リニアな人生の強制

左派系の比較的高齢なひとたちが,「アベ政治を許さない」とかいたステッカーをリュックにつけたりして歩いている姿を目にする.
どうして,左派のひとたちが目くじら立てるのか不思議なのだが,おそらく「防衛政策」という一点で気に入らないのだろう.

外国で「防衛政策」は,あまり争点にならないばかりか,「政争」になること自体を嫌うから,わが国の特殊性のひとつの事例である.
なぜ「政争」を嫌うのか?それは,「国防」は「国家として当然必要」という共通認識があるからである.

国際法に「国家の三要素」というかんがえかたがある.
この三要素を,「外国が認定」しないと,その地域は国家として成り立たない.
つまり,国際社会から,おたくは国家ですね,と認定されてはじめてその地域は「国家」になる.
それは,「領土」「国民」「主権」の三つであるが,これに上記の「外国からの認定」をくわえたくなる.

だから,領土を守るための国防,国民を守るための国防,主権を守るための国防,といえばわかるとおり,国家の三要素を守るためには「国防」は必須になる.
安倍政権は,というより,この国の周囲の現状からすれば,どの政党のだれの政権であろうが「国防」は当然になろうが,どうやらステッカーのこのひとたちは,それがいたく嫌らしい.
これはたいへん不思議なことだ.

もっと不思議なのは,このステッカーのひとたちは,左派だとおもうのだが,経済政策で自民党歴代もっとも左派なのが安倍政権であるのに,なにを問題視しているのか?
簡単にいえば,「アベノミクス」とは,「社会主義経済政策」そのものである,のにである.

私立の小学校のはなしや獣医学部新設のはなしばかりが議論されている国会で,なぜ野党は正面から「経済政策」を議論しないのか?
それは,おそらく,安倍政権がじつは左派政権であることを国民におしえてしまうからではないのか?だから,別の話題にするしかない.

さいきん,女性の管理職登用を義務づける法案が記事になった.
「女性活躍推進法」の改正で,中小企業にも女性管理職を義務づけるという.
これは,禁煙ファシズムにつづく政府の暴挙ではないか?
どうして,こうしたことまで政府から命令されなければならないのか?まったくわからないを通り越して,恐怖すらかんじる.

男女差別の逆差別だという指摘もあるらしいが,そんな問題ではない.
このブログでは,「賢母」について書いたが,まさに「賢母」絶滅政策であり,ひとの人生について価値観を押しつける,とんでもない発想である.

会社にはいったら,万年平社員ではいけない.
出世して,せめて管理職にならなくては,なんのための職業人生だ!
「おんな」だからといってバカにして,管理職にさせなかったのだから,強制的に管理職にさせないと,民間のバカ経営者にはわからないのだろう.

これは,上級職官僚の発想である.
「ちいさいときから勉強して,難関中の難関大学の法学部をでて,上級職の官僚になったら,管理職にはなれるけど,もっと花形の役職に就きたい.
民間だっておなじだろう.」

おそるべき多様性のなさ.おそるべき世間知らず.
ひとを管理職にするかしないかは,「資格」だけで決まるものではないと民間はしっている.
人柄もあれば,なによりも本人の希望もある.
そこには,さまざまな人生観がある.

たとえば,なんのための「派遣」だったのか?
「多様な働きかた」ではなかったか?
それを,働くひと主体でなく,いつもの通り,「産業優先=雇用主優先」で「法改正」をくり返したら,なんのことだかわからなくなって,しまいには「格差の元凶」になってしまった.

出世こそ人生の目標,というリニアな人生もありだが,それ以外の人生だってさまざまなのだ.
それを,あろうことか「強制」するということの凶暴さは,野蛮でもある.

日本国政府のこの野蛮さは,新しい産業革命を目指すといいながら,じつは「名誉革命」のタネになるかもしれない.
落ち目の国の騒乱はよくあることだが,なんという政府の傲慢さだろうか.

ステッカーをぶら下げている皆さんには,この点での活動を期待したい.

学校の民営化

「憲法」をちゃんと教えないから,「憲法」がなぜ「最高法規」なのかをしる国民が極端にすくない.せいぜい,最上位の法律だから,程度だろうが,それではたんなる言い換えにすぎない.
これは,「民主主義をしらない」とイコールであるほどに深刻なことだ.

国会での議論も,「最高法規」ということだけが前提の,まことに薄ら寒い状況なのに,国民が絶望感を持たないのは,自分たちもしらないからである.
「憲法学者」はいったいなにをしてきたのか?犯罪的な説明不足である.
さいきんでは,政府にかみついた小林節慶大名誉教授が,さらりと発言していたから,これも注意していないと気がつかなかったろう.

民主主義国家における「憲法」とは,「国民から国家・政府への命令書」である.

民主主義だから,国民主権だから,ということの証拠が,「国家・政府への命令書」としての「憲法」だ.
だから,「憲法は最高法規」なのだ.
国会の議論が薄ら寒いのは,最高法規の憲法で,国民に命令しようという「倒錯」が議論されていて,野党の反論すらなっちゃいないからである.

日本人の不幸は,「憲法」を「国民が書いた」という認識が歴史的にもないことにある.
明治憲法もしかり.
これで「法治国家」だという「奇跡」がおきている.
「倫理観の高い」役人たちが仕切ってきてくれたお陰,ということになる.

おわかりだろうか?
「国民からの命令書」ということは,憲法を守らなければならない対象はだれか?「国家」や「政府」が対象だから,すべての公務員が憲法を守る必要がある.
すべての公務員には,当然,地方公務員もふくまれる.
ただし,業務をおえると,公務員も私人の生活にもどるから,業務中の公務員,が対象だ.

