METライブビューイング

世界四大オペラのひとつで,巨大な舞台装置で識られるのは,なんといってもニューヨークにある「メトロポリタン歌劇場」だろう.
あとの三つは,ウィーン国立歌劇場、パリオペラ座、ミラノ・スカラ座、をいうが,じつはブエノスアイレスのコロン劇場をわすれてはならないから,「世界五大オペラ」といったほうがよいだろう.

メトロポリタン(Metropolitan)から略して「MET」といっている.
130年以上の歴史を誇る,アメリカ合衆国最大のオペラ劇場だが,もちろん「国立」ではない.
そこで2006年から,劇場で上演中の作品を世界の映画館に配信して鑑賞できるようにしたのだ.

これは,「上演」にかんする歴史的なイノベーションであった.
いまでは,歌舞伎も映画館で上映されるようになった.

日本では,日本語字幕をつける作業もあって,ほぼ一ヶ月遅れでの「同時上映」だが,世界におくれることなく2006年にスタートしたのは「民間」のなせるワザだろう.
イタリア語やドイツ語が主流のオペラでは,日本語字幕はたいへんありがたい.

はじめの頃は観客もまばらで,素人ながら「大丈夫なのだろうか?」と心配するほどだったが,その圧倒的内容の満足感と「混雑しない」というダブルの満足感があったものだ.

しかし,やはり気がつくひとはいるもので,映画館へいくたびに観客数が増えているのが実感できた.

「オペラ」作品をそのまま上映するのだから,ふつうの映画とちがってやたら長い.だから,チケットもほぼ倍額なのだが,撮影技術,音響録音技術と,それらを再生して上映する技術の進歩,さらに,さいきんの映画館のシートの快適さもあって,臨場感はたっぷりだし,歌手たちのどアップは,残念だが「生」ではオペラグラスがあっても観ることはむずかしいだろう.

さらに,幕間にはふたつの工夫がある.
ひとつは,幕が下りてからの舞台上の様子が撮影されていることで,大道具のセッティングが観られること.
もうひとつは,その横で,前回や次回に主演するスター歌手が司会役になって,今回の出演者や舞台スタッフへのインタビューがあることだ.

これらは,劇場に実際にあしを運んでも観ることはかなわないから,映画館だけのお楽しみだ.
また,映画の入場時にわたされる紙には,このインタビューでプロが使った用語の解説まで書いてあるから,初心者にたいへんやさしい気遣いがある.

最初この試みは,映画にして舞台を世界に発信などしたら,劇場にくるひとが減って,結局は収入をうしなうと,たいへん懸念されたのとは裏腹に,世界中でオペラファンの発掘が行われて,「いつかはメトロポリタンオペラの本物を観たい」になった.「いつかはクラウン」のあれである.
じっさい,シーズンを皆勤して応募すると,撮影日の講演に抽選で招待されるようにもなっている.

さて,12シーズン目になったことしの幕開けは,わたしの想い出があるエジプトを舞台にした「アイーダ」である.
昨日が,最終日だった.

クラシックのジャンルだから,さまざまなひとたちが公演しているのだが,METのばあい今回とおなじ舞台演出で過去二枚のDVDと一枚のブルーレイが発売されている.
DVDのジャケットが同じなのは,右が左のアンコール・プレスだからで,ブルーレイはちがう出演者だが演出がおなじだからジャケットもおなじようにみえる.なお,今シーズンもおなじだ.
なので,演奏だけでなく演者の比較鑑賞ができるという,ならではの楽しみもある.

上段のDVDの元は1989年の公演で,オリジナルDVD(左)はエミー賞を受賞している.

下段のブルーレイもジャケットが同じにみえるが,DVDと演者がちがう.こちらは,2009年版で,王女アムネリス役のドローラ・ザジックが唯一の共通だ.
今シーズンのアムネリス役は,アニータ・ラチヴェリシュヴィリだから,こちらも比較できた.

 

今回のインタビューで,MET史におけるアムネリス役の最高出演回数は90回超えがトップだが,現役のドローラ・ザジックが70回超えで追っていることをしった.彼女は,イル・トロヴァトーレのアズチューナ役で,主役を飲み込むような凄みの演技を魅せたが,元は医学生である.

そして,今回のアイーダ役は,当代随一のソプラノとされたルネ・フレミングが昨年の17年に引退して,その後継になったアンナ・ネトレプコだ.
その彼女へのインタービューで,3幕の有名な独唱について,「テクニックではなく無心でアイーダになりきること,そして最後は『度胸』だ」といった.

インタビューアーは,前に書いたとおり,今シーズンの別の作品で主役を演じるソプラノ歌手である.この返答を聞いた,その彼女が,大きくうなずいた姿には説得力があった.
「度胸,ですね」と.

また,アイーダは奴隷でもあるから,懇願するセリフの歌詞で「ピエタ(Pietà)」が30回以上あるが,これらをひとつづつ歌い分けるといっていたのが印象的だった.
それを,幕が開いてからの場面で確認できたのは,観客として十分に満足感がえられる「予告」だった.
「やれ!」といわれてすぐにできるようなものではないから,若い歌手の凄まじいまでのプロ根性に脱帽である.「一流」とはかくなるものだと教えられた.

今作出演の二人の新人のインタビューもあって,劇場の「養成所」で,たっぷり「育成プログラム」を受けたという.すでに世界で活躍しているファラオ役も養成所出身というから,はんぱない.
世界のメトロポリタンオペラは,新人の養成事業もおこなっている!

しかし,新人の発掘はなにも養成所にかぎらず,各地で活躍している無名人の登用もしているのだ.
今回のばあい,アイーダの父アモナズロ役は,そうやって実力を発掘されたひとりだった.彼は今シーズンの「椿姫」にも出演がきまっている.

そういえば,ルネ・フレミングも,1988年にMETのオーディション合格があっての「当代随一」だ.

