「最善」をかんがえよう!

今日は1月4日だから、おおくのひとは「仕事始め」ではなかろうか。
とはいえ、「新年の挨拶の日」でもあるから、さっそく一杯やっている会社もあるだろう。
まじめに新年をかんがえるのは、明日以降になるにせよ、どうせだからひとつこんなことをかんがえてはいかがだろう。

よくいわれるのは「最悪」を予想しておくことだ。

「備えあれば憂いなし」

ところが、いがいにも「最善」をかんがえるひとがすくない。
欲の皮がつっぱって、なにが「最善」なのかがわからなくなるからだろうか?

どういう状態が「最善」なのかをかんがえるにあたって、ぜひ、紙をつかってほしい。
ペンでも、パソコンでもタブレットでも、なんでもいいから「記録」できるようにすることが、「必要」である。
忘れてしまったらなんにもならないからだが、それよりもなによりも、思考の「漏れ」がなくなるというメリットがある。

業績不振企業のトップは、けっして頭脳に問題があるひとではない。
むしろ、明晰なのだが、かんがえるときに紙をつかわない。
暗算のように、頭の中「だけ」でいろいろかんがえる癖がある。
それで、肝心が漏れてしまうか、論考が複雑になると面倒になる。

だから、結果がきまらない。
結果がきまらないから、行動にならない。
それは、部下への指示ができないことを意味して、ダラダラとした経営になってしまう。
部下たちは、ダラダラとした経営が「楽」なので、仲間同士の愚痴はいっても、意見具申はしない。

こうして、しらずしらずのうちに業績は確実に悪くなる。
意志がなく世間に浮いているような会社になるから、「景気」と業績が連動している。
それで、自社の不振の原因を「景気がわるいから」にもとめることになる.
景気をよくすることは自社ではできない。
というわけで、地元の役所や政治家の「対策」に依存するようになる。

効果バツグンにみえるのは、「補助金」だ。
書類をだせば役所からお金がもらえる。
それで、いまどんな補助金があるのかという「情報」がないといけないから、日々役所を巡回する。
課ごと、担当ごとに、情報も縦割りになっているからだ。

こうなると、経営者は多忙である。
市役所と県庁、それに国の出先と、最低三箇所、実質いくつかの建物を巡回しないといけない。
自社が県庁所在地にあっても、ずいぶんな時間を要するから、県庁からはなれていると、地元と県庁のある街との往復だけでもたいへんなのだ。

この多忙さが、経営者をして経営をしている気分にさせる。
まことによくできた「政策」である。
政治家には「票」になるし、役人には「犬」にみえることだろう。

自社をどうしたいか?
自社はいかにあるべきか?
こうしたことを一切かんがえなくてよい。

自主独立の精神をうしなった企業の実態は、「国営企業」になるのである。

これをさげすむ文化があれば、経済はだまっていてもかならず発展する。
しかし、国や自治体は補助金をもっとよこすべきだ、になってしまったら、現状維持がやっとで発展など望むべくもない。
かつての「英国病」がこれだった。

いまから半世紀前、70年代から80年代にかけて、英国と米国はスタグフレーションに悩んでいた。
彼らを尻目に、世界経済をけん引し、西側の優等生だったのはわが日本と西ドイツだった。
なかでも、日本に勢いがあったようにみえたのは、経営者たちに自主独立の精神があったからだ。

傾いた政府を立て直す役目を負ったのが、経団連を率いた土光敏夫氏だった。
いま、経団連は、政府に引率されていないか?
「経済再生」が、政府策定の作文に依存するようになってしまった。

だから、上述した地方の役所廻りをする経営者をわらえない。
中央の、大企業の経営者たちも、おなじ行動をしているのだ。

すると、これは、「抜け駆け」のチャンスでもある。
かれらの卑しい行動は放っておいて、自社の自主独立の精神を発揮させれば、頭一つ以上の成果が出せるのだ。

とかく後ろ向きになる話題にこと欠かない昨今だから、「最善」をかんがえるのは楽しいことだ。
その「最善」を、どうやったら実現できるか?をかんがえ、実行するのが「経営」である。
だから、最初に「最善」がきまっていないと、実現方法がなにもおもいつかない。

年の初めに、最善をかんがえるのは、ちょうどよいタイミングである。
実現方法にかかわる費用を、「年度」でかんがえれば、4月からの新年度予算に計上できる。
ますます実行するしかないようになるのだ。

ぜひいま、最善をかんがえていただきたい。

「会社法」には目的の明記がない

社外取締役を「義務」化する、という会社法改正案が発表された。

その会社法にも、前身の商法にも、法の目的の記述がなく、第1条に「趣旨」、とある。
念のため、下記がその条文である。

「会社の設立、組織、運営及び管理については、他の法律に特別の定めがある場合を除くほか、この法律の定めるところによる。」

だから、会社のことは「会社法」でただしい。
しかし、会社にはいわゆる「ステークホルダー」と呼ぶ「関係者」が多数いて、その立場はそれぞれことなる。

所有者であって投資家でもある株主、経営者である取締役や執行役員、それを監査する監査役や監査人、社内ではたらく従業員も正社員や非正規のひとがいて、仕入れの取引先、そして、唯一利用してお金を支払ってくれる購買客などのことをいう。
それぞれの立場がちがうから、それぞれの「利害」がちがうのは当然でもある。

今回の「改正」の主旨はなにか?
たびかさなる企業不祥事、ということだろう。
しかしこれは、前回平成26年の改正(施行は翌年)で「監査役会」の設置がされたから、さらなる積み重ねになる。
すなわち、「屋上屋を架す」になっている。

監査役会と監査役が、不正をただす監視ができないのはなぜか?
頻繁には開催されない取締役会に「しか」出席しない、社外取締役に、いったいなにができるのか?
「社外」ではない、社内の取締役の立場からすれば、いかに「通す」か?だけに興味がうつらないのか?

