カレーはフォークで食べる

「箸」のつかいかたが下手なのは,いまどきの外国人ではなく日本人という時代になった.
中学のころ,弁当に「箸」ではなく,スプーンをもってきている友人がいた.
なぜスプーンなのかをきいてみると,箸がつかえないから,というので仰天したことがある.
こども心にも,「どんな親なのかみてみたい」とおもったものだ.

親が箸をつかえなければ,その子どもにつかわせることはないから,「箸がつかえない」は,かならず連鎖する.
「個性」の誤解で,箸がつかえないことも個性にされる時代だから,不幸にも箸が使えない大人に育つ.

日本において,外国人とのフォーマルな食事にはたいがい会席料理が一度はある.
そこで,日本人として箸がつかえない,ことをさらすことがどのくらいの「恥」になるかということすら考慮されないなら,それは単なる「無智」ではすまされないほど,大人の無責任である.
きちんとした食べ方ができない,という人物は,彼ら外国人のなかでは軽蔑の対象になるだけだ.

だから,子どものときからの「躾」は,その子の人生を左右するほど重要なのだ.
できないことを「親のせい」にしても,自分が大人になっていれば,相手には恥の上塗りでしかない.であれば,自分たち外国人のように,大人でも練習すればよい,と発想されてしまう.

恥ずかしながら,そうはいっても,「箸」のつかいかたを極めているものではない.
あくまでも日常で「つかえる」という程度だ.
日本の礼法といえば,「小笠原流」.
見事な箸さばきで,公家を驚嘆させたはなしは有名である.

日本好きの外国人を招待する番組が人気だ.
このひとたちが,その道で一流の職人一家に招かれて,食事をする場面がある.
そこで,孫や子どもたちが驚いた顔をするのは,これら外国人の箸遣いと日本語能力だろう.

放送されない,「子どもたちも勉強の意味がわかるな」と,招待した家でのその後の会話が想像できる.きっとこの番組は,その部分において,とても「教育的」な番組なのだ.
子どもにとってのモチベーションアップは,かならずあるとおもう.
だから,お別れのシーンで,子どもたちの目が輝いている.

ひるがえって,洋食といえば,フォーク・ナイフ,それにスプーン(カトラリーという)が道具である.
「箸」に比べれば合理的な形をしているから,簡単につかえる,とだれでもおもう.
しかし,これがあんがいそうではない.
また,マナーとして勘違いしている日本人はおおい.

西洋料理の発祥のひとつは,イタリアンである.
そもそも,フランス料理があたりまえのように手づかみであったころ,イタリアではカトラリーが発明されていた.
それがフランスに伝わるのは16世紀に,フィレンツェのメディチ家からフランス王に輿入れしたカトリーヌの嫁入り道具であった.

ああ,なんという彼我の差.
おそるべし,「箸」文化の歴史の古さよ.
ついこの前まで手づかみだった我々は,文明人だったのか?
これが(珍しくも)東洋に憧れる西洋人からの発想だ.

イタリアンといえば,パスタ.パスタといえばスパゲッティ.
スパゲッティは,フォークに巻き取って食べる.これが難しい.
20代はじめの頃,ミラノ近郊の家庭に招待されたことがある.そこでいただいたスパゲッティの味は,いまだに忘れられないが,家族のみなさんの見事なフォークさばきは,なかなか真似できなかった.

ヒョイと皿の上の頂点付近の麺をすくい,フォークにからませると,そのまま空中で巻き取る.
このとき,親指の動きが重要なのだ.
やってみると,うまくいかない.そこで,皿のヘリにフォークを当ててクルクル巻き取った.
どうやら,この方法は,マナーとして幸いにも「許容範囲」であった.

お箸の日本のマナーで,口に運ぶとき落ちないように箸を持たない手を添えるのはタブーであるが,これが丁寧だと勘違いしている日本人はおおい.
その延長か,日本女性のおおくが,スパゲッティをたべるとき,巻き取るための補助としてスプーンをつかうのだが,これは,イタリアでは子どもの食べ方として認識されているようだ.

スプーンは,液体をすくうものという概念が強いからである.
自転車に乗れるようになるまでの補助輪とおなじだから,正餐のときにはやらないほうがいい.
しかし,人間には「行為スキーマ」という,自然に体がいつもの動きをしてしまう特性がある.
だから,いつもから注意していないと,本番だけでは失敗する.

ほぼ和食になった西洋料理のなかでも,国民食といって反対意見がないのはカレーだろう.
インドを支配した英国人が,本国に持ち帰った料理を,英海軍を手本とした日本海軍が輸入したのがはじまりだから,日本のカレーのルーツは英国である.
それで,英国のスパイス専門会社「C&B」と,日本のスパイス専門会社の名前までそっくりになっている.

いったん洋上に出ると曜日がわからなくなるので,いまでも海上自衛隊は,組織全体で金曜日はカレーの日と定めている.これで,隊員たちは「もう一週間たったのか」となる.
事前に申し込んで横須賀などの「母港」に行けば,停泊中の船でオリジナルカレーがいただける.
全艦船,それぞれ味つけが違うというけど,一般人で制覇したひとはいないだろう.

日本のカレーは,小麦粉で粘度をましてジャポニカ米のご飯と馴染むようにできている.
しかし,西洋の発想には「主食」という概念がないから,カレーライスは微妙な食べ物である.
日本人は,パンを主食とかんがえるが,あちらはちがう.

カレーをご飯なしで食べるならスープ扱いになるが,肉や野菜はフォークで食べることになっている.
ましてや,あちらで「米」は,野菜扱いなのだ.
つまり,日本式カレーライスは,フォークで食べるもの,となる.
これを,スプーンで食べるのは,離乳食的でまさに子どもの食べ方になるのだ.

でも,子どもの食べ方でもスプーンのほうが食べやすい.
だから,「日本式」にカレーライスはスプーンで食べるのだ.
いや待て,それでは「箸がつかえない」で押し通すようなものではないか?