人材を育てることと,発掘することができる組織がある.
それが,一流を維持するのに不可欠なのだ.
これを怠れば,どんな組織もほころんで,トップが世間に「ピエタ」をするはめになるのは,大企業も官僚組織もおなじなのである.

連立方程式の企業経営

3年前の2015年9月に改正された,労働者派遣法で,派遣労働者の訓練が義務化された.
外国では一般的な,仕事にもとめられる能力の特定,がようやくはじまったともいえる.
派遣会社は,自社で教育訓練をして,本人を派遣先におくる,あるいは,派遣先に依頼してOJTを受けさせることになる.

このとき,教育訓練を受ける労働者には,所定の賃金が支払われることになるから,派遣会社はこの費用を負担しなければならない.
結果的に,受益者である派遣先が派遣料のかたちで負担することになるはずだ.

しかし,派遣社員という働き方をえらんだひとには,キャリア・アップのための手段になって,自分を高く売ることに役立つことになる.
もちろん,単価の高い派遣社員を派遣する会社は,相手企業から単価の高い報酬を得られるから,お互い様の関係である.

これは,派遣労働を単純労働に固定するということではないですよ,という意志表示だろう.
また,正社員への登用,ということも視野にあるから,単純労働しかできない,のでは本人の絶望だけでなく雇用主もこまる.
トータルすれば,派遣社員の労働の質がたかまって,雇用主の支払う費用が上昇することを意味する.

これはかならず直雇いの場合とリンクするから,雇用主には対応の選択肢が二通りある.
よりいっそう安価な労働力をもとめるか,人件費上昇分を別の費用で相殺しながらも売価を上げるかである.

おそらくは,外国人労働者が前者にふくまれるだろうから,一歩まちがうと道をはずすことになる.すでに奴隷労働的だとして批判を浴びる企業がでてきている.
この批判を避けるには,国籍はとわず正規の賃金や労働条件を提示するしかないから,じつは,よりいっそうの安価な労働力をもとめることは,たとえ移民を受け入れてもすでに困難になってきている.移民は,頭かずでしかないのだ.

すなわち,人件費上昇分を別の費用で相殺しながらも売価を上げる,という方法に日本企業のすべてが追いつめられているのが実情だ.
だから,こちらの意味でも従来の戦略の見直しは必須である.
単純に人件費を価格に上乗せしました,で消費者の支持が得られることはないだろう.

業務委託・受託の契約関係でも,労働環境はおなじだ.
すなわち,自社における内製よりも,専門の業務受託先に外部委託したほうが安価にみえた業務も,急速に状況が変化してきている.
人手が確保できずに,受託先が突然に業務を停止してしまって,委託先の営業ができなくなるリスクが拡大している.

それは,情報ギャップが原因であるから,委託先がたえず受託先の人員状況を確認しなくてはいけなくなった.
ところが,それで人員状況が悪いとわかっても,すぐに代わりの受託先をみつけることができないし,みつけたところで引き受けてくれる可能性もひくい.

つまり,八方ふさがりの状況がうまれている.

なんのための業務委託だったのか?という根本の問題になっている.

それで,ぜんぶの業務を自社の内製にかえる人的サービス業の企業があらわれている.
つまり,全員を正社員として採用するから,パートもアルバイトもいない.
結局,終身雇用にもどったのだ.
しかし,こんどの終身雇用は,ほんとうに終身で,定年がない.公的年金問題が,事実上そうさせるからだ.しかし,いつまでも,現役時代の半分以下になる年収に甘受できないはずだ.

キーとなるのは,社員の人生設計とのマッチングにある.
しかし,派遣社員で導入された,仕事にもとめられる能力の特定,が正社員にも適用されてセットになるだろうから,徐々に従来の「生活給」というかんがえ方から離脱するのではないか?
定年後再雇用の年収半減も,生活給を前提に屋上屋を架した結果にすぎない.

ハワイで起きた,ホテル労働者の長期ストライキの要求は,「この仕事『だけ』で生活できるようにしろ」である.
日本における戦後の「生活給」というかんがえ方は,ある意味,若年層には能力以下の賃金だが,家族持ちにはその逆をあたえることで「生活」ができるようにした方便だった.

しかし,もはや企業にたとえ方便でも配分する根幹の余裕がなくなった.
だから,仕事にもとめられる能力の特定,と,人生設計がマッチしなければならなくなった.
けれども,むかしとちがって本人の人生設計すら一律ではない時代でもある.
すなわち,キャリア・プラン,の存在が俄然おもみを増すようになった.

どんな階段を登ると,どんなゴールがみえてくるのか?
企業は,そのゴールをみせなくてはならなくなったのだ.使い捨てはもうできない.
ゴール・イメージがマッチしなければ,募集してもひとは来なくなる.
これに,賃金その他の条件がセットになるはずだ.

すでに,日本のメガバンクが学生の就職人気を失ったのは,賃金よりもゴールが暗いからである.

つまり,終身雇用でも,こんごは年功序列ではない.
キャリア・プランをいかにクリアするか?になる.
そして,終身雇用だが転職も前提になる.
よりよい条件が提示されれば,別の企業に移っても,おなじく終身雇用は条件になるはずだ.

企業経営は,お客様相手の方程式を解く時代から,従業員をくわえた連立方程式を解かなければならない時代になったのである.

すると,これはかならず就職前の「学校教育制度」の不具合というに問題に波及することになる.

人間は正確に同じ動作ができない

簡単な動作にみえるから,まねれば簡単にできる,かというとそうはいかないのが人間という動物である.
それで,長年の「研鑽」とか「修行」をこなして,なんとかできるようになるものだ.
こうしてできるようになったひとを,マイスターとか職人と呼んで尊敬のまとになる.

芸能の世界もまったくおなじで,それはなにも伝統芸能の分野だけではない.
しかし,わかりやすいのは伝統芸能における「芸」である.
子どものときから訓練されるが,不向きな子にとっての稽古は地獄の時間にちがいない.
「能」の狐役をこなせるようになるには,20年以上の歳月を要するというから,気が遠くなる.

