終身雇用は強化されている

「日本独特」の働きかた,といえば「年功序列」と「終身雇用」がいわれてきたが,これに「企業内労働組合」をわすれてはいけない.
しかし,これら三つ「だけ」が,「日本独特」というものではない.

そもそも,「独特」というかぎり,それは「標準」との比較において,ということであるから,その「標準」をしらないと,はなしが「独特」になってしまう.
「標準」の働きかたは,やっぱり「欧米」ということになるが,「欧」はすでにややこしいので「米」にしぼるのがよいだろう.

しかし,「欧米」共通はまだあって,それは「労働市場」の存在をいう.
「日本独特」に,労働市場が存在しないことを昨年書いた
これは、かなり根本的に重要で,決定的なことなのであるが,専門家の指摘があまりないから不思議におもう.

しかし,国内の専門家は,「ないこと」を前提に,いろいろかんがえているのだとおもえば納得できる.
残念だが,いまさらここまでくると,「ない」ことが日本社会でふつうになっているから,それをボヤいてもせんないことだとして,一般に向かって指摘することすら退化したのだとかんがえるしかない.

けれども,わたしたちは「ないこと」をしらないままでは,なにがなんだかわからなくなることもある.
だから,「ないこと」を,まずしっていることが必要だ.

欧米で「労働市場」とは,労働者が自分の労働力を売っている,というかんがえを個々人が意識していて,その労働力を,経営者は適正価格で買っている,というかんがえをちゃんと意識しているということを前提にしている.
だから,なんとなく雇われているというひとはいない.

そして,労働を売る側の労働者は,自分で自分の労働の価値を計る方法をしっていて,経営者は,自分が欲しい労働力の質と価格を提示できて,これらの双方の情報が合致したときに,労働契約が結ばれることを「労働市場」という.

だから,おなじ労働力を提供しているのに,定年して雇用延長,という「だけ」のことで,年収が半減する,ということはありえない.
それに,年齢によらない業務の質であれば,そもそも同じ給与でも年齢によってことなるということもない.

たとえば,チェーン化された飲食店などでよくみかける募集ポスターに,初心者でも,「高校生」と「おとな」というだけで時給のちがいがあるのは変だ.もちろん,日本では若い高校生のほうが「安価」だが,仕事をはやくおぼえるという点からしたら,高校生のほうが「高価」なのではないか?ともおもえる.

したがって,経営者からみれば要求する業務の「完遂度」が,給与差になるのは当然だから,どうやってそれを計測するのかが,マネジメント上のテーマになる.
そこで,現場責任者にそれを業務として実行させるのが,経営者の役割になる.

すると,現場責任者は従業員の「業務完遂度」を測る方法をもっていなければならず,それを使えなければならない.
そして,複数店舗や複数の職場があれば,それぞれの現場責任者は,おなじ基準で評価できなければ不公平になってしまう.

だから,経営者は,公平に業務完遂度を測る方法を,現場責任者に提供して,公平さが担保されるよう訓練しなければならないのだ.
わが国では,あんがい,これをちゃんとやっている組織はすくないのは,労働市場がないからである.
欧米では,これができないと部下から突き上げられるし,人材が流出してしまうか応募がなくなる.

いい悪いという議論ではなく,こうなっている,ということでいえば,さらに,将来の経営者層になるひとには,就職の段階でその技能が問われ,それをもって本人のキャリア形成が計画される.
だから,現場責任者レベルにとどまる人は,自社の条件に不満があれば,べつの企業に転職して現場責任者をつとめるという人生になる.

一方で,経営者候補層も経営者もおなじだから,腰をすえた経営者は,転職されないための経営を強いられるし,場合によっては,同僚の転職をすすめることもある.
このことは、身分社会を予想させるものだが,労働市場がないわが国では,「学歴」があたらしい身分社会を形成したから,どちらにも身分社会は生まれるものだ.

こうした動きが,日本にないのは,労働市場がない,ことが大きな要因になっている.
もちろん,この「ないこと」が,もはや「日本文化」のレベルにまでなっているから,その他の文化と結びついて,もはや労働市場がないことを憂いてもしかたがなかった.

しかし,年金支給という別の社会条件から,「定年」そのものの延長が「法的」に検討されるようになってきたから,日本人の人生の老齢時代における「労働」が,強制力をもってもとめられてきている.

さらに,外国人労働力の「輸入」が本格的にはじまるという事態になって,どうやって労働市場が「ある」ひとたちに,「ない」ことを理解させるのか?
まちがいなく,「文化摩擦」になるのは,火を見るよりあきらかだ.
むしろ,すでに現状でも外国人労働者がたいそういて,日本人経営者による奴隷労働的なあつかいが問題になっている.

そして、10年期限だというけれど,そうはいかないのが外国人も「人間」だからで,人生の幸福追求の権利を剥奪することはできない.

すると,これまで存在しなかった,「労働市場」と「終身雇用強化」ということに,あらたに外国人という変数がくわわって,ノーコントロールになってしまう懸念がある.なぜなら,その外国人が「何人なのか?」ということが予想もつかないからである.
つまり,日本人と外国人という二項対立ではなく,日本人といろんな国のひとたち,になるからだ.

さすれば,いろんな国のひとたちだけで,企業内組合を結成するかもしれない.
もしかしたら,外国のスタンダードのように,職業別の組合になることもあるだろう.

一歩まちがえば「奴隷輸入」という外交問題にもなる.
混沌の時代がはじまることは,もはや避けようがない.

PCを使えないのは悪なのか?

財界歴代トップや国家の大臣が,PCを使えないときびしい批判にさらされている.
「それがどうした?」
とわたしはおもうのだが,読者諸氏にはいかがだろうか?

問題は,組織のトップがトップとしての役割を果たしているか?のほうがはるかに重い.
PCをつかいこなして,すばらしい表計算ソフトの使い手であっても,トップとして判断ができなければ何もしないこととおなじである.
電子メールもしかりだ.

しかも,電子メールであろうが電話であろうが,一歩まちがえば情報漏洩の危険にさらされているのは周知のとおりで,ましてやこれらの情報を積極的に盗もうとする集団が存在するのだから,重要な組織の重要な情報ほど,電子メールや電話の使用は危険である.
ドイツでは,ずいぶんまえにもっとも安全なのは「郵便」であるということになったこともある.

