マスク高値販売禁止運動

トランプ大統領が、「国家非常事態宣言」をだし、WHOは、「パンデミックの中心がヨーロッパ」だといっている。
そのために、ギリシャではオリンピックの聖火リレーが中止され、フランスではエッフェル塔が閉鎖された。

わが国では、「私権を制限できる法律(改正新型インフルエンザ等対策特別措置法)」が国会を通過し、即日の14日に施行された。
この法律は、あの民主党政権のときに成立したから、安倍政権は民主党政権の延長にある。

私権制限については、首相の「緊急事態宣言」によって、「都道府県知事」に強い行政権限をもたせるという方式だ。つまり、知事に「ぶん投げ」をする。
ただし、「強制力」はない。

これは、都道府県に派遣されている「キャリア国家公務員=都道府県幹部」が、出身省庁との連絡役になって、事実上の「知事押し込め」をできるようにした、ということである。

警視庁を除けば、各道府県警察本部長や日銀支店長は、「本庁」の「課長」クラスだという事実が参考になる。
つまり、「支店入社」したら、けっして支店長にはなれない仕組みがある。

地方政府たる「都道府県庁」のなかに、「私権制限」をかんがえることができる部署など、ふだん存在しないし、これまでもなかった。
それが、「緊急事態」だから、すぐにできる、というのは、中央官庁からの命令を鵜呑みにするしかないではないか。
それと、「政令指定都市」はどうするのか?

ようは、官僚による「中央集権」の強化が、かくれた目的になっている。

つまり、いっそうの「政治の無力化」がはかられた。

政権党がどこであろうが、官僚支配は動じないばかりか、強化されるということなので、これを「火事場太り」というのである。
じつに「頭がいい」。
しかし、国民には「頭が痛い」はなしである。

「感染防止」という名目で、なんでもできる。

魔法の杖をもった官僚たちは、その悪知恵をどんなふうに振り回すのか?
もはや、政治家によるチェックは用をなさない。
ヒトラーが独裁を確立した、「全権委任法」は、ドイツ国会による全会一致だったから、ワイマール憲法の改正すらひつようとしなかった。

今回の法律も、「憲法論議」はいっさいない。
「緊急だから」憲法違反でもいい。
ならば、拉致被害者の救出がなぜできないのか?
本人や家族にとっては「緊急事態」のなにものでもない。

これを、ご都合主義という。

国会は、強制力をもたせないことで、「同調圧力」に期待したのか?
より、ずる賢いやりかたである。
国民を、精神的に追いつめる。

どうして、後付けでいいから「憲法との調整をはかること」を付帯事項にしないのか?
おそらく、憲法13条の「公共の福祉に反しないかぎり」があるからである。

この一文は、前から気になっていた「蛇足」である。
すなわち、「公共の福祉に反しないかぎり」という部分の「削除」こそ、議論の対象にしなければならないのだ。
これがために、拉致が個人のはなしにされて、「公共の福祉」ではないから国家が知らんぷりできるのである。

近代民主主義国家の「憲法」は、政府がきめるものではなく、国民が政府に突きつける「命令書」なのだ。
なのに、国民をないがしろにする憲法を、なぜに人権派だけでなく、国民がこぞって改正提案をしないのか?

不思議なことに、「強制力はない」といいながら、「刑罰」はある。
業者にたいして、必要な衣料品や食品などの「指定物資」を、知事が、売り渡し要請や収用、保管でき、なお、これら物資を隠したり廃棄したりすると、「6カ月以下の懲役」や「30万円以下の罰金」に処されるのだ。

「悪徳業者」を対象にするという、時代劇をみすぎて育った官僚の発想の源がよくわかる。
出でよ悪徳業者。

そんなわけで、「(ふつうの)マスク」である。
「医療用マスク」とはいわずに「マスク」といった場合の対象範囲はやたらとひろがる。
感染症対策に有効なのは、もちろん、「医療用マスク」で「ふつう」のではない。

けれども、巷間、ふつうのマスクが不足しているのは、花粉症と時期が一致したからもある。
花粉の大きさとウィルスの大きさは、はなしにならないくらいちがうから、ふつうのマスクでも花粉なら引っかかる。

それが、個人でも有料取引がはじまって、「高額」になっている。
「需要と供給」のバランスがそうさせる。
ネットではすでに、高額で購入したひとたちからの「怨嗟の声」があがっていて、ネット通販の会社に文句をいうひとが多数いる。

「値段」を「確認せず」に「ポチった」のが原因である。

個人間のネット取引でも、「高額」が問題になっている。
それで、ネットの運営サイトに、「マスク」の取引を中止せよという「書名運動」がネット上にでてきた。

「不織布」だか「紙製」だかはしらないが、一枚1000円はないだろう、と。
100枚で10万円。
ほしいひと、買える財力があるひとは買えばよい。

まさか、ペラペラなマスクが、こんなふうに「儲かる」対象になるとは思わなかったが、在庫をいっぱい持っていたひとがいるのだろう。

非合法な物資でなければ、なにを、どんな値段で提示しようが、自由である。
それを「買う」、「買わない」も自由である。

なにをもって、こんな署名運動をしているのか?
これぞ、「同調圧力」ではないか?
こういうひとたちにかぎって、「同調圧力はいけない」というのだ。

政府は、こういう「運動」がだいすきである。
こうして、私権が制限されるなら、やっぱり国民が阿呆だということになる。

パソコンメーカーからの電話

購入者への意見聴取というふれこみで、昨年秋に購入したパソコンのメーカーからの電話があった。

本音は、年度末決算の値引き販売の案内をしたかったらしい。
けれども、ついこの前に新品を購入したばかりなのだから、当分の間、購入予定はないと告げると、いろいろと遣い勝手の質問に切り替わった。

顧客への電話において、「販売」と「情報収集」という二つの目的をもたせるとは、「さすが」とおもった。
こういう「技」を、日本企業はできなくなっている。
「電話調査」という分野で一日の長がある、「外資ならでは」だとおもいながら、それに回答することにした。

ちなみに、「電話調査」で成功したのはアメリカだ。
アメリカ人の陽気さが、いきなりかかってくる他人からの電話でも、あんがい気まずくさせないのだ。
それで、紙を送りつけるアンケート調査より、電話調査の方が主流になった。

