階段は必ず手すりにつかまる

登るときも降りるときも、必ず手すりにつかまる。
エスカレーターは、うごく階段だから、やっぱりおなじで、必ずゴムベルトにつかまる。

「化学メーカー」の厳しい社内ルールのひとつである。
これは、「安全」にかかわるルールで、その安全とは、「労働安全」のことである。
すなわち、「労働災害」を未然にふせぐことが目的である。

化学薬品をあつかうから、化学メーカーの社内として、たとえ事務スペースであっても「例外を認めない」のだ。
さいきんの化学では、摩擦を激減させる薬品だって、少量でも機能を発揮するから、「もしも」それが付着した靴底でスベってケガをしたら、それだけで「事故」になるのである。

こんなことは「業界人」ならば、当然で、新入社員からたたきこまれる。
だから、駅のエスカレーターで、しっかりベルトにつかまっているひとや、若いのに階段の手すりにつかまっているひとを見かけたら、化学メーカーに勤めるひとだとおもってまちがいない。

社内の習慣とは、社外で発揮されてこそだからである。
つまりは、たんなる「生活習慣」になって、はじめて社内でのルールが社内でまもられることが成就するのだ。

人間を訓練するのに、「生活習慣」にまでするのは、けっしてたやすいことではない。
むしろ、生まれてから育った、ほんとうの「生活習慣」とはちがうことをさせられるとき、ひとはかならず反発するものだ。

この反発は、容易に「拒否」というレベルになる。

さて、読者のあなたが、上司として、新入社員にどうしたら「生活習慣」レベルにまで教育訓練をして仕込むことができるだろうか?

「命令」するだけでできるか?
あるいは、「懇願」すればやってくれるか?
「生活習慣レベル」である。

たいそうむずかしいとおもうだろう。

すると、ちょっとまってほしい。
だとすると、どうやって日常業務が生活習慣レベルになったのだろうか?
たんなる「慣れ」とはいかないのは上記の例でわかるはずだ。

つまり、予測できることは二つ。
一つは、なんとなく覚えたことが、日常業務になったパターン。
一つは、しっかり説明を受けて、先輩や上司から繰返し指摘されているうちに慣れてきたこと、である。

生産性があがらない、というぼやきが聞こえてくるのは、さいしょのパターンだ。
なんとなく覚えたことが習慣になっているので、これは職場全体が「なんとなく」に包まれている状態にある。

もう一つのほうは、「意思」がはたらいている。
だから、こうした職場は、合理的なやり方に変更することをいとわない。
時間がたてば、すっかりやり方が変わっていて、別の職場から出戻りすると、「浦島太郎」の気分が味わえる。

だからといって、ぜんぶがすっかり変化しているかというとそうではない。「コア」な部分は、しっかり守られているもので、そのことがむかしの記憶を呼び戻すものでもある。

「仕事」や「業務」には、「意思」がないといけない。

それは、最終的にその「仕事」や「業務」の、そもそもの「目的」や「目標」が達成されなければ、やった意味がなくなるからである。
「意味がない仕事」とは、たんなる「無駄」だから、それで生産性があがるわけもないし、会社の業績もよくなるばかりか悪化して当然になる。

「悪化」ならまだしも、「赤字」となって、これから脱出できないと、倒産の憂き目にあうのが世の中の厳しさだ。
しかし、この厳しさは、物理法則のようなもので、誰にだって容赦ないから、誰だってそうならないようにするのが人間というものだ。

つまり、業績が伸びない、悪化している、ということに気がつけば、「対策」をかんがえて実行することになるのだが、どうしてそうなったのか?の原因をしっかり追求しないという、非科学的方法をえらぶものだから、「意味のない努力」のスパイラルにはいってしまう企業組織は山ほどある。

その原因が、「習慣レベル」の意味とその「効果」を考慮しないことにあるのだ。
よい習慣はかならずよい結果をもたらすが、悪い習慣はかならず悪い結果をもたらす。

子どもへの説教のようであるけれど、こうした原則論すらわからないで「おとな」になった「父ちゃん坊や」がそこら中を闊歩している。
軍隊のように、下位のものたちに命令すれば、そのとおり実行される、というたわごとも、父ちゃん坊やならではの浅はかさから発言される。

ふだんからだれからも尊敬もされない上官が、いきなり「突撃!」と叫んだところで、だれが敵前に飛びこむものか?

命令が命令として機能させるために、ホンモノの軍隊は、一般人がかんがえるよりはるかに高度な「心理戦」を、内部組織をあげてやっている。
こうして、「信頼」という絆をつくって、はじめて命令がそのまま実行されるのである。

感染症が流行しているいま現在、化学メーカーの社内あちこちに手指消毒剤が置かれているのは、それでも「手すりにつかまる」ことをやめないからである。

物も人も大切にしない日本文化

「もったいない」が世界でブームになったといっては、これを自画自賛する。
なかなかの「ナルシスト」ぶりをするのである。
いつからこんな国民性になったのだろう?

もうそれは、夏目漱石『草枕』が指摘している。
つまり、この小説の時代背景である「日露戦争」のころになる。
幕末、国際政治的には強引に開国させられたわが国ではあったが、横浜の港における「税関官吏」のまじめさは、そんな事情にこだわらない外国人入国者を感嘆させていた。

 

草枕冒頭には、有名な一文があって、受験生なら暗記させられるから覚えたむきもおおかろう。

「智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。」

智は「知識」、情は「人情」、意地は「意思」と置けば、ビジネスにおける心理学の「核心」にあたる。
先頭の文字をとって、これを、「知、情、意」という。
なお、「棹」は「さお」と読む。竿竹をみなくなって、字も読めなくなった。

漱石のこの指摘は、まったくそのとおりで、「知情意」とは人間がもつ「三つの心的要素」のことだからである。
よって、なによりも三方の「バランス」が重視されるものだ。
正三角形の中心から三つの頂点に線を引いて、これにメモリをつけてグラフにすれば、バランスの善し悪しが視覚化できる。

いわゆる「ハラスメント」は、この「バランス」をうしなった心理状態でうまれるものだ。
だから、加害者を罰することだけでは事後処理しかしないことになってしまう。
予防には、「三つの心的要素」をセルフ・コントロールするための「訓練」がひつようなのである。

浅はかになった日本企業は、組織をあげてこの「訓練」を、経費削減の対象にした。
それでいて、「コンプライアンス」や「社内統制」にはコストをかけている。

ふつう、こうした状態を、「砂上の楼閣」というのである。

高学歴で、優秀なはずの経営陣が、なぜにかくなる「愚策」を実行し得て、なお、それを「恥」ともおもわぬのか?