なるべく,フォークで食べる練習をしておいたほうがよさそうだ.
しかし,たくさんの外国人が来日して,カレーはスプーンで食べるもの,と知らずに教育しているから,あんがいそのうち,あちらの常識がかわるかもしれない.

本来はフォーク.
確信犯としてスプーンをつかう.
とりあえず,このくらいで勘弁してもらうのがいいのだろう.

ニュースがない日のニュース

メディアと呼ばれているものの特徴に,「枠」がある.
放送時間「枠」に記事の「枠」.
テレビであろうがラジオであろうが,新聞であろうが,かならず「枠」がある.
それで,この「枠」をどう埋めて売るのか?が,各社の競争になる.

ニュースらしいニュースがあれば,しかもたくさんあれば,「選択」が重要になって,なにを報じてなにを削るかが「判断」のしどころである.
ところが,億人単位のひとが暮らしていても,たまには平穏な日もある.
すると,たちどころにニュースがない,という事態になる.

そこで登場するのが,溜めてあった記事である.
「今日はロクなニュースがないな」
という日は,このような記事のことを「ロク」という.
じつは,「ロク」には本格的という意味がある.つまり,受け手の期待値がこれでわかるというものだ.

ついつい大きなニュース,つまりは自分が関わらない「大事件」を読者は要求している.
それで,「事件記者」は飛び回って取材する.
一般に,これらのことを「フロー」という.
浮き沈みのあるものだからだ.

たとえ連日連夜でも,フローな記事ばかりを読んだり聴かされたりしていると,「だからなんだったのか?」と,ふとわからなくなることがある.
これを,「本質を見失う」という.
「表層の事象」が「フロー」でもあるから,そればかりの報道だけに接していると,わからなくなるのは当然である.

「売上」も「利益」も「フロー」である.
一般に,「売上」-「経費」=「利益」だから,「売上」と「利益」が「フロー」なら,「経費」はなんだっけ?とかんがえると,「フロー」でも「フローでなくても」,こたえの「利益」は「フロー」になる.

実務では,ほとんど役に立たない「損益分岐点」を算出するには,「経費」=「費用」を,売上に連動する「変動費」と,売上とは連動しない「固定費」に分解すること,と教科書にはかいてある.
つまり,「変動費」が「フロー」で,「固定費」は「フローではない」.

このかんがえ方が,ナンセンスなのは,「材料費」を「フロー」だといっていることにある.
ある商品がどのくらい売れるか?がわからないから「売上」は「フロー」なのだ.
それで,その商品をつくるときに必要な「材料費」は,売上に連動するから「フロー」の「変動費」であるという.

ところが,商品ぜんぶを予約注文で販売していて,注文が入ってから材料を発注してつくるならいいが,さいしょに商品を製造してから店頭で展示して売るならどうか?
そもそも,その商品が今日,何個売れるかわからないのである.
だから,一見もっともらしいが,後出しじゃんけんでしかない.

ニュースとおなじように,「フロー」ばかりを観ていると,本質がわからなくなるということになっている.
もうお気づきだろう.
重要なのは,溜めこんだ「ストック」のほうである.

企業の「決算書」のさいしょに「貸借対照表」がある理由である.
しかし,ほんとうに必要な情報は,ここにもない.
あるのは,従業員の頭と体のなかである.
それをどうやって「見える化」するのか?
これが,経営である.

鎌倉時代の暇人,兼好法師が書いた「徒然草」には,ニュースなんてものはないということがある.
人間がやってきたことは,いつでも似たようなもので,大事件にみえるようなことでも,たいがい過去にしでかしている.
だから,ニュースなんてない,という.

なるほど,ニュースを1,000年分ほどストックすると,おおかたの事件も初めてではないだろう.
ニュースがない日のニュースほど,新聞社のふだんのストックがわかるというものだが,「ロクなニュース」がない,のが現状だ.
すると,1,000年分ほどのニュースを電子ストックして,AIが適確な解説を今日のニュースに与えてくれるかもしれない.

社内行政マンの出世

昨日は,本当の行政と政治の関係をかいたから,その延長にある民間の社内について書いておこうとおもう.これは,以前このブログで書いた,ガルブレイスの話の別角度からの解説にもなろう.

明治維新の不思議に,明治政府の編成がある.
江戸幕府をたおした,薩長政権であった明治新政府が,すばやくその組織体制を整えることができたのはなぜなのだろう?
「欧米への視察」ということだけの経験で,はたして政府組織を構築できるものか.
もちろん,外国人顧問団の存在もあっただろうが,「政府機構全体」のことである.

政府もさることながら,民間も,どうやって「会社組織」を構築したのか?
しかも,おおいに資本主義を基礎にした,「会社」のことである.
これは,政府に依存しながら,民間が真似た,といっていいのではないか.
初期の産業振興とは,政府主導の典型的開発独裁体制であった.

これに,「学制」がペアになって支えたとおもう.
政府だけに人材をおくるのではなく,民間にも人材が必要である.
それで,帝大と私学という棲み分けになったのだろう.
どちらも,当時の学校制度からすれば,「エリート」の育成機関にほかならない.

これらは,江戸時代からある身分制度とも連携したとかんがえるのがふつうだ.
「工商」の身分なら,そのまま家業を継ぐ.
「士農」もおなじだが,豪農なら子息を大学に進学させることができたろう.
それが後に,軍のエリートにもなって,歴史をうごかすことになる.

だから,当時の「サラリーマン」はエリート層だっただろう.
工員や職人は,転職があたりまえだった.
当時から,腕のある職人を御すのはたいへんだったというはなしはおおくある.

今では,大学卒業者のことを「大卒」というが,むかしの「学制」だと「学士」である.
いまだって「学士」なのだが,恥ずかしくて自ら名乗れなくなった.大学をでると,学位をえるという感覚はほとんどないだろう.
むかしの「学士」には,やっぱり「学」があったから,いまとはちがう「エリート」である.
つまり,民間でも高級事務職には,「学士」がなった.