数々の基本的な疑問に、法制審議会の会社法制部会はこたえているとはおもえない。
部会メンバーは、ぱっと見ご立派な肩書きがならんでいるが、ビジネス経験者が少数派になっていることが注目にあたいするし、行政官僚自身がメンバーになっている。

おそらく、深遠なる「法学論」が語られたことだろう。
社外取締役が義務化されたり、人数がふえると、不祥事は減る、という法則は成り立つのか?
これは、因果関係のことである。
監査役をふやせば不祥事は減る、という法則が法理論的に当然とかんがえたのが、おおハズレした。

原「因」から結「果」になるから、「因果」関係というのは、小学校の国語で「5」を当然とした彼らにはあたりまえすぎるのだろうが、知識としてしっているだけで、実務としてしっているわけではない。

学校を卒業して、大学院から大学教授になったひとも、もっと優秀な成績で官僚になったひとも、傲慢こそが売りだから、職場で「因果関係」をかんがえる経験はないだろう。
その反省が微塵もないのが、学識経験者の学識であるし、無能な官僚の思考パターンである。

たとえば、文部科学省という学校の成績と国家公務員試験の成績が一番悪いほうからかぞえるひとが入省するということが慣例になっている役所が、小学生にむかって「あさごはんを食べると成績がよくなる」から、「あさごはんを食べよう」というキャンペーンをやった。
統計をとったら、成績のよい子はあさごはんを食べていたからである。

これはふつう「相関関係」といって、成績のよい子の特性を説明するのにはよいが、けっして「因果関係」ではないから、統計学の教科書ではやってはいけないと特筆注意されることである。
成績が悪かった官僚だから間違えたのではなく、成績のもっとよい官僚は、よりもっともらしい「相関関係」を「因果関係」と強弁してはばからない。

それが、本件の会社法改正案になっている。

目的のない法律が、目的が不明の条文をかんがえだす。
ステークホルダーという主語をわすれて、会社のことをぜんぶ決めようとするからこうなる。
たくさんの「主語」があるから、その主語ごとに決めごとをつくらなければ、誰のなにが対象なのかわからなくなる。

それで、監査役がダメなら社外取締役ということになったのだろう。
すると、この法律は、論理的に破たんしている。
小学生の作文なら、先生に主語をちゃんとかきなさない、と添削されることまちがいない。
「法律」のまえに、「文学」としても成立していない。

ダメな取締役を選んで、その結果、会社がダメになったら損は株主が負うことになっている。
このひとなら大丈夫、という情報を、株主はどうやって得ることができるのか?
残念だが、そんなものはないだろう。

であれば、取締役には、在任中と退任後も何年間か、大量の自社株式を購入・保持させればよい。
売買禁止期間は、新入社員にも責任をある意味で退任後30年ほどが望ましい。
それが、経営者の経営責任なのだ。

これが、因果応報をもって縛る方法である。
かつて社長として東芝再建にあたった土光敏夫氏は、紙切れ同然にまでなった東芝株を大量定期購入していた。
みずからの決心と覚悟である。

それで、退任後、株価は数倍の価値をつけたから、はからずも大資産を保有した。
さいきんの自動車会社や官製ファンドの高額報酬が、世間のやっかみを受けているが、土光氏はやっかまれたどころか尊敬された。

経済にはちゃんと「経済原則」がはたらくようにする。
これこそが、要諦なのである。

さて、本日、2018年12月30日0時から、「TPP」が発効した。
あたらしい経済の時代のお正月である。

「産業優先」が国是の国柄

こういう国なのだから、しかたがない。
だったらちゃんと、「産業優先」であるといってほしいものだが、それも「あうん」の呼吸でわかるだろう?とにやついた笑顔で返されそうだ。
「空気を読め」と。

しかし、そうはいっても、いわれてみないと気がつかないひとはおおい。
「産業優先」のなにがわるい?と開きなおるひともいるだろう。
自分たちが食べていけるのも、会社あってこそのこと。
だから、会社が優先されるのは、当然だし、それこそが効率のよい経済をつくるのだ、と。

昭和の時代はそうだった。
平成の時代は、なんか変だ?と気がついたが、なにが変だかわからずに終わろうとしている。
つぎの時代の、どのへんで気づくのか?あるいは気づかないまま、またつぎの時代を迎えるのか?

「産業優先」が国是の国だから、国家行政の官庁も、「ほぼ」産業優先をむねとしている。
「ほぼ」というのは、消費者庁という「異端」が存在するからである。
これに、資本主義の擁護者「公正取引委員会」がある。
消費者庁ができたのは、2009年のことだから、まだ十年たっていない。

その消費者庁が、日産の燃料不正表示を「景表法」で取り締まり、課徴金をとろうとしたら、産業優先の「総務省」の第三者機関「行政不服審査会」が、厳しすぎるといいだした。
それで、消費者庁が折れた、というはなしである。

「行政不服審査会」の発想は、企業への「公平さ」重視だ。
なんのための、誰のための「不正」だったかにさかのぼれば、自分たちのためであって、消費者のために不正をしたのではない。
その「不正」を「公平さ」で審査する、というから、どうかしている。

企業論理が優先されると、消費者がきらって買わなくなることもある。
産業泰明期のむかしや、ソ連圏なら、一品種一社しかないので、消費者は選択ができなかった。
それで、競争がうまれるか、競争を否定した経済圏では、物がなくなった。
だから、公正取引委員会が、資本主義の擁護者となる。

それを、商品「表示」という分野で見張っているのが消費者庁だ。
どんな事情が企業側にあっても、消費者が「不正な表示」をみて購入したなら、それは「不公正」なことである。
「行政不服審査会」のメンバーは、自分で買い物をしたことがないひとたちではないか?