ただし、質問は「二問までが原則」だから、今回の電話も、このルールにしたがっているのである。
おそらく、初期のころ、三問も四問も質問して、さすがに怒りをかった経験があっての「ルール」になったはずだ。

アメリカ人の経験則なので、日本人に適用できるのか?ということは十分に検討されたはずでもある。
医薬品だと、アメリカ人の一回分の半分がおおよそ日本人向けになっているのは体格のちがいだが、生活習慣すなわち文化のちがいは、みえない分、難易度がたかい。

わが国の人的サービス業すなわち「接客業」で、この「難易度の高さ」が議論されない。
その「安易さ」が、収益や生産性の低さになってあらわれているのである。

「サービスの難易度」のことではない。
相手の文化や習慣についての研究のことである。

世界的にみて「貧乏国」だったわが国は、ヨーロッパ人からすれば、身分の差はあったけど、めったに所得の差があったようにはみえなかった。
それは、日露戦争勃発前の駐日フランス公使がのこした文章にもみられる。

高貴なる日本人が、ロシアという大国と戦ったら、滅亡してしまうだろうと嘆いたのである。
それは、国民全体が「高貴」であったが、国全体が「貧しい」からであった。

けれども、国民の側は視点がミクロになるので、フランス公使のようなマクロの比較対象をもっているわけではない。

そんななか、当時の「接客業」におけるサービスの「粒度」をかんがえると、だいたい「おなじ」すなわち「一律」なのである。
つまり、相手の身分によって一定の変化をさせれば、それでよかった。

かつての「文豪」たちの小説をそれぞれ読めば、主人公たちが接客業者にどう扱われたのか?がよくわかる。
つまり、ワンパターンなのである。

高度成長期の「一億総中流」時代こそ、もっとも「一律」が優先されて、全国の有名旅館やホテルも、だいたい「おなじ」なのであった。
これが、総崩れになったのは、直接的にはバブルの崩壊ではあったけど、その底辺には、高度成長の産物としての「多様化」があった。

それでいま、ようやく宿の形態も「多様化」してきてはいるが、むかしからの宿が、「多様化」の研究をしっかりしているといえるのか?
と問えば、なかなか「肯定」できないのである。
これが、衰退の主たる原因なのだ。

そんなわけで、購入したパソコンについての感想をきかれたので、大不満の「キーボード」について語ることにした。

「軽さ」を強調するのはいいが、「薄さ」はいかがか?
そのために、キーボードが貧弱になる。
これは、「入力機能」として致命的で、遣い勝手評価の8割ぐらいにあたらないか?と。

それがため、古いノート・パソコンをサブ・マシンとしていまでも愛用しているのは、頑丈なゆえに重いけど、キーボードの打ち心地について、他の追随をゆるさないからである。
しかも、このメーカーさえも、いまではこんな丁寧なキーボードを装備した機種を販売してはいない。

つまり、全メーカー全滅という状態になったので、快適なキーボードを持ち歩くことにした。
すると、ノート・パソコンのキーボードが不要になる。
しかし、タブレットPCのスペックにおける「貧弱」と、立てかけるときの不便は、がまんできない。

つまり、キーボード・レスだが、画面の角度調整ができて、二画面の携帯パソコンがほしいという意見をのべたのである。

どういうふうに、企画設計につながって、どういうふうに議論されて、それが採用あるいは却下されるのか、知る由もない。
けれども、日本メーカーのパソコンがたった数社で、事実上ほとんどなくなったいま、アメリカの老舗に期待したいのは本音である。

しかも、このメーカーは、「東京生産」をうたっていて、都下の工場で組み立てている。
日本人が働く場所があるから、いいたいことをいわせてもらった。

こんなことを、消費者がかんがえる時代になった。

ラッキーなコロナウィルス

政権の経済失策がチャラになる。
こんなラッキーは滅多にないから、とにかく「パニック状態を作ったもん勝ち」である。

競馬や相撲といった、政府が与えるどうでもいい娯楽からはじまって、民間の巨大遊園地や劇場を閉じさせ、あげくに野外の高校野球も中止させたら、とうとうオリンピックの「延期」までぶち上げた。
委員のだれが言ったかもわからないから、「アドバルーン」にちがいない。

政府に依存する国民は、江戸時代の町民よりも「劣化」して、集団心理をあおられたら、根拠があってもなくてもお構いなしに、もてる財力で「買い占める」ことで満足し、あおられた「不安」から、一杯飲み会から披露宴まで「自粛」している。

たまたまリスク・オフになっているニューヨークの株式市場が、「史上最大の下げ」をしたら、同じく「最大に下げ」たのは原油価格で、国民がなんだかわからないうちに、政府保有のマスクを供出するというニュースが追い打ちをかける。

不足するマスクを「政府が供出する」という無意味が、さらに政府の点数稼ぎになるのだが、これを「真顔」で政府発表するに至って、なお、国民が「歓迎する」のだから、もう二度と「大本営発表」をわらってはいけない。

しかも、半島の学校への配布が排除されたことの善し悪しを議論するのだから、暇人たちの楽園になったものだ。

半島のひとたちが、医療用でもなんでもないマスクをもらえないことに「差別」とかんがえることも、残念なことである。
そんなもんもらっても「予防」の「よ」の字にもならないと、「文明人の科学リテラシー」をたてにして「土人扱いするな」と拒否したら、どのくらいの衝撃を日本人にあたえることができたものか?

こんな大チャンスを自ら放棄したのは、どういうわけなのだろうか?
それとも、文明人の科学リテラシーを、われわれとおなじくやっぱり喪失してしまったのか?
もしや、国内テレビのワイドショーを観ているだけなのかもしれない。

いや、南の大統領は、マスクをした格好で写真を公開しているから、そのレベルだということか?
それにしても、残念なことである。

こんな「騒ぎ」のなか、今週あけ9日に、重大なニュースがあった。
それは、昨年増税された直後からの四半期における、年率換算のGDPが改定値として内閣府から発表されたのだ。
「マイナス7.1%」。

数字の「悪さ」にもおどろくが、理由にもっとおどろいた。
「民間設備投資の不足」
どうかんがえても、「消費増税」が原因だ。
よくも、民間のせいにできるものだと、その「いいまわしの妙」に悪意すら感じる。