東西冷戦まっさかりのかつて,電子メールなぞおもいもよらない時代の郵便は,危険にさらされていて,デニム製の袋に封緘までする外交文書を運ぶことすら,中身の情報の安全は危うかった.
これらの原始的な方法が,その筋の「職人」の減少と退化から,現代ではかえって安全性がたかまっている.

ところで,その組織の存在理由が現実と合致しなければ,廃止するなりの方向の批判のほうが,よほど役に立つ.
役人は組織の改編まではやるが,失業をともなう廃止は絶対にしない.
そういう意味で,公務員にもスト権をみとめて,そのかわり民間と同様に「会社都合」でも解雇できるようにしたほうがよい.

安易なストライキは,住民からの強い反発をえるだろうし,それで住民が役所へのAI導入を希望するようになれば,世の中はすこしでも変わることだろう.
それに,人口減少下での公務員数の増加は,ありえないので,住民ひとりあたりの公務員数のランキングが今後話題になるはずだ.

役人はむかしからずる賢くて,姑息なことしかかんがえないという特性をもっている.
たとえば,「指定管理者」という制度がある.
いまでは,おおくの公共施設の運営が,これら「民間」の業者が請け負っている.
たとえば,公民館や図書館,体育館などの施設である.

しかし,よくかんがえると,こうした施設は以前,ぜんぶ公務員が働いていた.
それで,前述のように,公務員は解雇されない身分だから,指定管理者によって職場を追われたかつての職員である公務員たちは,どこにいったのか?という問題がある.

ここに,みごとな「パーキンソンの法則」が機能しているとかんたんに予想できる.
このことは、ちょうど一年前に書いたことだ.

あいかわらず,わが国で「パーキンソンの法則」はマイナーな知識だが,社会的常識になっている欧米では,かならず人びとのチェックがはいる項目になっている.

「役人の数は,仕事の量とは関係なくふえる」

しかし,欧米人の発想は,主語に対してもっと厳しい.
「役人の数」を,「企業内」に読み替えることも常識になっているのだ.
つまり,民間であれ企業内の事務官僚の数は,仕事の量とは関係なくふえる,という性質があるから,管理職(マネジャー)としての心得で,そうはさせない努力を経営者から要求されているし,管理職本人の意識も,パーキンソンの法則のようなバカげたことになれば,経費だけがふえて自分たちの給料の原資が減ってしまうと認識している.

それで,わたしも,外資系企業に入社したら,上司からパーキンソンの法則についてのレクチャーを受けて,社内でその傾向を見つけたら,積極的な注意喚起を遠慮なく発するように,と教育された.
もし,自分をふくめた上司が,その注意喚起を無視するようなことがあったら,すぐにコンプライアンス室に訴えてよい,との説明だった.

新卒採用がない会社だったから,日本的中途入社の新入社員しかいないのだが,新たなメンバーには以上の説明をかならずせよ,というのがマニュアル化されていた.
これは,日本企業とあきらかにスタンスがちがう.
「ハラスメント」が中心になっているのが日本企業だが,外資企業がもっとも警戒して自戒の対象にしているのが「パーキンソンの法則」なのである.

そういう目線でみれば,一見,PCなくして仕事が成立しない,という常識もおかしなものだとわかる.

国民から選出された議員が,国民を支配しようとする役人に睨みをきかせ,国民のためになる施策を指示する役割をもっているのにもかかわらず,なにを勘違いしたか,役人と一緒になって国民を縛る役割に権威者のよろこびすら感じているように見えるのは,あきらかに「裏切り行為」なのだが,それが「伝統」になっているのがわが国である.

ちゃんとした視点での批判を,報道機関という公益をになうひとたちに期待したいが,このひとたちがおそろしく「幼稚」だから,おかしな論点ばかりが目にはいる.
彼らは「記事」が商売ネタだから,その記事を買わないという拒否権発動こそが,意志表示になるはずだ.

あたらしい「最高級実務電卓」

2015年に,ほぼ3万円という価格設定の「最高級電卓」が発売された.
メーカーによると「電卓も『嗜好品』に」ということで,じっさいにずいぶん売れているらしい.
だから,部外者が云々するはなしではないのだが,電卓好きとしてコメントしておく.

パソコンなら,エントリーモデルの新品やリース落ちの中古が買える値段で,「電卓」を買うひとはどんな人たちなのだろうかとおもってちょっと調べたら,公認会計士や税理士といった「士業」の人たちは当然として,あんがい高級車のディーラーさんなど,高単価な物品を販売する会社のひとたちが,お客様に「見せる」ために購入しているということがわかった.

わたしも,そういう意味で客前の電卓を買い換えるように指導したことがある.
レジ横に置いて,割り勘計算などをするのにつかう電卓が,数百円のものだったからである.
もちろん,この電卓自体の機能に「否」はないけれど,「卑」があったからだ.
計算結果がおなじでも,あまりにもみすぼらしいものを使っているところを観られれば,お客側もぞんざいな扱いを受けていると感じるかもしれない.そうならこれは「大損」につながってしまう.

ところが,なぜか日本製の電卓は,どれもこれも「ビジネス仕様」のデザインで,おしゃれ感がまるでない.
電卓といえば「いかにも電卓」というデザインに統一されているようだ.
そこで,外国製のちょっとしたデザインの電卓を推薦した.

すると,やはり見ている人はいるもので,お店がおしゃれだと感じてもらえた,と早速の反応があった.
たかだか千円程度で,お客様に「いい印象」を抱いてもらえるなら,安い買い物である.
日本の電卓メーカーのセンスの無さが,外国製の電卓を買わせたのだ.

そうしてかんがえると,表題の「最高級」が,作り手にとっての価値感だとおもえてしまう.
もちろん,使い手のつかい勝手についての評価は高いのだが,あくまでも「ふつうの電卓」としての範囲を超えていない.
「売れている」ということから,否定をするのではなく,べつの概念による「最高級」があたらしく生まれてもいいのではないかとおもうのだ.

