美人投票に転換させる業師

9月24日、小泉純一郎元首相が、「突然」自民党本部を訪問し、ミス日本グランプリを衆議院の比例候補者に推した。
対応したのは幹事長らであるという。

「突然」というなら、「ノーアポ」のことである。
いかに、元首相・元党総裁でも、ノーアポで現職幹事長に面談できるものか?
それに、小泉氏は、いま、自民党員なのだろうか?

「顔パス」というのは、経歴からして不思議は無いけど、押した美人は松野頼三元労働大臣の孫娘だという。
松野頼三で思いだすのは、ダグラス・グラマン事件で辞職し、復活を果たした選挙を「禊ぎ」といったことである。

さすがは、元海軍主計少佐である。
中曽根康弘氏と同じ階級で、同期当選でもあった。
ちなみに、「佐」が付くのは管理職で、少佐は本省係長にあたり警察なら警視がこれに相当する。

実は松野氏は、小泉純也(純一郎の父)と盟友関係にあった。
それで、純一郎氏が一年生議員のときも、後見人的な立場であったという関係だ。

子息である、松野頼久氏は、日本新党からはじまって、いまは緑の党所属の衆議院議員(6期)である。
民主党鳩山由紀夫首相のもとでは、内閣官房副長官も務めている。
だから、非自民なのだ。

当該の「美人」は、この松野頼久氏の次女である。
小泉純一郎氏からすれば、暦年の恩返しを意味する。
だから、ミス日本グランプリは本質とは関係ない、単なるカモフラージュであるけれど、美人であることに間違いはないのだろう。

さいきんは、企業の就活においても、「顔採用」が増えていると噂されている。
たとえば、営業職であれば、社内よりも営業先における「評価」が重要なので、「顔採用」の意味はあんがい重いともいえる。

外資系の企業では、提出する「履歴書」に、写真添付欄がない。
わたしが、国内ホテルから外資系金融機関に転職したとき、上司から、履歴書に写真を添付してはいけない、と注意された。
また、英国に長くいた同僚からは、履歴書に写真を貼ってあるのを見たことがないともいわれた。

すると、履歴書の書式を販売する会社は、日本企業用には写真欄あり、外資系企業用には写真欄無しという二種類を販売しないといけないだろう。
もっとも、電子書式で送信するなら、どの書式を選ぶのかを提出者本人が知っていないといけない。

外資系企業における写真の忌避は、美人かそうでないかということよりも、まずは「肌の色」を、採用にあたって考慮の対象にしないためである。
すなわち、本人の名前と職務能力そのものしか見ない、ということの担保である。

ここにおいて、年齢情報の必要性も議論の余地がある。
何度も書いたように、日本の国内企業以外は「ジョブディスクリプション」をもって採用条件としているので、そこにある職務を果たせるのであれば、年齢も性別も関係ない、ということになる。

いい悪いは横にして、これが世界標準のかんがえ方なのである。

コロナ禍における「解雇」によって、毎月1万人以上が職を失っている。
もっと増加が予想できるので、年初までの「人手不足」が嘘のような様相になっている。

すると、今後の経済再編にあたって、採用における世界標準がはじまるのか?にも注意したい。

人件費はもっとも重いコストではあるけれど、その企業の需要にあった人材こそが、唯一の利益の源泉なのである。
すると、企業側は、自社における需要はなにか?を詳しく知っていないといけない。

ただ、員数を確保すればいい、ということで済む時代はコロナとともになくなる運命にある。
また、もはや一生の就職先でもなくなる可能性だって同時に高まるけれど、企業の業務にマッチした人材を失うことは「痛い」。

すると、やっぱり採用とは「投資行為」なのである。

さてそれで、小泉純一郎氏の行動は、いったい何の意味があるのか?をかんがえると、「自民党をぶっ壊す」と叫んでいたこととの関係性が見えてくる。
確かに、小泉長期政権のあとの政権は迷走して、とうとう自民党は政権党でなくなったから、これをもって「ぶっ壊した」のだともいえる。

けれども、民主党政権がオウンゴールをしまくって、選択肢がないことだけが決め手で、第二次安倍政権が発足し、党内でも選択肢がないことだけが決め手で超長期政権になってしまった。
つまりは、自民党も「人材枯渇」で衰退しているのである。

そこにもってきて、「美人に投票せよ」という。
本当は、自身の人生のしがらみだけなのに、見事なすり替えである。
だったら、息子をちゃんと指導してほしいものだ。
これもなにもしないのは、「自民党をぶっ壊す」ためだからなのだろう。

「再生」には、スクラップ・アンド・ビルドが欠かせない。

壊すだけ壊して、あとはどうなるか?
それは、国民の能力による。

結局は、大崩壊しか再生の道はないという「一択」なのである。

以上のように、小泉純一郎氏がかんがえているとは思えないけど、「結果よければすべてよし」の大団円。
まぁ、そんなもんである。

いまだに火薬庫バルカン半島

来年、2021年のノーベル平和賞にノミネートされたトランプ氏に、新たな「実績」が加わった。
それが、バルカン半島の旧ユーゴスラビア、コソボとセルビアの経済関係の正常化だ。

場所は、イタリアの長靴半島の北東側、アドリア海に面するアルバニアの東の内陸がコソボ、その北にセルビアがある。
セルビアの首都が、かつてのユーゴスラビアの首都、ベオグラードである。

また、コソボの南東にある、北マケドニアの南隣はギリシャである。
このギリシャとトルコさえもが、緊張緩和の動きになってきてる。
すると、ギリシャとトルコで島を二分しているキプロスも落ち着くかもしれない。

ベオグラードから真東に行けば、ルーマニアがある。
ルーマニアの北に接するのがウクライナで、そのまた北にベラルーシがある。
ウクライナもベラルーシも、東隣は巨大なロシアで、どちらも旧ソ連の一角だった。

第一次大戦の勃発は、セルビアを訪問したロシア帝国の皇太子が暗殺されたことに端を発するのは有名だが、これは、「トリガー(引き金)」にすぎなかった。
バルカン半島が「火薬庫」とは、大戦前からいわれていた。

ただでさえ狭いヨーロッパにあって、バルカン半島の複雑さは、民族問題ということが基礎にあるから、なんとも面倒なのである。
「民族」は、たいがい「言語」と「宗教」で区別される。
この地域は、言語と宗教のちがいでいまだにモザイク状態なのである。