わが国の「教育」で、人間の「三つの心的要素」のうち、「知だけ」が重視されるという「バランスの欠如」がそうさせているからである。

学校教育だけでなく、家庭教育においても、はたまた社会教育においても、「知だけ」という価値観が、「優秀=知=学力だけ」ときめつけて、「情」や「意」が軽視されすぎた。
つまり、三角形がかけない「一辺」だけの「線」にしかならないものが、「エリート」になってしまったのだ。

だから、組織の上から下まで、「仕事ができない」。
企業における「仕事」とは、「価値創造」の活動のことをいう。
一辺しかないものたちがあつまって、購入者という人間を感心させることなんてできっこないから「売れない」のである。

『草枕』は、おそろしく深い「心理描写」をしているので、物語の本筋とは関係のないような、「胃痛」とか、なんとはない「会話」があるが、これがないともっと漱石がいいたいことがわからなくなるはずだ。

「ドイツの三B」の最後のひとり、大作曲家ブラームスは、そのレコード解説で「一音も無駄にしなかったひと」だというものを読んだことがある。
作曲家で「音を無駄にするひと」がいるものか、と読みながらかんがえた記憶があるからおぼえている。

小説家なら、一文字も無駄にするはずがない。

三B筆頭の大バッハは、楽譜に音符の濃淡をつかって、十字架をえがき、そのたもとにじぶんの「名前」BACHを数字譜から音符に変換させて書き上げた。
もちろん、音楽として演奏できて「傑作」のひとつになっている。

これぞ「職人技」というひとがいるけれど、わたしには「知・情・意」の三つがそのまま突き抜けたとしかおもえない。
大バッハの生涯は、苦難もあったがしっかり幸せな家庭を築いている。死別した先妻に4人、以下タイトルの後妻とは13人の子をなした。

元は創作の作品だが、おおくの事実とすこしの嘘で綴られた『バッハの思い出』を原作としているモノクロ映画(1967年、西ドイツ・イタリア)である。

すると、ほんらいは生まれてからの生活のなかで育まれるはずの「情・意」を、人生のどこで補完するのか?
これができなければ、物とおなじに人も扱われる状態が「文化」になってしまうし、すでになりかけている。

むかしは、職場に尊敬できる先輩や上司がいたものだ。
いまは、望むべくもないかもしれない。
「知」にすぐれ、「情・意」に欠くものこそが、「情・意」をにくむからである。

もしや、「文学」系の大学しか、「情・意」をまなぶ機会がないのかもしれない。

漱石が嘆き、みずからも神経衰弱に悩んだのは、「西洋化」という「合理」のなかに「不条理」をみたからだろう。
滅びゆく「旧き日本」を英語で記録したのは、岡倉天心『茶の本』、新渡戸稲造『武士道』、内村鑑三『代表的日本人』だった。

いまや、彼らすら歴史の中にあって、現代日本人とは別人種になり果てている。
物も人も大切にする日本人は、死滅したのか?

そんなことは、あるまい、と信じたい。

国家資格のキャリアコンサルタント

コンサルタントいう商売には、いろんな分野がある。
その分野の専門家なのだから、さぞや「国家資格」という権威づけが必要だとかんがえがちだが、その「発想」自体が異常なこともある。

たとえば、アメリカの「税理士(EA:Enrolled Agent)」は、日本のそれとはおおきくことなる。
なぜなら、アメリカにおいての税務申告は個人がおこなう原則があり、なおかつ、誰でもが有料で税務申告作成をすることができるからである。

つまり、税務申告書の作成、という業務が「独占資格」になっていない。
必要性があるのは、アメリカ国内というよりも国際取引における「税務」なのだが、頻繁に変更になる税法にたいする資格保持のための継続教育の困難さから、資格自体がマイナーになっている。
そんなわけで、全世界でEA資格をもって活動しているひとは、48千人ほどである。

税務申告書の作成、という業務が「独占資格」になっているわが国の税理士は78千人強だ。
昭和の戦前、国家総動員法施行前までのわが国も、いまのアメリカのように「確定申告」が一般的だった。

勤め人の「源泉徴収制度」とは、戦費を効率よくあつめる制度としてうまれ、戦後も政府に都合がよいのでそのまま継続し、いまにいたっている。
これを「発明」したのは、ナチス・ドイツであった。
いつでも「戦時体制」の国がわが国なのである。

ある業務分野を、特定のひとに「独占」させることを国家がきめる。
これが、「国家資格」というものであるから、ほんとうは最小分野にとどめるべきである。

その意味でいえば、資格試験よりも「学位」で代用することがのぞましい。さらに、分野によっては、学位もいらない自由でいい。

自由競争をさまたげないことが、けっきょくのところ、価値の高い専門家を育成する。
利用者が自由に選べれば、専門家は専門分野を同業者より磨くしかないからである。これが、ほんらいの「サービス競争」である。

ネットという媒体ができて、「情報の対称性」が実現しだした。
需要者が最適の供給者をみつけることができる可能性が、ネットがない時代よりも格段にたかまったのである。
だから、供給者はじぶんが「検索」によってでてこないと、世の中に存在していることすら認知されない。

だから、どちらさまも「こぞって」HPをたちあげて、自己PRにつとめている。
しかし、こうした方法が普及すれば、やっぱり「口コミ」に回帰して、それがさらなる「信用」となっている。

「口コミサイト」がほんとうに「口コミ」なのか?がうたがわれたら、だれも観に行かなくなった。
本物の「口コミ」に回帰していることの裏返しである。

これは、たんなる「噂」が「ひろく深く」なる、危険な社会になったことでもある。
それで、権威がひつようになって「国家資格」の意味がたかまるとすれば、社会が「権威主義」におちていくというスパイラルではないかとおもえる。

平成28年という、さいきんできた国家資格に、「キャリアコンサルタント」がある。
どうして、こんなものが「国家資格」なのかわからないし、どうして「資格試験」を受験しなければならないのかもわからない。

いつものとおり、管轄する役所(このばあいは厚生労働省)から、天下り先の「協会」を「育成」するためではないのか?