たとえば,ビジネスの場面なら,決定的に「ふつうの電卓」に欠けている機能は「年利」のための「べき乗」と「べき乗根」がある.
上述の「最高級電卓」には,「√キー」があるが,これだけでは不満が残るから,関数電卓がもう一台欲しくなる.

電卓メーカーからすれば,ふつうの電卓と関数電卓が売れるからそれでよいかもしれないが,利用者は,ずっと前からこまっている.
これに,「統計機能」がつけば,おおよその実務では間に合うから,かばんに一台いれればじゅうぶんだ.

欲をいえば,モード切替で式の入力ができて,それが電源のオン・オフでも消えないことが望ましい.
わたしにとっては,以上の電卓があたらしい「最高級実務電卓」である.

おそらく,こんなアイデアはとっくにメーカーはかんがえただろう.
しかし,せっかく作っても「売れない」可能性がたかい.
それで,これまで作らないできたから「売っていない」のだ.

なぜ断定できるかというと,おおくのひとが電卓の使い方をしらないし,なによりも,「利率の計算」や「統計計算」の『便利さ』をしらないからである.
だから,たんに四則演算のなかで,えんえんと足し算をして,さいごに割り算をするとか,メモリーどうしで足し算や引き算をする「だけ」で満足している.

そもそも,「√キー」がどうしてあるのかしらないから,使い方もしらないので押したことがない.
せいぜい,「√2」や「√5」などと押して,「ひとよひとよにひとみごろ」とか,「ふじさんろくおーむなく」とかの確認をするくらいかもしれない.

ということは,「教育」が必要だということである.
電卓の利用者を教育して,電卓が便利だと,購入候補者にこころから感じてもらうことなしに,わたしがかんがえる「あたらしい『最高級実務電卓』」は売れない.

わが国の数学教育は,算数教育からして先進国で唯一授業に電卓を「つかわない」ことを守っていることは何度かこのブログでも書いたが,利率の概念がわからなくて社会人生活ができるのか?
むかし,横須賀にいくと「自衛官専門」と大書した融資会社の看板をよく見たが,自衛官の専門教育のなかに「利子」がなかったので,実質「サラ金」にずいぶん借りてこまった人がおおかったと聞く.

統計は中学校からおしえることにはなったけど,おそらく無機質で抽象的なつまらない授業がおこなわれているにちがいない.
日本で統計は「三十年ぶり」のカリキュラム復活だったから,先生たちが「わからない」のである.自分がわからないものを,生徒がわかるようにおしえることは,できっこない.

こんな状態だから,電卓メーカーだけに「教育」を期待しても,普及はきびしい.
ならば,企業内研修でやろう!やるしかない!
のだが,その企業経営者が,研修を削減すべき「コスト」だと認識するようになった.
もちろん,かれら自身も「あたらしい『最高級実務電卓』」を欲しいとおもわない知識しかない可能性がある.

だから,「あたらしい『最高級実務電卓』」の発売と売れ行きは,あんがい社会のバロメーターになるだろう.
そういうわけで,とうぶんこの国で「あたらしい『最高級実務電卓』」が発売されることはない.

「依存」は教育される

教育史という分野がある.
さいきん,「日本国民をつくった教育」(沖田行司,ミネルヴァ書房,2017)という本をみつけた.
げにおそろしきは「教育」である.
子どもを人につくりあげるのだがら,時がたてば時代を築くことになる.

二部構成の本書は,第一部が江戸期を中心としていて,第二部の明治から現代への壮大なる伏線を描いている.
とかく,封建時代で厳しい身分制であったのだからと意識せずにいるが,たんに識字率が当時の世界最高だっことよりも,重大な思想的背景がある.

幕末から明治,明治と第一次大戦後の大正,そして,昭和の戦争と戦後といった時代区分ごとに,教育も変容していく.バブルの絶頂と崩壊からはじまる,平成時代も「ゆとり教育」という歴史がある.

しかして,明治の教育令による学校の誕生と,GHQの指令による今日の学校の姿には,とてつもない継続性と断絶が入り交じっている.しかし,そこにうっすらと江戸の思想がよこたわっているのだ.

本書は当然に子どもを対象にした教育の歴史なのだが,その当時の「社会」との関連がくわしい.それもあたりまえではあるが,社会の要請としての教育だからである.

この本にたどりついたのは,昨今の「まじめなはずの日本人」が連続しておかしているさまざまな不祥事の原因追及をしようとしたのが理由だ.
たとえば,自動車会社による検査不正.
社長が交代してもなお続けていた,ということの「重大さ」の原因である.

わたしは,思想,だという仮説をもっている.
ひとはかんがえる葦であるから,思想から行動がうまれる.
生まれてから経験がない子どもは,思想ではなく行動が先になるが,その結果の善し悪しを体験したり,周辺からの教育によって,徐々に思想が形成されるようになっている.

だから,社会人といわれるおとなは,思想からの行動ができるひとを指す.
年齢はじゅうぶん達しているが,行動がさきになるひとを,ふつう一人前のおとなとはみなさい.それで,たまに年齢に達していないのに思想から立派な行動するひとが出現すると,「天才」というのである.

江戸期には,そんな天才が出てくるからふしぎだった.
幕末でいえば,たとえば,年齢とは逆に亡くなった順で,橋本左内や横井小楠だ.
横井小楠は熊本藩士だったが追われて越前福井の松平春嶽にその才を買われた.
橋本左内は,その福井藩の天才的大秀才だから,この二人は松平春嶽という共通の上司がいた.それで,幕政改革のスタッフにまでなる.

共通点といえば,たいへん興味深い点で,当時の授業風景がある.
伊藤仁斎の古義堂,中江藤樹の藤樹書院,緒方洪庵の適塾,吉田松陰の松下村塾も,個々の机はあるが,黒板に向かっての一斉授業をしてはいない.
むしろ,学生が自主的に学ぶ「ゼミ」形式であって,教師はテーマをあたえてそれを学生自ら議論させる方法をとった.つまり,考えさせて学ぶ,というやりかただ.