これは、古代ローマ帝国の前からで、いったんローマがまとめたけれど、結局ローマが滅亡していまに至っている。
ローマの最辺境だったから、ルーマニアは「Romania」(ローマニア)なのであって、この国は文字も「ローマ字」なのである。

南のブルガリアも、北のウクライナも、ロシア語に採用された「キリル文字」だから、ルーマニアから南接する国境のドナウ川の橋を渡ってブルガリアに入った途端、看板の文字が読めなくなる。
驚くことに、かつての東側ソ連衛星国だったルーマニアとブルガリアのひとたちは、いまだに互いの字が読めないことに困らないほど疎遠なのである。

わが国からみれば、こんな遠い地域の紛争や和平がなにになるかと思う向きもあろうけど、一歩まちがうと再度の世界大戦になりかねない。
それは、過去の大戦が、まるでドミノ倒しのようになったからである。

コソボとセルビアの経済関係といえば、金額的にはたいしたことはない。
けれども、これを仲介したのがアメリカだから、旧東欧の紛争にアメリカが影響力を発揮したことを世界にはっきり示したことが重要なのだ。
ロシアの気分はいいわけがない。

いま、ロシアはベラルーシの大統領選挙結果に手を焼いている。
ヨーロッパ最後の独裁国家を、なんとかロシアが支持しているのは、敵対候補が自由主義だからである。
もし、ベラルーシが自由化して、EUあるいはNATOに加盟でもされると、ロシア防衛の緩衝地帯が消滅するのだ。

ところが、実際にはルーマニアのチャウシェスク政権が崩壊したような様相になってきている。
果たして、ロシアは軍事介入するかもしれない。

それを、アメリカはコソボとセルビアの仲介で、やんわりと地固めしたのだ。
つまり、トランプ氏はロシア疑惑をいわれて「大統領弾劾」までされたけれど、反ロシアをはっきり示したということである。

あたかも、東アジアの波が高くなりつつあって、アメリカの空母打撃群に注目が集まっているけれど、あんがいバルカン半島の抑えが効いて、ベラルーシが熱くなってきた。

ロシアには、ポーランド、ベラルーシ、リトアニアの三国に雪隠詰めされている、バルト海に面するカリーニングラードという「飛び地」がある。
その中で、リトアニアは、徴兵制を復活させたのは、対ロシア防衛を理由にしている。

リトアニアは、ベラルーシとは国境を接するが、ロシア本土とは接していない。
彼らのいうロシアとは、カリーニングラードのことをいうのだろう。
もちろん、ここには現ロシア・バルチック艦隊の「不凍港」と、二つの空軍基地があり、核ミサイルの発射拠点でもある。

ウクライナのクリミア半島を占拠したロシアは、経済制裁を受けたままで、もちろんウクライナとは最悪の関係が続く。
もし、ベラルーシが「陥落」したら、はロシアにはかんがえられない悪夢であろう。

バルカンの火薬は、バルト海に及んでいるのである。

しかして、トランプ氏の仕掛けた「自由」と「人権」は、香港からバルト海に飛び火して、驚くほどの変化を起こしている。
いまは、一歩まちがうとNATOとロシアの戦争になりかねないのである。

わが国には関係ない、はぜんぜん通じない。

デジタル庁設置の意義がちがう

新内閣の国内向け政策の目玉は二つ。
一つは、いまさらだけど「行革」で、鳴り物入りの大臣スライド人事があった。
これと連携していると思われたのが、二つ目の「デジタル庁」の設置だった。

ときに、河野氏は総務相経験者の管総理に匹敵するほど「放送法」に詳しいとの噂があって、もしや「行革の一環」に総務省をターゲットにしているかも、という期待はある。
それが、テレビ局の報道が「日和っている原因」なら、なおさらだ。

ところが、デジタル庁のお仕事の最初が、マイナンバー・カードと銀行口座の連携だというから驚いた。
ぜんぜん普及しないマイナンバー・カードを、さらに国民から嫌われる努力をしたいのか?なんなのか?

だれが好んで、政府に自分の銀行口座を教えるものか?

戸籍がないアメリカ合衆国には、国民に割り振った社会保障番号はあるけれど、これを本人の銀行口座とリンクする政策などかんがえられない。
なるほど、幹事長がいう、国賓としてまだ呼びたい国と「価値観を共有」している理由か。

個人情報保護を民間に強要しながら、政府ならこっそり使っていいとかんがえているらしい。
まことに、ご都合主義のダブル・シンキングである。

「電子政府」という言葉だけが独り歩きしているけれど、ぜんぜん電子化なんて進んでいない。
そのための「行革」とセットだと思わせたのは、河野氏の役所内「印鑑廃止」要請があったからである。

個人や法人の書類申請で、電子化が進まない理由はなにか?
それは、役所の窓口における下級官吏たちにも「裁量」があるからである。
さらに、申請の業務フローを「図」にもしていないから、自動化の設計ができないのだろう。

だから、どんなに優秀なシステム・エンジニアを呼んできても、プログラムが書けないのだ。
でも、業務フロー図を描くのは大変だし、ふだんの業務を中断してまでやる気がない。

それで、「調査予算」だけをつかって、何もしないのだ。

優先順位の思想がちがう、ということの具現化した姿である。
世界で電子政府がもっとも進んでいるのは、バルト三国といわれている。
ここは、旧ソ連だ。
30年前、政府が優先だった思想が、国民が優先に転換したからできた。

わが国にもいい事例があった。
70年代の東京・中野区である。
半世紀も前、この区の区長は、区役所の業務改革にあたって、なぜ区役所の窓口に住民がやってくるのか?から職員にかんがえさせたのだ。

こたえは、中野区に住民がいるから、である。
それで、住民の側からの区役所に行かないといけない理由を、洗いざらいにリスト化した。

そして、1階の戸籍係にあった1番から4番までといった複数の窓口を、ぜんぶ「1番」にして、1番窓口を4カ所つくったのだ。
こうすることで、待ち時間を当時としては画期的に短縮化した。

しかし、これには仕掛けがあって、戸籍にかかわる本人の関係書類(たとえば印鑑証明とか)を、一つのファイルにまとめて、このファイルの検索システムを導入したのである。
従来は、1番が戸籍、2番が印鑑証明という具合に、役所の係の都合で窓口ができていた。