それでじっさいは政府が「萎縮させた経済」を、ぜんぶ「ウィルスのせい」にして、アベノミクスの無意味を消し去ろうという魂胆がみえみえになってきた。

こんなデタラメな政府が、かつて日本に存在したか?とかんがえたら、もう思いつくのは近衛文麿内閣しかない。
安倍内閣が極左だというよりも、これを仕切る官僚たちの思想に呆れる。

科学も論理もまったくない、ただ支配欲だけがそこにある。
まったくもって、滅亡したソ連政府のやり方がそのままコピーされている。
ソ連研究者のベンチマークは、わが日本政府であることはまちがいない。

米ソ冷戦期、ソ連側は米軍の弱点を突く戦略を一度も採用しなかったことが明らかになった。
戦略を担当する官僚たちが、現場の声をことごとく無視したからである。
自分たちの「立場」を、国家目的よりも優先させる。
これこそが、「官僚」の「官僚」たる、行動様式なのである。

しかし、一方で、「原油価格の暴落」という大ラッキーも起きている。

減産を協議していた「OPEC+」が決裂したかとおもったら、なんとサウジアラビアが、一国だけ一転して「増産」を決めてしまった。

よほど、アメリカが「シェール・オイル」で石油純輸出国になったことの不安なのであろう。
中東から、アメリカ軍が撤退する恐怖は、サウジアラビアがつくってきた秩序の崩壊にみえるにちがいない。

ところが、こんな「価格」だと、アメリカのシェール・オイル会社の経営がもたない。
それが、株式市場や民間債券市場の「暴落」になると、もしやの「世界恐慌」になりかねない。

レバノン政府が債務不履行になったけど、まだまだ大丈夫。
けれども、12日には、あの「ドイツ銀行」が、「自社債券」の一部で、金利支払いを停止した。
「超弩級」の7000兆円ともいわれる、デリバティブをかかえるのがドイツ銀行問題だから、「いよいよ感」すらある。

それに、日本株の25%以上を日銀が保有するなか、東京市場の落ち込みは、「やばさ」を増していて、年金機構が投資する株式が、もしやの「損」をだす可能性まででてきてしまった。
それで、日銀が日本株の「買い増し」をやっている。

日銀が超過債務状態になっても、政府が資金提供するから大丈夫。
その政府は、ほんとうに大丈夫なのか?

中央銀行の「金融政策」が、なんと自国株の買い増し介入「しか」できないオプションのなさこそが、わが国経済政策のどん詰まりを世界に公表している。
これを、将棋やゲームなら「詰んだ」というのだ。

ああ、将来不安を消費税でまかなうはずではなかったのか?
それが、株式の下げによって「パー」である。
計画経済の計画が頓挫したときの無惨が、ひたひたとやってきている。

まさに、飢えたタコが自分の脚を喰らっている姿になった。

しかし、国民に「マスクを供与」するという政府は、どこまでも「優しく微笑んでくれている」ようにみせて、阿呆と化した国民をこれに「依存」するように仕向けるのだから、キリスト教をしっている欧米人なら「悪魔の所業」と見破るところだ。

しかし、わが国民は、健康のためなら死んでもいい。

こんな倒錯が、個人ではなく社会にひろがって、同調圧力やなんやというけれど、4月1日から施行の「改定健康増進法」は、ますます全体主義に社会をみちびく「標(しるべ)」になった。

もはやマスクをしないで電車に乗ることもはばかれる。

政府の役人たちは、パニックをつくって責任逃れにはしっているが、そのパニックだって「やりすぎ」たらコントロールを失う。

それがほんとうの「パニック」なのだ。
小さな気圧の変化が巨大台風になるように、集団心理がまとまってくると、強大な圧力が社会にうまれる。

それが心配だ。

青森のラーメンは出汁で

タクシーででかけた秋田の有名店のラーメンは、なんだかしょっぱかったことが印象に残った。
繁華街の日本蕎麦屋が提供する、「中華そば」が、オーソドックスな東京ラーメンを彷彿とさせたのとはちがったから、余計に記憶にのこった。
さては、青森のひとたちも、寒さを凌ぐためにラーメンが大好きなようである。
時間がないから、ぜんぜん制覇などできないけれど、なるほどこちらは「出汁」で喰わせる店が林立している。

魚の出汁だ。
けれども、関東の煮干しラーメンとちがうのは、その「濃厚さ」にある。
スープがドロリとしているのだ。
豚骨系とブレンドしているにちがいない。
それでも、出汁のうまみがどっさりやってくるから、病みつきになるのは理解できる。

ただし、やっぱりしょっぱいのである。
これを飲んだら喉が渇くとわかっていても、スープをすくう手が止まらない。
まわりを見渡すと、みごとに飲み干しているひとたちばかりだ。
でもやっぱり、途中でやめた。

麺は、「細麺専門」という店から「極太」まで、さまざまで、どちらもいける。
太麺でちょうどいいのは、しょっぱいからだろう。
でも、ラーメンとはおもえないモチモチの太麺だから、イタリアンの生パスタだといわれたら気づかないかもしれない。
すると、トマト味があってもいい。

韓国には、「カムジャ麺」という、じゃがいものデンプンを練り込んだ麺がある。
青森県は、じゃがいもの生産全国六位で、そのほとんどがメークインだ。
どこかに、青森産の「カムジャ麺」があるかもしれない。

米粉を練り込んで、モチモチ感をだす「うどん」なら、横浜の上大岡近くにある横浜刑務所の産品で人気の逸品だ。
ときに、欠品となることもある。
けれども、どうして「刑務所作業」として、「うどん」がでてきたのか?
ぜんぜん「いわれ」がわからない。

ある意味、刑務所は職業訓練所でもある。
そうかんがえると、むかしながらの「作業」による「訓練成果」が、はたして刑期満了後の生活再建の役に立つといえる自信があるのか?
歴代法務大臣にきいてみたい。
企業には社会的責任が問われるが、国家事業の社会的責任が問われていない不思議がある。

「懲役」だから、気にしなくてよい、ということではなかろう。
「矯正」とか「更生」と本気でいっているように感じないだけだ。

だからか、職業訓練に関しても、ぜんぜんイマイチなのは、企業に重心があったからだ。
たしかに、そうかんがえれば、企業の社会的責任が放棄されてきている問題がある。
この分野であっても、国家依存してはいけないのだ。