他人から教わったことだけでは,けっして本人の血肉にはならない,という教育方針が一貫しており,それがそれぞれの年代がことなる「塾」で,共通のあたりまえだった.
これは,いま,企業の内部研修でもさかんな,ロジカル・シンキングそのものである.

しかし,彼らがもとめた学問の意味がいまとちがう.
それは,人としての正しい生き方の追求だったのだ.
職業に直接役に立つ,専門知識とは別の分野こそが「学問」だった.

明治の教育は,これを富国強兵実現のためという「国家目的」に改造した.
これが,形を変え品を変えて,いまにいたっている.
その本質が「立身出世」のための教育なのだ.

いかに生きるか?から,いかに上手に生きるかになったとき,だれもが国家が用意した教育制度=学制の支配下にはいる.
そして,その制度を支えたのが,学校だった.
だから,どの学校をでたか?によって,人間が評価されることになった.
なにを誰から学んだか?は,意味を失ってしまった.

こうして,人間がつくった「体制」という「制度」に依存することが教育になったのだ.

明治の爆発的経済拡大も,江戸時代の教育があってこそ,という皮肉のうえになりたっている.
企業内研修のありかたも,今後は,江戸を参考にするようになるだろう.

買ってくれたひとがみえない無念

製造業のおおくのひとたちは,自社製品の購入者を直接みることができない.
自社と購入者とのあいだに,流通業である商社や問屋が介在して,最後は小売店にいくからだ.
これは、すこしまえの自動車会社もおなじで,製造する「メーカー」と販売する「ディーラー」が別個の会社だったことからもわかる.

それで,おおくの製造業は「展示会」を開催して,消費者に直接アピールしたり,「モニター」をつのって,試作品のつかい勝手や評価を依頼して,最終的に「商品」とするかを決める.
これらの行動や活動には,多額の資金を要するのは,だれにでも想像がつく.
いいかえれば,製造業は,顧客へのアプローチにたいへんな「カネ」をかけているのだ.

ネット社会がこれを変えつつあるのは,工場直売を自社HPでやっていることがあるからだが,残念ながらそれでどんな顧客情報を得ているのか?となると,まだ弱いような気がする.
小売店で購入するのと,手順があまりかわらない.
すなわち,カネをかけて「顧客情報を得る」という手段にまで昇華させていないと感じるからである.

職人にスポットをあてた人気TV番組がある.
自分がつくった道具が本人がしらないうちに,海をわたり,その国を代表するような名人の職人が愛用している影像を作り手の職人にみせる,という趣向である.
そして,愛用している外国の職人から,感謝のメッセージ影像が贈られる.

これが一連のパターンになって,シリーズ化して放送されているが,いつ観ても何回観ても不思議なのは,作り手の職人が「実際に自分の道具がその道のプロの職人に使われているところを初めてみた」というお約束のコメントだ.

驚くほど使いやすいと絶賛される道具が,実際に使うプロの要望をリサーチせずにできるものなのか?という疑問だ.
すると,ここに流通からのフィードバックを予感するのである.
「こんな感想がきたよ」

あるいは,伝統的な製品であれば,数百年前の初代の周辺あたりの世代のひとたちが,自分で道具をつくって目的の製品をつくっていたかもしれない.それが,だんだん名人芸になって,他の職人からの依頼をうけているうちに,気がつけば道具づくりが専門の家業になっていたのかもしれない.

それで完成された形と製法が,そのまま何も変えずに作ること,に変容すれば,いつしかプロの職人が使っているところをみたことがなくても,十分なものができるのだろう.
その道具が単純な機能であればあるほど,その完成度はたかくなる可能性がある.
だから,外国の職人も,このまま変わらない製品を作りつづけてほしい,になるのだろう.

ひるがえって,人的なサービス業である宿泊業や飲食業は,かならずお客様と接するようになっているし,そうでなければ「業」として完結しない.
これは,製造業の常識,からすれば「垂涎の的」の状況だ.

ところが,「垂涎の的」になるべき「顧客情報」を,ほとんど利用していないという残念をとおりこした「無念」がある.
「無念」だから,念が無い.「念」とは思いである.
つまり,目のまえにいるお客様の情報を活用しようという,思いがない,ということだ.

これは再生のお手伝いをしていて,かならず遭遇する.
つまり,お客様を喜ばせたい,ではなく,自分たちを「利益」で喜ばせたい,という意味である.
衣の下の鎧ならまだましだが,鎧しかみえない.
それで,肝心のお客様が逃げてゆくから,経営が行き詰まるのは,物理法則とおなじである.

上述の人気TV番組を,観たことがないのか?それとも観ても製造業の他人事で,自社ならどうだ?という想像力もないのか?
あるいは,利用客をみたことがない,のに「凄い」と絶賛されるのを,ただ感心して観ているのか?
すくなくても,自社の実態をみようとしないことはおなじである.

目のまえにいるひとに関心がなくて,接客系の事業をやっているなら,とっくに業績もよくないはずだから,わるいことは言わない.
はやく廃業するか,べつの,目のまえにいるひとに関心があるひとに事業譲渡すべきである.

事業譲渡したらお金になった.
事業に無念なひとには,せめてそれで納得いただきたいものだと念を押したい.

名前で呼ばれるとうれしい

接客を業としていればすぐに気がつくが,名前でお客様を呼ぶとよろこばれる.
個人情報保護が過剰になって,卒業後のクラス会もできないという個の分断を促進するのはいただけないが,パーソナル・サービスとして十分に機能しているのも事実である.

だから,事業者はお客様の名前という情報を得るのに苦労している.
誰だかわからない人を,名前でお呼びすることはできないから当然だ.
それで,各種アンケートをしてみたり,顧客カードを発行したりと,手段の開発と採用にいそがしい.

客側は,財布がふくらむ顧客カードをこれ以上増やしたくない.
それでいて,各種利用ポイントはほしいから,携帯端末に集中させているひともいる.
支払方法を世界水準のキャッシュレス化にしたい政府は,たんに「世界水準の普及率」にこだわっているだけだから,ぜんぜん普及しないことにイラついている.

