ACPG 2018

「才能に関するアジア太平洋会議 2018」という.

わが国では,大正14年からはじまったNHKラジオ「子供の時間」が,才能あふれる子供を紹介した嚆矢であろう.国家が才能を宣伝し,国民が称えた時代だった.
「平等」が大好きな戦後の日本でも「天才」を紹介する番組はあったが,いまはみあたらくなったのは,みんな「平等」でなければならないからか.

「才能」が世の中をうごかす時代になって久しい.
わかりやすい例では,ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズがいて,なぜかアメリカ人がおおい.
これは,才能に「投資」する仕組みがあるからで,あいかわらずベンチャー企業に「実績」と「不動産担保」しか要求しない日本では,才能が学校で育っても社会が枯らしてしまう仕組みになっている.

日本で「才能」といえば,まっさきに芸術分野があげられる.子供からバイオリンやピアノなどの楽器演奏を中心にとらえる傾向があるが,科学技術分野においては希薄なのが不思議である.
その芸術分野でさえ,才能が海外流出してしまう.若き芸術家は,外国でキャリアをつんで有名にならないと日本でありがたがられないからだ.育てるコストを負担しないのは見る目がないからだろうから,ベンチャー企業に「実績」を要求する姿勢ににている.

表題のACPGは,ことしタイで開催された.
国際数学オリンピックで,タイはすでに日本の上位国になっている.
どの親も,自分の子どもの才能を伸ばす努力をするだろうが,日本の親がもつ熱意とはちがうレベルの熱意があるのだろう.それは,世界が才能によって動かされる時代だと識っているか識らないかのちがいにもみえる.

開催日程は1週間で,参加する各国の子どもたちは,この間,才能教育専門施設で「合宿」することになる.
この施設自体,宿泊棟は日本のビジネスホテル以上のスペックで,日中はワークショップが開催できる会場があるから,その規模は大きなものだ.

ここまでの施設と設備を整えているのは,「才能」の掘り起こしこそ,国家の繁栄につながるというかんがえがあるからだ.
これは、ふるい国家主義ではない.
才能の自由さを保障することが,才能の流出を阻止し,その才能が生みだす「価値」を,国民が享受できるという発想だ.だから,才能を国家が独占して囲い込むという発想とは真逆なのだ.

とにかく,多数の才能を育てることが重要になる.
わずかな天才だけを保護しようということではない.
社会のおおくの分野に才能が行き渡る.
これが現代の富の源泉なのである.

そのために,いかに難しいことをやさしく教えるか?
難しいことを平易な言葉に置き換えただけでは,やさしくなったとはいえない.
難しいことを興味と関心をもって,あいてに理解させる技術が必要なのだ.
だから,教える側の理解度が深く広くないと才能をのばす実践ができない.

たとえば,「スチュワート微分積分学」という教科書がある.日本語版は全部で三巻の大分冊だが,三巻目は未刊である.

監訳者の秋山仁先生によると,この本の執筆は「スチュワート教授」ひとりではなく,なんと各分野(医学,建築,経済...)の専門家が三百人も結集したという.
「謝辞」には,一貫性をもたせるための「査読者」が第8版だけで7人いるが,補助教材の査読者は39人もいる.第7版までの査読者として,173人の名前が掲載されている.
「査読」とは,内容の不備を指摘するためにある.それで,査読者と執筆者は激論をかわすという.

さらに,「補助教材の査読者」とあるように,この本には本文説明と連動したオンライン教材もあって,「紙」だけの情報でなり立ってはいない.
オンライン教材といっても,ウエッブ上のアドレスが変わってしまっては印刷教材として困るので,これを確定する作業もやっている.

日本における「◯◯学」の教科書が,本当にひとりか数人の共著であることをおもいだすとこれだけで執筆陣の規模がちがうが,ふつう教科書でオンライン補助教材など皆無であるから,それはまさに「雲泥の差」である.

このスチュワート教授の教科書は,世界のベストセラーというが,その理由は原著が「英語」であることのみならず,なによりも「わかりやすさ」にある.
つまり,執筆動機が「学生の理解ため」であって,これを愚直に追求している.

その動機=目的からみちびかれる,執筆戦略が,学生読者の脱落をふせぐために題材の「絞り込み」が意図されて,理解の発散をさせず,むしろ豊富な現実世界での「微分積分」の応用例を解説して,興味を枯らせない.これこそ、「選択と集中」である.
そのために,いろんな分野の専門家が参加しているから,この本自体が「大型プロジェクト」になっている.

つまり,執筆動機=目的=理念 ⇒ 執筆戦略 ⇒ 執筆陣の選定 ⇒ 執筆実務 ⇒ 査読 ⇒ 激論 ⇒ 修正 ⇒ 完成 ⇒ あるべき姿との比較 ⇒ 次版のコンセプト策定 というサイクルを繰り返して,いま「第8版」になったのだ.
スチュワート教授はすでにこの世にないが,この教科書は,これからも進化をつづけるのだろう.

これも,日本における「◯◯学」の教科書が陥りがちな,「いちどにたくさんの定義や概念の一方的説明」があったり,現代のテクノロジーをみとめない態度とは逆である.
すなわち,学生のための教科書ではなく,教科書「執筆者」であることの重視ともいえるのではないか.
主筆が亡くなってなお,新版がつづいてでるのは広辞苑や新明解といった辞書にみられるが,日本の「教科書」ではめったにないのではないかとおもう.

秋山仁先生によると,数学の能力は高校生までは日本人が上をいくが,大学卒業時にはアメリカの学生にはるか先まで追い越されるのが実態だ,という.
わかりやすく教える技術の差なのだろう.

書店の理系コーナーには,数学以外にもアメリカ人学者が書いた有名な「教科書」が,いずれも大分冊なボリュームで棚を飾っている.
日本人の大権威が書いた本は,薄くて難解な傾向があるのとはちがう.
上述した,執筆動機 ⇒ からはじまるサイクルの有無のちがいとしかおもえない.

ことしのACPGには,日本から「数名」の生徒が参加したという.
いずれもお茶の水女子大付属校の生徒だったらしい.
おおくのひとが隔離されて知らないうちに,区別された一部のひとたちの才能が伸びる夏休みを過ごしている.

それにしても「数名」とは.

薄利多売はやってはいけない

安くしないと売れない.
このかんがえに取り憑かれたら,それはまるで貧乏神に取り憑かれたのとおなじで落ちるところまで落ちるはめになる.
しかし,いまだにこの発想からのがれられない経営者はたくさんいるから,お祓いだけではなく自ら滝の水にでも打たれて禊ぎを受けたほうがいい.

いまどき「薄利多売」をしようというのは,社内の数字を把握するシステムが不完全なままで放置しているからできるのだ.
もし,社内の数字をきっちり把握するシステムがあれば,「薄利+多売」などしないで,「ちゃんとした利益+多売」をすることになる.