長い冬がおわれば、この地方の疲弊の原因である「ねぶた」の準備がはじまる。
もとは、「睡魔」からのがれるための風習が、「七夕祭り」と結合したものだ。

おおよそ、日本各地の「祭り」は、封建制のなかで支配者が被支配者の欲求不満をガス抜きする手段として利用してきたという側面もある。
年にいちどの祭りの意味は、あんがいと「したたかな政治」のことでもある。
昨今、話題になった青森のホテル駐車場における、祭り期間中の高額な料金設定は、ホテル利用客優先で、一般客排除の作戦だったものが、サービス業としてあるまじき「サービス設計」のミスを発端とする。
つまり、案内表記をまちがえたのである。

年のうち数日だけの「特別」が、ふだんの需要と供給を破壊して、一方的な需要をつくるから、結局のところ全部の需要に対処できない。
このときの「差」を、「逸失利益」というから、このようなイベントは、じっさいに「効率が悪い」のである。
それで、「赤字」化して、なんのため、だれのための祭りなのかがわからなくなる。
だから、ふだんの魅力をどうするのか?がたえず問われることになるから、民間が自由に活動できることがなによりも重要なのである。

毎日の「しごと」を必要とするのが、ラーメンのスープ作りだから、街おこしにラーメンがつかわれる合理的な理由がここにある。
それが「ふだんの魅力」になるので、うまいラーメン店がたくさんある街のひとはしあわせだ。

そんなわけで、次回に是非とおもうのは、十二湖のシジミをふんだんに使った「濃厚シジミ・ラーメン」だ。
市内の繁華街にある店は、なんと「夜だけ営業」だった。
昼にでも挑戦しようとおもったのがまちがいだった。

肝臓によろしいシジミは、免疫力をたかめるのに最適な食材のひとつである。
幸いなことに、科学のリテラシーがないひとたちが、とんちんかんな買いものに走って、感染症の役に立たないマスクや、意味不明のトイレットペーパーやティッシュペーパーを買いあさっているけども、シジミを買い付けるひとがいない。

シジミ・ラーメンは食さなかったが、しじみ汁は毎日いただいた。
これぞ、感染症を食事から予防する手段なのである。
青森で発症者がでないのは、肝臓にいい食生活で、免疫力があるからかもしれない。

シジミ・エキスがたっぷりの「濃厚」というシジミ・ラーメンの出汁とはどんなものなのか?
じつに気になるところである。

全国一律の安心とムリ

どんな地方に行っても、「全国一律」がある。
コンビニと百均がそれだ。
コンビニをコンビニせしめているのは、最大手にしてわが国で最初のコンビニの物語がかたるように、「配送」にこそ仕掛けの「タネ」がある。
つまり、じつは「コンビニ」とは、「流通の完成形」なのである。

さいきんのコンビニは、コーヒーにその「オリジナル」を求めている。
どちらのコンビニ・ブランドでも、販売する商品のおおくは、「ナショナル・ブランド」を主体とするから、看板ごとに「ちがい」を訴求するには、さいしょは「弁当」や「おにぎり」だった。

ところが、どちらさまもこれを用意して行き渡ったので、つぎは「おでん」になった。
それから、「揚げ物」になって、プライベート・ブランドの商品群開発へと進化した。
そして、昨今は、「コーヒー」になったのである。

コーヒーは嗜好品だから、ひとによって好みがわかれる。
それで、熾烈な競争が勃発した。
「販売競争」というよりも、「品質競争」になったのは、「万人向け」にこだわると、コンビニ・ブランドとしての主張が減ってしまうし、特徴的な味と香りにこだわれば、選択肢から除外される可能性もでてくる。

この、相容れない関係の、どこを自社の「コーヒー」として設定するか?は、集客における重大問題になったのである。

これにくわえて、学校の教室にも職場にも、水筒を持ちこむことが許される時代になった。
持ち運びに適した、魔法瓶機能のあるさまざまな水筒が、さまざまなメーカーから販売されている。
ペットボル飲料の手軽さはあるが、これが、「エコじゃない」という価値観がうまれて、マイボトルの水筒へとシフトした。
わが家では、紅茶用とコーヒー用にわけて、350ミリリットルと500ミリリットルの二種類があるから、水筒大尽である。

大手コーヒーショップがそうしたように、マイボトルを持ちこんだひとには10円ほどの値引きがある。
これが、「エコ」になったのは、エコロジーのエコではなくて、エコノミーのエコである。

はたして、セルフでコーヒーマシンを操作するタイプと、店員が用意するタイプに、サービス・スタイルも分離した。
マイボトル持ち込み派としては、ボトルの容量に応じられる、店員が用意するタイプが便利である。
セルフ対応だと、マイボトルが直接セッティングできないからである。
つまり、店の紙コップを注ぐためにだけつかうことになる。

そんなわけで、全国に出張しても、宿泊先の近所にたいがい存在する、コンビニのコーヒーをマイボルにて購入するのは、安心なことのひとつである。
けれども、じぶんで淹れることもある。
百均の四角いビーカーにレギュラーコーヒーとドリップ用の漏斗とペーパーがあれば、どこでも好みのコーヒーが客室で淹れることができる。

唯一のネックが、客室設置の湯沸かし器で、これが用量がすくないと、ほしい量がまかなえない。
電気ポットがあると、便利なのである。
すると、いったい、どのくらいのひとが自室でコーヒーを淹れているものか?
かなり「レア」かもしれない。

その「レア」さを、清掃係が発見して、どのくらい「情報」として客室販売の責任者に伝わるのだろうか?

昨今の、ホテル等における客室清掃は、ずいぶんと専門会社に業務委託するのがふつうになったけど、客室の使用方法についてのレポートをあげることは、「清掃業務」に含まれないだろうから、宿側が宿泊客の客室における使用状況をしることができなくなっている。
はたして、これで「宿泊業」といえるのか?

レギュラーコーヒーを淹れれば、「コーヒーかす」がでる。
だから、わたしは、ゴミ箱にハッキリした痕跡を残している。
これが、客からのメッセージでもあるのだ。
すなわち、朝食のコーヒーへの不満表明である。

さいきんは、ビジネス・ホテルの「無料朝食」でも、レギュラーコーヒーのサービスがあって、客室への持ち帰りもできる配慮がある。
すると、朝食の場が「味見」となって、気に入ればマイボトルに入れることができる。
つまり、むかしからの宿よりもコンビニエンスになっている。

こうしたことが、「ムリ」だというなら、いったいどんなことをやっているのか?
宿の独自コーヒーがあっていい。

そういう時代になっていることを、全国一律のコンビニがおしえてくれている。
あんがい、宿の経営にかかわるひとたちの感覚に「ムリ」があるのである。

不思議なことである。

場末の飲み屋は場末か?