これは,いまでいう「MBA」に匹敵しただろう.
だから,若くして相当の権限をもって経営に参画していたはずである.
軍でいえば,「主計将校」か「作戦参謀」ということになるだろう.

尋常小学校卒業者,中学から師範学校,高等学校に分岐して,大学に進学するという各コースは,人数の構成がピラミッド状になっていたことでもわかる.
そもそも,旧学制では,中学に進学することじたいが珍しかったから,ほとんどは義務教育の小学校卒業者で社会が構成されていた.

これが,戦後になって大きくかわる.
「公職追放」というイベントで,戦争中の経営者が追放されてしまって,「敗戦利得者」が代わって経営を引き継いだ.
政府で,公職追放になったのは,解体された軍人と政治家だったから,高級官僚は生きのこる.これが,政府と民間の関係を決定づけたのではないか?

しかし,民間でも戦後体制は,旧制大学出のひとたちの時代がつづく.
明治のおわりから,大正時代に生まれたひとたちだ.
昭和生まれの新制大学卒業者がサラリーマンで現役だったころ,会社の幹部はまだ旧制大学出に占められていたはずである.

だから,高度成長時代とは,じつは旧制大学出のひとたちの時代だった.
それで,ノー天気な状態でもなんとかなったから,「無責任男」がやってくる.
裏から観れば,重圧な蓋にとざされた閉塞状態の社内にあって,新制大学卒業者たちの悲哀の物語ではないのかともおもう.
救いは,経済成長で,会社がおおきくなれば,ポストも用意されたからだ.

そうこうしているうちに,時間という残酷な現象が世代交代をうながす.
旧制大学出のひとたちの時代がしずかにおわった.
それで,「無責任」を旨としたひとたちに順番がまわってきた.

もちろん,以上のストーリーは大きな物語であって,個別にどうかということではない.
しかし,この話には「無責任」でもなんとかなるという「行政」の本質がかくれている.
旧制大学出のひとたちからの下命を,上手にこなせばよいのだ.
かんがえるのは旧制大学出のひとたちの頭脳であった.

こうして,役所には「行政」をはるかに超える業務範囲がのこり,民間には「行政」だけがのこった.

社会の基礎をつくるのは,教育である.
「大卒」という「高学歴」にすれば,生産性が高まる,と旧制大学出のひとたちはかんがえなかった.
彼らはむしろ,「適性」と「専門」を重視した.

経営に関していえば,「MBA」批判はあるものの,とにかく「経営の専門家」が重要なのだ.
経営学者が重要なのではない.
そういう意味で,「エリート」すなわち「専門のリーダー」教育が欠如している.
決められた枠からはみ出さない,正しき行政マンを出世させて,リーダーにするしかない,という状況をいかに変えるのか?

政治の状況と同様に,厳しい課題がこの国にはある.

持ち回りをやめられるのか?

「昭和」の終わりかた,という本があったら読んでみたいものだ.
奇しくも,昭和63年から昭和64年の年越しで,民放連による「ゆく年くる年」が終了した.
大晦日の新聞テレビ欄は,NHKの「ゆく年くる年」と,民放の「ゆく年くる年」が,30分ほどではあるが,一本の帯をつくっていた.
これをしっているのは,もう40代以上のひとたちになる.

ふだんは視聴率をあらそう民放各局が,年に一回,休戦協定のようにぜんぶがおなじ放送をした.
そして,各局の持ち回りで「担当局」を決めていたから,じつは「一大看板番組」だった.
「局の総力」といってもいい.
人間がきめた,暦による「年末と年始」という1/365の珍しさが強調されたのだ.

しかし,引いてかんがえれば,毎日が1/365なのであるから,年越しが特別だというのは,あんがい意味はうすい.
このブログでも書いた,明治5年の年越しは伝統ある「太陽太陰暦」から「太陽暦」への転換だっから,それはもう特別だったろうが,おそらく人びとは「へーっ」といって日常を過ごしただろう.

各局同時放送が終わりになったのは,休戦協定の意味が薄れたからであった.
すなわち,視聴者の価値の多様化である.
それで,各局が独自に放送することになった.
まさか,昭和の終わりと時を同じくしたのは偶然だったにせよ,「価値の多様化」は偶然ではない.

大イベントで,会場を持ち回りにしているのは,スポーツの世界が好むことだ.
いま開催中のサッカーもしかり,オリンピックが集大成である.
それで,あまりにも「金銭」が動くから,これらを仕切る団体には,巨大な利権がまとわりつくのは自然なできごとだ.

その利権の誘惑に,「勝つ」か「負ける」かの神経戦が,団体理事たちに課せられる.
なるほど,スポーツとは,まさに「心技体」の心得がみがかれるものである.
一方では,否定的な見解もある.
それで,オリンピックという祭典をやめるべきだという論も聞くようになった.

そうしてかんがえると,政治の世界の「サミット」を筆頭に,持ち回りで開催されているものがある.
いつもおなじ場所だと,いけないわけは「気分」にちがいない.
首脳たちも人間だから,「気分」はたいせつなのだ.
それに,警備や宿泊先などは,一生に一度の経験を強いられるから,実力の「底上げ」にもなる.

外資系の会社に働いた経験で,「なるほど」とおもったことに,ふだんから贅沢なオフィス環境にいながら,なぜに外部の贅沢な会議室を借りてまでの会議をしたがるのか?という不思議のこたえがある.
それは,ここ一番の会議でほしいのが「アイデア」だったからである.
そのためには,環境をかえることが有用だということが心理学でわかっている.

「今日ほしいのは,アイデアだ」そして、「これにかかる経費は,株主も納得するだろう」がつづく.
ふだんの贅沢なオフィス環境も,「高いパフォーマンスを得るには,オフィス環境は大事だ」だから,「株主も納得するだろう」となる.