つまり,業務中の公務員以外のすべての国民は,命令した側になるから,憲法を守る必要はない.
だから,一般国民にたいして「あなたは憲法違反をしている」という指摘は,ナンセンスなのだ.
憲法違反の対象になるのは,国家・政府だから,それをうごかす公務員だけである.
公務員は,出勤したら「今日も憲法を守ります」と毎日朝礼で誓うべきである.

民間で,我が社には言論の自由がないから問題だ,というのはどうなのか?
これは,憲法違反ではなく,経営上の問題である.

それで,出てくるのは国民の三大義務(教育,勤労,納税)である.
本稿では,教育について書く.

「義務教育」の「義務」は,親やおとなたちに課している.
子どもには,教育をうける権利がある.
だから,子どもにむかって「学校へ行く『義務』がある」ということではない.
不登校の子どもは,ある意味「権利放棄」をしている.

公立の小中学校の校長たちは,「学校運営」のことをなぜか「学校経営」という.
民間企業の経営問題のひとつに,「プロ」経営者の不足がある.
社内昇格だけが原因ではなく,入社後から経営陣にくわわる前までに,「経営」をまなぶことがほとんどなく,「運営」ばかりしていることを指摘したい.

だから,組織の「運営」が,いつのまにか「経営」に転換されてしまい,経営者が経営できない,という深刻な事態を生んでいる.
かれらは「運営」しかしていないけれども,「運営」しかしらないから,「経営」ができない.
ところが,不祥事は「運営」のなかで生まれるから,じつは「運営」もできていない.これは,「現場との乖離」が原因で,社内でえらくなって貴族化した結果である.

公立学校の最大の問題点は,競争がない,ことに尽きる.
簡単にいえば,義務を背負った親に「選択の自由」がないことである.
アメリカでは80年代の教育改革で,教育クーポンが活用されたという.
中曽根康弘総理が,アメリカの教育をバカにして日本の教育を自慢した時代のことだ.

アルマーニの制服が話題になった東京の公立小学校は中央区にあって,本来の学区は,ほぼ「銀座」である.
この「区」は,「特認校制度」という学校選択制がある.
都心部で,住民が減って生徒数を埋めるための策だったようにおもう.しかし,この制度ができる前は,親が銀座に勤務していれば入れたというから,他地域からの入学はかつてより減ったという.

この事例は,やはり「立地」が先にたつが,「伝統」も重要な要素だ.
卒業生の名前がすごい.北村透谷や島崎藤村,近衛文麿などなど.
どうやったら「ブランド」ができるか?の教科書のようである.

「公立」なのに「アルマーニ」と騒がれた.
だったら,私立の学校法人に売却すれば,さらなる「ブランド」事例になるだろう.
地域の子どもには,教育クーポンの発行をして引き続き入学可能にすれば不利益はなくせる.

「あの学校に行きたい.」
選ばれる学校にどうやったらなれるか?
これが「経営課題」である.
公立学校制度でできないなら,民営化するとよい.

そもそも,全国一律なのは「富国強兵」のための「文部行政」だった.
つまり,兵隊にするための教育なのだ.
いまは,「文部行政」のための「学校運営」になっている.
そこには,顧客である「生徒のため」という視点がまったくもって欠如している.

「成績がわるいのは生徒自身がわるいのだ」という価値観が常識である.
「顧客重視」ならそうではなく,「わるいのは教え方ではないか?」とまずは疑うことが重要だ.
教え方がうまい塾講師に人気があるのは耳にするが,教え方がうまい公立学校の教師のはなしは寡聞にして聞いたことがない.

公立学校の教師は,クラブ活動で疲弊しているから,教え方の研究ができないという.
それでクラス運営もできないから,イジメを見抜けなかったり一緒にイジメる.
校長や教育委員会に相談しても,なかったことにされるから,登校拒否という選択に追い込められる.
つまり,公立学校は「クラブ活動」が中心なのだ.

兵隊にするための教育に,教師たちの労働組合は反対するだろう.
しかし,「顧客重視」の教育は,教師たちの実力が問われるから,これにも教師たちの労働組合は反対するだろう.

だったら,なにに賛成するのか?
おそらく,もっとも居心地のよい「現状維持」なのだろう.これは,大企業もおなじである.
それでは,生徒はたまらない.一方は塾に行き,一方は引きこもることになった.
生徒の「権利」を踏みにじっているのは,「義務」があるおとなたちだという構図になった.

学校を民営化したら,地方だから不利だということもない.
他地域からの「留学」を受け入れたっていい.
寮をつくらずも「ホームステイ」したっていい.
外国人の生徒を受け入れていて,なぜ日本人の生徒を受け入れないのか?

そもそも,全国一律のカリキュラムの強制がなくていい.
選択の自由をいかに確保するのか?
これは,わが国には重いテーマなのである.

鹿せんべいでおなかいっぱい

奈良といえば鹿.
1965年,吉永小百合がうたう「奈良の春日野」は,その後80年代にフジテレビのバラエティー番組で再度注目をあつめたから,記憶にあるかたもおおいだろう.
野生の天然記念物である.

春日大社の神様は,関東の鹿島神宮と香取神宮からも勧進されていて,鹿島神宮の「鹿」が,天然記念物になって生きているといえる.
わたしが住む横浜には,二箇所の春日神社がある.

ひとつは横浜横須賀道路の日野インター入口付近の山上にある「春日神社」である.
こちらは,創建が1099年とふるく,いまでも付近の旧村々の総鎮守である.
もうひとつは,かつての遊園地「横浜ドリームランド」にある,「相州春日神社」だ.
こちらは,ドリームランド開園時の創建というから,あたらしいのだが,「奈良ドリームランド」が先に開業しているから,奈良とは縁がある.
じっさい,境内には春日大社からおくられた鹿がいて,「鹿せんべい」も用意されている.

