愛社精神はあるのだけれど

ひとの精神がおちつくのは,「帰属意識」があるときで,なかでも自分が「役に立っている」と自覚できると,おおきな満足感をえるようになっている.
これは、太古のむかしからの集団生活で,狩猟であろうが農耕であろうが,グループで行動しないと収穫がすくないことからのDNAがあるのではないか.

それは,犬もおなじで,グループで狩りをして,そのための役割分担がきまっている.
それが,集団内の順位にもなっている.
グループから追放された犬には,死がまっている.
一匹では,狩りができないからだ.

犬と人間の良好な関係は,このあたりの類似にもあるのだとかんがえられている.
ただし,犬には人間にない能力が幸いし,人間は犬以上に高度な能力がそなわっているために,かえって不幸になることがある.
それは,順位にかんする「意識」だ.

犬の世界は,一度順位がきまると一生かわらないほどに厳格なぶん,最下位になっても「精神的負担がない」,つまり,自分のひくい順位をなげくための脳細胞がない.
それに,人間ならピラミッド状の組織をつくるが,犬のばあいは一匹ずつの順位になるから,「同格」という概念がない.すなわち,同じ位置でのライバル意識も出世競争もない.だから,社会的に自分の位置を「恥じる」こともない.

ちなみに,自分の体型としてのおおきさを認識できていないから,小型犬が大型犬にまじってグループを形成しても,それだけで順位がきまることはない.
だから,チワワがセントバーナードの上位になることもありえる.
しつけができていない犬が,自動車やバイクに飛びかかろうとするのは,うごくモノに反応する狩猟本能だというが,自分のおおきさを認識できていない証拠でもある.

そういうわけで,ある意味,犬社会のほうが人間社会より安定していることもある.
しかし,どちらの社会にも共通するのは,トップにいるリーダー次第で,決まる,ということである.
リーダーに不向きな,犬やひとが,リーダーになってしまうと,集団全体が不幸になるのである.

犬と人間のながいつき合いで,「家庭犬=愛玩犬」というジャンルがうまれたのは最近のことで,犬は人間にとっての「使役犬」であった.
猟犬はもちろん,それから派生したのが軍用犬や警察犬,そして,番犬である.
なので,動物行動学における「犬」の研究とその成果は,いかに使役犬として「使える」犬にするか?であって,「愛玩」目的ではなかった.

それで,愛玩目的のしつけ方法をどうすればいいのか?という問題解決には,犬とは何者なのか?をあらためてかんがえる必要がでてきた.
つまり,犬の習性をしらずして,犬を愛玩犬に仕立てることはできないというわけだ.

「日本人は総じて貧しい.だが彼らは高貴である」といったのは,日露戦争前に東京に駐在したフランス人外交官のことばである.
それから百年あまりが経過して,「日本人は総じて豊かである.だが彼らは卑しい」になったいま,わたしたちは何者なのか?をかんがえるひつようにせまられた.

それで,百田尚樹『日本国紀』が大ヒットしているのだろう.

すこし前には,西尾幹二『国民の歴史』が,百田氏の執筆動機と似て書かれている.

対して,左派からは,アンチ本が出版された.
左派ががんばった時代があった.
しかし,彼らこそ「戦後的『保守』」なのだ.
執筆陣の名前は,ちゃんと覚えておきたい.

対して,もう一冊,解説がでている.

そこで,皇国史観の大権威,平泉澄『物語日本史』は,ちょっとまえの近代日本人が常識としてしっていた「日本史」として一読の価値があるし,「戦後的保守」がなにを問題として主張したいのか?の原点にもなる.
皇国史観をしらずに,皇国史観を批判してもはじまらない.

  

これらをふまえての「議論」として,本ブログでも紹介した,小室直樹・山本七平の傑作対談『日本教の社会学』は,その奥深さをもって,いまではかなうはずもない続編を読みたかったものである.

るる書籍の紹介をしたが,せめてこれらの図書をベースに,日本人をかんがえないと,何者かをイメージするのは,犬が自分のからだのおおきさを意識できないと同様に,知っているつもりに落ちてしまう.

「うちの従業員はつかえない」という経営者は,従業員からみたら,絶望的な結末にみちびくリーダーと認識されている可能性が高い.
それで,有能で自信がある従業員から退社する.
グループから追放された犬は,生きる術をうしなうが,人間はそうとはかぎらない.

「うちの従業員はつかえない」という経営者のもとではたらく従業員が,愛社精神すらない,と決めつけることもまちがっている.
「愛社精神はあるのだけれど」,に,「社長がね」や経営幹部がつくことがおおい.

それは,従業員が会社になにをしにきているのか?の本質,すなわち「稼ぎにきている」ことを意味する.
従業員は,社長がいう「効率的に」,「稼ぎたい」のだ.

「この会社は『効率的に稼げない』」という理由を,ちゃんとリーダーへの不安と不信として意識しているのである.
「働きかた」よりも,「働かせかた」が下手すぎる.

そういうわけで,日本人従業員の理解とて,一律でかんたんなことではない時代に,「安価」に期待しただけで,どこの国かを意識もせずに外国人労働者を雇用するのは「安易」だと気がつかないと,リーダーの資質を日本人以上に冷静に評価して,これをもって「要求行動」にでるのを弾圧すれば,いったいどういうことになるかを想像すればよい.

国際的なため息の国になる.
けれども,それが,ため息だけですめばラッキーだろう.
あたらしい「打ち壊し」という暴動が頻発するようになるともかぎらない.