典型的な日本企業は真逆である.
占領軍が持ち込んだ,前線基地用のスチール机と椅子でよい.
せまい事務所に,人を押し込んで,なんとかする.
これが,経費削減というものだ.

アクション映画,「ランボー」で,主役のスタローンを上司が説得する基地のセットには,日本のオフィスで定番のスチール机と椅子があったのが印象的だ.
それは,急ごしらえでも機能だけがあればよい,という「軍」の備品としての完成度を意味する.
なるほど,耐久性はハンパないわけだ.

重要な会議のために,重要な立場の人物のスケジュールがかんたんに調整できる,ということはほとんどない.重要な立場の人物ほど,日程が込み入っているからである.だから,秘書がつく.
それで,「持ち回り会議」が発明された.
すなわち,書類を回覧してサイン(印鑑)をもらう.

国家であれば,「持回り閣議」という.
企業であれば,「稟議」というものだ.
「印鑑」の文化がある日本には,役所が認める「印鑑証明」という制度がある.
それで,日本企業で「役員」になると,会社に「印鑑証明」も提出する.

「稟議」は,「持回り役員会」だから,この書類への押印は法的行為となる.
それで,印鑑証明の印鑑,すなわち「実印」をつかう.
相続に失敗して,親の借金まで相続したひとが自己破産したら,管理職として会社での「押印」という法律行為ができなくなるから,業務遂行に支障をきたし,「合法的に」解雇された事例がある.

電子決裁時代になって,「稟議」をはじめとした各種書類が,いまだに「紙」という会社は少ないだろう,ということはない.
日本のばあい,役所もふくめ,まだまだ「紙」の時代である.

ビットコインと呼ばれる仮想通貨には,「ブロックチェーン」という技術がつかわれている.
この技術は,書き換えの記録が必ず残る,という仕組みである.
この技術をつかった,社内決裁がもっとも実用的であろう.

電子決裁の利点は,スピードにある.
「紙」の持ち回り決裁をしている,日本のおおくの企業で,どのくらい「スピード」が重視されるのか?が,最大の難所である.

持ち回りはやめられないが,経営陣のなかでの決裁スピードも求めない.
それで,従業員の生産性を疑うのなら,笑止というべきか.

絶望的な温泉宿

老朽化は人間だってやってくる.
それで,豊かになったら「アンチエイジング」という保険がきかない医学的手法をもってしても,若返ろうとするのは,ある意味本能でもある.
永遠の命,というわけにはいかないが,なんとか自分の肉体を若くて健康的に維持したいのはだれだってそうだろう.

ところが,建物がないと商売ができない宿泊業をやっているのに,その建物の「アンチエイジング」がぜんぜんできない経営者がいる.
よせばいいのに,そんな経営者ほど名誉をほしがる.
それで,まるで廃墟のようなロビーに,「褒章額」が飾られていることがある.

さほどに「自慢」したいのか?
さほどに「偉さ」を訴えたいのか?
しかし,客目線からすれば噴飯物のまるで「マンガ」である.
その前に,ロビーには「今日の新聞」を置いてほしい.

「ロビー」と「ラウンジ」というなら,せめて電気をつけてほしい.
自動販売機に,業者向け張り紙はやめてほしい.
売店に,賞味期限切れの食品は置かないでほしいが,それよりも,よれよれの誰かのスーツ上下を,針金のハンガーにつるして放置しないでほしい.どう見ても「商品」ではあるまい.

日帰り温泉入浴でたまたま立ち寄った宿である.
フロントに誰もいなかった.
ロビーには,ソファーでパンを食べているひとがいた.
このひとが,支配人だった.

入浴料金を支払って,大浴場に行ったら,脱衣所にも浴室にも照明がついていなかった.
いかに一人だけとはいえ,薄暗い中での入浴は気分がわるい.
それで,スイッチをさがして点灯した.

広い湯船には,素晴らしい泉質の温泉が満たされていた.
やや熱いのが難である.
さいきんは,「ぬる湯」が人気だが,きっとここの人たちは識らないのだろう.それに,この泉質なら「ぬる湯」が向いている.
ぞんざいにして放置したようにもみえる,温泉成分表にあった源泉の温度は20度そこそこだったから,「ぬる湯」にすれば,光熱費もたすかるだろうに.

一人だけだし,掛け流しなので,行儀がわるいが湯がこぼれる湯船のヘリに寝転んだ.
ああ,快適である.天井のシミがまぶしい.
寝湯のコーナーがあって,「ぬる湯」だったなら,しばらく出たくないだろう.
そうやって,「この宿の再生」をツラツラかんがえてみた.

まずは,「温泉」第一である.
おそらく,従来は,宴会ができて温泉があって,泊まれるという順番の「宿」だったろう.
その需要は,もうないはずだ.

素晴らしい泉質の温泉にじっくり入れる.
よければ,泊まれて明日も温泉に入れる.
食事は近所の食堂にいっていただいて,ここでは用意しないから,弁当持ち込みでも良い.
つまり,泊まれるだけの温泉でいい.

そのためには,圧倒的なお風呂に改装しなければならない.
さて,どんなお風呂にするか?
「ぬる湯」と「熱湯」は,いまの湯船を半分に分割すればできるかもしれない.
しかし,「ぬる湯」に「寝湯」は必須だ.寝湯の場所の権利を別料金にしたい.

そうなると,防水タイプの電子書籍リーダーがほしい.
浴室に,飲泉所もいるだろう.
飲泉の許可をどうするか?
それに,宴会場を休憩所に変更したい.

さて,これらでトータルいくらの投資が必要か?
食事提供の停止と,宿泊は限定室数販売で,従業員の必要人数は相当に減るだろう.
ただし,浴室廻りと館内清掃の徹底で,どれほどがプラス要因か?
.............
湯上がりに,薄暗いロビーでたたずんでいると,フロントカウンターからの目線を感じた.
こちらの様子を伺っているようだが,話しかけてくるようでもない.
それで,落ち着かなくなって「褒章額」をみつけた.