鹿せんべいは米ぬかと小麦が原料とある.
10枚がひとまとまりで販売されているが,じつは,この「せんべい」のポイントは,十字にまとめている紙テープなのである.
これには「証紙」と印刷してある.

「証紙」だから,なんらかの公の団体が関係している.
それは,「一般財団法人 奈良の鹿愛護会」という.
つまり,この愛護会の証紙のない鹿せんべいは,にせ物,ということになっている.
愛護会の収入は,この証紙からになるから,せんべい自体は愛護会指定の製造元がつくっている.

あやまって鹿が証紙を食べてしまってもだいじょうぶなように,紙の品質とインクは用心されていて,紙はパルプ100%,インクは大豆由来という.
この収入は,鹿たちの健康管理につかわれているから,安心してドンドン与えたい.
鹿は草食で,一頭あたり一日5キロほどの量の草を食べるから,鹿せんべいごときものでは,食欲に影響がないという.

ところで,このブログでも何回か触れたが,日本のおおくの観光地は外国人にとって決定的に「説明不足」という共通点がある.
これは,日本語が「空気を読む」ことを前提としていることの延長で,とくに「説明」がなくても,なんとなくやり過ごすのが日本人の特性だから,これまで問題にならなかった.

しかし,欧米の言語をはじめおおくの外国語には,「空気を読む」という態度がない.だから,ことばの構造自体が,はっきり説明することになっているから,「論理的」である.それで,こうした国の観光地では,「ちゃんと説明する」ことが常識になっている.

日本では,「通訳案内士」も国家資格であるが,これで生活できるような状態ではない.外国語を話せる人がある意味「勝手に」通訳をして料金を得ても,めったに取り締まられることはない.しかし,外国では確実にトラブルになるだろう.有名な観光地や美術館・博物館には,専門のガイドがいて,かれらに依頼しないと,依頼した側も罰則の対象になる.

日本では,「ボランティア・ガイド」が存在して,これを行政も支援することがある.外国なら,「プロ・ガイド」たちから抗議の声が役所にいくだろう.
「業務妨害」だと.
つまり,せっかくの「通訳案内士」を行政も無視している.

そこで,奈良の鹿をみてみると,鹿せんべいの証紙が「日本語表記」だけである.
この「証紙」の意味についての説明がない.
さいきんは,鹿に芸をやらせようというのか,なかなかせんべいを与えず,それで鹿から攻撃されてケガをする外国人観光客がふえたという.それで,注意書きを看板にしたというが,この看板が「読める大きさ」か?

課題はいくらでもありそうだ.
最新のニュースでは,鹿が鹿せんべいを食べなくなった,というものだ.
日本の修学旅行が,奈良・京都からはなれて久しく,閑散とした奈良公園が,外国人観光客という救世主によってあふれている.
それで,想定外の鹿せんべいが与えられて,とうとう鹿が飽きたようだ.

すると,もう一つの懸念は,観光関連業がむかしからの「掠奪産業」にならないか?というものだ.
外国人観光客という「鹿」が,それそれとばかりにつまらないものを掴まされると,いまは一気にSNSで拡散する.
それで,外国人観光客の「忌避地」になると,目も当てられない衰退がやってくる.

どうぞ,正直な商売を.

「第三者委員会」をゆるす株主

これだけ世の中に「不正」がはびこると,「不正」の重みも軽くかんじてしまう.
役所も民間も不正がばれると,「第三者委員会」なるものがたちあがる.
あたかも「中立の他人」です,という風情だが,このひとたちを臨時雇用したのは役所や会社だから,費用は税金だったり会社の経費になる.

「組織統治ができなかった」ことで発生するのが「不正」だから,民間なら経営者がその責任を負うのが当然であるが,またぞろ自分たち経営者が招集した「第三者委員会の結論を待つ」などと平気の平左で発言して,だれも変だとはいわないおかしさができた.

国家公務員や地方公務員の不正は,それがあきらかになれば即「事件」であるが,こちらもだいぶ緩やかで,首相や首長の責任論でごまかせる様相がパターン化されつつある.
教育委員会という行政組織での「不正」は,役人が役人の不正に頭をさげていて,首長が他人を演じられる便利さまで明らかになった.

国のばあいは,もう政権を二度ととるつもりがなくなった「野党」のおかげである.もし,政権交代を真剣にかんがえる政党ならば,こんなインチキ公務員たちが跋扈していたら,自分たちの政権でも不正をするだろうから,首相の責任論で押し通す愚はできない.

「第三者委員会」の「委員」には,弁護士が選ばれることがおおい.一般に「有識者」といっていたが,「有識者」の「識」に国民が敬意をはらわなくなったから,国家資格でいちばん難しい「弁護士」をあてれば,なんとなく説得力があるはずだ,ということだろう.
それで,どんな人物なのか?よりも「弁護士」という資格が前面にでたのはいいが,いかんせん肝心の「委員会報告」の内容がショボいものばかりとなった.

これは「弁護士」という看板を守る側の沽券にかかわるから,あの日弁連をして「第三者委員会のガイドライン」をつくるはめになった.
それで,この「ガイドライン」に沿ってやればよかろう,というのだが,「沿ってやってます風」ばかりで内容がやっぱりショボい.

それはそうで,「第三者委員会」の雇い主は会社の経営者だから,弁護士としてはクライアント先を守るのが本業という,ごく当たり前の態度になった結果だろう.
それではやっぱり沽券にかかわるから,「第三者委員会の評価委員会」というのができた.こちらは,なんと「無報酬」である.

