
経済のことに国が介入するな、といった役人から第二代経団連会長になった石坂泰三の爪の垢でも、と思う昨今なのである。

「仕組み」で病気にさせられている

国民と政府が乖離して、政府は国民を支配してときには命も奪う恐ろしい存在になる、なんてことはソ連とかの全体主義国家でしかあり得ない、とおもって生きてきた。

ある意味、指導力がない政治家が、「国民のみなさん!」といったり「国民のために」ということを半分バカにしながら信じ、「優秀な官僚」が支えているから大丈夫だともおもっていたから、ろくにかんがえることもしないで済んだ。

しかし、どうもおかしい、ということに気がつきだしたのである。

ある程度の「訓練」とか、じぶんで「やってみる」ことを繰り返しているとできてくるのが「思考実験」だ。
これは、「習慣化」するので、いったんできるようになると、こんどは「やめられない」ということになる。

「実験」というと堅苦しいから、もっといえば「妄想を膨らます」のである。
「妄想」なので、ばかばかしいというひとがいる。
しかしそうではない。

逆に、もしそんな発想があるなら、ためしに「妄想」してみたらいい。
「妄想もできない」自分にもっと驚くはずである。
これを、「頭が硬い」とか、むかしは「トンカチ」といったのだ。

頭の中の「思考」は、どんどん膨らむけど、そのうちなにがどうなっているのかに自分の頭がついていけなくなる。
それが面倒くさいようにおもうので、思考をやめる。
これが、「思考停止」なのだ。

デジタル機器が進化して、自分の思考を描いて記録するツールとして、「マインド・マップ」ができた。
紙に手書きでもいいけれど、圧倒的に便利なのがデジタル・ツールだ。

スマホでできるから、電車の中で時間つぶしのゲームに興じるより、よほど自分のためになる。
これを、「妄想ゲーム」といってもいい。

書きとめる必要は、浮かんだ発想が次から次へと連続したり、飛んだりして複雑化するからである。
それで人間の脳は、興味の強さや実現可能性を優先するので、書きとめないとこれらの優先順位から漏れた発想が「消滅」してしまうのだ。

つまり、マインド・マップの重要な機能は、漏れをなくすばかりか、あんがいと後からみたら、その「漏れ」のなかに「ひらめき」があったりすることを発見できることにある。

常識を超えることができるのである。

さてそれで、「国民皆保険」という「(社会主義)制度」があるから、たいがいの日本国民は病気になると「保険証」をもって医療機関に受診する。
なので、この「医療機関」とは、「保険医療機関」のことをさす。
保険医療機関は、厚生労働大臣の「指定」機関のことでもある。

それがどうした?ふつうじゃないか?

ところが、すべての保険医療機関では、すべての医療行為を「保険点数」で計算し、それをもって「保険請求」することになっている。
この「請求」のうち、「本人負担割合」だけを患者が請求されて負担するけど、「それ以外」は、医療保険に請求して、保険から支払われるのだ。

いやいやそれで?

つまり、わが国の保険医療機関にいる、医師・歯科医師、薬剤師は、「保険点数表」にある業務が「すべて」なのである。
これをプラスの意味でも、マイナスの意味でも逸脱したら、たちまち「不正請求」になるからである。

そしてこの「保険点数」は、全国一律という社会主義に基づくので、地域差も医療機関の設備差も無視される。
だから医師は、「データ」しか観ない。
「データ」とは客観情報なので、それが「保険点数」による診療根拠だからだ。

これが、わが国から「名医」が消えた理由でもある。

となると、わが国の「医学部」や「歯学部」「薬学部」は、ぜんぶ「保険点数」の支配下になる人材を教育していることになって、たとえば、「最高峰」の東京大学医学部とは、保険点数の「設定」に重要な職務があるという意味になる。

患者からすれば、自分の病状がどの「点数表」に適合するかの「診断」がされて、その「点数表」にあるとおりの医療行為と薬の処方を購入している「だけ」となっているのだ。

これは、「完全マニュアル化」だ。

「あなただけ」の医療とは、絶対にならない「仕組み」なのである。
「症状の組合」せが、「個人別」というだけだからだ。
つまり、「症状」が細かくユニット化されていて、あとは「足し算」なのである。

すると、もうひとつ重要なことに気づくのは、症状がないと保険点数の計算ができないから、「予防」ができないのである。
逆に、症状をつくると保険点数が増えるから、医療機関は収入が増える。

そんなわけで、どこにも「引き算」が入り込む余地がないので、わが国の国家予算の半分が医療費になったのである。
しかし、だからといって、誰も困らない、のは、社会全体で負担するという社会主義そのものだからだ。

国民からしたら、「五公五民」どころか、「六公四民」状態までに負担させられているのを、「源泉徴収」されるので気づかない勤め人もおおい。
江戸時代なら一揆が頻発しそうなのに、それもないのは、江戸時代より「愚民化」も成功しているからである。

世界一緩い食品添加物や農薬が認可されているわが国の「食」が、国民の健康を蝕んでいても、「国産信仰」を宣伝している。
これも「仕組み」のなかに含まれているのである。

観光業の自滅宣言

参政党の共同代表をつとめる、松田学氏は、言わずと知れた元大蔵・財務官僚で、元・次世代の党⇒元・たちあがれ日本に籍を置いた衆議院議員であったひとだ。

ふつうのひとになってから、「松田政策研究所」を立ち上げて、YouTuberとして、さまざまな情報発信を行ってきている。
とくにその「対談」においては、「立場を超えて」各方面のひとを呼ぶことで知られ、保守系としては「異例」だとの評価も高い。