これを、住民の都合に合わせたのである。

全国の自治体から見学者が出張にやってきて、感心して帰るのだが、ぜんぜん全国に普及しなかった。
あまりの画期的方法による、ひと余りが心配されて、従来の不効率が役人のためになると、かえって確認されてしまったからである。

ここにも、地方議会の痴呆状態が確認できるのだけれども、高度成長期という税収増加に余裕があった時代の悲喜劇でもある。

わたしは、神奈川県の電子政府システムに登録している。
たいへん面倒な仕組みで、申請だけでなく手数料の支払いにも事前登録の手間がいる。申請先部署と県の出納とが別々の「リアル」が温存されているためであろう。

民間なら、「売上げ管理」という話が、彼らには興味もないからである。
あるのは、確実なる「入金」なのだけど、この情報が申請先部署にどうやって伝わるかまでは、利用者にはわからない。
それで、結局は申請窓口の担当者から電話がかかってきて、口頭で確認したことがある。

双方がパソコンの画面をみながら、電話で話しているのだから、なんだかなぁなのである。
だったら役所まで赴いて、紙の申請書類に書き込んで、売店で県の証紙を買った方が一度でおわる。

これが、科学技術立国の電子政府なのだ。

AIどころの話ではない。
ようは、半世紀前の全国の役所から進化のかけらも無い、ということだ。
つまるところ、どうやったら国民の便利になるか?という思想が無いのだ。

政府のためになるデジタル利用なら、ご勘弁願いたい。
この思想だと、かならず全体主義になるからである。

性風俗店の逆襲は成功するか?

一昨日の23日、関西の性風俗店が、「持続化給付金」と「家賃支援給付金」の対象から性風俗事業者を一律に除外するのは「憲法違反」だとして、国などに対して「東京地裁」に提訴した。

報道だけではどうして、「大阪地裁」でないのかの理由はわからないけど、わたしの実務経験でも、じつは目に見えない「法の運用」における「全国統一」がないのも理由なのではないかと疑う。
逆にいえば、あんがいわが国の「法治」は、地方の事情に寛容なのである。

「関西の」ということだから、府県でいうとどこなのかも伏せて報道されている。
もっとも怪しいのは「大阪府」だけど、記事からは断定できない。
でも、国などに対して提訴したのだから、この「など」をいわないのは、やっぱりおかしい。府県のどこかも訴えられて「被告」になったはずだからである。

原告は、「憲法違反」を理由にしているので、一審では決まらず最高裁までを覚悟しているだろう。
すると、わざわざ東京地裁に提訴したのは、大阪地裁と大阪高裁に信頼が置けぬ、といっているようにとれる。

これは、けっこう重大な話である。

「三権分立」という建前が、ほんとうはかなり怪しい状態にあるのがわが国だ。
立法府と行政府の立場の逆転については、しつこく書いてきた。
また、司法府が深い眠りについていることも書いた。

「法治」の守護神は、「司法府=最高裁判所」にあるはずだけど、とにかく「何もしない」という伝統だけは戦後一貫して保守している。
この点で、わが国泰明期の「高等法院」や「大審院」は政府の介入を嫌ったので立派だった。

本来、地方裁判所は、管轄する地域の行政や議会が制定した条例についての「憲法審査」をしないといけない。
高等裁判所は、地方裁判所のチェックをおこなうためにあって、最高裁判所は、これの再チェックだけでなく、国会で制定された「法律」と国家行政当局の「憲法審査」をすることが業務でないといけない。

ところが、決まったことを司法から横やりを刺されるのが嫌だから、決める前に「審議」するのが、内閣法制局の役割になった。
これは、「検閲」で、修正を指摘されたり「発禁」とか「伏せ字」になることをおそれて、「自主検閲」というより厳しい検閲をおこなうのと似ている。

そんなわけで、最高裁は、内閣法制局に任せることで、居眠りができるのである。
しかし、立法府の役割がなくなる、という意味では内閣法制局の存在は憲法違反にならないのか?

衆参両院にちゃんと用意されている、「法制局」の開店休業がこの証拠だ。
「政府提出法案」が正常で、「議員立法」が珍しい、のは、近代民主主義国家として、「異常」なことである。
国会議員しか法律を制定することができない、のに、ただの「審議機関」になり果てた。

この責任は、最高裁判所にある。

裁判所も人間の組織であるから、その最上位組織が腐れば、下部組織も当然に腐る。
裁判官の人事と評価は、最高裁判所がやっているから当然だ。
地方裁判所が、管轄する地域のチェックをやめたのも、自治省=総務省の役人が地方行政を牛耳っているので、安心して居眠りができるのである。

こうして、行政当局の中にいる、高級官僚が国家も地方も支配する構造が完成した。
わが国の司法は、行政府に「完全依存」を決め込んだのだ。
なので、国民から訴えがない限り何もしない。

およそ近代民主主義国家の憲法とは、国民から国家・政府への命令書、なのだけど、近代憲法を自分たちで作った感覚が国民に「ない」ものだから、なんだか勝手に運用されても国民が気づかない。
それで、とうとう憲法を守るための組織が腐敗臭をあげているのだ。

性風俗店があるのは、経済でいえば「需要がある」からである。
すでに、男性向けのみならず女性向けのお店もある。
これは、法律でいえば「風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)」が適用される。

開業申請の窓口は、店舗を設置予定の所轄警察署生活安全課で、許可は都道府県の公安委員会である。
今回の原告は、「無店舗型性風俗特殊営業」の「1号営業」にあたるデリバリーヘルス運営会社である。

弁護団は、「運営会社は法令を遵守し、納税し、反社会的勢力とも関係していない」、「不平等で職業差別にあたる」としていて、会社の代表は、「国が性風俗業で働く人の尊厳を無視している」、「職業差別の意識が変われば嬉しい」とコメントした。

キーワードは、「職業差別」である。
上述の「1号営業」には、以下の「定義」がある。

人の住居又は人の宿泊の用に供する施設において異性の客の性的好奇心に応じてその客に接触する役務を提供する営業で、当該役務を行う者を、その客の依頼を受けて派遣することにより営むもの。