もちろんスポーツの世界も「芸」のほかなにものでもないから,職人,は一夜にして誕生はしない.
かつて,名選手の長嶋茂雄に,バッティングを習おうとしたら,カーッときた球をカーッと打つ,と説明されてあきらめたという逸話があるが,職人の域に達したひとには,そう表現するしかないのだろう.

それは,長年の自分の努力を惜しんで教えないということでも,長嶋氏独特のとっぽさということでもなく,たんに自分がかつて練習で掴んだときの理屈の記憶をわすれて,感覚の記憶に昇華してしまったのではないか?
だから,ことばにならないのである.

日本が誇る,すばる望遠鏡のレンズを手作業で磨いて仕上げた伝説の職人も,自分の手のひらの神経がつたえる感覚がすべてであって,その感覚をことばでは説明できなかった.
このデジタル時代に,なぜ手作業で仕上げをするのか?
それは,現代のセンサー技術をこえる精度で研磨することができるのが唯一,訓練を積んだ人間だけだからある.

だから,ものすごく繊細な分野では,人間の職人技がぜったいに必要なのだが,IC(中央演算処理装置)をつくるときの精密かつ高速なハンダ付けにはマシンが活躍しているから,はなしは単純ではないようにもみえる.
しかし,キーはセンサー技術にある.

センサー技術の範疇におさまるのであれば,マシンが人間よりもすぐれる.
しかし,これをこえると,マシンはまったく歯がたたない.
ここに,人間の技の優位分野がある.
ここでいう「センサー技術」とは,センサーで見つけて修正すること,だ.

つまり,どんなに細かな「異常」を発見できても,それを修正・修復できなければ製品にならない.
すばる望遠鏡の例では,レンズの歪みを発見するのはセンサーで,それをひとが手作業で仕上げたのだ.
巨大なレンズにおいて,センサーがみつけた歪みを感じながら修正する,という動作が,マシンには不可能だったからである.

さて,以上のことを前提にすると,組織をうごかすのはやはり人間しかできないことだとわかる.
組織のなかのさまざまな状況を,マシンが把握するためのセンサー技術すらない.だから,修正も修復もマシンにはできない.
現在のAIの限界だ.つまり,いま話題の「AI」は,おもちゃみたいな段階でしかないから,過剰な依存は禁物である.

ところが,組織のうごかしかた,を肝心の人間がどこまでしっているか?となると,とたんに苦しくなる.
訓練を受けていないからだ.
これは、前回のブログで触れたとおりだ.

もう一方の,現場,という場面でも,おなじ状況がある.
人的サービス業のばあいは,とくにこれを強調したい.

カリスマ的な人材のみごとな動き.
簡単にまねできそうでぜんぜんできないことを,現場のひとほどしっている.
これを,あの人を見習え,というだけでいいのか?
どうやって見習えばいいのか?の追求がなくていいのか?

そこには,前提として,人間は正確に同じ動作ができない,ということをしらなければならない.

もっといえば,そのカリスマのかんがえ方,からまねる用意をしなければならない.
人間はかんがえる動物なので,思想が行動の原点になるからである.
それで,有名なカリスマの本には,そのひとのかんがえ方がくわしく書いてあるのだ.
具体的な方法は,じつは二の次なのである.

にもかかわらず,「この本はつかえない」といって投げ出すひとがたくさんいるのは残念だ.
もっとも重要なことを無視する態度は,うわべを追った浅はかな態度である.
だから,単なる方法が羅列してあっても,こうした読者には不満だろう.
「なにもあたらしいことが書いていない」と.

カリスマのおおくは,なにもあたらしいことなどしていない.
こころをこめて,最善の方法をつねに行動にしていたら,それが体に焼き付いてしまったのだ.
だから,その場その場について,適確な説明などできない.

それならばと,映像に記録して,本人の動作を瞬間瞬間でまねる訓練までしている会社がある.
本人が健在なうちに,これらの映像の「瞬間芸」を切り取って,本人に「コツ」を解説させる試みまで実行している.
その「解説」に,かならず「思想」の説明があるから,わかりやすい.

だから,こうした会社の訓練は,はじめ座学から,そして実技になるのである.

世界一流を維持する製造業

日本人は手先が器用だから,ものづくりの国,なのだろうか?
妙だが,アメリカ人の手はおおきくてゴツいから,不器用なのだと嗤うことがある.
「妙」だというのは,いまでも世界最大の工業生産物を輩出しているのは,そのアメリカなのだ.
中国ではない.

70年前の戦争に負けたのは,圧倒的な工業生産力が原因だったと,子どもでも識っている.
そんな国にむかって,なんで戦争なんかしたんだ?と,いまでも議論しているのがわが国だ.
わからないから軍を悪者にすれば,とりあえずおちつくが,納得できないからぶり返す.
戦後の男の子がなりたい職業トップは,野球選手からサッカーに変化したが,戦前戦中は一貫して陸軍大将であった.

陸軍大学校を出れば,全員が陸軍大将になれるかといえばそうではない.
すくなくても,卒業時に同期トップ3に入賞しないといけないが,恩賜の金時計をもらえる一番が最有力候補になるのは,いまでもおなじ官僚組織の原理である.
しかし,軍には「幼年学校」というものがあって,ここからが本当のスタートだ.

つまり,ふつうの中学・高校から陸軍大学校に入学しても,トップにはなかなかなれない.
訓練度合いがちがうのは,数年間で克服できない.
それで,本物は「幼年学校」に行く.
今日の自衛隊も,防衛大学校卒だけではいけなくて,「陸自少年工科学校(いまは「陸自高等工科学校」)」から防衛大学校に進学するのが「本物」だ.

しかし,世界最強の米軍とは,その位置づけ(憲法)からしてちがうから,残念ながら,教育の幅に歴然とした差がうまれるのは仕方がない.
「軍」と「隊」のちがいは,雲泥の差というのは,戦力や装備のちがいだけでなく,マネジメント手法にもあるはずだ.