青森に来た。
初めての土地である。
街の第一印象は、交通機関がきめる「駅」であるけど、この地には東北新幹線の「新青森駅」とむかしながらの「青森駅」がある。
かつての「青函連絡船」の想い出は、もっぱら「青森駅」であることはいうまでもない。

新幹線から奥羽本線に乗り換える。
電化されているとはいえ、いきなり2両編成のワンマンカーがやってくる。
どの位置に止まるのかは、地元のひとらしきひとたちの集団に近づくしかないが、あんがい的外れの場所で待っているのはどういうわけか。
「あらら」といいながら、通りすぎた列車のあとを追う。

5分ほどの一駅で「青森駅」に到着する。
「終点」からながめると、線路が右に曲がっているのは往年のとおりなのか?
ここから、連絡線に搭乗するひとの波や空中撮影されたかつての「青森駅」の写真が通路に掲示されている。
この「センス」が、JR東日本なのだ。もっとちゃんとながめられる場所にしないと、通行のじゃまになる。

青森は「港町」なのだ。

ここが肝心で、そのへんの衰退する県庁所在地とはちがう。
にもかかわらず、横並びの感覚が抜けないから、住民は単純に「ダメだ」と思い込んでいるのかもしれない。
しかし、雪のためのアーケードがしっかりしている駅前商店街は、シャッター街ではない。
申し訳ないが、山梨県の甲府駅の悲惨とはわけがちがう。

いったん、甲府は全国に視察受け入れを表明して、その実態をさらけ出すといいだろう。
第一は、各県庁所在地が甲府ほどは酷くないと安心する。
第二は、甲府のようになりたくないと感じる。
第三は、どうしたら甲府のようにならないで済むのか?をかんがえるきっかけになる。

このように、恥をさらすことで、甲府は自分でできることをかんがえるきっかけになる。
すくなくとも、いまの山梨県知事をえらんだ、国による支援が役にたたないどころか、かえってマイナスになることをしることができる。
甲府といえば武田信玄だけれども、武田家滅亡後は徳川の牙城になる。
「甲府殿」から、第六代将軍にだってなっている。

これが、山梨県人の国家依存のはじまりなのかしらないが、将軍輩出後は柳沢吉保が城主になるから、あんがいと「栄耀栄華」を誇ったはずだ。
しかし、一般に、青森県民が山梨県の甲府市の現状を識るチャンスにとぼしい。
だからこそ、「山梨に行く」というキャンペーンを青森県がやっていい。

それに、全国の地方からの修学旅行を山梨にするといいだろう。
かなり「教育的」な旅行になるはずである。
ギリギリ「首都圏」にあっての現状から学ぶことは重要だ。

その青森は、繁華街が分断されていて、中心街はやっぱり「港」周辺なのだ。
このあたりは、横浜と似ている。
かつて、船員たちや港湾労働者たちのいこいの場があったのだろう。
その意味で、大都市横浜の衰退は、青森をけっしてバカにはできない。

宿でもらった飲食店案内図には表記がない場所に、地元も認める店があった。

青森県はやっかいな「県」で、かつての南部藩と津軽藩からできている。
これが東西を分割するから、明治政府の強引さがわかるというものだ。
もちろん、両藩の仲は悪く、とくに南部藩からしたら津軽藩は裏切り者にあたる。
それが言語にもあらわれて、県内でも南部方言と津軽方言は相通じない。
江戸語でもない、「標準語」ができた由来である。

雪が降る青森市から、雪のない八戸へ仕事の都合で移住すると、八戸(南部藩)の同僚からいわれる「イヤミ」が辛いという。
青森市の悪口しか言わない、と。
スペインのバスク地方や、イラク周辺のクルド人のことをおもえば、別の「県」になっても不思議はない。
この意味で、青森県人は「我慢強い」から、それが「東北人」の性格になったのか?

さては、この地元も認める店は、元は「民間」の発想から生まれた「屋台村」であった。
紆余曲折して、いまも「民間」の管理となっている。
それでかしらぬが、公共がつくる地図に表記されない。
地元から全国に新聞・テレビで報じられている店の女将は、「どうしてかしら?」という。

「情報統制」がおこなわれているのである。

このようにして、地元行政は地元の情報を公開しない。
さすれば、統括するオーナーが補助金を申請し、これ見よがしに役所のお陰とすることで「よし」とする。
こうして、ミクロで衰退を促進したら、街全体のマクロで衰退してしまう。
役所栄えて街滅ぶとはこのことだ。

そんなわけで、今度は山梨県の甲府市のひとが青森にやってきて、その情報統制の「妙」をならうのか?
それとも、ばかばかしいと一笑に付すのか?
観に来るひとが、役人ではなく住民であれば、こたえはしれている。

しかし、役人どおしが傷をなめ合うなら、絶望は続くのである。

ならば、こんな場末で全国にしられる店をどうやって維持しているのか?
それはあんがい単純で、自分の得意技を駆使しながら、だれになにを提供するのか?という自問に自答しているのである。
だれに?
なにを?
である。

すると、場末なのにこの店「だけ」が場末ではなくなるのである。

長期政権の実質無成果どころか

「モラル・ハザード」(moral hazard)についてかんがえたい。

この言葉は、主に三つの要素的な意味があって、そのなかの「日本語」の意味は、外来語としてというよりも「和製英語化」したという特徴がある。
それは、「moral」を「倫理」と訳したことが原因とされる。

辞書によれば、単数形での「moral」には「教訓」という意味合いがつよく、「道徳」の意味ならば複数形「morals」や「morality」を用いるとある。

また、おおくの辞書で「moral」は、先に「形容詞」としての解説があって、名詞の解説はあとになっている。
これにくわえて、「morale」という発音も綴りもことなる名詞が、日本語の「やる気」とか「士気」の意味になる。