きっと,この宿は「自力」でなんとかしているのだろう.
勲章をもらったのだから,金融機関に頭をさげる気もないにちがいない.
これはこれで「矜持」というのかしらないが,わたしごときのアイデアは余計なお世話になるはずだ.
半分以上,本人たちも投げ出してしまった商売が,これから急転換するならいい方向のはずもなく,一期一会とはいうけれど,「良いお湯でした」としかいいようがない.

ただひとつ,勲章をもらうためにした努力を,経営のためにしておけばとしか言葉がない.
その「褒章額」には,たかだかこの十何年かばかりの日付と,顔がはっきり浮かぶ総理理大臣の名前があった.
絶望的な温泉宿に,久しぶりに出会ったが,おそらく時間の問題だろうとあきらめた.
たんなる老朽化ではない.自社に対する愛情すらもないから,こうなるのだ.
願わくば,温浴施設として,,,,,やっぱり,無理だろう.

地元貢献のない駅ビル

副業ができなかった国鉄時代から,なんでもできる「民営化」で,いまさらながらどこにでもおなじ「駅ビル」がつくられた.
「どうやって乗車してもらうのか?」に汲汲とした「国鉄」は,「ディスカバー・ジャパン」とめいうって,さまざまな取り組みでもがいていた.

山口百恵の「いい日旅立ち」のヒットもあって,「旅の情緒」を発信していたのが懐かしい.
これに乗じて,サントリーがウィスキーのポケット瓶と古い車両の夜行列車での「旅」をイメージしてつくったCMは,いつか大人になったらやってみたいと思わせたが,肝心の「夜行列車」がなくなった.

鉄道会社の本質はかわらないから,いまでも「どうやって乗車してもらうのか?」はテーマにちがいないが,どこで近代を「勘違い」したのか,ガラスとコンクリートのキラキラ駅舎と駅ビルを金太郎アメのように量産したから,駅頭に降りたっての「旅の情緒」は皆無になった.だから,駅舎を背景に,記念写真をとるひとがいない.建築として,無価値ということでもある.

これには,地元自治体の責任もある.
「駅舎」や「駅ビル」は,地元の顔そのものである.
その「顔」をどうするのかの哲学が,どちらさまにも一貫して「ない」という証明になっている.
あるのは,「東京のコピー」だから,それで識られる発想は,全国一律均等なる発展,という日本列島改造論そのものである.これを「哲学」といいたければそれもよしだが,浅すぎないか?

つまり,圧倒的な「おらが街」の主張がないから,旅人は不満なのだ.
「ついに来たー!」という気分がしない.
その土地の,歴史や風土や風習が感じられるデザインとはなにか?
まったくの研究不足といえるのではないか?

見た目の問題だけではない.
「駅ビル」だから,なかには「商店」や「飲食店」が入店する.
それも,金太郎アメになった.
どの駅で降りても,おなじ店.

JRは,鉄道会社という本業を捨てて,いつのまにか不動産会社になってしまった.
儲かればよい.
たしかに,国民からすれば,適度に儲けてもらって,国鉄清算に貢献してもらわないとこまる.
しかし,彼らの経営思想に,ほんとうに上記の「貢献」が念頭にあるのだろうか?
ただ,儲かればよいになっていないか?

もちろん,かつての「分割」には問題があるのは承知している.
本州の三社はまだしも,北海道で一社,四国で一社,九州で一社は,どうしたことか?
その九州が,鉄道会社としての意地をみせてはいるものの,北海道と四国はたいへんである.
それに,本州だって,普通列車で旅をしようとすると,「東」会社と「東海」会社が,利用者を無視したダイヤを組んで,両社をまたぐのが厄介なのだ.「会社がちがうから」とは,なんという愚かさか.

「駅ビル」への入店は,地元の商店に声かけがあるのは識られたことだ.
問題は,このときの駅ビルの規模と,地元商店街の将来像との関係だ.
資本に乏しい地元商店は,駅前商店街と駅ビルという近接二カ所での経営に耐えられるのか?
まずは「需要」である.つぎに「コスト」である.そして,ボディブローとなるのが「他店舗経営ノウハウ」の有無である.

この「他店舗経営ノウハウ」がないのは当然である.
街道筋の時代から,多店舗化などまずやったことがないだろう.
むしろ,宿場町の街道筋から外れたところに「駅」ができたことから,「移転」の経験だけはあるというところがおおいのではないか?

その駅前商店街に移転してきて,昭和の繁栄から衰退したいま,数百メートルもない近接の駅ビルに「出店」しても,売上が倍になるわけではないだろう.
こうして,地元最高立地のピカピカ駅ビルに入店した,地元老舗が力尽きるのである.
哲学がないばかりか,商売をしたことがない地元の役所は,駅ビルに入店すれば繁栄するはずだとしかかんがえられない.

このようにして,空いた店舗を鉄道会社は不動産業として全国チェーンに入店をうながすから,地元の駅ビルに地元の商店はなくなり,ついでに駅前商店街にもシャッターが増えるのである.
つまり,駅ビルと駅前商店街は「トレードオフ」の関係にある.
どちらかが栄えれば,どちらかが衰退する.

だから,役所が都市計画として,ピカピカな駅ビルを誘致するなら,駅前商店街を放棄するほどの覚悟がいるのだ.しかし,そんな覚悟はできっこない.
地元の購買力は,一定であるのにだ.
だから,駅ビルをつくりながら,商店街には補助金をばらまく政策でごまかすこととする.

店側は,そんな役所は頼りにならないのだから,かつての創業地,宿場街の街道筋から駅前商店街に移転したごとく,駅ビルに移転するという選択肢を検討するのが筋である.
ただし,地元の人口減少予測をみてからのはなしである.