企業には「厳しすぎる」けれども、それを克服してこその企業活動であって、それこそが「競争」に勝つための原動力ではないか?
もはやとっくに、外国企業との競争をしているのに、国内だけで解決できるとかんがえるのは噴飯物である。
これを「時代錯誤」というのだ。

さいきんのホリエモンこと堀江貴文氏の発言に、「日本政府に税金払うよりアマゾンに払ったほうが生活豊かになる」とあったが、まさにそのとおり。
日本国政府の税収と、日本国民の生活感が乖離している。

政府の税収がふえても、日本国民が豊かさを実感することができないのは、すべてに「公平さ」を追求しようとする、官僚の思考、そのものが原因だ。
ソ連の官僚の努力が、そのまま日本官僚の努力になっている。
「平成時代」とは、ソ連型経済を維持し、崩壊へとすすむ道筋を確固とさせた時代である。

アマゾンが日本国に税金を支払わないことは、もはや国民にとって重要ではなくなった。
むしろ、アマゾンが米国本国や日本以外の国でおこなっているサービスが、わが国のさまざまな規制(もちろん既得権益)にさまたげられて、実行されないことが、日本人を不幸にしている。

たとえば、書籍販売というかれらの「本業」から派生した、電子書籍のダウンロードに「家族登録」が日本ではできない。
実物の書籍であれば、一家で回し読み、はあたりまえなのに、電子媒体となるとそれが規制されるのは、まったく消費者の事情からは不公平である。

友人との本の貸し借りも電子書籍ではできない。
しかし、期限を設けるとか、貸し出したらデータも移転するなりして、貸した側の閲覧ができなくなるなどの「電子的処置」が可能であれば、本物の本なら返却されないというリスクも、電子版ならないだろうから、便利このうえないはずだ。

出版不況の深刻さは、著作権が保護されすぎている、ということにも原因があるのではないか?
「本を読む習慣」すらうしなえば、販売という問題だけではすまされない。
その道の利権擁護に官僚ががんばると、きしんでしまう典型だ。
著作権益はちいさなお金ではないが、もっと大きなお金をうむはなしを自ら放棄していないか?

口では「電子立国」とか、「観光立国」とか、かっこいいことをいうが、実態は「既得権益『保護』」ということしかしないから、いつまでたっても経済はよくならない。
データをはやく転送できる技術「だけ」をもって「電子立国」というから、メモリー事業で失敗するのだ。

この国からデータのつかいかた、利用方法に画期がうせたのは、消費者優先という思想の欠如があまりにもおおきい。
すべての産品は、最終的に消費者が消費する、というあたりまえを忘れたすがただ。

「産業優先」こそが元凶であると、野党に期待したいが、かれらの面々を想像するだに希望がなくなる。
あと数日の今年にはムリでも、せめて来年は話題にだけでもなってほしいものである。

年末の山梨県で世の末をみる

「停滞から前進」と大書してある幟旗が、県境をこえてから目についた。
場所によっては、お祭りの「祭礼」のちょうちんのようにバタバタと連続してならんではためいているから、何事かとおもった。
とうとうやるべき公共事業のアイデアがつきて、旗屋に大量の注文がはいったのかといぶかった。
産業連関的に、いかなる経済効果が計算できるのだろうか?と。

調べてみたら、山梨県知事選が来年1月に告示されるので、すでに事実上の選挙戦に突入しているのだという。
わたしの住む神奈川県は、太陽光発電を一大推進すると公約して当選した知事が、選挙中にも指摘されていた「財源は?」の問いに、当選後「無い袖は振れぬ」とあっさり撤回して呆れたものだったが、なんと「再選」もされたから、一般市民の感覚とはちがうひとたちがたくさんいるとしかおもえない。

他県のことだから、どうぞお好きなひとをお選びください、というのが筋ではあろうが、便利なネットでの記事で、あんがい他県だから関係ないとはいえないことを主張されている。
それは、元職の衆議院議員であった与党の候補者が、まさに人脈を駆使して、我こそが国の予算を県に引っ張る、と意気込んでいるのである。

国の予算は、枠が決まっている。
だから、これは「ゼロサム」であるから、だれかが多くを得れば、だれかの分がすくなくなる。
「分捕り合戦」といえばそのとおり。
さすがは戦国武将を産んだ土地柄だ。
つまり、他県のわたしにも影響する「公約」なのである。

このような主張が、新しいのか古いのかは別にして、頼るべきは国家のカネしかない、と思い詰めているところに何ともいえない悲壮感が、武田家滅亡とかさなる。
「国家依存」を前面に政策公約としているから、より悲劇的である。

政権が鳴り物入りではじめた各種「官民ファンド」のおおくが行き詰まっていて、ついこのあいだも「2兆円の巨大資金をもつ」組織が、空中分解してしまったのは、まさに、国家や官僚という役人には「不適」ということの、教科書通りの事例になったのだが、そんなことは「関係なく」、自分が国のカネを持ち込んで、県庁の役人による「公平」な分配をすれば、山梨県はうまくいく、と発想している。

人口で島根県にまさる山梨県が、金額で50億円もすくないカネしか国からもらっていないから、山梨県民は「損をしている」というのは、神奈川県民のわたしには、失礼だが盗賊以下の「乞食」にみえる。
聴衆に卑しい感情をうめこんで、島根を恨めとせまる、たんなる「アジ演説」ではないか?

「甲州商人」といえば、近代日本の産業界にあっては「重鎮」としての位置にあった。
鉄道や百貨店などの創業者に名を残している。
しかし、不思議と彼らは、地元に産業を産まなかった。
それは、なぜかの探求が、山梨の貧しさ、だけに終始した、浅い認識ではないのか?