不可思議なのは、キャリアコンサルタントの業務に「キャリアカウンセリング」があることである。
「コンサルタント」と「カウンセラー」の概念が、混じっている。

カウンセラーの方面なら、「公認心理師」という国家資格が、平成28年にできているから、厚生労働省さんは、おなじ年に大活躍している。
すると、「キャリアコンサルタント」のなかにある「カウンセリング」と、「公認心理師」の「カウンセリング」のどちらが優先されるのだろうか?

一般国民には知る由も、理解もできない。

協会HPによれば、

「カウンセラーは、個人の興味、能力、価値観、その他の特性をもとに、個人にとって望ましいキャリアの選択・開発を支援するキャリア形成の専門家です。
「就職」「転職」「再就職」「キャリア」などの課題を抱えているクライエント(相談者)の方に対して、キャリアカウンセリングを通じてその方が自分らしく生きいきとする仕事を見つけ、働けるように総合的にサポートします。」

とある。さらに、

「企業内
企業の中では、従業員のキャリア形成支援者として、従業員のキャリアプランを明確にし、そのために必要な知識・資格の習得や仕事の選択を行うことを支援する機会が増えています。

大学・行政機関・人材紹介・人材派遣・再就職支援業界
大学のキャリアセンターには就職活動中の学生、ハローワーク・人材紹介・人材派遣・再就職支援には一般の求職者が訪れます。これらの方の就職、再就職のために効果的な自己分析の方法、エントリーシートの作成支援、面接の指導等のキャリアコンサルティングサービスへのニーズが高まっています。」

社会に出て働いた経験がうすい大学生と、どっぷり仕事にまみれる企業内、それに人材派遣などの「水と油」をやっぱり「混ぜ」ている。

無責任社会の結果が、このような資格をつくって、とうとう「人生」までが他人の「アドバイス」ならぬ「カウンセリング」で決められてしまう。

おそろしい社会になったものである。

マスクでなく科学で感染をふせぐ

三回目の検討で、やっとこさWHOも緊急事態だと発表したニュースの意味は、「緊急事態」だということではなくて、「どうして決められなかったのか?」ということの「理由」のほうになっている。
圧力をかけたのは、発生源の国なのか?それともIOCなのか?いまは、だれにもわからないけど。
WHOとて、やたら「政治的」なのである。

戦勝国の「連合」である「国際連合」とか、その専門部会の「国際」や「世界」がつく、たくさんの組織を、敗戦国ゆえか、やたらとありがたがるのはやめたほうがいいというメッセージでもある。
人類の「保健衛生」のためにあるはずの「世界保健機関」にして、このざまである。

しかし、そんなことにお構いなしなのはウィルスのほうで、こちらは「宿主がいれば増殖する」という法則だけに支配されている。
生物である「細菌」とちがって、ウィルスは「生物とはいえない」から、化学反応という原理だけがよりどころなのである。

これに、安逸の誉れがたかいわがマスコミは、「専門家」というひとを連れ出してきて、感染予防のコメントを吐かせるが、はたして科学の知見に基づいているか?とか、予防実績はあるか?というはなしを無視して情報をたれ流すことがある。

やっぱり油断できないのは、この国には「ジャーナリズム」がないので「ジャーナリスト」がいないからである。
わが国でいうジャーナリストとは、「活動家」のことを指す。

そんなわけで、ジャーナリストが「いる」アメリカに目をむけると、世界最高峰の「賞」といわれる「ピューリッツァー賞」の受賞者でもある女性科学ジャーナリスト、ローリー・ギャレット氏の記事がある。

彼女は、カルフォルニア大学サンタクルーズ校で生物学を、バークレー校大学院で細菌免疫学を、そしてスタンフォード大学大学院に学ぶが、博士号の学位は取得していない。それは、在学中、ラジオでの科学ニュース番組のレポーターがおもしろくなって、ジャーナリズムへの道に向かわせたからだった。

1996年、「解説報道部門」においてピューリッツァー賞を受賞し、SARS、新型インフルエンザ、結核、マラリア、エイズなどに取り組み、いまは、アメリカ外交評議会で「グローバル・ヘルス・プログラム・シニア・フェロー」として活躍中である。

さて、このような経歴から、感染症における「現場取材」での、みずからの感染防止策を知らしめる記事を書いているのである。
かんたんにいえば、彼女のながい取材経験で、一度も感染したことがない「理由と方法」である。

それは、徹底した科学知見による予防策の実施なのだ。
今回の新型ウィルスにたいする予防策として、きわめて重要な方法でもあろう。

感染防御のための危険箇所の認識として、第一に「目」、第二は「口」だから、ひろく「顔」を汚染させないことだ。
その原因は、圧倒的に「手」によってなでることにある。
つまり、汚染されたじぶんの「手」で、目をこすったり口のまわりを触ることが、もっとも「危険」だと指摘している。

それで、手を汚染させないために、「手袋の使用」と「手の消毒」が、もっとも「効果的」だという。
手指消毒剤と石鹸による「手洗い」の徹底。
使用したハンカチやタオルのこまめな交換と洗濯。

日本人が大好きな「マスク」は、ほとんど役に立たないばかりか、長時間の着用はかえって「危険」だから、どうしてもマスクをしたいなら、短時間での廃棄と交換が肝要である。
マスクの効果は、「口」を触りにくくする程度でしかない。

ただし、他人との距離は50㎝以上をたもつことが重要であるから、満員電車などを利用して他人と近接するなら、そのとき「だけ」マスクをつかうのは推奨される。けれども、マスクをはずすときの「手」にウィルスが付着しているとかえって危険だから、手洗い後にマスクをはずすことで、その後もう一度手洗いが必要である。