今回の原告は、「会社」なので、後段部分があたる。
「客に接触する役務を提供」するひと本人ではなく、「客の依頼を受けて派遣することにより営む」方であって、無店舗なのに「家賃」とは、事務所のことをいうのだろう。

また、「役務(えきむ)」とは、「サービス」のことである。

国や地方自治体が誘致に熱心な、「カジノ(統合型リゾート)」にも、性風俗サービスが内包されている。
もし、カジノが開業していたら、どうするのだろうか?も突きつけている。

マッチポンプの中国政策

国民と国家は別物だ、という論法がアメリカ・トランプ政権の対中戦略で打ち出された。
これには、「国民<国家<党」という図式を応用した、「分断」だと中国政府は反発している。

およそ全体主義体制においては、二重思考(「ダブル・シンキング」)が「ふつう」なので、一般的な倫理や道徳という概念は通用しない。
むしろ、一般的な倫理や道徳に反する、背徳や悪辣をもって「道徳的」というので、正反対のことが一般的になる。

ただし、これは、「国家<党」という両者のなかでの「常識」だから、被支配者としての国民にとっては、「仰せの通り」ということになるだけなので、積極的にこれを受け入れるというほどでもない。
ここに、「分断」の種がある。

すると「国家<党」のいう「反発」とは、国民の側に立てば、「積極的に受け入れられる」ということになる。
つまり、「国家<党」が「国民と分断させるな」というのも、「とっくに分断している」という意味だ。

これが、「二重思考」の解読方法である。

こうしたことを、なんだかんだいっても外国のことだと嗤ってはいけない。
ぜんぜん他人事ではないのである。

わが国の場合、「国家」と「党」がどうなっているのかをかんがえると、「官僚政府<政権与党」を装いながら、実際は、「官僚政府>政権与党」になっている。
「<」と「>」の記号の向きに注してほしい。

どういうことかといえば、中国共産党は「立派な」近代政党だけど、わが国の自民党はぜんぜん近代政党ではないからである。
近代政党には、政党内にシンクタンクがあるものなのに、自民党はあろうことか官僚にこの役目を負わせた。

あえて自民党といっているけど、わが国の政党で党内にシンクタンクがあるのは、やっぱり日本共産党だけである。
この意味だけをとれば、日本共産党は近代政党といえる。
他の野党は、全滅なのである。

だから、かつての民主党政権も砕け散ったのだ。

政策を官僚に、「立案してもらう」ことしかできなかったからである。
もちろん、この「政策」には、「法案作成」もふくまれる。
その法案は、内閣法制局が仕切っているのである。
もっとも重要な、「予算」は、当然だが財務省が仕切っている。

官僚を手足のように使った政治家は、過去に一人、田中角栄しかいなかった。
いまの政治家は、官僚に手足のように使われていて、できるのはパフォーマンスとしての「発言」だけになったから、「失言」がふえる。

角栄の天才は、各省庁のキャリア官僚の顔と名前、そして何よりも「入省年次」を記憶していたから、適材適所が実行できた。
これを、「角栄コンピュータ」と呼んだのだ。
官僚の弱点は昇格において、入省年次を超えられない、一点にあることをしっていた。

経済官僚のほとんどが法学部出身なので、本当はかなり経済音痴なのがわが国経済省庁の特徴となっている。
とくに顕著なのが、経済産業省である。
この役所は、日本経済の発展にほとんどどころか、歴史的にもぜんぜん役に立っていないのに、「我こそは」と意気込む悪い癖がある。

この癖をつけたのが、近衛内閣における岸信介商工大臣(商工省は後に通産省になる)だった。
近衛の悪辣は、阪急東宝グループをつくった自由主義者の小林一三を商工大臣にしながらも、満州で社会主義帝国をつくった岸を次官につけて、小林になにもさせなかったことである。

しかも、内閣を意味不明に放り出してみせたのは、小林を追放し、岸を商工大臣に据えるためだったのだから、たちが悪い。
ついでに、満州で岸を補佐して社会主義のための経済計画を立案していた満鉄調査部の流れから、後の経済企画庁ができている。

このあたりから、わが国のダブル・シンキングがはじまるのだ。

そして、いまの経産省は、中国から撤退する日本企業に補助金を出す政策をかかげ、1700社がこれにしたがっている。
ただし、中国に進出している日本企業は、およそ3万5000社にのぼるから、せいぜい全体の5%程度なのである。

しかも、このたびの新政権でも留任した自民党の幹事長は、「中国との経済関係の強化は世界潮流である」旨の発言もしているのである。
西側諸国のどこを見ても、世界潮流とはいえそうもないけれど、経産省の外郭である日本貿易振興会(JETRO)による、中国進出企業アンケートでは、9割以上が現状維持かさらなる事業拡大を試みる、というから、「国内的には」世界潮流ともいえる。

つまり、撤退させたいのか?拡大なのか?どっちなのか?
がはっきりしない。

税金をつかう補助金方式には限界があるし、かといって民間企業に命令もできない。
だけれども、一方で、現地に駐留する民間人は、そのまま「人質」にもなる。

最後は企業の経営判断なのである。
くれぐれも「サンクコスト」に注意したい。
過去の投資は、「あきらめるに値する」原価なのである。

これは、中国に投資した世界中の企業にいえる。

だから、雪崩をうって撤収パニックになることもあり得る。
他人の判断に依存してもせんないけれど、11月のスイスの国民投票と、もちろんアメリカ大統領選挙がエポックになるにちがいない。

強欲な役人がカジノを逃がした

世界的なコロナ禍にあって、アメリカはラスベガスにある世界最大のカジノ業者が日本進出を断念すると発表したのは5月、続いて8月にも別のアメリカの事業者がつくった日本駐在事務所を閉鎖した。
これで、残る候補事業者は、中華系だけになっている。

「カジノ反対」を掲げる住民団体にとっては、まさに「コロナ福」となっている。

また、横浜市では、住民投票をもとめる「カジノの是非を決める横浜市民の会」や、市長リコールの「一人から始めるリコール運動」の二系統で「阻止」をはかっている。

住民投票をもとめるハードルとしての必要署名数は約6.3万筆で、市長リコールだと約50万筆を必要とする。

あつめた筆が目標を達成すると、住民投票なら市議会で審議され、可決をもって住民投票となる。ただし、住民投票での「反対」が多数でも、結果についての「法的拘束力の有無」が問題になって、結局は「政治決着」というシナリオになっている。法的拘束力が「ない」からである。