いい会社をつくりましょう!

さくら・開花の準備中

すっかり葉が落ちて、枝と幹だけになってそびえる桜だが、よくみると、花芽はもうとっくにつけている。

よくみる、という行為をしないとわからない。

ぼんやりと眺めることは、全体をつかむときに有効で、景色の写真を撮るときには、カメラを無限大にしたものだ。
だから、ある対象を際立たせたいときは、それにピントをあわせて周辺をボカすと、いっそう目立たせるごとができる。

これは、遠景でも超近接のばあいでもおなじだ。
人間の情報処理能力にかかわるのだろう。

対象がたくさんあると、ひとは選択できなくなる。
マーケティングでも、有名な理論だ。
だから、おなじような商品をばく然と並べてはいけない。
消費者は選択できなくなって、しまいに購買行為そのものをやめてしまうのだ。

これは「売れない」理由のひとつだが,べつの理由をかんがえる店主がいる.
それは,「商品に魅力がない」のだときめつけるのである.
陳列方法がわるい=じぶんがわるい,とはかんがえない.
だから,いつまでも「売れない」のだ.

さて、ビジネスの世界では、「なにがあっても結果がすべて」とよくいわれている。
経営トップのよくある従業員を整列させての挨拶で、どの会社でもあるから定番になっているほどだ。
しかし、このことばには、どこかいかがわしい匂いを感じる。

ひょっとして、こういうことをわかったような顔をして演説できるひとは、それまでのビジネス人生でほんとうに「結果」を出した経験があるのだろうか?と。

もちろん、なんらかの評価が同期入社のなかですぐれていると、その上の世代のトップが判断しないと、昇進できないのが日本の会社ではある。
しかし,それがなんだかはよくわからない.
本人もよくわからないだろうけど,昇進するのだから自分に問題ないとかんがえるのはふつうだ.

だから、それがなんだったのかは、ある意味公表されていい。
そうでもしないと、とんでもない人物が、とんでもない理由で選ばれてしまうかもしれないとおもうほど、この国のあらゆる組織におけるガバナンスがゆるんでいるようにおもえる。

実務で、結果を出すためのしくみづくりに苦労したひとなら、いきなり「結果がすべて」とはいえない。
むしろ、準備こそ重要だとかんがるはずである。
この「準備」のことをふつう「プロセス」という。

いい結果を出しつづけるには、ちゃんとした準備が不可欠なのだ。

そのことを、真冬の桜が教えてくれている。

「信頼」を生産する

10年前に購入した,フランスの自動車会社製の「光る電動ソルト・ミル」が,電池の液漏れで動かなくなった.
購入したのは,東京日本橋にある老舗の刃物店である.
それで,修理を依頼した.

できたと連絡があって,引き取りにいくと,あたらしい電池だけでなく岩塩もたっぷりはいって返納された.
修理代金は,無料だった.

店は輸入代理店のはずだが,「これだ!」とおもう.
じぶんたちが目利きしたものに,徹底的な責任を負う.
だれがつくったものであるとか,どこから仕入れたかは関係ない.
目利きの結果で販売したら,その商品のその後はじぶんの店の沽券にかかわることになる.

たんに「アフターサービス」とか「アフターケア」といいたくない.
店の存在理由にまでいたる「かんがえ方」をしっかりと感じるからだ.
こんな店は,むかしならふつうだったのだろう.
だから消費者は,ふつうが失われているのに,便利になった,と勘違いしている.

それは,使い捨ての正当化にはじまる.
けれども,金額にすれば数百円のものならまだしも,万円単位となればそうもいかない.
ましてや,たかがソルトミルなのだが,これに万円単位を払ってしまったら,やっぱりすぐに棄てる気にならない.

そもそも,万円単位のソルトミルを売っていることからはなしがはじまる.
それを,老舗がしっかり品質保証しているのだ.
だから,刃物でちゃんとしたものが欲しかったら,かならずこの店ときめている.
たかだか千円の爪切りだって,ここで買う.
なんと,切れなくなったら,ちゃんと研ぎなおしをしてくれる.

そうすると,研ぐことを仕事にしている職人の仕事になる.
だから,ちゃんとした職人を残したいなら,ちゃんとした製品をつかわなければならない.
ちゃんとした職人がつくった,ちゃんとした製品は,ちゃんと修理をしてもらえるからだ.

そんなことがあったら,やはり10年ほど前に買ったツイードのジャケットがほつれてしまった.
これは,亡くなった伯母から,「あんたも不惑を越えて横浜にくらしているなら,元町の◯◯のジャケットぐらい着なさい」といわれて買いにいったものだ.

その日は珍しく小雪が舞うほどの雲行きだったから,商店街を行き来するひと影もまばらだったが,目的の店にはいるなりいきなり,「いらっしゃいませ,ジャケットですね」といわれた.
店主がジャケットのコーナーに行くのと,わたしが上着を脱ぎながらそちらにむかうのと,ほぼ同時に,店主がわたしの体型を一瞥して,一着をとりだした.

そして,上着を脱いだばかりのわたしに,それを着せてくれると,ぴったりだった.
「お似合いですよ」
この一言で,「これください」.
ものの一分もしない買い物だった.値段はみていない.

それで,精算しながら手入れ方法も説明してくれた.
「わたしどものオリジナルですから,一生ものです」

この言葉をおもいだして,お店に持ちこむと,「かけはぎ屋さん」を紹介してくれたのだが,近所だからとご主人が同行してくれた.
それは,県内でも有名な職人の店で,おおくのクリーニング店や洋服リペアの専門店も,じつはここに依頼しているという.

