プログラミングが小学校の必修に

「産業優先国家」の面目躍如である。
もちろん、経済力をもつことを優先させないと生きていけない「もたざる国」に住んでいるから、「産業」をどうするのか?は重要なポイントになることを否定はしない。

しかし、これは、「政府」の仕事か?

企業にとって、新卒だけでなく中途採用にあたっても、義務教育以上の「卒業者」を基本としている。
これだって、ある程度のバラツキはあるけれど、本人能力としての水準はだいたいの見当はつくものだ。

この国の「統制経済」を実現させているおおきな要素に、「教育制度」があることは否定できない。
「人材」を育成するのが「教育」だから、画一的な産業の時代には画一的な教育が「向いていた」。

これが、わが国発展の原動力「だった」ことは否定しない。

しかし、産業自体が細分化されてきたから、教育が過去の成功体験をひきずっていると、産業界にダメージをあたえることになる。
つまり、ほんとうの「ニーズ」と合致しない。
これが、わが国の「教育問題」の本質なのだ。

それで、さまざまな「教育改革」がこころみられてはきたが、江戸時代の「改革」のように、成功したためしがない。
「体制」という「枠」のなかでの「改革」しかしないからだが、現代の「体制」とは、「全国一律」を「善」として、これを「文部科学省」という中央官庁が「なにからなにまできめる」、ことである。

前にも書いたが、教育も社会主義化しているのである。

企業活動において、ライバルを意識するのはだれでもできるが、あんがい「ベンチマーク」をただしく設定して、これを継続的にウオッチすることをしない。
それで、じぶんを見失って迷走することはよくある。

わが国も、なぜか「アメリカ合衆国の経済」を意識していて、なぜか「ライバル」としている。
戦後はだれも思ってもいなかった「アメリカに追いつけ追い越せ」という、あとからできた「スローガン」を、低成長時代になって擦り込まれたからだろう。

これに、意味も根拠も不明の「贖罪意識」から、さんざんお手伝いして育てた中国にあっさり抜かれて、あからさまに「バカにされる」にいたって、ライバルどころか「崩壊願望」をもつ体たらくに陥った。

それもこれも、「ベンチマーク」の設定ができていないからである。

では、わが国のベンチマークになりうる国はどこか?と問えば、山国だけど「資源のなさ」にもかかわらず、世界トップの「生産性」を達成している「スイス」がまっさきにあげられる。
ただし、相手はわが国のはるか先をいく「先進国」であって、「ライバル」ではない。あくまでも「ベンチマーク」である。

スイス連邦政府は、七つの「省」がある(七つしかない)が、この中に「教育(省)」はない。
その下の州政府に「教育部」がある。
州議会の議員とはべつの「参事選挙」によって七人(五人や九人の州もある)を選出し、これら参事が合議制の執行部「参事会」を構成しながら、各参事が行政各部の部長も兼務するしくみだ。

なので、州の役所に常勤公務員として勤務するひとの最高位は「課長」である。
休職して選挙に当選すれば、議員や参事になれる。
なお、参事は連邦国民議会(下院)議員を兼務することができる。

州議会議員も参事も、どちらも任期は4年である。
ユニークなのは、州知事と副知事は、この参事たちが一年毎に「輪番」でやるから、州知事選挙はないし、州知事が二年連続することもない。

つまり、各州という地方が独自に教育行政をするのであるが、だからといってわが国の文科省が地方にあるだけとはちがって、市町村単位の「教育課」が実質的な教育行政をおこなっている。
この「課」の運営さえも、住民が参加するので、行政が教育制度を勝手にきめることはできない。

ついでだが、「観光立国」のスイスの地方行政に、「観光課」がない、ということもベンチマークになる。

すなわち、行政を「肥大化させない」という「かんがえ方」が、住民の生活をよくするための「基本中の基本」だということだ。
わが国の発想と真逆だからこそ「ベンチマーク」になる。

長野県はむかしから「教育県」を自称していたが、「自主」のはずだったものが国家に横取りされて、全国一律が強制されたら、やっぱりどこの県ともおなじなった。

せっかく、旧安曇村(合併して松本市)がグリンデルワルト村と姉妹提携しているのだから、教育「特区」にでもなって、グリンデルワルト村とおなじ方式で教育したら、数年で成果をだすのではないか?

この四月の新年度からはじまる小学校の「プログラミング」は、6年生が対象で、来年度からは中学の「技術」でもはじまる。
それから、高校にも移行するのだろうが、おそらく大学入試には「関係ない」課目となって、いつものように中途半端におわると予想できる。

理系の大学で「分数」が「補講」の対象になっている現状からすれば、文部科学省のやる「学校教育」は、とっくに破たんしている。

文系の大学生は、分数どころか、とうとう「引き算」もできないし、「ふつうの電卓」のつかいかたもしらないで生活している。
しかし、文系だから補講もしてくれない。
企業が採用して、はじめて気づくが、上司もできるだけしらんぷりするのは、「パワハラ」だといわれたくないからである。

「プログラミング」は、これらの実態から目をそらすための方法でしかない。
役人によれば、目的は「論理力の強化」だそうである。

学校でのテストの結果とは、教師の力量を示すものという論理もなく、最終的に「指導要領」の出来の悪さだという論理もないから、文科省の役人の「成果」が、評価の対象外にあるのはずるい、という論理もない。

すくなくても、親やおとな世代が論理力をうしなっているから、こうした「改革」に、文句もいえないのだとしか言葉がみつからないのは、産業界もおなじか?

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