一方リコールだと、市の選挙管理委員会が行う投票となって、こちらは「賛成多数」となれば、市長のリコールは成立する。
リコール運動の主旨が、「カジノ反対」だから、それで市長を失職させれば、市はカジノを断念するはずだ、という論法である。

だから、迫力があるのはリコールで、なんだか妥協的(やることに意義がある)運動なのが住民投票請求なのである。
それにしても、横浜生まれ横浜育ちのわたしの記憶には、物心がついて以来、「市長リコール」とか「住民投票請求」という事態は初めてであるとおもう。

この点で、横浜市民も民主主義の制度を活用してこれを実行しようというのだから、なかなかなものである。
しかし、一方で、市長の「カジノ推進」に賛同するひとたちが、沈黙しているのが気になる。

そんななか、つい先日、市長が「カジノ見直し」を発言した。
まるでリコールに怯えたかのようだけど、カジノ誘致のための「予算」が足らないらしい。

市当局の説明によると、現時点で来年度に970億円の収支不足が見込まれているという。
これは、コロナの影響で、特に法人市民税が大幅に落ち込んで、市税収入全体が本年度当初比460億円減と、戦後最大の減収額になる見通しだと発表があった。

これに、以前書いた個人市民税が「ふるさと納税」に流れていることもボディーブローのように効いているはずである。
それで、従来組まれた予算の内、住民直結のサービスを除いて、その他の予算をすべて「見直す」ことの必要性が生じた。

まったく情けない姿を横浜市(役所)は、さらしている。

卵と鶏の順番のような議論だけれど、情けない横浜市(役所)のために、納税なんかするものかとかんがえた横浜市民が、ここぞと「お得」なふるさと納税に飛びついて集団乞食になったのが先か?それとも、市民が集団乞食になったから横浜市(役所)が困窮したのか?

お役人には残念ながら、横浜市民にだって記憶力はふつうにある。
社会党の牙城だった横浜市は、飛鳥田一雄氏の長期政権で開港以来の本社を東京に転出されてから、上場企業の本社が皆無になった。
これに、経済成長に乗った行政の肥大化で余計な業務が拡大したのである。

その証拠が、巨大な市役所を必要とする。
役所の巨大な面積は、「ムダ」の集合体なのだから、本当は「恥の巨塔」なのである。

歴代市長の熱心な箱物づくりとバブル崩壊で、市財政も傾いた。
この緊急事態に対処したのが、若き中田宏市長だったのに、へんなことから退任してしまって、信頼度が地に落ちた。

女性だからという理由をかんがえたことはないけれど、いまの市長の経歴にある民間大企業で役員をはれたのは、「女性だから」という理由ではなかったかと疑うのは、残念だけれどその「無能さ」が顕著だからである。
経営者としての力量も、政治家としての力量も、微塵もみえてこない。

その意味で、最近の「無表情」がお気の毒なのである。

さて、カジノの話にもどろう。
わが国で「カジノ」が営業できるのは、「カジノ法」ができたからである。
ところが、この法律は、いつものように「細則」が決まっていない。
「いつも」、というのは戦前からの伝統をいう。
「国家総動員法」のやり方と同じだとは、前に書いた。

しかしながら、外国の企業には何が何だかわからない、ローカルな「やり方」にうつったにちがいない。
カジノからの「あがり(ピンハネ)」がいくらかは、国家と誘致した自治体とで「折半」するとは「法」に書いてある。

けれども、それが「いかほどか?」は、「細則」に書くことになっている。
「細則」とは、「法令」の「令」にあたるもの(政令、省令、条例)から、「通達」まである。

「法」は国会、「条例」は地方議会が決めるけど、その他は役人が作文する。
これが「当然」とされるのは、アメリカ人には「文化のちがい」ではすまされない。どこに民主主義があるものか?

広く国民が負担する「有料が義務化されたレジ袋」は、「省令」でやったのだ。
少なくても、国会で「法」として決めるのがアメリカ人の常識だろう。そして、次の選挙での投票行動のために「賛成した議員の名前」を覚えておくのだ。

今年1月7日にできた「カジノ管理委員会」は、「3割(国と自治体あわせて)」と、「入場料」それに、カジノ管理委員会の「経費」もピンハネすると要求しているのである。
しかも、この比率や額は将来にわたって「固定」ではなくて、いつどういう理由で変更されるかわからないから、投資家には「リスク」でしかない。

そんなわけで、勝手な皮算用をしていたら、管理委員会の発足4ヶ月後に肝心の事業者に逃げられた、というお粗末である。
アメリカ人には、わが国「カジノ行政」の複雑な仕組みが、ぜんぶセルフ・コントロール不能の「リスク」にみえたはずである。

「コロナ禍」を撤退の理由にできたのは、事業者にとっては「コロナ福」にもなった。
「うまい逃げ口上」だ。

だから、「カジノ阻止」にもっとも有効な方法は、国の管理のより複雑なやり方と委員会経費の肥大化、そして国と自治体のピンハネ分をもっと増額させればよいのである。
そうすれば、世界のカジノ事業者のだれもが見向きもしない「誘致条件」となるからである。

社会主義計画経済が、直接資本投資を逃す、という教科書通りがここにある。

「甘い」は「美味い」

わが国が「貧しかったころ」の味覚の伝統である。

「甘い」のは「糖」を感じるからで、「糖」とは「炭水化物」のことである。
そして、炭水化物が「発酵」すると、「酒」になる。
これをさらに、「蒸留」すれば、いわゆる「焼酎」や「ウィスキー」などの「スピリッツ」になる。

日本人は「酒好き」がおおいといわれるけれど、けっして酒豪ばかりではなく、むしろ人類のなかでも「酒に弱い人種」とされている。
外国人の酒量(アルコール分解能力)にくらべると、日本人はうそみたいに少量しか分解できない。

それで、二日酔いになる。

しかし、むかしの「酒」で二日酔いになったのと、いまは状況がちがうのは、酒の「品質」が変わったからである。
それは、とくに「日本酒」でいえる変化だ。

いちばん大きいのは、発酵タンクの材質ではないか?
いまは、衛生も考慮して、ほとんどがステンレス製のタンクで発酵させている。

むかしは、杉の大樽だったし、発酵促進のために樽内を混ぜる「櫂」や「櫂棒」も杉製だった。
できあがった「酒」も、真新しい「杉桶」にいれて販売したので、日本酒と杉の木は深い仲にある。