明治の甲州商人の成功は、明治という時代が背景にあることが軽視されているとかんがえるからだ。
とてつもなく貧しかった時代に、とてつもない成功をおさめた理由だ。
それは、本人の商才だけでなく、自由な活動を基盤としているのである。
だから、いまの甲州商人は、いまという時代から活動そのものを再構築しなければならない。
これは、場所をとわない、どこでもおなじことだ。

すると、国のカネを得ればうまくいく、という「官」の発想ではけっしてうまくいかないことがわかる。
むしろ、ヒントは「制度」にこそあるのではないか?

この国の不思議な制度に「経済特区」というものがある。
言い出しっぺは、「トウ小平」すなわち、中国共産党のトップがやった方策を、日本に輸入したものだ。
つまり、この国の統制は、共産政権下のものとおなじだから、改革の手段として「全国均一な統制の『例外』」である「特区」が有効になる。

なんのことはない、我が国の制度から独立した「自由『圏』」を「自由『県』」にすればよい。
霞ヶ関からの統制をはずせば、たちまちに「前進」するにちがいない。
ここに発想がいかないことが、与党をして悲壮感をまき散らす原因だ。

まずは、金融。
首都圏からすら東京23区周辺に流入している若者を、逆流させるには、起業のための資金提供がなければならない。
カネを持っているはずのない若い起業家に、不動産担保をもとめる金融庁から切り離す。
誘致すべきは、「事業の目利き」ができる人材で、日本の銀行では育成の方法がないから、外国の銀行家である。

しかし、金融庁の支配がなくなれば、山梨県内の金融機関が、わざわざ県庁の役人に命じられることもなく、外国の銀行家(日本人でも)を雇用すれば儲かることに気づくから、心配しなくてよい。
おとなりの静岡でやった銀行の不祥事など、起こりようがないのだ。

「停滞から前進」したいなら、このくらいのことをいってほしいものだ。
このままなら、「停滞から衰退」するのは確実であろう。
それは、もうとっくに全国の自治体が国のカネを狙っているからで、なにもこの人物「だけ」の特殊能力ではあるまい。
それを「特殊能力」だと、与党が挙げて主張するから、「世の末」なのである。

かつて、地方交付税を「受け取らない」ことが、地域の自慢であった。
もはや、乞食の精神が国民精神になってしまった。

飢えたタコはおのれの脚を喰らって生きのびようとするが、そうなったら「おしまい」なのである。

難問は先送りする

受験問題のテクニックではなく、現実社会のことになると、みごとに社会「停滞」の原因となってくる。
ただし、その難問を誰が解くべきか?というべつの難問も用意されるものだから、二重にからみあった難問になるという特徴もある。

国が解決すべき難問なのか?、自分たちが解決すべき難問なのか?
民主的な社会では、まずは自分たちが解決すべきことという認識が、社会の共通かつ基盤の認識になっている。
だから、自分たちで積極的な議論をおこなうのが常である。

そうでない社会では、自分たちには関係なく、解くべきは国(他人)であると思考する。
旧ソ連がその典型で、それはまた支配者(党)がかんがえて命じる、という体制であったから、個人がなにかをかんがえて行動することは、逆に許されなかった。
結局のところ、これが原因でソ連は消滅したが、その後のロシアの停滞も、国民が自分たちで解決するという認識をもちにくい、こんどはマフィア社会におちてしまったことにある。

ソ連崩壊の10年前に、なぜ、どのようにしてソ連が崩壊するかを、論理で預言し、じっさいの歴史がその論理のとおりになった、おそるべき分析が、天才小室直樹の『ソビエト帝国の崩壊』であった。

それで、どんな想いでロシアのひとが生きているかを描いた、といったほうがよさそうな映画『オーケストラ』での「生活」表現が興味をひく。

そんなロシアでは、国を崩壊にみちびいたとして、ゴルバチョフ元共産党書記長・初代にして最後のソ連大統領の人気はいまだに最低で、東京にくれば地下鉄を愛用するほどの「凋落」ともいわれているが、真の共産主義者ならそれこそが理想的なのかもしれない。

じっさいに、かれに書記長の「順番」がまわってきたとき、いったいどうやればうまくいったのか?
残念だが、だれもこたえをしらない難問だ。

直接選挙でえらばれた最初の大統領、エリツィンは、自由化さえすればうまくいくと信じたし、アメリカから大挙してやってきた経済顧問団が「指導」したが、ぜんぜんうまくいかず、国営企業の私物化からはじまるマフィア経済が主流の国になった。
国民がなんと、「自由」をしらなかったし、自由があたりまえのアメリカ人たちも、「自由化」の方法をしらなかった。

日露戦争でロシア革命をてつだったわが国は、情報戦のはずだったが、大正デモクラシーで、革命思想がたっぷり流入し、世界大恐慌とそれにつづく昭和恐慌で、スターリンの五ヵ年計画の成功(ほんとうはウソだった)に刺戟され、これをまねればうまくいくと信じた。
市井の社会主義・共産主義者は弾圧されたが、国家中枢の社会主義は推進された。
それがとうとう、「企画院事件」として世人を驚嘆させたのだった。

そんなわけで、わが国は「世界でもっとも成功した社会主義・統制経済体制モデル」になった。
わが国官僚を育てるための教育は、小学校からはじまり、大学受験でピークをむかえる。
だから、官吏養成校としての「大学」(旧帝大)には予算がつくが、それ以外の大学は重視されない。
「緻密」な日本官僚は世界最強で、荒っぽいロシア人や中国人にはまねができない。

しかし、官僚体制の弱点は、組織防衛、という一点にある。
とにかくいつまでも、いい子でいたい。
それで、外部からの批判に敏感になって、組織を維持するためなら、なりふり構わない。
こうして、国民のために存在するという目的合理性を完全喪失しても、痛くもかゆくもない精神がきたえられるのだ。