第二次大戦に米国が参戦するまえから,兵器産業はフル稼働していた.
それで,おおくの熟練人材が兵器工場に異動させられ(日本でいう「徴用」である),もとの会社に人材不足が発生した.
それで,米軍が開発した人材育成手法がひろがって,工業の裾野もうまく稼働できたのである.

サラッと書いたが,注目は,米軍が工場の熟練工を速成する手法を開発した,ということだ.
日本の陸海軍がましてやいまの自衛隊が,上記のようなことをしたという話は寡聞にして聞かない.
いまでも民間に,たっぷり「命令」はするだろう.

この手法を戦後日本に伝えたのは,とうぜん開発した米軍で,発信源は東京の立川基地だった.
日本人従業員の大量採用後,その残念な状態,に米国軍人が耐えられなかったのがはじまりらしい.

職場マネジメントの基本も,業務品質の概念も「なかった」のである.
おそらくは,まじめに出勤だけはして,さらに残業もいとわない勤勉さではあっただろう.
これは,昨今いわれる「働きかた」そのものの問題だ.

これは、重要な問題で,戦争に物量に負けた,というのは,思い込みではないか?
その前段にある,論理の欠如,こそが,最大の敗戦原因だろう.
日本人に,論理,があれば,そもそも開戦などしないし,ヒトラーと同盟も結ばない.
隣国をいま,「情緒の国」と嗤うが,われらも同類ではないのか?

食うや食わずの食糧難の終戦直後,基地をつうじて「論理」と「手法」がセットになった「メソッド」を学んだのは,基地出入りの製造業だった.
こうして,日本の製造業の戦前からの大手にひろまり,それから新興企業に拡散した.
もともとが,熟練工速成メソッドだから,兵隊に人員を供出していた企業には渡りに船のはなしだったろう.

そうして,このメソッドにさらなる磨きをかけたのがトヨタ自動車だ.
現在,わが国の製造業で東証一部上場企業のほとんどが,このメソッドを導入している.
しかし,注意してほしい.このメソッドには二方向が用意されていて,製造の品質と組織マネジメントであることだ.

まさに「両輪」である.
これこそが,わが国製造業を世界一流に押し上げたのではなかったか?
それは,日本企業に勤めマネジャーになった人物が,アメリカに逆輸入して成功させていることでも証明される.

ところが,小資本でもできる飲食業や旅館業は,食材集めに翻弄して,このメソッドに触れなかったのだろう.
また,米軍が接収したホテルにも,このメソッドは伝わらなかった.

米軍に気づきがなかったのか,それともホテルが気づかなかったのか?
ましてや,アメリカの有名大学ホテル学科で学んだ先人たちが,どうして気づかなかったのか?
製造業とサービス業はちがうという,常識の壁,がみえないバリアーになっていたのか?
サービス業も,サービスを「製造」しているのである.

不可思議なことがある.

業務の「標準化」なくして移民?

世界最大の売上高を誇るホテルは,マリオット(スターウッド含む)になった.
リッツ・カールトンや,シェラトンを含む傘下のホテルブランドは30もある.
運営する部屋は110万室である.
室数規模でみれば日本では,5万室の「東横イン」がトップになっている.

「おもてなし」の国ニッポンに,世界規模の高級ホテルチェーンは存在しない.
また,不思議と,世界最大ホテルチェーンをランキング化すると,トップ10のうち9グループがアメリカの会社なのだ.
80年代に,そのアメリカで,「サービス革命」といわれたエポックメイキングな本が二冊出版されている.

 

どちらも邦訳が出版されたが,日本でサービス革命は起きたのだろうか?といえば,ファミレスや居酒屋チェーンなどで「起きた」が,「おもてなし」にこだわった高級旅館や高級ホテルでは「起きなかった」といっていいだろう.

このことについて,わたしは,業務の「標準化」がキーワードだと理解している.
しかし,「標準化」とは,「金太郎アメ」のような「サービス」であって,それはハンバーガー・チェーンにみられる「画一化」された「サービス」であると,思い込んでしまったことに不幸があったとかんがえる.

つまり,店舗拡大に成功したモデルは「標準化」を実施して,サービス革命を実践し,そうでない業態では,サービス革命が起きなかっただけでなく,衰退してしまったのではないか?ともいえそうだ.

いうなれば,「標準化」が「製造業」におけるラインにみえてしまった.
「われわれは『ベルトコンベア』のような仕事はしない」というわけだ.
しかし,残念だがこれには想像力の欠如があるか,上述の図書を読み込んでいないかのどちらかだろう.

その証拠が,マリオットの二代目が書いた下記の本で,「標準化」こそが成功要因だと断言しているからだ.

この本は,1999年に邦訳がでているから,すでに二十年ほどの時間が経過している.
それなのに,旅館やホテルの経営者のおおくがいまだに,「標準化」に積極的でないのは,どういうことなのだろうか?
単純に,読書が習慣になっていないか,本が嫌いなのだろうと疑ったほうが説得力がありそうだ.

わが国の工業製品で,もっとも販売単価が高額なのは,トヨタ自動車の「レクサス」ではないかとおもうが,この自動車の「特別」なつくりかたは広告宣伝でも当初は流れた.
しかし,この自動車をどうやって販売するのか?といった面になると,とたんに従来のディーラーとイメージがかさなってしまうのだが,ほんとうにおなじなのだろうか?

接客サービス業を自称するなら,この点について一般人よりも詳しくてふつうなのではないか?
つまり,レクサス以外のトヨタ車とは,別次元のことがおこなわれていることに注目したい.
なぜ,そのようなことが可能なのか?
マリオット社も,30ものブランドをコントロールしている.

これは,それぞれのブランドで,標準化がおこなわれているからできるのだ.
標準化とは,「業務の定義」がなければできない.
それは,製造現場だけでなく,企画・設計段階からアフターサービスまでを含むものだ.
そのためには,業務を細分化しなければならない.