公衆の場における危険は、不特定多数の手が「触った場所」になる。
・階段やエスカレーターの「てすり」
・エレベーターの「ボタン」
・電車やバスの「つり革」や「てすり」
・おカネやレシートの授受
・トイレのドアや水道のコック、あるいは個室

つまるところ、なにかに触ったら、消毒剤をつかう、あるいは石鹸で手を洗うことが、なによりも重要なのだ。
手洗いには、かならず石鹸をつかう。
特別な石鹸ではなく、ごく普通の石鹸でよいのは、石鹸の界面活性効果で蛋白質でできているウィルスの外殻を破壊するからである。
生物でないウィルスは、これで「死ぬ」のではなく、増殖のための方法を完全にうしなうのである。

すると、宿泊施設などでの取り組みは、
エコだからタオルを交換しない、のではなくて、どんどん交換して洗濯することをアピールしたり、ロビー階だけでなく、各階のエレベーター・ホールに手指消毒剤を設置して、ボタンに触れた手の消毒をさせるように仕向けることである。

従業員にも手洗いを「強制」させることが重要で、「励行」という通常モードではいけない。もちろん、マスク着用は意味がない。
たとえば、お客様のカバンを持ったら、かならず手洗いをするように強制しなければならない。

残念だが、洗面所にある「エアー・タオル」は、ウィルスを風でまき散らす効果があるから、ペーパー・タオルを使わせることが安全になる。

「エコ」では、ウィルス対策にならないことを、利用客に知らしめることも、じつは重要な啓蒙活動なのである。

巷間、ドラッグストアからマスクの欠品があいついでいるが、科学を信じない原始人があんがいおおいことを示している。
接客業でマスク着用を義務づける企業があるというのも、経営者が原始人だと表明するにひとしいから、外国人知識人がおおく利用する高級施設ほど注意したい。

「偽善」の人材こそが財産だ

わが国で経営者になるひとが「うそつき」か「偽善者」ばかりになったのは、平気で「こころにもないことをいう」からではなくて、できもしないし、やりもしないことを口にして、いい子になろうとするからである。

じぶんはわるくない、いい子なのだ。
この心理が、そのときだけの「でまかせ」を、本気だとじぶんに信じ込ませてしまうから、始末が悪いのである。
だから、「うそつき」とか「偽善者」よばわりされると、おどろくほどの抵抗を示し、かならず反論にならない反論を感情的になってするのである。
そして、絶対に反省をしないのは、いい子であるからだ。

経営トップの最大の仕事は、次期トップの人選であった。
ところが、けっきょくは「好き嫌い」になって、「情」に流される。
そんなことを数代にわたってしていたら、そだちのよさげないい子ばかりが選ばれて、とうとう企業価値が減りだした。

人材こそが財産だ、とか、人材の材の字は「財」である、とか、うまいことはいうけれど、新入社員採用の面接もしたことがなく、管理職昇格の社内研修に顔も出さないでいられるのは、いったいどんな神経なのか?

じぶんはえらいのだ。

この「特別感」、「選民」としての「満足感」が、無邪気なほどに、本人を堕落せしめるのである。
けれども、本人以外にも「犯人」がいたりするのは、「大企業」における「秘書群」でる。
「スケジュール管理」という名目において、「分単位」の管理をつくり出す。
こうして、本人の意志とは関係なく、本人の時間を奪うのである。

しばらくすると、本人は意思のない「ロボット」になる。
「激務」のようにみえる「スケジュール」の強制によって、秘書群のいいなりに「こなす」だけで精いっぱいになるからである。
そして、取り巻きたちに、つねに「ヨイショされ続ける」、という環境において、もはや「さからえない」という心理をつくり出す一方で、前述の「特別感」に浸らせれば、さほどの時間をようせずに「堕落」に成功するのである。

これが、社内官僚としてのエリート集団が、一丸となっておこなう「骨抜き」手法である。

まるで「マンガ」のようなストーリーだが、これを可能とする「素地」がある。
それが、先代トップたちによる「後継指名」である。
わが国の歴史で、すばらしく安定した時代とは、その名の通り「平安時代」であった。
このときにこぞっておこなわれたのが「院政」だ。

どういうわけか、実力社長といわれたひとたちが、こぞって「無能」を後継者に指名して、じぶんは「院政」をねらう。
株主総会をクリアすれば可能なのは、自身の任期延長なのに、これをしない。
あたかも「長期政権ではない」という素振りの方が重要らしい。
ようは、株主総会の決議を「なめている」のである。

もちろん、いちばんなめられているのは「無能」なのに社長になった本人である。
けれども、「無能」だから、断ることもできないで、社長のイスにおさまるのである。

そんなわけで、被害者の筆頭は従業員一同である。
院政を敷いて、自己満足にひたる「老害」を隠すのが無能の誉れ高い社長なのに、この体制を支えなければならない。
「血縁」をもってトップにすえた、幕藩体制のほうがよほどあきらめがつくというものだ。
ましてや、当時の風習に「藩主押し込め」までがあった。

これは、「無能」の藩主を、城内の奥深くに「押し込め」て、つまり、座敷牢などに「幽閉」して、知らんぷりをする制度である。
おおくの「元藩主」は、発狂なりして壮絶なる生涯となるものの、一般庶民には知る由もない。
いわば、家老以下の部下によるクーデターだが、あんがい一般的だったから、わが国の資本主義より救いがある。

部下の方が上司より優秀だという事実は、人材こそが財産という美談を暗く染める。
これをまた無能がいうのではあるが、まったくの事実だから、いわれた側の従業員はうれしくもない。
「当然」だからだ。

しかし、ゆっくりとしかも確実に、組織は「壊死」をはじめている。
糖尿病のように、末端神経からやられるので、無能の脳がこれに気づくこともない。

残念だが、治療法もないのである。

こうして、優秀な従業員から退社する。
「泥船」だと気づくからである。
けれども、無能をコントロールしていることに満足している階層は、自分たちが沈み行く「泥船」のコントロールをしているのだと気づかない。

もし、いまどき、人材こそが財産だと社内に公言するだけのトップがいたら、すぐさまうたがっていい。
それで、なお、従業員の具体的な教育に経費削減をして、縮小するのなら、もう確信していい。

わかりやすい「踏み絵」になっているのだ。

退職願を書いておくもよし、転職先を先に探すもよし。

横浜中華街で新型ウィルスに感染?