しかし、杉という木には問題があって、樹液である「ヤニ」がおおくふくまれていて、この中に含有する成分が「頭痛」をひきおこす。
ために、お燗することで、揮発性の成分を抜くことが必要だった。
これが、世界的に珍しい、温かくして飲む酒の理由だ。

いまは、ステンレスとガラス瓶だから、お燗にするのが「もったいない」ほどになって、「冷や」や「常温」が高級酒ほどこのまれるようになった。
「ライス・ワイン」となれば、ますます「燗酒」にはしない。

米に酵母をくわえて発酵させるので、酒米は糖質がおおくあった方がいい。
それで、ごはんとして食べる米と、酒をつくるための米は別の品種になっている。

いま絶世の人気をほこる「コシヒカリ」の祖父にあたる「亀の尾」は、当初は食米だったけど、のちに栽培の難しさから滅びかけたものを、造り酒屋がこだわりの酒の原料としてこれを取り上げ、いまにいたっている。

朝鮮半島が日本だったころ、亀の尾が広く栽培されて、朝鮮米の代名詞にもなっていた。
本州の東北地方は、むかしからの貧しさを引きずっていたが、都市部を基盤としていた「立憲民政党」は、農村振興に無関心だった。

東京駅で暗殺された、濱口雄幸首相は、この立憲民政党の党首でもあった元大蔵官僚である。
合理主義者で、朝鮮の水田開発に熱心だったため、大正期には首都圏の流通米の半数以上が朝鮮米になっていた。

じっさいに、この「政策」で、東北の農村が飢饉でもないのに「疲弊」したのは、作った米が首都圏で売れなかったからである。
高くて評判のわるい東北米を、ぐっとこらえて買っていたのは、東北出身の次男坊三男坊の工場労働者一家だったのは、故郷の窮状を支えようとしたからである。

江戸時代から首都圏に住んでいたひとたちは、安くて美味い朝鮮米を贔屓にしていた。
亀の尾の美味さが仇となったのは、そんな東北人の「怨み」が、関東大震災で在日朝鮮人に向けられて暴発したともいわれている。

世界の大都市で、屈指の人口をほこった江戸は、地方からの人びとがあつまる場所だったから、地方の名物もあつまった。
太平洋側の海岸をつたってくれば、船で物資がはこべるから、基幹的調味料の「醤油」が、和歌山から銚子にやってきた。

伊勢の民謡「波切節」は、おなじ曲が高知にも、銚子、仙台にまである。

これを「利根川水運」で、野田にもつたわっていまにいたっている。
日本海側は、秋田の「しょっつる」に代表される「魚醬」の文化があるから、基本的な「味」が太平洋側とことなる。

バテレンが伝えたカステラの味は、高価なものの代名詞だった「卵」と「砂糖」を大量投下してつくるから、江戸の卵焼きは「甘い」。
その点、日本海とつながる京都は、「うまみ」をもって「料理」としたから、京都の卵焼きは「だし巻き」である。

けれども、京菓子の繊細さと甘さは、茶の湯の発展とともにあったから、めったに口にできない「甘さ」こそ、あこがれの味であったことに東西のちがいはない。

そんなわけで、京都に丁稚奉公した福井人が、正月休みで故郷にかえるとき、女将さんからいただいた「羊羹」を、そのままではもったいないから水と寒天でのばして「水羊羹」にした。
それでも、「甘さ」が十分だったのは、砂糖なんてものがなかったからである。

「丁稚羊羹」は、滋賀や奈良にもある。

白米を腹いっぱい食べたいと願った日本人は、わたしの祖父の時代ではふつうにいた。
明治の陸軍は、これで募集し、全国から兵をあつめることに成功した。
ただし、白米ばかりの兵食で脚気の死者が日露戦争での肉弾戦を上回った。

「ギブミー・チョコレート」は甘くて苦かったろうけれど、「丁稚羊羹」も、苦かったにちがいない。

それで、果物がみんな「甘さ」を主張することになっている。

相変わらず、「甘い」は「美味い」のままである。
国民が早死にするような、悪魔の味、でもある。

選挙パフォーマンスで和平ができるか

昨日、2020年9月16日は、間違いなく歴史に残る日となった。
ホワイトハウスでおこなわれた、イスラエルとUAE、バーレーンとの国交正常化の調印のことである。
仲介したトランプアメリカ大統領は、さらにアラブの数カ国がこれに続くと演説した。

これを、わが国のマスコミは、「選挙パフォーマンス」と決めつけて報道している。
まことに、間抜けで滑稽な姿である。

ご丁寧に、民主党のバイデン氏との「差」をもって劣勢を強調しているが、前回でも勝敗を決した激戦州では、既に互角あるいはトランプ氏優勢との分析もある。
正確を期せば、双方「互角」で現時点では勝敗は不明なのである。

しかしながら、マスコミ報道は容赦なく、あたかも調印式がホワイトハウスであることも「異例」として、すべてが国内選挙向けの演出だと、ニュースを装って演出している。

当事国がイスラエルを中心に2カ国あるので、もっとも適した場所はイスラエルだろうし、エルサレムでやりたいにちがいない。
でも、ここを選ぶと、次の国が腰を引くかもしれないし、周辺国を刺激する。

ならば、仲介者の場所に集まるのは自然なことだ。

もし、これを、「選挙キャンペーンの一部」というなら、まさに外国政府がトランプ氏側を応援していることになる。
ところが、かつて中東の国で、2カ国が同時にイスラエルと国交を結ぶということはなかった。

むしろ、民主党のオバマ政権はなにもしなかったから、副大統領だったバイデン氏にも中東での外交に実績はない。
これを、いまさら羨んでもせんないことなのだ。
だからぐうの音も出ない。

結果的に、「選挙パフォーマンス」となったとしても、この時期というタイミングを、トランプ氏のわがままで決められるほど歴史的な「国交樹立」は甘くない。
相手があるからである。