つまり,微分的発想が必要になる.
だから,「真実の瞬間」なのだ.

ところが,これら細分化されたユニットが,統合化されてはじめて「商品」になる.
これは、積分的発想だ.
それを,人間があつまった組織で統合する必要があるから,「逆さまのピラミッド」でなければ達成できない.

上記の二冊が,ほぼ同時期に出版されたのは,偶然ではなく必然だったとかんがえる.

人口が減れば労働力も減る.
それでは困るから,移民を受け入れたい,とかんがえるのは理解できなくもない.
しかし,業務の標準化もできていない現場・職場に,ことばが不自由な移民を作業員として補充して,はたして生産性は伸びるのか?

ポケット翻訳機があれば解決できるような,甘いものではない.
移民の生活に正規の賃金はひつようだし,移民も歳をとるから社会保障もひつようだ.
いま,急務なのは,標準化と現在戦力のブラッシュアップなのである.

手法さえわかれば簡単だ

世の中にはかぞえきれないほどたくさんの「ノウハウ本」がある.
しかも,だいたいどれもそこそこ売れている,のだという.
なるほど,本が売れない時代の書店に,ノウハウ本が山積みの理由がここにある.
まったく不思議なはなしである.中身が濃い本ほど売れないというのだから.

「ノウハウ本」を読んで,ノウハウを習得したひとをわたしはみたことがない.
すると,「本なんか読んでも役に立たない」と豪語して,いっさい読書をしないという経営者もいるから,世の中には極端があふれている.

「ノウハウ本」を購入するひとと,読書を基本的にしないというひとは両極端のようだがそうではない.
共通点に,「手法さえわかれば簡単だ」というお手軽・お気軽な「思想」があるからだ.
90年代の「軽簿短小」という産業トレンドが,そのまま人間の「軽薄さ」に転換されたようだ.

一方は,「手法だけ」をもとめて「ノウハウ本」を読みふけり,手法が自分にはあわないとして,また別の本をもとめるタイプだ.
もう一方は,肝心の手法など,本に書いてあるはずがないからと,本を読まず,うわさやトレンドに飛びつくタイプなのだ.
だから、両者のもうひとつの共通点は,テレビの情報,すなわちマスコミの影響をうけるようになることだ.

これは,ホテル業界では顕著で,とくに婚礼部門が深く冒されている.
新婦が必携の「婚礼雑誌」に,利用者と提供者双方が振り回されてひさしい.
わたしもかつて,紹介者をつうじたカップルで,新婦から直接雑誌をみせられて,このページの写真のように結婚披露宴をやりたいといわれたことがある.

当時の数字はわすれたが,さいきんのこの雑誌の発行部数は約30万の月刊誌である.
結婚する組数はだいたい年間で60万組だから,単純に新婦の半数はみている可能性がある.式までの準備期間をかんがえると,ひとりで何号も読破するにちがいない.
だからこそ,とてつもない影響をおよぼす雑誌だと位置づけられているのだが,裏をかえせば,式が近い招待客候補の友人もみている可能性がある.

それで,30万人がみた写真どおりでほんとうにいいのですか?と聞いたら,キョトンとしたひとがいた.
結果的に,オリジナリティを一緒に追求するという意味ではあたりまえの「手作り婚礼」になった.

ところが,いまは,「お客様は『神様です』」という美辞麗句にさからえずに,お客様のいうとおりの実現こそがサービスというかんがえ方になっているようだ.
「正解」をだれもしらないが,「正解に近づける」という手法すらわすれてしまったのかのごとくである.

ここに経験豊富なプロが介在する価値があったはずなのだが,本人希望の雑誌のとおりに再現すればクレームはこない.
これを20年もやっていたら,とうとう「経験豊富なプロ」が途絶えて,たんなる受付係になってしまったから,単価がたかい社員でやることもなく外注化がすすんでしまった.

こうして,気がついてみれば,会場と料理だけが「ホテルの商品」でしかないのだが,商品名はホテルになるから,顧客が買っているはずの「◯◯ホテルでの婚礼」と,ホテルが売っている商品がみごとに解離してしまった.
それに,気がついたひとたちが,また例の雑誌情報であらたなトレンドに向かうから,ホテルはいつも後追いというモデルができたのだ.

それでは,成功したモデルの手法を真似ればよい,と「手法さえわかれば簡単だ」というひとたちはかんがえる.
それで,婚礼専門の外部の知恵を買ってくれば,あとは自動的にうまくいく,はずである.
ところが,世の中そんなに甘くできてはいない.

これは、政府の未来戦略がかならず失敗する構造とおなじである.
いまうまくいっている知見からしか予想ができないからだ.
婚礼雑誌が紹介して,いつしかトレンドになるやり方は,かならず「手作り婚礼」という挑戦者がいたものだ.

これは,イノベーションのことである.

当然,リスクは本人たちが背負ったので,企画倒れしてしまったアイデアもたくさんあっただろう.しかし,だからといって,新婚のふたりが不幸になるのかはまったく別のはなしである.
「リスクは避けるモノ」を追求する組織が,どんなに優秀な識者を呼んできても,イノベーションのたまごも生まれない.

残念だが,信念を持って,自分で手法をかんがえつくまでやらないと,けっして自分のモノにはならないのである.
いいかえれば,自分がノウハウ本を書けるようになることなのだ.
果たして,そうなったとき「手法さえわかれば簡単だ」といえるだろうか?

とんでもない.
そのレベルにまで達したら,こんどはその手法をさらに磨いて,進化させなければならないという信念がわいてくるだろう.
それを誰がやるのか?

「手法さえわかれば簡単だ」という思想では,繁栄は永遠にやってこない.