「うちの店でお預かりしてもいいのですが,手数料がバカバカしいですよ.こんなに近所なので」と.
できあがりは,どこがほつれていたのかわからないものだった.

この洋服屋さんも老舗の刃物屋さんとおなじなのだ.
じぶんの店は,ただものを売っている「だけ」ではない.
商品を生産せずに,右から左へうごかせば売上にはなる.
そんな店ばかりがふえたように感じるが,かれらはものはつくらないが,じつは「信頼を生産」しているのだ.

それは,外国車の輸入専門会社とおなじではないか.
「クルマはつくらない,クルマのある人生をつくっている」

旅館やホテルは,なにをつくっているのか?
しみじみかんがえる年末閑散期である.

お正月準備の,ことしさいごのチャンスの時期ではなかろうか?

「安全」はリスクである

学問的成果の有無という観点でいえば,「地震予知」における成果はほとんどない.
けれども,わが国は世界有数の地震国である,という不思議な「自負」もあって,「地震」にかんする研究には多額の予算が投じられている.

なかでも,「予知」に関しては,ずば抜けた「投資」をしている.
文部科学省のHPに,いちおうの資料がある.
自分たちで管轄していることに変わりはなく,つねに御殿女中のような細やかさでイビりを趣味嗜好とする役所が,国立大学が独立行政法人になったからといって,資料がない,と主張する神経に自ら異常をかんじない異常に,かえって「感心」すらしてしまう.
この資料は,何のために誰のために,という目的すらマヒしたことを国民にしめしたいのだろう.

そんな日本政府における権力構造を支えるのは,なんといってもカネ=予算だから,旧大蔵省=現財務省の主計局が最強といわれている.
しかし,予算を使うにあたっての最強の役所は,あんがい目立たない「内閣府」である.
「縦割り行政」を横につなぐのがここだからだ.

小松左京の傑作『日本沈没』では,「スーパー官僚」の主人公が所属するのは総理府だったが,『シン・ゴジラ』では,内閣府に看板をかえている.
ただし,この役所も,各省庁出身者からの寄せ集め的性格も内包している.
就職して最初に配属になった省庁が,各個の「本籍」になる.これは,一生かわらない.
それで,本籍とは別の役所に勤務することを「出向」とよんでいる.
だから,内閣府に本籍がある役人は,すごい,のだ.

 

そんなすごい役所が取り仕切るなかに,「中央防災会議」がある.
ここが,昨日「南海トラフ地震」における住民・企業・自治体がとる「べき」対応を発表した.
情報の中身は,それぞれが確認されたい.

この報道のなかで,中部地方の地図がしめされて,海ではなく内陸部の境界線に注目すると,それが「中央構造線」であることに気づくだろう.
本州を東西に分断するのが静岡・糸魚川線上の「フォッサマグナ」がしられているが,サカナの背骨のように,本州から四国・九州の地面を分断しているのが中央構造線である.

山梨県から愛知県にいたるラインは,ほぼ「中央高速道路」がこの線の真上に建設されている.
だから,理論どおりなら,「中央高速道路」はかなりあぶない.
なぜそんなところに道路をつくったのかの理由はかんたんで,「谷」をなしているからだ.
あとは,山ばかり.
人間が移動につかうための路は,太古から地形に支配されている.

さて,中央防災会議の議論も,地震予知の研究に多額の予算がつくのも,地震がおきたときの被害が大きいからである.
この発生するだろう被害を想定することは,リスク評価,といいかえることができる.
それで,地震は避けられないリスクであるから,予知できたら発生前に逃げることでリスクを減らそうという発想がある.

だから,予知できないとなんにもならない.

これが,地震予知にかんする批判の根っこで,困ったことに,その予知ができたためしがない.
東日本大震災の余震では,数秒前に携帯が警報ブザー音をだしたが,それでどうしろというのか?
家庭犬がこの音に反応して,恐怖するようにはなった.
犬の記憶力はせいぜい5分ばかりだから,音がして数秒後にくる揺れ,ということが学習できた.
だから,しつけにこまっている飼い主は,このことを応用すれば,犬のしつけができる.

こうして,できない予知に予算を投じるのはおかしい,という議論になるのは,費用対効果,ということになる.
ここでいう「効果」とは,「効用」ということだが,ひらたくいえば「メリット」すなわち「得」である.

つまり,費用という「損」と,メリットという「得」を天秤にかけることとおなじだ.
いつくるかわからない地震というリスクで,得になる,とはどういうことか?
第一には,生存,であろう.
すると,生存のためには,どんな準備が必要なのか?になるから,そのための準備が費用(コスト)になる.

裏返せば,費用をかけないことは準備をしないことだから,生存しなくてもいい,という意味にもなる.
これが,個人の生活なら,各人の判断があるけれど,近所に迷惑がかかる.

商売人なら,近所迷惑だけではすまない,賠償問題までかんがえられる.
だから,最低でもお客様の安全,従業員の安全は,コストをかけなければならないのだが,これは,「得」のためである.
すると,リスクには,得がひそんでいることがわかる.

宿泊業のリスクは,地震で建物が崩壊することからはじまって,火災,食中毒,温泉ガス,などなど,たくさんあるのだが,これらの対応準備にひつようなコストをかけることが,得になるのだ.
つまり,利益をかんがえたとき,利益率とはリスクを飲み込んだうえでの数字という意味になる.