こんなはなしが「ニュース」になって、電波にのるのはいかがなものか?

「デマ」と「真実」の区別もつかいないひとたちがいるのは、あまりにも「お気軽な生活」をしているからだろう。
発言したひとも、局として放送を許可したしたひとも、「放送法」に抵触しないのは「なにを言っても自由」だからか?

ひとから「いい子」でいたいのは、じぶんが常にただしいからではなくて、「ひとに同調する」ことで達成できることを覚えただけの「芸」のない「芸」からうまれる。

なにかと話題になる「放送法」の「ザル状態」も、「放送コード」にある、言ってはいけないこと以外なら言っていい、という安易な解釈で運用されれば、放送ぜんぶが「安易」に染まる。

「中国人がたくさんいる横浜中華街が感染の危険が高い場所だ。」

発生源の地域からの入国制限をすることをせず、漫然と国境(入国管理)を開いていたら、感染者がポツポツとみつかりだした。
そのひとが、ご当地からの旅行者なのか日本人帰国者なのかを放送せずに、ただ「現地」からやってきたひとが感染していたというだけだ。どんな「制限」が、放送局にあるのだろう?

日本人の帰国者といったって、現地駐在のひとだったのか、短期の観光旅行客だったのかも報道ではわからない。

それで、ただ「中国」や「中国人」という、おそろしくおおきな範囲のキーワードだけで、「危険」をしらせるとは、無責任ではなく「デマゴーグ」だというべきだし、ヘイトである。

たしかに、「中華街」なのだから、中国人はたくさんいる。
でも、横浜に居住している、ということを第一にすれば、どうして「感染源」になるものか?

このひとたちの「関係者」が、現地からやってくる可能性が高いから、というのなら、それは入国管理の問題にもどるだけで、本人たちの問題でもない。むしろ、何国人であろうが感染された側からすれば、勘弁してくれよでも済まないのは命にかかわるからである。

粗っぽいことをやるのが、あちらの政府で、それを指示する独裁党はもっと粗っぽい。
わが国政府の繊細さにくらべての一般的な印象だけれど、さいきんのわが国政府のテキトーさは、責任放棄という意味の荒っぽさだから、あちらとの差は「五十歩百歩」でしかない。

1000万人の居住者がいる「市」を、いきなり「閉鎖」したり、こんどは春節の民族大移動の時期にもかかわらず、「出国禁止」にしたり、なかなかの「荒っぽさ」が報じられている。
いっぽう、わが国は、特になにもしない、という「荒っぽさ」だ。

飛行機をだして、現地から邦人を連れ戻すのはいいけれど、「検疫」はどうするのか?そのまま「隔離」され、経過観察される手順の説明をしているのか?
いつもどおり、飛行機だって自衛隊機ではなくて民間機をチャーターするという「無責任」をシラッとやるようだ。

WHOに加盟が許されていない、台湾は、総統みずから素早い行動をしていて、双方の移動(現地へ向かうことも、戻ることも)をすぐさま禁止して、団体ツアーの受け入れも拒否を表明している。
まさに、緊急事態・危機管理対応の教科書のような行動だ。

感染源の国が、「出国禁止」処置にした理由は、台湾が打った初期の手にたいしての「後手」になったともかんがえられる。

わが国官邸には、おどろくほどの「電子機材」をととのえた、危機管理用のコントロール・ルームがあるが、例によって、これらの機材に電源が入っているかもあやしい、「無能」ぶりである。
もしや、危機とは「国内専用」だったのか?

すると、わが国政府は、国内での感染が広がる、ということにならないと行動しない、ということになる。
つまり、感染者や死者がでるのを「待っている」という愚劣を、まじめにやっていることになるではないか。

これは、粗っぽいをこえて、狂気ですらある。

なんでこうなるのか?

「思考の順番」がちがうからである。
小学校の算数を、「算数」といって「数学」といわないのは、「算数」が計算方法の習得にかぎられるからである。

中学にはいってからの「数学」は、どうしてそうなるのか?が重心になるのだが、なぜか数学の先生は、一年生のさいしょの授業でこれをいわない。

それで、延々と「証明問題」をやるから、生徒にはたんなる「苦痛」となるのだ。
数学嫌いを大量生産するのが目的か?とうたがう理由である。

算数で、足し算と引き算、掛け算と割り算をならって、それから、おなじ式に足し算と掛け算が混じったときの計算の「順番」をならう。
このとき「( )」のつかいかたもおそわって、ただしい「答え」の出し方を訓練される。

けれども、おとなになって、
2+3×4=?
を計算してもらうと、ただしい「14」ではなくて、「20」とこたえるひとのほうがおおかったりする。

おなじ式に足し算と掛け算が混じっていたら、掛け算を先にしてから足し算をしなといけない。
3×4=12 のつぎに2を足して、14とするのだ。
2+3=5 これに4を掛けて20としてはいけない。

どうやら、一般のおとなとおなじで、選ばれたはずの政治家たちも、優秀なはずの高級官僚たちも、20を正解とする、「順番どおり」やってきたらその都度都度に、神経反応のような思考をしているのではないかとおもえてならない。

ちゃんと「(2+3)×4」で対応しているような、明確な優先順位をしめす論理で説明できる、台湾の総統のような対処をせよ。

こまった、ではすまされない異常が、日常化している。

「だいじょうぶだぁ」のWHO

感染症の世界的流行を「パンデミック」という。

「風邪」だとおもっていたら、どんどん重篤になって、ひとびとが死んでしまう。
人間への流行が確認されているのは、1900年の「スペイン風邪」をはじまりとするようだ。

「確認」には、ヒトの抗体やヒトからウィルスが分離されたことを「証拠」としなければならないからだが、「あやしい記録」としては、紀元前5世紀のヒポクラテスによる記録が、もしやの最古である。

いまや「インフルエンザ」は、「感染症」ということが常識になったから、成人が罹患すれば、ほぼ一週間は自宅療養が「強制される」。
いわば、出社に及ばず、という状態になる。