それが官民ファンドの不祥事になったりするのだが、これは被害がみえにくい。
これから、民間企業がひどいめにあうだろうと想像できるのは、障がい者雇用にかんする「官」の「不正批判」からみをまもるため、自分たちがよければそれでよい、とする軽度障がい者の争奪だろう。
正確とはおもえないが、その数、8,000人という。

すなわち、民間企業に勤めるひとをその会社から剥がして、「公務員」という身分をあたえる。
こうして、官がインチキした「雇用義務」を糊塗するにちがいない。
たとえ「軽度」でも、障がい者を雇用したことがない「官」は、厚顔無恥にも「民間の知恵」と称して、子飼いのボランティア団体とかに、はたらきやすい職場づくりのアドバイスをもとめるだろう。

引き剥がされた民間企業には、「雇用義務」が達成されていないとして、罰則のムチがやってくる。
「軽度」のひとで、職をもとめる数がどのくらいなのか?なんて関係ない。
とにかく、役所勤務にさせればよい。

こうして、触手の対象にならないひとたちが、置いてきぼりをくわされながら、民間の責任に追い込むことになるはずだ。

おそロシヤ、おそロシヤ。

愛社精神はあるのだけれど

ひとの精神がおちつくのは,「帰属意識」があるときで,なかでも自分が「役に立っている」と自覚できると,おおきな満足感をえるようになっている.
これは、太古のむかしからの集団生活で,狩猟であろうが農耕であろうが,グループで行動しないと収穫がすくないことからのDNAがあるのではないか.

それは,犬もおなじで,グループで狩りをして,そのための役割分担がきまっている.
それが,集団内の順位にもなっている.
グループから追放された犬には,死がまっている.
一匹では,狩りができないからだ.

犬と人間の良好な関係は,このあたりの類似にもあるのだとかんがえられている.
ただし,犬には人間にない能力が幸いし,人間は犬以上に高度な能力がそなわっているために,かえって不幸になることがある.
それは,順位にかんする「意識」だ.

犬の世界は,一度順位がきまると一生かわらないほどに厳格なぶん,最下位になっても「精神的負担がない」,つまり,自分のひくい順位をなげくための脳細胞がない.
それに,人間ならピラミッド状の組織をつくるが,犬のばあいは一匹ずつの順位になるから,「同格」という概念がない.すなわち,同じ位置でのライバル意識も出世競争もない.だから,社会的に自分の位置を「恥じる」こともない.

ちなみに,自分の体型としてのおおきさを認識できていないから,小型犬が大型犬にまじってグループを形成しても,それだけで順位がきまることはない.
だから,チワワがセントバーナードの上位になることもありえる.
しつけができていない犬が,自動車やバイクに飛びかかろうとするのは,うごくモノに反応する狩猟本能だというが,自分のおおきさを認識できていない証拠でもある.

そういうわけで,ある意味,犬社会のほうが人間社会より安定していることもある.
しかし,どちらの社会にも共通するのは,トップにいるリーダー次第で,決まる,ということである.
リーダーに不向きな,犬やひとが,リーダーになってしまうと,集団全体が不幸になるのである.

犬と人間のながいつき合いで,「家庭犬=愛玩犬」というジャンルがうまれたのは最近のことで,犬は人間にとっての「使役犬」であった.
猟犬はもちろん,それから派生したのが軍用犬や警察犬,そして,番犬である.
なので,動物行動学における「犬」の研究とその成果は,いかに使役犬として「使える」犬にするか?であって,「愛玩」目的ではなかった.

それで,愛玩目的のしつけ方法をどうすればいいのか?という問題解決には,犬とは何者なのか?をあらためてかんがえる必要がでてきた.
つまり,犬の習性をしらずして,犬を愛玩犬に仕立てることはできないというわけだ.

「日本人は総じて貧しい.だが彼らは高貴である」といったのは,日露戦争前に東京に駐在したフランス人外交官のことばである.
それから百年あまりが経過して,「日本人は総じて豊かである.だが彼らは卑しい」になったいま,わたしたちは何者なのか?をかんがえるひつようにせまられた.

それで,百田尚樹『日本国紀』が大ヒットしているのだろう.

すこし前には,西尾幹二『国民の歴史』が,百田氏の執筆動機と似て書かれている.

対して,左派からは,アンチ本が出版された.
左派ががんばった時代があった.
しかし,彼らこそ「戦後的『保守』」なのだ.
執筆陣の名前は,ちゃんと覚えておきたい.

対して,もう一冊,解説がでている.

そこで,皇国史観の大権威,平泉澄『物語日本史』は,ちょっとまえの近代日本人が常識としてしっていた「日本史」として一読の価値があるし,「戦後的保守」がなにを問題として主張したいのか?の原点にもなる.
皇国史観をしらずに,皇国史観を批判してもはじまらない.

  

これらをふまえての「議論」として,本ブログでも紹介した,小室直樹・山本七平の傑作対談『日本教の社会学』は,その奥深さをもって,いまではかなうはずもない続編を読みたかったものである.

るる書籍の紹介をしたが,せめてこれらの図書をベースに,日本人をかんがえないと,何者かをイメージするのは,犬が自分のからだのおおきさを意識できないと同様に,知っているつもりに落ちてしまう.

「うちの従業員はつかえない」という経営者は,従業員からみたら,絶望的な結末にみちびくリーダーと認識されている可能性が高い.
それで,有能で自信がある従業員から退社する.
グループから追放された犬は,生きる術をうしなうが,人間はそうとはかぎらない.