その「ちゃんとした利益」が,他人から「薄利」だといわれても,経営者が「ちゃんとした利益」だと認識できていれば,それはそれでよい.
つまり,「薄利多売」とは,利益を把握している,という条件が満たされてはじめて成り立つものなのである.利益を把握せずにやったら,それは「無謀」というものだ.
だから,おおくの「薄利多売」は,そのまま「無謀」になる.

なぜなら,「利益」を把握することは,とても難しいことだからである.
もし,そんなことはない,ちゃんと損益計算書には利益が出ている,と主張するなら,そうとうに危ない発想をしているから,注意が必要だ.

このブログでも何度か書いたが,「損益計算書」は「納税」のための「計算書」であって,真の「損益」を把握するためのものではないからだ.
当然に,会社法での「決算書」も,株主や投資家のための開示資料であって,経営者のための資料ではない.
だから,そこに書かれている「利益」を,経営者が経営のためにつかってはいけない.

ならばどうするか?
残念ながら,損益計算書は恣意的すぎて使えない,というのが結論である.
それでは困るので,「キャッシュフロー」をみるという方法が唯一存在している.

ところが,このキャッシュフローでは,製品や商品の一個あたりのキャッシュの動きが見えない.
だから,そもそも「薄利多売」は成立しないのである.

現金の動きがキャッシュフローである.
現金の「入金」と「出金」,そして「あまり」が重要なのだ.
「入金」がなくても「出金」はある.
これを,会計士は「管理会計」と称して,「変動費」と「固定費」という概念をもちだす.

売上がなくても出ていく費用を「固定費」といい,売上と連動して出ていく費用を「変動費」という.
そして,これらの費用から,「限界利益」を求めれば,「必要売上高」の計算が「できる」,という.

しかし,できない.
そもそも,損益計算書の費用を「固定費」や「変動費」に分けることが「できない」からだ.
もし,適当に分けて計算したら,その「誤差」がおおきくなって,とても実務ではつかえない.
ある教科書には,「とにかくひたすら『固定費』と『変動費』に分解せよ」と書いてあるのをみたことがある.

これを執筆した会計士は,実務を知らない,と確信した.
「理論」は理解したい.それで,「感覚」を持つのは重要だ.しかし,「つかえない」.
製造業で「中小企業のカリスマ」といわれる人物が,「設計図どおりできたら倒産する会社なんてない」と言っていたが,「理論どおりできたら倒産する会社なんてない」のである.
どちらも,たいへん難しいことなのだ.

わたしも若い頃,教科書を信じて,会社の数字から限界利益を導いて必要売上高計算をし,これを予算策定の根拠にしようと取り組んだことがある.
経理と組んで3年間,結局は「できなかった」という苦い想い出がある.
しかし,この失敗から,気づきがあったのはよかった.

「薄利多売」をしているひとは,是非,教科書通りをいちどやってみて,「できないこと」を経験するとよいのだが,それでは会社がもたないかもしれない.
「時間」という経営資源を浪費してしまうからだ.

どんなにお金を出しても,「時間」は買えない.
古来,永遠のいのちを求める物語はたくさんあるが,成功した話はひとつもないのは当然である.
しかし,人間とちがって「会社」には永遠のいのちがあるかもしれない.

それは、「経営力」にかかっている.

二億円の買いもの

わが国の「労働問題」をややこしくしているのは,「問題解決」の教科書がいう「ロジカル・シンキング」がなっちゃないからではないか?
つねに安易な「弥縫(びほう)的」すなわち,「その場しのぎ」や「間に合わせ」を積みかさねてしまったから,問題の本質が「うろこの層の下」にあるようになって,むりやりにでも引っ掻かないと何が何だかわからなくなった.

だから,用語の定義にもしっかり「裏」があって,そのまま素直には受け取れない.
たとえば,「正社員」.
これは、「ぜったいに『解雇できない』社員」という意味だ.
「正」は「ただしい」でも,「正規の」という意味もうしなって,「解雇されない特権」と「自分から辞める自由」という意味になった.

つまり,雇用する企業側からみれば,いちど採用したら最後,自分から辞めなければ,とにかく一生面倒をみなければならない義務を背負うことになる.
これは,「公務員」の身分とおなじだ.
なので,かならず「貴族化」する.

それに,「社員」だって,もはや「法的」な定義の「社員」より,会社の「従業員」を社員ということがふつうになった.もっとも,こちらには「雇員」という古いいい方があったけど,「雇ってやっている」から「業務に従う」への変化は,しょせん上から目線だからたいした変化ではない.
むしろ,「出資者」や「事業パートナー」としての法的「社員」の位置づけが断ち切られた様相のほうが深刻なのだろう.

「雇員」だろうが「従業員」だろうが,労働という有限資源を提供しているのだから,広い意味では「出資者」である.だから,これに「社員」「派遣」「パート・アルバイト」といった「雇用形態」に差をつけるのはナンセンスである.
このひとたちは,全員が労働という有限資源を提供する見返りに,「賃金を得る」という「ビジネス」をしている.
だから,ビジネス・スーツに身を固めたひとだけが「ビジネス」をしているのではない.

この二十年あまり,「不況だから」とか「利益が出ない」から,という理由で賃金をさげてきた.
それで,サラリーマンの生涯年収がかつて「3億円」といわれていたが,ちかごろとうとう「2億円」になった.夫婦とも正社員だと「4億円」になって,金利がめちゃくちゃ低いから,人生最大の買い物である住宅で,7千万円ぐらいの家が買えるようになった.

産業のなかでも自動車と住宅が,そのすそ野の広さで圧倒している.
ご存じ,自動車はわが国を代表する輸出産業であるから,為替の動向もふくめ,この産業の浮沈はわが国経済のかなめである.
一方で,住宅の輸出はどうかというと,自動車のような位置づけにはなっていない.国内向け主体なのである.

わが国の住宅は,「在来工法」でもすっかり「プレハブ化」したから,むかしながらの大工さんが建てる家は「伝統工法」になってしまった.ましてや,立体高層長屋を「マンション(邸宅)」と呼んで耳に心地よい一般化に成功した.コンクリートの構造躯体に個人が注文をつけられないので,内装しかこだわれない.

こうして,わが国の住宅は,大量生産の工業化を果たすと同時に,「工法」が標準化され,完成と同時に価値を失うことになった.
すなわち,大量生産=大量消費が「美徳」というかんがえかたの固定である.
こうした品質の住宅を,消費者は大枚はたいて買わされる.

個人の年収を夫婦で稼がないといけなくなったから,女性の男性化が必定となる.
「ジェンダーフリー」というガラパゴス化も,ここに要因のひとつがあるのだろう.
これが,企業内で「ハラスメント」を引き起こすのかもしれない.