あんがいややこしいのだ。

それで、英米人がいう「moral hazard」は、
・プリンシパル・エージェント問題
・保険業界用語
という二つの意味を、状況によってつかいわけている。

・プリンシパル・エージェント問題
プリンシパルとは、部下に業務を任せたひとという意味で、エージェントとは、任されたひとをいう。
たとえば、営業マンの社外でのサボりとか、経営者の判断が株主に高いリスクをもたらす場合などをいう。

・保険業界用語
保険を掛けているから安心だとして、かえって注意散漫になって事故率が高まることをいう。
また、金融危機のときにアメリカ合衆国政府が金融機関に公的資金を投じようとしたとき、議会がこれを「moral hazard」だとして否決したときのつかいかただ。

さて、そんなわけで、わが国をながめて、歴代最長を誇る現政権には、どんな成果があるのか?と問えば、ほとんどなにもないばかりか、「moral hazard」すら起きている。

これに、野党のまったくの無為・無力という、「moral hazard」がそえられて、政権の無成果を補助している感すらある。
野党による本質的な質問がないから、政権に打撃をあたえることができないばかりか、その無能・無責任さが、かえって政権の支持率を維持する役割を果たしているからである。

つまり、国家中枢における「moral hazard」が発生しているのがわが国なのだ。
実質「全党相乗り」が、国家で起きている。
このときの「moral hazard」は、上述のすべてを指す。

新型ウィルスの問題が、「防疫」という概念から、「経済政策」という分野にまで「感染」して、さまざまな「moral hazard」を一生懸命やります、と首相が発言したという「moral hazard」が起きた。

たとえば、学校を休みにしたから、子どもの面倒をみる必要が親に生じて、そのために仕事を休むばあい、賃金を政府が保障するとか、給食センターに働くひとや、仕入れ先業者、あるいは農家に補助金をだすとか。
もちろん、これに「中小零細」へ、実質無利子・無担保の貸付制度を創設することもふくまれる。

なんでもありなのは、「前例にとらわれず」ということだというが、その「前例」とは、「moral hazard 防止」のことだったのではないか?

この政権は、成果が無いことでしられてきたが、とうとう「反政府的」な政策を打ち出した。
つまり、日本政府の理念であるはずの「自由と民主主義」に対する、重大な攻撃を開始したということだ。

まったくもって、超強力な「社会主義」をおこなう、と宣言したに等しい。
「党」が「政府」を支配する形式は、どんな「党」がやっているのかをかんがえれば、もはや自民党こそ国民の敵である。
自民党内に、自由主義者が絶滅した証拠である。

有給休暇なら、仕事を休む理由をいちいち会社に説明する必要はそもそもない。
すると、有給休暇を超えて休むときの「保障」を指すのだろうが、どうやってこれを政府がしるのか?そのための企業の事務負担はいかに?

北海道では、給食用の牛乳が余りだしたが、バターは余っていない。
なぜか?
おなじ牛乳なのに、飲用の場合と加工用の場合とで、政府がさだめる引き取り価格がことなるからである。

これを「自由化」すればよい。

民間の銀行経営が行き詰まっているのに、政府系の金融機関、たとえば「日本政策金融公庫」が、無利子・無担保貸し付けをおこなうのは、民間金融機関に「死ね」といっているようなものだ。
金融庁は、なにがあっても「担保をとれ」といっている。

いったい、どんな「理由」で、無利子・無担保貸し付けをおこなうのか?
ゾンビ企業がふえるだけである。
焦げ付いたときは、自動的に国民負担になる。

こんな「経済政策」が、「自由主義」の名の下であっていいのか?
「moral hazard」をこえて、もはや「革命」だ。
自民党政権は、「社会主義革命」を「無血」で、しかも、選挙結果を経て、世界史ではじめてを開始した。

もはや、わが国は滅亡の崖っぷちに立っている。

もう、自由主義者はわが国にいないのか?

病院に行ってはいけない

なんだか、はなしが混乱しているのが、「新型コロナウィルス対策」である。
紙製品の買い占めも、冷静な判断力を失わせて「あおる」のだから、いまどきの「あおり運転」を集団でやっているようなものだ。

これにのせられるのも、いかがかとおもう。
すると、あの「B層」が思いだされる。

日本人を分析すると、この「B層」が8割も占めるというから、わが国の劣化の原因として、重要な視点となっている。
これを「発見」したのは、小泉政権のときの自民党が委託した調査会社である。
委託したのは、このときの党広報部長だった世耕弘成氏(現自由民主党参議院幹事長)だ。

あらためて、この分析とは、まず十字型の基線を描く。
横のx軸は、右に向かって、「マスコミ報道に影響されやすい」とする。
縦のy軸は、上に向かって、「知能の高さ」とする。

ゼロを原点として、x軸y軸ともに「プラス」となる第Ⅰ象限を「A層」、x軸が「マイナス」y軸は「プラス」となる第Ⅱ象限は「C層」、x軸y軸ともに「マイナス」となる第Ⅲ象限は「D層」、そして、「A層」の真下、第Ⅳ象限にあたる、x軸は「プラス」、羽軸が「マイナス」となるのが「B層」である。

すなわち、マスコミ報道に影響されやすく、比較的知能が低いひとたち、と定義される。

念のため、「A層」には、わが国の支配層が多くいると分析されるのは、マスコミ報道に影響されやすく、比較的知能が高いひとたち、となって、いわゆる「B層」を意識的にコントロールできる、とかんがえられている。
つまり、マスコミ人自身がこれにあたる。

日本人の8割という多数が「B層」なので、選挙に勝つための「マーケティング」は、「B層攻略」が鍵を握るのは当然なので、単純化した短いフレーズをくり返すことが、もっとも有効な手だてとなる。
それで、「郵政選挙」を歴史的勝利に導いたのだった。

いま、「A層」のマスコミが、不安をあおって焚きつければ、「B層」が、おもいのとおり行動するので、愉快で仕方ないことだろう。
ナチスの宣伝を一手に握った、プロパガンダの天才は、ヨーゼフ・ゲッペルス。
これを、いま、日本のマスコミがやっている。

ものが「感染症」なのだから、感染しないことが重要で、人混みに積極的に出かけない、というのは間違ってはいない。
学校を休みにしたのは、子どもや若年者が感染しても、重症にならない、という症状の特性があるから「大丈夫」なのではなく、かれらが保菌者としてウィルスをばらまくことを防ぐためである。