昭和の時代に経営危機になった東芝は,当時世界最高水準の「真空管技術」をもっていた.しかし,その当時に,トランジスタの量産がはじまって,真空管技術にこだわった会社が倒産の危機を迎えたのだ.
気がつけば,わが国は世界最高水準の紙幣印刷技術をもっている.
しかも,製紙工程で紙に漉き込ませる極小チップをいれれば,電子的な方法で真札であることが証明できる.それなのに,電子決済とは,トホホである.

わが国とならぶ現金流通がぜったいの国は,世界を見渡していまやロシアだけだ.
わが国の印刷技術で,ルーブルを印刷してあげるというのも経済協力になる.
国立印刷局の仕事もふえていいだろう.
「メイドインジャパン」の紙幣を輸出するというビジネスだ.

銀行口座の制度と与信制度が便利さをつくる欧米での電子決済の普及と,不動産担保での与信しかできないわが国では,普及率の比較自体がナンセンスだ.
どうしても,外国人観光客からバカにされたくないから,電子決済をやりたいなら,与信システムを変えなければならないだろう.

ついでにいえば,外国人労働者の本国への仕送り送金をどうするつもりなのか?
まさか,銀行からの送金を義務化したら,バカ高い手数料で暴動になるかもしれない.
彼らの送金需要から,ビットコインの普及が促進するかもしれないが,高級官僚にはわからないだろう.

これらのはなしは,お名前を呼ばれてうれしい,というはなしとはちがってみえるが,利用者目線の重要性という点で一致する.
日本政府と国民代表であるはずの政治家の目線が狂っている,ということだ.
つねに上から目線,これで民主主義だというのだからこまったものだ.

ところが,民間企業でもこまったことが蔓延している.
上司と部下の関係が壊れだしているのだ.
この場合の上司とは,経営者であることもある.
ならば部下とは,管理者になる.

部下をもつ,経営者や管理者は,自分の部下の氏名と年齢を正確に書けるだろうか?

むかし,生徒数千人をこえるマンモス小学校で,そこの校長先生が全生徒の名前を覚えていたというエピソードがあった.
いま,とやかくいわれる学校で,校長は全生徒の名前をまちがえずにいえるのだろうか?
もちろん,全生徒の名前をいえるこの学校では,休み時間に校長も校庭に出て,会う生徒にかならず名前をフルで呼んで声かけをしていて,呼ばれた生徒はうれしそうに挨拶をかえしていた.

小学生にしてこれである.名前で呼ばれることは特別なのだ.
部下のいるあなたは,そのひとたちの氏名と年齢を正確に書けなければならない.
もし,書けないなら,あなたの部下は,自分の名前を知らない人が上司であるということになる.
これで,組織としてビジネスが成立するのか?

人間という高度に社会性をもった動物は,その本質に自己の存在を確認したがる性質がある.
他人から自分を認識させるものが唯一,名前,なのである.
「ねえ,きみ」と声をかけられて,それが番号だったらどうだろう?
いきなり「囚人」になってしまう.裏返せば,囚人を番号で呼ぶ理由がわかる.

だから,部下の氏名と年齢は正確に書けなければならないのだ.
これが,組織行動を円滑にする最小限のルールである.

上述の校長先生は,生徒の氏名だけでなく,保護者も覚えていた.
苗字だけでなくフルネームで「◯◯◯◯君のお母さん」と呼ばれて,嫌なおもいをするひとはいない.
だから,マンモス校だからといって学校運営のトラブルは皆無だったのだ.時代背景がちがう,というよりも,こうした先生がいなくなったことが時代なのだろう.

METライブビューイング

世界四大オペラのひとつで,巨大な舞台装置で識られるのは,なんといってもニューヨークにある「メトロポリタン歌劇場」だろう.
あとの三つは,ウィーン国立歌劇場、パリオペラ座、ミラノ・スカラ座、をいうが,じつはブエノスアイレスのコロン劇場をわすれてはならないから,「世界五大オペラ」といったほうがよいだろう.

メトロポリタン(Metropolitan)から略して「MET」といっている.
130年以上の歴史を誇る,アメリカ合衆国最大のオペラ劇場だが,もちろん「国立」ではない.
そこで2006年から,劇場で上演中の作品を世界の映画館に配信して鑑賞できるようにしたのだ.

これは,「上演」にかんする歴史的なイノベーションであった.
いまでは,歌舞伎も映画館で上映されるようになった.

日本では,日本語字幕をつける作業もあって,ほぼ一ヶ月遅れでの「同時上映」だが,世界におくれることなく2006年にスタートしたのは「民間」のなせるワザだろう.
イタリア語やドイツ語が主流のオペラでは,日本語字幕はたいへんありがたい.

はじめの頃は観客もまばらで,素人ながら「大丈夫なのだろうか?」と心配するほどだったが,その圧倒的内容の満足感と「混雑しない」というダブルの満足感があったものだ.

しかし,やはり気がつくひとはいるもので,映画館へいくたびに観客数が増えているのが実感できた.

「オペラ」作品をそのまま上映するのだから,ふつうの映画とちがってやたら長い.だから,チケットもほぼ倍額なのだが,撮影技術,音響録音技術と,それらを再生して上映する技術の進歩,さらに,さいきんの映画館のシートの快適さもあって,臨場感はたっぷりだし,歌手たちのどアップは,残念だが「生」ではオペラグラスがあっても観ることはむずかしいだろう.

さらに,幕間にはふたつの工夫がある.
ひとつは,幕が下りてからの舞台上の様子が撮影されていることで,大道具のセッティングが観られること.
もうひとつは,その横で,前回や次回に主演するスター歌手が司会役になって,今回の出演者や舞台スタッフへのインタビューがあることだ.

これらは,劇場に実際にあしを運んでも観ることはかなわないから,映画館だけのお楽しみだ.
また,映画の入場時にわたされる紙には,このインタビューでプロが使った用語の解説まで書いてあるから,初心者にたいへんやさしい気遣いがある.

最初この試みは,映画にして舞台を世界に発信などしたら,劇場にくるひとが減って,結局は収入をうしなうと,たいへん懸念されたのとは裏腹に,世界中でオペラファンの発掘が行われて,「いつかはメトロポリタンオペラの本物を観たい」になった.「いつかはクラウン」のあれである.
じっさい,シーズンを皆勤して応募すると,撮影日の講演に抽選で招待されるようにもなっている.