「うちの従業員はつかえない」という経営者のもとではたらく従業員が,愛社精神すらない,と決めつけることもまちがっている.
「愛社精神はあるのだけれど」,に,「社長がね」や経営幹部がつくことがおおい.

それは,従業員が会社になにをしにきているのか?の本質,すなわち「稼ぎにきている」ことを意味する.
従業員は,社長がいう「効率的に」,「稼ぎたい」のだ.

「この会社は『効率的に稼げない』」という理由を,ちゃんとリーダーへの不安と不信として意識しているのである.
「働きかた」よりも,「働かせかた」が下手すぎる.

そういうわけで,日本人従業員の理解とて,一律でかんたんなことではない時代に,「安価」に期待しただけで,どこの国かを意識もせずに外国人労働者を雇用するのは「安易」だと気がつかないと,リーダーの資質を日本人以上に冷静に評価して,これをもって「要求行動」にでるのを弾圧すれば,いったいどういうことになるかを想像すればよい.

国際的なため息の国になる.
けれども,それが,ため息だけですめばラッキーだろう.
あたらしい「打ち壊し」という暴動が頻発するようになるともかぎらない.

いい会社をつくりましょう!

さくら・開花の準備中

すっかり葉が落ちて、枝と幹だけになってそびえる桜だが、よくみると、花芽はもうとっくにつけている。

よくみる、という行為をしないとわからない。

ぼんやりと眺めることは、全体をつかむときに有効で、景色の写真を撮るときには、カメラを無限大にしたものだ。
だから、ある対象を際立たせたいときは、それにピントをあわせて周辺をボカすと、いっそう目立たせるごとができる。

これは、遠景でも超近接のばあいでもおなじだ。
人間の情報処理能力にかかわるのだろう。

対象がたくさんあると、ひとは選択できなくなる。
マーケティングでも、有名な理論だ。
だから、おなじような商品をばく然と並べてはいけない。
消費者は選択できなくなって、しまいに購買行為そのものをやめてしまうのだ。

これは「売れない」理由のひとつだが,べつの理由をかんがえる店主がいる.
それは,「商品に魅力がない」のだときめつけるのである.
陳列方法がわるい=じぶんがわるい,とはかんがえない.
だから,いつまでも「売れない」のだ.

さて、ビジネスの世界では、「なにがあっても結果がすべて」とよくいわれている。
経営トップのよくある従業員を整列させての挨拶で、どの会社でもあるから定番になっているほどだ。
しかし、このことばには、どこかいかがわしい匂いを感じる。

ひょっとして、こういうことをわかったような顔をして演説できるひとは、それまでのビジネス人生でほんとうに「結果」を出した経験があるのだろうか?と。

もちろん、なんらかの評価が同期入社のなかですぐれていると、その上の世代のトップが判断しないと、昇進できないのが日本の会社ではある。
しかし,それがなんだかはよくわからない.
本人もよくわからないだろうけど,昇進するのだから自分に問題ないとかんがえるのはふつうだ.

だから、それがなんだったのかは、ある意味公表されていい。
そうでもしないと、とんでもない人物が、とんでもない理由で選ばれてしまうかもしれないとおもうほど、この国のあらゆる組織におけるガバナンスがゆるんでいるようにおもえる。

実務で、結果を出すためのしくみづくりに苦労したひとなら、いきなり「結果がすべて」とはいえない。
むしろ、準備こそ重要だとかんがるはずである。
この「準備」のことをふつう「プロセス」という。

いい結果を出しつづけるには、ちゃんとした準備が不可欠なのだ。

そのことを、真冬の桜が教えてくれている。

「信頼」を生産する

10年前に購入した,フランスの自動車会社製の「光る電動ソルト・ミル」が,電池の液漏れで動かなくなった.
購入したのは,東京日本橋にある老舗の刃物店である.
それで,修理を依頼した.

できたと連絡があって,引き取りにいくと,あたらしい電池だけでなく岩塩もたっぷりはいって返納された.
修理代金は,無料だった.

店は輸入代理店のはずだが,「これだ!」とおもう.
じぶんたちが目利きしたものに,徹底的な責任を負う.
だれがつくったものであるとか,どこから仕入れたかは関係ない.
目利きの結果で販売したら,その商品のその後はじぶんの店の沽券にかかわることになる.

たんに「アフターサービス」とか「アフターケア」といいたくない.
店の存在理由にまでいたる「かんがえ方」をしっかりと感じるからだ.
こんな店は,むかしならふつうだったのだろう.
だから消費者は,ふつうが失われているのに,便利になった,と勘違いしている.

それは,使い捨ての正当化にはじまる.
けれども,金額にすれば数百円のものならまだしも,万円単位となればそうもいかない.
ましてや,たかがソルトミルなのだが,これに万円単位を払ってしまったら,やっぱりすぐに棄てる気にならない.

そもそも,万円単位のソルトミルを売っていることからはなしがはじまる.
それを,老舗がしっかり品質保証しているのだ.
だから,刃物でちゃんとしたものが欲しかったら,かならずこの店ときめている.
たかだか千円の爪切りだって,ここで買う.
なんと,切れなくなったら,ちゃんと研ぎなおしをしてくれる.

そうすると,研ぐことを仕事にしている職人の仕事になる.
だから,ちゃんとした職人を残したいなら,ちゃんとした製品をつかわなければならない.
ちゃんとした職人がつくった,ちゃんとした製品は,ちゃんと修理をしてもらえるからだ.

そんなことがあったら,やはり10年ほど前に買ったツイードのジャケットがほつれてしまった.
これは,亡くなった伯母から,「あんたも不惑を越えて横浜にくらしているなら,元町の◯◯のジャケットぐらい着なさい」といわれて買いにいったものだ.