A~Fまでの6段階で評価する.
これまでに主だった事案を評価したが,A評価はゼロ,Bすらみあたらない.
そして,評価者の名前と評価点も公表している.
つまり,「無報酬」のこの「評価委員会」がもっとも信用できるというさまになっている.

そこで,思うのだが,経営ができなかった経営者が会社のお金で雇うのではなくて,株主が「第三者委員会」を立ち上げなければいけないのではないか?
すると,委員会立ち上げのための事務局は,監査役になるのではないか?
こうしてみると,日本企業における監査役が,あまりにも無役・無力なのがわかる.

その意味で「不正」した企業の監査役が,本来はもっと糾弾されてしかるべきで,そうやってものを言える監査体制がつくられることになるのではないかとおもう.
でなければ,株主から監査役廃止論がでてもよさそうだ.
このように,株主が「第三者委員会」を立ち上げれば,その結果,経営者の無能が明らかになったところで,きちんと解任も,提訴や告訴もできるだろう.

さて,以上のはなしのなかに,ルールをつくってもうまくいかないことが組みこまれていた.
「ガイドライン」があっても,なかなかその通りにはいかない.
これは,そのまま公務員にあてはまる.

とくに,「キャリア職」で採用された一般に「官僚」と呼ばれる上級職公務員には,ほとんどリスクがないし,組織内で「ガイドライン」を策定する側になる.
だからよほどの「倫理観や使命感」がないといけないようになっている.
ここに問題の本質がある.

個人の「倫理観や使命感」に依存した組織は,組織ごと腐る可能性が高くなるからだ.
下級武士がつくった明治政府は「幕府」の復活をなによりもおそれた.
それで,上士(位の高い武士)に後ろ指を指されることがないように,高い倫理観と使命感で新政府をつくった.そして,これがいつしか「建前」になった.

本質的に,わが国の官僚制は,明治政府を継承している.その証拠に,敗戦で責任をとった軍人や政治家はいたが,官僚はひとりもいない.
つまり,この「建前」があるかぎり,高級官僚はどんなに傍若無人なふるまいをしてもゆるされる,と勘違いするのである.

法治国家の官僚には,この「建前」は必要ない.
だから特権もない.
だったら,だれも官僚になんかなりたがらなくなる.
それでいいのである.
優秀な人材は,官ではなく民にこそ輩出しなければならない.

そのためにも,まず「第三者委員会」は,株主が立ち上げなければならない.

ぬるい温泉が人気

銭湯で熱い湯に水をいれると怒るひとがいたりするから厄介だ.
水温計が50度を示していることもある.
源泉の熱さで有名な,群馬県草津温泉でも,湯もみで48度にして,それでも湯長の号令で入浴する時間湯があるくらいだから,監視人がいない50度の湯への入浴は危険ではないかとおもう.

熱い湯に浸かるのは,ある意味精神統一がひつようだ.
「心頭滅却すれば」の心境になれる,というメリットはあるだろう.
緊張で頭がスッキリすることは,あるかもしれない.
しかし,「過ぎたるは及ばざるがごとし」であって,けっしてくつろげないのは確かである.

数年前から「人工高濃度炭酸泉」が人気になった.
炭酸ガス,硫化水素の二種類が,人体に皮膚から影響をあたえる気体で,どちらも「毒」だから,皮膚呼吸がとまる.人体はこれではいけないと,全身の血管が毛細血管まで開いて肺からの酸素を届けようとするメカニズムがはたらくという.
これが,血管の運動になるから,高血圧などによいという.

それで炭酸ガスボンベから,こまかくしたガスを湯に溶かす方法がかんがえられた.
病院でも,高濃度炭酸泉が治療につかわれている(医療点数がつく)から,スーパー銭湯から採用され,いまでは街の銭湯でも珍しくなくなった.
炭酸ガスが皮膚に無数の気泡をつける.これが,皮膚の感覚器を刺戟するから,2度ほど高く感じるという.だから,40度を適温とすれば,高濃度炭酸泉は38度でよい.

おそらく,温浴施設のなやみは,人気の高濃度炭酸泉の提供者からみたコスト・パフォーマンスだろう.
炭酸ガスは高価である.だから,おおきな浴槽を用意すると,コストがかかる.
一方で,加温するのに2度低く済むというのは,光熱費では助かる.
利用人数と,浴槽の大きさ,温度,という連立方程式を解かなければならない.

温度を上げれば,利用者が多くても熱くなって回転がいいが,長時間はいっていたい利用者は不満を感じてしまう.
温度を適温にすれば,利用者の回転が悪くなるから,浴槽を大きくするひつようがある.
水光熱費は温度を下げた分たすかるが,浴槽が大きくなった分での比較と,炭酸ガスの使用量を比較して,それと利用者の満足度の関係はどうか,をかんがえることになる難しい問題だろう.
しかし,数ある温浴施設からリピートされて選ばれつづけるようにしたいのだから,この関係式にはさらなる検討項目がふえることになる.

この,温度を下げて長時間はいる,ということに注目したのが「無感風呂」だろう.
体温とかわらない温度の浴槽だ.
これは,はじめ冷たく感じるが,そのうち「無感」になって,いくらでもいられる.
長時間であるから,湯上がり後のポカポカ感は,これも長時間続く.

それで,むかしからあったのだろうが,このところ「ぬるい温泉」が人気になっているようだ.
ぬるいから,長時間はいっていられる.
時間があるひとにはちょうどいいだろうし,からだにもムリがかからない.
ところが,「ぬるい温泉」は,入浴専用施設であることがおおい.つまり,「宿泊できない」のだ.