ひるがえって,企業は正社員を採用すれば,向こう40年間で2億円以上の出費が確定する.
つまり,企業経営にとって,「採用」は重大問題である.もちろん,いまにはじまったことではないが,正社員保護の体制確立はむかしにできたものではない.
それにしては,むかしのままの「採用方式」ではないか?

ここにも「無能」経営者のすがたが出てくる.
そんな無能は,かならず「人件費」を費用としてしかみないから,経費削減の対象にする.
ならば,正社員を採用しなければよい.
ところが,人事泣かせなのは,無能経営者がことわれない「推薦」の存在だ.

そこで,人件費削減に熱心な経営者に,正社員の採用中止を進言したら,正社員がいないと困る,という.
何故かと理由をきいたら,こたえられなかった.
なんとなく採用して,その結果責任を従業員にもとめる愚.

ため息しかでないことがある.

重い社会保障が人件費を上げる

「会社」に勤めていると,会社が半分払ってくれているから天引きされる「社会保障料(年金と健康保険)」が気にならない.
ところが,「自立」したとたんに,自分で「全額」負担する.それで,おどろいた経験のあるひともいるだろう.

いまさら,厚生年金であれ国民年金であれ「公的年金」ならば,それを「掛け金」と言ってはいるが,自分のために「積み立て」しているわけではないと,しらないひとはいないとおもう.もしも,しらなかった,というなら,まちがいなく給与明細の「手取り」しかみない勤め人しかいない.
ましてや,公的健康保険が健康だとどのくらい酷なお金を徴収されているか,かんがえもしないものだ.これも,毎月「掛け捨て」ている.

戦時中にできたときは,「積立方式」だったが,戦後のインフレで「積立」がパーになって,それからは支払原資がないから「賦課方式」に変更された.これは,いま集めたお金をいまの支払にあてる方式だ.だから,受取人がすくない当初は,どんどんお金がたまっていった.それを預かる役人が,いいから使っちまえ,といろんな「会館」を建てたという事情は「厚生年金保険制度回顧録」に詳しいが,アマゾンでの取扱がないから,図書館の利用を推奨する.

そんなわけで,明治生まれの世代は,掛け金の負担を「しないまま」年金生活ができた.
わが国の社会保障が国民皆保険として完成したのが昭和36年である.当時は,55歳定年がふつうだった.ときの総理は「社会保障元年」だと自慢した.
その次の,大正から昭和一桁生まれは,若干負担したが,受け取りのほうがおおい世代で,世間はここまでを「得をした」と言った.

「世代」でいえば,これらのひとたちは「戦争当事者」である.ひどい目にあって生きのこったことに対する国からの「ご褒美」だと認識しても,それなりに納得できる.
ただし,ひどい目の元凶は,政府だけのせいではなく国民の意志だったことを忘れてはいけない.
「国民皆保険制度」を国民の意志としないアメリカのような国もある.

それは,「自由」が失われるという「命題」による.この「自由」とは,「自己決定」の「自由」をいう.
「国民皆保険制度」を国民の意志としたわが国は,国民ひとりひとりの「個人の『自由』」が冒される「危険」を,アメリカ人のように意識しているのだろうか?

いま,年金生活をしている世代は,しっかり「自己負担」したように見える.
これからの世代は,自己負担分よりすくない額になること必定である.
これで,いまだに「損」「得」を言っているのは,視野狭窄ではないか?
これからの未来世代にとっては,既にこの国の社会保障制度は破綻している.

日本人は,先祖を思いださない不敬な国民になり果てた.
誰にでも「親」がいる.その「親」にも「親」がいる.
たった二・三世代前の,明治生まれのご先祖が,ただでもらった年金と,その次の世代がもらった年金を,自分には「損」だからもっとくれと言っている.
全員の「家系」でトータルすれば,結局チャラになっただけのはなしである.

これから先は,マイナスばかりで,だれも「得」をしない「制度」になり果てる.
それがもうはじまっていて,パートタイム労働でも負担を強いられる.
本人負担だけではない.半額は雇用者負担だから人件費の増額である.
その分「手取り」が減るならば,この国の貧乏を社会保障がつくっていることになる.

なんのことはない.食に窮したタコが自分の足を食べるようなものである.
これをつづければ,タコは自身を食い尽くして無残なまま最期をむかえる.

マスコミによる有権者へのアンケートで,つねに上位回答が「社会保障の充実」になってひさしい.
いっとき「家系」の「家計」に役だったものではあるが,もう全員が損しかしない制度の充実を要求してはばからないのは,タコにも劣る強欲そのものである.

その国民の強欲を満足させれば選挙で勝てるという強欲が,破滅へのスパイラルである.

はやく現役世代には,民間の積立方式に加入をうながして,この制度の廃止をすすめるべきである.
放置すれば今度こそ,まちがいなく国民の意志で,この国の破滅がやってくる.
その辛酸をなめるのは,まだ生まれてきていない世代になるから,この世代の恨みを今の我々が一身に受けることになる.

「国家依存」した「強欲のバカ世代」という歴史的烙印を押されるだろう.

「格差社会」のつくりかた

日本人で「奴隷」といわれてもピンとくるひとはすくない.だから,憲法18条に違和感をおぼえるのだ.
はるかむかしからずうっと貧しかったので,欧米人からしたら「奴隷」にみえても,本人たちはそう思っていない.「みんな」貧しかったという事実が,これを否定させるのだ.

移民の歴史をみると,明治初期の海外「移民」のおおくは「奴隷貿易」だったという.
それで,中南米への「移住」も,さいしょはそれを疑われたから,うそつき政府はここでも「バラ色の開拓地」と平気でうそをついた.現地での辛苦は想像を絶したが,帰国もできない.それでも誰も,日本政府を相手に損害賠償請求をしないのは,できなかった,だけなのだろうか?
実態は,移民ではなく「棄民」だったのだろう.日本の近代政府には「棄民」のノウハウがある.

個人的に「奴隷」になったはなしは,高橋是清がその「自伝」に記録している.

少年是清が横浜から密航をくわだてたものの,出港から数日で発見されてしまい,その後の航海は船長預かりとなった.そして,アメリカに到着すると,船長が自分の所有物として是清を売却したので,彼は本物の「奴隷」になった.後の日銀総裁,大蔵大臣,内閣総理大臣の経歴である.

大陸中国の発展と不安定のコントラストの構造は,1億人の支配者層と3億人の平民層,のこり9億人の奴隷からなっていると,しりあいの中国人がはなしてくれた.
圧倒的多数の不安定な奴隷という存在は,古代中国からかわっていない.われわれの隣国は,じつは古代国家なのである.

さて,奴隷とはなにか?
辞書には,「人間としての権利・自由が認められず、道具同様に持主の私有物として労働に使役される人間。」とある.