中東の石油に9割も依存しているわが国にとっても、重大な外交成果に違いはないのに、なにをいっているのかわからない。
むしろ、アメリカだけの外交成果なのではなく、アメリカの同盟諸国だって舞台裏で画策したはずである。

ならば、わが国はなにをしたのか?
高いコストの特派員を直接派遣しているのだから、このくらい自分で取材して報道してこそプロのジャーナリストである。
しかして、日本大使館の公式見解しか取材できないという、記者クラブの「国内事情」をそのまま外国に持ち込んで、遊んで暮らしているのであろう。

見るも聞くも読む価値もない。

こんなぐうたらに、われわれ国民はコストを負担させられている。
新聞社や民放が自ら負担しているのではない。
広告収入という、消費者が支払う価値から転用されているのだ。
そろそろ、スポンサー企業も気づくべきだろう。

そんなわけで、国内では、菅内閣が発足した。
近代政党ではない、自民党の総裁選挙を経ての「結果」ではある。

新政権について、日本のマスコミは「100日間ヨイショ」というルールがあるけれど、これは、「アメリカのマスコミ」から真似っこしたものだ。
じつは日本的には「お手並み拝見」という上から目線なのだ。
果たしていま、そんなことを悠長にいっている場合か?

政権の受け皿となる野党が事実上存在しないので、場合によったら100日もしないで「解散」だってある。
すると、安倍政権の踏襲がここに活きて、再びの長期政権にだってなり得るのだ。

だから、わが国の政治問題の根本に、「ちゃんとした野党の必要性」がある。

従来型の野党では、けっして与党に脅威を与えないのは、何度も書いたように、その「社会主義性」にある。
自民党が、とっくに社会主義政党になってしまって、もう一つの社会主義政党と連立している。

だから、社会主義性のある野党では、ぜんぜん対抗できないばかりか、わが国をどんどん社会主義国家へ変容させる速度が速まるばかりなのである。
この社会主義性が、経済政策の大黒柱と化したから、わが国経済の活力が衰退しているのは歴然だ。

現状野党の狙いは、ここにある。
つまり、与野党の野合であるから、これを「新55年体制」という。

それで、かつての「英国病」(保守党も労働党と野合した)にならって、「日本病」という。
病気の原因はどちらも、社会主義性、である。

これを治療したのは、サッチャー女史で、彼女はハイエクの「新自由主義」を全面に打ち出した。
そして、彼女は科学者だった。

つまり、わが国にはサッチャー女史のような「新自由主義」が求められていて、これを理系が推進する必要があるのだ。
けれども、わが国の「政治環境」では、無い物ねだり状態になっている。
マスコミに新自由主義を押す媒体が存在しないからだ。

すでに、わが国では、新自由主義に「悪の」が枕詞になっている。

コロナ禍がようやく「情報感染症」といわれはじめたなか、とっくに新自由主義もわが国では情報感染症が発症して、世界の常識に追いつかないばかりか離反しているのである。

先ずは有権者たる国民が、上記のような図書をもって、自ら「解毒・治癒」すべきなのである。
なぜなら、まったく期待できない政治構造が、まったく期待できない内閣を量産しているからである。

わが国の9月16日には、こんな歴史的意味がある。

「猟犬がダメになる」とは

前に、「ペットの犬は使役犬にならない」、と書いた。
いわゆる、「使役犬」とは、人間が使役する犬のことで、警察犬や軍用犬、猟犬、あるいは麻薬取締犬から、盲導犬までさまざまな「使途」がある。

「愛玩」という「使途」の犬が、ペットだけれども、あたかも人間と同格に置かれた犬には、人間の想像以上のストレスがかかって、気の毒にも精神病を発症してしまうこともある。
ペットも人間界の住人だから犬を支配するのは人間でなければならないのにもかかわらず、犬が主人であると勘違いしてしまうことが原因だとされてる。

だから、ペットの犬には、正しいペットにさせるための調教・訓練が必要になるのだけれど、このことの重要性すらしらないから、その方法に興味もない飼い主がたくさんいる。
それでもって、犬をコントロールできなくなって、「動物愛護センター」における殺処分が絶えないのである。

酷いめにあうのは、「いつも」犬の側なのだ。

猟犬は、犬の特徴・特性となる能力を人間が利用するために訓練される。
一口に「猟」といっても、いわゆる、「獣(けもの)」と「鳥」に分類できる。
獣には、鹿やイノシシが、鳥には、やまどり(キジの仲間)や鴨が代表的な獲物である。

犬の特徴は、まずは「嗅覚」である。
そして、「聴覚」。
さらには、運動能力であって、狩猟・闘争本能もある。
もちろん、背後には人間への忠誠心も求められる。

すると、猟犬にも二種類ができて、獣用と鳥用となる。
なぜなら、獣の臭いと鳥の臭いがことなるからだ。
当然、獣の臭いのほうが強く、鳥の臭いは弱い。

だから、鳥用の訓練をした犬を、獣が多く棲息する山に連れて行くと、獣の臭いに負けてしまう。
鳥を追わずに、獣を追ってしまうのだ。
これで、鳥用とした訓練も台無しになる。

こうして、猟犬がダメになるのである。

だから、鳥撃ちの猟師は、獣が多く棲息する山を嫌う。
やまどりは、そもそも滅多にお目にかかれない鳥なので、やまどりを狙う猟師は、ただ獲物がとれればそれでいい、という感覚はない。

犬が獣の臭いに反応したら、とにかくその場から犬も一緒に離れないといけない。
獣の収獲に興味がないのだ。
むしろ、これまでの訓練がダメになることをおそれる。

猟犬がダメになるとは、餌代が無駄になるという意味になる。
猟犬は、けっしてペットではない。
けれども、ダメになったからといって、動物愛護センターに連れて行く猟師もいない。

そうなると、猟犬の子どもを得るために使うのである。
信頼ある猟師同士で話し合って、自分の犬を掛け合わせる。
優秀な猟犬にも、血統があるのだ。
この信頼に、動物愛護センターを利用しないという意味もある。

ちゃんとした猟師は、犬を犬死にさせない。

そのかわり、狩猟目的という一線もけっして超えないから、ぜったいにペット扱いしない。
この「けじめ」を、犬も理解している。
猟場に到着したら、犬も勝手に狩猟モードにはいる。