仕方がないから,ビジネスホテルに宿泊して,また「ぬるい温泉」にいく.
こうして,ビジネスとは関係ないひとたちが,「温泉」を楽しむために別の場所に宿泊するようになっている.
移動は,自動車だから,離れていてもそんなに気にならないのも加わる.

温泉宿に,あらたなライバルが現れている.

科学実験番組の過小演出

放送法改正の議論があったりなかったり,「地上波」という国民の財産を例によってもてあそぶ議論がかまびすしい.
「ラジオ」ができたときは,ラジオ受信機を持つことがステータスであったろうが,物理原理の「エントロピー」のように,かならず広がって「コモディティ化」するから,いまどきラジオが買えないひとはいない.

しかし,ラジオをいつでも買えるからといって,持っているかといえば,あんがいラジオを持っていないひともいるだろう.
あたりまえすぎると,とくに欲しくないし,そこから鳴ってくる音(これが欲しくてふつうはラジオを買う)に価値をみいださなければ,「不要」という結論になる.

まったくおなじことがテレビ受像機(NHK的には「テレビジョン」といったが,さいきんの劣化したNHKは「テレビ」という)にもおきた.
日本経済の不況を救おうと,かならず姑息なことをかんがえる政府は,家電の「リサイクル」を公式に「有料化」したうえ,買い換える理由をデジタル化でむりやり作り,さらに「エコポイント」で補助金をばらまいて,麻生政権から民主党政権も引き継いだ.

それで,なかば強制的な買い換えが一巡すると,おそるべきテレビ不況がやってきた.
こうして,政府の介入が経済に不都合をもたらすのだが,強欲な国民はもっとよこせと要求する.
ところが,財源がないから無い袖は振れないということで,メーカーは自主的にテレビを4Kから8Kへと「技術的進化」はさせたものの,番組(コンテンツ)の劣化がはげしいから,だれも観ないということになった.

「東芝劇場」や「ナショナル劇場」のように,メーカーが人気番組をつくってそれを観たいひとたちがテレビを買う,ということをしなくなったのは,つまらない番組ばかりをつくるNHKのせいだ,とはいえなくなったから困りものだ.

高額所得者がとくにテレビを観なくなったので,テレビの作り手がさぐったマーケット(視聴者)調査の結果から,かつて「ゴールデン」と呼ばれた時間帯にも,パチンコなどのギャンブルと消費者金融のCMが進出した.
これらの業界のCMは,かつては深夜帯だけにかぎられていたが,背に腹はかえられぬ.

それで,高額所得者がさらにテレビに嫌気をさすという負のスパイラルがうまれた.
地上波がアナログだろうがデジタルだろうがそんなていたらくだから,高額所得者はどうしているのかといえば,ネットの動画を好きなように検索して観ているか,定額払いを自ら申し込んでいるのだが,プライム会員なら無料という本当は有料のアマゾンTVが人気なようだ.これは,年会費を支払うと書籍の送料が無料になる,というサービスからスタートしたから,元々の会員からすれば,事実上無料にみえる.

つまり,視聴者は価値をみとめれば,「有料」でもいいとおもっているから,強制的に徴収されるNHK受信料の問題とは,「価値がない」とおもっているひとが払わない・払いたくない,という原点にいきつくのである.だから,NHKは,価値がある番組をつくって放送すれば,受信料の問題で悩むことはない.

そのむかしは,リーダーズダイジェストがアメリカ文化を紹介するメディアとして有力だった.
いまは,地上波ではやらない,アマゾンTVでアメリカの人気番組が事実上無料で視聴できるから,価値がある.
たとえば,リアルな社会派ドラマで人気をはくした「ホームランド」は,絶体に日本人の発想ではつくれないだろう.

そんななかで,地味だが興味深いのは科学実験番組「雑学サイエンス」である.
材料の意外性と科学という組合せで,一般人が素直に驚き感心する姿は,なかなか日本的でない.むしろ,日本の番組なら一本の実験だけで特番枠ぜんぶをつかいそうな大規模な実験を,ものの数分で終わらせ,つぎのテーマに移行することに驚く.
なんと贅沢な.

それにしても,この番組の進行役は英国人である.
アメリカで英国人が,ちょっと上から目線の言い回しで,「ほらね」とやる.
それで,ちょっと田舎くさいアメリカ人が感心するのだから,大英帝国も健在である.
実験前の予想選択肢に,「該当なし」があるのもよい.

英米人の発想が,大胆さと,日本なら過小演出になる淡泊さで表現されている.
そして、なにより,人間らしい人間が観客である.
こうしたひとたちが,日本を観光している,とおもうと,なるほどとおもうことがある.

「護衛艦いずも」をみにいってきた

6月1日は,横浜開港記念日だ.
むかしは仮装行列やバザーが同時におこなわれたが,いま仮装行列は5月のGW実施になったから,開港記念日にちなんでいるのかどうかわからなくなった.

この日,横浜市立の学校はぜんぶ休校になる.
それで,小学校の鼓笛隊で二回,仮装行列の中のひとになったことがある.
「スニーカー」がまだない時代,運動会では足袋を履くのがふつうで,ふだんは底のうすい運動靴しかなかった.

その靴で,4キロほどの行程を演奏しながら半日かけて歩くのは,けっこう難儀だった.
沿道は,運動会とおなじで,ゴザや新聞紙をひいて座ったひとたちが弁当をたべながら一杯やって見物していたから,目線と声援は下からやってきた.
貧しかったむかしは,沿道との一体感があった.