さて,12シーズン目になったことしの幕開けは,わたしの想い出があるエジプトを舞台にした「アイーダ」である.
昨日が,最終日だった.

クラシックのジャンルだから,さまざまなひとたちが公演しているのだが,METのばあい今回とおなじ舞台演出で過去二枚のDVDと一枚のブルーレイが発売されている.
DVDのジャケットが同じなのは,右が左のアンコール・プレスだからで,ブルーレイはちがう出演者だが演出がおなじだからジャケットもおなじようにみえる.なお,今シーズンもおなじだ.
なので,演奏だけでなく演者の比較鑑賞ができるという,ならではの楽しみもある.

上段のDVDの元は1989年の公演で,オリジナルDVD(左)はエミー賞を受賞している.

下段のブルーレイもジャケットが同じにみえるが,DVDと演者がちがう.こちらは,2009年版で,王女アムネリス役のドローラ・ザジックが唯一の共通だ.
今シーズンのアムネリス役は,アニータ・ラチヴェリシュヴィリだから,こちらも比較できた.

 

今回のインタビューで,MET史におけるアムネリス役の最高出演回数は90回超えがトップだが,現役のドローラ・ザジックが70回超えで追っていることをしった.彼女は,イル・トロヴァトーレのアズチューナ役で,主役を飲み込むような凄みの演技を魅せたが,元は医学生である.

そして,今回のアイーダ役は,当代随一のソプラノとされたルネ・フレミングが昨年の17年に引退して,その後継になったアンナ・ネトレプコだ.
その彼女へのインタービューで,3幕の有名な独唱について,「テクニックではなく無心でアイーダになりきること,そして最後は『度胸』だ」といった.

インタビューアーは,前に書いたとおり,今シーズンの別の作品で主役を演じるソプラノ歌手である.この返答を聞いた,その彼女が,大きくうなずいた姿には説得力があった.
「度胸,ですね」と.

また,アイーダは奴隷でもあるから,懇願するセリフの歌詞で「ピエタ(Pietà)」が30回以上あるが,これらをひとつづつ歌い分けるといっていたのが印象的だった.
それを,幕が開いてからの場面で確認できたのは,観客として十分に満足感がえられる「予告」だった.
「やれ!」といわれてすぐにできるようなものではないから,若い歌手の凄まじいまでのプロ根性に脱帽である.「一流」とはかくなるものだと教えられた.

今作出演の二人の新人のインタビューもあって,劇場の「養成所」で,たっぷり「育成プログラム」を受けたという.すでに世界で活躍しているファラオ役も養成所出身というから,はんぱない.
世界のメトロポリタンオペラは,新人の養成事業もおこなっている!

しかし,新人の発掘はなにも養成所にかぎらず,各地で活躍している無名人の登用もしているのだ.
今回のばあい,アイーダの父アモナズロ役は,そうやって実力を発掘されたひとりだった.彼は今シーズンの「椿姫」にも出演がきまっている.

そういえば,ルネ・フレミングも,1988年にMETのオーディション合格があっての「当代随一」だ.

人材を育てることと,発掘することができる組織がある.
それが,一流を維持するのに不可欠なのだ.
これを怠れば,どんな組織もほころんで,トップが世間に「ピエタ」をするはめになるのは,大企業も官僚組織もおなじなのである.

連立方程式の企業経営

3年前の2015年9月に改正された,労働者派遣法で,派遣労働者の訓練が義務化された.
外国では一般的な,仕事にもとめられる能力の特定,がようやくはじまったともいえる.
派遣会社は,自社で教育訓練をして,本人を派遣先におくる,あるいは,派遣先に依頼してOJTを受けさせることになる.

このとき,教育訓練を受ける労働者には,所定の賃金が支払われることになるから,派遣会社はこの費用を負担しなければならない.
結果的に,受益者である派遣先が派遣料のかたちで負担することになるはずだ.

しかし,派遣社員という働き方をえらんだひとには,キャリア・アップのための手段になって,自分を高く売ることに役立つことになる.
もちろん,単価の高い派遣社員を派遣する会社は,相手企業から単価の高い報酬を得られるから,お互い様の関係である.

これは,派遣労働を単純労働に固定するということではないですよ,という意志表示だろう.
また,正社員への登用,ということも視野にあるから,単純労働しかできない,のでは本人の絶望だけでなく雇用主もこまる.
トータルすれば,派遣社員の労働の質がたかまって,雇用主の支払う費用が上昇することを意味する.

これはかならず直雇いの場合とリンクするから,雇用主には対応の選択肢が二通りある.
よりいっそう安価な労働力をもとめるか,人件費上昇分を別の費用で相殺しながらも売価を上げるかである.

おそらくは,外国人労働者が前者にふくまれるだろうから,一歩まちがうと道をはずすことになる.すでに奴隷労働的だとして批判を浴びる企業がでてきている.
この批判を避けるには,国籍はとわず正規の賃金や労働条件を提示するしかないから,じつは,よりいっそうの安価な労働力をもとめることは,たとえ移民を受け入れてもすでに困難になってきている.移民は,頭かずでしかないのだ.

すなわち,人件費上昇分を別の費用で相殺しながらも売価を上げる,という方法に日本企業のすべてが追いつめられているのが実情だ.
だから,こちらの意味でも従来の戦略の見直しは必須である.
単純に人件費を価格に上乗せしました,で消費者の支持が得られることはないだろう.

業務委託・受託の契約関係でも,労働環境はおなじだ.
すなわち,自社における内製よりも,専門の業務受託先に外部委託したほうが安価にみえた業務も,急速に状況が変化してきている.
人手が確保できずに,受託先が突然に業務を停止してしまって,委託先の営業ができなくなるリスクが拡大している.

それは,情報ギャップが原因であるから,委託先がたえず受託先の人員状況を確認しなくてはいけなくなった.
ところが,それで人員状況が悪いとわかっても,すぐに代わりの受託先をみつけることができないし,みつけたところで引き受けてくれる可能性もひくい.