「自己満足シート」と微分積分

音楽の専門家ではないが,音楽にはおおきくわけて「モノフォニー」と「ポリフォニー」という分類があることはしっている.
「モノフォニー」の代表は,「歌謡曲」や「演歌」で,モノフォニーの「モノ」とは,写真の「モノクロ」のように「単」という意味から,旋律がひとつの音楽をいう.
その反対が「ポリフォニー」だ.「ポリ」は「複数の」という意味だから,旋律・声部が複数の「多声部音楽」である.

ちなみに,ポリ袋の「ポリ」,ポリバケツの「ポリ」,ポリタンクの「ポリ」もおなじで,ポリエステル,ポリエチレン,ポリ塩化ビニールの「ポリ」もみな,「複数の」からきている.

ポリフォニーの大家といえば,まずはバッハがあげられる.
彼の有名な曲や,きれいな曲は5声や6声で書かれている.それを,二本の手しかないピアノ演奏にすると,演奏者泣かせになるから,ピアノ弾きにバッハは人気薄だというはなしがある.

わたしはそんなバッハが好きだとピアノの先生にいったら,なぜ?どうして?とあんがいしつこく質問された.とっさに「微分で聴くのが好き」とこたえたら,えらく感心されてこちらが恐縮したことがある.

旋律の声部が複数同時に鳴るから,メロディーがあってないような不思議な曲がある.それを,瞬間瞬間の和声で聴くと,なんだかあたまの後ろがジーンとしてきて心地よいのである.
高校のとき,微分の説明が下手くそな先生がいて,授業はとてもつまらなかったが,自分のバッハの聴き方が微分なのだということだけはわかった.

会社にはいって上司から,新入社員研修の講師を命じられた.
しょっぱなの,企業人としての心得,があたえられた時間枠のテーマだった.
そこで考えついたのが,「自己満足シート」である.

単純に,x軸とy軸の十字があって,原点がいま,というだけの紙のお題にしたものだ.
時間軸のx軸には左端に起点があって,そこから原点までは生まれてから今までの「過去」,原点から右側は明日からの将来で,とりあえず向こう10年間とした.
満足度はy軸で,プラス100,マイナス100とした.

過去の自分はどんな満足度で今日に至ったのか?
明日からの自分はどんな満足度で10年後をむかえるのか?
それぞれフリーハンドで線を記入してもらい,トピックがあればメモを書いてもいい.

10人十色とはこのことで,みごとに全員がちがうパターンを書き込むのだが,そのちがいは主に過去にあった.
なにがあったのか知る由もないが,若い新入社員にも,それぞれ複雑な人生があったのである.
未来のパターンは,希望にあふれているパターンで一致するのだが,これも微妙にそれぞれちがう.

印象に残るのは,担当した数年間で,書きながら泣き出したひとが何回もいたことだ.
こうやって自分の人生をかんがえたことがなかった.
それで,幸せな子ども時代がおもいだされて,感無量になったという反面,将来がみえなくて希望と不安が渦巻くのが自分でわかるという.
たしかに,まだ配属先が発表されていない段階での研修だった.

それから,人事制度がいろいろかわって,評価制度も試行錯誤の状態があった.
「制度」だから,コロコロ変わるのは好ましくないが,好ましくないのがそのまま続くのはもっとこまるから,なかなか難しい.

とくに部下の評価はたいへんで,ボーナスだけでなく昇進・昇格にも影響するからおざなりにはできない.
「自己満足シート」の記入で泣き出すように,ひとの人生を預かっているのだ.

再生現場にたったとき,「自己満足シート」の記入をお願いしたことがある.
会社の破綻という事態がおきたばかりだから,これを記入するときの心も荒んでいるひとがおおいのは想定どおりだ.
それで,しばらく保管して,再生が動き出してから時期をみて,もういちど描いてもらうと,適確な変化かそうでないかがよくわかる.

これをもとに,個別面談するのは効果的だ.
心の変化の瞬間を「微分」して聞き出すことができたり,満足度の面積が「積分」でイメージできたりする.
従業員のこころの動きがプラス方向になるのと,業績がプラス方向になるのには若干の時間差があるけれど,こころの動きがプラス方向にならないで,業績がプラスになることは,ほとんどない.

もちろん,この図に正確な数値はないから,当然に計算不能なのだが,しっかり傾向だけは理解できて,ちゃんと紙に残るのだ.

こういうのを,数学的思考というのではないか?
こころの微分積分が,業績を左右するバロメーターになるものだ.

いまさら「√」の発見的教授法

電卓についてまえにも何度か書いたが,講演会で横道にはなしがズレたときにする「√」の話題が,おもわぬ好評をいただくことがある.
日本の数学教育の「落とし穴」だと感じる瞬間でもある.
すでに世界の主流であるという「発見的教授法(heuristic method)」への「拒否」なのか「無知」なのかしらないが,純粋理論一辺倒で,それがどんなふうに実生活に役立っているかをおしえない.

わが国のこのやり口は,圧倒的に教師有利(生徒不利)のたちばを維持できるという点で,古来からの「諭して教える」という「教諭法」の漢字の意味をそのまま体現しているから,ある意味開き直ってもいる態度である.
先生たちの労働組合としては,この楽な方法を批判する気はないのかもしれない.

しかし,数学の抽象的論理を,さいしょからさいごまで「抽象」のままの解説で,子どもの頭脳に押し込もうとするから,たいがいの人数が理解不能になって,そのまま数学嫌いになってしまう.
だから,あえていえば不良品を大量生産するシステムになるから,これを批判反省して,世界は「発見的教授法」を採用したのだ.

日本の学校教育は,まさにTWI研修の精神に反しているということがわかる.
わが国の製造業では「常識」にあたるものが,サービス業に導入されず今日まで及んでいると書いたが,そのサービス業に「学校教育」という分野もふくまれることがよくわかる.

学校の先生のおおくが,新卒者採用だから,なるほど製造業での実務経験など期待する方がどうかしている.
そういうわけで,人的サービス業という分野に新卒者採用で就職すれば,理論の具体的利用方法をしらないままで幹部になるということが異常ではなくなるのである.