つまり、子どやもや若年者たちから、高齢者や生活習慣病のひとが感染し、それが「重篤化」するのである。

すると、「ウィルス検査」の実施とはなにを意味するのか?
じつは、高齢者や生活習慣病のひとが、もっともあつまる場所が病院であることをかんがえれば、病院内での通路における待合室に長時間いることが、おおきなリスクなのである。

それゆえに、「ウィルス検査」のために、病院へ感染のうたがいがあるひとたちを「集める」ということは、驚くほどの危険に、病院がさらされることになる。

検査にやってきたひとたちが、おなじく検査にやってきた感染者からその病院で感染したとしても、直後にあって検査しても「陰性」になるはずである。
なぜなら、「潜伏期間」があって「発症」するのだから、いまここで感染したひとが検査をうけても、「陽性」にはならない。

しかし、「陰性」だから安心だと、意気揚々に帰宅しても、すでに感染している可能性があるから、なにがなんだかわからない状態をつくりだすばかりとなる。

病院における感染の可能性を高めることの「やばさ」は、医療従事者である、医師や看護師も感染するおそれを増すことからも容易に想像できる。
つまり、救急で搬送されるべき病院が、その機能を喪失してしまっている可能性すら高めるのである。

そのため、政府は、「いつもの薬」を必要とする生活習慣病のひとが病院にこなくても済むように、電話での処方や4週間をこえる期間での薬剤の引き渡しを奨励しだしている。

また、この時期の「花粉症」についても、第一世代の抗アレルギー薬なら、街のドラッグストアでの購入を可能として、とにかく病院に行かせない、という努力をはじめた。

自分が「B層」かもしれない、とおもうなら、斜め上の第Ⅱ象限にあたる「C層」を意識したい。
マスコミ報道に影響されず、比較的知能が高い層のことである。
この「層」は、残念ながらわが国では小数派だが、成熟社会の「成熟」とは、「C層」がふえることでもある。

ようは、自分でかんがえて行動できるひとをいう。

その意味でも、まずはテレビを観てはいけない、のである。

組織をデザインできない

「日本的経営」のすばらしさが強調されたのは、70年代のおわりから80年代のなかごろまでのほぼ10年間であった。
時代背景には、二回のオイルショック(1973年、1979年)がある。

どちらも、実体経済に大影響したのは、「翌年」のことで、トイレットペーパーや洗剤が世の中の買いだめの対象になる「パニック」となった。
さいきん、このときに貯め込まれた物資が「発掘」されるニュースが相次いでいる。

しかし、これ以前にはやっぱり二回の「ニクソン・ショック」という事件があった。
1971年7月、突然の米中国交回復と翌8月の金(ゴールド)と米ドルの交換停止をあわせていう。

また、社会問題として「公害」が、深刻度を増していた時期でもある。
「徹底した産業優先」が、見直しの対象になって、「徹底した」が取れた。

「世界の工場」になっていたわが国は、「ものづくり」を通じて、いかに生きのこるか?が大テーマになった。
つまり、「産業優先」の継続である。

このときの教訓は、持てるものと持たざるものの勝負で、持たざるものが勝利することができる、というものだった。
巨大なアメリカが、その持てる国内資源を「安く国民に提供する」という政策で乗り切ろうとした結果、ガソリンをがぶ飲みする「アメ車」が政府によって保護された。

持たざるわが国は、完全燃焼させることによる排気ガスをクリーン化する「挑戦」に成功し、これが低燃費という恩恵も同時にもたらした。
ホンダのシビックの成功は、世の中の語り草になったものだ。
この陰に、マツダのロータリーエンジンは淘汰されたけど。

この「成功体験」が、今日までつづいているのである。

しかし、時代をもうちょっとさかのぼると、アメリカによって教えてもらった恩恵がある。
これを、すっかり忘れさせたのも、この「成功体験」だった。

つまり、日本人はあんがい「恩を仇でかえす」ことを平気でやる民族だ。
なるほど、故事ことわざになっていることの理由がわかる。

1955年(昭和30年)に発足したのは、なにも国内政治における「55年体制」ばかりではなく、財界(経団連、日経連、日本商工会議所)が積極的支援した、日本生産性本部(現社会経済生産性本部)だった。

発足したばかりの半年後の同年9月、わが国を代表するトップ・マネジメントの面々を視察団としてアメリカに派遣している。
わが国の「外貨持ちだし規制」が解除されたのは、1964年(昭和39年)4月1日のことである。

しかし、「自由化」といっても、外国に渡航するのは年に1回だけで、持ち出せる外貨は500ドルまでだった。
しかも、1ドルは360円だったから、ほとんど買い物らしい買いものはできなかったはずである。

だから、財界のトップ・マネジメントが「視察団」をもって渡航したのは、いまでは想像もできない「快挙」だったのである。
約5週間にわたる日程で、彼らはなにをみて、どんなかんがえを持ったのだろう?

帰国後、『繁栄経済と経営』という報告書をまとめている。
詳しくは下記の本にある。

この中に、「経営技術者としての役割」という項がある。
先の報告書で、アメリカの経営の特徴を6点挙げている。
1 計画性
2 市場開拓
3 労使の協力
4 人間性の尊重
5 科学性
6 社会的責任

じっくり吟味する価値が、いまだにあせてはいない。
そして、日本の企業組織の欠点として、「決定的に重要なのは組織デザインであるにもかかわらず、そうした基本がわが国の企業には欠けていた」、と指摘している。

これはきわめて重要な「発見」であったが、現在の日本企業の経営において、はたして認識すらされていないのではないか?とおもわれるのは、まことに残念なことである。

すなわち、組織デザインとは、その組織が組織としてあるはずの「目的」や「目標」を「達成する」ということにおける、合理的な組織をつくるうえで、欠かせない概念をいう。
ようは、目的合理性に基づく組織の作り方、ということである。

学校内での体育祭や文化祭を催行するためにつくられる、「実行委員会」をかんがえれば、どんな組織が無駄なく活動できるのか?をかんがえてこそ、その行事を成功に導くのである。

すると、日本的経営の三種の神器、
・終身雇用
・年功序列
・企業内労働組合

が問題なのではなく、そもそも「組織デザイン」をかんがえたこともない、ということの破壊力の方が、よほど重要であることがわかる。
つまり、企業組織の「土台」がなっちゃいないから、この上の構造物が傾くのである。

欧米人は個人主義で、日本人は集団主義だというけれど、個人主義だからこそ、組織デザインを重視した経営をしなければ、維持することもできない。
一方で、日本人の集団主義とは、じつは他人に依存することだから、無駄を無駄ともおもわない。

これが、生産性を低下させる原因だとかんがえれば、「組織を科学する」ことをもって開始しないとどんどん貧乏になる。

残業代の削減で生産性が向上するはずがなく、こんな無駄がまかり通るのも、政府依存という集団主義のおかげなのである。

卑しさがバレて円安に?