数ではすくないとおもわれるが,「有能」な経営者がひきいる会社の従業員は,「『ちゃんとした』労働者」というあつかいを受けている.
「ちゃんとした」,とは,雇用主と対等だという意味で,雇用主と共に「付加価値」を一緒につくりだすパートナーであるという位置づけのことである.

「有能」な経営者は,これを無言でも実行する.
それが「信念」になっているからだ.
だから,「従業員は人財です」なんてことを軽々しくいわない.
こういう会社の従業員たちも心得ているから,だまって働いていることがおおい.

「無能」な経営者は,損益計算書しかみないが,だからといって損益計算書の見かたをしっているわけではないし,そもそも,損益計算書が「経営」にほとんど役に立たないこともしらない.
だから,費用でいちばん大きな数字になる「人件費」を削減すれば,利益が増えるとおもって疑わない.

損益計算書でもっとも重要なのは,「売上総利益:粗利」である.これが「付加価値」を示すからだ.自社で生み出す付加価値が大きければ,結果的に赤字になるはずがない.
だから,「有能」な経営者は,粗利をいかに増やすかに心血を注ぐのであって,従業員と一緒に取り組む努力をおしまない.

ところが,「無能」がまっさきに取り組む人件費の削減方法が難しい.
この国では,もはや「正社員」を解雇することはよほどでなければ不可能になった.
それで,目先はパートやアルバイトにむかうのだが,困ったことに,現場の労働力はとっくにこれらのひとに依存しているから,人数の削減は現場責任者がゆるさない.

それで,せめてもの抵抗として,残業代を払わない,という手をかんがえる.
「仕方ないだろう,そうでもしなきゃ利益がでない」と無能が自分に言いきかせていたら,今度は人手不足で採用ができなくなった.

この会社は「ブラックだ」,といって,解雇できない社員が自分の意志で退職すると,とても作業がまわらないから,自社の能力をしたまわる稼働でしか仕事をこなせない.
こうして,稼働と売上がさがっても,なおも人件費を削減したいとかんがえるのが「無能」である.

無能な政府が多数の無能経営者に媚びて,無能の悩みを解消しようとはかったのが「働きかた改革」法である.
子どもの「おこづかい帳」とおなじ単式簿記の世界にいる役人は,財務諸表の見かたもしらない.
それで,「無能」の経営者からレクチャーをうけて,わかったつもりなる.

始末が悪いのは,法学部出身の役人で,かれらは「法」と「現実」の順番が狂っている.
「法」を作文したら,それが「現実」になるとうたがわない.その結果が「福島」である.
「現実」が「法」のとおりにならないのは,「法」がおかしいのではなくて,「現実」がおかしいとかんがえる.これを「倒錯」と指摘する評論家がいない.

もちろん,これはおかしいのだと「有能」な経営者はしっている.
けれど,かかわる暇がないし,かかわるとかならず面倒なことに巻きこまれるから自社のことで精一杯にしておくのだ.

政治活動に心血を注いだ労働組合のイメージが払拭できない不幸が,一般人からもいまだにフィルターがかかってみられている.それで,「労働」の意味を啓蒙教育される機会もうしなったままになっている.
学校で教えろといっても,先生たちの例の組合が張り切るだろうから,まともな親なら拒否したくなる.
こうして,一般人は「労働」とはなにかもしらずに,自分の「労働力」を安売りするから,「無能」な経営者がはびこるようになっている.

「格差社会」をつくる強欲資本主義がいけない,と批判の声がおおきいが,そうではなくて,「付加価値」を生みだすことにこだわるのが「資本主義」だとしらない「無能」たちが,トンチンカンな努力をして「格差社会」をつくるのだ.
けれども,そんなことは承知の上で,「格差拡大」こそが「革命」のきっかけになると,確信的に企んでいるのではないか?ほんとうは「格差社会」をおしすすめるように仕向けている.

だから,このまま「努力」をすればするほど,この国は貧しくなって,結果的に「格差」もひろがる.格差社会は「いけない」といいながら,じつは望んでいる.
そういう意味で,上野千鶴子がいう「みんなで貧乏になりましょう」が実現できるというものだ.
ただし,彼女は自分が貧乏になることを決して望んでいないし,貧乏になるともおもっていないだろう.平等を「強制」する政府の顧問にでもなれば,ゆたかな生活が確保できるというものだ.

こういう「無能」は,犯罪的だというひとがすくない.
しかしてレーニンのことばをおもいだす.
「役に立つ白痴」.
東京大学の権威と名誉にかかわることではないのか?
こんな人物がなぜに「元東京大学教授」にして今「東京大学名誉教授」でいられるのか?不可解なことである.

「観光立国」の難易度

「科学技術立国」という「国是」が,いつのまにか忘れられて,かんたんそうな「観光立国」にシフトしてしまった感がある.
もちろん,その前提にあった「貿易立国」という「国是」がゆらいで,フラフラになってしまった.

8月16日発表,財務省月次貿易統計の7月速報は,2312億円の赤字であった.
前にも書いたが,「貿易黒字」ばかりが増えて増えて,その最大の相手国(こちらはまっ赤な赤字)の米国からどうしてくれると文句をいわれた時代がなつかしい.

その文句をいわれる側が,いまは中国になっている.
アメリカさんの怒りがおさまらないから,北京政権内でさては「政変か?」と噂されるほどの苦境であるという.
わが国のいまの「苦境」とは質がちがう.あと何十年かしたら,中国も「苦境の質」をかえるのだろう.

「貿易立国」の成功は,外国から仕入れた材料を,国内で加工した製品として外国に売って儲ける,というパターンだったが,この成功の理由を唯一「働き者の日本人」としたところにおおきな間違いがあったということも前に書いた
冷戦構造と朝鮮戦争,それに安い石油だと指摘した.

「冷戦構造」とは,ソ連衛星国と中共が,自陣営に「壁」をつくって,西側との「鎖国」をしていた,というものだ.これら,「遅れた地域」のひとたちが,いっせいに安い賃金ではたらく集団として登場したのが「冷戦終結」の世界経済的意義である.
それで,「世界の工場」が日本から中国へ移転して,いまにいたる.

社会主義思想を支える思想である「進歩主義」では,今日よりも明日がぜったいに発展する.
だから,青島幸男の「明日があるさ」は,みごとな社会主義思想「賛歌」である.
こうして彼らは,資本主義社会から社会主義社会へ,そしてついには理想郷とした共産主義社会へ歴史は発展するのが「科学」だと信じた.

その「進歩主義」を,日本の最大与党である自民党も「党是」としている.確認方法は簡単で,自民党のHPをみればよい.
ついでにいえば,東京オリンピックの開催でノスタルジーにひたるひとたちは,大阪万博までもういちど,といっている.大阪万博のテーマは「進歩と調和」だったから,日本型社会主義の祭典だった.これがガラパゴス化のはじまりだとおもう.