大桟橋にいくのは何年かぶりだが,あたらしく変なデザインになってからは一度もなじめない.
むかしは素っ気ないものだったが,土産物売店に往年の賑わいのなごりがあった.
小学校1年生の遠足が,大桟橋で,接岸していたキャンベラ号の船員さんに「ハロー!」と叫んだら,手を振ってくれた.客船の外国定期航路があった時代である.
明治のむかしのころの大桟橋を描いた絵が,桟橋の入口にある.
よくみると,いまと機能面での違いはないから,そんなものである.

わたしが通った小学校は高台にあった.
授業中だれかが「ビルが動いている!」と叫んで,先生をふくめ全員が窓に注目すると,横浜駅のデパートがほんとうに動いているようにみえて,教室は騒然となった.
それが,当時世界最大といわれた「クイーンエリザベスⅡ世号」の入港だった.
週末,大桟橋に行った.大きすぎてよくわからない.山下公園からみると,大桟橋がみえなかった.

わが国最大の「護衛艦いずも」は,設計時には将来も問題ないと専門家が太鼓判を押して,完成してすぐに世界最大級の客船がくぐれなくなくなったベイブリッジをくぐってきた.
そういえば,中学生のころ,遠足で横須賀の安針塚をハイキングしたら,高台の公園からちょうど入港中の米空母エンタープライズがよくみえた.

その大きさは,クイーンエリザベスⅡ世号の比ではなかった.
ひとはなぜか巨大なものに興奮する.
たまたま,入港に反対するひとたちが,おなじ公園からシュプレヒコールをあげていたが,われわれの歓声にいらだちを隠せなかったらしく,「君たち,ちがうだろう.かっこいいものではない!」と言ってきたのを思いだす.
興奮した子どもが集団で,「かっこいいものはかっこいい!」と言い返したのは言うまでもない.

すると,このおとなのなかの数人が,「たしかにこうしてみるとかっこいいなぁ」といったから,内輪もめがはじまった.
そのあと,どうなったかはしらない.
冷酷な子どもの集団は,注意してきたおとなに冷笑をあびせて立ち去ったからだ.

きっといるだろうと期待したら,JR関内駅で「空母入港反対!」というひとたちがいた.
「いずも」は,ヘリコプター空母だろうから,省略すれば「空母」になるが,表現としていかがなものか?
また,垂直離着戦闘機対応のための改造反対!とかも言っていた.

1時間待ちで,いずもに乗艦すると,その小ささに驚いた.
床は滑り止めのゴムのような特殊な塗料が塗られていたから,このままなら素人でも垂直離着戦闘機はムリだとおもう.ジェットエンジンの噴射で溶けてしまうだろう.
それなら,どんな改造で可能になるのか?
格納方法だけでなく,運用は?

海上自衛官候補募集のテントには,若者たちが座って説明をきいていた.
おそらく,少子化という問題は,すでに「定員」にたいしても深刻な影響をあたえているのだろう.
これは,「人口問題」だから,若年層の人手不足,として容赦なく,すべての職業にあてはまるから例外はない.

つまり,若者の争奪戦は,完全ゼロサム・ゲームである.
決められた数しかいないから,だれかが採用すれば,だれかが採用できない.
「官」だろうが「民」だろうが,総力をあげての争奪戦となる.
新人が入らない組織は,なくなるしかない.

自衛官とてその例外にないのだ.
だから,これまで以上に,市民に愛される自衛隊を強調した活動がさかんになるにちがいない.
今回の,横浜港入港も,その活動のひとつだろう.

出港は,本日6月3日午前10時である.
おそらく,行き先は横須賀だろうから,東京湾にいることに変わりはない.

こっくりさん

学校で「禁止」を命じられた遊びに「こっくりさん」があった.
必須の鳥居に,数字やひらがなの五十音表などを書いた紙の上に10円玉をおいて,三人以上の指を10円玉に置くと,勝手に10円玉がうごいて,さまざまな質問に回答するというものだ.
あんまり流行ったものだから,「経験者」はおおいだろう.

お狐様の「こっくりさん」が降霊するという触れこみだが,科学的に何故かというとさまざまな説があって,なかでも「潜在意識説」が有力なようである.
要は,参加者の「潜在意識」が,指に力を与えて10円玉を動かす,というものだが,本人たちは,力を入れるどころか,勝手に10円玉が動く,という感覚のほうが強いから,大流行した.

ふだん,力を入れるという感覚を意識しているとおもっているから,力を入れていないのにものが動く,ということにものすごく違和感がある.
しかし,逆に,力を入れようとしているのに,体がおもうように動かない,ということもある.
つまり,無意識のなかと意識のなかとでそれぞれに「動く・動かない」があって,ひとは自分の体をあんがいコントロールできないものだ.

お稽古事も,スポーツも,そのために練習・訓練するとかんがえれば,納得がいくものだ.
達人がさりげなくおこなう所作も,素人にはとてもではないが簡単にはできない.
狂言の「釣狐」は,その典型である.

さて,個人の世界から社会集団に転じると,社会にも「潜在意識」がある.
だから,個人と社会の中間にある,企業という集団にも潜在意識がある.
その潜在意識が,ある一点にあつまると,「こっくりさん」のように,勝手に動いてだれにもどうすることもできなくなることがあるし,ふだんではかんがえられない集中力を発揮することもある.

だから,有能な経営者は,従業員の潜在意識に対するすり込みを重視する.
それは,よいことをしている,社会に役立っている,ということだと,もっとも強いすり込みになる.
ここには,「金銭」である「損得」が入り込まない,という特徴がある.