だから,利益計画とは,リスクの評価を必須にするのだ.

話題になった?トランス脂肪酸

ことしの6月から,アメリカで加工食品へのトランス脂肪酸が禁止になった.
それを見越して,日本でも話題になると予想して書いたが,はたして話題になったのか?

まったくなかったわけではないが,よくあるマスコミによる「騒ぎ」にはなっていない.
けれども,この問題は,日本における「国民の健康」にまつわる行政のいかがわしさを確認するのにもってこいの事例になっている.
もちろん,スポンサーであるメーカーに気遣った,報道しない自由という問題を指摘しないわけにはいかない.

そもそも,関連する役所が複数あることから確認しよう.
「食品」であるから,まずは「農林水産省」が所轄になるのはわかりやすい.それで,さいきんになって農林水産大省も,自らのHPによる「情報提供」に余念がない.

しかし,国民の「健康」となると,「厚生労働省」の所管になるから,農水省の情報も「客観的」につとめているのだろう.
では,厚生労働省はどんな情報をだしているのか?というと,迫力にかけるのである.

ところで,食品にふくまれる栄養成分については,「文部科学省」の『食品栄養成分表』になる.
それで,以上の三省が合同で『食生活指針』(平成28年)がつくられている.

さて,そこで,アメリカは禁止という規制をかけたから,日本の規制当局はというと,それは「消費者庁」になる.
せめて表示義務だけでも,と消費者としてはおもうのだが,平成22年につくった『栄養成分及びトランス脂肪酸の表示規制をめぐる国際的な動向』が,精一杯で,いまだ「表示義務」にすらいたっていない.

一貫しているのは,日本人のトランス脂肪酸の平均的摂取量は,WHOがさだめる量の半分程度だから「心配ない」という議論である.

しかし,わたしたちがここで注目すべきは,「平均」という概念である.
学校のなにかのテストで,クラス全員がおなじ50点をとったときと,一人ずつがべつべつの点数で,1点から100点が並んだとき,どちらも平均は50点になる.
グラフにすると,全員が50点なら,一本の棒がたったようになり,もう一方のばあいは,1点ずつの棒が平らに100個たつ.

もちろん,世の中でこんな極端はめったにないから,ふつうはこんもりとした山の形になる.
すると,少ない側と多い側になだらかなすそ野がひろがるのがイメージできるだろう.

マーケティングの常識に,「平均的な消費者は存在しない」という概念がある.

これは,すそ野の広さと大きさをいうのだ.
「多様化」があたりまになっているいま,個々人の好みはどんどんと,上述の例でいえば平らなグラフのほうに近づいている.
だから,平均値を計算することはできても,平均にあたるひとがあまりいないことになるのだ.

企業の数字をあつかうときも,「平均」だけでは危険である.
ふつうエクセルなどの表計算ソフトには,図表もかんたんにつくれる機能があるから,グラフ表示して「平均」とじっさいの「データの広がり」を視覚的に確認したい.

それで,農水省の情報のなかには,よく読むと良心的な学者の意見もあって,「平均以上に摂取しているひと」が少なからずいるという指摘もある.
役人は,ちゃんと「アリバイ」もつくっているから,タイトルだけで騙されてはいけない.

農水省にいた役人が,担当する課ごと「消費者庁」にうつったから,もはや農水省に規制についての担当者はいない.
だから,農水省に期待はできないが,「消費者庁」が,成分表示の義務かもできていないのは,じつにいぶかしい問題である.

「指針」やら「禁止」やらと,国家の介入にはさまざまな方法があるが,情報提供という規制に悪いことはない.
提供された情報のただしい読み方を教育しなければならないが,おおくは科学知識に由来する.
そういう意味でも,中学や高等学校の科学教育のありかたも,自分の健康や人生に直結するとおもえば,勉強する気にもなるだろう.

そうしたうえで,ジャンクフードを食べつづける人は,まさに自己責任という前提の選択をしたことになるから,納得の結果にもつながる.

賢い国民は,そういう意味での「強制」から免れるものなのだ.

「平均的日本人」はたくさん摂取していないから問題ない,という政府は,「平均」の意味をしらないはずはないから,伝統的な「産業優先」という本音しかみえてこないのだ.

すると,食品や食事を提供して商売にするひとが,ちゃんとした栄養学にもとづいた商品提供に,これまでにない「価値」が付加されるということに気がつくべきだろう.
付加価値が高まれば単価も高めることができる.

政府のおかげで,ビジネスチャンスが隠されている.

日本にうまれてよかったセット

味覚にかんしていうと,ひとはかなりコンサバ(保守的)である.
このコンサバで保守すべき「味」とは,子ども時代に形成されることがしられている.
だから,典型的なおじさんたちによってノスタルジックに語られる「お袋の味」とは,感情だけの問題ではなく本当に舌に記憶されたものなのだ.

世界のひとの味覚をしらべると,10歳の男の子の味覚が,他の年齢のひとや女の子より優れていて,しかも,その本人の人生においてももっとも鋭敏なときだという.
だから,生まれてから10年あまりのあいだに,ちゃんとした食生活をしないと,一生涯,そのひとの味覚は研ぎ澄まされることはない.

それで,かつての有名料理人たちが,こぞって小僧からの下働きを経験していることに意味があるという理由がわかる.
科学的な調味料や食品添加物が問題視されるべきは,まず,子どもにあたえると,こうした味覚の発達をさまたげるということがあげられる.