その日は珍しく小雪が舞うほどの雲行きだったから,商店街を行き来するひと影もまばらだったが,目的の店にはいるなりいきなり,「いらっしゃいませ,ジャケットですね」といわれた.
店主がジャケットのコーナーに行くのと,わたしが上着を脱ぎながらそちらにむかうのと,ほぼ同時に,店主がわたしの体型を一瞥して,一着をとりだした.

そして,上着を脱いだばかりのわたしに,それを着せてくれると,ぴったりだった.
「お似合いですよ」
この一言で,「これください」.
ものの一分もしない買い物だった.値段はみていない.

それで,精算しながら手入れ方法も説明してくれた.
「わたしどものオリジナルですから,一生ものです」

この言葉をおもいだして,お店に持ちこむと,「かけはぎ屋さん」を紹介してくれたのだが,近所だからとご主人が同行してくれた.
それは,県内でも有名な職人の店で,おおくのクリーニング店や洋服リペアの専門店も,じつはここに依頼しているという.

「うちの店でお預かりしてもいいのですが,手数料がバカバカしいですよ.こんなに近所なので」と.
できあがりは,どこがほつれていたのかわからないものだった.

この洋服屋さんも老舗の刃物屋さんとおなじなのだ.
じぶんの店は,ただものを売っている「だけ」ではない.
商品を生産せずに,右から左へうごかせば売上にはなる.
そんな店ばかりがふえたように感じるが,かれらはものはつくらないが,じつは「信頼を生産」しているのだ.

それは,外国車の輸入専門会社とおなじではないか.
「クルマはつくらない,クルマのある人生をつくっている」

旅館やホテルは,なにをつくっているのか?
しみじみかんがえる年末閑散期である.

お正月準備の,ことしさいごのチャンスの時期ではなかろうか?

「技術の日産」と「技術の東芝」

どちらも経営が傾いてしまったが,どちらもそのむかしに経営が傾いたことがある.

日産は,プリンス自動車とダットサンが合併してできた会社で,トヨタとのライバル関係でしられているが,一方がなんとなく「阪神球団」,もう一方が「巨人軍」にみえてしまうのは,わたしだけだろうか?
その天下のトヨタ自動車の経営が傾いたときのはなしに,本所次郎の『小説日銀管理』がある.

この「小説」のラストがただしければ,日産には陰影的なDNAが最初から埋めこまれていたのかもしれない.
しかし,さいきん日産OBからきいて驚いたのが,このブログで紹介した,トヨタが世界的権威にまでなっている「TWI研修」を,日産が導入したのがこの15年だということだ.

つまり,今世紀に入ってからであって,いま話題のゴーン氏が社長に就任したのが1999年だから,ゴーン体制下における「研修開始」になることは注目にあたいする.
いったい,それまでどうやって現場責任者を育成してきたのだろうか?
しかしそれよりも,日産が事実上の倒産状態でルノーと提携したのだから,推して知るべしだ.

すると,一番若くてこの研修を受けたのは,大学を卒業してすぐのひとで30代後半,高校卒業のひとなら30代半ばになるから,ほんとうはもうちょっと年配者であるのが実態だろう.
そうなると,企業として現在の幹部が,現場管理者時代に現役として「TWI研修」を受けていないことになる.

それは、これも以前書いたが,ガルブレイスの『新しい産業国家』(1968年)にある,企業内「テクノストラクチャー」と名づけている,社員たちによる経営の簒奪メカニズムがうかぶ.

 

上記,文庫版は斎藤誠一郎教授による新訳だ.
河出書房の邦語訳初版は,ガルブレイスとハーバードで同級生だった都留重人訳である.
社会主義に傾倒していたこのふたりは,主流派からズレていたから仲がよかった.
バリバリ資本主義のアメリカで,ガルブレイスは「異端」だったが,都留は日本経済学界の大御所になった.その理由も,推して知るべし,である.

なんとなく,日産の「連続不正事件」の根っこがわかるではないか?

かつて経営が傾いたときの東芝には,土光敏夫という救世主が出現した.
もともと土光は大正9年に石川島造船所に就職したひとだ.それで,戦後,昭和29年には「造船疑獄」で逮捕・拘留されたが,けっきょくは不起訴になった.

逮捕されようが起訴されようが,「無罪」が確定するまでは「容疑者」であって,それには「推定無罪」という法理がある.
ゴーン氏の一件で,これを公に発言したのは,堀江貴文氏のツイッターしかみていない.
本件に関しては,かれのいうとおりだとおもう.

土光社長時代,東芝幹部は「怒号さん」というほどに怒鳴られたというが,こぞって「信奉者」になった.
第二次臨調会長になったとき,NHKが放送した「めざしの土光さん」が,あまりにも衝撃的だった.

ひとびとは財界トップのあまりも質素な暮らしぶりに,驚愕したが,一方で「じぶんにはできない」と,他人事でもあった.
国家財政の均衡をなんとか達成しようと老骨に鞭打つ奮闘をしたが,国民は政府の肥大化を許容した.それは,「年金よこせ」の声でもある「国家依存」の姿だ.

臨調で最後の御奉公をしたとき,土光敏夫氏は東芝「会長」になっていて,現役の経営から引いていた.いや,「臨調」の多忙がそうさせたというべきか.
残念だが,さいきんの「東芝事件」に関係したとされる歴代トップたちは,土光氏引退後の入社組なのだ.
かくも,企業DNAとは脆弱なものなのだ.

かつて東芝が倒産寸前になったのは,世界最高峰の真空管「技術」にこだわって,トランジスター時代に遅れたことが指摘されている.
はじめてカラーテレビをつくったとき,カラー放送でのCMを社内プレゼンしたら,土光氏は例の怒号で,白黒テレビで観たひとがカラーテレビをほしくなるCMにしろ,といったという.
当時は,新聞のテレビ欄でも,カラー放送は特別に「カラー」とか総天然色を略して「総色」などと表記していた.