「聞き上手」だとの評価がある一方で、相づちが嵩じて「迎合する」こともあるから、おそらく事前にシナリオがない「ぶっつけ」ゆえのリスクもある。

それがまた、対談としての魅力なので、最後まで観ないと主旨がわからないこともある。

参政党ウオッチャーとしていえば、5月19日配信の「公式ライブ配信」における、武田邦彦氏との論争(「言い争い」)にひとつのポイントがあったと思っている。

あくまでも「国民・生活者目線」で発言する武田氏に対して、「官僚・政府の目線」で論じたゆえのすれ違いになったのである。
これはあんがい「発想の違い」という「決定的」な結果なので、この場をなんとか収めた吉野敏明氏のハラハラ度合いが、かえって視聴者にもよくわかった。

この「バトル」が、参政党の「正直さ」として好評を得て、党員数拡大にもつながったというし、後に武田氏が折れて「大人げない」としたことが、「おとな」の対応にもなって好評価の原因にもなったと街頭演説でも説明されている。

興味のある方は、是非「実際の場面」をご覧になるとよいかと思う。

さて、武田邦彦氏が口癖のようにいう「うそは絶対にダメ」の根源は、氏が科学者であるからだと自身も繰返し述べている。
「自然科学」の分野では、自然の法則を解明するのが科学なので、うそは必ずばれる、という運命にある、と。

しかも、氏は、新卒で民間企業(旭化成)に就職している。
つまり、民間の研究所でうそをついたら、会社はとんでもない損失を被ることになるのだ。
ゆえに、科学者としてだけでなく、社会人としても身についたものだ。

松田氏の方は、経済学を修めて官僚となり、さらに経済学をドイツに学びに行かされた経歴であるから、明治以来のエリートである。
官僚の問題は、本人に回帰しない、その「組織」にあることは、このブログのテーマにもなっている。

つまり、巨大化した政府官僚機構という組織の「幹部」ではあるけれど、その前に「組織人」としての「分をわきまえる」ことが、だれでもない「組織」そのもの(あえていえば「空気」)から要求されるのである。

それが、「省益」だし、官僚社会主義という「体制」下にあっては、すべての産業を牛耳ることが、国家発展のための「合理的帰結による近道」だと信じ込まされる。

その中の「最強」が、内務省なき戦後においては、大蔵省だったのである。
それゆえ、松田氏の「お里」は、いまだに大蔵省にある。

参政党のブレーンあるいは今後できるだろう「シンクタンク」に重要な役割を担うのは確実だけど、マックス・ヴェーバーが言ったように、最高の官僚は最低の政治家になる、ことの典型ではないかと疑うのである。

さてそれで、2日(昨夜)、『特番「大打撃の観光業!世論追随の岸田政権で日本は大丈夫か?』として、岩崎芳太郎・岩崎産業社長との対談が配信された。

岩崎産業といえば、鹿児島を中心に南九州にグループがある、観光コングロマリットである。
その「総帥」が、どんな発言をするのか?は、わが国観光業界の重鎮の発言として注目されるのは当然だ。

結論から先に言えば、乞食だった。

「コロナ禍」を経営悪化の外部環境としていまだに捉えているのは、東京都に裁判で挑んだ、グローバルダイニング裁判の判決もみていないのか?と疑わざるを得ないし、武田氏や徳島大学の大橋眞名誉教授による「解説」についてもご存じない様子であった。

それに、「外資に買われる」ことを参政党は「国まもり」として重視していて、ニセコや蔵王などの例を挙げている。
しかしながら、「外資に買われる」のが問題ではなくて、「内資が買わない」のである。

その最大の原因は、国内にリスクをとる投資家がいないことと、再生させるためのノウハウがないからだ。
再生させるためのノウハウとは、通常運営するためのノウハウも含まれる。

よって、コロナ直後に廃業した観光業は、通常運営するノウハウの欠如がそうさせたといえるのだ。
だから、昨今の岩崎産業の業績不振も、社長の発言で理解できる。

岩崎氏は、どこもおなじの外資系高級ホテル、と言ったけど、これはよくいう「金太郎飴」だと批判した、マクドナルド(1971年開業)や東京ディズニーランド(1983年開業)の進出を言ったときとぜんぜん進化も進歩もしていない。

半世紀もおなじことをいうのは、まったくの驚きでしかない。
それでもって、コロナ対策に協力したのだから「政府はカネをよこせ」というのは、乞食以下の脅しなのだ。

松田氏は「積極財政」を「売り」にしているからか、武田邦彦氏ならすかさず指摘するだろう「発想の貧困」が窮乏の原因だとは言わない。

しかも、岩崎氏は、「観光大臣」が欲しいという、無い物ねだりを言ってのけた。
ここまで「政府依存」に脳が冒されているなら救いようがないので、資本主義の最大効果、「市場からの退場」をもって新陳代謝を促し、あたらしい経営者を迎えるべきだ。

就職予備群の学生を持つ親が観たら、こんな無様な業界に就職させてはならないと思うだろう。
観光学科とかの学校は「業界に抗議」しないのだろうか?
あるいは、同様に政府依存するならば、もう自滅しかない。

まことにお粗末な対談であったけど、「本質」をみごとにえぐり出したのは、視聴者にとってのラッキーである。