欧米人の「合理性」からしたら、意味がないことに意味を見出す。
これぞ、日本文化、ではある。

けれども、新型肺炎という感染症に対しても、この「文化」をつかうとは、まるで「魔術」を信じる所業である。
それでかしらないが、さまざまな「条件」がそろってきて、あたかもこうした「魔術」が社会の決め手になった感があるのは、21世紀の奇跡か?

いや、そうではなく、人類史に残る「愚挙」であろう。
あまりの「愚かさ」に、はたして「人類の教訓」にもならぬ。
ただの「お笑いぐさ」ではないか。

むかし「集団主義」といわれたものが、いまや「全体主義」に変換されただけで、いかに日常生活を非日常の「不便にすること」が「安全確保の努力」をしていることのアピールとアリバイになったのだ。

重要なのは、科学的根拠にもとづいた合理的判断によるものではなく、なんでもいいから「安全を優先させている」ということが主張できればよいことになっている点だ。

もちろん、「効果」なんてどうでもいい。
「国民運動」として、感染症に立ち向かう姿こそが「美しい」のである。
みんなで努力すれば、感染症の拡大を克服できる。

あまりの「愚劣さ」に、全身の力が抜ける。

韓国ドラマの時代劇にあった『チャン・ヒビン』のセリフ、「卑しい者ほど命を惜しむ」が、現在の日本人をイメージしてつくられたとしたら、まさに「おっしゃる通りでございます。ヒビンさま。」としかいいようがない傑作の一言であった。

その韓国に、わが国はとうとう、1人あたりのGDPと労働生産性で後塵を拝するようになってしまった。
OECDの2018年を分析したレポートである。
つまり、抜かれた。

日本国の凋落が止まらない、のである。
同レポートによれば、わが国の1人あたり労働生産性では、トルコやスロベニアにも抜かれている。
スロベニアは、旧ユーゴスラビアの構成国だったから、なんと旧社会主義圏の小国にも劣る状態なのだ。

このブログで何度も触れているが、日銀がとっくに「日本株」(上場企業の株式)の大株主になってしまっている。
にもかかわらず、新型肺炎による経済減速に対して、日銀総裁は先日、「大規模緩和をつづける」と発言している。

つまり、日本株を買いつづけるということだし、金融機関の貸出を減らさないように、金利を維持するということだ。

これは一体なにを意味するのか?
日本語で語ったから、国内向けのメッセージに限定されるので外国には関係ないということにはならない。
つまり、国際金融資本のみなさま、どうぞ儲けてください、と言っているのだ。

では、国際金融資本のみなさまが儲けるおカネとは、いったいどういうたぐいのおカネなのか?
それは「国富」のことを指す。
かつての「安全資産=円」が、根底から揺らぎだした。

日銀が提供するというのは、マーケットが需要と供給のなかで自動的につくりあげる「相場」ではなく、日銀がこの「相場」をむりやり維持するというのだから、株を買って、しばらくして売れば、どんどん儲かると言っている。

損をするのは、投資額がすくない国内投資家、すなわち日本人なのである。
通貨の番人、日銀がその職務を放棄して、無用の「魔術」にはしっている。

はたして、これは「経済学」として成り立つのか?
つまり、責任ある立場のひとがすすめる「経済政策」として、許容できるものなのか?
もちろん、国際金融資本のひとたちは、舌なめずりをしているにちがいない。

こんなバカなことが、「アベノミクス」というめちゃくちゃで実行されて、もう重症の「麻薬中毒」になったのが日本経済である。
財界の爺さんたちは、これをやめさせないばかりか、もっともっとと、政府に依存するばかりだから、「薬漬け」の廃人状態になっている。

これを、「卑しい」といわずしてなんと表現するものか?

アメリカは素早く減税と金利低下を実施して、いま、アメリカ国債は史上最高値をつけている。
これに、金(ゴールド)も最高値をつけたから、アメリカの株式市場が心配になる。

すなわち、市場は「リスク・オフ」にポジションをとっている。

この真逆が日本政府で、もはや世界の「逆神」になって君臨している。
それが、国際金融資本にとっての「うまみ」そのものだから、なるほど日本料理の「うまみ」が流行るわけである。

アメリカの株式が下落すれば、依存する日本市場も下落すること確実で、日銀が底上げした分がそっくり国際金融資本の手に渡る。
どうにもならない愚策が、国富の流出を加速するのだ。

悪乗りしかできない日本の役人は、もはや発狂してさまざまな「感染対策」という「魔術」を繰り出している。

厚生労働大臣が記者会見して、正直に言ったとおり「感染源が追えなくなった」から、なんでもいい適当な理由をつけて、国民に不自由な生活を強いることしか思いつかない。
それでとうとう、平時における「戒厳令」的な、外出禁止令を出すに至っては、もう、政府が活動をやめたほうがいい。

春の選抜高校野球が、競馬よろしく無観客試合にしてもやるのは、オリンピックを意識してのことなのだろう。
けれども、そもそも各国が選手を日本に送り込むのか?

でも、各校が辞退したならどうするのか?はかんがえない。
高野連という爺さんたちの集団が、「それは美しくない」といって、強制的に大阪や兵庫にあつまるように命令し、これに従わないと、あとからどんな嫌がらせを受けるかわからない恐怖が支配する。

これはもう、感染への恐怖ではなくて、社会的制裁をうける恐怖なのだ。

戦後最悪の状態がここに現出した。
けれども、これもぜんぶ国民の責任である。

卑しい発想を捨てて、政府が打ちまくる麻薬を断つ。
そして、官僚独裁政府をいかに打倒するのか?をかんがえなければならない。

30年前の、東欧の自由革命がいま、この国に本気で求められている。