すなわち、お仕事モードにちゃんとなって、それなりの緊張とハッスルを開始するのだ。

あるメスの老犬は、歩くのがやっとで、腰をふらつかせながら山で人間に追い越されるざまだったけど、それでも人間に獲物のありかを必死に教えていたのは、嗅覚は衰えていないからだ。
獲物を前にした記念写真には、腰が曲がった座り方で猟師の脚に寄りかかって映っているものの、顔はどこか満足げである。
彼女は、その夜に自宅犬小屋で静かに死んだ。

こいつは精いっぱいの仕事をしたと、猟師も自慢して目を細めた。

この意味で、猟犬は単機能なのである。
この単機能を維持させることも、人間の責任になっている。

やまどり撃ちの猟師は、獣の猟師が減って、害獣化による被害が増えることを深刻にかんがえている。
一方で、獣の猟師は、山で獲った獣を無駄にしない。
虐殺をしているのではないのだ。

ただし、こちらはこちらで、獲物が大型であればあるほど、獲れた獲物の運搬に体力をつかう。
山に分け入るだけでも体力が必要で、獲れたら獲れたで体力がいる。
そんなわけで、猟師の高齢化問題は、すでに絶対数の減少になっている。

猟友会に依頼する従来の「害獣駆除」が、猟友会から断りを入れる事態も発生しているのは、会員の高齢化と人数がいない、という理由ばかりだ。
地元住民のがっかりは、絶望へと変化している。
加えて、コロナ禍は、狩猟免許の講習会も中止させた。

なんだか、海洋で起きていることに似ている。
わが国は、排他的経済水域を含めると世界第6位の面積になる「大国」なのに、海洋生物の資源管理ができていない。
沿岸漁業の衰退も、魚が減って、漁師では食えないからである。

獲りすぎと、河川の汚染、それに山の荒廃によるミネラル補給の減衰が原因とされる。
山の荒廃には、林業の絶望もある。
山を管理する人間の手が、経済価値を失ってしまった。

山国で海洋国家であるわが国は、資源管理の二方面作戦を強いられる宿命がある。
猟犬がダメになる、レベルの話ではない危機がある。

新政権に真っ先に期待すること

新政権の最初の大仕事は、新型インフルエンザ等対策特別措置法での指定から「新型コロナウイルス」を真っ先に「解除」することである。
春先に、慌てて「指定」したのは、どんな病気なのかよく分からない状態だったのだから、仕方がないといえば仕方がなかった。

安倍氏はわが国を「道義国家」と呼んでいた。
「道義」とは、やさしくいえば、「道徳」のことである。
つまり、道義国家とは、世界に道徳性で優る国という意味であり、この分野でのリーダーとなることをいいたかったはずである。

すると、第一に、国内において、新型コロナウイルスが原因だとされている病気とは、いったい何なのか?
という基本について、あまりにも説明不足が政府にもある。
これにマスコミが扇動的な「報道」を仕掛けたので、まったく収拾がつかなくなった。

緊急事態宣言を出したのは「仕方ない」としても、解除の基準をいわない。
だから、解除自体が、政府・官僚・政治家の恣意的な判断だと国民は受けとめたのである。
これに乗じたのは、ポピュリズム政治家である知事たちで、勝手な「政治判断」がまかり通ることを許した。

PCR検査というものに、いつの間にか「全面的信頼」をするようになって、「診断」という医師の最大存在理由が冒された。
このブログでは、このことを「医療崩壊」と呼んだ。
しかも、医師会はこの崩壊に抵抗しなかった。

「利権」というカビ菌のようなものが、どんどん内部に浸透して、とうとう一般国民にまで届いてしまった。
これを、「脳が冒されるウィルス」と表現するひともいる。
つまるところ、「疑心暗鬼」である。

科学的知見とただの利権が交差して、とうとうこれを、「分離」できない世の中になったのである。
それで、検査をどんどん増やしたら、陽性者もどんどん増えた。
ふつうは、分母と分子の割合を気にするはずが、「陽性者の実数しか」いわない。

これをもって「第二波がきた」といって、政府に二度目の緊急事態宣言を出させようと意図したのは、「破壊活動」である。
政府はこれをしなかった、けれども、例によって「根拠」に関する科学的知見をいわないで官僚出身の大臣が「いまは宣言を出すような事態ではない」とまるで恣意的に繰り返したから説得力がない。

こうして、「納得できない」というひとたちも、陽性者の実数しか繰り返さないので、議論は平行線をたどる。
しかし、平行線をたどるようにしているのだから、そうみえるだけである。
厄介なのは、煽る側の根拠が「数字(実数)」だから、毎日これを見聞きすれば、すっかり洗脳されて政府を怪しむようになるのである。

民主主義は、政府を怪しむのを是とするのではあるが、扇動された結果なら、これはまずい。
その扇動者が、ほぼ全部のマスコミになったのが、今回の騒動でわかったことである。

新総理になることが決まった、いまの官房長官は、記者会見における特定の記者とのバトルが有名になった。
この記者を描いたという映画『新聞記者』が、2019年の日本アカデミー賞最優秀作品賞になっている。

なんだか噴飯物の作品がここまでおだてられると、しらけるものだけど、他にこれといった作品がなかった、ということなのか?
だったら、「該当作品なし」という選択肢もありそうなものである。

けれども、こうした特定の思想をもった記者(実際は活動家)との不毛なバトルに、耐えた、ということが、派閥をもたない政治家を総理にさせたのであろう。
大手新聞社が活動家を正社員の「記者」にしていることも、バレている。

困ったことに、わが国のマスコミは、それでも「公正中立」を言い張るので、国民の思考の軸がズレるのである。
これをふつう、プロパガンダという。
一定の政治思想に寄せる役割が、新聞社やマスコミの存在意義になっていて、これも利権にもなっている。

結局のところ、科学も道議も利権にさらされて、混沌としたのがいまの状態である。

ひとつの内閣でこれを払拭することはできないので、そんな期待はしていない。
しかも、与党がなにか変わることもないだろう。

ならば、やっぱり、コロナを指定解除することだけでもやってほしい。
どうせ、科学的根拠なんて問題にならないのだから。
この一点だけ、それで、たとえ一ヶ月で政権崩壊しても、歴史に残る業績の内閣になることは間違いない。

これこそが、道義国家のことで、安倍政権が口先だけで果たせなかったことの「継続」なのである。