 

食品添加物のセールスマンをしていたという安部司氏が,アンチ食品添加物になったのは,自宅での夕食時に,じぶんの子どもたちが,添加物たっぷりの食事を「おいしい」といって食べていることに違和感を覚えたからだという.
じっさいに彼の本を読むと,セールスマンだっただけに空恐ろしくなる内容に驚愕する.

「10歳」という年齢に注目すると,カリスマ職人といわれている岡野工業社長の岡野雅行氏のことばに,「中卒でも遅いくらいで,小学校卒がほしい」がある.ましてや,「大卒で職人なんてムリムリ」.
手の触覚が決定的に鈍る,というのが理由であったから,味覚につうじる指摘である.

さいきんは,味噌会社のテレビCMで,インスタント味噌汁が「お袋の味」になっている倒錯が,ジョークではなく,まじめに放映されている.
鰹節削り器で,削り節を担当したのは子どもの仕事で,母親がこれで出汁をとった味噌汁やおひたしにふりかけて食べたものだが,もはや幻だろう.

だからわたしは,日本旅館で鰹節削り器をお客がつかって出汁をとることも,サービスメニューにあっていいとかんがえている.
雄節や雌節にまでこだわるのは,産地ならではだろうが,そもそも本節すらみたことがないかもしれない.

外国人を招待するテレビ番組では,職人一家の夕食で地元の伝統的な料理がふるまわれる場面がある.
これらも,いまではおおくが絶滅危惧の料理ではないか?
しごとがら,わたしは全国版をそろえて購入したが,自分の地方の一冊を手にして,たまには眺めるのもいいだろう.

けっきょくは,地元や家族のイベントがなくなって,ちんまりつくってもおいしくないし,手間もかかるのが郷土料理だから,すっかり世代間での断絶がはじまった.
一世代前ぐらいなら,親戚の人寄せごとにつくったから,母から娘に引き継がれもした.
年一回のおせちすら,もはや外で購入するものになったし,その購入すらしない家もおおいだろう.

うっかりするのは,自分や近しいところのはなしだと思いがちだが,外国人とても事情はおなじで,国籍というよりいまでは死語となった「民族」ごとに,記憶されている「味」がある.
だから,日本にくれば珍しい日本料理によろこぶが,慣れてくると「舌がホームシック」になる.

そんなわけもあって,中国からのお客には,朝食に「お粥」をだせばなんとかなることがわかった.
わたしがホテルに入社して,研修でウェイターをしていたときに,朝食で外国人のお客様がカリカリに焼いたベーコンにメープルシロップをかけたのが,なんともいえない印象だった.あとから,きっとカナダ人だったのだろうとは予想したが,自分でやって納得した.

エジプトのカイロで暮らしていたときには,堅くなったフランスパンとビールでぬか床をつくって,キュウリやニンジンの漬物を自分で漬けていた.
しかし,ホカホカのご飯と味噌汁は貴重で,干物の焼き魚などは望むべくもない.
そういう意味で,あたりまえがあたりまえでなくなったとき,ひとは無性に食べたくなるものだ.

だから,東京にいまでも残る,一膳飯屋風情の定食屋の昼食は,ちょっと遠くても目的地になりえるのだ.
こうした店の定食こそ,日本人にうまれてよかったというもので,定食をセットメニューと呼べば,まさに至福のセットなのである.

そんなお店すら,いまは絶滅危惧が心配される.
存在するうちに,あたりまえをしっかり若者にも記憶させておきたいものだ.

観光には「匂い」がある

風光明媚な場所をさがして歩き回るのが「観光」かというと,そうではない.
風光明媚な場所に行くための,道中の景色も観光になる.
だから,飛行機のようなタイムマシンではなく,しっかり窓外の景色がたのしめる乗り物で移動するときには,けっして読書はしない.

景色・風景のなかにある,さまざまなことをぼんやり眺めながら,ひとの暮らしを想像したりすれば,はっきりしなくてもムダな時間とはおもえないからである.
たとえば,国内でも地方の街道を走れば,点在する民家をみるにつけ,その家のなりわいがわからないことがある.

いったい,この周辺の人びとはなにをもって生活しているのか?
田畑がみあたらないのに,どうやって暮らしをたてているのかが,わからないのである.
サラリーマンなら通勤はどうするのか?それとも職人の家なのか?ならば工房はどこか?
こういう疑問が,宿での情報で解決することは希だから,不思議なのである.

これが,はじめての外国ならなおさらである.
東欧を旅したときに,バスで国境を越えたら屋根瓦のかたちが変化したのに気がついた.
それを,ガイドさんに質問したら,民族性の違いという説明があって,国の違い,ということをあらためて感じたことがある.

ひとが旅をするとき,そこが初めての場所であればあるほど,全身の神経が動員されている.
それを,ふつう「五感」というし,ときには「第六感」まで動員することもある.
あらためて,五感とは,視覚,聴覚,嗅覚,触覚,味覚をいう.

かつて住んでいたエジプトに関していえば,当時のカイロ空港には独特の「臭気」があった.
帰国後,ちょうど10年経って,友人ら9人を引き連れて「里帰りツアー」をしたとき,大改修されてはいたが,カイロ空港の「匂い」は変わっていなかった.
それで,「ああ帰ってきた」と独りおもったものだ.

それは、イスタンブール空港もおなじで,あの街には石炭の匂いがある.
35年もたって,トランジットではあったが空港の外気を吸ったとき,自分はイスタンブールにいると確信できた.
ジェットエンジンや整備のための自動車がはなつ排気ガスのなかに,石油ではない,石炭が燃えた匂いがするのだ.