顧客はなにを買っているのか?
組織が自己満足にはしると,自分たちの「自慢」をしたがる.
しかし,顧客はそんな「自慢」を買っているのではない.
その後のトヨタや,土光氏のエピソードはそれをおしえてくれる.

しかし,テクノストラクチャーたちはがまんできなくなるのだろう.
つい,うっかり,じぶんたちの宣伝をすれば,顧客は納得すると勘違いする.
それがこのばあい「技術」である.
それは,上から目線で顧客を見下す,という意味でもある.

かつてのソニーは,「It’s a SONY」とはいったが,技術のソニー,とはいわなかった.
「マネした電器」と揶揄されようが,松下電器は「あかるいナショナル」で一貫していた.
東芝も「ひかる東芝」だったのだ.

90年代,経営が苦しいときに「技術の日産」といっていた.それで,ルノー傘下になったらこれを変えたが,さいきん復活した.
それをどうしたことかとブログに書いたのは,昨年の10月30日,このブログの最初の記事だった.

顧客目線を失うと,企業は傾く,という法則がある.

「安全」はリスクである

学問的成果の有無という観点でいえば,「地震予知」における成果はほとんどない.
けれども,わが国は世界有数の地震国である,という不思議な「自負」もあって,「地震」にかんする研究には多額の予算が投じられている.

なかでも,「予知」に関しては,ずば抜けた「投資」をしている.
文部科学省のHPに,いちおうの資料がある.
自分たちで管轄していることに変わりはなく,つねに御殿女中のような細やかさでイビりを趣味嗜好とする役所が,国立大学が独立行政法人になったからといって,資料がない,と主張する神経に自ら異常をかんじない異常に,かえって「感心」すらしてしまう.
この資料は,何のために誰のために,という目的すらマヒしたことを国民にしめしたいのだろう.

そんな日本政府における権力構造を支えるのは,なんといってもカネ=予算だから,旧大蔵省=現財務省の主計局が最強といわれている.
しかし,予算を使うにあたっての最強の役所は,あんがい目立たない「内閣府」である.
「縦割り行政」を横につなぐのがここだからだ.

小松左京の傑作『日本沈没』では,「スーパー官僚」の主人公が所属するのは総理府だったが,『シン・ゴジラ』では,内閣府に看板をかえている.
ただし,この役所も,各省庁出身者からの寄せ集め的性格も内包している.
就職して最初に配属になった省庁が,各個の「本籍」になる.これは,一生かわらない.
それで,本籍とは別の役所に勤務することを「出向」とよんでいる.
だから,内閣府に本籍がある役人は,すごい,のだ.

 

そんなすごい役所が取り仕切るなかに,「中央防災会議」がある.
ここが,昨日「南海トラフ地震」における住民・企業・自治体がとる「べき」対応を発表した.
情報の中身は,それぞれが確認されたい.

この報道のなかで,中部地方の地図がしめされて,海ではなく内陸部の境界線に注目すると,それが「中央構造線」であることに気づくだろう.
本州を東西に分断するのが静岡・糸魚川線上の「フォッサマグナ」がしられているが,サカナの背骨のように,本州から四国・九州の地面を分断しているのが中央構造線である.

山梨県から愛知県にいたるラインは,ほぼ「中央高速道路」がこの線の真上に建設されている.
だから,理論どおりなら,「中央高速道路」はかなりあぶない.
なぜそんなところに道路をつくったのかの理由はかんたんで,「谷」をなしているからだ.
あとは,山ばかり.
人間が移動につかうための路は,太古から地形に支配されている.

さて,中央防災会議の議論も,地震予知の研究に多額の予算がつくのも,地震がおきたときの被害が大きいからである.
この発生するだろう被害を想定することは,リスク評価,といいかえることができる.
それで,地震は避けられないリスクであるから,予知できたら発生前に逃げることでリスクを減らそうという発想がある.

だから,予知できないとなんにもならない.

これが,地震予知にかんする批判の根っこで,困ったことに,その予知ができたためしがない.
東日本大震災の余震では,数秒前に携帯が警報ブザー音をだしたが,それでどうしろというのか?
家庭犬がこの音に反応して,恐怖するようにはなった.
犬の記憶力はせいぜい5分ばかりだから,音がして数秒後にくる揺れ,ということが学習できた.
だから,しつけにこまっている飼い主は,このことを応用すれば,犬のしつけができる.

こうして,できない予知に予算を投じるのはおかしい,という議論になるのは,費用対効果,ということになる.
ここでいう「効果」とは,「効用」ということだが,ひらたくいえば「メリット」すなわち「得」である.

つまり,費用という「損」と,メリットという「得」を天秤にかけることとおなじだ.
いつくるかわからない地震というリスクで,得になる,とはどういうことか?
第一には,生存,であろう.
すると,生存のためには,どんな準備が必要なのか?になるから,そのための準備が費用(コスト)になる.

裏返せば,費用をかけないことは準備をしないことだから,生存しなくてもいい,という意味にもなる.
これが,個人の生活なら,各人の判断があるけれど,近所に迷惑がかかる.

商売人なら,近所迷惑だけではすまない,賠償問題までかんがえられる.
だから,最低でもお客様の安全,従業員の安全は,コストをかけなければならないのだが,これは,「得」のためである.
すると,リスクには,得がひそんでいることがわかる.

宿泊業のリスクは,地震で建物が崩壊することからはじまって,火災,食中毒,温泉ガス,などなど,たくさんあるのだが,これらの対応準備にひつようなコストをかけることが,得になるのだ.
つまり,利益をかんがえたとき,利益率とはリスクを飲み込んだうえでの数字という意味になる.

だから,利益計画とは,リスクの評価を必須にするのだ.