つまり,八方ふさがりの状況がうまれている.

なんのための業務委託だったのか?という根本の問題になっている.

それで,ぜんぶの業務を自社の内製にかえる人的サービス業の企業があらわれている.
つまり,全員を正社員として採用するから,パートもアルバイトもいない.
結局,終身雇用にもどったのだ.
しかし,こんどの終身雇用は,ほんとうに終身で,定年がない.公的年金問題が,事実上そうさせるからだ.しかし,いつまでも,現役時代の半分以下になる年収に甘受できないはずだ.

キーとなるのは,社員の人生設計とのマッチングにある.
しかし,派遣社員で導入された,仕事にもとめられる能力の特定,が正社員にも適用されてセットになるだろうから,徐々に従来の「生活給」というかんがえ方から離脱するのではないか?
定年後再雇用の年収半減も,生活給を前提に屋上屋を架した結果にすぎない.

ハワイで起きた,ホテル労働者の長期ストライキの要求は,「この仕事『だけ』で生活できるようにしろ」である.
日本における戦後の「生活給」というかんがえ方は,ある意味,若年層には能力以下の賃金だが,家族持ちにはその逆をあたえることで「生活」ができるようにした方便だった.

しかし,もはや企業にたとえ方便でも配分する根幹の余裕がなくなった.
だから,仕事にもとめられる能力の特定,と,人生設計がマッチしなければならなくなった.
けれども,むかしとちがって本人の人生設計すら一律ではない時代でもある.
すなわち,キャリア・プラン,の存在が俄然おもみを増すようになった.

どんな階段を登ると,どんなゴールがみえてくるのか?
企業は,そのゴールをみせなくてはならなくなったのだ.使い捨てはもうできない.
ゴール・イメージがマッチしなければ,募集してもひとは来なくなる.
これに,賃金その他の条件がセットになるはずだ.

すでに,日本のメガバンクが学生の就職人気を失ったのは,賃金よりもゴールが暗いからである.

つまり,終身雇用でも,こんごは年功序列ではない.
キャリア・プランをいかにクリアするか?になる.
そして,終身雇用だが転職も前提になる.
よりよい条件が提示されれば,別の企業に移っても,おなじく終身雇用は条件になるはずだ.

企業経営は,お客様相手の方程式を解く時代から,従業員をくわえた連立方程式を解かなければならない時代になったのである.

すると,これはかならず就職前の「学校教育制度」の不具合というに問題に波及することになる.

人間は正確に同じ動作ができない

簡単な動作にみえるから,まねれば簡単にできる,かというとそうはいかないのが人間という動物である.
それで,長年の「研鑽」とか「修行」をこなして,なんとかできるようになるものだ.
こうしてできるようになったひとを,マイスターとか職人と呼んで尊敬のまとになる.

芸能の世界もまったくおなじで,それはなにも伝統芸能の分野だけではない.
しかし,わかりやすいのは伝統芸能における「芸」である.
子どものときから訓練されるが,不向きな子にとっての稽古は地獄の時間にちがいない.
「能」の狐役をこなせるようになるには,20年以上の歳月を要するというから,気が遠くなる.

もちろんスポーツの世界も「芸」のほかなにものでもないから,職人,は一夜にして誕生はしない.
かつて,名選手の長嶋茂雄に,バッティングを習おうとしたら,カーッときた球をカーッと打つ,と説明されてあきらめたという逸話があるが,職人の域に達したひとには,そう表現するしかないのだろう.

それは,長年の自分の努力を惜しんで教えないということでも,長嶋氏独特のとっぽさということでもなく,たんに自分がかつて練習で掴んだときの理屈の記憶をわすれて,感覚の記憶に昇華してしまったのではないか?
だから,ことばにならないのである.

日本が誇る,すばる望遠鏡のレンズを手作業で磨いて仕上げた伝説の職人も,自分の手のひらの神経がつたえる感覚がすべてであって,その感覚をことばでは説明できなかった.
このデジタル時代に,なぜ手作業で仕上げをするのか?
それは,現代のセンサー技術をこえる精度で研磨することができるのが唯一,訓練を積んだ人間だけだからある.

だから,ものすごく繊細な分野では,人間の職人技がぜったいに必要なのだが,IC(中央演算処理装置)をつくるときの精密かつ高速なハンダ付けにはマシンが活躍しているから,はなしは単純ではないようにもみえる.
しかし,キーはセンサー技術にある.

センサー技術の範疇におさまるのであれば,マシンが人間よりもすぐれる.
しかし,これをこえると,マシンはまったく歯がたたない.
ここに,人間の技の優位分野がある.
ここでいう「センサー技術」とは,センサーで見つけて修正すること,だ.

つまり,どんなに細かな「異常」を発見できても,それを修正・修復できなければ製品にならない.
すばる望遠鏡の例では,レンズの歪みを発見するのはセンサーで,それをひとが手作業で仕上げたのだ.
巨大なレンズにおいて,センサーがみつけた歪みを感じながら修正する,という動作が,マシンには不可能だったからである.

さて,以上のことを前提にすると,組織をうごかすのはやはり人間しかできないことだとわかる.
組織のなかのさまざまな状況を,マシンが把握するためのセンサー技術すらない.だから,修正も修復もマシンにはできない.
現在のAIの限界だ.つまり,いま話題の「AI」は,おもちゃみたいな段階でしかないから,過剰な依存は禁物である.

ところが,組織のうごかしかた,を肝心の人間がどこまでしっているか?となると,とたんに苦しくなる.
訓練を受けていないからだ.
これは、前回のブログで触れたとおりだ.

もう一方の,現場,という場面でも,おなじ状況がある.
人的サービス業のばあいは,とくにこれを強調したい.

カリスマ的な人材のみごとな動き.
簡単にまねできそうでぜんぜんできないことを,現場のひとほどしっている.
これを,あの人を見習え,というだけでいいのか?
どうやって見習えばいいのか?の追求がなくていいのか?

そこには,前提として,人間は正確に同じ動作ができない,ということをしらなければならない.