スリランカのコロンボでは,旧市街になった下町にいくと,かつて英国がつくった街並みがいまも残っている.
ガイドによれば,「ここはスリランカでもっとも不潔な街」といいつつ,「インドならもっともきれいな街」といって笑った.

コロンボの新市街にはゴミ一つ落ちていないが,ここにはぬかるみのような排水不良や,生活ゴミもあって,さらに,香辛料の独特な香りが混じっている.
この匂い,どこかで嗅いだことがある.
それは,カイロの下町の匂いに似ていた.

英国が支配した街並みもそっくりだから,急に,スリランカのコロンボ旧市街が「懐かしく」なった.
しかし,活気ある人びとの姿は,エジプトのそれと似ているはずもない.
混沌のアラブに対して,どこか秩序的な混沌という不思議さがあるのは,人間のちがいだろう.

かつての英国人たちも,街並みはおなじようにつくったが,そこに住む人間のちがいに興味があったはずだ.
まぁ,見下していたのはおなじだろうけど.

すると,日本には匂いがない,という匂いがある.
ただ,先進国には共通のようにおもう.
空港がタラップではなくて蛇腹式になったので,飛行機の乗り降りに直接外気を吸わないから,空港ビルの匂いが最初にとびこんでくる.

それは,プラスチックの匂いだ.
あるいは,化学繊維でできた不燃性カーペットの匂いがする.
だからこそ,日本から先進国への飛行機移動は,タイムマシンのようになった.
出発口と到着口の,距離を感じる前に,おなじ匂いを感じるからだ.

すると,街の観光に,匂いという要素があんがい重要な印象をあたえるはずだ.
街づくりには,景観,という第一義はあるものの,そこにひとが住んでいるなら,匂いのアピールがあってはじめてインスタを超えることができる.

そうかんがえたら,わがまち横浜の大観光地,中華街,からも匂いが消えたことをおもいだした.
ハマッコはかつて「南京町」と呼ぶのがふつうで,「中華街」といったらよそ者の証拠だった.
「南京町」の時代の中華街は,煮炊きを道端でする店もいて,あきらかに別世界の匂いがしていた.

子どものころ,鼻をつまんで歩いたと記憶している.
それは,カイロやコロンボの下町に似た,いかがわしさにもあふれていた.
路地ではトリをしめていたりしたから,ときには目もつぶったものだ.
よくいえば,人間の生活のいとなみが,露骨すぎるまでにあったのだ.

もう二度と,あの光景は見ることがない.
「清潔さ」と交換したのだが,魅力も数段落ちてしまったのはわたしだけだろうか?

漁業法改正に期待していいか?

日本旅館の食事といえば「魚料理」が第一にあがるから,このブログでも「魚」にまつわるはなしは書いてきた.
当然,魚は田畑で育てる農産品とちがって,海を中心にひとが獲りに行かなければならないから,「漁業」がなければ食べることができない.

もちろん,「養殖」という田畑とおなじ発想の漁業もあるが,本物の農業との根本的なちがいは,「タネ」にあたる「魚卵」の確保よりも「稚魚」のほうにあることだ.
たとえば,成魚が高額なうなぎの養殖に必要なのは,「稚魚」であって「魚卵」ではない.
「魚卵」から「稚魚」にする技術が確立されていないからだ.
マグロについては,ようやくさいきん,「魚卵」からの「完全養殖」が可能になった.

いま開会中の臨時国会で,先日,70年ぶりの改正となった漁業法改正案が衆議院を通過した.
この改正の柱は三本あって,一つは「漁業権」,もう一つは「漁獲量割当」,そして,「密漁取り締まり」であると報道されている.
わたしは,日本の漁業を北欧型に近づけるもの,とかんがんえる.

約半世紀前,北欧で起きた漁業改革は,「アンチ日本式漁業」だったことは本稿冒頭のリンク記事に書いた.
いまもつづくわが国の「日本式漁業」は,そこにいる魚を獲りつくすという意味での「略奪式」をやっているということだ.

「魚類の資源保護」という観点は,そのへんにある「環境問題」とちがって,すでに「いない」という事実があることからの認識がひつようだ.
ポーランドで12月2日から開会した,COP24のように,地球は温暖化なのか寒冷化なのかわからない状態での二酸化炭素削減の議論とはぜんぜんちがう.

とくに,わが国沿岸における「不漁」は,獲れないという意味の下に,獲りつくしたから,がある.
すると,ここに「需要と供給」という経済の大原則があらわれて,供給がないのに需要があるばあいに発生する「価格の高騰」がおきる.これが「密漁」の行動原因になる.

ずいぶん前の昭和時代に専門家が書いた本にも,地元の有力者である一部の漁協の組合長が,じつは独占的に密漁をしていて,「有力者」ゆえになかなか摘発にいたらないという実態の指摘を読んだことがある.

ことしの10月にでた,鈴木智彦『サカナとヤクザ』(小学館)は,そうした事情に切り込んだ,すさまじきルポである.
これを読むと,魚を食すること=反社会的勢力にお金を提供すること,になるから,わが国漁業をどうするか?はきれい事をこえている.

いまの臨時国会の衆議院できまった「漁業法改正案」は,この本の出版の「後」になる.
法案に反対する立憲民主党ら野党は,来年の選挙を見据えて,前回「農協」に媚びて勝った味がわすれられないと,こんどは「漁協」にこびへつらう方針だというから,どうしようもない恥の上塗りである.