進歩主義者は直線的な発想しかしないから,「退化」をみとめない.
しかし,残念ながら,退化することはしょっちゅうある.
とくに人間の能力がそれで,手仕事のある技術が途絶えると,ほとんど復活は不可能になる.

むかしの学校教育が優れていたのではなくて,生徒が我慢強かったのではないかとおもうことがある.
いま,書店で生徒向け「参考書」を手に取ると,各教科ともたいへんわかりやすい解説の「進化」だと感心する.
自分の時代にこんなのがあったら,さぞや?ともおもうが,まぁそんなことはなく遊んでいたろう.

なぜなら,遊びのデジタル化の「進化」は参考書の「進化」より想像を絶するものだから,強い誘惑にはかなわないだろうと認めるしかない.
しかし,ゲーム機に夢中の子どもをみれば,人生の半ばをこえれば誰でもが,「あぁ,時間がもったいない」とおもうものだ.
「勉強しなさい」という命令よりも,誘惑に打ち勝つ「興味」の提供こそが,もっとも重要なのだとおもう.

中学の理科では,「化学」の基礎を習うことになっている.
頭がやわらかくて,記憶力がちゃんとしている子ども時代に,暗記させる,というのはあんがい理にかなっているから,「詰め込み」だといって一方的に非難することがただしいとはかぎらない.

150年より前の武士の子なら「論語の暗誦」はあたりまえ,四書五経ぜんぶを暗誦してもおもてだって褒められなかったろう.逆に,武士以外の子が暗誦したら,そんな閑があったら働けといわれたはずだ.「門前の小僧習わぬ経を読む」は,発達中の脳のすごさをおしえてくれる.

いまでも,アラブならコーランの暗誦,イスラエルならトゥーラーの暗誦は小学生でふつうにやっている.ユダヤ系ドイツ人の思想家,ハンナ・アレントはゲーテの「フアウスト」を暗誦していた.どれも数百ページのボリュームである.

意味はあとからわかるようになる,というのもこれら「暗誦文化」の共通点だ.
ならば,原子周期表の暗記は,現代人の教養の基礎として必須ではないかとおもうがいいすぎか?

そうはいっても,教科書の説明には具体例がなさすぎる.
物質のなりたちを「科学する」のが,「化学」であるから,その法則を学ぶのは当然としても,面白みがないのである.まるで,子どもが嫌になるように仕向けている.
教科書を執筆する学者のレベルが低いのか?それとも「検定制度」のせいなのか?ページ数の制限は,ほんとうは検定官のためにあるのではないか?

本としてぶ厚いけれど,これでもかとやさしく解説があるのはアメリカの教科書だ.
人間のからだも「物質」からできているし,生存のためには食べなければならない.その,「食品」も「物質」だから,おのずと「消化」とは「化学反応」のことになる.
こうしたことを丁寧に書いている.

よく噛んで飲み込めば,あとはかってに胃と腸が消化する,というだけの知識では自分で「健康」を維持できないだろう.あまたある健康食品が,ほんとうに「自分のためになる」のかを判断するにも,「化学」の知識は必要である.
「賢い市民を育てる」のは,健全な民主主義に必須の要素で,「鈍な市民を育てる」のは,腐った民主主義ではなく,全体主義がやることだ.
それにしても,日本の義務教育にも高等教育にも,将来「親」になって子どもを育てる生活がくる,という前提が欠如している.

「野菜は健康に良い」というのは何故か?それは本当か?
ならば「添加物」はどうか?乳児にハチミツを与えてはいけない理由はなにか?
高額な食品容器と100均の食品容器のなにがちがくて値段がちがうのか?
「PETボトル」の「ペット」とはなにか?

さらに,われわれは福島原発の後始末に千年単位以上のつき合いをしなければならない運命になったから,放射能や放射線量についての知識はぜったいに外せないはずだが,これをちゃんと教えていると寡聞にして聞かない.
広島・長崎にまで議論がふくらむから,教えない,ときめたのか?ということも聞かない.

どれもが毎日の生活にかかわる「日常」づかいのものである.
食品もふくめて高度な加工品にとりかこまれているのに,化学がわかないからあっさり売手のいうとおりになる.
義務教育のなかでは,これらに注意ができるようになって,学問のおもしろさがわかることが重要ではないか?
それから,高校レベルの化学になれば,生徒にもわかりやすいだろう.

そういう生活レベルの「化学」をきっかけにした「科学」が知識としてまんべんなくあることを前提にしてはじめて,「観光立国」をかんがえることができる.
「観光」は,「歓楽」だけで成り立つのではない.
一次産業の「食」,二次産業の「文明の利器」,そして「IT」や「金融決済」などをトータルで駆使してはじめて「観光立国」ができるから,じつは「科学技術立国」よりも難易度がたかいのだ.

文明社会に生きるには,あんがいそれなりの負担を強いられるものだ.

残業代がほしい

労働時間を減らすには残業を減らすしかないとしか発想しないから,「働きかた改革」といっている政府の「命令」は,残業に焦点があたった.
これに,うそみたいな残業をしているはずのマスコミがなぜか支持して,さも「残業」が諸悪の根源のようになってしまった.

それで,時間できっちり帰る,が「トレンディ」となったが,実態はいかがか?
働く側からすれば,2割5分増し以上になる残業代は効率よく稼げる手段である.
月間60時間をこえた残業代は,5割増し以上に平成22年度からなったが,中小企業は除外されていた.
これが,今回の労働基準法改正で,平成31年から中小企業にも適用されるので,各社とも「就業規則」の書き換えが必須になっている.

さらに,人手不足もあって,各地の最低賃金も上昇しているから,「人件費負担」はおもくなるばかりである.
少子化で若者の数が今後さらに激減して,年間80万人程度しか新社会人にならない.
若い社員の争奪戦は,当然に初任給の賃金水準を高めるだろう.
すると,業績がかわらないなら,どこかの世代や誰かの賃金を下げないと,やっていけない,とかんがえる経営者は,その方法を熱心に研究しているはずだ.

いまの賃金体系が「既得権」だとする働く側と,真っ向対立の構造がうまれる必然がある.
残念ながら,この構造のままだと平行線で一致点はなかなか見つからないだろう.
ならばどうするか?
前提条件を変えるしかない.

それは,「業績がかわらないなら」を「業績を変える」にすること,しかも上方への修正である.
となると,現状の働き方の見直しがなくて,「業績を上げる」方法はない.
この国は「低賃金で長時間労働」をもってスタートしたと前に書いた.
経営者の「無能」を書いたものだが,これを「有能」にすればよい.