このように,駅ビルは,中小都市の顔として,あんがい地元に貢献していないものなのだ.
だから,都市計画で,駅ビルを作らせない,という手もある.
こうした街の駅前商店街は,当然元気だし魅力がある.

適度な購買客がいれば,商店街も魅力をだせる力を得るが,この逆はない.
適度な購買客が減少すれば,商店街も魅力を失う.
新商品の品揃えのための資力がなくなるからだ.

ぼちぼちと「買い物難民」が中小都市で発生している.
大資本の店舗が,売上効率の低下をもって撤退するからだ.
そして、店舗跡地は廃墟になる可能性もある.
駅前商店街の出番はあるのだが,駅ビルが邪魔をしている.

石に価値をつける

「貴石」なかでも「宝石」は,だれでも貴重だとおもうから,最初から価値があるとかんがえる.
しかし,それがちゃんとした「宝石」だと思わせないと,「宝石」だとわからないこともある.
だから,「宝石」の知識が人びとにあって,はじめて「宝石」の価値がうまれる.
それでも,ただの石だとおもうひとは,それが「宝石」であっても目もくれないものだ.

マルクスの資本論は,さいしょに「労働価値説」を土台にしている.
単純化して,時計工場の例で説明している.
これを真っ向から否定したのが,小泉信三の名著「共産主義批判の常識」(新潮社,1949年)であった.

海女が海底から貝を得る労働と「おなじ労力」で,石を持ち帰っても無価値であると.
つまり,労働がすべての価値をつくる,というマルクスの説は間違いで,「市場価値」がなければならない,と説いた.もちろん,マルクスはその「市場」も否定していたから,これだけで小泉博士はマルクスを撃沈させた.

マルクス信奉者たちは,さまざまな「理論」をもって「科学的」と自称していたが,それは「似非科学」の「宗教」であった.しかし,こんなことが,1991年のソ連崩壊まで信じられていて,今年の「マルクス生誕200年」を「祝おう」というのだから,どうかしている.

「福祉国家」といえば,「スエーデン」として崇める学者ばかりの日本にあって,そのスエーデンの元首相が,マルクス批判をしている記事はこのブログでも紹介した.

わが国で宝石の県といえば,山梨県があげられる.
もともと,水晶の産出で栄え,いまでは人口当たりインド料理店が日本一というほどに,インド人の宝石商がおおく在住していることでも有名である.
彼らは,世界に向けて日本の加工技術を売っている,とかんがえると,なんだか頼もしいが,ほんとうは,それを購入する顧客が日本人であってほしいものだ.

それで,県内とくに甲府周辺には,観光客に向けた大型「宝石店」がある.
おもに大型バスでやってくる観光客が相手である.
こうしたシチュエーションでは,外国の観光地でもおなじだが,乗客たちの財布をいかに開かせるかのテクニックが問われるものだ.

つまり,購買意欲がほとんどないか,買うまい,と心に決めてバスを降りるひとたちとの神経戦がはじまるのだ.
そして,どこか怪しい雰囲気で「説明」がはじまる.
それは,お客の「意志に反して」,「石に価値をつける」作業のはじまりでもある.

店によって独特の工夫があるのだろうが,物語は駐車場からはじまっている.
これは,一種のテレビ・ショッピングのリアル版なのだ.
店内の回遊式の構造は,たいへん効率的な流れをつくっている.
最初の「掴み」である専門的な説明から,じつに大雑把なはなしまでの混在が,購買心理に火をつけるのだろう.ちゃんと「起承転結」になっている.

こうして,地球上にありふれた「石」が,購入されていく.
もちろん,買わないひとは一切買わない.
すごい,と思うのは,このネット時代に,こうしたやり方がおそらく何年もかけて開発され,いまでも成立していることなのだ.
一歩まちがうと,大トラブルになりそうなものだが,そうならないギリギリの一線が,ある意味緊張感を生んでいる.

本物とニセモノが混在したような,混沌が,それなりの市場を形成しているのだろう.

ものが売れないのは,売れない理由がある.
人的サービス業の不振も同様で,不振には不振の理由がある.
一方で,その場で売り切ってしまえば後はどうでもいい,というかつての観光客向け掠奪産業では,なにを投稿されるかわからないし,永続しない.

石に価値をつける.

簡単そうで簡単ではないだろう.

ベンチマークは競争相手か?

誰がライバルか?
気になるのは経営者だけでなく,従業員もおなじだ.
だから,一流には一流のライバルが存在する.
これが,スポーツなら,ライバルの引退が本人に与えるガッカリ感ははかりしれない.

企業であれば,業界内のライバルこそ,自社発展のための原動力になる.
だから,おのずとライバル社は昔からさだめられている.
しかし,さいきんはライバルが自己崩壊して,気がついたらいなくなっていた,という事態もありうるし,他業種からの新規参入企業が急成長をとげて,気がつけばライバルになっていた,ということもありうる.

つまり,流動化である.
これは、固定的な状態よりは望ましいことだ.
利用客にとっては,選択肢がふえていることを意味するからだ.
うっかりすると自社も,もしかしたら安穏としていられないから,緊張感がでればよい.
一方で,長年のライバルを失うと,自社も方向性を失うことがある.

そこで,でてきたかんがえかたに,ベンチマークがある.
言い方は良くも悪くも,パクリ元である.
オリジナルを考案して,それを実行するというのは,なかなか簡単ではない.
だから,パクる,というのは有効だ.

これを,どこに行っても同じ「横並び」としないようにするのは,それはそれで技術がいる.
「まねした電器」と揶揄されようが,ライバルが開発した新商品を,短期間でオリジナル以上の完成度で安く大量販売するのは,やってみろと言われても業界他社には真似ができなかった.
この会社の苦境は,電器製品がソリューションとセットになった時代になって発生した.困ってしまって,「高単価多機能化」に走ったら,「低単価低機能」商品に大敗してしまった.