その漁協のトップがあやしいという,この本を読んでいない,という意味でのまったくの勉強不足.それに,農協の構成員と漁協の構成員の人数のちがいも勘定できないらしい.
わが国に,漁民は15万人しかいないのだ.市町村議会選挙では勝てるが,国会は困難だ.
『サカナとヤクザ』の読書体験をしたひとには,「漁協」へ媚びた政策は,反社会的勢力に媚びるのとおなじにうつるだろう.

一方,与党はというと,賛成だから問題ない,ということではない.
北欧型漁業が成功した要として知られているのは,「資源」の科学的「把握」にある.
その数字をもとに,漁民各人に漁獲量を割り当てる,のである.
北欧の漁民が,この割り当てをめぐって争ったのも,有名なエピソードだが,「科学」という根拠でいまのように落ち着いた.

衆議院の審議で,割り当てについての質問に農林水産大臣が明確に返答できなかっただけでなく,都道府県に振ってしまったのは,わが国において「資源」の科学的「把握」ができていない,からである.
つまり,おおきな穴が空いている法案なのだ.

北欧では,消費者も「資源」の科学的「把握」の重要性を認識した.
それで,この把握に政治的判断など人間の恣意的な感情すら関与させないために,研究機関の完全民営と,その維持費の負担を消費者が承知したというプロセスがあった.

自主独立の精神の発揮である.
だから,最終的に漁民の漁獲量割当にかんする争いも落ち着いたのだ.
なぜなら,消費者の批判を漁民があびて,それに屈するしかなかったからだ.
中立の研究機関の把握結果を,消費者が全面的に支持したから,漁民も文句をいえなくなった.

しかし,わが国では,農林水産省の100%予算の支配下にある「研究所」が,「資源」の科学的「把握」をしていることになっていて,それが「エセ科学」であると,外国の専門機関による指摘をたっぷりされているし,そうした批判の政治的かつ恣意的な数字の発表は,それこそ昭和時代からある.こんな批判を国際的に受けていると,消費者である国民がしらされていない.

つまり,法で解決すべき問題は,中立な「資源」の科学的「把握」のため,政府からすら独立した機関の立ち位置を保障することである.
しかし,これを支える,消費者という日本国民が,自主独立の精神を発揮しなくてはならないことは,法律では解決できない.

これぞ,政治家が訴えるべきことだが,そんな勇気ある政治家が与党にもいない.
けれども,政治家にそうさせているのもわれわれ国民なのだ.

「しらなかった」ではすまされないことがある.

買ってくれたひとがみえない無念

製造業のおおくのひとたちは,自社製品の購入者を直接みることができない.
自社と購入者とのあいだに,流通業である商社や問屋が介在して,最後は小売店にいくからだ.
これは、すこしまえの自動車会社もおなじで,製造する「メーカー」と販売する「ディーラー」が別個の会社だったことからもわかる.

それで,おおくの製造業は「展示会」を開催して,消費者に直接アピールしたり,「モニター」をつのって,試作品のつかい勝手や評価を依頼して,最終的に「商品」とするかを決める.
これらの行動や活動には,多額の資金を要するのは,だれにでも想像がつく.
いいかえれば,製造業は,顧客へのアプローチにたいへんな「カネ」をかけているのだ.

ネット社会がこれを変えつつあるのは,工場直売を自社HPでやっていることがあるからだが,残念ながらそれでどんな顧客情報を得ているのか?となると,まだ弱いような気がする.
小売店で購入するのと,手順があまりかわらない.
すなわち,カネをかけて「顧客情報を得る」という手段にまで昇華させていないと感じるからである.

職人にスポットをあてた人気TV番組がある.
自分がつくった道具が本人がしらないうちに,海をわたり,その国を代表するような名人の職人が愛用している影像を作り手の職人にみせる,という趣向である.
そして,愛用している外国の職人から,感謝のメッセージ影像が贈られる.

これが一連のパターンになって,シリーズ化して放送されているが,いつ観ても何回観ても不思議なのは,作り手の職人が「実際に自分の道具がその道のプロの職人に使われているところを初めてみた」というお約束のコメントだ.

驚くほど使いやすいと絶賛される道具が,実際に使うプロの要望をリサーチせずにできるものなのか?という疑問だ.
すると,ここに流通からのフィードバックを予感するのである.
「こんな感想がきたよ」

あるいは,伝統的な製品であれば,数百年前の初代の周辺あたりの世代のひとたちが,自分で道具をつくって目的の製品をつくっていたかもしれない.それが,だんだん名人芸になって,他の職人からの依頼をうけているうちに,気がつけば道具づくりが専門の家業になっていたのかもしれない.

それで完成された形と製法が,そのまま何も変えずに作ること,に変容すれば,いつしかプロの職人が使っているところをみたことがなくても,十分なものができるのだろう.
その道具が単純な機能であればあるほど,その完成度はたかくなる可能性がある.
だから,外国の職人も,このまま変わらない製品を作りつづけてほしい,になるのだろう.

ひるがえって,人的なサービス業である宿泊業や飲食業は,かならずお客様と接するようになっているし,そうでなければ「業」として完結しない.
これは,製造業の常識,からすれば「垂涎の的」の状況だ.

ところが,「垂涎の的」になるべき「顧客情報」を,ほとんど利用していないという残念をとおりこした「無念」がある.
「無念」だから,念が無い.「念」とは思いである.
つまり,目のまえにいるお客様の情報を活用しようという,思いがない,ということだ.