つまり,有能な経営者になりたいなら,無能がする経費削減ではなく,いかによりおおく稼ぐのか?をかんがえるひとになることだ.
なぜなら,従業員は全員「稼ぎに」会社にきているからで,会社の経営者が稼ぐことをかんがえなければ,どうやってもバランスがとれなくなる.

だから,いま,この国の「無能」が経営する会社に覇気がないのは,従業員がほしい稼ぎを会社が払っていないからだ.
ふつうに働いても欲しい稼ぎに達しないなら,ふつうに働くのをやめてなんとか残業に持ち込む.
こうして2割5分増しにすれば,効率よく稼げるとかんがえるのはあたりまえでもある.

「まったく,うちの従業員はグズばかりで,いくら言ってもちゃんと働かない」というのは,無能が自分で従業員をそう仕向けていることに気づきもしないから,無能を証明する発言なのだ.
「いい会社」の従業員は,たとえパート・アルバイトといえども,「きっちり」背筋をのばして働いている.
これをみた「無能」は,「この会社は優秀な従業員ばかり,それに比べてわが社のなんと情けないことか」と口をそろえていうから笑ってしまう.
天に唾するとはこのことだ.

経営者のインタビュー番組というのはむかしからあるが,こういった番組に登場する経営者で,上述の「無能」はひとりもいない.
おおくの「無能」は,この手の番組すら観ないのかはしらないが,観たとしてもなにが「有能」なのか判断できないのだろう.いっこうに改善しないのがその証拠である.

さいきんでは,御殿場にある「時之栖」の創業者が出演していた.苦労人である.
このひとがさらりと言って,聞き手がおもわず聞き返した.
「うちでは定年後再雇用になっても年収は変わりません」
「えっ?」
「だって,同じ仕事を同じようにやっているから変えたらおかしいでしょ」

これが「ふつう」なのだ.
しかし,「無能」が多数のわが国では,「年齢」という基準だけで賃金を半額にして「当たり前」顔をすることが常識になっている.ほんとうはお払い箱だけど,国の命令だから「再雇用してやっている」という姿勢である.
ならば,現役のうちにしっかり残業代も稼いでおこうとするのは,自己防衛である.

「無能」はひとを使い捨てる.
これを若い従業員が,いつかは自分もこうなるという不安でみるから,優秀なものから退社する.
気がつけば競争力まで失うことがある.
「無能」はそれを従業員のせいにする.

「いい会社」は,お金をくれる唯一の存在である「お客様」を強く意識している.
どうしたらよろこんでお金をくれるのか?
そのために,従業員にはどうしてもらいたいのか?それを従業員にもかんがえさせて行動させる.
だからそういう会社の人材は,財産になる.
財産はだれだって手放したくないから,大切にする.

直線的にいえば,人件費をいかにたくさん払える会社にするか?が問われている.
つまり,「稼げる会社」である.

観光行政の失敗の本質

ひとことでいえば「平等主義」の限界なのである.
わが国において「平等」といったときの「平等」とは,かならず「結果の平等」をさす.
世界標準の「平等」とは,「機会の平等」すなわちスタートラインの平等をさすから,まるで意味がちがう.

円周をまわるような陸上競技のトラック種目なら,「距離が平等」になるようにスタートラインは一直線ではない.
これを,みんなで手をつないでゴールするのが運動会の駆けっこになったのは,世界的な「奇観」であろう.

大もめの徳島阿波おどりも,人気の演舞場と不人気の演舞場の座席チケットが同じ料金なのだ.
どうして,ここに経済原理があてはまらないのか?
同時ゴールの運動会のような奇観である.

こうしたことの発端には,遅い子がかわいそうだから,という「優しさ」があるという.
ながい人生で,そんな優しさで守ってもらえるのは「学校生活だけ」になるから,社会に出る準備としてかんがえると,ほんとうに「優しさ」になるのだろうか?

日本企業がこぞって「実力主義」を標榜し,旧来の「日本的経営」から「年功序列」が排除されようとしたときに,就職を控えた学生アンケートで「実力主義」が支持されている報道がずいぶんあった.
このときの学生は,「実力主義」がどんなものかを知らなかったのではないか?
これは,きっといまでもおなじだろう.

受験があるではないか?という意見もある.これぞ「実力主義」だと.
ところが,入ってしまえば学者になるのでなければ遊んで暮らせる.
それを企業は熟知しているから,よほどのことがなければ「大学ブランド」などとっくに有名無実化している.
さいきんの最優秀レベルの高校生は,外国の有名大学をめざして国内軽視が常態化した.

それで就職に有利かといえば不利ではないという程度だろう.
もはや「安定した企業」などないから,寄らば大樹の陰のような発想をするなら公務員をめざすしかない.なるほど「官僚」になるには有名大学の有利は変わっていない.

一方で,企業の方も,どうやって「実力」を測定するのか?という問題に相変わらずなやんでいる.
営業系なら「売上高」という指標がむかしからあるが,有能な人物ほど管理系に配属されることがおおい日本企業では,さてどうするかが困難になる.

「行政」には「売上」というかんがえ方自体がないから,民間でいえば全員が「管理系」になる.
これで内部組織の評価だけでなく,いわゆる「事業」の評価が問題になる.
簡単にいえば,予算を使い切れば「成功」である.では,その予算はどこから出てくるのか?
つまり,「予算化力」こそが重要になる.

ところが,ある「事業」を企画して「予算化」しようとしたとき,民間とちがうのは「議会」を通過させなければならないという関門がある.
「議会」が毎日あるならまだしも,わが国の地方自治体の「議会」は,休みがおおい.
しかし,これには「非公式協議」というのがあって,実態はこちらできまるようになっている.

公式の「議会」は,「非公式協議」の決定を追認することになる.
しかし,どうやって決めようが,「議員の意向」をなるべく「全方位」でくみ取る必要があることに,かわりはない.
ここに,「結果の平等」が出てくる.意見がことなる議員の意向を全部呑み込む努力をするからである.

そして,決定的なのが,観光業の「小ささ」と「軽さ」なのだ.
その地域経済における影響力としての「大きさ」と「重み」が,ないという事実.
口では「観光立国」などというが,全産業でみたとき,実態は「ミクロ」なのである.
だから,地域として「観光」に予算を重点配備することが「全方位」からするとできない.

「予算の重点配備」とは,補助金をふくむから,観光業以外の業界がかならず「不満」をいうのである.つまり,こっちにもお金をまわせ,と.
それで,せいぜい地元の「祭り」への介入しか手だてがない.
地元行政として,こうした目立つ行事になにかをしないと精神の安定がたもてないのだ.

だから,住民からの要望は関係ない.
行政として「やりやすい方法」が,もっとも効率がいい.
この「効率」も,投下資本に対する効果がたかい,という意味の「効率」ではなく,予算をとおして「企画化」することについての「効率」である.