「ものづくり」産業に,ものだけ上手に作ればよい,という旧来の価値観が通用しない転換点がやってきて,とっくにとおりすぎてしまった.
それで,旧来の製造業が成り立たなくなった.
「円高」だけが,空洞化の原因ではない.
むしろ,顧客志向から勝手に離れて不振になったことを,「円高」のせいにしてはいないか?

人的サービス業の企業再生の現場で,従来のライバルはどこかと質問すると,ご近所をあげることがおおい.それで,その相手はいまどうしているかと問えば,廃業していることがあれば,なんとか復活していることもある.
もちろん,そのなんとか復活したやり方をパクりたいのが本音だが,近すぎてできない,ということがある.

それでは,全国を見回して,自社の顧客がめったに行かない地域での参考になりそうな事例の研究を問うと,おどろくほど共通して,そのような研究をしたことがない.
その理由は,ベンチマークを他地域に求める,という発想がないからである.

つまり,地元しかみていない.
もちろん,地元の顧客志向のことではない.
地元のライバルがなにをしているのか?しかみていないのだ.

これは,旧来の製造業が苦境に陥ったのとおなじパターンである.
つまり,あたかも製造業とはちがうサービス業だと定義しても,何のことはない「大量生産大量消費」という,かつての方式をいまだに追求しているすがたである.
それで,再生にいたったのだから,この方式をやめる努力がひつようである.

ところが,再生支援をするお金をだす元が,この方式をやめさせない.
成功体験よもう一度.
ワンパターンでしかない成功方法を,別の角度からできないか?
つまり,登るべき山がおなじなのである.

そうではなくて,登るべき山は別にある.
すでに,地方の金融機関すら,自分たちの登るべき山が別になった.
それなのに,融資先には従来どおりを期待する.
何をか言わんや.

経営者には,しっかりとベンチマークをみつけてほしい.
そして,自社が他社のベンチマークになれるにはどうするとよいのか智恵を絞ってほしいものだ.

中国製の餡こ

スーパーマーケットは観光地である.
国内でも海外でも,旅行先のスーパーマーケットにはかならず寄ることにしている.
国内だと,ほとんどが全国ブランドだが,すみずみまでよく観察すると,いがいなコーナーにみたことがない商品があったりするからやめられない.

現地在住のみなさんには,おそらくその「珍しさ」はないだろう.
とくに,静岡県は全国ブランドが,全国販売前に試験販売する地域だから,どうしても長時間滞在になる.
しかし,静岡県にかぎらず,他県でも,珍しいものが発見できる.
これらは,あくまでもわたしの目線なので,それぞれの目線からさがすことをおすすめしたい.

さて,外国のスーパーには日本にはない独特の雰囲気がある.
そもそも.カゴやカートから構造がちがう.
ヨーロッパでは,カゴに車輪がついていて,手提げ部分が棒状になって床を引きずり回すようになっている.
食べ物がはいっているカゴを床に置いて,足で動かしながらレジの順番を待つひとがいるから,これを批難してもはじまらない.

レジ係は着座していて,客がカゴから商品をだして精算するようになっている.
土産にと,おなじ商品を箱買いしても,レジ係が箱をこわして一個ずつにレーザー照射する.日本だと,「一つ照射×個数入力」をして手早いがそうはいかないルールがあるらしい.
ただし,現地人は支払方法は現金払いではないことのほうがおおいから,この点,日本人はクレジットカード精算以外なら海外でも現金払いを苦にしない.

ヨーロッパ現地人は,携帯やクレジットカードであっても日本の「スイカ」のように端末にかざすと精算できる「NFC」式が主流で,とくに後から普及した東ヨーロッパでの利用率は高い.
今年の春になって,日本でも大手カード会社が外国仕様の「NFC」に対応できるようにしてくれたから,日本で買える「NFC」機能がついたスマホで外国でも買い物ができるようになった.

だからといって,日本と香港にしか普及していない「スイカ」のような,「FeliCa」式がすぐに廃れることはないだろう.「FeliCa」の処理スピードは,「NFC」の追随をゆるさない速さだから自動改札が詰まることはない.
しかし,ソニーの発明の「FeliCa」は,かつての「ベータ」と「VHS」のようなことにならないともかぎらない.「世界」が相手だと,技術的に優れていることが優位とはいえないのは,いまも当時のままだ.

ヨーロッパのスーパーで目立つのは,「UMAMI」コーナーの表示である.
「うまみ」という味覚に,さいきん気がついたのだという.
「味の素」の国の国民からしたら,いまさら感が強いが,事実は事実である.
もちろん,うまみ成分はグルタミン酸とイノシン酸で,それぞれが昆布と鰹節に代表されるから,日本人にとっては言わずもがなの「伝統食」である.

それで,日本食が世界遺産になった時期ともかさなって,「UMAMI」コーナーがいつの間にか「日本食」コーナーになっている店もある.
もっとも本物の「鰹節」,いわゆる「本枯節」は,製造時の「燻し」によるタール付着とカビづけが原因で,EUは輸入禁止だから,「かつおだし風調味料」がヨーロッパでも主流である.

親日国ポーランドの首都ワルシャワ中央駅の地下街には,日本食専門コーナーがある.
海苔巻きをつくるための「巻き簀」は,たいていのスーパーに海苔とともにある.
ここには,甘味,のための寒天まであるから,店内の品揃えはお値段以外,日本国内とあまりかわらない.
そこで気がついたのが「餡」だった.

一般に欧米人は,豆類は塩で味付けする.
だから,「甘い豆」という発想がないから「想像」できない.
「餡こ」は,かれらの食文化と次元のちがう食品なのだ.
ところが,おそろしいのは「文化の力」である.

マンガやアニメで頻出する,ドラえもんの「どら焼き」,Kanonの「たい焼き」.おそ松くんの「今川焼き」.これに,茶道からはじまる日本茶ブームで,和菓子がつづく.和菓子といえば,餡こは切り離せない.
こうして,「餡こ」の需要がうまれた.