「インフルの菌をばらまく律儀者」

記憶にあるサラリーマン川柳だけれど、作者と作年がでてこない。

宿泊業界での事件は、2002年から翌03年にかけて、東南アジアで流行した「SARS(重症急性呼吸器症候群)」だった。
彼の地の富裕層が、大挙して医療機関のレベルが高いと信じられているわが国へ「避難」してきて、都心の高級ホテルは対応に追われたものだった。

感染を心配する職場は、おもにフロントと客室清掃係であった。
そのため、感染症の専門家による対策方法の講義を依頼し、必要備品の手配をした記憶がある。

肝心のお客様たちは、長い滞在中にゴルフ三昧であったりと、それはもう「優雅」なホテルライフを楽しんでいた。

旅館業法における「宿帳(レジストレーション・カード)」の記載義務が、このときばかりは安心・安全の綱にみえたのは、そもそもの「衛生遡及」をするためという、目的性の合致にある。

しかし、ホテル館内におけるかずかずの「接触」で、遡及を担保することはできない。
まったく「ムダ」とはしりつつ、ロビーを歩くひとや従業員入口に、「体温」を測定する特殊カメラを設置して、空港の検疫所らしきことまでしたものだ。

マスクについては、知り合いの医師の推奨による手配で、手術用「N95」基準の「排気弁付き」を個人購入し、これをもって「通勤用」としていた。
まったく「風の谷のナウシカ」状態になったから、よそ様には異様にみえたはずである。

ただし、N95基準以上のマスクでは、弁付きでないと排気困難になるのである。
排気のときの空気音は、「ダース・ベイダー」そのものだった。

あいかわらず、インフルエンザは流行していて、予防接種は毎年かかさずうけている。
それでか、ここ数年は一度しか感染していないが、吸気薬ができてうそみたいに速く症状はなくなるからたすかる。

しかし、この時期に発生した「新型肺炎」の対応は、いったいどうなっているのか?

そもそも新型とはいえ、「SARS」と同様の「コロナウィルス」が原因というから、用語からして「新型SARS」ではないのはなぜか?

WHOの発表も、なんだか「政治臭」がして「変」である。

世界の「公衆衛生」を保持するのが役割だし、そのためのリスク回避を優先させれば、「緊急事態」のはずなのは、東京「都」に匹敵する人口の武漢「市」を「閉鎖」したという中国当局の決断からして当然ではないのか?

二日も連続して、おなじ案件で記者会見する、WHOのえらいひとたちの顔が、まじめ一色だけに、往年の大ギャグ番組の「オチ」を想像して笑ってしまうのである。

「だいじょうぶだぁ」

わが国、厚生労働省の対応も、妙に「他人事」で、国会では例によって、今国会の流行である「カジノ疑惑」ばかりが感染しているようで、国民を代表する議員たちが国民の健康をぜんぜん気遣っていない。
いや、ギャンブル依存症という病気だけは気遣っているというのだろう。

そんな状態でも、この役所は「健康日本21」という、2000年にできた「国民運動」にいまだ熱心である。
メタボ対策やら、禁煙やらと、活動メニューはたくさんあるけど、ぜんぶが「禁止」を旨としているところが「いい子の日本」らしい。

なんでもかんでも「増税」やらなんやらと「コスト負担」を国民に強いることばかりで、「健康」すらも国民に強いるのだから、戦時中の批判なんかできっこない。

むかしは国民の健康が「国力」を意味した。
労働が壮健な肉体を必要としたし、「壮丁」という「兵隊」の健康こそが軍事力の強さをしめしたからである。
律令国家の「租庸調」の「庸」のことだ。

いまは、健康が社会保障負担を「軽減」するときめつけている。
負担するのは政府のことだから、政府のために健康でいろ、となって、むかしとぜんぜんかわっていない。
にもかかわらず、ちょっとまえなら「高度医療分野」だったものも、健康保険適用にして、政府は政府の負担をじぶんでふやしている。

やっぱり「だいじょうぶだぁ」といっているのだ。

もう、国民は笑っていられない。

WHOすら、ブラックジョークの対象になってしまった。

アメリカ教育省は廃止になるか?

国民の「教育」は、国家百年の計というほどの「重要事項」だ。
だからといって、「政府」が教育をおこなう主体でよいのか?という議論があるのは、「自由競争」が教育分野でももっとも効果があがるとかんがえられるからである。

スイスには「連邦政府」の「省」として、教育省がない、と書いた。
アメリカ合衆国も「連邦」なのだが、こちらには教育省がある。
けれども、この役所ができたのは1979年、ジミー・カーター政権のときであった。

まだ40年の歴史しかないのは、日本人には「意外」である。
さぞやむかしから、というのは、まったくのまちがいなのだ。
カーター政権は、民主党政権であったから、わが国でいえば「社会党」的だというのも、勘違いである。

民主党だから左派政権であったことはまちがいないが、わが国の政党との「尺度」で比較したら自民党がこれにあたるとも書いた。
くりかえすが、わが国には共和党にあたる政党が存在しない。

現職の大統領が再選を目指した選挙で敗れたのは、経済の不調や、テヘランのアメリカ大使館が占拠されて、この救出作戦に失敗したこともあったが、教育省の設立という大不評も見逃せない。

「独立心」がモットーのアメリカ人には、「州」が国家なのであって、「連邦政府」はなるべく介入しないことをのぞんでいる。
もちろん、「州」のちがいには、「宗教」のちがいが前提にあるので、連邦として一律の教育制度を実施することは、介入のほかなにものでもないのである。

なぜなら、宗教によって理想の教育もちがうからである。

共和党のなかにあって、おおきく二派がせめぎあっている。
ひとつは「主流派」で、こちらはグローバリズムを推進する立場だ。
ブッシュ親子が代表格である。
もうひとつが「保守派」で、こちらは反グローバリズム。
現職がこれである。

ちなみに、左派には、国際共産主義運動があるように、グローバリズムが不可欠である。
なので、わが日本国政府は、グローバリズムを徹底的に推進する、という立場である。

レーガン・中曽根時代のように、「ロン・ヤス」という関係をもう一度みせたくて、「ドナルド・シンゾウ」をやたら演出したがるけれど、じつは「水と油」である。

現職大統領が再選すれば、来年からの四年間は、わが政府にとっては厳しい展開になるはずだ。
けれども、わが国民にとって厳しいとはかぎらない。
どちらが日本国民のためになるのか?まったく倒錯した時代になったものだ。