そもそも,日本の行政に「儲ける」という概念がないから,投下資本という発想すらない.
ひるがえって,「住民側」とは「業者」のことで,法人住民税や事業税を払っているひとたちのことをいうから,「個人」ではない.

行政が予算獲得のためにつくる各種会議に,「個人」ではない「住民側」の業者しか参加しない.
それで,観光地に住む個人は,観光公害に悩まされても,「住民側」の業者が優先される.
これを正当化するために「経済効果」と呼ぶ業者側の収入増が錦の御旗として語られることになっている.しかしこれには,経済効果を「もっと増やす方法」はかんがえなくてよい,という意味がふくまれている.面倒なことはしたくないのが世界共通の役人の特性だ.

こうして,およそ「トータルコーディネイト」とはかけ離れた,個別の立場がバラバラのまま放置されるから,いつまでたってもゴチャゴチャした「観光地」のままになる.
これを「昭和レトロ」などといってマスコミが肯定するから,改善の余地がないばかりか「なにをどうしたい」のかがわからなくなって,やっぱり「放置」される.

個人の住民と行政の「乖離」,これである.

たとえば,銀行経営が成り立たなくなって大リストラが用意されている.
この原因は,「金融行政」がリスクをとってはいけないと銀行に命令し,貸出先の審査には「信用」ではなく「担保をとれ」と命じたから,ほんらいの「金融」が機能しなくなった.
これに,日銀の出口がないマイナス金利政策で,利益の源泉を失ったのである.

しかし,国民にとって見えないおおきな損は,これでは「通常営業ができない」として,欧米有力銀行がこぞって閉鎖・閉店して日本からいなくなってしまったことである.
こうして,日本人は,欧米ならあたりまえの金融サービスをうけることができなくなった.
たとえば,イスタンブール空港には,HSBCの顧客ラウンジがあるが,ここを利用できる日本人は皆無だろう.そもそもHSBCに口座を持っている日本人は何人いるのか?

つまり,なんのため,だれのための行政か?を失念して,行政のための行政をおこなうとこうなる.
わが国では,これをただすために存在するはずの「政治」がとっくに機能を失ったから,上述のとおりの行政の行動原理しか残っていない.それで,あらゆる分野で同様のことが発生しているのだ.

あなたの業界に都合がいいことですよ.
こうした目先の利益に釣られてしまうから,かんたんに行政のたなごころで遊ばれる.
どちらさまも自社の存在理由が希薄だと,好きにされるのである.
ましてや,気に入らないとペナルティーを課すほどに権力をふるうのが行政である.

この国は,おそろしい.

ゲスの勘ぐりですが,なにか?

先日,阿波おどりのはなしを書いた.
全国的に有名な「お祭り」だから話題になる,というのはもっともなのだが,わたしの興味は,ふつうは行政と一心同体の「観光協会」は,ほとんど役に立たない存在なのであるが,この例では「ふつうではない」ことである.

また,わたしは,「テレビ東京オンデマンド」の会員になっていて,やっぱりネットで視聴している.今週は,久しぶりに「バター シリーズ」を放送したが,なにに興味があるかといえば,批判の対象になっている「農協」の幹部のみなさんの「(悪役としての)態度」が,とにかく番組主旨に沿っていることの不思議だ.

たまたまテーマがちがう事柄ではあるが,本質的にたいへんよく似ているので「ゲスの勘ぐり」ではあるが,書いておこうとおもう.

ワイドショーは観たことがほとんどない.
しかし,いまは「YouTube」という便利な手段ができて,各局のこの話題だけを比較して観ることができる.
一連の「放送」で,もっとも詳細に「週刊現代」の取材内容をトレースしていたのは,「フジテレビ バイキング」であった.

それで,渦中の徳島市長が15日(徳島阿波おどりの最終日),「反論」のために緊急生出演をした.
詳しい経緯は前回書いたから繰り返さないが,破産した旧観光協会が取り組みをはじめた「自主改革」が,「利権」の根幹に触れたために「早期破産」という措置でこの世から消え,この「自主改革」を支援した有名連が加盟する「阿波おどり振興協会」潰しという構図になっているのが放送内容であった.

潰す側の市長が出演したのは,冒頭「全国放送で『利権構造』という間違った印象をながされことをただすため」であると述べたのは当然である.しかし,同時に出演した週刊現代記者との掛け合いは,まるで餅つきの相の手のごとくで,残念ながら市長の主張より記者の発言のほうが筋がとおっているから,視聴者はさらなる「確信」を得たのではないかとおもう.

結局,最初の放送で自身と徳島新聞への批判がおさまらず,祭り最終日に実行委員長本人が上京して「出ざるをえなくなった」というのが本当のところだろう.
市長一人を針のむしろに座らせる徳島新聞の凄みすらかんじる.系列の四国放送のアナウンサー部長だった現市長は,明瞭な声で発言はするものの,残念ながら,中身が薄くて原稿を読むのとははなしがちがうから「反論」はみごとに不発だった.と同時に,市長の頭も空っぽだとばれてしまった.

市長=実行委員長が「総おどり」中止を強くもとめた理由に「安全確保」があった.
最終日のこの日,台風十五号の影響で徳島市には「大雨警報」が発令されていたが,実行委員会は「決行」とした.従来の観光協会主催なら,雨天はチケットの返金をともなう中止決定をしていたはずだから,「安全」より「返金しない」を優先させたというオマケもついた.

この市長の発言からゲスの勘ぐりをすれば,「自己保身」ということの「執着」がどこまであるのか?がこれからのポイントになるだろう.すなわち,徳島新聞への「裏切り」はあるのか?に興味がうつる.
過去最低の集客だったことに強権的実行委員長としての責任問題はかならず起こるが,どこまでも徳島新聞を守ろうとすれば,自身への信頼が破綻するから,なかなかピエロに徹するのも辛い.
この神経戦に,市長が負ければ,鉄板だった「利権」の崩壊はあっけないかもしれない.

そうなれば一方の徳島新聞は,国家総動員法以来の「一県一紙体制」では生き残れない状態になるはずだ.いや,むしろとっくに生き残れないとしっているから「イベント利権」にしがみついているのだろう.似たような例は全国にあるはずだ.
おなじく国家総動員法以来すでに壊れてしまって起きた「地銀の統合」のような他県新聞社との統合を模索するようになる可能性があるから,こちらもウオッチしていきたい.

「バター」のはなしは日本の「食」をかんがえるうえで,ひとつのパターンをつくっているから,どうなるのかは興味深い.
しかし,本稿冒頭に書いたように,テレビ取材にたいしての「幹部」のみなさんの対応が,おそろしく「稚拙」なのでこちらをゲスの勘ぐりの対象としたい.