ところが,ついて行けてないのが和菓子・製餡業界である.
ヨーロッパで,日本製の餡こを見かけない.
あるのは「中国製」ばかりの「漉し餡」だ.

中国人を褒めるべきか.
日本人は,これは「本物じゃない」というかもしれない.
しかし,そこには中国製「しか」ないのだ.

政府が「クールジャパン」で失敗しているばかりではない.
ヨーロッパ人に,日本製の「餡こ」すら提供できていないのだ.
人口が縮む国内だけを見ていたら,和菓子・製餡業界は苦しいに決まっている.
どこを見なければいけないかの,ひとつの典型なのである.

再発防止につとめる

アラブ世界で暮らすと,以下の「I」「B」「M」が日常になってしまう.もちろん,まじめな日本人には最初は馴染めないから,下手をすると不適応症を発症して,精神的に危険な状態になるひともいる.しかし,おおくは「郷に入れば郷にしたがえ」ですっかり適応してしまうから,似非アラブ人になってしまうものだ.

「I」:インシャラー,神の思し召し.「ドンマイ」のように軽く使われると,ムッとくるから,日本人はあんがいイスラム教に親和性があるかもしれない.
「B」:ボクラ,また明日.この一言で,これまで行列に並んだ時間がすべてムダになる破壊力がある.それで,翌日にまた並んでも同じことになりかねないから,けっして保証されないその場限りの言葉である.
「M」:マレーシュ,直訳は,そこに神がいなかった.まさに「ドンマイ」気にするな,である.

なにか自分によからぬことが,相手(アラブ人)が原因でおきると,上記のどれかが相手の口から発せられる.アラブ人同士だと,被害を被ったはずの側も,おなじように言って,気を静めるのがふつうだから,アラブの人はとくに好戦的な人たちではない.
しかし,この三つの言葉には,自分から謝罪する,という概念がないことに注意したい.

むしろ,これに慣れない日本人が,相手に殺意を抱くほど頭に来るのがふつうだから,いざとなると日本人のほうが好戦的かもしれない.
それでも,冒頭しめしたとおり,日本人でも適応すると,同様に言って気を静めることができるようになるし,さらに上級者ともなれば,アラブ人に向かって自分から言えるようになる.

「I」と「M」には,「アッラー」が短縮されて含まれている.「インシャラー」は「インシ『アッラー』」だし,「マレーシュ」は「マ『アッラー(フ)』シュ」である.
だから,かなりイスラム教の内部にふみこんだ言葉遣いなのだ.
これを,他宗教の人が口にしてもゆるすのだから,けっこう寛容なのだ.

ちなみに,アッラー(フ)の「フ」がカッコなのは,アッラーが男性名詞なので正規には「アッラーフ」というからである.

そういうわけだから,かれらには「反省」がない.
「アッラー」という「唯一絶対神」の存在を信じているのだから,自分のおこないも,アッラーによってコントロールされているし,被害を被ったはずの側も,被害を受けたこと自体がアッラーの御業として受け入れるからだ.

この発想法は,ユダヤ教も,キリスト教もおなじだ.
かれらの共通聖典,旧約聖書にハッキリ書いてあることだ.
その影響で,英語の感情をあらわす動詞のおおくが,「~させる」という他動詞で,「~させる」主体は「God」になって隠れている.

ヨーロッパ近代の発展は,そのキリスト教への疑問と否定が根底にある.それを明言したのがニーチェ「アンチクリスト」だ.
近代合理主義の追求とは,まさに「アンチクリスト」のことである.

ところで,世界でもっともキリスト教が普及されていない国は日本といわれている.
しかし,日本には法然と親鸞が発明したキリスト教である浄土宗と浄土真宗がある.
「他力本願」とは,じつは「旧約聖書」的発想だからだ.しかも,救世主「阿弥陀如来」までいらっしゃる.

徳川家康が本願寺を東西に分裂させて,いまだにそのままなのが不思議だが,「浄土真宗」とは幕府がつけたヨイショのネーミングで,それまでは「一向宗」だった.
あの,「一向一揆」の「一向宗」である.
つまり,ヨーロッパの本場からキリスト教が伝来する以前に,日本にはすでにキリスト教があって,その勢力は強大だった事実がある.

日本人は「無宗教」だという大嘘がはびこっているが,日本人は世界でもっとも宗教的な国民である.神道をベースに,あらゆる宗教を都合よく加工する.
世界三大宗教と真っ向からちがうのは,かれらは「絶対神ありき」なのに対して,われわれ日本人は,「神が人間のためにいる」ということなのだ.

キリスト教が「抜けた」近代合理主義を追求すると,「因果関係」つまり,「原因と結果の関係」を「科学する」ことになって,そこに妥協はない.
だから,スリーマイル島の事故も,妥協なく調査され,妥協なく今後のありかたを「マニュアル化」した.

わが国は,役所を中心に,いまでも「まつりごと」がおこなわれている.
「まつりごと」とは,宗教行事であるから,「因果関係」には人間のためにはたらく神がいる.
その「神」自体の存在は,信じるしかないが,そこに「役人の無謬性(けっして間違えない)」という宗教感覚がはたらく.

それで,福島でとんでもないヘマをしでかしたが,妥協なく因果関係を調べる「素振り」をすればよく,「原発の安全は確認された」ということが言えるようになる.

アラブがアラブなのは,イスラム教が「抜けない」からである.
アラブとおなじように「反省」ができない日本は,アラブとは真逆の人間に従属する神を信じるからである.
日本が日本なのは,アラブとおなじく「宗教」が抜けないからという共通点があった.
なるほど,アラブと親和性があるはずである.

妥協なく合理的に「反省」できないから,もちろん「再発防止」は「つとめる」もので,確実に二度と起こさない,という意思もなければ気概もない.

「再発防止」とは「科学」である.