これは再生のお手伝いをしていて,かならず遭遇する.
つまり,お客様を喜ばせたい,ではなく,自分たちを「利益」で喜ばせたい,という意味である.
衣の下の鎧ならまだましだが,鎧しかみえない.
それで,肝心のお客様が逃げてゆくから,経営が行き詰まるのは,物理法則とおなじである.

上述の人気TV番組を,観たことがないのか?それとも観ても製造業の他人事で,自社ならどうだ?という想像力もないのか?
あるいは,利用客をみたことがない,のに「凄い」と絶賛されるのを,ただ感心して観ているのか?
すくなくても,自社の実態をみようとしないことはおなじである.

目のまえにいるひとに関心がなくて,接客系の事業をやっているなら,とっくに業績もよくないはずだから,わるいことは言わない.
はやく廃業するか,べつの,目のまえにいるひとに関心があるひとに事業譲渡すべきである.

事業譲渡したらお金になった.
事業に無念なひとには,せめてそれで納得いただきたいものだと念を押したい.

名前で呼ばれるとうれしい

接客を業としていればすぐに気がつくが,名前でお客様を呼ぶとよろこばれる.
個人情報保護が過剰になって,卒業後のクラス会もできないという個の分断を促進するのはいただけないが,パーソナル・サービスとして十分に機能しているのも事実である.

だから,事業者はお客様の名前という情報を得るのに苦労している.
誰だかわからない人を,名前でお呼びすることはできないから当然だ.
それで,各種アンケートをしてみたり,顧客カードを発行したりと,手段の開発と採用にいそがしい.

客側は,財布がふくらむ顧客カードをこれ以上増やしたくない.
それでいて,各種利用ポイントはほしいから,携帯端末に集中させているひともいる.
支払方法を世界水準のキャッシュレス化にしたい政府は,たんに「世界水準の普及率」にこだわっているだけだから,ぜんぜん普及しないことにイラついている.

昭和の時代に経営危機になった東芝は,当時世界最高水準の「真空管技術」をもっていた.しかし,その当時に,トランジスタの量産がはじまって,真空管技術にこだわった会社が倒産の危機を迎えたのだ.
気がつけば,わが国は世界最高水準の紙幣印刷技術をもっている.
しかも,製紙工程で紙に漉き込ませる極小チップをいれれば,電子的な方法で真札であることが証明できる.それなのに,電子決済とは,トホホである.

わが国とならぶ現金流通がぜったいの国は,世界を見渡していまやロシアだけだ.
わが国の印刷技術で,ルーブルを印刷してあげるというのも経済協力になる.
国立印刷局の仕事もふえていいだろう.
「メイドインジャパン」の紙幣を輸出するというビジネスだ.

銀行口座の制度と与信制度が便利さをつくる欧米での電子決済の普及と,不動産担保での与信しかできないわが国では,普及率の比較自体がナンセンスだ.
どうしても,外国人観光客からバカにされたくないから,電子決済をやりたいなら,与信システムを変えなければならないだろう.

ついでにいえば,外国人労働者の本国への仕送り送金をどうするつもりなのか?
まさか,銀行からの送金を義務化したら,バカ高い手数料で暴動になるかもしれない.
彼らの送金需要から,ビットコインの普及が促進するかもしれないが,高級官僚にはわからないだろう.

これらのはなしは,お名前を呼ばれてうれしい,というはなしとはちがってみえるが,利用者目線の重要性という点で一致する.
日本政府と国民代表であるはずの政治家の目線が狂っている,ということだ.
つねに上から目線,これで民主主義だというのだからこまったものだ.

ところが,民間企業でもこまったことが蔓延している.
上司と部下の関係が壊れだしているのだ.
この場合の上司とは,経営者であることもある.
ならば部下とは,管理者になる.

部下をもつ,経営者や管理者は,自分の部下の氏名と年齢を正確に書けるだろうか?

むかし,生徒数千人をこえるマンモス小学校で,そこの校長先生が全生徒の名前を覚えていたというエピソードがあった.
いま,とやかくいわれる学校で,校長は全生徒の名前をまちがえずにいえるのだろうか?
もちろん,全生徒の名前をいえるこの学校では,休み時間に校長も校庭に出て,会う生徒にかならず名前をフルで呼んで声かけをしていて,呼ばれた生徒はうれしそうに挨拶をかえしていた.

小学生にしてこれである.名前で呼ばれることは特別なのだ.
部下のいるあなたは,そのひとたちの氏名と年齢を正確に書けなければならない.
もし,書けないなら,あなたの部下は,自分の名前を知らない人が上司であるということになる.
これで,組織としてビジネスが成立するのか?

人間という高度に社会性をもった動物は,その本質に自己の存在を確認したがる性質がある.
他人から自分を認識させるものが唯一,名前,なのである.
「ねえ,きみ」と声をかけられて,それが番号だったらどうだろう?
いきなり「囚人」になってしまう.裏返せば,囚人を番号で呼ぶ理由がわかる.

だから,部下の氏名と年齢は正確に書けなければならないのだ.
これが,組織行動を円滑にする最小限のルールである.

上述の校長先生は,生徒の氏名だけでなく,保護者も覚えていた.
苗字だけでなくフルネームで「◯◯◯◯君のお母さん」と呼ばれて,嫌なおもいをするひとはいない.
だから,マンモス校だからといって学校運営のトラブルは皆無だったのだ.時代背景がちがう,というよりも,こうした先生がいなくなったことが時代なのだろう.