番組名を明かすと途端に態度が豹変する映像が,これもパターン化して対象が誰でもおなじになって放送されている.これは,「恐怖心」のあらわれではないか?まるで玄関チャイムで吠える「犬」とおなじである.
従来,農協は農水省と一体で,さらに「族議員」に保護されてきたから,このような「敵対的」なことにどうしたらよいか分からず,自己防衛から「強権的態度」になるのだろう.
日本の農協体制は,ソ連型コルホーズのガラパゴス化だとやはり「確信」したくなる.

「広報」という立場からすれば,そんな映像や音声が流れることがどんなに不利かは分かるものの,わからない幹部が「諾」としないのだろうか?それとも,「広報」もわからないのか?どうも不明なのだ.
その証拠が,弁護士による取材側への素っ気ない「回答書」を送りつける感覚である.法的にはわかるが,テレビ番組という特性を考慮しているとはおもえないこうした回答書を起案する法律事務所の実力にも疑問符がつく.

つまり,批判される農協側の関係者全員の「脇の甘さ」が,やけに目立つから始末が悪い.
視聴している一般人は,その誠意のない対応に,またまた「確信」的な感覚をうえつけられるだけである.
だから,自由な取り引きをもとめる側のひとたちへ,いっそうの応援をしたくなるようになるから,「稚拙」だけですむのだろうか?
農水省は農協を裏切って,自由な取り引きを要求する会社にも農協と同じ「指定団体」として早々に逃げているし,公取までが動いているのは役人のアリバイづくりではないかと勘ぐりたくなる.

おそらく,巨大ゆえに,組織のなかのフィルターをとおしてでしか世間をみることができない,成長不良なおとなたちの集団なのだろう.いわば,年をとっただけの子どもである.そのひとたちが権力をもっている.権力におもねれば,有能な弁護士をしてみちをあやめさせるから,おそろしい.
これは,阿波おどりの例と共通する.

おとなのなりをした子どもが仕切っている悲劇.
いつも損をするのは子羊のように抵抗をしらない一般国民である.

観光庁作成・外客利便性向上ガイドラインの愚

暇人がなにかをしたことにしようとすると,かならずアリバイづくりをするものだが,その暇人が役人になると,たんなる言い訳のためのアリバイだったものが「命令」になるから始末が悪いどころが社会に害悪をまき散らす.
この「愚」に,政治の「愚」が掛け算されるから,にっちもさっちもいかなくなって,業界は粛々と「命令」に従うしかなくなる.

結局は出国税の使途である.このブログでは「出国税A」のことだ.
その発想の前提が,「観光先進国として」である.
これを自画自賛という.

いったいわが国のどこが「観光先進国」なのか?
それで,トイレの洋式化をせよと国家が命じるのをおかしいと思わないのか?
つまり,出国税で得たお金をばらまく項目を挙げているにすぎないのだが,これらはかならず「補助金」という形式をとるから,事業者も自腹を切ることになる.

対象は「公共交通事業者等」である.例によって「等」がある.これはなにかがわからない.
書いた役人にもわからないのではないか?
つまり,「等」としておけば,あとからどうにでもなるからだ.
これに,交通結節点に密接に関わる「関係者など」と,「など」も登場する.こちらの方は「例」として観光案内所を運営する地方自治体,経路検索情報を提供する事業者,「手ぶら観光」サービスを提供する運送事業者,とやけに具体的である.

それで,「多言語対応」がでてくるが,これは「英語」だという.
通常案内だけでなく「異常時」もやれと命じている.
当然これらには,デジタル情報がからむから,公衆無線LANサービスやSIMカードの販売も拠点を設けろという.

しかし,もっと基本的な問題は,電波法の緩和で「日本の技適マークがない端末」でも,外国人観光客なら日本国内でつかえる,ということがどういうことなのか?という問題だ.
もちろん,外国人が自国で購入した端末なら,日本の技適マークがついているはずがない.しかし,これは,日本の電波環境に適していない端末を持ち込んでいる,という認識を本人がもたないと,とんだトラブルにもなりかねない.つまり「通じにくい」と.

それに,SIMカードといっても,現状で国際空港でも販売されているものは「データSIM」だけで,通話ができない.通話にはインターネット電話を使っているのが現状だろう.
また,その価格も高価である.
これらは,日本国内の通信がまるごとガラパゴス化しているからである.これを推進したのも政府であった.

それでWI-FI環境をなんとかしろというのだろう.
公衆無線LANサービスの安全性不安は,どうにも解決ができない.
だからわたしは海外旅行にも無線ルータは必需品としている.ただし,SIMカードは現地調達だ.ヨーロッパだと,日本の1/10以上も安価で手に入る.また,音声SIMも,購入時にパスポート番号を登録される仕組みで,駅のキオスクのレジが対応している.二週間の滞在で800円ほどで間に合った.この内外価格差をどうするのか?は,そもそも国民サービスのほうに重みがあろう.

このほかの命令は,上述した洋式トイレの設置から,クレジットカード対応券売機,交通系ICカード対応,車両内の荷物置き場の確保,乗車券・指定席券・企画乗車券のネット予約環境の提供があり,「義務とはしない」もので,多言語対応の券売機,周遊パスの造成,観光案内所の設置,荷物を持たないで旅行できる環境,サイクリストへの対応があげられている.

これらをみて思うのは,事業者とは利益をえる活動をしているから,お客様からよろこばれて収益があがるなら,設備投資にかんして別に国家から命令されるいわれはない,ということである.
愚にもつかぬアイデアで,民間の自由な経営を制約するだけではないのか?
対象となる事業者団体が,われわれは乞食ではないという矜持をもってもらいたいものだが,残念ながら補助金をもらえる方法に努力の方向がいくのだろう.

決済手段については,国際標準になったNFCに対して,その上の高速処理ができるFeliCaがやはりガラパゴス化しているから,結局クレジットカード対応になってしまう.
荷物を持たないで旅行できる環境やサイクリストへの対応は,なにも外国人観光客向けだけのことではない.

外国人観光客が日本の交通手段でおどろくのが,なんといってもその高額な運賃である.
たとえば,東京・京都を新幹線で往復すれば,28,000円はする.
LCCならどこまで行けるのか?をかんがえると,強烈な値段だ.これはなにも新幹線にかぎったはなしではない.

どうやら,オリンピックと外国人観光客が,打ち出の小槌になっただけだ.
しかし,税収からの投資を必要とするものはどれなのだろう?

ムダに肥大化した政府を縮める手だてがない.
出国税Aは,出国する外国人観光客と日本国民から徴収するものだから,日本国民の負担だけではなく外国人観光客も受益者負担をするというのだろうが,国民の富を奪って外国人観光客へ差し出すのが使途としてあきらかである.つまり,所得移転させるものだ.

政府の開発独裁はいつまでたっても止まらない.
こうした役所は百害あって一利なしだから,はやく廃止にすべきであろう.