そこで,ビジネスにおける「√(平方根)」のはなしだが,その前にひとつ,道具についても触れておきたい.
「実務用電卓」といわれる「ふつうの電卓」には,二種類あるということだ.
「√」キーが「ある」ものと「ない」もの,である.

電気量販店の電卓コーナーに行くと,あろうことか「ない」ものを「経理用電卓」と表記していることがある.
「経営の理屈」をもって「経理」とすれば,まちがいなくこれは「誤記」である.
「√」キーが「ある」ものをかならず選択するのが,すくなくても経営幹部の幹部たるゆえんである.

ビジネスの場面で「√(平方根)」を必要とするのは,「年利」をかんがえるときになる.
たとえば,本年の数字と昨年の数字を比較して,その「伸び率」をしりたいときには,
本年の数字/昨年の数字-1
で計算する.このあとに100をかければ「%」表示になる.

では,本年の数字と一昨年の数字を比較したいときにはどうするのか?
本年の数字/一昨年の数字-1
では,年率の平均にはならないから,割り算部分を「√」のなかにいれて計算しなければならない.
これを「幾何平均」と呼んでいるが,呼称はこのさいどうでもよい.

世の中は「複利」でできている.
一昨年を計算のスタートにすれば,一昨年 → 昨年 → 本年,と数字はたどる.
だから,一昨年から昨年の伸びを踏み台にして,昨年から本年の数字ができている.
それで,この伸び率の平均がしりたいのだから「√」をつかうのだ.

かんたんにいえば,二年前の数字との比較だから「二乗・平方」の「根」がひつようになる.
実務での表など,よく目にする数字の書類には,一昨年の数字もよくあるから,気を利かせて幾何平均も表内にあればいいが,あんがいとないから,そのときにちょっと電卓で確認したくなる.
このとき「√」計算ができないと,お手上げなのだ.

「√」は,「二」乗をもとにするので,この例では「二」年前の数字につかう.
だから,2の二乗の4年前,2の三乗の8年前の数字なら,「√」キーを二回,三回とおせばこたえがでる.
しかし,そのほかの年数は計算できないから,自在に「累乗」と「累乗根」の計算ができる関数電卓の出番がここにでてくる.

関数電卓は専用の計算キーがたくさんあって,一瞬ひるむが,ビジネス場面で三角関数はつかわないから,目立つ位置にある「Sign」「Cosign」「Tangent」キーは,まず一生必要ない.
そういう意味で,ムダな機能に高いお金をはらうのはもったいない気もするけれど,「利率」にしてどうなの?という疑問をかんたんに解決してくれる文明の利器である.
ボケ防止に,あいた時間で三角関数の問題を解いてみるのも,一興ではあるから,まるでムダではないだろう.

スマホの無料アプリもあるけれど,やはりビジネスの場面では,押し間違えがない「実機」をつかいたいものだ.
ふつうの電卓なら「√」キーの「ある」もの.
関数電卓は,量販店なら980円で手にはいる時代に生きている.

黒字企業には赤字がわからない

ちょっと贅沢なはなしだが,しっかり黒字をだしつづけている企業には,どうしたら会社が赤字になるのかわからない,ということがある.
赤字続きで,いつ資金が尽きるかの心配ばかりしている企業には,そんな黒字企業の「わからない」が,わからないにちがいない.

黒字企業にあるものが,赤字企業にはほとんどなく,赤字企業にあるものが黒字企業にはほとんどないから,どちらも相手が理解できないのである.

安定した黒字が続いていて,経営者の頭脳もクリアさが維持されているなら,なにをどうしたら赤字になるのか?見当もつかないだろう.
逆に,なにをしても儲かってしまう,とかんがえるにちがいないし,そんなことをウズウズとかんがえたら,もっと儲かる方法を思いつくだろう.

それは,ビジネスモデルがしっかり確立しているからでもあり,だからこそ,問題になりそうな点に早く気づき,予防の手当をたえずおこなうことが習慣になっているからである.
結論は,優れた経営者の存在,ではあるが,こういうひとたちは,アンテナが高く自社の内外の情報取得に長けていることに特徴がある.

では,なぜに自社の内外の情報取得が早く,中身も正確なのか?といえば,あたりまえだが,本人の人間性が良質だから,そして,目的をもって内外のひとと接しているからである.

外にあっては異業種交流の場でもある商工会をたとえにすれば,商工会のなかでの役職や活動にはあまり興味がなく,さまざまなひとたちからの「ためになる情報」をもとめて参加している姿がある.

内にあっては,従業員を大切にするのは文字どおりで,目標設定をおこたらないし,そのための教育研修もあたりまえとしているから信頼が厚い.こうして,現場の従業員からの提案などがふつうにあるから,正しい情報を早く得ることができて,悪い情報ほど,いち早く届くのはこのためである.

こうしてみると,めったなことで失敗しないようになっている.
いや,失敗しないように自社組織を造り込んでいる.
だから,どうやったら赤字になるのかわからないのである.

この真逆をいくのが万年赤字企業である.
ところが,鏡のように正反対ではない.
万年赤字企業の目標は,万年黒字企業になること,ではないからである.

では,どんな目標なのか?
第一が,存続.
第二が,黒字化(単年度)
である.

だから,黒字企業がやっている様々な「黒字の原因」になる行動や施策に深い興味がない.
「存続」という低いハードルで汲々としているから,そのはるか上のハードルが目に入らないのだ.
むしろ,走り高跳びと棒高跳びのような,別の競技に見えるだろう.

それで,黒字企業の姿には,投資した設備の違い,が目立って見えてしまって,あきらめる理由づくりに邁進するのだ.
従業員の評価まで,あちらは優秀,こちらは凡庸と決めつける.
経営者が凡庸なら,従業員も凡庸になる原理の存在をしらない.