「教育省廃止」をいつ「公約」として発表するのかわからないが、わがマスコミが狼狽することまちがいないから、なんだか「ワクワク」する。

おそらく、アメリカの凋落がはじまる、とかテキトーなことを書いて、全国一律を維持するわが文部科学省のすばらしさを「ヨイショ」するのだろう。
これは、なにもマスコミだけでなく「学会」もおなじで、これみよがしに文科省にこびて予算の増額を狙うにちがいない。

スイスやアメリカには「州」があるけど、わが国には「藩」があった。
江戸幕府は、一種の「連邦政府」であった。
基本的な「御定」は全国一律だが、こまかいことは各藩の自由だった。

もちろん、身分制もあったから、学校制度を一律にすることがかなわないので、武士以外は「手習い」をもって教育とした。
そんなわけで、おのおの勝手に「塾」を経営していて、「評判」こそが業績を左右するのは、完全に自由競争が成立していたのだ。

電話もインターネットもない時代に、「評判」だけで全国から弟子があつまったのはどいうことかをかんがえれば、中央官庁が仕切る意味など最初から「イリュージョン」にすぎないのである。

はたして、教育省廃止とは、合理的なことではあるが、労働省との合併も腹案にあるようである。
つまり、「職業教育」の強力な実施である。

トランプ政権は、オバマ政権がすすめた福祉政策をことごとく「ちゃぶ台返し」して、低所得者向けに行われていた「食料費補助対策:フードスタンプ」を、ただ配付する方式から、健康に問題ないなら「働く」ことを条件として、受給者数を激減させた。

この経験から、低所得者層における「就業確保」には、「職業教育」が不可欠としているのである。
つまり、ただあたえることによる「貧困の固定」をやめて、「貧困からの脱出」を援助する方策にしたのだ。

いちいち合理的である。

外国人が経営者や管理者としてやってきて、成功にみちびく例はいくらでもある。
ゴーン氏も、経営再建ということにかんしては使命をはたした。

わが国は、トランプ氏が大統領から引退したあかつきには、彼のスタッフごとむかえて、そのまま首相と首相官邸をまかせることはできないものか?

世界の潮流の真逆をいくわが国政府は、「孤高」どころか「滑稽」になりはてている。

ぶったまげの全世代型社会保障

まだ1月なのに、今年2020年が歴史にのこる年になりそうだ。
オリンピックは、やっぱり「衰退の象徴」になるのか?

「福祉元年」を宣言したのは1973年、田中角栄内閣であった。
すなわち、わが国は「正式に」、これによって「社会主義国」になると表明したのである。
あれからほぼ半世紀が経った。

こんどは、安倍内閣が20日、通常国会冒頭の首相施政方針演説で、「共産主義国家」になると宣言した。
「全世代型社会保障」とは、共産主義の実践にほかならない。
とうとう、行きつくところまでいった感がある。

わが国政府は、「自滅」を宣言してしまった。

もう、政治の基準がなんだかわからなくなったから、共産党も大御大・不破氏を中央委員に再登板させることになったのだろう。
自民・公明党政権が、とうとう「宿敵」共産党のお株を奪ったのだから、それはもう「パニック」だろう。

これに、「第4次産業革命」を「国家がやる」というはなしまで演説にくわわっているから、もうどうにもとまらない。

日本政府は「発狂」した。

安倍政権は、わが国「(左翼)政界」のぜんぶを呑み込んで、事実上の「翼賛政治」に変容させようとしている。
これは、世界史上初の「無血革命」だし、実務をともなう「共産党宣言」にほかならない。

わたしの人生で、最大級の「ぶったまげ」の政治ニュースである。
2020年の施政方針演説は、後世、滅亡の一里塚、として歴史的価値をもつはずだが、それは後世の歴史家が、日本人を「愚かな国民」としてレッテルを貼る、最大の理由になろう。

すでにわが国の経済は、「国家依存」がはなはだしい。
昨年暮れに政府が発表した、2018年の名目GDPは、4兆9564億ドルだった。
1$=110円とおおめになるように計算すれば、545兆2040億円となる。

国家予算と地方予算の規模は、一般会計だけでなく特別会計もくわえなければならないが、国家・地方ともに「不明」ということになる。
特別会計にある、元公団や財団が、さらに傘下におさめる株式会社が子会社どころか、ひ孫会社、やしゃご会社ほどまであるからだ。

猪瀬直樹氏が都知事になるまえの評論家だったとき、道路公団の民営化委員になって、財務内容が「さっぱりわからない」とテレビで、わからない理由をわかりやすく解説していたことをおもいだす。
なるほど、わからなかった。

それで、すったもんだしながら「民営化」されたが、中途半端な感じがするのは、やっぱり「わからない」ままだからである。
これが、道路公団「だけ」の問題だった。
NHKもなにもかも、ぜんぶおなじ構造のままになっている。

株式会社については、いろいろと命令して、なにかと「情報公開」にうるさいが、国民資産で運営している組織のほうは、さっぱりわからないようになっている。
旧ソ連、東欧のひとたちには「なつかしさ」があるはずだ。

そんなわけで、けっきょく、わが国の「公的部門」がどのくらいの規模なのか?いまだにさっぱりわからない。
国民がわからないだけでなく、財務省の役人すらわからないのは、全部を統括する役所がないからだし、そもそもわかるようにさせる「法」もないからである。

だから、「ざっと」としか推測できない。
それで、でてくるのが「350兆円ぐらいでは?」なのだ。

これは、GDP比で「64%」ほどになる。

なんと、わが国は民間のボリュームが36%しかない。
みごとな社会主義が、もう達成されている。
それを、もっと政府が頑張って推進しますと、総理が演説したのだから、目指すのは「共産主義国家」しかない。

元全共闘のひとたちを中心にした、お年寄りたちが「安倍やめろ」という運動をしているが、安倍政権は、このひとたちの「理想社会」をつくろうとしているのになぜなのだろう?