日本人は,かつての「武士」の価値観が一般にまでひろがったため,むき出しの「金儲け」を嫌うどころか嫌悪する習性がある.
その最たるものが「役所」で,役所が有料でするサービスでは,「儲け」をいかに出さないか?に気をつかう.それで,赤字分は当然に税金で補填するから,結局は住人が負担している.このとき,そのサービスを享受しないひとも負担させられるから,「平等」とは難しいものだ.

ヤマト運輸をいまのヤマト運輸にした,故小倉昌男氏の「経営学」には,上述したすり込みの極意が記述されている.
「サービスが先,利益は後」というかんがえ方は,みごとに日本人の琴線に触れる.
これは,たいへん重要なことだ.

アフリカ諸国や,ラテン・アメリカ諸国では,なにを言っているのか理解されないかもしれない.
いわゆる「ぼったくり」というのは,その時々の価格交渉の結果,という理屈にたつと,あとで気づいた購入者がマヌケだったということになる.

なにかのTV番組で,わらしべ長者のごとく物々交換しながら旅をする,という企画ものがあった.
そこで,アフリカのとある国で,欧州で交換した高価な物品が,交渉の挙げ句,残念なものと交換した.それで,返してくれと再交渉したものの,応じてもらえないという場面があった.

あたかも,この強欲なアフリカ人が悪い,と感嘆役のタレントが言っていたが,そうではない.
世界はそんなものだし,いったん合意して契約したら,その取引は成立する.
だから,相手のアフリカ人からしたら,マヌケな日本人,という印象が深まるばかりだろう.
これを,日本人視聴者の潜在意識に訴求したから,いっきに下劣な企画に成り下がった.

「サービスが先,利益は後」の前に,だれもが納得する「適正価格で」をいえば,世界で通じる普遍的な価値観になるだろう.

英語力がないからリベラル

「リベラル」は,「Liberal」であって,「Liberty」に通じる.
いくつかの英和辞典で,「自由主義の」の後ろに「進歩的」という訳をつけているのは,戦後日本の事情を介したものか,それとも「第一次」(二次ではない)大戦後の英国の事情を介したものか?の説明はないから,あんがい不親切である.

ハイエクの名著「隷従への道」の新訳が日経BPクラシックスから出ているが,そのはじめにハイエク全集の編集者ゴールドウェル教授の序文がある。
「左派は第3章を、(中略)右派はアメリカペーパーバック版序文(本書に訳文掲載)を読むといい。そこではリベラルと保守のちがいが述べられていて興味深い。実際に読んでみたら、右も左も驚くことだろう。」

  

この序文には,出版当時(第二次世界大戦中)の英国で,著名な書評家が「読んでいない」(と告白している)のに,この本を酷評したエピソードも綴っているから,どちらさまも「そんなもの」なのかもしれない.
しかし,正反対の意味をもつ言葉をつかいわけるのは大変だ.
日本で「リベラル=進歩派」を自称するひとが,アメリカにいって自分は「Liberal」だと演説したら,けっこうブーイングの嵐に巻き込まれるだろう.

そういう意味で,日本語の「リベラル」は,「和製英語」になっている.
つまり,ネイティブに通じない「英語のようなもの」,なのであるが,通じないから「英語」ではない.
だから,「リベラル」というとちょっとかっこいい,気取った感じで言いきりながら,言葉の内容が「Liberal=自由主義」とは正反対の「進歩主義=社会主義」であっても,聴衆に英語力がないから,ぜんぜん問題にならない.

日本には,「和製英語」を研究している「英語圏」のひとがいる.


「バリバリウケる!ジャパングリッシュ」は,あたらしい「日本文化論」だろう.(残念ながら,本書は「Kindle版」だけの電子出版物である.)
ことばは文化そのもので,思考までも左右するからだ.
日本語しかできない日本人は,日本語でしかかんがえることができない.逆に,英語しかできない英米人は,英語でしかかんがえることができない.
ここに,決定的な文化の差がうまれる.

「ネイティブ」と呼ばれるひとたち,(日本人だって日本語ネイティブである)からすれば,和製英語はいけないもの,間違ったもの,と指摘するのは「親切心」からである.
むかし,わたしがエジプトにいたころ,日本人が大挙訪れていた時代で,観光客の外貨が欲しいエジプト政府から手始めにカイロ空港内での「日本語案内表記」についてアドバイスを求められたことがある.「手始め」というのは,街中でも「日本語案内」を計画していたからである.

当時,すでにいくつかの日本語案内表記があったが,だれが監修したのか不明の,どちらかというと「中国風」だった.郵便局には,「郵便」.トイレには,「便所」とおおきな案内看板があったが,文字が楷書でも行書でもなく,たいへん不思議なかたちをしていたのに,しっかり電飾看板だったから違和感もひとしおだった.

「表記内容」と「文字フォント」という問題よりも,きちんと届く郵便制度や,清潔なトイレが優先ではないか?というのが本音であった.
市内ですら郵便は届かないのが常識だったから,観光ガイドブックにも「注意書き」があったくらいで,だれも郵便物を利用しない.
国際空港としてあるまじき状態のトイレは,あしを踏み入れただけで我慢をしたくなったし,靴の裏さえ汚れた感じがしたものだ.だから,とにかく「清潔なトイレ」を主張した記憶がある.エジプト人の担当者は,それがいちばん難しいと言っていた.

さて,この「ジャパングリッシュ」で素晴らしいのが,和製英語のなかに英語として,「これはいけるかも」とおもえるものがある,という指摘である.
この発想はこれまでなかった.
「いけないもの」「恥ずかしいもの」としてしかの価値観だったのが,そうではないかも,というだけで変わる.