もっといえば,そのカリスマのかんがえ方,からまねる用意をしなければならない.
人間はかんがえる動物なので,思想が行動の原点になるからである.
それで,有名なカリスマの本には,そのひとのかんがえ方がくわしく書いてあるのだ.
具体的な方法は,じつは二の次なのである.

にもかかわらず,「この本はつかえない」といって投げ出すひとがたくさんいるのは残念だ.
もっとも重要なことを無視する態度は,うわべを追った浅はかな態度である.
だから,単なる方法が羅列してあっても,こうした読者には不満だろう.
「なにもあたらしいことが書いていない」と.

カリスマのおおくは,なにもあたらしいことなどしていない.
こころをこめて,最善の方法をつねに行動にしていたら,それが体に焼き付いてしまったのだ.
だから,その場その場について,適確な説明などできない.

それならばと,映像に記録して,本人の動作を瞬間瞬間でまねる訓練までしている会社がある.
本人が健在なうちに,これらの映像の「瞬間芸」を切り取って,本人に「コツ」を解説させる試みまで実行している.
その「解説」に,かならず「思想」の説明があるから,わかりやすい.

だから,こうした会社の訓練は,はじめ座学から,そして実技になるのである.

ぞろぞろの不祥事の共通点

おわらないどころか,どんどん出てくる,といった感があるのはどうしたことか?
台湾の鉄道事故のように死者までが発生すると,設計ミスがただちに事故とは関係ない,といっても「信用」に傷がつくことはいなめない.

ちょっとまえ,社会インフラを輸出しよう!が政府のキャンペーンにもなって,各国に鉄道車両が輸出されたが,国ごとにことなる安全基準にあわせてつくるノウハウが,ながく日本国内「だけ」でやってきたノウハウとマッチせず,納期のおくれから生じる違約金負担で,とうとう老舗の川崎重工が赤字に転落し,鉄道車両製造事業の継続すら社内議論されているという.

なんのことはない,「ガラパゴス化現象」のはなしであった.
わが国のあらゆる分野で,この「ガラパゴス化現象」が起きている.
アマゾンの書籍検索で「ガラパゴス化」を入力すれば,多岐にわたる,ではすまされない状況がわかるだろう.

民間だけでなく,「公」の分野においても,しっかり「ガラパゴス化現象」は起きている.
霞ヶ関でも,県庁所在地でも,村役場でも.さらに,「学校」にもまん延しているだろうから,他人事ではぜんぜんない.
わたしたちの生活をおおっているからだ.

たとえば,上記の本は,世界的ベストセラーになった,学校教育のあたらしい方向性,についての教科書である.
世界はすでに,むかしの工場労働者の大量供給に対応するための画一化された教育方式をみなおして,「学習」に重心をシフトさせている.

それは,本人の「学習」でもあり,組織の「学習」でもある.
だから,以前このブログでも書いた,発見的教授法も,その流れのなかにある.
そして,ここで重要なのが,ゴール設定と設定したゴールからの演繹思考という論理である.

残念だが,われわれ日本人に,ここでいう「論理的思考」が,かなり欠如しているとかんがえている.すなわち,「目的合理性の欠如」だ.

「ちいさなことからコツコツ,コツコツ」は,いまでも美徳とされている.
しかし,この方法は,けっして目的合理性があるやりかたではない.
正しくは,「目的達成のために,ちいさなことからコツコツ,コツコツ」でなければならない.
「目的達成のために」を省略してはならないのだ.

すると,ガラパゴス化現象がみられる分野での問題点は,以下のとおりになる.
・「目的」を明確化せずに自己目的化して,ただ従来どおりのやり方を漫然と踏襲している.
・設定している「目的」が,そもそも的外れである.

これは,「マネジメント」の問題である.
ここで,マネジメントを「経営」と訳してはいけない.
マネジメントとは,「組織の目標を設定し、その目標を達成するために組織の経営資源を効率的に活用したり、リスク管理などを実施する事」だ。

「経営資源」とは,「ヒト」,「モノ」,「カネ」,「情報」,それに「時間」をさす.
もっとも重要なのは,「ヒト」である.主語になるのはかならず「ヒト」だからだ.
「ヒトがモノを」,「ヒトがカネを」,「ヒトが情報を」,「ヒトが時間を」コントロールする.
いま問題の,「ハラスメント」も,ヒトの存在が組織には必須な「ヒトがヒトを」で発生するものだ.だから,ヒューマン・リレーションズをどうすればいいかが,誰にでも問われるのだ.

また,「リスク管理」を,「リスクは回避するもの」と理解してはいけない.
「リスク管理」とは,「リスクはコントロールするもの」という意味で「管理」なのだとかんがえなければならない.
「リスク」は,「利益の源泉」でもあるから,「回避」ばかりする日本企業の儲けがなくなった.

さて,ここまでは頭で理解できる.
しかしおおくの分野で,この「問題」が解決できないのに理由があることまで踏み込まないから,いつまでも,どこまでも同じ過ちを繰り返すのだ.
すなわち,「学習しない組織」がまん延状態になってしまっているのがいまの日本だ.

つまり,このような「学習しない」状態から抜け出すには,なんらかの行動を起こすひつようがある.
そのためには,組織構成員を「学習するひと」に変えなければならない.
しかしそれは,「本を読め」という命令では達成できないものなのだ.

「頭」だけではなく,「体」もつかう.
これをふつう「訓練」という.

わたしたちは,きちんとプログラム化されたメソッドとしての「マネジメントの訓練」を,ほとんど受けた経験がないままに,組織を運営させられている.
それは,大企業のトップも,高級官僚も,政治家も,まったくおなじである.

人生のなかで,社会への準備段階としての「学校(小中高大)」における段階的訓練.
入社後の社内訓練や職業訓練.
これらを見渡して,一度もないか希薄である.

ただし,一部企業では熱心にマネジメントの訓練を実施していて,こうした企業では不祥事が発生しにくいのは当然である.
かつて,日本の製造大企業は,こぞってこれを実施していたが,バブル期をピークに減少した.
一世代,30年の時をかけて,企業内部のマネジメント力が衰亡したのだろう.

どうやらこのことが,さいきんの不祥事の原因ではないかとうたがうのである.