それに、「保守」を自称するひとたちが、極左政権なのに「安倍支持」なのもなぜなのだろう?
日の丸に敬礼する姿だけしかみないからなのか?

それは、日本国民が「卑しくなった」からである。
正確には、卑しくなるように仕向けられたのだ。

「どっちが得か?」という命題が、いつのまにか「国からもらうおカネ」の「もらい方」になってしまった。
年金しかり、ふるさと納税しかり、はたまた生活保護しかりである。

こうして、エサをまかれた国民は、不労所得のごとく、国や自治体から「もらえるものをもらわなければ損になる」と擦り込まれたのである。

「一億総乞食化」が達成できた。

「もっともらえます」「もっと差し上げます」ということが、選挙で当選する条件にもなった。
だから、年金けずります、とはぜったいにいえなくなって、だれだって当選したいから、こころある候補者もだまっているだけになるのだ。「発言しない議員」はこうして生産される。

このように、全候補者が「社会主義を容認する」メカニズムがはたらくので、政権与党は絶対的議席数だけがほしいから、「もっと」を強調するだけでよい。
その挙げ句が、共産党の主張まで呑み込んだのである。

わが国は、社会が安定しながら滅亡するモードにはいった。

もうだれにも止められない。
民主党政権を、よりスマートに、より過激化したのが安倍政権である。
さて、どうしたものか?

これから、「エクソダス(大量の国外脱出)」が本格化するだろう。
衰退が加速化する「元年」となりそうである。

経理を強化しても儲からない?

企業活動とは投資活動のことである。

「ひとがうごく」とかけば「働く」になる。
従業員がいるだけで、人件費がかかるから、うごくかうごかないかはじっさいに関係ない。
その典型が事務仕事で、日がな一日机の前に座ったまま、なにかしているようでじつはゲームをして暇つぶしもできる。

有能な経営者は、付加価値の生産に注視するから、従業員がうごきまわろうが座ったままであろうが、その形態はどうでもいい。
残念な経営者は、付加価値の生産がピンとこないから、なんでもいいから忙しそうな従業員をみているだけで安心し、暇そうなら怒りだす。

むかしの喜劇役者で、「あーいそがしい、あーいそがしい」といいながら、舞台を走りまわるだけでなにもしないことを演じるキャラクターで受けていたひとがいて、観客が何度みても笑ったのは、身近にそんな人物がかならずいたからである。

だから、残念な経営者のもとに、忙しがるだけの従業員がたくさんいるのは、経営者がそうなるように育てているからであって、そんな人物たちをわざわざ選んで採用したわけではない。
こんなことにも気がつかないから、かならず「うちの従業員は忙しがるがなんにもしない」と他人にボヤけるのである。

なので、こんな残念な経営者は、経理も不正がなければよいという価値感だから、「経理が利益を生む」とは夢にも考えない。

経理部と財務部がある企業がある。
ふつうは経理部だけだろうが、おおきな会社になると財務部があることがある。

経理部は、月次決算や税務などの報告書をつくったり、金銭出納の窓口になるから、会社のおカネをあつかう部署だ。
これに、会社の資産管理もくわわって、その気になると見た目よりもいそがしい部署になる。

小さい会社だと、従業員の給与計算も経理が担当する。
退職金も給与あつかいになっているから、数人でも退職者があると、おおきなおカネがうごくことになる。

そんな経理は、むかしなら算盤、ちょっと前なら電卓があって、計算用紙に定規で表をつくって、計算結果を手書きしていたものだ。
これが、コンピューター会計を看板にする税理士からの要請で、会社の数字もデジタル化の時代になって、いまなら税理事務所にデータ転送ですませているだろう。

ものをあつかう会社なら、伝票が紙だった時代はおわって、バーコードからユビキタスの時代になってきた。
発注管理も、納品も、在庫管理も、どこもデジタル化がすすんでいる。

外部的には「経理」と「財務」のちがいは、どうでもいいが、内部的にはおおきくちがう。
「経理」を「制度会計」、「財務」を「管理会計」とすれば、重要なのは「財務」のほうになる。

おおくの企業は「制度会計」しかしないので、経営のための数値情報がないがしろになっているのだが、これに気づかない。
経営のための情報は、「管理会計」の分野である。
株主のためにある決算書をみて経営する、という企業は、じつは経営なんかしていない。できっこない。

ならば、なにをしているのか?
会社を「運営」しているだけなのだ。
だから、だれにだってできる。
なぜなら、部下たちが「勝手に」支えてくれるからである。

これを、とち狂って、じぶんが経営者だから会社の経営をしていると勘違いし、トップダウンで「命じ」てみたら、うまくいくときとそうでないときがある。

なぜなら、部下たちが「判断」して、やるかやらないかをきめているからだ。
経営者は、なぜやらぬのかさえも理解できない。
それで、自社の社員のことを外にいってボヤくのである。

まったく犬と飼い主の関係そのものである。
うちの犬は「バカ犬だ」という飼い主が、犬への教育方法をしらないばかりか、犬という動物の習性すらしらない。
しかも、擬人化までして、とうとう「飼い犬に手を噛まれる」ことになってしまうのだ。

会社の経営には、実態把握が必須だが、制度会計ではこれが「甘い」。
なので、わかっている経営者は、制度会計の報告だけで満足しないのだ。

デジタルの時代だから、手書きや手入力だったむかしにくらべて、ずいぶん自動化されてきている。
この「投資」をしないから、いつまでたっても「運営」しかできない。

デフレの時代に行き詰まる企業のパターンは、これである。

自社は制度会計しかしていないのではないか?
という疑問を、経営者がもたなくては、はなしがすすまない。
部下がおしえてくれることではない。

じつは、管理会計を強化すれば、会社は儲かるようになる。

だから、いまどきなら、どんなコンピューター・システム(ソフト)を採用するかで、企業基盤の強弱がきまってしまうのだ。
これを選定する「目」を、経営者が学ばないといけない。
制度会計を受け持つ、顧問税理士の「意見」は、まず役に立たないとしるべきだ。

でも、勉強する時間がないと思し召すなら、業績がよくて採用している企業の実態を調べるという手がある。