つまり,「日本の暮らし」のなかにあって,外国にないものが「輸出できる」ということだ.
これは,いままでもあったというが,あんがい「輸出」などしていない.
せいぜい,「お土産」の範囲をこえないものがおおい.
外国における,需要のリサーチというビジネスが,もっとあっていいだろう.

大企業向けでない,中小零細向けで,かつ,信用できるパートナーを探すことができれば,事業承継のおおきな助けになるはずだ.
縮む国内だけをみていたら,廃業したくなるだろうし,息子に強制もできない.
しかし,「売れる」となれば話は別である.

こうした点での,ネットワークづくりが,日本の弱みになっている.
個々の英語力よりも,ネットワークでなんとかする.
「リベラル」のひとたちに,がんばってもらいたい.

「机上の空論」のうそ

江戸末期,黒船以降のニッポンを観察した外国人が書き残したものは,いま読んでも価値があるものがたくさんある.
「日本文化」を売り物にしたい旅館や観光業のひとたちは,これらの本とともに,研究成果をよく識っておくと,売れる「商品開発」ができるはずである.

にもかかわらず,不思議と再生の現場では,先月や昨年の「損益計算書」の分析にいそがしく,過去からの延長線上の方策に磨きをかける,という絶望的な努力がまじめにおこなわれている.
それで,とうとう力尽きると,二束三文で売却されるか,地元民が眉をしかめる廃墟になる.
いまどきの買い手は,そういった施設の栄光の過去をあっさり否定して,少ない投資でかつ短期間で,ぜんぜんちがう施設へと変貌させてしまう.

どちらに知恵があるのかは,いまさらいうまでもないが,なにが過剰でなにが足らなかったのか?が,さいごまで理解できなかったひとたちが,経営権を失うのは,ある意味従業員にとっては幸いである.
しかし,だからといってあたらしい買い手のビジネスが,どれほど素晴らしいか?についてもたっぷり議論の余地はある.

こうした問題の本質に,金融があることがあまり議論されていない.
金融機関が決めることだから,「仕方がない」といってあきらめているのだろう.
ところが,いま,その金融機関が存続をかけた危機に直面している.
従来どおりのビジネス・モデルがほとんど通用しなくなってきているからだ.

借り手にとって重要なのは,自社のビジネス・モデルが世間に通じるか?であって,これが支持されるなら,商売でつまずくことはない.
つまり,商売でつまずいてしまっているなら,それは、自社のビジネス・モデルが世間に通じていない,というメッセージを世間からもらっていると理解すればよい.

残念なことに,金融機関は国からの監視がきびしいから,なかなか独自経営が難しい.それで,全国津々浦々の金融機関が困っている.
おなじ土俵で競争せよ,というのはいいが,おなじ土俵の意味がおなじサービスだから,本来の競争にならないことに,ビジネスで競争したことがない役人は気がつかない.

それにくらべて宿や観光事業は,よほど自由がきくから,かんがえるのに規制官庁からの難癖はあまりない.
だから,どうしたいかをジックリかんがえて,あたらしいビジネス・モデルを最低でも机上でつくることか大切だ.

よく,「机上の空論」といってバカにする人がいるが,自社のビジネス・モデルを机上で紙に描けないなら,じっさいにそれがうまく動くことはない.
正反対の軍事だとて,机上演習,が重要な訓練なのは,じっさいを想定してサイコロという偶然からの判断ができなければ,本番で部下を死なせてしまうからだ.

だから,「机上の空論」はたっぷりやったほうがいい.
そのとき,江戸時代の生活をどこまでも研究するのが望ましい.

たとえば,当時の日本人の生活には「食卓テーブル」はなく,「お膳」だった.このお膳が簡略化されて,「お盆」になって,食堂の「トレイ」に変化したのではないか?
西洋にはテーブルがあって給仕されたから,「トレイ」を自分でつかうのは,学生食堂のイメージだろう.

だから,それなりのグレードのホテルや日本旅館の朝食ブフェで,プラスチックの「トレイ」を最初に渡され,これを使うのをなかば強制されることに抵抗があるようにみえる.
たしかに,外国のちゃんとしたホテルの朝食ブフェで,トレイが用意されているところをみたことがない.みなさん,「皿」を複数手に持って,何回も取りにいくことに抵抗はなさそうだ.

さて,この「トレイ文化=略式お膳文化」について,高単価外国人客をターゲットにしたとき,サービス方式としてどうするか?あるいは,あなたの宿としてどうあるべきであろうか?
あくまで,日本方式を貫くのか?それとも?

わたしのイメージは,ブフェ式なら必要ない.
定食式なら,「お膳文化」がわかるような形状のトレイを選びたい,といったところだ.
なお,ブフェ式でトレイをやめて,皿にいくつかのくぼみがついている食器が用意されていることもある.これこそ,外国の学食のようだから,個人的には余計なお世話=過剰サービスだと感じる.

ほらほら,異論がありそうだ.
そのとおり,正解はないからかんがえ方次第でいくらでもバリエーションがあるのだ.
日本のお膳文化と,外国のテーブル給仕文化のちがいが発端だからだ.

さて,この議論,机上の空論なのだが,サービス・スタンダードとして現場要員数まで決まることになるから,どうでもよい話ではない.

「机上の空論」を従業員とたっぷりできる企業文化あってこそ,自社のビジネス・モデルを他人に説明できる素地ができるのである.
この,自社のビジネス・モデルに,本来は融資という信用がつくのだ.

バンカーは,顧客のビジネス・モデルを読み解きそれに価値を見いだせるかが問われるはずが,相変わらず不動産担保が融資根拠なのだから,AIに追い込まれるのは当然である.
しかし,「机上の空論」ができない企業は,実業として追い込まれてしまう.
ムダの代名詞としての「机上の空論」は,うそである.