夢も希望もないことをあえていえば,赤字企業の経営者には,真剣味や追いつめられているというリアル感が決定的に不足している.
だから,金融機関に呼ばれて「突然」融資の打ち切りを告げられて,はじめて気づくか,それが「突然」だとして,金融機関を逆恨みするかのどちらかになる.

しかし,テレビドラマではない現実世界では,はじめて気づこうが逆恨みしようが,会社が生き残れないことは確かである.
まさに,この期に及んで,ということになる.

これを,黒字企業の目からすれば,どうして「突然」なのかすら理解できないだろう.前兆となる数値は,いくらでも事前にあったはずである.
そうした警報に,なんの対処もしなかった,とすれば,もはや理解の外である.
ゲームのルールばかりか,ゲームのやり方すらしらないで人生をかけたゲームをやっている姿に,驚愕するしかない.

人口減少と,それにともなう人手不足は,こんご深刻になることはあっても軽減することはない.
だから,人手をぜったいに必要とする人的サービス業こそ,採用の応募がある会社にしなければ,時間の問題という運命がまっている.

そのためにも,第一目標が「存続」では,もはや存続を放棄したとみられてもしかたない.
「永続」という原点にたって練り直す必要があるのだが,すでに理解できないのかもしれない.
家族経営のばあい,これは一家で破綻することになるから,結末は悲惨につきる.

せめて,血縁者を別の職業につけるなどして,リスク分散をするのが得策というものだ.

「本質論」を軽視する安易さ

問題の本質を知ったところで何になるんだ?
やるべきは,とにかくいまここにある問題をなくすことだ.

よく耳にする話であって,論法でもある.
どこで耳にするのかといえば,破綻懸念先や破綻した企業のトップないし幹部の言動である.

不思議なことに,こうした企業では,その部下たちも,「おっしゃるとおり」とかんがえることである.
それは安易な発想ではありませんか?と質問すると,たいがいの従業員はキョトンとする.
それで,「えっ,どうしてですか?」というひとと,「やっぱり,へんだなとはおもいますけど,,,」というひととに分かれる.

「やっぱり,へんだなとはおもいますけど,,,」というひとがおおければ,現場中心で再生の可能性はある.
しかし,「えっ,どうしてですか?」というひとがおおいと,かなり手を焼くことが予想できるので,コンサルとしては引き受けに躊躇したくなる案件である.

問題の「根っこ」が,「本質」の本質である.
だから,根こそぎ治さないと,いつでも再発の可能性を意識しなければならず,再生プログラムにとって,おおきな「手戻り」が発生する原因にもなるのだ.

ひとは納得して行動したい,という欲求がつねにある動物で,強制を好まない.
納得がない,あまりに性急な行動を組織に強いると,「パワハラ」と指摘されかねないし,そうでなくても当初予定の結果がでにくい.
また,「卒業」して,外部コンサルがいなくなってから生じる,かずかずのトラブルに,「本質」から責めることが定着していないと,またおなじ結果になりかねない.

だから,「本質」をかんがえ,それから対処する,という手順の定着こそが,事業再生の最も重要な「本質」だといえる.
つまり,「根治」だ.

「目先の問題」とは,おおくは「問題の根」からでた「枝葉」にすぎない.
つまり,目先の問題をとにかくなくす努力とは,植木屋の刈り込み作業を意味する.
しかし,その枝葉が枯れていたり変色していれば,根や土に問題があると理解するのはプロの植木屋として当然のことである.

すなわち,目先の問題を刈り込み「だけ」で解決する努力とは,植木屋としても中途半端なはなしになるから,組織経営として成り立つものではない.
にもかかわらず,「本質」を軽視するのはどうしたことか?

ひとつは,解決までの時間と手間がかかると勝手に思い込んでしまうことだろう.
こうした発想をするひとは,過去の職業人生で,「本質的な解決」を経験したことがないか,その経験がすくない,あるいは,本質を見誤って見当違いをした不幸な経験を,いまだに「本質」からのアプローチだと信じてしまっていることがある.

「本質」をはやく見きわめて,解決策をさぐるという方法を,若いうちからやらされる企業組織で育つと,手戻りがないから根本治療なのに早く済むことをしる.
そして,同様の問題は発生しないから,組織の健全性も確保できるという,おおきなメリットをえる満足感も得ることができる.

このふたつを比較すれば,「本質論」を軽視する安易さとは,個人の資質のほかに,組織風土もおおきく関係することがわかる.
つまり,安易な組織には安易な発想をするひとが増殖するのである.
これは大切で重要な視点である.

だから,いまようのベンチャー企業を立ち上げる,正しく貪欲な経営者は,その年齢に関係なく「本質論」を重視する.
いい会社とそうでない会社を検討すれば,たちまちにこのポイントがあらわれるからである.
儲かる会社にするには,本質論を起業の最初から取り入れるから,業界でいえばIT企業の企業内研修が,本質の「抽出方法」に重点をおいているのは「ITだから」ではないことがわかる.

一方,宿泊業などの人的サービス業では,「接客」がとにかく重視される傾向が伝統としてあるから,「本質」よりも「その場の解決」が必要なのは理解できることだ.
しかし,「その場の解決」が無事終了した後に,「本質」がめったに議論されない.
こうして,受身だけの姿勢を貫いた結果,「本質」についての議論の方法すら不明になってしまうことがある.

とはいえ,それでも営業はできるから,「本質」を忘れたツケは,忘れたころにやってくる.
これが,「安易」でいられる理由である.
そして,問題の本質を追究せずに,世の中や景気のせい,あるいは意識的な訓練などさせたことがないほぼ素人の従業員たちのせいに「安易に」するのである.

バブル崩壊いらい競合会社のおおくが退場したから,いまなんとかなっている.
しかし,これからの人口減少による人手不足が巻き起こす,人件費増の必然に対応することは困難だ.
優秀な人材ほど,この問題の本質に安易な経営者より先に気づくから,けっして選ばれない職場になるだろう.

人手不足倒産とは,もはや他人事ではない.